「みる」行為と鑑賞教育の接点を求めて : 文化的実践としての「みる」行為の力学
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(2) 目次 1. はじめに. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 第1節鑑賞教育の現状と問題点 第2節子どもは何をどのようにみているのだろうか. 3. 13. 第2章 人文・社会諸科学の視点による「みる」行為の位相 第1節 認知心理学的な視点から. 29. 第2節 記号学的な視点から. 32. 第3節 芸術学的な視点から. 34. 第4節 社会学的な視点から. 41. 第5節. 48. 「みる」行為の地平と鑑賞教育. 第3章 「みる」行為と鑑賞教育の接点 第1節 「みる」行為の地平から見た鑑賞教育の可能性. 53. 第2節 実践としてのメディア・リテラシー. 56. 第3節 実践としてのメディア・リテラシー(芸術作品). 61. 第4節 「みる」行為に基づく鑑賞教育の意義と課題. 66. おわりに. 68. 資料. 70.
(3) はじめに. 「みる」ということばはすでに古事記や日本書紀でも使われており、口語としてはさらに. 古く遡って使われ、現在に至っている。それゆえわれわれの生活や思想と大きく関わったこ とばとみなすことができる。その証拠に「みる」を表わす漢字も数多く、それぞれの意味も 微妙に異なっている。 『日本国語大辞典』の「みる」の項目には、 「みる」の漢字(見・. 看・視・観・覧)や、その意味が十数種にわたってまとめられている。『日本国語大恥. (1) 典』はそれら十数種の意味を大きく三つにまとめ、その一番目の意味として「目によって物. の外見、内容などを知る。また、それをもとにして考えたり判断したりする」を挙げてい る。. つまり「みる」行為は視覚認知だけに留まらず、解読あるいは解釈、さらに評価という意 味を内包しているというのである。このことは日常において幼い子どもでも了解しているこ とである。例えば小学校低学年の子どもが母親に「ちょっとこの荷物をみててちょうだい」. と言われたとき、その子どもはどのように受け取るだろうか。荷物をただ見ているのではな く、荷物に関する状況判断を母親から任されたと了解している。 このように「みる」行為は視覚認知に伴って「判断する」 「予知する」 「悟り知る・分か る」 「調べる・観察する・診断したり鑑定したりする」 「読む」といった行為に置き換えら. れる。これこそが「みる」行為のもつ教育的要素といえるであろう。1984年に文部省から 出された『小学校図画工作指導資料 鑑賞の指導』は鑑賞指導の特色として「(3) 『み. る』教育としての鑑賞指導」という項目を挙げている。そこでは「みる」行為が鑑賞教育 (2). の主な活動であるということを前提に、「みる」行為の定義づけを行っているが、日本国語 大辞典の前述の説明をプレテクストにしていると思われる。. 学制以来図画工作科は写生や図案といった「つくる」行為が中心で、富国強兵政策の一環 として「手」の技術が最優先されてきた。一方「みる」行為を中心とした鑑賞教育がわが国 の近代学校において初めて登場するのは、さらに時代を経、大正期の芸術教育運動に端を発 すると一般的には認知されている。山本鼎の自由学園での実践にみられるように「リアリズ ムの追究」という大正デモクラシーの精神の影響を受けた芸術教育運動は、 「みる」行為に. 基づく鑑賞教育の重要性を認め、図画工作科のカリキュラムに位置づけていた。 (3) しかし学制以降自由画が認められるまで続けられてきた臨画という「つくる」行為にも、 手本を「みる」という行為を丸い出すことができるが、これをどのように位置づけていける ことができるのだろうか。ある意味では臨画は「みる」行為と「つくる」行為の循環を具現 化した活動であると言えよう。しかしこの判断は、前述のような「みる」行為のはらむ多義 性や積極性を見落としているとも言える。ただ機械的に模倣するために「みる」のであり、. そこには「解釈」や「評価」という要素は含まれていない。昭和初期に編纂された国定教科 書「小学図画」において、その指導領域として「鑑賞教材」が付け加えられた。しかし当時. はじめに 1.
(4) において「みる」図版は高価で入手しがたいものであったばかりでなく、その画質も劣悪な ものであった。また戦時体制が強まるにしたがいその「みる」教材も軍国主義の色彩を帯び てきておよそ芸術教育とはかけ離れたものとなっていったため十分な実践がなされなかった と推察される。. 「みる」行為に基づく鑑賞教育が学校教育において正当に位置づけられるのは戦後におい てである。しかし、現実の実践場面においては、 「みる」行為および鑑賞は、 「表現」と比. べると受動的なイメージでしか受け取られず、鑑賞教育の実践は依然として曖昧で混沌とし た状態にあると思われる。これは、一つには、すでに見てきたように、 「みる」行為は語源 学的にもきわめて積極的な含蓄・外延をもちながらも、 「みる」行為について、その社会 的・文化的位置づけが十分になされていないためと思われる。. そこで、本研究では、文化的実践としての「みる」行為に基づいた鑑賞教育が、学校教育 においてはたして可能なのだろうかということを主題として取り上げていくことにした。. したがって、第1章においては、現行の鑑賞教育の問題点を教師の語りの中から抽出し、 さらに子どもの「みる」行為に関する実態をカメラワークによって捉えることにする。第2 章においては、芸術作品を「みる」行為が人文・社会科学の学問領域でどのように捉えられ ているのかについて検討する。そして第3章においては、 「みる」行為の新しい地平に立脚 し、メディアを「みる」行為という視点から鑑賞教育への展望を探っていくことにする。. 注. (1)日本大辞典刊行会編 日本国語大辞典 小学館 1975 pp.1408∼1409 (2)文部省編 小学校図画工作科指導資料 鑑賞の指導 開隆堂出版 1982 pp.12∼13 (3)文部省編 同上書 pp.12∼13. はじめに 2.
(5) 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 第1節鑑賞教育の現状と問題点 本節では公立小学校教育における鑑賞教育の現状を探っていきたいと思う。現状を探る 方法として、鑑賞教育の年間に行った指導時間や指導内容、あるいは指導者が現在抱えて いる問題などをアンケートで調査するなどさまざまな方法が考えられる。さらにそれらを 統計処理し問題を探っていくことも可能と考えられるが、本研究では以下の理由でインタ ビューという形式を採ることにした。. インタビューを行うにあたって、インタビューイには美術教育に限らず教育に情熱的で あり、また子どもの主体的な学びを教育理念としていると判断される教師を選んでいる。. それは鑑賞教育についての理念や実践についての内省や自己分析ができることがこのイン タビューでは必要条件であるからである。それは鑑賞教育の必要性が叫ばれているものの 未だに実践を声高に発表している教師も少数派である。実際今回のインタビューイたちも インタビューを依頼した際「実はちゃんとした鑑賞教育はやってないんだけれど」という 反応が一様に返ってきた。しかし「自分なりのやり方でなら」ということで語り始めるの である。彼らのこういった反応の中にこそ鑑賞教育のある側面を窺い知ることができる。. それは鑑賞教育の曖昧さの裏側に、やり方によってはもうかなり行われているという側面 である。こういつた側面に切り込んでいくこと、つまり内省や自己分析が顕在化するよう な調査方法でなければ、真の意味での現場の教師からの問題化にはなりえないと判断した からである。. 教師Yの語りを通して ○教師はメディアである. 教師Yはインタビューの2週間前初めての海外旅行を経験し、イタリアでいくつかの美術 館を見学している。そこで「ルネサンスってこんなんか、と初めて分かった」と熱っぽく 語った。われわれは普段「ルネサンス」という言葉を「文芸復興」という四文宇に置き換え たり、レオナルド・ダ・ピンチやミケランジェロをはじめ多くの芸術家が活躍した時代と教 科書的に捉えたりしている。しかし実際にフィレンツェなどへ行くと、建築物のあらゆる所 に彫刻が施されていたり、絵が描かれていたりと、町全体が芸術作品で埋め尽くされている という印象をもつ。そのことを肌で感じ取ったことが、前出の「ルネサンスってこんなん か」という言葉となり、ルネサンスに対する教師Yなりのイメージができあがったのであろ う。. 教師Yの捉える芸術作品の鑑賞教育における教師とは、イメージを伝えるメディアである と考えている。まず教師がオリジナルの作品や建築物を「見て、自分が感動しないと伝わら. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 3.
(6) ない」という。さらにそのような感動を伝えるためには、いくつかの条件が必要だと言って いる。つまり(1)感動するための条件(2)感動を伝えるための条件をメディアである教師 は備えておくのが望ましいと言うのである。. メディアとしての教師として第一歩を踏み出すであろう教師Yの姿は頼もしく感じられ る。しかし一方ではこのような教師のメディアとしての機能は、一体いつまで続くのだろう かという不安がよぎる。如何なるメディアも単体では存在しない。例えば、この場合、教師 というメディアは、子どもという存在と作品という存在を前提にメディアとしての機能を発 揮するのである。つまり教師のメディアとしての機能とは、子どもという存在と作品という 存在を関係づける作業だとみなすことができる。ここで一旦メディアとしての機能を括弧つ きにして、 「みる」主体である子どもと「みる」対象である作品だけで考えてみよう。 「み. る」対象である作品にはその可視の部分だけでなく、背後にある作者や依頼者の考え、ある いはその時代的精神といった不可視の部分が存在すると考えられる。したがって「みる」行 為とは、作品の可視である部分とも不可視である部分とも、 「みる」主体が関係を取りつけ. ていく過程だといえるであろう。ここで先の不安ともいうべき問題の見通しがたってくるの ではないか。つまり作品の可視である部分とも不可視である部分とも関係を取りつけていけ る能力を子どもが身につけたとき、メディアとしての教師の機能は終わるのである。さら に、先に施した括弧を開いてみると次のようになる。つまりメディアとしての教師の機能と は、子どもに作品の可視である部分とも不可視である部分とも関係を取りつけていける能力 を体得させることである。ここにきて「みる」行為の教育的側面が浮かび上がってきたよう であるが、それが具体的にはどのような能力なのか新たなる問題である。. ○図画工作科の専科教師としての立場から 図画工作科の専科教師である教師Yは鑑賞教育には「まず材料集めが必要」であると感じ ており、実際に「バラバラで見せることができる」画集や「世界の子どもの絵を集めた本」. を購入している。そのことを「専科でないとあんな本も買わない」と専科教師の専門意識を 認めているにも関わらず、 「専科としては、あまり変な絵は学級にもって帰されない」と力 んだ表現が後に続く。さらに「、(担任の)わたしが教えた方がマシやって思われたくないか ら。プレッシャーはある」と専科教師としての本音が飛び出す。したがって、 「どんな作品. を作らせようかという動機づけの方に、指導者としては一生懸命になって、鑑賞は素通りし てしまうことが多い」と真実を語っている。教師Yも形あるものを担任教師に提示したいと いう意識から制作重視という傾向に進むのだろう。しかし、たとえ担任教師が図画工作科を 担当していたとしても、教師Tのようにやはり結果は同じなのではないだろうか。. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 4.
(7) 教師Tの語りを通して ○感性の教育と効率性重視の教育とによるジレンマ 教師Tは、指導時間のゆとりのなさを実感している状況下で鑑賞教育を取り上げることに 抵抗を感じつつ、自らの海外旅行などの経験から芸術鑑賞が全く不要であるとは言い切れな いというジレンマに苦悩しているようである。教師Tのジレンマとは、芸術に対する憧憬を. 起源とする感性の教育に対する思いと、4教科重視に見られる効率性重視の教育とのそれで あるように思われる。. 教師Tは自分の鑑賞教育の実践に関して「雑談として」あるいは「雑学の話」という言葉 を用い、 「指導」というイメージを払拭しようとしているように思われる。 「音楽鑑賞でも. 美術鑑賞でも、ちょっと行ったろうかなと思って、パッと入って、あ、きれいだなと思った らその子にとって、一番きれいということ」と語っているように、教師Tは能動的に「み る」行為を仕掛けたときにこそ、感性も働くのだと捉えている。そうであるからこそ教師T は「いろんなところに種を蒔いてやる必要はあると思う」、「大人になって咲く子もい りゃ、そのまま(学んだことが)忘れられていく子もいる」と淡々とした口調で語ってい る。しかし、われわれは、荒野に種を蒔くだけでは発芽しないことを知っている。発芽には 適当な温度と水分が必要であるからである。したがって、鑑賞教育において何が適当な温度 や水分なのかを見定めることができれば、教師たちは安心して種を蒔くことができるのでは ないだろうか。. 教師Tの語りに「名画」 (30分間の語りのうちに8回)、 「有名な絵」 (3回)、 「美し. い」(4回)という言葉が多く使われている。このことから芸術作品をテクストと客観視しつ. つ、無意識のうちに芸術を高尚であり、感動を保証するものとして捉えていることが窺え る。美術作家である森村泰昌は、芸術活動を始めた頃の心境を次のように回想している。 (1) 興味があって美術の門口まで来たものの、扉を開けるために勉強しなさいといわれ たら、そこで引き返してしまうのが普通である。世の中にはおもしろいことが、他に いくらでもあるのだから。. 彼のいうように、美術作品への関心はあるものの、その背景があまりにも広大で難解であ ると知ると、それに背を向けてしまう状態がまさに教師Tにも当てはまるのではないだろう か。. 一方、教師Tは、社会や国語のような、 「やらなあかん」教科と「息抜きの時間」である. 図画工作とを対立関係で捉えている。このような考えを一言で言うと、4教科重視である。 し、かし、重視されていない図画工作などの芸術科目あるいは体育を子どもたちは楽しみに していることも経験から知っている。「早く描きたいのにという」子どもたちの期待を裏切. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 5.
(8) らないためにも、 「国語みたいな」鑑賞教育をする余裕はないと言う。このような「お勉. 強」である4教科と「息抜き」である実技科目という対立関係を子どもも了解している状態 は教師にとって都合のいいことである。なぜなら、子どもが自由にのびのび発散できる実技. 科目をアクセントにし、結局は4教科を着実に学ばせることができるからである。教師に とって都合のいい教育とは、効率的に子どもたちを「お勉強」や「息抜き」へと追い立てる ことではないだろうか。またこのような効率性を重視する学校教育の現場と、鑑賞教育は相 容れない関係なのだろうか。. 教師Tは、効率的な教育における「息抜き」としての図画工作科が、鑑賞教育を糸口に非 効率的で不可解な芸術の世界に引きずられることに焦燥感を抱いていると思われる。もし不 可解な世界を読み解く手がかり、つまり「みる」対象の固有のコード・コンテクストが分か れば、教師Tの図画工作科のイメージは変わるのではないだろうか。少なくとも「息抜き」. にはならないが、さりとて非効率的でもない鑑賞教育のイメージあるいは計画ができるので はないだろうか。. 教師Eの語りを通して ○「贅沢品」としての芸術作品. 教師Eは、ここに挙げた4名の教師の中では最も美術に関して一般知識が豊富であると思 われる。また「ぼくも小さいとき、手塚治虫と石ノ森章太郎は自分の師匠やと思って」いた 程、制作に没頭した経験があり、現在も趣味として美術に関心を持ち制作もしている。しか し、教師Eが行っているあるいはめざしている鑑賞教育は、彼自身が受けた鑑賞教育に対す る批判の上に成り立ったものである。. 教師Eが20数年前の小学生時代に受けた鑑賞教育とは、教育者としての彼が今実践してい るものとはおよそ程遠い。「巡回美術展で見学して、感想文を書かされ」、教師の方は「す ごいでしょ、ええもん見せたったという自己満足だけで終わって」しまっていた。しかし、. このような鑑賞教育がなされてしまうのは、教師Eの担任だけの考えではなく、当時の芸術 作品に道徳的価値だけを認めている一面的な鑑賞教育の傾向と見ることができる。そしてそ のような鑑賞教育の背景には、やはり芸術作品一贅沢品=文化の香りという連鎖の延長線上. にある、芸術作品の「礼拝的価値」に対する人々の憧憬が見え隠れしている。しかし、こ (2) れ程まで複製技術が発達した現在、学校教育において芸術作品の礼拝的価値を探すことにど れ程の意味があるだろうか。. 教師Eは芸術作品の持つ「贅沢品」というイメージがそのままでは子どもに享受されない と考えている。つまり教師から子どもへの文化の表層的な受け渡しではいけないというので ある。P.ブルデューは、文化が世代間で伝えられていくことを「文化資本の獲得・相続」 (3) という言葉で表し、いくつかのタイプに分類しながら説明している。教師Eが20数年前に受. 第1章現行の鑑賞教育の再検討 6.
(9) けた鑑賞教育は、さしずめ「文化資本の獲得・相続」に関する手続きが一切行われていない 例と言えるだろう。しかし、どのような手続きが実際には必要であり、また時間的にも空間 的にも限定された学校教育において、どこまでそれが可能なのかだろうか。. ○「表現」と「鑑賞」の関係(出会いからイメージの形成まで). 教師Eは「子どもがその教材のイメージを持たすために鑑賞を取り入れてい」るという。 それは教師のねらっているイメージを、より的確に子どもたちに伝えるテクストとして芸術 作品を使う方法である。また「子どもって作るときお手本にするイメージってあるでしょ。. その方がのびのびして作れる」というように、いわば芸術作品を制作のためのプレテクスト として使っていこうという意図が窺える。教師Eに限らず多くの教師が、このように制作に つなげていく鑑賞教育を行っている。つまり鑑賞することによって制作に関するある一定の イメージ、換言すれば共通のイメージを教師と子どもによって形成していくことである。共 通のイメージを学習集団において形成することは指導者の側にとって効率のよい指導と言え るだろう。. しかし、子どもの側に新たな問題を生み出していると教師Eは指摘している。例えば、 「粘土にビー玉とかをくっつけて焼くrガウディみたいに』という教材」では、 「絵はがき. などでガウディの作品がもっと分かるように見せてやるわけです。あるいは作品集なども見 せると、ああこんな感じの曲線や色のことを言うてんのんか」と、子どもたちは理解すると いう。しかし、教師Eは「子どもにイメージを持たしといて、裏切られて終わり」と嘆いて いる。つまり、ガウディの作品を「みる」ことを通して獲得されるはずの一定のイメージが その制作においては表現されていないというのである。しかし、教師Eの「嘆き」は、本来 嘆くべき「嘆き」ではないと思われる。なぜならガウディの作品に対するイメージは、子ど もの経験およびそれに基づく解釈枠組みの違いによって異なるからである。同じ作品であっ ても、そのイメージは、作品に内属しているものではなく、その作品を「みる」主体の解釈 枠組み(スキーマ)によって異なってくる。. また教師によって投げかけられる一定のイメージについて、「何となくうまい絵」「遠近 がうまく出ていて、早薬もあってという絵」が子どもたちの間で評価されているという。教 師Eは、 「みんなが一致してそういう絵をうまいと何となく思うのは、結局そういう絵しか. 見てこなかったということではないか」と指摘している。ここでは、教師の求める一定のイ メージを子どもの抱くイメージとのズレが認識され、そのズレは子どものこれまで見てきた 絵(作品)によるものであると指摘している。. 一方、教師Eは、何かにこだわり続ける、執着力のある子どもを「ぼくなんか個人的には 好きですけど、そういう子って学級では浮いている」という。彼は、「やっぱりみんな浮き たくない」からアカデミズムやリアリズムを正統としがちな教師の傾向性を子どもたちも肯. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 7.
(10) 定していくのだと指摘している。そうであるからこそ「でもこんな絵もあるとか、こんな描 き方もあるという(中略)それ以外の絵や描き方を見せて」いくことが、これからの鑑賞教. 育の可能性であると教師Eはいう。すでに見てきたように、一方では教師Eは彼の抱く一定 のイメージを子どもに求めながら、ここでは、子どもの個性ある多様なイメージを期待して いる。この二重性は近代教育が本来内包している矛盾といえよう。. 教師1の語りを通して ○文化的闘争としての異文化理解教育 教師1自身、在日韓国・朝鮮人が多く居住する地域で成長し現在に至っていることもあ り、在日韓国・朝鮮人の差別問題は教師1が常に直面している問題なのである。 「在日の人. たちって、日本の文化と韓国(朝鮮)の文化の狭間に生きてるねんけれども、日本人との違 いと明らかにすること、ひとつのルーツである韓国・朝鮮の文化が何なのかということ」を 明確にしていくことが在日韓国・朝鮮人を理解することなのだと言う。つまり在日韓国・朝 鮮人にとって渡日以来の暮しそのものが「文化の狭間」に生きることであり、文化的闘争で あると言うことができるだろう。しかし現実には「在日の問題が根底にあって、同化みたい な形になっているから」もう一度「自分たちと違う文化をもっているんだ」ということで文 化史の仕切り直し、あるいは組み換えを教師1は試みているわけである。フェミニズムから の美術史研究を進めるグリゼルダ・ポロックがいう「文化の歴史を全面的に書きなおすこと になるパラダイムの変革」 に、教師1もマイノリティーという視点から立ち向かっているの (4). である。. そこで教師1は文化をどのような切り口でアプローチしたのだろうか。彼はこのことにつ いて次のように述べている。. (子どもの視点で)文化的な違いって何だろう、歴史的なことも含めて捉えようと したとき、子どもの生活の中に今も息づいているもの、根づいているもの、そういう ものから入っていかないと、子どもにとっては手応えのない文化像になってしまう。. そうすると、勢い衣食住あるいは遊びみたいなところで、文化の切り口を見つけ℃い くことになると思う。. 例えば、子どもの遊びにおいて、日本に住んでいる日本人の子どもも在日韓国・朝鮮人の 子どもも大差は見られない。それは、子どもたちが学齢期に達するとスポーツやゲームに興 じることが多くなるからである。これらの遊びは一定のルールによって成立しているため、 国籍の違いよりも年代の喰いの方が顕著な差となってくると予想される。. このような状況で教師1は「正座」を切り口とした文化比較を記号学的な視点から行って. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 8.
(11) いる。正座とは正しい座り方と書くが、日本人と韓国・朝鮮人と異なった座り方をすること を子どもたちに提示している。さらにキモノとチマチョゴリという民族衣装の「ちがい」も 提示している。 「日本の場合はキモノが美しく見えるために正座という座り方をする。韓国. の場合は片膝をたててチマチョゴリをふわっと美しく見せるための座り方をする。」しか し、 「それぞれ美しく見せるためのという価値」においては「おなじ」なのである。言い換. えるなら、一目で分かる服装の「ちがい」から形態の「ちがう」座り方を知ることによっ て、その中に「きれいに見せるため」という「おなじ」価値を子どもたちが発見することが できる。教師1の言うように、チマチョゴリのために片膝を立てる座り方が考えられたの か、それとも他の理由で片膝を立てる座り方が存在し、その座り方から生まれたのがチマ チョゴリなのかは、現時点では判然としない。しかし、いずれにしても座り方とチマチョゴ リという民族衣装から、韓国・朝鮮人の文化の一側面を日本文化との比較において理解する ことができる。. 指導の際教室にチマチョゴリを数着展示したということであるが、もし正座の切り口を 提示せず民族衣装の展示のみだったとすれば、ただ単にきれいだあるいは好き嫌いというよ うな感想しか子どもからは出てこないだろう。つまり民族衣装(チマチョゴリ、キモノ)と 座り方(片膝を立てる座り方、正座)という文化項目を相互関連において比較するという視 点がなかったら、 「みる」行為の限界が早晩やってきてしまうことを教師は経験から知って いる。われわれは社会科や国際理解領域の指導においては、 「みる」対象のコード・コンテ クストを子どもに知らせることをごく当然のこととして行っている。 「みる」対象が芸術作. 品であり、図画工作科における指導になった途端に「みる」主体のコード・コンテクストだ けで読み解こうとする傾向には危うさを感じる。. 「子どもの視点で、文化的な違い」の奥行きを見誤ると、教師1自身も探ろうとしている 「文化像」がっかめないのではないだろうか。 r大衆芸術」と「純粋芸術」という対立関係. において「子どもの視点」により近いものは「大衆芸術」であろう。しかしこれらの大きな 相違点は「大衆芸術」は不特定多数を対象としており、一方「純粋芸術」は作品依頼者やコ レクターなど比較的限られた人々を対象としていることである。また作者についても「大衆 芸術」においては特定しにくいが、 「純粋芸術」においてはほとんどの作者が判明し、作者 の背景をも知ることができる。したがって、 「大衆芸術」における作品の背後に広がる精神 世界を読み取り、確定していくことには困難が伴う。 「みる」対象である「大衆芸術」は顔. のない大衆のために生産され、大衆によって消費されていく。であるがゆえにステレオ・タ イプの芸術が生産され、それらがスムーズに理解され、受け入れられてくのである。このよ うな商業ベースと密接な関係にある「必要趣味」 の枠組みの中では、画一的な文化像しか (5). 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 9.
(12) 浮かび上がってこないのではないだろうか。. しかしながら、 「純粋芸術」をそのまま理解していくことは「子どもの視点」でなくても. 困難なことである。なぜなら純粋芸術は、それを鑑賞するためにはそれが押しつける一定の 視線の傾向性(美的性向)を要するからである。こうした傾向性・性向は、一定の文化環境 の中で長期間にわたって意識的・無意識的に形成されたハビトゥス 一定のものの見方、 考え方、感じ方、ふるまい方の傾向性の統一体 を構成するものである。 「純粋芸術」 (6) が馴染みのない世界である子どもにとって、それを「みる」ことは馴染みの世界にわずかな 変化をもたらすと考えられる。. 指導者からの問題提起. 以上4名の指導者から鑑賞教育に対する現時点での感想と実践をインタビューしたものを 紹介してきた。4者はタイプの差こそあれ教育に情熱をもっており指導力も十分持ち合わせ ている。彼らは共通して鑑賞教育の難しさを感じつつも、自分の実践を生き生きと語ってい る。しかしその実践に対する自己評価は教師1の言うように「鑑賞教育は自分にとってもっ とも遠いことかもしれません」と決して高いものではない。つまり自己評価の段階では実践 に対して確信が持てないということである。. しかし、教師が自分の実践を語るという行為には、必ずその教師の子ども観・教材観・指 導観を語ることが含まれる。子ども観・教材観・指導観とは、言い換えれば子どもや教材や 指導内容・方法にまつわる彼(彼女)の選択であり、「実践する」「実践しない」の境界線 を形づくるものである。われわれは教室においてさまざまな指導を実践しているが、その中 では他人に言うに言えないような失敗やよくない指導を行ってしまっている。そのことを他 人(子どもや同僚の教師や保護者など)から指摘されることもあるが、大抵の場合本人にす ら気づかれないまま過ぎてしまっているものである。したがって、ここでインタビューとし て実践を語るという場においては、たとえそれが自信なげに語られたとしてもホンネの部分 では、自信がある部類の実践であるということを認識しておく必要があるだろう。したがっ て、彼らの「実践した」という選択はかなり意識的なものであり、その境界線が彼らの明確 なレリヴァンス体系をなすとみなすことができよう。. 彼らの鑑賞教育に対するレリヴァンス体系 彼らの鑑賞教育に対する実践が、どのようなレリヴァンス体系 人間の意識的・無意識 的選択に関わる興味・関心、解釈・評価、動機からなる有意性の体系、これについては後に 詳論する. よって決定されたのだろうか。このことは、教師たちはどのような生活誌的状. 況にあるのかを検討しながら探っていく必要があるだろう。. まず、彼らは過去において教師Eのように権威的な指導を受けたり、教師Tのように名画. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 10.
(13) のグラビア記事が教室に掲示されていたという経験を持っている。しかし、これらの経験を 「あの頃の教育は有名な絵を見て、すごいというのを言葉で表わせっていうのですよね。 (中略)だから逆にあのような鑑賞教育で、絵が好きになった人っていうのはいないんじゃ ないかな」 (教師E)、 「朝日新聞なんかに載っているやつより、教会なんかにあるやつの. 方が、やっぱり昔の人もすごいと思ったやろうなと思える」 (教師T)と否定的に捉えてい. る。このような経験から彼らは、権威的であったり、図版などの映像に対して無神経であっ たりする指導をレリヴァントなものとして認めていない。それは彼らに教師としてのエート ス(非権威主義的エートスなど)が働いていると思われるからである。. 現在の彼らの生活誌的状況とはどのようなものだろうか。社会構造上小学校教員は、経済. 的にも文化的に中程度に位置すると思われる。インタビューでも4名中3名まで渡航経験を 語り、また4名とも美術館でオリジナルの作品を鑑賞し、感動したという経験を行ってい る。したがって「エル・グレコなんてすごいって思った(中略)やっぱり昔の人もすごいと 思ったやろうなと思える」 (教師T)、「今回イタリアへ旅行して、ルネサンスってこんな んかと初めて分かった。それまで全然分かれへんかったし、興味もなかった」 (教師Y)と. 芸術作品を見たり、それについて考えたりすることには肯定的である。つまり彼らは、彼ら の私的生活から見る限り、芸術作品を鑑賞することに関してそれぞれ独自のレリヴァンス体 系を有しているものと思われる。. 一方彼らには小学校教員としての生活誌的状況があり、そこでは子どもの指導を目的とす るさまざまな「経験」と「意識」が生み出されている。その結果、指導の効率を優先してい こうとする「教師集団の共通のレリヴァンス体系」が形成されてきたのではないだろうか。 「本物に近ければ近い程、興味のもち方が違うな。 (中略)食いつきが違う」 (教師T)、. あるいは「もっと手ごろなものがいっぱいあるからね。子どもの食いつきのいいもの」 (教. 師Dというように、子どもの反応を大切にした効率的な指導が彼らのレリヴァンス体系を 構成しているように思われる。しかし、このような指導は一見子どもの側に立った指導のよ うに見えるが、それは教師側の指導目標に到達するための一つの戦略に過ぎないということ に行き着く。. 教師たちは、「いかにちゃんとした作品を作らせるかに必死」 (教師Y)であるため、 「作るときお手本にするイメージ」 (教師E)をより具体的に伝達する芸術作品や「うまい. 子の絵」 (教師Dを提示することなど積極的に行っている。つまり作品鑑賞は作品制作の 指導のための効率的手段として位置づけられている。学校教育の中では「社会とか国語とか やったら、やらなあかん」 (教師T)というように、主要四教科が重視され、しかもその効. 果は明確に表われるため、その指導の効率性が求められる。同じ論理で、図画工作科の中で は「鑑賞」に比べ「表現」の方が指導の成果がより具体的な形で表われるので、 「表現」が 重視され、「鑑賞」は「表現」の効果を上げるための手段に過ぎないとみなされる。. 第1章現行の鑑賞教育の再検討. 11.
(14) さらに、 「鑑賞」の中では芸術作品の鑑賞に比べ、子ども同士の「相互鑑賞やったら、子 どもの作品だから見ても価値ある(中略)。描き手がよく分かっているから」 (教師T)と. いうように、相互鑑賞を子ども同士の作品を読み解く効率的な手段と捉えている。こうした 効率的な指導を重視する「教師集団の共通のレリヴァンス体系」は、教師Eに典型的に見ら れるように、指導とは「子どもたちの共通のレリヴァンス体系」を形成していくことである という前提の上に成立していると考えられる。. したがって、芸術作品について「友達がどういうことを感じているのか、自分とは違った ことを感じているのか」 (教師T)ということをテーマに指導すること、つまり独自のレリ. ヴァンスを持たせようとする指導は、効率性をめぐる力学においては非常に危うい実践と言 えるだろう。またわれわれは「みる」行為において「みる」対象に近づこうとするが、それ は飽くまで近似値を追い求めることに他ならない。たとえば「描き手がよく分かっている」. 友達同士の相互鑑賞を積極的に行っていると教師Yも教師Tも述べている。しかし友達が自 分の作品の説明つまり「みる」対象のコード・コンテクストを言語表現したところで、それ が教師がねらっている共通のレリヴァンスの形成とはならない。それは子どもの人間関係は 複雑であり、子ども同士の距離はさまざまだからである。このような子どもの場合に限ら ず、たとえ作品の作者が「みる」対象のコード・コンテクストを全面開示したところで、飽 くまでそれは「みる」対象の近似値に過ぎないのではないだろうか。. 以上のように芸術鑑賞を一人の私的な生活者としてレリヴァントな行為と認めつつも、教 師としては指導の効率という「教師の共通のレリヴァンス体系」によって「鑑賞教育はあま り実践してきてない」という結果を招いているようである。しかし、かろうじて実践され彼 らが紹介した例は、芸術作品を理解や感動の保証されたテクストとして、あるいは児童が制 作するためのプレテクストとして、戦略的に教師が利用しているという印象を受けた。. 子どもたちは、教師たちのあらゆる戦略から解放された場合、日常においてどのように 「みる」行為を行っているのだろうか。次節では「みる」主体である子どもが、生活世界に おいてどのような「みる」対象を選び取っているのかを探ってみることにする。. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 12.
(15) 第2節 子どもは何をどのように見ているのだろうか. 江原由美子はアルフレッド・シュッツ(Alfred Schutz)に倣って、 「生活世. 界」について、次のように説明している。 (7>. 生活世界とは、われわれが生きている日常的世界そのもの、すなわち、自らが社会 の一成員として日々生活している世界そのものである。われわれは、日々の生活にお いて、活動し、行為し、実践する。そしてそれを通じて、怒り、傷つき、喜び、また 悲しみ、さまざまな想いを味わっている。言い換えれば、われわれは「社会」をその 手ざわりによって、直接に肌で感じとり、 「経験:」しているのである。このような. 「経験」は、それが他ならぬ生活におけるものであるがゆえに、われわれに、抜き差 しならぬものとしてせまってくる。だからこそ、われわれは一成員としての資格で、 「社会」を認識し、意味づけ、把握しているのであり、たとえ専門家が何と言おうと も、自らの「社会」に関する見解を固持するのである。. つまり「身の周りの」世界とは、単に「みる」主体の周りに存在する世界を指すのではな く、 「みる」主体が知覚し認識し、「みる」主体によって構築された世界であるということ. ができる。それならば、具体的に子どもが生活世界において、何をどのように「みて」いる のかということを調査することができれば、視覚を通してどのような生活世界が構成され、 どのような「みる」主体が構築されているのか窺い知ることができるのではないだろうか。. これまでのカメラを使った鑑賞教育の実践例も確かにこのようなことを意図して行われた と推察できるが、調査としてデザインされたものではない。そのため、でき上がった写真に 対しての記述や分析が、 「みる」対象だけでなく「みる」主体さらにそれらの関係を射程に 入れたものとはなっていない。. カメラワークの目的. ここで新たに子どもの「みる」行為という視点からの調査、つまり子どもが日常生活にお いて「何をどのようにみているのか」という調査が更めて必要であると思われる。したがっ て、子どもが何を「みる」対象として切り取っているのか、それらを通してどのような「み る」主体が構築されているのかを分析していかねばならない。. このようなわれわれの行為や判断に含まれる「選択の問題」を考察するには、A.シュッ ツの提示した3つのレリヴァンスを解釈枠組みとして分析していくことが妥当であると思わ れる。例えば、カメラを携帯して「みる」という行為とは、 「何を」 「どのように」切り. 取ってくるのかという選択を子どもにせまるということである。選択を迫られた子どもがど. 第1章現行の鑑賞教育の再検討. 13.
(16) のようなレリヴァンスを構成するのか、またレリヴァンスとレリヴァンスがどのようにせめ ぎ合うのかを分析することができると思われる。子どもたちのレリヴァンス体系を辿ってい くことによって、 「みる」行為における子どものフィルターを浮き彫りにすることができる のではないだろうか。. そこでシュッツのレリヴァンス体系について概観してみることにする。 (8) われわれが何かを選択するとき、3つのレリヴァンスが働いているという。1つ目は親和 性の中からあるものが違和的なものとして現われた時生じる「なぜある主題が選ばれたの か」という主題的レリヴァンスがあげられる。そして2つ目は、選ばれた主題について「こ れは何か」ということが知識の貯えから諸類型を選択し、レリヴァントであるかどうかの判. 断を行う解釈的レリヴァンスである。3つ目は動機的レリヴァンスであり、それは動機との 関連でレリヴァンスが規定されることである。さらにそれぞれに「課されたレリヴァンス」. つまり他との関係あるいは他からの働きかけによってなすものと、「内発的なレリヴァン ス」つまり自己における変化がきっかけとなるものといった細分化が考えられる。以上6つ のレリヴァンスは相互関連的な体系、つまりこれらを構造化する選択機能の体系であると考 えられている。. カメラを利用するにあたって 子どもが日常的生活において、視覚的にはどのような「もの」に心を動かしているのかと いった調査をするためには、「みる」対象を収集しなければならない。「みる」対象といっ ても犬や建物といった個別的な対象から、光と陰というようなコントラストや雑踏というよ うな社会的背景をも含む対象もある。さらに、人の心の動きはあるときはめまぐるしく変化 したり、あるときはゆるやかなうねりのような変化であったりする。また、強烈な印象を受 けることもあれば、極めて曖昧なときもある。こういつた心の微妙な動きを反映している 「みる」対象をどのように具現化すればよいのだろうか。また、そのようなことは果たして. 可能なのだろうか。そこで心が動いた「もの」、つまり「みる」対象を瞬時に場面として切 り取ることのできるカメラを使うことにした。カメラは手軽に映すことができるので、心の 微妙な動きにフィットさせることができる。また、スケッチや文章表現に比べて、機械によ る部分が多く個人的なテクニックの差があらわれにくいため調査結果に近似値を望むことが. できる。以上2点に加わえ、写真は子どもの心理的負担を軽減するということも調査自体の 倫理的側面から重要な要因であると考える。. その起源から見ても分かるようにカメラとは、人間の「みる」行為の拡大という願望を具 体化する道具なのである。以来、カメラはジャーナリズムによる情報の大衆化と科学技術の 進歩という近代化の両輪をその手中に納めながら改良を重ねられてきた。そして現在、カメ ラの製造技術の向上とカメラやフィルムや現像にかかるコストの低下によって、われわれの. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 14.
(17) 日常の生活に浸透している。特にコストの低下に伴ってカメラの利用者が広がり、その低年 齢化が促進された。子どもたちの学校生活においても卒業式や泊を伴う学校行事や旅行など で、インスタントカメラを手にして活動している光景は珍しくない。また、目を街に転じて みると、逆にカメラの位置は固定されていて、被写体が移動するプリントクラブも子どもた ちの問で流行している。このようなカメラの機能面やコスト面を社会的背景から考えると、. そろそろカメラを単なる教育活動の記録としてだけでなく、学習資源として取り入れていく 時期が到来したと言えよう。. 一方留意しておかねばならないことは、この調査は「みる」という認知行為を対象として いるものの、調査の結果は写真や文章による表現を手がかりにしているということである。 したがって、次のような問題点が予想される。. カメラをもって歩くという非日常的行為と、街や自然の中を歩き「みる」という日常的行 為をどのように捉えていけばよいだろうかという問題である。 「みる」という行為をわれわ. れは不自由を感じずに行っているが、カメラを携帯することによってそこにフレームが課さ れることになる。課されたフレームとは、いわば「みる」行為に抵抗をかけることであり制 限を設けることである。しかしわれわれは制限を設けられた「みる」行為によってしか、 「みる」行為を改めて浮き彫りにすることができないのである。それは足の指を負傷したと き、初めて歩行の際の足の指の働きを認識するのに似ている。 「みる」行為の傾向性を探る. ために、写真の記録性を利用していくと同時にカメラによる制限を最小限に止める工夫が必 要であろう。. さらに、カメラは場面として切り取ることは可能であるが、心が動いたそのものだけを映 し出すことは不可能である。われわれの視野はおよそ160度前後であるが、注視した場合は わずか1∼2度と言われている。このような広範囲の撮影機能を備えたカメラの準備は不可能 である上、子どもたちもそのような撮影技術を持ち合わせていない。. これらの問題を解決していくために写真と文章表現による説明を並列させたワークシート を作成した。カメラのフレームという制約から「みる」行為に十分接近できない部分を「何 を撮った写真か?」という説明によって誤差を最小限に止めることができると考えた。ま た、子どもが1枚の写真でその時の心の状態をすべて言い尽くすことも不可能である。より 正確に撮った時の心の動きを伝えるために「なぜ、撮ったのか?」という文章表現による補 完が必要である。もちろんこれらの文章表現は、飽くまで子どもの心の動きにできるだけ近 づくことが目的であるから、撮影の時点から間をおかずに写真を見ながら表記させることが 肝要である。. カメラワークの実際 対象者の概観:. 第1章現行の鑑賞教育の再検討 15.
(18) 「上福島」という地域は大阪駅から環状線でひと駅南西に位置し、交通の便もよく施設も 整っている。そのため大阪駅周辺の再開発された地域、つまり「上福島」地域の北東から、. デザイン性の強いビルが迫ってきている。しかし、落ち着いた環境という印象を受けるの は、一方には戦前から残っている街並みがあり、子どもにとって祖父母の代からの商店街が あり、昔ながらの生活が根強く残存しているからであろう。とはいうものの長い歴史の中で 原初の自然はとっくに失われてしまっており、人々はつくり直された自然を大切にして都市 生活を営んでいる。. この地域に住む小学生は経済的には恵まれており、家庭環境も落ち着いている。保護者の 職業は中小企業のサラリーマンや自営業者がほとんどであり、文化的には中程度が主流であ ると判断できる。本校は人口のドーナツ化現象と少子化の煽りを受けて全校児童が百余名の 小規模校である。. 今回対象となった6年生の子どもたちも1学級の成員が20名である。高学年での授業の不 成立といった問題は、ここ数年起こっておらず、学校での様子はいたって子どもらしい。. 放課後の状況について言えば、中学校受験を希望する子どもは8名であり、彼らは全員進 学塾に通っている。他の子どもも、習字やそろばんなどの習い事やリトルリーグやスイミン グスクールなどのスポーツで、自分の趣味を充実させている。こういつた彼らの予定の合間 を縫うようにして、友達と約束しファミコンで遊んだりしゃべったりして過ごしている。 方法:. 大阪市立上福島小学校 第6学年児童20名を対象とした。 土曜日の下校前に一人一人に使い捨てのカメラを渡し「上福島の街をカメラを持って歩い てみよう。そのときいいなあ、おもしろいな、いい色だな、きれいだな、など興味をもった り、心を動かされたりしたものを写してみよう」と教示した。. 翌月曜日、カメラを回収し現像に出した。二日後の水曜日に現像した写真をもとに写真の 優劣ではなく、その時の印象が強かった「みる」対象を自分でベスト5としてを選ばせた。 さらに「何を撮りたかったのか。また、写真について説明をしてください」などの質問や課 題の感想を文章表現するワークシートを準備した。. 結果: 次頁掲載. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 16.
(19) 何を「みて」いるのか?. 花 合計. 木. 動物. 羅臼. 18. 2フ. ピル. 11. 10. 鳥 9. 公園や遊イクや自 5. 5. 家や壁 5. 置物. 道. 3. やガラ. 川. 3. 2. 3. 小物 21. 電車 i廃棄. 入ε時計や噴皇と竜の石 2. 2. 2. 電灯. 1t. 2. 1. 1. 難. 大阪城 1. 1. U6 30 モ. ワ. ㍉:、’. ミ・ 9. 20. ,. ノヂ. タリ. ’ゾ寡. :’ ! ≒撃♂”、. .ρ. ◆. , 、,. へや. 10. 、鳥 β、 、 、. ご、萎 ド ノ. ◎’. ◆論,・9’,. も. ニ. o. ㌔. 花. ぎ ∴.. 鰯.二. ・・ひ“○・. 鷲宰 シ。く.’. 9 、, 、7. ノ. わ. ゆる ノ. ひ ち. ヤ=壕ゑ。 ♂. ◎. 慧、’蠣. ◎. 。二擁 許∴. ;珊 Aもき. 、艦 ’. 動鈎. 木. 夕日. :・くヒ.. ’乾媛ぜ饗. 鞭 麟をi. ・韓。’ 騰.. 樗ボ議. ㌧ ㌧. ビル. ’. 鳥 公園や遊. ◆. ∂. , ・. 」掌、 畷 阜. ”、 ●●. ・な;’.. 怯. 、. クや自転棘や壁. 置物. 道. . :。 2㌦ゐ・. ζ、. 、、・. 空 鏡やガラス 小物. 人. @㌦・ζ・. 計や噴齢竜の石像電車. ◆ ●}. 廃棄物. 電灯. ’. 学校. 大阪城. どのように「みて」いるのか?. 16. 16. :λ麓、. M. 塾. C昨嘱. 8. 繁昌 触詩勢ρ. 0. その他. 7. 6. 5. 大きさかっこ 5 4. 自然心 親しみ 雰囲『幻想的 2 2 1 1. しぐさ 瞬間 構成 4 4 3. g. ’軸◆. ぎ慈轡. .;㌦、. タ・: 三二く’. 9. オ.1 ’萬・. ご’::i、. 鞭ゴく多 頼tノ:讃. ●、 、. 6. 2. 8. 施き・ Fく. ’”. 10. 4. 13. 15. ル}く’之’. 14 12. 組み合 珍しい 色合い. かわい 面白い. きれい. 合計. 汽ξ磁’. .’や’. Cく潟こ. 窪’ 、. .、㌔. 囈X・. ㍉. 漁. }メ^’ B、. o ◆. 菇] .’. :=.. ’. 姦く;’.. 評・窟. E8. :詑. P. .・. f≧く. ◆ ・ρ. o. 、㍉ ◆. ソ. ’◆. ,’・を ゆ 讐 、. ・㍉く、. 61’℃ ヒ. きれいかわいい 画白い組み合わゼ珍しい. ・;・. ∼占・知二・瀦. 轟”斡・ ’・2’ @、.. £;’ o. シ. 、. 色合い. その他 大きさかっこよいしぐさ. 瞬間. .. 、. ・. 構成. 喝. 6.・. ◎. @. “≒ ゆ. 轟. 自然憲向親しみ雰囲気幻想的. 寸7.
(20) カメラワークの与具. 家で育てている青いアジサイ (S児). 白いのはあまり見ないから (S児). .1. 1:藤撫繭. バイクとあじさいが似合っていた (0児). いつもよくほえる犬だけど (Ko児). 電車が動いているしゅんかん (Ku児). 写す時に自分も写ってしまう (Ma児). 18.
(21) この木は、目も鼻もロもある (Ku児). 2歳のころと全然変わっていない (Ka児). x、・、. 雪. 出かける時は、コイツといっしょ (Ma児). 転校してきたとき遊んだ (Tu児). }ノ. 煽. ・\ ㌦.. 炉. 古い木造の家なので雰囲気がいい (H児). ぼくに何か言いたそうだ (K児). 19.
(22) 考察:. 「何を『みて』いるのか」について 「何を撮りたかったのか?」という質問は撮影の際「何を『みて』いるのか」を問うもの である。数値としては1位に花、2位に動物、あと樹木、夕日が続くという結果になった。. 自分が撮ったおよそ20数枚の写真から「花」をベスト5に選ぶということは、実は2重の選 択を行っていることになる。まず生活世界から「花」を選び、撮影し、でき上がった写真か らさらにベスト5に選んでいるのである。このようなプロセスによって「花」を選択した児 童は全体の70%にあたる。子どもが「街」という連続体の中から「花」を切り取ったという ことは、「花」の持つ親和性よりもむしろその違和性を理由として挙げていかねばならない だろう。つまり子どもたちの主題的レリヴァンスは違和性ゆえの「花」であり、それをもっ て「花」を「みる」対象に選んだのである。. 同時に写真を撮るという行為は、シャッターをきる瞬間の前述のような主題的レリヴァン スのみによって決定しているのではない。日常生活においてはカレンダーやテレフォンカー ドなどのデザインにも花の写真が多く使われ、そのことが子どもの意識の中にも浸透してい るのであろう。したがって、「きれいな写真といえば、まずは花」という解釈的・動機的レ リヴァンスが働いたと思われる。つまり、それまでの写真に対する経験が子どもの解釈枠組 みである「きれいな写真」と「花」が結びつき、 「花」の写真を撮るという傾向性がその動 機を形成しているものと思われる。 それに加えて、撮る側のテクニックとしてのレリヴァンスも見逃してはならない。 「花」. という被写体は色彩も豊富であり、静止しているため撮りやすいという点である。カメラの 操作にまだ慣れていない児童にとって、アングルを探ってみたり、距離を考えてみたりする 時間的ゆとりが保証されていることは、「花」を被写体に選ぶ要因としては大きい。これは 「みる」行為に加えて、写真に撮るという「つくる」行為が関係するためである。. これまで「何を撮りたかったのか?」という質問に対する回答から、子どもが「街」の中 で「何をrみて』いるのか」について分析してきた。ここでは子どもたちのが人工物に囲ま れた「街」に暮らし、マスメディアと共存しているという生活誌の中で構築されたレリヴァ ンス体系が、子どもたちに世界から「みる」対象を切り取らせていると言えるだろう。. 「どのようにrみて』いるのか」について 自然物と人工物. 1位から4位までを自然物が独占しているが、このことをどのように捉えていけばよいの だろうか。それは、子どもたちが都市のなかの自然を稀少価値として、つまりその違和性ゆ えに主題化したと見ることができる。そうであるからといって、条件の異なる他の地域や異. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 20.
(23) 年齢集団における調査を行った場合、異なる結果がでるということではない。したがって、. 今後の課題として、条件や対象年齢の異なる調査が必要であると感じている。また自然物の 写真とはいうものの、それらは人の手によって育てられた植物あるいはペットが被写体であ り、ワークシートからはそれらがっくり直された自然であるということに子どもたちは気づ いていないことが窺える。. しかし、 「花」という項目の中の写真がすべて前述のような違和性だけで選択されたわけ. ではない。S児は「家で育てている今年はじめて咲いた」青いアジサイと「白いのはあまり 見ないから」という理由で白いアジサイを同じように選んでいる。しかし、数値としては 「花」の写真2枚であり、視覚的には似たようなアジサイの写真2枚に過ぎない。つまり記. 号学的には2枚は「おなじ」であるが、この2枚を支えるレリヴァンスは明らかに「ちが う」。この2枚の写真から彼女のレリヴァンス体系について探ってみることにしよう。 まず、彼女が白いアジサイを注目したということは、その「珍しさ」という主題的レリヴ ァンスに支えられていると考えられる。さらに、S児の経験から白いアジサイが「あまり見 られない」という解釈的レリヴァンスによって写真を撮ろうとしたのであろう.しかし、彼 女の選択の内には、白いアジサイの稀少性に関する知識だけではなく、自分の庭の青いアジ サイに関わった思い入れとも言える動機的レリヴァンスを認めることができる。したがっ て、もし彼女が庭に青いアジサイを育てていなければ、こうしたレリヴァンス体系は形成さ れなかっただろう。彼女は、青いアジサイを育てているという生活誌的状況を起源にもつレ リヴァンス体系を有しているがゆえに、青と白双方のアジサイを選択したと判断することが できるのである。. 一方、5位のビル、6位の乗り物や公園をはじめとする人工物を撮った写真は、115まい 中40まいと約30%を占めている。中でもKi児(男子)は人工物を20枚中16枚撮っており、 Ma児(男子)は16枚中13枚撮っているのに対し、他の男子児童は平均で20数値中約7.2枚 (ただし光量不足のため撮影に失敗したMi児は4枚中3枚まで人工物を撮っているが、現修 できなかった部分の割合が大きすぎるためここでは除外している)である。子どもたちは言 語表現によって、発見しながら散策することの喜びを次の様に表現している。 「(目的地. に)いくまでにいろいろな宝物をみつけた」(Ki児)、また「カメラは自分の心を写し出す もの」 (Ma児)と記している。つまりこの2人はカメラを携帯することによって、 「街」. の社会的な機能を括弧つきにし、 「宝物」を「自分の心」で発見していったのである。他方. H児・0児(ともに男子)・Ku児(女子)は「乗り物」である自動車やバイクあるいは電車 といった「乗り物」を撮っている。たとえば、H児は新型のバイクを「かっこいい」とし、. 旧型のスクーターを「めずらしい」と付記している。H児は、前者からバイクの新奇性につ いて、後者からスクーターの稀少性についても認識していると受け取ることができる。つま り、彼はバイクの新奇性一稀少性という社会的効果に注目している。また0児は23寒中11枚. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 21.
(24) とかなり人工物を撮っているが、さらに11枚中4枚が「乗り物」の写真である。そのうち赤 い新型のバイクの写真には「バイクとあじさいが似合っていたから」と文章表現をしてい る。もう少し説明を付加するなら、バイク二機能的人工物=「動」とアジサイ=植物二 「静」とのくコントラスト〉の中に「似合い」=「シンメトリ」という美を見い出していた. といえる。彼はバイク、アジサイに内属する特徴を超えた両者の〈コントラスト〉という形 式の中に「似合い」という単なる機能を超えた価値(美)を見い出していたと思われる。こ の調査で唯一動いている「乗り物」を撮ったKu児は「電車が動いているしゅんかんをげき しゃした」と付記している。この文章からも分かるように、Ku児は電車が轟音とともに走 るという機能を正確に受け止めている。. 以上のように5人は同じように「街」から人工物を切り取っているにもかかわらず、H 児・Ku児はそれらの機能を認知しており、 O児は被写体の機能や効果よりも被写体の存在 形式に美を求めている。Ki児とMa児は人工物の機能を括弧つきにし、 「宝物」に読み換え. たり「自分の心」によって写し出すものに読み換えたりしている。なぜこうした違いが生じ るのか、彼らの経済的一文化的環境で探っていく必要があるが、今のところ十分な資料が得 られない。H児の父親の職業は電気技師であり、 Ku児の両親は喫茶店を営んでいる。担任 教師によるとこれらの保護者たちの考えは「子どものことは学校に任せる」というものであ り、子どもたちも習字などの習い事はしているが受験目的の学習塾などにも通っていない。. Ki児の父親は国立大学を卒業し、コンピューター関係の企業に勤務しており、母親は薬剤 師の資格を有している。両親ともに子どもの教育には熱心で、受験目的の学習塾に通わせ私 立中学校の受験を希望している。一方でソフトボールの試合に家族揃って応援するなど、ス ポーツの面でも子どもを育てていこうという豊かさも感じられる。教育懇談会においても親 としての考えを明確に提示してくることから、家庭教育に自信とプライドをもっていると担 任教師は判断している。Ma児の父親は設計士である。 Ma児の両親も私立中学校の受験のた. めに子どもを学習塾に通わせている。Ma児の母親はMa児の性格を何事も徹底的に遂行しよ うとする長所と融通がきかないという短所を冷静に把握しており、教育懇談会においても双 方の情報がスムーズに交換できたと担任教師は述懐している。. Ki児とMa児に共通していえることは、同年齢の子どもたちと比較して、単身で電車を乗 り継ぐなどの行動範囲が広い点と、大人に対して的確な対応ができるという点である。言い 換えると「街」を自由自在に移動でき、人々と意思の疎通がはかれるということである。こ れらは「街」に住むための最低条件であり、彼らはすでにこれらの条件を満たしているとい うことである。彼らが行った街の読み換えは、実は「街」を機能として熟知し利用して、悠 然と生きている彼らの中のゆとりの部分であるように思えてならない。. 0児の父親は中小企業のサラリーマンであり、母親は看護婦である。なぜ0児が第2章で 検討する「純粋美学」にも似た美的性向を示すのかは、今のところこれだけのデータではわ. 第1章 現行の鑑賞教育の再検討. 22.
(25) からない。. 以上子どもたちが「どのようにrみて』いるのか」について、被写体となっている物が自 然物であるか、人工物であるかという対立関係で見てきた。その結果、彼らが都会に暮らし ていながらもわずかな自然を楽しむという生活面的状況にあり、このことを起源にレリヴァ ンス体系を形成していると思われる。これにしたがって子どもたちは自然物や人工物を発見 したり解釈したりすることによって生活世界を形成しているのであろう。. ジェンダー. 人工物を撮った42まいの写真のうち約3分の2の62.9%は男子児童によるものである。こ れに対して自然物を撮った74枚の写真のうち約5分の4の78.4%が女子児童によるもので ある。このような偏りは彼らの個人的な趣味の問題だけでなく、社会的な構造によってこの ような結果に方向づけられていると見ることができるのではないだろうか。 江原由美子は、 「われわれの生活世界と社会構造との関係が社会規範やエートスや価値意. 識などその他もろもろの社会構造を構成する要素と、r経験』やr意識』の流れから独立し てあるわけではない」 と述べている。したがって、彼女は「社会規範は、r経験』と『意 . ●(9). 識』としてしか『実在』し得ない。より厳密に言えば、成員のr経験』とr意識』は、社会 規範の作用する地平を形づくり、また、社会規範が個人化され適用可能な形に定式化し直さ れたものである」 (10). とみなしている。このような知見に立つと、子どもたちは自分たちの. 生活世界における「みる」行為を通して、どのような「経験」と「意識」を社会構造の中で. 形成しているのだろうか。このことについては数値だけでなく、ワークシートの2種類の質 問に対する子どもの文章表現も併せて解明していくことにしよう。. はじめにワークシートの「なぜ、撮ったのか?」という質問への回答、つまり写真に対す る説明を上位から4項目まで詳しく見ていくことにする。. まず1位の「きれいだから」、2位の「かわいいから」は、ほとんど「花」や「夕日」あ るいは「動物」や「鳥」の写真を説明した言葉である。特に「かわいい」という形容詞が使 われた15枚のうち、13枚までが女子児童によるものである。犬や猫の写真はマスメディア や文房具やキャラクターのデザインとしてよく使われている。また、書店に行くと動物の写 真集が山積みされているという社会現象は、世界的規模で起こっているようであるξ. ジョン・バージャーはこのような社会現象を「〈動物〉というカテゴリーがその中心的な 重要性を欠いて」しまい、 「多くの場合、 〈家族〉やく見せ物〉のカテゴリーに吸収され」. たために起きたのだと説明している。彼は〈家族〉というカテゴリーに、 「ディズニー産 (11). 業が製造している動物」を「最近の顕著な働として挙げている。一方〈見せ物〉というカ テゴリーは、イデオロギー面と技術面という2面の背景の上に成り立っていると考えてい る。前者は「動物は常に観察されているというイデオロギー」による側面であり、後者は. 第1章現行の鑑賞教育の再検討. 23.
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