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 本章においては、 「みる」行為が複製技術つまり視覚メディアという環境においてどのよ うに展開していくのかを検討していくことにより、鑑賞教育との接点を探っていくことにす る。 「みる」行為が「視線の傾向性」によって、われわれに規制されていくとすれば、それ は能力であるとみなすことができだろう。言い換えれば、 「みる」行為は「美的性向」がそ うであったようにやはり後天的にわれわれが身につけていくものなのではないだろうか。こ こに教育としての可能性を見い出していきたいのである。

第1節  「みる」行為の地平から見た鑑賞教育の可能性

 ジョン・バージャーは簡単に視覚芸術の社会史を辿る中で、複製芸術の出現以降芸術作品 に関わるパラダイムが大きく変革されたことを次のように表現している。

       (1)

 視覚芸術は常にある一定の保護のもとに存在してきた。本来この保護は神秘的で聖 なるものであり、また物質的なものでもあった。視覚芸術は場所、洞窟、建物の中に おいて守られていたのである。……やがて他の生活の作用を及ぼすことができるよう にと、芸術の保護は社会的なものとなり、支配階級の文化の中へ入り込んだ。つまり それらは人々から引き離され、宮殿や建物の中に隔離された。これまでの長い歴史の 中で、芸術の権威は特定の保護の権威と不可分であったのである。

 現代の複製芸術がおこなったことは、芸術の権威を破壊し、どのような保護をも取 り除いたことである。あるいは芸術の権威が再生産してきたイメージを取り払ったこ とである。今日、……芸術のイメージは、言語がわれわれを取り囲むのと同じように われわれを取り囲んでいる。そしてそれらは生の本質に何の抵抗もなしに入っていっ

た。

 また、W.ベンヤミンは「複製技術のすすんだ時代のなかでほろびてゆくものは作品のも つアウラであり……複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまう」 と述        (2)

べている。確かにわれわれは美術館へ行ったとしても、そこには「礼拝的価値」を見い出す ことはできないのであり、本来あるはずの「礼拝的価値」は「市場価値に依存していて、カ メラが絵を複製可能にした時に絵が失ったものの代用を果たしている」 。つまり、芸術作        (3)

品が本来持っていた「アウラ」を「市場価値」に売り渡してしまっているといえるだろう。

しかし、それまで持っていた「アウラ」さえも、宗教などの「神秘的で聖なるもの」や王 侯・貴族・ブルジョワジーといった「支配階級」の保護によって守られてきたわけである。

したがって芸術作品が失った「アウラ」と引き替えに、何が芸術作品に与えられたのだろう

第3章  「みる」行為と鑑賞教育の接点  53

か。

 芸術作品が複製されることによって、正統的芸術の大衆化が物理的には進んだと見ること ができよう。カレンダーやブックカバー、文房具や化粧品などのデザインなど、われわれは 芸術作品を日常的に目にしているといえるだろう。そこには「アウラ」など存在しないかわ

りに「イメージ」が付与されている。例えば「贅沢品」 (教師E)というイメージであれ ば、化粧品や高級婦人服の広告、 「いわゆる教科書にでてきそうな芸術」 (教師1)という イメージであれば学術書のブックカバーや文房具のデザインというように、メディアは戦略 的に利用されている。そういったイメージの渦の中でわれわれは生き、子どもたちも育って いるということを認識する必要があるだろう。つまり芸術作品が持つイメージというもの は、すでにメディアによって作り上げられており、われわれは「メディアにのっかって」見 ているに過ぎないということである。

 第1章のカメラワーク(子どもたちが「街」で「何を」 「どのように」みているのかとい う調査)において子どもたちの撮った写真が意外性に富んだものではなかったという結果を 得た。そして、メディアによって写真というものに対して一定のイメージが付与されている のではないかという考察を行った。このことから推論すると、よく似たメディア環境に育 ち、ある一つの準拠集団に属する子どもたちは共通のレリヴァンス体系を形成し、そこから 逸脱できないことがあるのではないだろうか。つまり「視線の傾向性」はそれまでの人生の 軌跡によって決定されるが、メディアのイメージ形成力によってさらに「みる」行為は規制 されていくと考えられる。

 現代において、このような「みる」行為を規制するものとして、視覚メディアが最も大き な要因の一つと考えられる。例えば吉積健は視覚メディアの社会的影響について次のように 述べている。

     ④

 印刷された写真図版の多くは、すでに個別的な被写体だけを指示するという作用を 失っている。つまり、写真映像に類型化されたものを指示する必要性が生じているの である。したがって宣伝のためには、写真映像のもつ個別性、あるいは曖昧さは排除 されなければならない。そしてスーパーマーケットにおいても、そのような写真映像 のような、類型化されたトマトだけを仕入れる努力がなされる。その結果農家も類型 化されたトマトだけを栽培するようになり、それ以外は没にするのである。

 つまりわれわれの「視線の傾向性」がメディアによって規制され、このことによって経 済あるいは政治社会をも変革してしまうということである。言い換えると、メディアがわ れわれの身体や社会に入り込み、操作している。つまり、メディアが権力性を帯びている ということである。したがって「権力のエコノミーは、距離を前提にした監視する視線に よって、身体を個別化し主体化することから、電子メディアに適合するように、身体に触

第3章  「みる」行為と鑑賞教育の接点  54

覚的にからみつくことに転換している」と見ることができるであろう。

       (5)

 したがって、メディアが「身体に触覚的にからみつく」ことは権力が身体に「からみつ く」ことである。つまり権力は、メディアを通して作られるイメージという形で身体化さ れるのである。われわれはこのような権力のいいなりになっていくのではなく、積極的に 選び取っていくということをしなくてはならないだろう。次節においてメディアを批判的 に見ることによって、そこにコード・コンテクストを読み取ろうと試みている実践につい て検討していくことにする。

第3章  「みる」行為と鑑賞教育の接点  55

第2節 実践としてのメディア・リテラシー

メディア・リテラシーの流れ

 1985年5月に「情報化社会に対応する初等中等教育の在り方に関する調査研究協力者会 議」という会議がもたれた。この審議のまとめが同年9月に設置された臨時教育審議会の

「情報化に関する委員会」の資料として提出された。そこでは「情報活用能力」という言葉 が使用されていた。さらに翌年1986年4月「教育改革に関する第二次答申」の中にそれが そのまま盛り込まれ、1989年の新学習指導要領へと引き継がれていったのである。した がって、日本においてはメディア・リテラシーということばよりも「情報活用能力」という 言葉のほうが定着しているといえるだろう。

 こういつた流れからも分かるように、支配的立場(この場合文部省だけでなく、その背後 にあると予想される情報産業界など)から提示された「情報活用能力」では、イメージに よって身体化された権力いわば「視線の権力」など、おそらく見えてこないのではないだろ うか。しかし、新しい試みが実際の教育現場で起こりつつある。次に紹介する実践例もその 一つである。

     (6)

福井市立円山小学校の実践例

  「アニメーションは作者によってつくられている」ということ、つまりアニメーション は現実ではなく構成されたものであるということを学ばせることを指導目標とした実践であ る。そのために「パラパラマンガ」をヒントにアニメーションづくりを体験させるのであ る。その後の話し合いによって、他の全ての番組さらにメディアというものは、制作者に よって現実が再構成されたものであるということに気づかせていくのである。

村野井均は、この実践のレディネス・テストについて「小学校3年生でもアニメーション に対してアニミズム的解釈をしている子どもがいることが明らかになった。アニメーション は24分の1秒の世界であり、目で見てしくみをわかるようになるのは難しい」と述べてい る。しかし、アニメーションを実際に作ることによって「映像は人間が作っているものであ

り、意図やねらいがあって作られていることを認識させることができる」と主張している

(7)Q

 子どもにとってのアニメーションの面白さは、そのアニミズム的理解にこそ拠っていると もいえるが、それはさて置くにしても、メディアが人間による社会的構成であることを学ば せることの意義は大きい。

 青少年による凶悪犯罪が発生する度に、アニメーションやドラマに登場する暴力シーンな どに対する規制が叫ばれる。しかし、実際民主主義社会において表現行為を規制すること は不可能に近いと思われる。それは権力が、表現の自由という正当な手続きによって行使さ

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