ジェラール・ド・ネルヴァル
『オーレリア』の聖書的構造
稲 生 永
ジェラール・ド・ネルヴァルの遺作ともいえる,神秘的で幻想的な作品
『オーレリア,あるいは夢と人生』Aurélia ou le Rêve et la Vieは,二回に 分けて「パリ評論」誌に発表された。第一部にあたる前半の十章は,同誌 の1855 年1月1 日号に掲載され,後半の六章は「第二部」と題されて,
ネルヴァルの死後の1855年2 月15日号に掲載された。精神錯乱の発作 時の体験を含む作者の個人的な生活体験はもちろん,数多くの読書体験な どを組み込んで構築されたこの作品の,謎に満ちたテクストの解読は,至 難の業であるが,好奇心を果てしなく刺激する。本論考は,複雑な主題を ちりばめたこの作品の基本的な構造を解明するのが目的である。
*
夢は第二の人生である
『オーレリア』は,有名な次のような一節で始まる。
「《夢》は第二の人生である。われわれを不可視の世界から隔てて いる象牙もしくは角でできた扉を通り抜けるとき,私は戦慄を覚えず にいられなかった。睡眠の最初の数瞬は死の映像である;その時,霧 がかかったような麻痺状態がわれわれの思考を捉えるのであるが,わ れわれは,《自我》が,異なる形で生存の営みを続けようとする明確 な瞬間を捉えることはできない。それは,薄暗い地下の世界で,次第 に明るくなっていくと,暗闇と宵闇の中から,重々しく動きのない,
蒼白な姿がはっきり浮かび上がってくる。辺獄に住むひとびとである。
そのあと舞台が形成され,一筋の新しい光が照明して,これらの異様 な亡霊たちを演技させる;このようにして,《聖霊たち》の世界がわ
れわれに対して開かれるのである。」(I, i ; Gérard de Nerval, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, III, p. 695)
ネルヴァルにとって,第二の人生である夢の世界は,不可視の世界であ り,「地下の世界」として捉えられる。それは,何よりもまず死者の世界 である。従って,夢の世界に入っていくことは,「地獄下り」を意味する。
そして,その地下の世界に降りて行くと,そこに,まるで劇場のように,
舞台が形成され,その上で,地獄の辺獄に住む死者達が,役者のように演 技をする。つまり,夢を見ることによって,われわれは,死者と再会する ことが可能になるというのである。言い換えれば,夢の世界では,現世と 過去,そしてことによると未来まで,つまり世界のすべてが共存し得ると いうことになる。
覚醒状態と完全な睡眠状態の狭間に存在する夢の世界はまた,醒めた意 識と無意識との中間に位置する,いわば,意識下の世界あるいは潜在意識 の世界といってよい。従って,夢の世界に踏み込むことは,人間の想像力 の世界の拡大を意味する。それのみならず,意識の闇の世界は,人間の想 像力の源と考えられる。つまり,その闇は,神による世界創造の原点であ る「原初の闇」を思わせる。ネルヴァルは,夢を介して,この「原初の闇」
に迫ったのである。その後に,プルーストやポール・ヴァレリーが続いた。
すなわち,プルーストは『失われた時を求めて』の冒頭で,マルセル少年 の夢の体験を語り,大作の原点とした。また,ヴァレリーは『若いパルク』
で,詩の生成のメカニズムを見事に描いた。いずれも,ネルヴァルの『オ ーレリア』に刺激されてのことであったと私は考えている。いずれも,文 学作品の生成過程を神による世界創造になぞらえているのである。それは,
すべての作家に共通する野望であるといってよいかもしれない。
ネルヴァルは『オーレリア』の第2 部第 6 章の終わりのほうで,夢に 対処し続けた自分の努力について次のように総括している。
「このようにして,私は,勇気を奮い起こして,一つの大胆な試み に取り組もうとしたのであった。夢を固定し,その秘密を知ろうと決 意したのだ。「総意を結集して,これらの神秘的な扉を押し開き,感 情に屈従する代わりにそれを支配することがどうしてできないことが あろうか。」と,私は思った。」(II, vi ; p. 749)
精神錯乱の発作
ネルヴァルは,この作品で,夢の中での体験を語り,その謎を解明する という作者の意図を明確に表明する。
「スウェーデンボリはこのような幻影を《メモラビリア》と呼んで いた;彼はそれらを睡眠状態よりも夢想状態から受け取っていたので ある;アプレイウスの『黄金の驢馬』や,ダンテの『神曲』などは,
人間の魂に関するこの種の研究の詩による手本である。私は,彼らに 倣って,長い病気の間に得た印象を書き写してみようと思う。この病 気というのはすべて,私の精神に訪れた神秘的現象の中での出来事で あった。それに何故私が病気という言葉を用いるのか分からないので ある。というのも,私に関する限り,その時ほど,自分が快調である と感じたことがなかったからである。時として,私の力と活動力が倍 加したと信じた;私はすべてを知り,すべてを理解することができる ように思われた;そして想像力が私に果てしない悦楽をもたらしてく れたのである。ひとびとが理性と呼ぶものを取り戻せば,この悦楽を 失ってしまったことを後悔すべきではないであろうか…」
(I, i ; III, p. 695)
ここでは,作品の手本となった,古代ローマのアプレイウスをはじめ,
ダンテ,スウェーデンの神秘思想家ウェーデンボリといった,先人たちの 代表的作品を挙げている。作品を読めば,このほかにも数多くの作品や伝 承,例えばゲーテの『ファウスト』の影響が認められる。メスマーの動物 磁気催眠治療術あるいは古代インド思想などの影響も強い。
しかし,上記の一節の中で,これらの幻影の多くが,「長い病気の間に 得た印象」と語っていることに注目しよう。周知の通り,作者のジェラー ル・ド・ネルヴァルは,1841年の2月21日もしくは23日の夜,最初の 精神錯乱の発作に見舞われて以来,1855 年1月26 日の未明,縊死体で 発見されるまで,たびたび精神に異常をきたしている。そして,作品『オ ーレリア』には,精神錯乱時の異様な体験を素材にしたと考えられる記述 が随所に鏤められている。そのため,当初は勿論,かなりの時点まで,
『オーレリア』を精神錯乱者の体験描写に過ぎないとする見方が存在した。
しかし,熟読するでもなく,これらの異様な体験の描写の裡には,したた かともいえる計算がなされていることが分かる。言い換えれば,明確な文
学的意図を読みとることができるのである。上記の文章中の,「それに何 故私が病気という言葉を用いるのか分からないのである。というのも,私 に関する限り,その時ほど,自分が快調であると感じたことがなかったか らである。時として,私の力と活動力が倍加したと信じた;私はすべてを 知り,すべてを理解することができるように思われた;そして想像力が私 に果てしない悦楽をもたらしてくれたのである。」という記述にそれがよ く現れている。精神錯乱の発作は,正常な「理性」の支配の及ばない領域 を,われわれに開示してくれる。つまり,われわれは,精神錯乱によって,
想像力の新しい領域に踏み込むことが可能になるというのである。
そのことは,『オーレリア』の第1部第3章にみられる次のような記述 にもよく表れている。
「作家の使命というものは,人生の重大な状況下で体験することを,
真摯に分析することにあるのだと考えるのでなければ,また,自分に は有益に思われる目的を心に抱いているのでなければ,私はここで筆 を止め,ことによると正気を失ったといえるかもしれず,また俗に病 的と言われる一連の幻覚の中で体験したことを,引き続いて描写しよ うなどとはしないであろう。」(III, p. 700)
正気を乱す精神錯乱の発作を通して垣間見る,夢とも幻ともつかぬ異様 な出来事を,真摯に受け止め,そこに隠された意味を解明しようという主 人公の決意には,未知の世界に踏み込もうという探検家のような意気込み が感じられはしないだろうか。
新しい世界史の構想
『オーレリア』の第I 部第7 章に,高台にあった精神病院に収容された 主人公が,自らの壮大な構想について語る条りがある。
「紙をもらった私は,長い時間を費やして,既知のあらゆる言語で 書かれた物語,詩句,碑銘などを添えた無数の画像によって,一種の 世界史を描き出すことに専念した。研究の思い出と夢の断片とを織り 混ぜて書き上げたこの歴史は,苦心の結果一層はっきりしたものにな ったが,熱中の時間を長びかせもした。天地創造に関する新しい諸伝 承に固執することなく,私の思考は更にその彼方へと遡っていった。
すると,護符を用いて守護神たちが取り結んだ最初の契約が,回想の 中に浮かび上がるように仄見えた。私はかつて,《聖板》の宝石を集 めて,その周りに,世界を分有していた最初の七人の《エロヒム》た ちを描き出そうと試みたことがあったのである。
東洋の諸々の伝承から借用したこの歴史大系は,宇宙を規定し,か つ組織する自然の《諸力》間の見事な調和に始まるのである。(…)」 (I, vii ; III, pp.711-2)
これは,作者のジェラール・ラブリュニーすなわちジェラール・ド・ネ ルヴァルが,1841 年の 3月21 日の夜,再度精神錯乱の発作に見舞われ て,当時モンマルトルの丘の頂きに近いトレネー通り4番地(現在のノル ヴァン通り22 番地)にあったエスプリ・ブランシュ博士の精神病院に収 容され,同年の11 月21 日まで入院していた時の治療体験をもとに書き 上げたと考えられる個所である。因みに,この入院については,3 月23 日付けで入院の要請書がジェラールの父親のエチエンヌ・ラブリュニー医 師によって正式に提出された。これに対し,グラボウスキー医師が「下に 署 名 す る 医 学 博 士 な る 私 は , ラ ブ リ ュ ニ ー 氏 が 急 性 の 狂 気 の 発 作
« manie aiguë »に見舞われ,その病状は特別精神病院に入院を要するも
のであることを証明する」と記し,ブランシュ医師もまた「下に署名する 私は,ラブリュニー氏は急性の狂気の発作に見舞われたこと,この病気は 細心の監視と治療を要することを証明する」と書き記している。そして,
入院登録票の上部には「3 月21 日入院」,「急性の狂気の発作」,「おそら く治癒可能」という記入がある。このことから,ジェラール・ド・ネルヴ ァルが当時客観的には急性の精神異常の発作を起こしていたことが明らか である。ただし,作者が作品のなかで再構築した入院体験の記述からは,
作者が自らの病状を単なる精神錯乱であるとは認めていないことが分か る。それどころか,上記の記述には,ネルヴァルの文学活動の壮大な構想,
すなわち天地創造に始まる世界の歴史を自らの手で書き改めようとする意 図が明確に読みとれるといってよい。
新しい宗教の時代
「十九世紀は宗教の復興によって始まったのである。」というサント=ブ ーヴの言葉が示すように,十九世紀は,新しい宗教の時代であった。フラ ンス大革命によって,キリスト教の体制が崩壊した後,フランスに無宗教
の時代が訪れたが,結局長続きはしなかった。精神的・政治的な一大乱世 を生きた世代に,無神論者や狂信的なカトリック信者は少なかったといわ れる。人間の宗教心は,そう簡単には消えてなくならないのである。ネル ヴァルは『オーレリア』の中で次のように述べている。
「霊魂が,人生と夢の間,精神の錯乱と冷静な洞察力の回復との間 を,覚束なく彷徨うような時,人はその救いを宗教的思考の中にこそ 求めなくてはならない。(…)しかし,あらゆる信仰が粉砕されてし まった,あの相次ぐ革命と嵐の日々に生まれたわれわれにとって,
――また,うわべの実践で事足りる淡い信仰,それにただ闇雲に縋り 付くことはおそらく背教や異端にもまして罪深いといえるようなもの だが,そうした信仰にすがってやっと育ってきたわれわれにとって,
――神秘の殿堂を再建することは,その必要を感じ始めた瞬間からす でに,極めて困難な事柄なのである。ただし,純真無垢なひとびとや 素朴なひとたちは,それぞれの心の中にその殿堂を描き出し,それを 許容しているのである。(…)」(II, i ; III, pp. 722-3)
一方,キリスト教の権威が揺らいだ時期に,人々の目は,キリスト教以 外の宗教や,様々な神話・伝承,神秘主義・隠秘思想など,それまで排斥 されていたものに開かれた。更に,ナポレオンの遠征に従軍した多くの人 たちは,神話やキリスト教よりも古い宗教が生み出した想像を絶する偉大 な遺産を目撃し,衝撃を受けたのである。それまでの,キリスト教を中心 とした世界観は粉砕され,人々の関心は,キリスト教圏の外に広がってい った。こうした機運に乗って,多くの作家が,より広い視野に立った世界 史を書こうと試みた。ヴィクトル・ユゴーの『諸世紀の伝説』などは,そ の代表例といえるであろう。東方旅行を通して,地中海世界の遺産を目の 当たりにしたネルヴァルもまた,キリスト教の世界観を含みかつ超えた,
新たな世界の歴史を書き上げようという壮大な構想に挑戦した一人であっ た。
原初の調和
新しい世界史を構想する場合,当然,出発点としてのこの世の初めの状 態が問題になる。ネルヴァルは,ルソーなどと同じく,世界の創造時点に おける自然状態すなわち原初の調和を重視する。だが,その原初の調和は,
失われてしまっているのである。『オーレリア』の主人公は,畏るべき神 秘に踏み込んだために,原初の調和を乱してしまったと思い悩む。
「私は一体なにをしでかしてしまったのであろう。わたしが不死の 存在に対する確信を汲み取っていた魔術的世界の調和を乱してしまっ たのだ。ことによると,神聖な掟に背いて,畏るべき神秘に踏み込も うと望んだために,私は呪われてしまったのであろう;だから,今と なってはもはや怒りと軽蔑を待つだけであった!(…)」
(I, x ; III, p.721) 尤も,原初の調和は,勿論ネルヴァルだけが乱したわけではない。
「魔術的なアルファベット,神秘的な象形文字は,時間とか,われ われの無知に便乗する人たちによって歪められてしまい,不完全な形 でしかわれわれのところに辿り着かないのである。だから,失われた 文字あるいは消え去った表象を見つけ出そう,調和を欠いた音階を正 しいものに戻そう,そうすれば,われわれも精霊たちの世界で力を得 るであろう。(…)」(II, i ; III, p. 724)
そこで,主人公は,失われてしまった原初の調和を,いかにして回復す るかという課題に真剣に取り組むのである。
「(…)私の役割は,カバラの秘法を駆使して全世界の調和を回復し,
さまざまの宗教にそなわった神秘的な力を喚起することによって,一 つの解決策を見出すことにあるように思われた。」(II, vi ; III, p. 739)
さらに,当時パリの郊外であったパッシーの,エミール・ブランシュ精 神病院に入院した主人公は,原初の調和の再建にあったっては,メスマー の説くような大宇宙と小宇宙を結ぶ磁気力が重要な役割を果たしているこ とを悟る。言い換えれば,生者と死者の全面的な協力によって,理想郷と もいえる原初の調和を回復することができると信じるのである。
「静かに晴れ渡ったその夕べ,私は月光を浴びて散歩した。木々を 見上げると,木の葉が思い思いに丸く舞って,飾り立てた馬上の騎士
や貴婦人たちの姿を形づくるように思われた。私には,それが先祖た ちの勝ち誇った姿に見えた。この考えから下した結論は,愛される人 たちのすべてがこの世の原初の調和を再建するために大がかりな計画 を企てていること,意思の疎通は天体の磁気力によって行われること,
切れ目のない一本の鎖が,こうした全体的な意思疎通のために献身し ている知的な人々を,大地の周りに結びつけていること,そして,歌,
舞踊,視線などが次第次第に磁気を帯びて,同じ願いを表すのだとい うことであった。(…)」(II, vi ; III, pp. 739)
パッシーの精神病院で描いた神秘的図像
ネルヴァルがパッシーのエミール・ブランシュ博士の精神病院に入院し ている時,1853年10月22 日付けで父親のエチエンヌ・ラブリュニー医 師に書き送った書簡に,次のような記述が見られる。
「僕の入院が延びている主な理由は,僕の挙措にある種の異常が認 められたからということのようです。僕は《マソン》の息子で,ただ の《ルーヴトー(フリーメイスン結社員の息子)》に過ぎませんが,
壁面をカバラ的な人物像で埋めたり,俗人には禁止されている事柄を 口に出したり歌ったりして楽しんでいたのです。しかし,ここでは,
僕がエジプト巡歴団員(つまり《ラフィク》)であることは知られて いません。でも僕は窮地を脱しました,そして同じような試練は誰に も味わわせたくありません。(…)」(III, p. 818)
この手紙から,ネルヴァルの父親がフリー=メイスンであったことは明 らかであるが,彼自身が結社員であったということを明示するものではな い。ネルヴァルがフリー=メイスン結社員であったか否かについては,本 部のグラン・トリアン・ド・フランスには資料が見つからないとされる が,問題は彼が結社員であったかどうかというよりも,彼の思想にフリ ー=メイスンの思想の影響が認められるか否かであろうと思う。この問題 については,別稿で改めて論じることにして,ここでは,入院加療中のネ ルヴァルが壁面に描いたとされる神秘的な図像に絞って考察を加えること にする。
ネルヴァルの友人であったマクシム・デュ・カンは,後に『文学的回想』
(1883) の中で,次のように記している。おそらく,上記の出来事に関する
ものと思われる回想的記述である。
「彼は,一枚の紙の上に,複雑怪奇な絵をいくつも描いて,それに 花の汁で彩色を施し,説明文を添えていた。この絵は,今も大切に私 の手許にとってあるのだが,私の知る限り,気違いが描いた図像とし ては最も異様なもので,ネルヴァルの宇宙生成観を他者に知らせ,説 明する目的で描かれたものであった。それは,文学と魔術とカバラの 秘法が入り混じったもので,解読不能である。すべてが,一人の巨大 な女性の周りに引きつけられていた。女性の後ろでは七つの星が光輪 を描き,龍が絡みついた天体の上に立つ彼女は,ディアナと聖女ロザ リアとジェニー・コロンを同時に象徴するものであった。」
(Ch. XX, éd. Aubier, 1994, p. 431)
この図像では,女神イシスが,ディアナ,シチリアの守護聖女ロザリア,
ならびにネルヴァルの永遠の恋人であった女優ジェニー・コロンなどと同 一視されていることになる。ここには,女神,聖母,聖女,あるいは伝説 上の女性,実在の女性,架空の女性など,あらゆる女性を一人の永遠の女 神に集約するという,ネルヴァルの女性神話形成の基本的構造が認められ る。また,マクシム・デュ・カンの上記の記述が正しいとすれば,ネルヴ ァルが描いた図像は,アプレイウスの『黄金の驢馬』をもとに制作され,
アタナシウス・キルヒャーの『エジプトのオエディプス』(1652 年頃)に 収録されている女神イシスの木版画を彷彿とさせる。更に,若干の図像上 の相違はあるものの,この図像はまさに,『聖書』の『ヨハネの黙示録』
の第12 章第1節以下の次のような記述に対応しているといってよいであ ろう。
「1また,天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまと い,両足で月を踏みしめ,頭には十二の星を連ねた冠をかぶっていた。
2女は身もごっていたが,子を産もうとする痛みと苦しみのため叫ん でいた。3また,もう一つのしるしが天に現れた。見よ,火のように 赤い大きな龍である。これには七つの頭と十本の角があって,七つの 頭には,それぞれ冠をかぶっていた。4龍の尾は,天の星の三分の一 を掃き寄せて,地上に投げつけた。そして龍は子を産もうとしている 女の前に立ちはだかり,女が子を産んだら,その女を飲みこんでしま
おうとしていた。5女は男の子を産んだ。この子は,鉄の杖ですべて の国民を治めることになっていた。子は,神のもとへ,その玉座へ引 き上げられた。」(共同訳『新約聖書』)
ネルヴァルが『ヨハネの黙示録』に強い関心を抱いていたことは,『オ ーレリア』の草稿断片の一つが如実に示している。この草稿は2枚からな り,当初2と3の番号が振られたあとテクストが書き増されるにつれて,
順次14と15,17と18(?),そして25と26という番号がつけられた もので,一枚目の裏面に《続・病中記:シバの女王》と書かれている。内 容から推して,『オーレリア』の第1部第7章に対応する草稿である。こ の草稿に次のような記述がある。
「同病の姉妹達が,砂の上あるいは紙に描いている数々の象形文字 は,私の思想と関連があるもののように見えてきたが,そうした女性 達の真っ只中にあって,落ち着きを一層取り戻した私は,数多くの私 の夢の中に現れた女神の図像を描き出そうと試みた。草木の汁を浸み 込ませた一枚の紙切れに,私は《南国の女王》を,夢で見た通り,
『使徒聖ヨハネの黙示録』に描かれたように描き上げていったのであ る。彼女は,星の冠を戴き,頭には虹の七色が煌めくターバンを巻い ていた。柔和な顔立ちをし,その肌はオリーヴがかった色合いを帯び,
鼻はハイタカの嘴ように反っていた。薔薇色の真珠の首飾りが首の回 りにめぐらされ,両肩の後ろには菱形模様のレースの襟が丸くひろが っている。ドレスはヒヤシンス石の黄橙色を呈し,一方の足は橋の上,
もう一方は一輪の車輪を踏まえている。片方の手はイエーメンの山々 の中で最も高い岩山の上に置かれ,もう一方の手は,俗人達が火の花 と呼び慣わしているアンソカの花を天に向けて揺さぶっている。天空 の蛇が口を開いて,その花を捉えようとするが,光り輝く冠毛に飾ら れたたった一粒の種子が,開かれた深淵に呑み込まれていくだけであ った。白羊宮の徴しが天の軌道に二度現れ,まるで鏡に映るかのよう にあの《女王》の姿がそこに映し出されて,女王は次第に聖女ロザリ アの顔立ちを帯びていく。星の冠を戴いた彼女は,世界を救う準備を 整えて,姿を現す。そして,天空の星座が光り輝やいて彼女を取り巻 く。」(III, p. 775)
ここでは,エチオピアのシバの女王が女神イシスと同一視されている。
ネルヴァルにとって,シバの女王は,『東方旅行』の手帖の第12 ページ に書き留められた「シバの女王がソロモンの后となるのが運命の定めであ った。(最も美しい女性と最も賢い男性)」という記述が示す通り,理想の 女性の一人であった。彼は,シバの女王を主人公にして『暁の女王と聖霊 の王ソロモンの物語』を書き上げたばかりでなく,1835 年のドワイヤネ 袋小路で粋な放浪生活を送っていた時代に,あこがれの女優ジェニー・コ ロンを主役とするオペラ『シバの女王』の構想に没頭していた。マイヤベ アーに作曲を依頼したこのオペラは,マイヤベアーが尻込みしたため,結 局生前には実を結ばなかったが,ネルヴァルが死の直前に書き留めた自分 の「全集計画」案には,主題と題する項目中に,「『シバの女王』五幕・ア レヴィー」と記されているように生涯暖めていた構想であった。これらの ことを考えると,この草稿からは,女神イシス=シバの女王=ジェニー・
コロンという同一視の連関が認められるといってよいであろう。
アウレリアエ
スウェーデンボリの代表作ともいえる大著『真の基督教』(1771) の第 335項に次のような記述がある。
「(…)他の例。蚕はまだ幼虫に過ぎないとき,心の中でこう呟く。
「さあ絹を織って繭を作る準備をする時だ。繭が出来あがったら,空 を飛び回り,仲間たちと浮かれまわって,それから私の代を絶やさぬ ことを考えるという素晴らしい目的があるのだ。何故かといえば,私 は今は重すぎるし,羽がないのだから,身軽になってからその助けを 借りてやれるようなことはとてもできない。ほかの幼虫や昆虫たちも 皆,いつになったら,壁に沿って這い回ったり,ニンフになり,アウ レリアエになり,蛹になり,そして最後に蛾になれるかと考えている のであろうか。(…)」(1819年,モエの仏訳版,I, p. 445)
ここで注目したいのは,オーレリアAurélia という作品の表題となった 名前の典拠の一つがここにあるのではないかと思われることである。スウ ェーデンボリの記述の中では,ラテン語の《アウレリアエ》Aureliae とそ のフランス語表記である《オーレリー》Aurélie が,明らかに蚕が蛹から 蛾に変身する途中の一過程の状態に与えられた名称であることが分かる。
蛹から蝶または蛾になるというこの変身過程は,エジプトのミイラに通 じるものをもっている。例えばネルヴァルは,『東方旅行』の中で,ミイ ラについて,「奥の方をじっと見つめたところ,それは本物の人間の繭で あった。蛾はまだ外には出ていない。だが,いつの日にか蛾がかえるかも しれないということを誰が否定できようか。」白い布でぐるぐる巻きにさ れたミイラは人間の繭である。人間の繭は,ピラミッドの地下の暗闇の中 で,じっと再生の日を待っているのである。
このように考えると,《オーレリア》という作品の表題は,アプレイウ スの変身譚『黄金の驢馬』を手本にした女神イシス神話に貫かれたネルヴ ァルの作品の名称として実に相応しいといってよいであろう。
更に,蛹から蛾もしくは蝶に至る変身の一過程の状態の名称であるアウ レリアエが,『シルヴィー』に登場するオーレリーならびに『オーレリア』
の女主人公のオーレリアという,ともに女優である女性の名前として採用 されていることにも注目すべきであろう。女優は,舞台の上で,過去・現 在・未来のあらゆる女性に変身することができるばかりでなく,神話の女 神や伝説上の女性など,いわば架空の存在までも,現実のものとしてひと びとの前に具象化することができる。
従って,『オーレリア』では,すべての女神のみならず,あらゆる女性 を一身に神格化することができるという象徴的な存在である女神イシス と,すべての女性になりうる女優という,いわば二系統の女性神話が密接 に絡み合っていることが分かる。
黒い太陽
第2 部の第4 章で,作中の主人公は,過去に犯した罪を贖うことに生 き甲斐を見出し,立ち直ろうとするが,周囲の状況が悪化して,不安定な 精神状態に陥っている。仕事に追われ苦しみ,友人の死や政変が重なって,
意気阻喪の状態は極限に達する。亡き恋人オーレリアが葬られているモン マルトル墓地に行くが,門は閉ざされているのを見て,それが凶兆である と思う。クリシー門のあたりで喧嘩に遭遇するが,それを分けることすら できない。絶望にさいなまれて場末を彷徨い歩く。ヴィクトワール通りの あたりで一人の神父に出会ったので,懺悔をしたいと申し出る。しかし,
教区が違う上,ひとを訪ねる途中だから,明日ならよいということで,す ぐには受け容れてもらえない。
「絶望した私は,涙にくれてノートル=ダム・ド・ロレート教会堂 に行き,《聖処女マリア》の祭壇の足下にひれ伏して,私の犯した 数々の罪科に対する赦しを乞うた。すると,胸の中で何かが,「《聖 処女マリア様はお亡くなりになったのだから,お前の祈りも無駄だ よ。」と語りかけるのであった。私は聖歌隊席の最後列のところに行 って跪き,指から銀の指輪をはずした。その宝石には,アッラー!モ ハメッド!アリ!という三つのアラビア語が刻まれていた。(…)」
(II, iv ; III, 733)
主人公は,パリのモンマルトルの麓にある,ロレートの聖母マリア信仰 につながる教会堂に赴いて,聖母マリア像に祈りを捧げ,犯した罪に対す る赦しを乞い,ミサに列席する。しかし,主人公がはめていた指輪は明ら かに異教すなわちイスラムに対する信仰を象徴するものであった。ここに は,主人公,すなわちネルヴァルの諸教混淆的信仰が良く現れている。た とえ,指から異教信仰の指輪を外しても手遅れで,この時,キリスト教会 において,赦しは得られない。絶望した主人公は,そこで当然自殺を試み ることになる。
「コンコルド広場に着いたとき,私の頭は自殺しようという思いで 一杯であった。繰り返し何度もセーヌ河へと足を運んだのだが,何か がこの思いを妨げるのであった。夜空には星が瞬いていたが,ふと私 は,教会堂で見かけた蝋燭のように,これらの星も,つい先ほどまで その輝きを消していたのではないかと思った。時の流れが全うされ,
われわれは『ヨハネの黙示録』に予告されているこの世の終わりに近 づいているのだと思い込んだ。私は,荒涼とした空に,黒い太陽を,
そしてチュイルリー宮の上には血のように赤い一つの天体を見たよう に思った。「永遠の夜が始まるのだ。しかもそれは恐ろしいものにな るんだ。太陽がもう無いことにひとびとが気が付いたら,一体どうな るんだろう。」と,私は独り言を言った。(…)」(II, iv ; III, 734)
作者自身が言及しているように,ここには,最後の審判の訪れを告げる 黒い太陽に関する『ヨハネの黙示録』第6 章第12 節から第17 節に至る 記述の影響が明確に認められる。
「12 また,見ると,子羊が第六の封印を開いた.そのとき,大き な地震が起きて,太陽は毛の粗い布地のように暗くなり,月は全体が 血のようになった。13 また,天の星は地上に落ちた。まるで,いち じくのまだ青い実が,大風にゆさぶられて振り落とされるようだった。
14 天は巻き物が巻き取られるように消え去り,山も島も,みなその 場所から移された。(…)17 御怒りの大きな裁きの日が来たからであ る。いったい,だれがそれに耐えられるであろうか。」
(共同訳『新約聖書』,『ヨハンネスへの黙示』より)
なお,ネルヴァルは,ヴァロワで過ごした幼少時代,神秘思想に傾倒し ていた大叔父のアントワーヌ・ブーシェから思想的に強い影響を受けた。
「ただし,女子供が教会に行くことを妨げたりするようなものではなかっ た。だから,私も,叔母の一人からキリスト教の美点と偉大さを理解させ るような,いくつかの教えを受けたのであった。1815 年から我が国にい た一人の英国人が,私に山上の垂訓を教え,一冊の『新約聖書』を呉れた
…。」(II, iv ; III, p. 731)この記述からうかがえるように,ネルヴァルは幼 少時からある程度『新約聖書』に親しんでいたのである。
大洪水の幻
精神異常の発作が再発した作中の主人公の病状は一進一退の経過を辿 る。ようやく健康を取り戻した主人公は,パリ周辺の散策に出かけ,《最 良の小説の一つ》の執筆に取りかかる。作者の現実の生活では,この小説 が,「両世界評論」誌の1853年8月15日号に発表した『シルヴィー』で あることは明らかである。主人公はこの作品を発表した二,三日後から,
執拗な不眠症に取り憑かれてしまう。そんなある日のこと,次のような体 験をする。
「昼食後,私はサン=トゥースタシュ教会堂に足を運んで,母を思 い浮かべながら《聖処女マリア》の祭壇の前に跪いて,敬虔な祈りを 捧げた。流した涙に,張りつめた心も和むのであった。教会堂を出る とき,私は銀の指輪を一つ買った。その足で父を訪ねたが,留守だっ たので,マーガレットの花束を残して帰った。それから植物園に行っ た。大勢の人がいた。しばらくのあいだ私は,池で沐浴している一匹 の河馬を眺めて過ごした。―そのあと,骨格館を見学した。収蔵さ
れている巨獣を眺めて,私は大洪水のことを思い浮かべた。骨格陳列 館を出ると,物凄い驟雨が植物園の上に降り注ぎ始めた。「なんてひ どいことだ!この女子供達が皆ずぶ濡れになるなんて!」と思った。
更に,「いや,それどころじゃない!本当の大洪水が始まったのだ!」
と思うのだった。水は付近の路上にまで上がってきた。私は,サン=
ヴィクトール通りまで走っていき,世界を覆い尽くす大洪水を思わせ るこの洪水を止めようと念じて,一番水嵩のあるところに,先刻サ ン=トゥースタシュ教会堂で買い求めた指輪を投げ込んだ。すると,
ほぼ時を同じくして,嵐が鎮まり,ひと筋の日の光が射し込み始めた。
私の心に希望が蘇った。(…)」(II, v ; III, 736)
ここに述べられている骨格陳列館というのは,パリの植物園にある自然 史博物館の展示棟の一つのことで,現在,古生物学・比較解剖学展示棟と 呼ばれているものの前身である。現在の展示棟では,一階が比較解剖学の 標本展示に充てられ,36,000 体に及ぶ脊椎動物の骨格が収められており,
二,三階には恐竜など先史時代の古生物の膨大な骨格標本が収蔵展示され ている。現在の建物は1893 年に建造されたもので,ネルヴァルの時代の ものではないが,基本となるコレクションは当時すでに存在しており,植 物園内の骨格展示館で公開されていた。こうした骨格の化石は,先史時代 の世界を彷彿とさせるもので,原初の世界の調和を夢見るネルヴァルにと って,興味深い存在であったに違いない。それゆえ,主人公は,骨格展示 館出見学した先史時代の化石に誘発されて,激しい驟雨に大洪水の幻を見 るのである。「世界を覆い尽くす大洪水」というは,当然,『旧約聖書』の
『創世記』の第6章から第9章にかけて述べられている「ノアの方舟」に 関する一連の記述につながる。ここから想起されるネルヴァルの終末論に ついては,すでに拙論「ネルヴァルの終末思想――『パンドラ』の謎(3)
――」(「立教大学フランス文学3」,1973)でやや詳しく述べたので,ここで はこれ以上触れない。しかし,ここにも,『聖書』,とくに『創世記』の影 響が強く認められることを指摘しておく。
試 練
『オーレリア』の第 2部第5章では,この後,精神錯乱の発作が再発し て,主人公はパッシーの精神病院に収容される。ネルヴァル自身は,精神 錯乱の発作が再発して,1853 年8 月27 日,パッシーのエミール・ブラ
ンシュ博士の精神病院に入院させられているが,次の記述は,その時の体 験を踏まえて書かれたと考えられる個所である。
「(…)狂人たちの中にいる自分を見て,私は,それまでのすべて が,自分にとって幻影に過ぎなかったのだということを悟った。ただ,
女神イシスの約束された事柄が,私の受けようとしている一連の試練 によって実現されて行くように思われた。そこで,私は,観念して,
それらの試練を受け容れたのであった。」(II, v : III, p. 738)
「試練」という言葉は,『オーレリア』の冒頭に示されているように,何 よりもまず,アプレイウスの『黄金の驢馬』を想起させる。そこでは,驢 馬に変身したルキウスが,常に解脱を希い,試練に服していくと,遂に,
女神イシスの恩寵によって,薔薇の花輪を味わい,もとの人間の姿に立ち 返る。
『オーレリア』の主人公の犯した数々の罪科のなかで,最も赦し難いの は,自分の過失によって愛する恋人を失ってしまったことである。
「(…)彼女は失われてしまった!でもどうしてなんだ!…」と,私 は叫んだ。「分かった,――あの人は,僕を救うために最後の力を振 り絞ったのだ。僕は,まだ赦しが可能であった彼女の臨終に間に合わ なかったんだ。天空の高みから,彼女は僕のため「聖なる夫」に祈り を捧げてくれたのかもしれない…だが僕の救いなど一体何になろう。
地獄の深淵はその獲物を呑み込んでしまったのだ!(…)」
(II, ii : III, p. 728)
もう一つの大罪は,先に述べたように,『オーレリア』の第1 部第 10 章を締めくくる次のような記述によく表れている。
「私は一体なにをしでかしてしまったのであろう。わたしが不死の 存在に対する確信を汲み取っていた魔術的世界の調和を乱してしまっ たのだ。ことによると,神聖な掟に背いて,畏るべき神秘に踏み込も うと望んだために,私は呪われてしまったのであろう;だから,今と なってはもはや怒りと軽蔑を待つだけであった!(…)」
(I, x ; III, p. 721)
やがて,主人公は,自分が神聖な秘法伝授の試練に服しているのだとい うことを確かめた瞬間から,不屈の力が精神に漲り,自分が,神々の庇護 を受けた生ける英雄の一人であると思う。
「すると,自然界にあっては,すべてが新しい様相をとり,(…)小 石の組み合わせ,隅石,隙間,天窓などの形,木の葉の縁,色彩,香 り,音などから,それまで知らなかった調和が生まれるのに,私は気 付いたのだ。(…)「すべてが生き,すべてが行動し,すべてが対応し 合っているのだ。僕の体内から発する電磁波,あるいはその他の電磁 波が,何にも遮られずに,果てしなく繋がる創造物を貫いていく。そ れは,世界を覆う透明な網なのだ。そして,この網から解きほぐされ た糸が,次第次第に,惑星や恒星にむすびついていく。」
(II, vi ; III, p. 740)
ここには,スウェーデンボリの説く万物照応の思想や,フランツ・アン トン・メスマーの説く動物磁気説,多くの神秘思想家たちが説いた小宇宙 と大宇宙つまり人体と天体との照応関係などの影響が認められる。
女神イシス
救いを祈願して試練に耐えた主人公の前に,遂に女神イシスが姿を現 す。
「(…)私は,母であり神聖な妻でもある永遠の女神イシスに思いを 馳せた。すると,私の願いと祈願のすべてがこの魔術的な名前の中に 融け合って,自分がこの女神の中に生まれ変わるような気持ちを覚え た。時には,この女神は古代の女神ウェヌスの姿をとって,また時に はキリスト教徒たちの《聖処女》マリアの面影をとって私の前に現れ るのであった。」(II, vi ; III, 741)
この記述は,アプレイウスの『黄金の驢馬』の次のような記述をふまえ ている。
「ルキウスよ,私はお前のお祈りに大変心をうたれてここに参りま した。私は万物の母,あらゆる原理の支配者,人類そのものの創造主,
至上の女神,黄泉の女王,天界の最古参にして,世界の神々や女神の 理想の原型。そして私は輝く蒼穹と海を吹きわたる順風と地獄の恐ろ しい沈黙を,意のままに統御できます。(…)」(呉茂一訳)
アプレイウスの描く女神イシスの姿は,前述のとおり,アタナシウス・
キルヒャーの『エジプトのオイディプス』に収録された木版画に最もよく 表現されている。
18 世紀の神秘思想家アントワーヌ=ジョゼフ・ペルネティ神父の代表 的著作である『神話神秘事典』(1758) は,おそらくネルヴァルが愛読した と思われるものであるが,その中でも,イシスについて次のように記され ている。
「イシスは,エジプトならびにその他多くの国々で主要な女神の一 人であった。多くの作家が,正当なことであるが,この女神を異教の 普遍的女神と見なしてはいるものの,異なる名前のもとに崇めた。す なわち,ケレース,ユーノー,ルーナ(月),テールス(大地),プロ セルピーナ,テティス,神々の母またはキュベレー,ウェヌス,ディ アーナ,ヘカテー,ラムヌーシア,ならびに自然そのものも,イシス と同一人物に他ならなかったのである。その結果,ミリオニームある いは千の名前をもつ女神という名称が与えられた。」
ここには,女神イシスがありとあらゆる女神を一身に集めた普遍的な女 神であるという説が継承されている。
錬金術
ここでは,ペルネティー神父の一連の研究が,錬金術の秘義の解明に充 てられているという点に注目したい。周知の通り,古来,錬金術というも のは,人間の力で,金を創り出すことを目的にしている。黒々とした卑金 属の鉛を素材にして光り輝く金を創り出そうというのである。それは,ま さに,神の声すなわち「神言」による世界の創造そのものではないか。
『旧約聖書』の冒頭の『創世記』は,次のように書き起こされている。
「1初めに,神が天と地を創造した。2 地は形がなく,何もなかっ た。やみが大いなる水の上にあり,神の霊は水の上を動いていた。
3そのとき,神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみを区別され た。
5 神は,この光を昼と名づけ,このやみを夜と名づけられた。こうし て夕があり,朝があった。第一日。」(新改訳『聖書』)
錬金術で言う第一素材すなわち黒い鉛は,『創世記』でいう世界創造の 原点としての「原初の闇」に相当する。従って,鉛から金を創り出そうと いう錬金術師の試みは,ちょうど,神が「光よ。あれ。」という言葉によ って,闇から光を生み出した行為を手本にして,創造の秘技を確立するこ とであった。言い換えれば,錬金術師たちの野望は,創造主たる神への挑 戦である。そして,人間の力を,神の世界創造に匹敵する水準にまで高め ようという,錬金術師たちの罪深い,不遜ともいえる野望はまた,言葉に よる世界の創造という,文学者の野望とぴったり重なりあう。更に,女神 イシスをはじめとする諸々の大地母神に対する信仰もまた,地中の闇から 植物を再生する秘力に対する崇拝から成り立っていることは言うまでもな い。これらを考え合わせれば,『オーレリア』の冒頭に置かれた夢によっ て開示される地下の闇の描写は,世界創造の原点である「原初の闇」を意 味するといえるであろう。
記憶すべき事柄
『オーレリア』の最終章である第II 部第 6 章には,《メモラーブル》
Mémorables すなわち《記憶すべき事柄》と題して,本文とはやや異質の
数編の断章が挿入されている。これは,ネルヴァル自身が,「私は以下に,
《メモラーブル》という表題のもとに今話したばかりの夢の後に続く,
数々の夢が残した印象を書き記す」と断っていることから分かるように,
エマヌエル・スウェーデンボリの主著である『真の基督教』に用いられて いる形式である。「メモラビリア」という表題のもとに随所に挿入されて いる断章群は,スウェーデンボリが体験した幻想的な神秘的体験を例示す るためのものであるが,例えば同書の第851 項では,その意図について 次のように説明がなされている。
「本書の《記憶すべき事柄》を読む多くの人々は,それが想像の産 物の虚構と信じるであろうと,私は予想している。しかし,私は,自
分が完全に目覚めている状態で,見かつ聞いたものを記したに過ぎな いことを,厳かに宣言する。何故なら,主はご自身を私の前に顕わし,
黙示録における新しいイエルサレムによって意味されている,主の新 しい教会の教義を教えるために,私を遣わすことを良しとし賜うたか らである。」
この記述からも分かるように,スウェーデンボリは,明らかに『ヨハネ の黙示録』を手本に,自分に示された新たな黙示を伝えるために《記憶す べき事柄》という形式を採用しているのである。そして,その形式を援用 したネルヴァルの意図もまた,自らの感知した黙示を示すことであったと いえるであろう。
ネルヴァルへの黙示:新しいイエルサレム
『オーレリア』の第 II 部第6 章に挿入されている《メモラーブル》
Mémorables すなわち《記憶すべき事柄》と題された断章は,夢の中に現
れた幻の描写であるが,ネルヴァルに対する黙示を思わせるものを含んで いる。
まず,主人公に対する赦しが予告される。
「ああ!私の女友達のなんと偉大で美しいことか!あまりにも偉大 だから,彼女は私を赦してくれたのだ。(…)」(II, vi; III, p. 746) 次いで,試練が終わりに近づいていることが示される。
「その夜,善意に満ちあふれたサチュルナンが私を助けにやってき た。私の偉大な女友達は,私の傍らで,銀の馬飾りをつけた白い牝馬 に跨っていた。彼女は私に話しかけた。「元気をお出しなさい,兄 弟!もう最後の段階なのですから。」そして,大きく開かれた彼女の 眼は,むさぼるように虚空を見つめ,イエーメンの香気の立ちこめた 長い髪の毛は空にたなびいていた。
私はそこに*** の顔立ちを認めた。われわれは勝利に向かって飛翔 し,われわれの敵は足下にあった。(…)」(II, vi ; III, p. 746)
ここでは,主人公の分身といえるサチュルナン,シバの女王,そして永
遠の恋人オーレリア,ソフィーの名称のもとに統合されるさまざまな女性 について語られている。次いで,新しいイエルサレムが黙示される。
「「おお《死》よ,どこにおまえの勝利があるというのか?」勝利者 である救世主メシアがわれわれ二人の間を騎馬で行くのであるから。
その衣は硫黄の色合いを帯びた赤褐色で,袖口と足の踝には,ダイヤ とルビーがちりばめられ,燦然と煌めいていた。その軽やかな鞭が
《新しいイエルサレム》の真珠貝の扉に触れると,たちまちわれわれ は三人とも,溢れんばかりの光に包まれた。そこで私は,この悦ばし い知らせを伝えるため,人々の間に降りていったのである。」
(II, vi ;III, pp. 746-7) そして,主人公に対する赦しの黙示。
「私はまことに甘美な夢から覚めた。それは,かつて私が愛してい た女性が,姿を変え,光り輝いているのに再会するという夢であった。
空はすっかり栄光に包まれ,私はそこにイエス・キリストの血で記さ れた《赦免》という言葉を読みとった。その時,突然,一つの星が空 にまたたき,この世と様々な世界の秘密を私に洩らしてくれるのであ った。ホザナ!地には平和,天には栄光あれ!」(II, vi ; III, p. 747)
*
このようにして,夢が開いてくれた,想像力の根源である闇の描写に始 まる作品『オーレリア』は,新しいイエルサレムの黙示によって結ばれる のである。ネルヴァルは,この作品を,「私の嘗めてきた一連の試練を,
昔の人たちにとって地獄下りの思想を表す事柄にたとえるのであった。」
という言葉で総括している。確かに,この作品は地獄下りの物語の性格を そなえている。さらに,これは,すべての女性を一身に具現した女神イシ スによる救済の物語であり,夢や精神錯乱によって開かれた想像力の新し い地平の物語でもある。しかし,以上のような概観を通して,私には,こ の作品が,何よりも先ず,ネルヴァルが自らの 世界観を開陳した新しい
『世界史』あるいは『宇宙誌』への挑戦であるように思われる。換言すれ ば,この作品はまさに,ネルヴァルの『創世記』に始まり,『ネルヴァル への黙示』で結ばれる,ネルヴァルの『聖書』なのである。