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在台湾沖縄人引揚に関する覚書泉水英計

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在 台湾沖JI人引軌 こ関する*書

在台湾沖縄 人引揚に関する覚書

泉水英計

は じめに

1終戦直後 の台湾

2 統計 にみ る残留沖縄人

3 F沖縄籍民調査書』

4 沖縄僑民総隊

5 沖縄 同郷会連合会

6 調査報告二点 を結ぶ米国人

おわ りに 18

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在台湾沖 弗人引軌 こ関する★暮

在台湾沖縄人引揚に関する覚書

日米同時代報告の結節点

泉水英計

はじめに

1946年10月2日、米国台北領事館か ら南京の大使館 に宛て、「沖縄人1万132 人 まもな く米軍管下 に入城す る」(AmericanConsulate1946a)とい う報告 が送 られた。台湾引揚者が戦後沖縄の形成に指導的役割 を果たす ことを的確 に予測 した観察 として浅野豊美が紹介 している (浅野2005:97‑98)。戦後 日 本社会の在 り方が引揚者 の経験 と存在 によって実 は大 きく規定 されていた とい うのは、他 の旧植民地 に も敷桁 で きる洞察であるようだが (浅野 2004,

2007)、本論では、む しろ台北領事館報告 とい う一点の資料の書誌 を追求す ることで今一つの別の報告書 との繋が りが見 出 されたことを述べ る。 rl沖縄 籍民調査書』 とい う第2の資料 は、台湾に残留 した沖縄人 自身が残 した同時 代の記録 として知 られているが、各地に散在する関連資料の調査によって台 北領事館報告 との繋が りを立証することがで きた。その繋が りか らは、植民 地台湾の人的ネ ッ トワークが引揚 を媒介 に して戦後沖縄‑ と連続 していった 過程の一端が具体的にみえて くるだろう。

1 終戦直後の台湾

まずは、終戦か ら1946年に至 る台湾の状況 を簡単に整理 しておこう。

軍事施設や都市 中枢への空襲 は受けた ものの、台湾の戦災は軽微 だった。

地上戦によって壊滅的な打撃 を受けた沖縄 は言 うに及ばず、 ソ連軍の侵攻を 受けた旧満州や、無差別織機爆撃 に晒 された 日本本土の都市 と比べて も、ほ とん ど無傷 に等 しかった と言って よい。陸海軍兵力は健在であ り、その後の 2箇月あまりは総督府の組織がほぼ正常 に機能 していた。

3

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ProjectPaperNo.25

カイロ宣言に したが って連合軍は台湾の中国返還を進め、1945年10月に台 湾省行政長官公署 と台湾省警備総司令部が置かれる。同月25日の降伏式 を もって半世紀 に及んだ植民地統治が終幕 を迎 えた。派兵で来島 していた陸軍 17万弱の将兵 と海軍6万5000の将兵 は帰郷 を待 ち望んだだろうが、16万5000 を数えた民間人は必ず しもそ うではない。植民地社会に生活の基盤があった これ らの人々の多 くは、敗戦 によって も生活環境が従前 と変わ らないのをみ て、台湾への残留 を望む。 ところが、中華民国の不適切な接収が行政お よび 経済を混乱 させ、治安が急速 に悪化 したことか ら、帰還希望者の数は俄に増 大することになった。1945年の冬か ら軍人が復員すると、民間人の引 き揚が

これに続 き、翌年4月末をもって一段落する(加藤2003:125‑130)O

中華民国の‑省 となった台湾 にこの時点で残留 していたのは、約2万3000 人の 日本人 と約2万人の沖縄人であった。前者が、業務引継のため中華民国 に雇われた専門職 (以下、留用者)であったのに対 し、後者 は、琉球列島への 入城が許可 されずやむな く留 まっている人々であ り、境遇 も職種 も様 々、軍 人 も含 まれていた。ただ し、厳密 に言 えば、彼 らは沖縄帰還希望者である。

沖縄出 自であって も日本本土への引揚 には問題がなかった。疎開者や将兵な ど戦争中に一時的に沖縄か ら来ていた者や、頼 るべ き親族や知人が本土にい ない者たちが残 って しまっていたのだった。

2 統計にみる残留沖縄人

台北米国領事館報告 は タイプ打 ちで13頁の部外秘通信 である。宛先 はス チュワ‑ ト駐 中大使 だが、オザ リッ ド複写 を含め2部の コピーが ワシン トン の国務省 に送 られた。 また、別の2部が、東京の合衆国政治顧問に送 られて いる。 これは連合軍最高司令官総司令部

( S CAP / GHQ)

内で国務省 を代表す る部署であった。

内容は、沖縄‑の帰還者の受入準備 に資する情報の提供である。す ぐに必 要な情報 として、彼 らの健康状態、職能、希望帰還先 を、長期的な観点か ら 重要な情報 としては、集団の政治帰属 に関する意見 と、 リーダーたちの政治 思想 を報告す るとい う。小見出 しを列記すると、「アメリカの F責任

」、「在

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在台湾沖Jt人引緒に関する*+

台沖縄人の人口 とカテゴリ」、「健康お よび人口動態統計」、「生活水準」、「帰 還先」、「現職お よび職業経験」、「中国政府 による留用」、「引揚 に臨む態度」、「台 湾の沖縄人部隊」 となる。大量の統計データを駆使 した記述で、 しか もその 詳細 さには目をひかれるものがある。 これを可能に した理由は次節で述べ る が、その前 に、小見出 しの順 にそって、統計か ら浮かび上がる残留沖縄人の 様子 をみてみ よう。

まずは、残留沖縄人の構成概要である。留用者すなわち敗戦後 も職に留め 置かれた技術者 な どは 日本人 と同様で、その扶養家族 を含めて1,791人がい た とい う。他が帰還待機者 とい うことになるが、その内、 旧 日本軍関係者 が1,009人お り、内訳 は陸軍594人、海軍227人、軍人家族188人である。残 り が民間人の帰還待機者 であ り、難民 キャンプに2,424人が身を寄せ、 自宅や 知人宅 な どに4,908人が暮 らしていた(AmericanConsulate1946a:2)。総数 1

0

,132人の内訳 は、留用者18パーセ ン ト、旧軍人10パーセ ン ト、難民24パー セ ン ト、一般待機者48パーセ ン トとなる。

同種 の文書 と趣 を異 にす るのは、 これ らの数値 の細 目だ。健康状態の統 計は難民のみを調査対象 に している。10歳 ごとに男女の数を一覧に し、キャ ンプ内の人口構成 を明確 に した うえで、年齢層 ごとに1946年4月15日以降の 死亡、 出生、発病数 を精確 に示す。個 々の疾患 について も催患者数 を年齢 層 と性別で分類 している。 この ように調査 された疾患の種類が25種 と多いの は、防疫上注意すべ き肺結核 や ジフテ リア といった危険な感染症 ばか りで な く、例 えば消化不良や歯痛 といった軽度の不調 まで調査 しているか らだ (AmericanConsulate1946a:3‑5)0

いずれにせ よ多 くが健康上の問題 を抱 えていた原因は栄養不足 と劣悪な衛 生状態 にある。 この点の説明 も詳細 だ。当時の台北で5人家族の生活費は最 低で も月額3,512円であった。 ひ とり当た り702円の計算だが、それだけの月 収 を得 る者は殆 ど居 ないか ら、難民は所持品を切 り売 りして食いつないでい る。連合国救済復興機関

( UNRRA)

の物資供給 もあったが、食事 はお粥に漬 物や野菜 を少 々 と微量の調味料で、肉類 は論外、未成年者の1日の摂取 ヵロ

リーは約1,000カロリーだ とい う(AmericanConsulate1946a:5)0

食事 に限れば難民キャンプの方が ましだったか も知れない。 日僑管理委員

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ProjectPaperNo.25

会 とい う中国政府の担 当部署か ら、1日ひとりあた り米450グラム と副食費5 円が支給 されたか らだ。平均的な価格で計算す ると、野菜300グラム、魚10 グラム、醤油6グラムが これで購入で きた。 また、 月に一度だけ非常 に少量 ではあるが、夕食用 に豚 肉が配給 された。

ただ し、住環境 は最低である。難民キャンプの一つは総督府庁舎跡にあっ たが、空爆で破壊 されてお り、 日光や風 をほ とん ど防 ぐことがで きず、雨露 はまった く防げない。 トイ レは道 ばたに掘 った穴の周 りに延 を吊 しただけ、

風 呂は街頭 に設置 された消 火用水桶 であった とい う(AmericanConsulate 1946a:5‑6)0

帰還先 とい うのは、琉球列島に帰還 した ときに、個 々の沖縄人たちが希望 す る具体的な最終落ち着 き先 を示す。多 くの場合 は自己か両親いずれかの出 身集落であったろう。激戦 と米軍キャンプの設営により、先祖代 々の家屋敷 が消滅 して しまっている可能性 は低 くない。 しか し、であれば尚更、引揚者 を受け入れる軍政府 にとって、上陸後の彼 らが どう移動するか という予測は 重要な意味をもった。

総数が合わないが、すべてのカテゴリの残留沖縄人 を調査対象 とした統計 だ とお もわれる。 まず概要 を示 し、首里 と那覇の両市 と、国頭、中頭、島尻 の沖縄本島内の3郡 と、宮古お よび八重 山の先島両部 について帰還希望者の 人数があげ られる。つ ぎに、個 々の市町村 について性別を分けてやは り該当 する人数が示 される。郡部には多 くの町村が存在するため、 この ように して 計算 された市町村 の数は実に49に及んだ(AmericanConsulate1946a:6‑8)0

これに続 くのが、現職お よび職業経験 に関す る統計である 総計2,483人 を49職種 に分類 し、それぞれの職種 に経験がある男女の人数を示す。 これ と 並行 して、留用者、難民、一般帰還待機者 とい うカテゴリ分類で も人数が示

される。 カテゴリ別の人数 を合計すれば、留用者488人、難民269人、一般帰 還待機者1,726人 となる。冒頭にあげ られていた留用者1,791人、難民2,424人、

一般縁遠待機者4,908人 と比較す る と、難民 キ ャンプに未就労者が多かった ことがわかる。

職種 ごとにカテゴリの偏 りをみると、留用者はほとんどが会社員か公官吏 であ り、他 は鉄道関連63人、医師看護婦10人、教員4人 と銀行員4人が職 を持 っ

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在 台湾沖Jt人引縄に関する★書

ていた。難民や一般帰還待機者では、公官吏に加 えて教員 と事務月が多い。

これ らのカテゴリでは前職についての調査であるか ら、植民地での沖縄人の 社会的地位 をうかが うことがで きよう。他 に 目立つのが、漁業就労者189人 であるが、 これは後述す る。 この統計で扱 われた職種 には、女 中や女工 と い う女性の非熟練労働 まで も含 まれている点は、軽微 な疾患 についての統計 と同様 に、統計の利用価値 とい う観点か らは不可解だ(AmericanConsulate 1946a:9‑10)0

留用者 については、領事館報告 は、節 を改めて現職の種類 と人数 を確認 し た うえで、次の ように指摘す る。確かに、 このカテゴリに属す る490名の沖 縄人は、安定 した収入 によって相対的に良い生活 を維持で きている しか し、

それは必ず しも彼 らの本意ではない。中華民国政府 は、 この ような 「特権」

を享受するための「申請書」を提 出するよう促 したが、彼 らの反応は悪かった。

そ こで、 申請が な くとも、職場 を離れてはな らない とい うことに して、 む しろ強制的に留用 を続 けていることが多かった。結局、沖縄人10,132人の う ち自らの意志で台湾 に残 っている者 は僅かに284人だった とい う(American Consulate1946a:12)0

もはや台湾島の住民であることを希望 しないのであれば、不本意な留用者 や帰還待機者 は沖縄人である自己をどの ように定義 していたのだろうか。沖 縄の将来像 に関する意見 としては、合衆国による支配の継続 を明言する者が いた。 また、民国政府 は琉球列島の中国復帰運動 を起 こすための宣伝工作 を すすめ、対抗するように、中国共産党 を通 じてソ連に目を向けさせ ようとす る過激派の煽動 もあった。 しか し、台湾残留沖縄人の約8割 は故郷の政治的 地位に無関心であ り、落ち着いた平常の生活に戻 ることだけを望んでいた と いう。 日本人 という自己意識 を維持 し、 日本による沖縄統治の復活を希望す る者は約1割だった(AmericanConsulate1946a:12)0

領事館報告の最後 に言及 される項 目は沖縄人の旧 日本軍人である。引揚 に 備 えて沖縄 出身者の部隊が編成 され、数次の再編 と移動 を経て台北の台湾総 督府跡 と、島の北端 にある港町基隆に設営 していた。内訳 は、将校が13名、

下士官が103名、兵士 と軍属 を合わせて700名である。その うち旧海軍に所属 していた者が244名であった。

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ProjectPaperNo.25

この沖縄人部隊は、都市の戦災復興作業に大 きく貢献 し、 日本本土へ向け た引揚者の送還作業 に も活躍 した。7月か らは、士気 を高めるために基礎教 育 と復員後 に備 えた職業訓練 を受けている。同時に、台北の公共事業 に従事 し、 また、難民キャンプの運営 も手伝 っていた。装備 は貧弱で食糧や衣服の 配給 も不足 しがちであったが、 トラブルを起 こす ことはない。ただ し、独 身 男性が大半 を占める集団には、売買春が原因の感染症がかな り多かったとい

う(AmericanConsulate1946a:12‑13)

0

3 『 沖縄籍民調査書 』

領事館報告 に用い られた詳細 な統計数値が外か らの観察によって得 られた とは考 えられない。難民については、キャンプ内での綿密 な調査が不可欠で あ り、留用者や一般帰還待機者 は台湾島北部の各地に散 らばったままであ り、

彼 らの所在 を確実に把握す るだけで も簡単ではなかったはずだ。

この ような疑問を解 く鍵が、今 ひとつの資料 F沖縄籍民調査書』である。

台湾残留沖縄人について同時期 に 日本語で書かれたこの調査報告は、66枚の 罫紙にカーボン複写によって、本文80頁 と付表9点が手書 きされている(無記 名 1946C,1986)。本文の 目次 と各章のボリュームを示そう。

F沖縄籍民調査書』本文 目次

頁数

総括 6

暫留者 9

留用者 3

集中営 13

官兵及宥属 18

用語の説明を してお くと、「暫留者」 とは、本論で言 う一般帰還待機者の ことで、 自宅や知人宅で送還 を待 っていた人々である。「留用者」の意味は

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在 台湾沖 it人引規に関する朱書

既に述べ た。「集中営」 とは中国語で収容所 とい う意味だが、残留者たちの 間で難民キャンプを指す語 として使 われている。「官兵及春属」 は軍人軍属 とその家族である。

F沖縄籍民調査書』 と領事館報告の関係 は、次の ような些細 な ミスにうか がえる。領事館報告中の衛生状態の部分には、前節でみた ように難民キャン プ内の雁患者数、死亡件数、 出生件数があげ られているが、 さらに難民総 数2,424人に対する比率 も示 されている。実数は、雁患者1,288人、死亡28件、

出産13件である。けれ ども、百分率表示が この順番 に 「5.40」、「0.11」、「0.055」 パーセ ン トとい うように誤 って1桁低 く表記 されている。 作中縄籍民調査書』

の該当部分は、割分表示であ り、数値 に過誤 はない。 これは、領事館報告の 作成者が 自ら比率 を計算 したのではな く、既に記 された数字を転写 したこと を示唆する。つ ま り 『沖縄籍民調査書』の割分表記 を百分率表記に取 り違 え た結果 とみて間違いないだろう。

F沖縄籍民調査書』 では本文で用いた統計 を付表に して巻末 に一括 して記 載 しているが、一部は領事館報告でそのまま用い られている。以下がその付 表である。

日中縄籍民調査書』付表

キャプション 貢数

在台沖縄籍民人員表 1

在台沖縄籍民現在状況 3

帰還先調書 1

在台留用音調 2

前職業別詞 3

沖縄僑民総隊編成表 6

沖縄僑民稔隊各部事務 分掌 9

八 集中営内催病統計 3

帰還先別 人貞調総括 5

領事館報告中の希望帰還市町村 の統計は、付表 「帰還先別人貞調総括」の

9

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PrqiectPaperNo.25

翻訳 とみ られる。 目次には 「付表八」 まで しか記載がな く、 この付表は後か ら追加 した ものの ようだ。 ここで も、領事館報告の作成者が調査 したのでは な く、 日本語で既 に書かれた ものを英訳 したことが明 らかだ。た とえば、領 事館報告 には希望帰還先 として 「IMAKIJIN」や 「KITATANI」 な どの村 名がみえるが、あ きらかに今帰仁 (なきじん)や北谷 (ちゃたん)を誤 ってロー マ字表記 した ものである。沖縄 の地誌 に疎い人が、地名漢字表記 を読むとき に起 こる典型的な間違いである

一方で、領事館報告 に取 り上げ られなかった 門中縄籍民調査書』の記述 も ある。例 えば、各統計では、台湾島内の行政区である州 ごとの集計が笑は重 視 されているのだが、台北領事館報告にこの情報 は‑切ない。沖縄送還の策 定 には不要 な情報だか らだろうが、 F沖縄籍民調査書』の作成者が台湾住民

としての 自己意識 を存続 させていたことを暗示 していて興味深い。

二つの資料の間にある関心 の違いは沖縄人部隊の記述 にもみ とめ られる。

領事館報告が一言で述べ る部隊編成の変遷 は、 門中絶籍民調査書』 では、18 頁にわたって詳細 に記述 された。将校 と下士官は実名で言及 されていろo戦 前か らの軍人‑の敬意が存続 していたのではないだろうか。ちなみに、ほぼ 完全な英訳 (無記名1946a)が残 されてお り、領事館報告の作成者が、候補資 料 として 目を通 した上で割愛 したのは確かだ。

その沖縄人部隊の方は旧 日本軍 とい う自己意識 を保持 していたようだ。中 国側は、降伏 した台湾軍司令部 を 「日本官兵善後連絡部」 と名付 けた。旧 日 本軍が沖縄人のみになって しまうと、その指揮官は 「琉球籍官兵善後連絡官」

と呼ばれる。その後、兵士 たちの教育や職業訓練が始 まると、「琉球籍官兵 集訓大隊」 と改名 された。 この改名が琉球人部隊を中国軍‑編入することを 前提 とした ものではないか とい う疑念が兵士の間に生 じて隊内で問題 となっ た とい う(永 山1986:ll)0

4 沖縄僑 民総 隊

F沖縄籍民調査書』 では、集中営すなわち難民キャンプについての記述 に も多 くの頁 を割いている。その発生過程 を記録 した本文13頁ばか りでな く、

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在台湾沖用 人引緒に関する★暮

付表 「沖縄僑民稔隊編成表」6頁 もキャンプについての記述である。後者か らは、軍隊風 に階層化 された難民たちの組織があったことがわかる。すなわ ち、総督府庁舎跡 に集 まった難民 を台湾島内の旧居住地 ごとに7つの中隊に 組織 し、 これ とは別に、旧軍人軍属か ら編成 された第8中隊 と、台北の別の 場所 に寄った台北中隊が編成 された。正副中隊長がそれぞれに置かれ、少な くて2つ、多い例では4つの組 を監督す る。ひとつ一つの組 に正副の組長が置 かれ、それぞれ2つか ら7つの班 を監督する。そ して、それぞれの班にも正副 の班長が置かれた。各班の人員は概 ね20人前後である。中隊長以下副班長 ま での役職者 はすべて実名で記録 されてお り、兼任 もあるので総数は253名に なる。壮年男性の比率が少ない集団であったため、班長の殆 どが女性だった。

沖縄僑民稔隊の編成

隊負数

第一 中隊 3 9 717

第二 中隊 4 12 353

第三中隊 4 12 252

第四中隊 3 9 184

第五中隊 4 13 217

第六 中隊 3 16 309

第七 中隊 3 19 356

第八中隊 2 8 185

台北中隊 2 ll 241

各々の中隊には世話係、自活係、経理係の3つの役職が置かれ運営にあたっ た。 F沖縄籍民調査書』に同封 されている「中隊長副中隊長並二世話係 ノ職務」

という印刷物か らは、中隊役員が 「外 出外泊者 ノ処置」や 「点呼ノ執行」 を お こなっていたことがわかる。かな り厳格 な人員管理が されていたようだ。

中隊を統括する機関 としては、39名の専任職員か ら成る稔隊本部が設置 さ れる。正副隊長の下 に、総務、渉外、 自活、経理、医務、教育の6つの部局

ll

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と監事 をそなえ、形式 的 には本格 的 な組織 だった。事務分掌規定 は もちろん、

手 当が支給 され、 出張のための旅費規程 まで定め られていた。

やは り F沖縄籍民調査書』 に同封 されてい る F沖縄僑民給隊々則』 の総則 をみてみ よう。 ガ リ版刷 り9頁 の折冊子 であ る。 表紙 には 「日僑管理委員会 日僑集 中管理所」 と記 され、「民 国三十五年六月」の付記がある。1946年6月 は、難民 キ ャ ンプが正式 に台湾省行政長官公署 の 日僑管理委員会が運営す る 施設 となった時期 であ り、これにあわせ て印刷頒布 された もの とお もわれる。

第3条 本給隊ハ沖縄 本 島へ還送 サ ルへ キ本省在住 ノ沖縄僑民 中 日僑 集 中管理所 へ集結 セル者 ヲ以 テ組織 ス

第4 本給隊本部事務所 ヲ元 台湾総督府庁舎跡 二置 ク

第5条 本給 隊ハ 隊員 ノ還送 二至 ルマ テ統 制 アル集 中営生活 ヲ営 ミ以 テ 全員無事帰還 ノ途ニ ックヲ目的 トス

第8粂 本給隊ハ ソノ 目的完遂 ノタメニ琉球官兵善後連絡部並 二台湾沖 縄 同郷会連合会 卜緊密 ナ ル連絡 ヲ図 リソノ協 力援助 ヲ受 クルモ ノ トス (無記名1946b)

難民 キ ャンプは、 日僑 管理委員会 とは無 関係 に残留沖縄人 によって 自主的 に形成 された。前 々月 の4月 に引揚 準備 の公式 な指令が下 され、他 の 日本人 と同様 に、職 をたたみ家財 を処分 した沖縄 人 たちは、1週 間分 の食糧 を携 え て各地の中核都市 に集結 して最終帰還指令 を待 っていた。 ところが、一時待 機 の状態 の まま 日数 を重 ね、食料が底 をつ き、貯蓄 もイ ンフ レで急速 に失 わ れていた。 F沖縄籍民調査書』 の描写 を借 りれ ば 「此 ノ億 放置 セ ンカ全 島各 地 ノ集結者ハ餓死線上 ヲ坊径 ス ルノ ミ」 とい う状況 を知 った沖縄 人部隊が、

彼 らを台北 と基隆の設営地 に呼 び寄せ、部隊所 有米 を配給 して救済 にあた る。

この ような流用 は台湾省警備総司令部か ら厳禁 されてお り、勇気 ある決断で あった。5月中旬 に高雄か ら900人、台南か ら300人、台 中か ら600人が台北 に 移動 し、新竹、台東、花 蓮港 か ら400人が基 隆 に移 って難民 キ ャ ンプが形成

され るこ とになった (無記名 1946C:29130,50‑53)0

僑 民稔隊 に組織 された難民 キ ャンプは 自治体 の ような存在 になっていた よ うだ

r僑民総隊 自活部規定』 もまた 打中縄籍民調査書』 の同封 資料 である。

その 「第2 目的」 に 「稔隊 ノ全貞 ガ各部署 二於 テ至誠‑貢事 二当 り協力

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在 台湾沖iQ人引抜に関する★書

一致、互助共済実 ヲ挙ゲ併セテ台湾復興二貢献ス」 とある。心持ちを漠然 と 述べ た ようにみえるが、つづ く第3条 「自活収益金の処理」 とあわせみるこ とで、「自活」の意味が明確 になる。第3条の付記事項 によると、作業に出て 得た給金の場合 は半額 を総隊に納め、個人的に就業 している場合 には6割 を 納めなければな らない。キャンプを離れて住込就業する場合は収入の3割 を、

本人は住込で も家族 をキャンプに残 しているな ら4割 を納めなければな らな い (無記名 n.d.)。つ まりこれは一種の税制である。第2条の主 旨は、大概 は 戦災復興事業関連の労務で得 ることになる給金は、個 々の難民の収入 として 自己のために使 うのではな く、労働で きない仲間にも公平 に再配分 しなけれ ばならない とい うことだった。外 出チェックや点呼など、キャンプの人的管 理が厳 しかった一つの理由だろう。

自治体 に類 した機能は教育面で も発揮 される。台北の留用者や一般帰還待 機者の子供たちの大半 は、輔仁国民学校 と和平中学に設け られた 日僑教育所 に通っていた。 しか し、難民キャンプの児童には、僑民総隊が運営する教育 所が龍安国民学校 (初等部)と東門国民学校 (中等部)に設置 される。 これ らの 他 に、次節で述べ る同郷会の運営す る初等教育所が東門国民学校内に設置 さ れ、輔仁国民学校 に入学 しない学童 と、難民キャンプ内の軍人軍属 中隊 と台 中中隊の学童たちが通っていた。基隆では博愛国民学校 に 日僑教育所が設置 され、主 に漁師の子供 たちが通 ったが、同地の難民キャンプの子供 たちは、

やは り僑民稔隊がつ くった分教所 に通った(無記名1946C:55‑77)0

「第六節 教育」 は F沖縄籍民調査書』の記述の3割弱を占める。多 くの頁 を割いた直接 の理由は、僑民総隊が運営する各学校のすべての教員の実名、

教職資格、本籍に加 え、担当学年や手当金額 まで も記載 したか らだが、難民 たちの学校正常化への強い関心 を読み取ることがで きよう。

5 沖縄 同郷会連合会

僑民総隊の難民が、琉球官兵 と呼ばれた旧軍人か ら多大な支援 を受けたこ とについてはすでに触れた。では、先の 円中絶僑民総隊々則』第8条で この 沖縄 人部隊 と並んで、難民たちが 「緊密ナル連絡 ヲ図 リソノ協力援助 ヲ受 ク

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ル」 とされる今一つの組織 「台湾沖縄同郷会連合会」 とは どのような組織で あったのだろうか。

同会 については、僑民総隊や琉球官兵 と並べて又吉盛清が早い時期 に言及 している (又書 1990:374‑377)。 また、先 島か らの集団疎 開者の引揚 との関 連で松 田孝良が近著で詳 しく述べている (松 田2010:269‑291,2011)。 これ ら

を参考に してまとめてお こう。

台湾の沖縄人のなかで最 も大 きな困難 に最 も早 く直面 したのが、「無縁故 疎開者」 と呼ばれていた集団疎開者たちであった。戦前か ら台湾で生活 して 土地勘があ り台湾人 を知人に もつ者や、旧軍人 とい う安定 した組織 に頼れる 者 と異 な り、大戦末期 に沖縄や南洋群島か ら台湾に渡 った集団疎開者たちは、

敗戦によって後 ろ盾 を失い、 日本政府か らの配給が止 まるとたちまち衣食に 事欠 くようになる。そ もそ もが子供や女性や老人か らなる集団であったか ら、

自力による対処 も非常 に難 しかった。

たまた ま2人の在台沖縄人が疎 開者の窮状 を知 り、知人同士で もあった彼 らが一致協同 して救済運動 を立 ち上げる。台湾省宣伝委員会 に留用 されてい た川平朝 中と、医師の富山堅‑だ。彼 らが台湾の沖縄人社会の リーダーたち 呼びかけて結成 したのが沖縄 同郷会連合会 (以下、同郷会)である。在台沖縄 人の出世頭 といわれた総督府勅任官与儀喜宣 を会長に戴 き、副会長には台南 の弁護士安里積千代 と、台北の裕福 な開業医南風原朝保が就いた。のちに本 務多忙 となった安里 に入れ替わ り、台湾勧業無尽会社社長だった平川先次郎 が副会長 となった。

松 田の調査 によると、1945年10月末に安里 と南風原の名前で、在台沖縄人 の登録 と近況報告 を募 る新聞広告が掲載 され、11月中旬 には、沖縄県人会連 合会が、紙上で疎開者‑の義絹金 を募集 している。募金受付先は南風原病院 であ り、院長の南風原は台北沖縄県人会の会長だった。同郷会は新 しい組織 ではな く、既存の県人会の改名あるいは編成 による組織だった とお もわれる。

12月以降は同郷会の名前で疎開者の早期送還 を嘆願 した り、援助資金獲得の ためのチ ャリティショーを催 した りしている。

ところが、予想外 に長引いて しまった 「一時」待機によって、翌年の初夏 には、戦前か らの台湾居住者の多 くも無縁故疎開者 と同様の境遇に陥って し

(14)

在 台湾沖# 人引抜に関する*暮

まった。同郷会副会長の平川は、台中沖縄県人会会長だったが、難民キャン プに移 り僑民総隊隊長 となる。 この間の変化 を端的に示す例だろう。帰還船 の出港予定地は島の北端の基隆港だったため、時間的な余裕があった北部の 住民は、引揚延期通告 を自宅待機中に受け取 り、家財の処分 をせずに済んだ。

くわえて、留用や開業医 とい う職業によって相対的に生活が安定 していた沖 縄人指導者が、無縁故疎開者の救済活動に続 き、難民キャンプの世話役 とし て活躍 したのは、かれ らの社会的責任感か ら導かれた当然の行動であったろ

う。

6 調査報告二点を結ぶ米国人

F沖縄籍民調査書』 は台湾に残留 している沖縄 人について広範で詳細 な情 報を集めた ものであ り、本論の冒頭で触れた台北米国領事館報告は、 この調 査書のなかか ら、沖縄送還計画に必要な情報のみを抽出 して要約 した もので あることが明 らか となった。 しか し、沖縄人の窮状 を訴える報告が米国領事 か ら大使に送 られるとい うのは異例のことだろう。本来な らば、中華民国政 府か ら連合国総司令部に送 られるか、あるいは、米軍が単独で琉球列島を占 領 していたことを考慮 して、陸軍省の適切 な部署に送 られるべ きであったは ずである。いずれにせ よ次に明 らかにされねばな らないのは、実際にどのよ うな経緯によって F沖縄籍民調査書』か ら台北領事館報告が作成 されること になったのか とい う問題である。

作中縄籍民調査書

は、伊佐晃一がス タンフォー ド大学 フーバー研究所文 書館 に所蔵 され るジ ョージ・H・カー文書 のなかか ら発掘 した ものである。

台湾引揚40周年記念誌 F琉球官兵顛末記』 の付録資料 として翻刻 も作成 され ている。伊佐 は 「なぜ カー氏が所有す るようになったのかについては、今 ひ とつ判然 としない」 (伊佐 1986:304)とい うが、1946年の カーが台北副領事 であったことを鑑みれば、それほ ど不思議なことではない。報告は領事のラ ルフ

・ J

・ブ レイク名義であるが、末尾 にはカーの記名 もあ り、実質的には 彼が作成者だったはずだ。作成に用いた資料が彼の手元に残って個人文書に 入ったのだろう。

15

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ProjectPaperNo.25

領事館報告のなかで カーは同郷会の活動 を高 く評価 している。無縁故疎 開者 とお もわれる200人は完全 に同郷会 に扶養 されていた。栄養状態がわる く衛生環境が悪化す る難民 キ ャンプで、沖縄 人指導者たちは同郷会 を通 し て、雁息率 を下げるために懸命 な活動 を続けていた。彼 らは、困難のなかで も希望 と寛容 さを人々が失わない よう非常な努力 を払い、 また、 自主的に学 校 を運営 して若者たちの 目を未来に向けさせているというような観察である (AmericanConsulate1946a:3,5,12)

『沖縄籍民調査書』 と同一のフォル ダには、領事館報告書の草稿(AmericanConsulate1946b)も残 されてお り、

対照す ると、「同郷会が 自主的に組織 され、行政、公序、福祉 の困難な問題 を最小化 している」 とい う一文 を最終稿 に加筆挿入 していることがわかる

受容力があ り堂 々 と意見 を述べ る彼 らは、沖縄 に引 き揚 げた後 も社会的 な影響力 をもつ ことになろうとカーは予測す る(AmericanConsulate1946a: 2)。戦後沖縄 で、安里 は八重 山群島政府知事か ら社会大衆党委貞長、南風原 は初代沖縄医師会会長、平川は沖縄民政府郵政局長、富山は那覇保健所長や 結核予防会会長、そ して川平 は沖縄民政府文化部芸術課長か ら琉球放送局局 長 となった。

したがって、高い評価 は単 なる賛美ではない。将来有望 な沖縄人 リーダー たちは、中華民国 との交渉に介入 した り、米国の沖縄軍政府‑仲介 した りす るよう領事館 に繰 り返 し訴えていた。突然の送還延期の決定者 とい う意味で、

米国に も現下の困難 について責任の一端があると彼 らは考 えている。であれ ば、筋違いだか らと無視 して将来の禍根 を残す よりも、 自国民の保護 という 大使館の建前 を捨て彼 らに手 をきしのべた方が、長期的な米国の利益 になる

という提言であった(AmericanConsulate1946a:2)。

同郷会の リーダーたちとカーが接触 をもったのは、戦後の台湾が初めてで はなかった。琉球大学附属 図書館が所蔵す るカーの個人文書は、生前 に、 占 領史の研究用 とい う明確 な目的をもって寄贈 された ものであるため、 オリジ ナルの文書資料 をある程度 自身で整理 し、内容 ごとに資料の背景の説明を添 付 してある。「日本人引揚 問題‑ 台湾1945年‑1946年」 というフォルダに付 された要約(Kerr1984C)は、 カー と沖縄人指導者 との関係が戦前の台北にま で辿 ること伝 えている。

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在 台湾沖 弗人引甥に関する*f

1945年10月、カーは台湾省行政長官の一行 とともに台北に降 り立った。当 時の身分 は米国海軍大尉であ り、南京の大使館付武官補であった。中華民国 領の米軍は顧問役のオブザーバーに過 ぎない。 しか し、総督府 とい う後 ろ盾 を失った 日本人民間人はもちろん、武装解除 して しまった 日本軍 も、国民党 軍 を信頼 しきれない台湾人 も、そ して、カーによれば、 日本軍の武力抵抗の 可能性 に怯 えていた国民党軍 も、平和裏の接収 を保障する存在 は米軍 しかな い とみていた。ただで さえ人気 を博 した米軍関係者の中で、戦前の台湾で暮 らした経験があるカーの人気 は容易に推 し量 ることがで きる。招待客 として 参列 した降伏式典の様子が新聞や ラジオで連 日報道 されると、 カーの来島が

日本人社会にも台湾人社会に も広 く伝 わった。

彼 自身の言によると、 この ように して再会 した人々には、「高校 の同僚や 学生 を含め、両方の社会に多 くの友人がお り、みな良い情報源だった」 とい う。言及 されているのは、1937年秋か ら1940年春 までの約3年間を台北で英 語教員 として過 ごした ときの知己である。1940年版 F総督府及所属官署職員 録』 には台北高等学校 と台北高等商業学校 に 「雇教師 ヂ ョ‑ジ ・エイチ ・

カール」の名がみえる (台湾総督府 (蘇)1940:326,329)。今 日の高等教育の 状況か らは想像 しづ らいが、当時は両校で唯一の欧米人教員であ り、相当に

目立つ存在だったはずだ。

開戦後 は陸軍情報局でカイロ会談 に向けた資料 を作成、その後、海軍の情 報将校 に任官 して台湾侵攻作戦に備 えた軍政用資料の作成に取 り組む。拙稿 (泉水2010)で触れたので詳細 は避 けるが、米軍の台湾民事専 門家 としての 彼の基本的な見解 は、植民地下で達成 された近代的開発の成果 を米国が活用 するには、内戦で荒廃 し近代化の遅れた中国本土か ら台湾 を切 り離 しておか な くてはな らない とい うものであった。

そのためには台湾での 日本人の存在 も肯定 されることになる。1945年末、

台湾での軍務 を終 えるカーが記 した覚書では、すべての在台 日本人の即時追 放 とい う政策 を批判 し、「ここでのアメリカによる日本人の取 り扱いは、ヨー ロッパの占領地におけるナチス ドイツのユ ダヤ人の追放 と異なるところがな い」(Kerr1945:3)とまで言っている。

国務省に転勤 したカーが3度 目の来島を果た した ときには、 日本本土への

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引揚 は一段 落 していた。 したが って、彼が携 わったのは、留用者 の帰還 と沖 縄 人の帰還であ る

前者 については、 中国政府 の 日本人留用が実質的に強制 的残留 になってい る問題 を指摘 し(拡err1984b)、 また、送還用船 と して中国が用意 した台商 号が、整備不十分であるに もかかわ らず、定員 を遥かに越 えた引揚者 を乗せ、

さ らに黒糖 や石炭 を積 み込んで密貿易 してい ることを厳 しく批判す る(Kerr 1946a:9,n.a.)。台商号 は、副領事 カーを台湾に運んだ船で もあった。

沖縄 人 の帰還 について は、「英雄 的 な仕事」 を してい る沖縄 人 リー ダーた ちが米 国領事館 を訪 ねて助言 と援助 を求 めた とき、 「沖縄 人間題 」が著者 の 責務 となった と述べ てい る。 そ して、東京 のSCAPや、中国大 陸の米軍本部、

そ して大使館 を通 じて ワシン トンの国務省へ対応 を具 申す るために、基本的 な事実 関係 と統計数字 を収集す る必要があったのだ とい う(Kerr1984a:3)0 彼 は 同郷 会 の リー ダー に質 問票 を渡 した とい う。 そ れ 自体 を未 だ見 つ け られてい ないが、 同郷会 か らの返答 を整 理 した一 覧が残 ってい る(Kerr 1946b)。 そ こには 「1.世帯数3431/2.人員数10,132」以下19項 目にわた り、

最 も肝要 な統計数値が並 び、 もちろん、先 に見 た領事館報告や F沖縄籍民調 査書』 の記載 と‑敦 してい る。つ ま り、沖縄人の台湾引揚 に関す る同時代の 資料 と して知 られて きた これ ら二つの資料 は、 ジ ョー ジ ・カー とい う一人の 米国人が、戦前 に辿 る台湾 日本人社会 との縁故 に よって計画 し、作成 した も のであったのであ る。

おわりに

結 びにか えて、実際の調査 をお こなった 『沖縄籍民調査書』 の筆者 につい て触 れてお こう。田島練成 は台中の残留者で、平川 らと一緒 に台北 の難民 キ ャ ンプに移動 し、僑民総隊で は総務 を務 めた人物 である。 F琉球官兵顛末記』に、

彼が寄稿 した次の ような回想が ある。

1946年8月初 め、平川総 隊長か ら在 台沖縄 籍民 の実情 を詳 しく調査 した資 料 を作 成す る よう指示 を受 けた。 「南風 原先生が眠懇で あ る米 国領事館 の高 官」が月末 に事務連絡 に一時帰 国す るので、 資料 を携行 して もらい、早期帰

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在台湾沖it人引執 こ関する★書

遠について協力 を依頼するとい う計画だった。僑民総隊の各部長に情報収集 を依頼 し、琉球官兵の隊長か ら資料 を借 りて、旧総督府庁舎の2階で コンク リー トに莫産 を敷 き、薄暗い電燈の下で夜通 し書 き続けた。 カーボン複写に より全部で4部 を作成 した。1部 は南風原 を通 して領事館の高官 に、1部 は琉 球官兵 の隊長 に提 出 し、残 りの2部 は平川 と田島が予備 として預かったが、

沖縄 に帰還 し島に上陸 した直後に紛失 して しまった という(田里1986)0 南風原については孫の与那原恵 による伝記 (与那原 2010)に詳 しいが、彼 と親 しかった 「領事館 の高官」 とはカーである可能性が高い。両者 は当時、

骨董品を見せ合 う仲間であった ようだ。やは り仲間の全開丈夫の述懐によれ ば、 日本人引揚者が携行 を許 されず手放 した品物が戦後の台北でノ ミの市に 出回っていた。永住のつ もりで家宝 を台湾 に移 していた人 もいて、稀少な品 が廉価で売 られ、南風原や金関の他 に二三名が このような品を買い漁 り、月 ごとに居宅 をまわ りもちに して蒐集晶を見せ合 っていた。 カー もこの仲間に 加わ り、領事館公舎で も会合が もたれる。 ときに彼の鑑識眼は仲間の羨望 を 集めた とい う(金関1978)0

台北での教員生活に先立って、1935年に来 日したカーは東京で 日本美術史 の研究 を してお り、 日本の美術品‑の造詣が もともと深かった。台北帝大の 解剖学者であったが、博物学的関心 を持つ趣味人で もあった金関の研究宝 を 訪ねたこともあった とい う。一方、臨床医であった南風原だが、沖縄人の形 質的特徴について金関の影響 を受けた研究論文 も発表 している。早 くか ら金 関 との付 き合いがあったようだ(与那原2010:21ト212)。戦前の台北で始 まっ たこの ような人間関係 が、 門中縄籍民調査書』 にまとめ られる残留沖縄人調 査 と、それをベースに作成 される台北米国領事館報告 を生み出す ことになっ たのである。

19

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参 照文献

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無記名

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(22)

在 台湾沖it人引抜 に関する★f

附録 在台沖縄 人引揚 に関す るジ ョージ・H・カー文書資料一覧

スタンフォード大 学 フーバー研 究所 文書館 ジョージ・班・カー文書

B6/F6 1e(drnt0,1aefrtt320ki)hejurnaiswadicnsstionooofUSntoSept19e4mbe6r Dr14pp.a允̲

B6/F6 SuTariwaveyon,TantblheOkieofComantwaentnsin md. 3pp.次の英訳.r沖縄籍 民調査書J(B6F7)の目

B6/F7 沖縄籍民調査書 n.a. 8あり0隊歴史「五、官兵及 び脊 属」 の0 」(3854頁)は英訳(B73F8.)

B6/F7 在台沖縄籍民調査書 n.d. 草稿o耗12枚、メモ2枚o

B6/F7 日僑管理委員会 日僑集中管理所 md. に同じだが、 「五、教 育」 となつr沖縄 籍 民調 査書 」 の 「教 育」

沖縄僑民総隊教育所 ていで項 目番号が違う012頁o B6/F7 留用者職業別調査 ∩.d. 統計表の下書きo B6/F7 統計表 n.a. 24頁o

B6/F7 沖縄僑民総隊隊則 民国35年6 祈綴じ日僑 管 理委員会 日僑 集 中管理所発行o印刷物だが墨入れ添削多Lo14頁相 当o B6/F7 総隊本部事務分掌規定 md. 罫紙5枚o

B6/F7 僑民総隊自活部規 定 民国35年6 折綴じ4貢相当o B6/F7 僑民総隊並ニ中隊役職員名冊 n.a, 3

B7/F8 TaiOkinawanDiwaOEsticerraictPosndSotldwarierls 1946 tStroaorp.twith‑3.Historyofthe

23

(23)

ProjectPaperNo.25

琉球大学付属 図書館カー文書

B2/ F129 (K369.37

/KE) Japanese RepatriProblems:Taiwan,1945at19i4on6 封筒表題 TheRepatriationofJapanese

from Taiwan 1984 sammarystatement

TheJapaneseRepatriation

Problem 3/8/1984 3pp.

Repatriation ofJapanese

Civillians 12/26/1945memocGr3pp一p) py(FormosaLiaison NotesonTaiwan.sJapanese 1984 transcrlptfm notesmadeat Community,19451946 theAm consulate.2pp.

MemoonJapaneseinTaiwan

andRepatriationProblems 1946 abstract,pp.9,llonly.

TheOkinawan(GroupⅠ)

RepatriationProblem 1946 answerstoquestionare

台北市228紀念館カー文書

蘇穏宗 r葛超智先生文集」、 「葛超 智先生相 関書信 集J、台北市228紀念館、2000

02育)1

(

0

r

42文集915041 RepatCiViliansfriatroion ofJapanesem Taiwan 12/26/1945Li3pp.drafaisotmemo (nGrp) hq Formosa

0(r25文集97

1頁)05139 JReoafRepapatneporrsiaeittonRepainFoon(Cormopy#2staria)Drtionoafft 19451946 2nearlyidenticalcopleS.

0(「25文集96J FundamentalShifts in 1948 draft chapt, ch 15FundamentalShifts in 1頁)91195 Populationafterl945 Popp.pul5.ation,"

GK‑003

0011022 ThePlonFormoightosaiftn1heOki946 nawans n.d. pp.drJaf5tbasedon

r

沖 縄 籍 民 調 査

(24)

在 台湾沖挿 入引抜に関する*f

* r

文集」=蘇堵崇 (主編)

r

葛超智先生文集J、r書信j

≡r

葛超智先生相 関書信集J(上巻) 台北市228紀念館、2000年。

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参照

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