敏育者の創造性こ椹威性
荒
井
貞
雄
序 一、溜荻育現管ハ成立の條件 1、自我意識の嚢生とその内容 2、自我意識と他我意識との關係 3、吐會我と教育現實 4、粗⋮互影響の起る理⊥田 一一、教育現審ハに於ける敏師の創批凪性 1、教育診察力と治療手腕 2、教師の創造的知性と人生観 一ご、教由肩者の鑑催威性 1、矛盾の世界に於ける教師と椹威性 2、相互作用に表れる教師の椹威性 3、民主的敏育場に於ける教師の構威性 結 教育者の創造性と椛威性 一一五教云目者の創吐阻性と同一性 =六 序 はじめに、教育と云うことの意味と教育者の關係を少しく吟味することにしたい。 わが國に於て、﹁敏育﹂と云うことは、﹁教化﹂と云うことと同じに用いられるにいたったのは江戸時代であっ た。それ迄な、﹁教﹂と云う語が專ら用いられて居った。﹁教育﹂と云う語が、廣く用いられるようになったのは、 つい、最近の安政.年間︵鳳翻HQQ駅㊤oi唐︶以後のことである。 英弦開の国山口O鋤瞥Oの証一丁はO創口O帥同Φである。これは、ギリシャ墾悶では渕黛へ︵黛﹃e叫⑳嚇へで、ドイツ証鵬ではΦ増B①﹃①b である。これらの語は、いつれも、﹁引き出す﹂、又は﹁導き出す﹂の意味である。 今日、生活敏育、民圭々義教育又は、學論者の個性を伸ばす教育等の原理が、さかんに唱えられて居る。これ は畢寛するところ、補習者のうちに潜在する未開画意叢達なる可能性を引き出し、それを伸ばすと云うことにす ぎない。 若し、痴女の學啓者に各々の教師がついて指導、帥ち、今日云うガイダンスが徹底するならば、それは、まこ とに威話した敏育結果を得ることは、言を起たない。然しながら、それは三時の指導者を得ると云う前提がなけ れば、不可能な事に経るのである。叉、近年、諸鳥合の著しい褒達に俘い、敏育科學も長足の進歩をとげ、教育 技術は、敏白蜜の中心的課題の感を呈して居る。しかしながら、いかに進歩した技術でも、それを用いる淫心者 に、その仁を得なければ、技術は生かされないのみならす、敏育のもくろみは果されない。そこで、どうしても
教育に携わる人の﹁人間としてのあり方﹂が、凡ての鍵となるのである。敏育者が、どんな心理状態又は動機に 於て、技術を決定し、敏育現實を規定するかと云うことについて、具盟的に、しかも、ダイナミックな分析的解 明をすると云うことは、武闘の根本問題の一つである。そこに、敏育の本質的なものを具現する途が、横たわっ て居ると考えられるのである。それ程、教育者の人聞としてのあり方は、教育現實、現象と云う過程の中にあっ ては、基本的にして力學的可能性であると云うも過言でぽない。しかも、敏師の資格として、理念的に超人間的 な理想像を指摘するのではなく、人間敏師の姿、少くとも、理想像に向って、全身奈露をさ﹄げ’て、意識的努力 の中に、遺憾なく成長して居る教師の姿を把えようとのこころみが、この小論丈の目指すところであるσ 唱、敏育現實成立の條件 引き出す、導き出す、と云う教育の根本的なものは、常に教師の側に於て考えられがちであることは漫然のこ とである。しかし、又、この敏育現實を學召者又は百雷育者の側に立って分析する時、それは報答育者自身に封 ずる自畳、或いは自我の意識に質し、敏師又は彼を含めた環境が何等かの影響を受けることである。或いは、ど の位でも、自分が外部からの刺戟を撮取することにより、どの位でも、成長磯達したときの事實でなくてはな饒 ない。印ち、敏育平倉︵団U目口O国け一〇昌餌一 h簿Oけ︶又は、寒害現象︵国身。簿δ日計冒げ①ロO日①昌Oロ︶の威立の條件をこの ように規定して、敏師との關係を扱って行く前提としたい。ここで、最も必須的な要素は、被言言者の自己意識 である。このことは、眞似る、教化、感化キニ試うような、敏育無事に於ても、それらは、被敏育者の自我意識に 敏育者の創造性と椹威性 一一七
教育者の創造性と椹威性 一一八 基いて形威されて居ることを認めざるを得ない。そして、同時に、これらの敏育墨黒は、各民族、否、人間の意 識生活の始まると同時に、はじまったものであることも肯定されるのである。 ルソウ︵男oqのωo即ξ︸・匂こ︶は、敏育の現象は人の出生と同時に始まる老引張した。 もう一歩さかのぼって、 わが國では、特に江戸時代には胎敏について論いたものが黒くない。 アリストテンス ︵︾ほ馨巴。ロ。︶は、その ﹁政治學﹂の中に山育の重要な一部門として堅塁を基げて居り、中國の朱子も、有名な彼の﹁小學﹂の註に、妊 娠時の母親の感情、意識の重要性を述べて居る。然し、近年の遺言學及敏育科學の進歩に照してみる時、胎教と 云い、ルソウの出生と同時に始まる教育現象読等は教育環境に聾するものであろう。 1、自己意識の駿生とその内容 ユ ボ;ルデン︵田WO一α≦凶昌鴇匂・H口●︶は﹁自我の意識は他我との相互行爲、特に眞似る行爲の結果である﹂と指摘 して居る。それは、丁度十ケ月、十ニケ月の赤坊が、母のロを見て、自己のロを意識し、そのロ唇や頬の.動きを 眞似ると云うことにより、自分は自我を持って居ると云う自我意識がはじめて成立するのであるひこの眞似ると 云う行騰が度重なるに從って、他我から示されるものに注意すると同時に、自我意識の上にたって、感情、動機 等の心理現象を學ぶのである。この學ぶ過程は、自我意識︵08090ロ。。昌①ωωOh。・①犀︶と他我認知︵潜≦母①口O器O酷 。爵Φ﹃ω︶との闇の均衡を保ち乍ら、眞似たり、退けたり、して居る間に、自己意識は、 一歩一歩制然とした状態 に登達するのである。これは、ボールデンの云う排出過程︵国審。けぞ。℃居ooo器︶であって、8、漠然と自己と云 う感じをもっこと、この段階では、外界に期し岩見及懸盤は自己であゆ、これは精紳的物理的自我意職である。
第二の段階は、漁る反慮をする、特に他人の前で何かする,時に、自分の身髄は外界の事物と同じに感じ、自分の 感じだけが自己である。又は、他入が自分を封象として反底するときに、その反慮に特別の注意を希うことに依 り自分が他人の反慮に注意して居ると云うその事に写して自分と‘云うものを意識する。これは黒影的自我意識で ある。以上の段階を経て、第三の完全なる自己意識帥ち一切の思想、認識着駅等を先験的に制約することの出町 る恒常的菅平にまで成長磯達するのである。この不易なる自己意識こそ能動的に感情し、意志し、思考する根擦 となるのである。これが純粋自我意識である。この如き自己意識の褒達階程が教育現實に最も大切な要素となる のである。 2、自我意識と他我意識との關係 生物學に於て、細胞は、初め猫署したものであることが明かにされた。その細胞が集團をつくり、次第に分化 し、相互に依存的となり、途に孤立して居っては存在出來ないようになった。こういう細胞が循環組織、神経組 織のような複雑にして精密なる器官や組織を形成し、更に、それ等の有機化された集りが完全に磯達した一有機 龍と進化したのである。 生後、数ヶ月の岳見は、精神物理的自我さえも未だ目畳めない鳥媒的生物であるが、精神の表現血肝である身 禮の成長につれて、精紳自我、純粋自我等の意識自我に稜達する。その曹達の度に態じて、自他の意識が分化さ れると同時に、自他間の交渉が始まる。その交渉が深まり、自然物や自然現象から受ける影響等が加わって、自 我意識の複雑性を帯びるのである。そこに、自ら情感し、思考し、意志するところの常に不易な自己性を保持す 敏育け者の創靴旭性と漣開威性 一一九
教育者の創造性と植威性 =一〇 る純輝自我なる意識がかもし出されるのである。しかも、この自我は、自他聞の相互作用により、その磯際磯展 は止むところを知らないのである。これぽ精・紳叢達の過程である。 この生物學的進化の法則は雲斗の生活盤と云う有機禮にも、そのま﹂當嵌まるのである。即ち、未婚者であっ た個人が、本能に從って夫婦となり、相互の生活保護の爲めに、家庭と云う小集團をつくり、多くの子を創る分 化作用が行われ、二人の集團が異人の集團になり、相互依存の諸作用が展開されたのである。その軍一家庭紫野 が多数集って村落となり、町となり、都市となり、國家となり、雲際耐會と螢達したのである。人類祉會が高度 に有機化された今日に於ては、如何なる人も、如何なる時にも、又如何なる場所に於ても、既に孤立的に生存を 維持することは出雲ないのである。この人間生活の相互依存性即ち肚必要は人間本來の本質の一つであると云う ことに異議はないのである。 3、杜會我と敏育現實 人聞性の根抵に砒會性即ち相互依存性の横たわって居ることに就いては、銑に、理解出來たと思う。ここで、 ﹁われ一﹂即ち多敷の自我の集りの中に於ける自我を砒會我と呼び、その﹁我﹂について少しく分析して置く 必要がある。クーレイ︵OOO一Φ団MO● 国︶の云う[鏡に映った我﹂が、 自我意識の女生であり、 同時に肚叢書の 出磯貼である。印ち、それは、ミード︵冨$90.閏.︶の云う﹁自分に樹する、私の観念は、私についての隣人 りじ の観念である﹂Qそれは、とりもなおさす、自我を客観暫したものであり、眞の自我をそこに叢見するのであ る。眞の自我を三見した場合には、自我を他我に封照すると云う渦程を経て、はじめて、その磯見が可能とな
る。その過程に於ては、獲見のみならす、眞の成長磯達が可能になるのである。そこには、自我の磯見、磯達が 可能であるのみならす、複数自我託ち﹁われわれ﹂の意識をも褒黒し、形成されるのである。この敢鼠壁の意識 が自我と他我間の生きた相互影響の作用を展開する基峯であり、同時に、それは純粋又はなまなる敏育事書を形 成するのである。ボールデンの指摘する眞似ると云う現象と鏡映我帥、ち砒會我とは蹄一をひとしくするのであ る。これを、デューヰ︵UΦミ①ざト︶は、次のように彼の解繹をして居る。 即ち、﹁人間は共通鮎がある故に共 同生活をなし、交通︵OoB日¢艮8江。昌︶の手段により共通の物資を獲得し、共同肚會を組織する妊めに、共同 理解︵OO日置O昌9ロO㊦円馨国昌亀コぬ︶、同類精神︵ピ貯①−日豊O弓田①ωω︶の手段を用いる。::一個人は他の個人が考 えかり、感じたりしたことを聞くことに依り、それだけ、大なり小なり、彼自身の態度を改める。叉、同時に、 ぺ その自己の経験を語る人も、幾分なり共、聞き手から影響を受けるのは自明である﹂個人としても計 會として も、交通の手段により、精神的の生命の蓮績を計ると共に、経駿を更新し、それに依り各個人は進歩磯達するの である。かくの如く、交通は杜會我聞に於ける相互影響であり、敏育手段である。特に、これが成人と未鼠輩者 との關係になると、彼の言う﹁生活の必要としての敏育﹂になるのである。 敏育作用に於て、就會性の重要なることを強調するクリーク︵閑﹃一①Oゲ矯 ]四︶は自我意識と他我意識間の無意識 ゐ 的相互影響が敏育箏實の根底であると云う。それは、直ちに砒會生活そのものであり、その百番の上に、意圖的 にして計書的な敏育のいとなみが展開されるのである。邸ち、敏育作用は意識虚無意識的相亙影響であり、その 基肇は無意識的杜魯生活中に起る自我他我間の相關にあるのである。このクリークが圭署する無意識的複数砒會
敏育誉創造性と樺威性 , ご二
教育者の創造性と横威性 一高ニ 我又は無意識的相互影響なる作用は自我の獲達を進める上に、極めて根本的にして重要なる根擦である。この鮎 に關して小林澄黒氏は特に﹁形成されながら形威する﹂と云う見解をもつて詩論が試みられて居る。 4、相互影響の起る根猿 意識的にせよ、無意識的にもせよ、自我と他我間に相互に影響する事實の起る根嫉は何虚にあるか? これに封ずる答案は、先づ、?幻原理そのものである。 帥ち、第一は人間の根本的本性の一つである外界からの刺戟に督し注意し、それが快適又は生命保存に必要なも のならば、之を受領し、不快にして、又、不必要なものならば、之を排退する。これを本能の立場から見るなら ば、好奇、自己保存、模倣等であり、否定さるべくもない。第二は反胃する本能である。人間は意識的に無意識 的に刺戟に齢し反射的に、又思考の後に磁器する。これは反憲、適鷹又は無慮本能である。第三は生後一ケ月頃 から始まるさまざまの表現作用である。純粋自我意識の始まる頃から、自己表現の要求は旺盛となる。それは、 先づ、身空的表現に始まり、次第に精紳的、知識的、美的方面への表現と叢達して行くのである。手段としては 動作、感情、言語等の媒介に依るのである。特に言語は最も有力な手段でその方法も種々ある。これは表現、傅 達本能であるQ かくの如く、人聞の本能的なものの上に、人間は相互に作用し、影響するのである。そこに教育現業を可能な らしめる種汝なる要因が深く、又篤く存在して居るのである。特に成熟者が未成熟者に直接作用し、形響すると 写うことは、敏育現實の本質であり、血の通った生きた力學的な鋸盤の一つである。
二、敏・育現實に於ける敏師の創造性 既に、序節で述べたように、敏育目的を實現する爲には、その本質的具膿として、教育者の人間としての在り 方がその基盤であるとの見解は動かし得ぬものである。しかも、理想像に封照しての敏師と云うよりは、教育の 場に於ける、日常、無制限に展開される敏育現實又は活動の中に現われて認る普通の敏師の姿::と云っても、 それは被害育者とともに苦しみ、ともに樂しみ、ともに言習し、ともに威長ずる人間としての敏育者の姿であ る。 普通の轡師の姿。これは、前にも蓮べたように、普通の人間生活をする人間界師の生活である。その彼は、人 闇としての唯物的な一般杜會の通念的な規定性から開放されるわけにはいかない。彼は、この通念的な仁恩規定 のうちに在りながら、他の多くの異った職に從愛する人汝とは、自ら異った、自己の圭⋮燈的使命観をもつて、敏 膏屠標の實現に向って、易々として不断の努力をして止まない姿である。 彼は、教室に継て、肚會に於て、家庭訪問に於て見聞し、接黙するあらゆる人間關係に於て敏育問題を意識 し、把握し、最善の技術を用意して、誤った三池と治療をほどこさない決意を持つ彼なのである。叉、彼は、絶 えず、敏育目標を意識し、吟味し、健全なる人生観を維持する爲に常に哲學する彼である。他面に於て、彼は敏 育目標を呉現する爲に、未熟者の正確な實膿を捕え、最善の技術を墨差する力、自由にそれを騙堕することの出 弄る技能と診断結果を正確に解輝する洞察力の持ち圭である。少くとも、かくの如き力をみがくために瞬時たり 教育脚者の創吐氾性と糠憎威性 一二=一
教育者の創造性と構威性 一二四 とも惜しんで努力する敏師である。 言忌愛は教育現實の根源であると共に教師の本質的性質である。普通の多くの今日の敏師はこの愛を自己の中 に奥深く自蔵して居る故に使命観に着たされ、職場に生命を賭して居るのである。第二次大言後の日本のどこの 小學校へ行っても、そこには、復員敏師又は、その職について間もない先生の間に、教育の使命観に徹した多く の先生を見出したのである。勿論、教職の永い経歴をもつた先生の中にも、 こんな先生は相輪激居られよう。 近年、敏育者の本質的性格を考える時、著者の謄裏に、直ちに往來するのは學校法人須磨浦學園小學校のW先生 である。撒年間にわたり、二人の女見を彼に托した。保護者とし,て、然し、著者の敏育的立場から、彼の無意識 のうちに、多くの資料を提供していた壁いた。この小論文はその資料に依ったもの、又は示唆を受けた部分が非 常に多い。彼は五十歳を越える教育者であるが教育的情熱も成長も未だに旺盛である。二人の識見はその期に於 ての十二分の褒達を途げ、人生の基礎工作に健全なものが導き出されて居る。 1、教育診察力と治療手腕 近代の如く、親臨が分化し複雑性をおびるに薄い、教師は教育の詰問技術を無溢しては職業人としては成り立 たない。又、 一概に敏育技術と云っても、教育の封象、時、場面等により、使用すべき技術の種類、度合等が相 違しなければならない。何故ならば、後に述べる教育場は、 ストラトマイヤア︵ω梓目”けbP①︽①壇噂 団● 切・︶が指摘し ア て居るように、極めて複離した性質のものである。又、同時に、この場は、ンヴン︵眉①≦冒讐閑・︶が、場の原理 さ で詮明して居るように、圭龍の内部情態と環境的全燈の事情との間に行われる作用であるπめ、場は常に攣評す
るものであるからである。 立って、敏育現實の起る場は個性的︵剛鄭島一く一山昌鋤一圃ωけ凶O︶であり、特質的︵Oげ餌﹃β。08二馨冒︶である。特に與え られた場は敏師自身を含めた力愚書構造をもつて居ると云うことが最も重要な意味づけをするのである。か﹂る 場の連績である敏育に観ては技術は決して固定化されたものではなく、維えす改造帝展すべき性質のものであ る。 かくの如く、教育現實の起る場に於て、最も大切な要素は敏育技術と云うよりは、技術を選定し、改善する制 欲力、邸ち教師の教育診断力、洞察力、又は聰明さである。正しい観察と深い理解の出煮る淵叢は叡智である。 正木氏は、これを敏育的叡智と呼び、次の三つの理由で蟻封必要だと蝿帰して居る。帥ち、 一、﹁敏育の現實的要求というものは個々の分析を容れ得ない複写な形態をもつて現前するものである。::佃 々の事象の背後には多くの人偽悪係が振がつているのであるQ現實の総髭問題に志し、解決の方法を與えねばな らぬ時には、全盤の蓮關をとらえていかなければならない﹂〇 二、教育的な問題においては、その解決の方法をおくらせることが許されない場合があると同時に、又、その解 決の方法をおくらせねばならぬ場合とある〇 三、教育的解決方法が充分に、そして警部に効果的であったか否かの判定の困難の場合が多い。合理的にして効 果的な教育方策を決定する事は極めて必要なことである。 .薯者の僚友大伴博士は、未熟者の生活を知能、學⋮業、特殊能、性格、身盤、就璽・状態及家庭歌態の七方面から、 教育者の創造牲と樺威性 . 一二五
教幽目者の創批思性と濃 威性 一二六 出山るだけ統制された加平的技法左以て槍黒し、彼として﹁正當な生活﹂をしていないなら、どの方面に、どの 程度に、どのような歌態に於て事項があるかをつきとめることが教育響動であり、その訣陥に封し、﹁正當なる リワ 生活﹂をいとなみ得るような場に置こうとするのが教育治療だと云って居る。教育現實の起って釣る場で、敏育 封象である生徒の猷陥をつきとめる知性、正當な生活を螢み得るような場をつくる知性が、教育診断、教育治療 の圭禮的必須要素であることが観察されると思う。 以上により、敏舟場に於ける敏育者の立場が如何に重要なものであるかと購うことについては理解出來たと思 う。敏育集實は常にユニックな性質を持ち、從って百%単層に導く爲には、亦、ユニックな方法が要求されるの である。決して柳の下に、常に、どじょうは居ないのである。然かも、その敏育現身の中には未熟者と共に教師 が躍如として存在して居るのである。さきには威呈した教育技術であり、敏育方策であっても、次の場では不満 足なものとなろう。叉、さきには正時な生活場であっても、次にはそれは正當な生活でないと云うことになるの である。それは湘敏育現實がかもし出される場は、常にユニックであり、流動であり、非合理的複難そのもの であるからである。それ故に、現われ出た被鞠育者の敏育的實膿を正確につきとめ、すべてをかけて効果的な虞 置をせざるを得ないのである。墨継をつきとめる爲に如何なる道具と技術を選ぶべきか、治療に當って如何な る刺戦を與え、如何なる環境に置くべきかと云うことの決定は、その教育場に於ける教育者即ち画師の圭盤的な 診察力と治療腕に侯たねばならない。その診察力と治療手腕とは、目標をもつ教育活動から観るならば、それは 方向づけであり、改造であり、生産であり、亦、創造でもある。云いかえるならば、敏育場に於て、教育現實と
旧臣取り組んで居る敏師にはより高い教育効果をあげるためにその診察力と治療手腕を要するのである。この力 と手腕を磯直せすしては教育作用は聯痺状態に陥るであろう。敏育効果は、敏師の負うる診察力と治療手腕にか \つて居るのである。この教師が用うる力と手腕は敏感の中椹的本質を形成するのである。 2、敏育者の創造的知性と人生観 前節に述べたように、敏育現象又は現金の磯生する場は極めて複雑であり、個性的であり、又、特殊的な性質 のものである。それな被教育者を園む全髄が影響するのみならす、其の時に於ける彼の内的な七二歌態が作用す るからである。この場に於ける彼の滑石を面輔するには、第一に如何なる道呉と技術を使用することが最も正確 な素材︵U讐櫛︶が得られるか、第二に、その得た素材に如何なる解繹︵一暮。弓﹃o欝二〇旨︶を加えるか、或いは得 た素材の信感性を先ず吟味するか、若し信頼性が低い時には、改善されお道具と技術を用いて素材の選集をする か、第三に、疑惑に基いて如何なる言置をするか、帥ち敏材と刺戟と環境の石槍討をして不必要又は有害なる要 素を除去し、必要なものを加附する。第四には、改善された虞置に於ける現實の結果を吟味し、場合によって は、更に異った虞置をする心構えをする。第五には、 一二効果的な反慮を得たならば、より効果的な遠慮を得る ため次のよりよき威置を準備する。かくの如く、薫育目標の實現に向って、敏師の用いる知性は泉の如く全く無 墨藏であの、如何なる教育現實に僻しても最善の効果を得られるように知性は臨機愚答の活動をするのである。 この卜師の知性の活動は創造的性質を持つたものである。帥ち、蓄えられた素材に教師の知性を働かし新しい要 素を加えて被敏育者に潜在して居る可能を導き出す作用である。これを敏師の創造的知性と呼ぶのである。この 教育者の創造性と櫃威性 一二七
教育者の創造性と椹威性 一二八 知性を被教育者との關係に於て分析するならば、一面に於ては、高度に褒達した知性、慣値に封ずる安當な判断 の出來る聰明さ、生命と絶封者との安田なる相々等、程度の差こそあれ、未熟なる被激育者に比べれば遙かに高 い綜合知性を教師は所有して居るのである。これはシュブランガアの所謂理論的人間である。 他面に於ては、被知育者と同一水準に立つ協同者として、その若き生命を共生し、その生命に浸透しながらより 高き目標の實現に志向するのである。 これは、教育的創造知性の側面圖である。 槍診と治療の結果が合致しないとき、教育的創造知性は一段とその質、量ともに増大される可能性はあるので ある。又、合致したときと云えども同様に増大する。何故ならば、それはその時だけに通用する性質のものであ って、その次の瞬間には、その場に適々する知性が必要に迫られるからである。これは要するに、教育的創造知 性なるものは、決して恒常的に固定した性質のものでなく、敏育者の人間としての在り方が常に進展成長すると 共に成、不威の敏育作用を通じて進歩増大するものであるからである。 この教育的創造知性の成長と云うことは、軍師の入間としての在り方に極めて重要な帥ち彼の成長の基盤とな って居るからである。診察、治療の教育経験は教師をして敏育的確信を得せしめると共に創造知性の威長を促進 せしめる結果となる。 さきに蓮べたように、大件氏は被敏育者の槍診を七つの方面からすると云う。その中の性格方面には遺偉、馨 學等方面も當然加えねばならぬ場合も起り得る。否、當然加えねばならぬであろう。又、宇宙に於ける絶筆的存
在と被教育者間の花曇女係も診ねばならぬ場合もしばくあるのである。これに依り、容易に理解出來るように 教育診察と治療とは人間生活の全領域に交渉を持つのである。特に、肚會性、唯物性、︷同罪性等は人間の本性で あるからである。教育作用の経験を重ねるに濃い、敏師の槍診硯野は次第に擾大されるのである。生活に封し、 人生に淫し、教師自身の経験は偉大なる先哲より纏達した文化遺産の先食を受ける事により、損大され、基礎づ けられる。かくして漁師の人生観、世界観は健全なる基盤の上に、いやが上にも充實されるのである。利己を克 .服した無の心境に於て、その職に鰍汝と波頭する前述の須磨浦學園のW教師の姿の如きは、けだしその典型的存 在である。 教育的創造知性の戸長磯達は、軍に敏師の人格の成長を促進せしむるのみならす、彼をして、彼を園む肚會に 於ける教育問題に頗る敏感たらしめるのである。・又、同時に、彼は愛校、就會を問わす慰書目標に封ずる意識が その鮮明度を塘し、敏育場に面しては想像以上に情熱と實行力が下獄されるのである。 以上で自明の如く、圭として教師の立場から観たが、唐傘場に常に登場する普通の今日の教師が、黒磯起って 來る教育現象に煙し、誠實と健康とをもって、取り組むならば、教育目標を達成するには、如何なる技術を、何 時、如何ように駆使するかと云う工夫が絶えず、凝らされるのである。この工夫をすると云うことが創造知性で ある。創造知性は人間の他の職場にも敏くべからざるものである。・それが敏育場に適鷹された時、それは七型的 創造知性として、敏育學の本質的基盤となるのである。更にこの知性が教師の経験と、文化遺産の洗禮を受けて 成長する時、教師の人格と人生観はその成長に正比例するのである。
敏育者の創造性と穣威性 、 一.二九
敏育者の認造性と椹威性 一三〇
三、敏師の権威性
・帝威と云う意味は、ここでは、眞理と云う露盤から受領する主観的感情であると述べて置くことにする。眞理 の實盤とは絶封便値であり、最高の便値の具現された姿でもある。樺威は磯散されたり、示されたり、命令され たり即ち強制されたりして現れるものでない。それは、権力、威力、宣言と云うような意味でないと云うことを 前提としたい。それは、親である故をもつて子に封し権威をもつものでなく、面面無利己的愛の具現者としての 父の姿から子が受ける紳汝しい印象叉は感情である。又、それは、敏師は彼を超越する一つの偉大なる道徳的人 格の註繹者であると云うことをもって教師は権威を持つと云うことにはならない。彼の偉大なる画格に接する彼 の生徒が彼の人格に封して持つ面面、信頼等の感情の綜合膿が梅威の實禮である。或いは、亡者が彼の專門とす る學叉は技術についての最高の知識、技術を持って居る故、世間で通俗的に彼は権威だと云うが如く、又は、権 威が生じたと云うが如き性質のものでもない。學者が持つ最高の知識、技術、人格等に封し、彼に接する人々が 受け取る奪敬と云う感情だと云い得るのである0 1、矛盾の肚會に於ける敏師と樺威性 敏師は砒會を構威する各個人の成長褒達を助成し、祉會機構の維持磯展に軍要な役割を演ずる敏育と云うはっ きりした仕事に妬しての責任者である。謂わぼ、教師の冠會に於ける役割は極めて大である。裁って、敏師に封 ずる千曳釣地位評便捻通念的に億高いのである。この見応釣地位、馬上は、その批會の文化水準のバロメークアである、と同時に、そのバロメータアはその融會の歴皮的規定に制約されて居るのである。 敏師の権威性と云う問題を取りあげる時、今述べた現在敏師が置かれている翠霞の歴史的規定と、第二に、前 項で分析した敏育者と被教育者間に起る相互影響、教師の教育的創造知性及人生観の成長段階の心理的原理を基 礎條件とせねばならぬ。 日本に於けるように、國民が有史以來はじめて経験すみ敗戦の混齪至恩に予ては、教育者に課せられた使命は 實に重大だと云わねばならぬ。この秋に當って、最も重要なことは、世界皮的観鮎と非利己的世界観に立脚した 教育哲學の再槍討は最も急を要する業であると思う。それは恰も破れた猫逸國民に暫し、租國再建を憂慮しなが ら﹁猫逸舌鼓に早う﹂と毅然として叫んだフィヒテの心境に近いものを感ずるのである。今日の日本の敏育者は フィヒテの如き信一念に基いて由敏育協心潮、山教育り目標、敏育課程、教育指導、學級及墨・校経欝、肚會宙教育上教育り脳槽鳳、 制度組織その他諸々の教育面の革新的探究に向って員摯なる努力がつ穿けられて居る。 然るにもか㌧わらす、旧藩期にある枇會の常として、教師の装置的地位評債は、一般的に、悲劇的な現象を示 して居るのである。この現象は、勿論、客観的事態に原因するものであるが、叉、同時に、業師の圭禮的内面の 世界にも深く影響を及ぼして居るのであるσ日本教職員組合は、その教師の倫理綱領に、廣義にもせよ﹁教師は 勢働者である﹂、﹁教師は敏育の自由の侵害を許さない﹂と宣揚せねばならぬ所に、悲劇の影響の一面を雄辮に物 語って居るのである。この悲劇的矛盾について少しく考えを進めることにする。 既に述べたように、敏育者は、=画に於て彼と被教育者間にかもし出される相互影響なる心理的杜會的﹁間柄﹂
教育者の創造性と椹威性 ;二
教育者の創造性と梅威性 一三二 を形威すると云う精神的交渉が生するのである。他面に於ては、祉會の丈化逡産を傳達し、創造し、文化心墨を 維持すると云う、歴史的黙黙的機能を果さねばならぬのである。就會一般はこの機能を果す能力と知性と人格と を導師に要求し、又、認知して居るのである。これが屡々教師の仕事が聖職と呼ばれたゆえんである。然るに彼 は一般肚裏人と同じように生活の資を獲得して行かねばならぬと云う現實に面し、種々なる條件の下に比較的低 い生活野卑に止むなく置かれて居るのである。しかも、彼等がより高い生活條件を得ようとの努力も教職員なる 故をもつて政治的、賢母的制約を受けるのである。強いて高い生活を望むならば縛照せねばならぬのである。こ れが第一の悲劇的矛盾である。 第二の悲劇的矛盾は、豊里一般は教師を聖職にある敏養と高い知性の具現者であるζとを期待し乍らも、他面 に於ては教師なる職業に魅力と希望を持たないと云う彊い傾向にある。それは﹁會肚、銀行に就職出來ねば止む を得ないから學校の先生でもやる﹂と云うのが近代の大學卒業の學生等質である。 第三の矛盾は、敏師は止むなく低い生活に甘んぜねばならぬ。教師の仕事は心と心、魂と魂との接鯛を含む人 間製造の精神事業であり、嚴密なる意味に於ては物質的報酬では殆どその測定は不可能である。然るに、肚會に 於ける一般評慣の標準は貨幣に依る計度によりなされて居るのである。物質的報酬が低いから一般には敏師の聖 職に養して低い償値付けをする結果となる。ここに、常に深い問題が潜在して居る。その中でも、最も憂慮に堪 えないことは、素質的に教師適格者を除いては、眞の教育者の卵が曜化出愚ないことと、有能なる敢師が韓博す ることである。これは敏師の現實と肚會の彼等に封ずる態度の關係が彼等の動揺を題した結果にす婁ない。
第四の矛盾は、教師の個人差に基因する能力の差異である。敏育者が置かれて居る敏育目標の達成と云うこと は、各自の能力と努力は長年月の期間には非常に大きいギャップを話すのである。そこに多くの問題左残し、激 育の仕事を複雑にする。現代の敏師の多くは自己のペースで歩もうとしない。 第五の矛盾は敏師の⋮悩みである。教育に使命を宣え、日夜必死の努力をつすけて居る教師の反省から必然的に 生する當然の産物である。それは自己の現實の姿と理想像との間隔の鹸りにも大きい矛盾を反省し、自畳から來 る携みである。けだし、この矛盾は望ましい矛盾であるのである。 以上、敏師の置かれて居る肚會の客観的事態による悲劇的矛盾性及彼等の圭罷的内面の世界から生する矛盾性 について分析して見た。かくの如き融會的身分の敏師は果して彼等の構威なるものを保持出來るだろうか。 前述の如く、権威なるものは、自己なる霞継側からは無爲の性質のものである。邸ち、樺威の締盟の表現手段 が特殊である。それはどこ迄も示される性質、立ち積極的なものではなく、消極的な性質のものである。 客観、圭髄の何れを問わす、教師の面する矛盾性を解決する途は三富に分けられる。その一つには、他の職業 にあるものと同列に敏職を置き、薫育を專問的職業として大いに技術面を階調し、枇會機能としての役割を完逮 するこどである。かくすることに依り、杜會的な悲劇矛盾を解決することである。その二は敏師は敏職は聖職に して祉會的矛盾の如きは意に介しない超然態度を取り、獣六とその職に精進するζとである。仙人の生活態度で ある。その三は、現在最も要請されて居る敏育哲學に徹することである。帥ち教育の本質である敏師の倫理に生 きることである。 敏育者の創造性と椹威性 =二三
教育者の創造性と櫨威性 一三四 解決の一は重りにも現面的で教育の本質的なものとの矛盾を招冒し、教育を根底から動揺させる危瞼性が多分 に包含されて居る。この解決方法には教師の権威と云うことはおおよそ望めない事であるQ解決の二は籐砂にも 非柱面的で極めて少撒の限られた敏育者のみが實如露留ることである。のみならす、生活教育を行うには幾多の 困難に出會うことになる。解決の三は敏育における理念的性格、その使命観的な自畳に立って、迫り止る悲劇、 矛盾、それが客観、圭観を問わす、を超えて、身をもって教育目標の實現に遭進ずると云う数育者の人生観の上 に立つことである。それは、正木氏が云う﹁教育の天職意識と同時に、京師の悲劇性二元性を充分に自畳し、し バリ かもこの悲劇を自己の蓮命として積極的に引きうけんとする態度である﹂。 かくの如き圭観的自暴に立つ時、情 熟も創造的知性も旺盛となり、内面的形成即ち教育人格は修錬される結果となる。そこにはじめて悲劇も矛盾も 少くとも解決の糸口は客親的に提出されるのである。亦同時に、教師の権威なる問題も本質的に主禮的に解決さ れる結果となるのである。 2、相互作用に表われる教師の樺威性 教育現實成立條件の節で述べた様に、自我意識は外部から受ける影響と内部的に形成されて居る意識との作用 で新しい自我意識が新しく形成される極めて複難性を帯びたものである。教師と學啓者と結び合うと云うことは 教師は外部からの影響であって、叉、敏師も懸盤者からの影響は外部からであり、相懸に影響する作用である。 これは、如何なる意味からしても、教育の中核である。教師と生徒が直接ふれ合う作用である、この作用により、 生徒は感情し、意志し、思考して自己なる性格、人格が形威されるのである。別の表現をするならば、生徒の側
から、相亙作用と云う現實過程に於ては、生徒は教師の精神生活の中に入り込んだことである。生徒は、か﹂る 渦程に於て、一癖安定感を味わい、次の外部からの影響を待機の態勢にあるのである。これは生徒の教師に依存 して居る姿であり、鏡映我の姿である。然かも、それは無意識的な相互影響の情態である。而も、この状態に於 て敏師の創造的知性は遺憾なく働き、生徒の成長に資することであろう。又、同時に、教師も相互作用の原理に 論い威長ずるであろう。かくの如き態勢に置かれた生徒はその教師に無し信頼と尊敬の念を意識の中に、無意識 の中に催すのが常である。之が脚ち本來の敏師の梅毒である。 更に敏師の側から相互作用の過程の中に羅如として現れる教師の姿を少しく分析しよう。もともと、教師はよ り高き教育効果を墨・ぐべく精進して居る。相互に作用する過程に現れる生徒を診察し、創造的知性を動員してデ ェータァを吟味し解繹を加えて最善の治療を施して居るのである。それは全く無我即ち自己を無にして目的途行 に没頭して居る姿である。他面に於ては、生徒なる封象から影響を受けて更に威長して居る姿である。彼には生 徒に叙し、権威又は絶封優性感を示す又は與えるとの意識は毛頭ない。キルパトリック︵閑出b暮ユ。ぎ♂<●出ピ︶ ︵隅︶ の云う、﹁只、彼の天賦の業に生きて居るに渦ぎないのである﹂。即ち、生徒の成長の爲め敏師はよき刺戟であ る。そのよき刺戟たらん温めに生徒に直接々鰯することにより敏師自身成長して居るのである。この姿は彼は彼 の職業を天職と心得、字宙の原動力である絶封債砂嚢から輿えられた使命であるとの強い自畳に基いての姿であ る。この姿を目のあたりに見たり、鰯つたりする生徒が感受するものが三百の権威である。 この敏師はあ﹂したい、こうしたい、こうありたい、あ﹂ありたくないと曇うような取り越し苦勢の態度では 敏育者の創造性と樺威性 一三五
教育者の創造性と櫨威性 一三六 ない。それは、むしろ、忘我鄙ち佛敏で云う﹁無心﹂とも云うべき、立面の事に一心一ぱいにか﹄る態度であり、 自己なるものを超え、自己なるものを捨てた境地である。それは、神とか佛とか言言便記者の意志、力が彼の内 に流れ込み、それが旺んに活動して居る状態である。人間としての敏直黒の個性なり本質がその状態にあらわれ て居るのである。さきに述べたように教育的診察力、治療手腕の基底である知性は確かに創造的性質のものであ る。その創造知性が無我の境地に於て自由自在に活動する状態は敏育者の業でもあるが同時に、それは今古的境 地に於て行われる業である。このように天職として生きて居る教師の姿を分析するとき、教師の権威なるものが 生徒の魂の中に獲生する根源が明瞭になったと思う。著者は再び次のようなことを強調するであろう。個人的利 釜、名巻心等利己中心的なものが無意識な中にどの位でも動いて居る間は如何に各論的診断、治療、創造的知性 が優れて居っても、そこには敏師の眞の椿戯と云うが如き要素は焚生することは、心理學的構造上殆んど爪可能 なことである。何故ならば、ブルウバアチア︵脚吋口σ鋤﹃O一PΦ瞥鴇 ︸。 ω●︶が云うごとく、神の業の一応分を責任をも ︵13︶ つて途行ずると云う哲學のない敏師には人聞形成の本釜の仕事は出面る筈はない。 3、民圭的教育場に於ける教師の榛威性 次に、相互作用の行われる薫育場に於て、治療の基底をなすガイダンスの過程に於て、現われる教師の模威に ついて、少しく分析をせねばならぬ。 學習を目的とする教育場に於て、特に生活敏育に就いて敏師と生徒は互いに伸びる爲めに一禮とならねばなら ない。バワア︵じ口◎毛Oき♂<.ρ︶はこの關係を﹁正看責任を分蔵﹂叉は﹁學暫の協同計︻會︵090慰O鑓菖く㊦Oo日−
び a口相公9聾。δ鋤言葉墜q︶と表現して居る。學習の内容を決定することも、その内容を分析することも、身骨も、 寝鳥も、學脅結果の扱い差等もすべてそこに集った教師、生徒の討議により取り蓮んで行くのである。故に、か ﹄る學暫⋮場に於ては討議、報告が學脅の圭たる方法となるのである。又、その學町場の指導原理はデューヰィが 云う債値に封ずる協同精瀞である。そこではお互いが全く自由な、準等な、主観的から客観的撒態に於て物事を 考え且つ學ぶ状態と雰園氣を創り出されるのである。そこでは、敏師は言えるのではない。器量集團のうちの有 力なる一員である。生徒にも敏師にも、その場は眞理の實罷を協同で探究する場である。協同探究の過程の中に 切っても切れない人間關係の威立がかもし出されるのである。 この場合、教師は火付役であり、調整者であ砂、完結者であり、叢誌技術者であり叉討議の中心的指導的な存 在である。 これを生徒の立場で見る時は、ローヂヤス︵幻。ひ亀。同ω悔ρ菊・︶が裾張する、 生徒は専問家から示唆された條件 ハお により自登的に決定し、虞置をする、と云うことになるのであるゆ この教師及生徒の立場は、今日最も強く叫ばれて居るガイダンスの中橿的實膿である。かくの如き人間關係に 於て、激師の権威性なる現象が随所に現れるのである。 結 以上、敏育の本質問題である誉者者に尊し、その創造性と権威性を信書と云う事實の中にとらえて少しく分析 教育者の創造性と権威性 一三七
教育者の魁三二と椹威性 . 一三八 吟味して見た。勿論、この二つの因子で教育者の實盟は明かにさるべくもない。次章に於ては敏盲愛の分析を進 めよう。 文 献 ①じdo嵐惹p旨ヨこ↓冨ぎ巳三α¢巴帥ω09。曙しり旨竃三目凶=塁切・b。O︷. ②Oooδざρ国■矯ロロヨ§冥舞霞。俸↓9◎08芭oaΦ56ぎ冥。。G。. ③護①巴℃ρ頃こ、、↓冨護09§δ日ohω06芭Oo諺。δロω器ωω.、℃冒oh℃三5鴇℃望9ρ節qD9①導δo竃。島&ω”同日b。 一× 心OH−Hり● ④望≦①ざ匂・し︶oヨ8冨建露国αξおδL≦8日崔9ロ℃弓●ω’H㊤h. ⑤国話ざぎ団4卑N凶。げ⑦ヨαqω眉ぼδω8三ρH80︵稻融解次郎、佐藤正夫共課︶℃戸ω。。ム①. ⑥ 小林澄兄、教育學概論、 一九五︸、瀟村書店、三章 ⑦QD胃葺旨①器さ聞。鱒”輿卿冨。閃δ唇U①<巴8ぎαq>6霞円.ho円ヨ。Ω.い才ぎαq”Hり偶メ薯.㊤㎝︷. ⑧ いΦ≦一旨輸︸︵己℃﹁一旨6圃匂一①ωO︷一門OOO一〇ぴq帥O”一娼ω曳OげO.HOω① ⑨正木正、教育的人間、同學融、昭二八、八頁 ⑩ 大俘茂、最新敏育診断法、 一九五〇、母之友砒 ⑳前掲、三二頁 ⑫国=冒け二。F≦●国こ国含。㊤菖。白雪ωo島巴Oユ臨ω﹂OもQ・。鳩=<Φ二αq卸・薯.﹃Oh. ⑬切≡ぴ8冨び冒ωこ目糞℃ロ三8ω魯8δ節9三ε僧一く巴まω戸O庫●月潟弓Φび。ぎ℃梓ω.固くく. ⑭じdo≦興℃芝.PO冨憲g巽↓ξo轟ゴ。話舞納くΦ国尊。ユ魯8・6ωOo霞。品oFo・.おト⊃時・ ⑮因。σq曾ω℃ρ幻‘、、臣くΦ蹟①暮↓おロ傷ωぎζoけげ。房。︷一旨只。<ぎσq︾&易隔日Φ暮..頃長く母儀国9. H⑩畠 娼・卜oO㊤ P 幻①︿。×︿一一一昌O.冷