はじめに
本稿では,明治大正期に日本の女子体育の担い手であった井口あくり(以下,井口と略)の女子体 育観の特色を明らかにすることを目的とする。
日本の学校教育において女子に対する体育指導が本格的に扱われるようになるのは,1895年の高 等女学校規程の制定以降のことであり,体操科が高等女学校の必須科目となって,以降,急速な定着 が進んだ(1)。この背景には,日清戦争(1894-1895)以降の戦争の影響が指摘されている。それは,
当時の政府が,日本人の身体の矮小さを痛感し「強い母でなければ強い子は産めず,ひいては強い国 家をつくることはできない」(2)と考え,女子体育を振興し,健康な母,健康な国民の創出を試みたと いう指摘である。ここでは,国家主義の観点からの女子体育の導入の観点から,井口に注目した考察 を行いたい。
井口は,「日本女子体育の母」(3)と呼ばれ,日本の女子体育史においてその理論,実践面において 重要な役割を果たしている。井口以前における女子体育論者としては,細川潤次郎(女子高等師範学 校校長,華族女学校校長),高橋忠次郎(東京女子体操学校―現東京女子体育大学,設立者の一人),
成瀬仁蔵(日本女子大学設立者)等の男性が存在する。ここでは,女性自身が直接,女子体育の指導 に携わり,その理論化を試みたという点からも井口に注目した。
井口に関する主な先行研究として,木村吉次(1965),川元美緒子(1994)がある。木村は,井口 の女子体育論とその教授法について考察し,女子体育の可能性を追求した人物と捉えている(4)。ま た,川元は井口の女子体育論を,女子体育の方向性,教授法,運動服の改善,栄養の改善から検討し ている(5)。本稿では,それらの先行研究を参照しながら,井口の女子体育観を,国家主義と婦徳の 涵養,教授法,「身体の健康と運動のための衣服」という意味での着衣観念,体型意識,から考察を 試みたい。
1.井口あくりの経歴
井口は
1870
年11
月22
日,父 秋田藩士の井口糺(1843~1905),母ミエ(同藩村上東吉長女,1847~1913)の二女として秋田県南秋田郡秋田(現秋田市)中亀ノ丁上丁十九番地に生まれた。秋田
師範学校を卒業後,1888年に高等師範学校女子部(6)へ入学した。卒業後は同校の付属高等女学校訓井口あくりの女子体育観
鈴 木 里 歩
導,さらに山口県の私立毛利高等女学校教頭を務めた。その後,富国強兵政策下での女子体育研究の 必要性から政府の命令を受けて,1899~1903年,文部省留学生として米国で女子体育を研究した(7)。 留学中はマサチューセッツ州ノーサンプトンのスミス大学にて生理学と体操科を,ボストン体操師範 学校にて生理学,体操科,解剖学,遊戯,舞踏,按摩を学び,ハーバード大学での夏期体操講習会に 出席した。
1903
年の帰国後は女子高等師範学校にて国語体操専修科主任教授を務めた。1904年には文部省か ら体操遊戯取調委員に命じられた。委員は沢柳政太郎,川瀬元九郎,高島平三郎,坪井玄道,三島通 良,井口あくり,波多野貞次郎,可児徳の8
名であった。1906年1
月には委員会による調査報告「体 操遊戯取調報告」の内容が官報で公布され学校体育の統一方針として定まった。この報告書の中で,井口はスウェーデン体操の導入,女子体操服の改良を提言した。1906年には著書,『各個演習教程』
『体育之理論及実際』が出版され,社会に普及した。井口は
1909~1911
年,皇室御用掛として富美宮 允子内親王(後の朝香宮鳩彦王妃)と泰宮聰子内親王(後の東久邇宮稔彦王妃)への体育指導を嘱任 された。結婚して全ての職を辞するが(1911),夫の病気により,その看病と小学校訓導や家庭教師をしな がらアメリカ,台湾,イギリス,日本で生活した。その後,1923年からは,秋田師範時代の同級生 や教え子の求めに応じて,東京高等実習女学校校長となり,1931年
3
月,61才で死去した(8)。 2.国家主義と婦徳の涵養井口あくりの女子体育観を捉える際に不可欠なのは,国家主義と婦徳の涵養の視点である。
井口は女子への体育指導について「さて女子の体育につきましては女子は今後精神身体共に健全に して立派なるところの日本の国民を産み出す本であります,して見ますれば女子の身体というものに は一層気を付けていかなければなりませぬ」(9)と述べている。
ここに,井口の,体育によって女性の身体を健康に保つことが,「優秀」な国民の出生につながり,
国家が「安泰」となる,という国家的見地が見てとれる。先述したように,当時の女子体育振興の背 景には,健康な母による健康な子,健康な国民の創出という政府の意図があった。井口の女子体育観 もその点は一致したものであった。
井口における女子体育観と婦徳の涵養(10),良妻賢母の育成(11)との関係である。
当時の社会では,女子が体操をすることは「お転婆」であり「婦徳に欠ける行い」と見なされてい た。その実態は,以下の記事に読み取ることができる(12)。
『婦人画報』と言う雑誌の第一号に,スエデン式体操とて女子高等師範学校国語体操専修科生徒,
井口教授に就てスエデン式体操練習の光景と言える奇妙奇体烈の体操を実写したもの二面を載せ てある,一つは中腰になって両手を左右に延ばして居るのだが,醜女の寄合であるから,あたか も凡人の磔刑を並べた様だモー一つは此模写図の通り四人づつが大地に手をつきて腰を延ばして
居るのである,斯様なブザマの体操をやらせて何にするつもりなのだろう,夜這の練習か,亭主 を押し付ける練習か,さもなくばお茶ひき臼を回転する練習か何にしても馬鹿馬鹿しい練習であ るワイ,近年追々と女子がお転婆になるのも無理はない,これが高等師範だもの(以下,略)
この記事は,井口が行ったスウェーデン体操を紹介し,揶揄し,批判するものであった。井口はこ れに対して,以下のように反論している(13)。
女子の体操と言えば,世間ではお転婆だ,婦徳に欠けるとか何とか有仰いますが大誤解です。
元々体操は生理的訓練的のものでありますから,却って行住座臥の動作にまで節制を与えるもの でありまして,身体を強健にし,意志を確固にして婦徳を欠くどころか,反対にこれを養生しま す。真正の賢母良妻が出来るのであります。又母親の体格が好くなければ,健全の子供も出来ま せぬ。
上記からは,井口が,女子体育への批判に対して,身体を強健にし,婦徳を養生するという主張を 読み取ることが出来る。それは,女性が身体を強健にし,体格を改善することが,健全な子どもを産 み育てることにつながる,という筋道から説明されていた。
3.教授法
次に教授法について考えてみたい。井口は,当時行われていた女子生徒への体育指導の実態につ いて「女らしく女らしくと言って体操だか遊戯だか分からぬグニャグニャしたものを教えて」(14)いる 点,「女が手なら手を延ばすときに十分延ばせば延びるものを延ばさせぬで置く」(15)などしている点 を問題視している。女子生徒向けの簡略化した指導の継続について,「それが癖になって終に女には 出来ぬということになったのであろうと思います」(16)と述べている。
「悪循環から抜け出し」,女性の身体をより強健にするためには「男の方々が女に体操など教えて下 さるにも余り遠慮をなさらずに十分にやらして頂きたいと思います。」(17)と述べている。この発言は,
当時の女子生徒への体操指導が主に男性教師によって行われ,指導内容も女子生徒むけに簡略化され ていたことへの異議申し立てであった。当時の女子生徒への体操指導の詳細は確認することが出来な いが,当時の体操科の内容は厳格さという点で男女間に格差があった。1902年制定の中学校教授要 目では男子中学生徒の体操教材は普通体操と兵式体操であるが,1903年制定の高等女学校教授要目 では高等女学校生徒の体操教材は普通体操と遊戯であった(18)。兵式体操は,身体動作等について詳 細な規定がなされていたが,女子生徒向けとされた遊戯についてはほとんど規定がなされていなかっ た。井口は,女子生徒に対する指導の簡略化が女性の身体の弱体化につながっている点を指摘して いる。
井口の発言の背景には,留学先のアメリカでの体操教育の経験があった。井口は,アメリカでは男
女ともに教育内容に大きな差異はなく,それは,女子生徒にとって「飛んだり跳ねたり或いは綱に 登って高い所から落ちて来なければならぬ」(19)といった難度の高いものであったこと,しかし,「危 ないと思ったことが面白くて危なくもなんとも思わぬ様になりそういう事を続けてやって来ましたの で私が亜米利加に参った当時の身体の工合と此度帰って来ましてからの身体の工合とは大変な違いの 出来た」(20)と振り返っている。それらの経験をふまえて,井口は,「米国の女も致しまする亜米利加 の女でも日本の女でも女に違ったことはないから米国の女の出来ることならば私でも出来ぬことはな いだろう」(21)と述べ,女子体育の日本への積極的な導入を図ったことが理解できる。
4.着衣観念
次に,井口の「着衣観念」について述べてみたい。
井口は,1905年に文部省の体操遊戯取調委員の報告書において,洋装女子運動服を提言した(22)。 この運動服は,アメリカの女子運動服を模したもので,上衣はセーラー服,下衣はブルマー(23)とい う形のものであった。井口がこのような洋装型運動服を考案した背景には,いかなる着衣観念があっ たのだろうか。
井口の提言以前,日本では和服を改良した「改良服」が着用されていた。改良服発案の契機は,ド イツ人医師ベルツ(24)による医学的見地からの和服の問題点の指摘であった。ベルツは
1899
年5
月13
日に私立大日本婦人衛生会例会(会場は女子高等師範学校講堂)において「女子の体育」と題する講 演を行い,その中で女子の衣服の問題点と改良の方向性について以下のように述べている(25)。帯は住時のように巾を狭くして,地質の軟かいものを締めて戴きたい。而して此事は特に年令の 少き女子に向って必要のことである。近頃のように,巾の広い帯を堅やの字に結んで,まるで武 装した様な風をするのは,女子の身体の発育を妨げます……袖はどうしても短かくしなければな らない。ソレは元禄の古に戻って改正をして貰いたい,即ち袖を短くしますると,袖口の下が狭 く,振の方が幾らか広くなって居って,自然袖の重みが手首の方に懸らないで,袖の為めに手の 運動を妨げらるる恐れがありませぬ……学校の女生徒に袴を穿かせるということは,今日の衣服 からいうと,余程宜いことである,併し折角袴を穿いても,下に通常の着物を着て,在来の帯を 締めては何にもならないから,若し袴を穿くには衣服の丈は膝位いにしなければならない
このベルツの講演以降,1901年前後から,医師・教育家・美術家などの各分野から多様なデザイ ンの改良服案が寄せられ新聞雑誌に掲載された(26)。健康と動きやすさを意識して発案された改良服
(筒袖袴)の改善について検討が続いた。井口は次のように述べている(27)。
棒のような堅いもので此胸の辺りを圧迫して堅く結えますとそれから及ぼして来ます生理上の結 果は私が今申し上げるまでもなく皆様御分りでございましょう,それで若し出来得るならばあれ
に何とか改良を加えるとか,それが今に今急に出来ませぬならば教員が生徒に余り堅く締めぬよ うに注意をして下さらなければいけないと考えます。
この発言は,「袴が落ちるより心持ちが好いからヒモを堅く締める」(28)と言って筒袖袴の紐を堅く 締める井口の姪の姿を見ての発言である。ここで,井口は袴の紐による身体の締め付けに健康を害す ることを危惧し,教師が率先して改良に努めるか,女子生徒に注意喚起を行っていたことがわかる。
「締め付け」に対する危惧は,コルセット(29)に関する以下の発言の中にも見受けられる(30)。
あれを使って居りますると腹部の筋肉の発達又た作用というものをまるで妨害してしまいまして 其力を無くする……私が日本から参るときに洋服を着ましてコルセットなどをこしらえて用いて 大変窮屈な思いを致しましたが体操の学校へ入りますときに体操の教師がそれを見付けましてあ なたは日本人でありながらこういうものを用いて居るのは極くいけない早速取ってしまいなさい ということで早速取ってしまいましたから私が彼の地に居ってコルセットを用いたことはござい ませぬ,併し段々体操の上から姿勢が直され且腹部の筋肉の働きがよくなった支え棒が無くても 自然と此ところに支え棒をかったと同じような力が出て来まして余程身体が直りました。
ここでは,コルセットが腹部の筋力の低下につながる点を指摘している。井口自身,アメリカ留学 当初はコルセットを着用していたが,現地の体操教師の指示により,はずして過ごしていたところ,
筋肉が付き姿勢が良くなったと述べている(31)。
次に,井口は,衣服による出費と食費の関係ついて以下のように述べている(32)。
米国の方の女は割合に着物の方には余り金を掛けて居りませぬ,是は食物と着物と比較しての御 話でございます,が食物の方が着物の方に使う金よりは割合に多いのがあります,日本の婦人は それと反対で着物の方が食物に費やす金より割合に余程多いだろうと思います詰り美しいものを 着て外見を飾って食物は粗末なものを食べて自分の身体をこしらえる素を減らすという間違った 事をして居りはせぬかと思います,……此れから小学校の女子を教育していきまするには贅沢な 着物を着る為に親に余計な金を使わせるということは廃めて其金を食物の方に美いものを食べて 自分の身体をこしらえる素を十分にしていくように注意しましたならば幾らか女子体育の上に助 けを為すに至るであろうと考えます。
ここでは,アメリカでは衣服より食べ物に金銭を多く費やし,一方,日本では,食べ物より衣服に 多くの金銭を費やす傾向を指摘している。日本においても栄養のある食材を消費し,健康な身体の基 礎をつくり,体育を行うことで,強健な身体の育成を主張しているのである。
以上の井口の主張を要約すると,「衣服は健康を害さず,身体の運動を制限しないものが望ましい」
という身体本位の着衣観念が明らかである。このような着衣観念に基づき,井口は,1905年に体操 遊戯取調委員として以下のような洋装女子運動服を提言した(33)。
現今女生徒ノ一般ニ着袴スルコト,ナレルハ,昔日ノ服装ニ比スレバ,体育上多少進歩ノ途ニ就 キタリト雖モ,猶ホ袖丈ノ長キ,袴ノ紐ヲ以テ胸部ヲ緊束スルガ如キハ,体育上ニ於テ容易ニ首 肯シ得ベカラザル点ナリ。爰ニ文部省体育調査会ニ於テ調査ヲ遂ゲタル結果,身体ノ各部ヲ圧迫 スルコトナク,且ツ運動ニ自由ヲ得ル点ニ於,別紙図面ノ服ヲ以テ,最モ適当ナリト認メタリ
井口の考案した運動服は,上下二部形式で上位はセーラー服,下衣(図中では「袴下」と呼ばれる)
はブルマーという形であった。また,「袴下」であるブルマーの上にスカート(図中では「袴」と呼 ばれる)を着用することで平常服としての着用も可能なように考案されていた(34)。また,報告書内 では素材や色合いは任意としているが,女子高等師範学校では綿の小倉製またはウールの黒セル製が 着用された(35)。なお,この平常服を兼ねた運動服は女子高等師範学校などごく一部の女学校での採 用にとどまった(36)。セーラー服にスカートという形態の制服が女学校でひろく採用されるのは大正 後期からであった(37)。
図 1 「女生徒の運動服」(井口あくり,可児徳,川瀬元九郎,高橋平三郎,坪井玄道『体育之理論及実際』
国光社,1906年。)
5.体型意識
次に井口の「体型意識」について考察したい。以下の引用は,日露戦争の講和会議であるポーツマ ス会議(1905)の様子を描いた絵画を見た井口の発言である(38)。
体育の一日も忽ゆるかせにす可らざる事は言う迄もないのでありますが,日本人は急務中の急務として体 育に努めなければなりませぬ。少し申し悪くい事でございますが,ポーツマウスの日露両講話大 使が,相対して談判して居らるる絵画を御覧なさい。一は矮小,一は長幹,私は見る毎にゾッと する程恥ずかしく思います。此体格の相違の為に,事実上の利害に毫すこしも関係なかったとは申され ますまい。何うしても日本人は,最も力を体育に用いて,ズッと立派なる身体を造り出さねばな らぬと思います
ここでは,井口がポーツマス会議での日露両大使(日本側全権代表:小村寿太郎,ロシア側全権代 表:セルゲイ・ウィッテ)の体格の差を例に挙げ(39),ロシア大使に比べ日本大使の体格が矮小であ ることを恥じ,この体格の違いが利害関係をも決定づけた可能性を指摘している。同様の指摘は,井 口のみでなく,奥原政次郎「国際上より観たる体育の必要」でも以下のように述べられている(40)。
ポーツマスの講話談判結了後,東京の各写真書報は,何れも競うて其一頁に,我が小村全権大使 と露国全権大使ウィッテと,互に握手の礼をなせる写真を載せたり。この写真は彼と此との体格 上の,好個のコントラストを示せり。即ち彼は其身体長大肥満せるに反し,此は短小嬴えい痩せるを 見たり。抑該談判の我が国にとり,予期せしよりも甚だ不利に終りたるは固より其原因にして足 らざるべきも,此コントラストの我に災いしたること全くなしというを得まじ。
ポーツマス会議での日露講和の結論は,当時の多くの日本国民に不満をもたらすものであった。そ の原因を,日露両大使の体格差から説明しているのは井口のみではなかったことが分かる。井口の場 合,その問題を,国家による体育普及の必要性に結び付け,その対策を早急に行うことを主張した。
井口の発言は体格と健康面のみならず,審美上からみた「立派な身体」をつくることを体育の目的と して考えていたことが分かる。井口の審美を意識した発言は女性の美に関する以下の指摘にも現れて いる(41)。
女性の美は必ずしも西せ い し施(42)や小町のような雨に悩める海棠の花といったような,優しい風情あ るばかりと断言されぬものである。心身の健康美が十分に発揮されなければ,真性の美人とはさ れまい。日本古来の古訓は徒らに女性一般の心身に制圧を加えて衛生的美容術を十分に講じさせ なかった。要するに外装の粉飾ばかりで,完全なる美容を作為せらるるものの如くに誤信しつつ
あったは,古訓の欠点である。真固の女性美は身体の強健が基礎となり,加うるに心力の発揮強 烈が随伴しなければ,全く発揮ができるものではあるまい。『健全なる精神は健全なる身体に存 す』で,克己の意志は強健なる身体に伴うは,誰しもわかっていることであろう。換言すれば,
心身の健康美が遺憾なく発揮されて,始めて全き女性美が表現し得らるる。……従前は体操又は 運動といえばすべて重きを男子において,女子に恰適せる運動法を研究せざるのみならず,たま たま実行させた所でまるで,おどりのできそこねらしいるいで,大満足していたというような有 様で,女子体育上の研究は十年の後れを来たしたには,かえすがえすも残念である。明治式否日 本女性美の真しんめんぼく面目は,必ずこの強健なる心身の鍛錬によりて発揮せらるるものと信ずる。
以上の中で,井口は,「強健なる心身の鍛錬」により心身の健康美が遺憾なく発揮されてこそ,女 性も本当の美人,と述べている。井口が「心身の健康美」という語を用いているのは,「健康」と「美 しさ」を結び付けたことにその特色がある。女性の「健康」と「美しさ」が結び付けられ,獲得され た女性の心身の健康は,国益にも結び付いていくのである。また,以下のような発言もある(43)。
胸が引込んで腹が出張って,背跼のように猫背な女は,到底社会に立って活動も出来ませぬ,立 派な子供も生ませぬから,私は世間から何んと言われても,飽くまで献身的に,女子体育の為に,
及ばずながら力を尽くす積りであります。
「胸が引込み腹が出ており猫背の女性」という姿は,和服による日本人女性の姿でもあった。井口 は,従来の日本人の女性像を強く否定し,女性を国家に有益な存在へ変えていく方法を考え,その手 段として女子体育を位置づけていた,と言えよう。
おわりに
本稿では,近代期女子体育指導者 井口あくりの女子体育観について,国家主義と婦徳の涵養,教 授法,着衣観念,体型意識,の
4
点から検討した。その結論は以下の通りである。国家主義と婦徳の涵養―井口は,女性が体格を改善し,身体を強健にし,健全な子どもを産み育て ることが婦徳につながる,と説明した。
教授法―明治期の体操科では,男子生徒向けと比較して女子生徒向けの規定は未整備であった。井 口は,アメリカでの経験をふまえて女子体育における指導の簡略化が女性の身体の弱体化につながっ ている点を指摘した。
着衣観念―衣服は健康を害さず,身体の運動を制限しないもの,という身体本位の着衣観念を明ら かにし,その点から洋装女子運動服を提言した。また,食生活面でも,栄養のある食材を消費し,健 康な身体の基礎をつくり,体育を行うことで,強健な身体の育成を主張した。
体型意識―「心身の健康美」という語を用いて,女性の「健康」と「美しさ」を結び付け,そこで
獲得された女性の心身の健康は,国益にもつながる,という考え方を示した。
以上の
4
点は,「健康な母となる女性の育成」という当時の日本の国家的目的と一致するものでも あった。政府は,富国強兵政策の下,「健康な母」を育成する手段として女子体育の可能性に注目し ていた。井口がアメリカに留学し,体操や生理学,解剖学等を学んだ成果もその点から注目された,と言えよう。井口による女子体育の教授法の見直し,衣服改良,体型面における新たな「美しさ」の 提起も,彼女自身,健康な母体の育成という目的に沿って説明していることがわかる。
本稿では,井口の女子体育観に関する限定的考察となったが,近代日本の女子体育論の中での井口 の位置,さらに,他の女子体育論者との比較検討を含めた研究を継続していきたい。
注⑴ 教科として「体育」という用語が使われるようになったのは第二次世界大戦以後のことである。それ以前 は,「体育」という用語は存在・活用されていたが,教科としては「体操」として扱われていた。(金田英子「教 科としての『保健体育』の史的考察」東洋大学法学会,『東洋法学』2013年,326ページ。)
⑵ 掛水通子「近代スポーツ史における女性の地位:戦前における女子体育教師の出現に関するジェンダーの 観点からの考察」『スポーツとジェンダー研究 14巻』日本スポーツとジェンダー学会,2016年,49ページ。
⑶ 進藤孝三『井口あぐり女史伝:日本女子体育の母』温故館,1986年。
⑷ 木村吉次「近代日本の体育思想19井口あくり―女子体育の先覚―」『体育の科学16(1)』年,37~38ページ。
⑸ 川元美緒子「井口あくりの体育論」『鹿児島短期大学研究紀要(54)』鹿児島短期大学,1994年,19~22 ページ。
⑹ 井口が入学した1888年当時は名称が「高等師範学校女子部」であったが,1890年に高等師範学校から女 子部が分離し「女子高等師範学校」となった。1908年,奈良女子高等師範学校の設置に伴い,「東京女子高 等師範学校」と改称した。(お茶の水女子大学百年史刊行委員会『お茶の水女子大学百年史』お茶の水女子大 学,1984年,835~840ページ。)
⑺ 西村によると,井口が留学生として選出された経緯についての詳細は明らかになっていないが,彼女を推 薦したのは当時女子高等師範学校校長であった高嶺秀夫であった。(西村絢子「わが国における近代女子体育 の受容と変容―明治・大正期における女子体育留学生(井口あくり・二階堂トクヨ・三浦ヒロ)の業績をめ ぐって―」『日本女子体育短期大学 日本女子体育大学紀要第9巻』日本女子体育大学,1979年,83ページ。)
⑻ 進藤孝三『井口あぐり女史伝:日本女子体育の母』温故館,1986年,805ページ。
⑼ 井口あくり「時論 女子の体育について」『教育公報第270号』帝国教育会,1903年,9ページ。
⑽ 当時,女子教育の手本として流布していたのは『女大学』(柏原清右衛門と小川彦九郎が1718年に合梓し た『女大学宝箱』のこと)と呼ばれる女訓書であった。『女大学宝箱』は貝原益軒の『和俗童子訓巻之五 教 女子法』(1710年)において説かれている婦徳(「女に四行あり。一に婦徳,二に婦言,三に婦容,四に婦功。
此四は女のつとめ行なうべきわざ也。婦徳とは,心だて善きを言う。心貞(ただ)しく,いさぎよく,和順 なるを徳とす。……」)を中心に,女子の心得を豊富な挿絵を用いながら綴っている。しかし『和俗童子訓』
中にみられた男女平等観は,『女大学』中にはみられない。例えば,言語を慎むことや夫を主君としてつかえ なければならない,といった家庭生活内に限定した女子の心得を説いている。
⑾ 深谷は,良妻賢母主義思想の構造について「男女の上下差を否定した点で儒教的女性像と異なっているし,
女子の軌範を家庭外に拡大した点で,民衆の女性像とも,また主たる活動の場を家庭内に限定し従を要請し た点で,西欧の女性像ともそれぞれ異なっていた。しかし女性の視野の家庭外への拡大は日本在来の思想に 欠けるものであり……明六社に代表される西欧思想の輸入紹介に源を発している。また,性差の強調は,民 衆の女性像の特性をなすものであり,さらに,従は儒教的女性像を支える理論である。その意味で良妻賢母 は,一つの思想によりどころを求めるのではなく,ナショナリズムの台頭を背景に,儒教的なものを土台に
しながら,民衆の女性像の規制を受けつつ,西欧の女性像を屈折して吸収した産物―歴史的複合体―とみな しうる。」と述べている。(深谷昌志『増補 良妻賢母主義の教育』黎明書房,1990年,145ページ。)
⑿ 『宮武外骨此中にあり 雑誌集成 第10巻』ゆまに書房 1994年より,宮武外骨「高等の女子体操」『滑 稽新聞 第100号』1905年7月20日11面。
⒀ 小野田亮正『現代名士の演説振り』博文館,1908年,122~123ページ。
⒁ 井口あくり「時論 女子の体育について」『教育公報第270号』帝国教育会,1903年,8~9ページ。
⒂ 同上,11ページ。
⒃ 同上。
⒄ 同上。
⒅ 大家千枝子「明治期における高等女学校の体育の実際に関する史的考察―近代日本の女子体育史研究の一 環として―」『日本体育大学紀要25巻1号』日本体育大学,1995年,10ページ。
⒆ 前掲,「時論 女子の体育について」『教育公報第270号』,12ページ。
⒇ 同上。
� 同上。
� 井口あくり,可児徳,川瀬元九郎,高島平三郎,坪井玄道『体育之理論及実際』国光社,1906年,398~
400ページ。
� ブルマーという名称はアメリカ出身のアメリア・ジェンクス・ブルーマー(1818-1894)という名前に由来 する。1851年に,彼女は友人のエリザベス・スミス・ミラーの服装を模した,膝下丈のスカートの中にゆっ たりしたトラウザーズ(ズボン)をはくスタイルを自身が発行する機関誌『リリー』に掲載した。彼女がめ ざしたのは男性の服を女性が着用して男女平等を訴えるというよりもむしろ,従来のコルセットや重いペ ティコートを取り去ることで得られる自由で健康な身体であった。この服装はブルーマー・コスチュームと 呼ばれ,イギリスでも紹介され大きな反響を呼んだ。しかし,週刊誌『パンチ』で風刺の題材とされるなど,
批難やからかいの対象となりブルーマー自身もおよそ8年で着用をやめ,人々の間に定着することはなかっ た。その後1880年代のアメリカで,体育教育家ダッドリー・アレン・サージェントの私設学校で女生徒のユ ニフォームとしてブルーマー型パンタロンとセーラー服という形の服装を採用されたことを皮切りに女子体 操服として広まっていった。(谷口雅子「第2章 ブルマーと近代化―解放と抑圧のはざまで」高橋一郎,萩 原美代子,谷口雅子,掛水通子,角田聡美『ブルマーの社会史』青弓社,2005年,65~70ページ。)
� ベルツ(1849~1913)は東京医学校内科教師として招待を受け,1876年に来日した。1905年に帰国するま での間,日本各地を訪れ調査研究とその成果発信に努めた。宮内省東宮医務顧問を務めるなど,皇族の治療 にもあたっていた。(安井広『ベルツの生涯:近代医学導入の父』思文閣出版,1995年,422~431ページ。)
� 私立大日本婦人衛生会編刊『婦人衛生会雑誌 第115号』1899年,1~37ページよりE.ベルツ「女子の体 育」1899年5月13日演説。
� 難波知子『学校制服の文化史 日本近代における女子生徒服装の変遷』創元社,2012年,95ページ。
� 井口あくり「時論 女子の体育について」『教育公報第271号』帝国教育会,1903年,26~27ページ。
� 同上,26ページ。
� ウエストを中心にバスト下から腰にかけての体形を引き締める整形下着。普通は布地に硬さを加えて形を 与えるために,何本もの鯨骨を張り骨として挿入した構造をとっていて,胴の前あるいは後ろで強く紐締め する。一般に表層のドレスの下に,肌着の上に着用された。コルセットが社会のほぼ全階層で着用されるよ うになって極端な紐締めがファッショナブルとされた19世紀後半には,その身体への悪影響が問題視されて 大論争が起ったが,20世紀初頭まで着用され続けた。(古賀令子『コルセットの文化史』青弓社,2004年,
170~171ページ。)
� 前掲「時論 女子の体育について」『教育公報第271号』27~28ページ。
� 同上。
� 同上,28~29ページ。
� 前掲『体育之理論及実際』398~400ページ。
� 前掲『学校制服の文化史 日本近代における女子生徒服装の変遷』140ページ。
� 難波知子『近代日本学校制服図録』創元社,2016年,118ページ。
� この平常服兼運動服案が訓令として全国一律実施とならなかった背景には,女学校の校長や教員の中に服 装の一定に対する反対や洋服型の制服への躊躇を示す者がいたこと,文部省内でも女子にどのような服装が ふさわしいかについて意見が割れていたこと,また,衣服(衣服費)が支給される師範学校とは異なり,高 等女学校生徒の衣服は自弁であり家庭や保護者の同意も必要であったため,生徒の服装を学校が管理すべき か,家庭に一任すべきかといった葛藤があったことが推測される。(前掲『学校制服の文化史 日本近代にお ける女子生徒服装の変遷』141~142ページ。)
� 明治期から昭和戦前期における女子制服の形態は,男袴→和装(着流し)→洋装→女袴→洋装→セーラー服 という変遷を遂げている(難波知子「近代日本における女子学校制服の成立・普及に関する考察―教育制度・
着用者・制服製作に注目して―」『人間文化論叢 第9巻』お茶の水女子大学大学院人間文化研究科,2006年,
42ページ。)
また,運動服の一般的な変化を概括的にとらえれば,着流し→和服改良(マチなし袴:明治30年代より→く くり袴:大正前期より)→洋式運動服(大正後期~昭和初期)という流れをみてとることができる。(萩原美 代子「運動服よりみた女子体育:日本女子大学校の場合を中心に」『文化女子大学研究紀要 (8)』文化女子大 学,116ページ。)
� 前掲『現代名士の演説振り』121~122ページ。
� ハーバード大学留学時(1875年)のパスポート(国際交流センター小村記念館収蔵)によると小村寿太郎 の身長は156センチメートル。(宮崎県郷土先覚者ホームページ「小村寿太郎」https://www.pref.miyazaki.
lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/komura/index.html 最終閲覧日2020年7月25日)。
ちなみに『学生生徒児童身長・体重・胸囲平均累年比較 明治33~昭和9年度』(文部大臣官房体育課,1937年)
によると,1905年の25才男子の平均身長は160.9センチメートル。
� 黒沢勇『体育論:現代之諸名家』日本体育会,1910年,21ページより,奥原政次郎「国際上より観たる体 育の必要」
� 井口あくり「女子体育談」秋田魁新報,1907年。
� 西施とは,中国の詩に登場する有名な美女の一人である。西施の伝承伝記は,はっきりしないが,漢代に 書かれた『越絶書』『呉越春秋』等の記事から一般的には,春秋時代に越の苧蘿山で薪売りをしていたところ を越王 勾践に見出され,鄭旦と共に教育を施された後,呉王 夫差の心を乱して政治を怠けさせるために 呉に献上された女性である,と理解されている。(矢嶋美都子「西施のイメージの変遷:美女から隠逸世界色 どりまで」『お茶の水女子大学中国文学会報7』お茶の水女子大学中国文学会,1988年,39ページ。)
� 前掲『現代名士の演説振り』123ページ。