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補文標識「の」「こと」の名詞性とその選択につい て

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

補文標識「の」「こと」の名詞性とその選択につい

著者 大嶋 秀樹, 加藤 久雄

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 48

号 1

ページ 1‑9

発行年 1999‑11‑10

その他のタイトル A Study of NO, KOTO, Japanese Complementizer

URL http://hdl.handle.net/10105/1455

(2)

補文標識「の」 「こと」の名詞性とその選択について

大 嶋 秀 樹*・加 藤 久 雄

(奈良教育大学国語学教室) (平成11年4月30日受理) キーワード: の、こと、異体名詞、抽象名詞、名詞性、構文標識

1.は じ め に

1.1.補文標識「の」「こと」

日本語の補文標識には「の」 「こと」 「と」 「ところ」

などがある。

(1〕 ノブは、佐野が帰ってくるのを待っていた。

(2)洋二は、ノブが失敗したことを悔やんだ。

(3)学生たちは、講義が休講になったと勘違いした。

(4〕物語は、主人公がそば屋ののれんをくぐるとこ ろから始まる。

さて、補文標識としては、以上のようなものがあげら れるのであるが、その中でも、 「の」と「こと」については、

次の例文に見られるように、その使い分けがしばしば問 題になる。

(5)教師は、子どもが無限の能力をひめている の /ノこと を知った。

(6)少年が、カゴの中の小鳥が空を見つめている の/*こと を見た。

(7)子どもたちは教師に、小鳥を空に放っ ?の//

こと を要求した。

(5)は「の」と「こと」を置きかえてもあまり違いが感じ られず、そういった意味では互換が可能だといえるのに 対し、 (6)や(7)では、両者を置きかえると、どちらか 一方が不自然に感じられる。このことは、捕文標識「の」

「こと」の選択に関して、何らかの制約がはたらいている ことを意味する。本稿は、その選択について、 「の」「こ と」の名詞性の観点から考察するものであるD

* 現在奈良市立伏見中学校常勤講師

1.2.研究の目的

「の」 「こと」の選択の問題については、これまで盛 んに研究がおこなわれているにもかかわらず、現段階で はそれらの研究が未整理のままの状態である。また、こ れまでの研究において、用例の観察により、 「の」 「こと」

の使用状況、および、そこに見られる規則性は明確にな りつつあるが、 「なぜそういう分布になるのか」 「なぜそ ういう規則性が生じるのか」という点については、ほと んど言放されていない。

本稿の目的は、そのような状況にある先行研究を、そ の問題点を指摘することによって整理し、さらに、使用 状況に規則性が生じる原因を、 「の」 「こと」の名詞性の 観点から説明することである。

2.先行研究の分析

「の」 「こと」の選択については、研究が盛んではあ るが、興味深いことにそれらは結論の一致を見ない。さ らに、同じ問題に関する研究であるにもかかわらず、研 究の観点さえも様々である。したがって、この問題を研 究するには、それらの先行研究を分類・分析することが、

研究の現状や進み具合を知るうえでも有益であり、また 必要不可欠であると考える。そこで、この章では、これ まで様々な観点からなされてきた研究を、それぞれの観 点別にまとめ、それらが抱える問題点を明らかにしたい。

2.1. 「の」専用文に見られる同時性・同一場面性

井h (1976)は、 「の」専用文において、主文のあら わすできごとと補文のあらわすできごととの間には「同 時性」 (p‑264)という関係があると指摘し、さらに坪本

(1984)は、それらの間には「同時性」とともに「同一

(3)

2 大 嶋 秀 樹・加 藤 久 雄

場所生起」 (p.88)という関係があると指摘した。そし て、橋本(1990)は、 「の」専用文には「主文のあらわ す出来事と補文のあらわす出来事とのあいだに、同時性、

同一場面性といった意味的な 《密接性≫ がある」

(p.lll[2])とした。

井上(1976)、坪本(1984)、橋本(1990)などの研究 をはじめ、日高(1992)もこの考え方を支持しており、

その点で「同時性」 「同一場面性」という概念は、 「の」

「こと」の選択を論じるうえで重要であるといえる。そ こで、これらの概念から考察することにする。

(8)太郎は飛行機がふもとに墜落する の/*こと を見た。 (橋本〕

(8)は「の」専用文の例であるが、主文のあらわす できごとと、構文のあらわすできごととが、同時かっ同 一場面で起こっているといえるo このとき、両者の問に

「同時性」 「同一場面性」の関係があるといい、この関係 について、先行研究は、 「の」専用文全般に見られると し、したがって、両者が次のように同時的でなかったり 同一場面的でなかったりすると、非文になると分析する。

(9) 太郎は飛行機が昨日墜落したのを、今日見た。

さて、 「の」専用文においては、確かに「同時性」 「同 一場面性」の関係が見られることが多いようではある。

しかし、この関係は「の」専用文に見られる傾向として は妥当であるが、 「の」専用文に必ずこの関係があると することには疑問を抱かざるを得ない。以下に、その理 由を示す。まず、次の例は「の」専用文であるにもかか わらず、 「同時性」の関係がない。

(10)太郎は父親が家に帰ってくる の′/*こと を 待った。

(ll)松子は咲子の氷嚢がずり落ちる の/*こと を直した。

これらの例について、主文のあらわすできごとと補文 のあらわすできごとは、同時であることはなく、必ず後 者の方が先に実現し、その後、前者が実現する。つまり、

「の」専用文の多くに見られる「同時性」 「同一場面性」

の関係は、 「の」の特徴ではなく、主文の述語の意味的 特性によるものであると考えられる。そう考えると、次 の「の」 「こと」両用文の例において、 「の」が選択され た場合に「同時性」 「同一場面性」の関係がないことが 説明できる。

(12)彼らは幸福が訪れる の/こと を期待した。

(井上)

(13)昼間のうちに戸を閉めて、夜に虫が入ってくる の/こと を防止しなければなりません。 (井上)

「の」専用文と、 「の」が選択された「の」 「こと」両 用文は、同じく「の」が選択された文であるにもかかわ らず、 「同時性」 「同一場面性」の関係があるか否かとい う点で全(性質が異なっている。つまり、 「の」専周文 で「同時性」 「同一場面性」といった関係が見られたの

は、 「の」のためではなく、 「見る」「聞く」「手伝う」な どの動詞が意味的に同時・同一場面でなければ成立しな いものだからである。 「待つ」の場合は意味的に同時で あってはならないから、 「の」専用文であるにもかかわ らず「同時性」の関係がないのである。さらに、 「の」

専周文においても、 「の」が選択された「の」 「こと」商 用文においても、同様に「の」が選択された文であるか ら、両者を統一一的に説明できる規則でなければ、 「の」

「こと」の選択を決定する規則としては力が弱いといわ ざるを得ないD

2.2.補文の意味役割

橋本(1990)は、次のような意味規則をあげ、 「の」

「こと」両用文と「こと」専用文を特徴づけた。

(14)意味規則Ⅲ 補文の意味役割が〈対象となるこ とから≫ ならば「の」「こと」両用文となり、

《生産されることがら≫ ならば「こと」専用文に なる。 (P.108L5J)

まず、橋本(1990)の論を説明し、それから問題点を 述べることにする。次の例は、橋本(1990)が、構文に

《対象となることがら≫ をとる文としてあげている例で ある。

(15)久志は授業をさぼった の//こと を後悔した。

(橋本)

(16)太郎はその男が以前商社に勤めていた の/こ と を知っている。 (橋本)

たとえば、 (15)の構文「授業をさぼった」は主文動 詞「後悔する」の対象であるということである。 (14) によると、こういった例は「の」「こと」両用文になる。

また、次の例は、橋本(1990)が、補文に 《生産される ことがら〉 をとる文としてあげている例である。

(17)正幸は屋根裏に隠れる ??の/こと を思い ついた。 (橋本)

(4)

(18)太郎は和恵の借金を肩代わりする ??の/こ とを申し出た。 (橋本〕

橋本(1990)は、たとえば(17)の構文「屋根裏に隠 れる」は、主文動詞の「思いっく」という行為によって

「生み出される案や考え、すなわち 〈生産されることが ら卦をあらわしている」 (p.107[6])としている。 (14〕

によると、こういった例は「こと」専用文になる。

以上に述べた、補文の意味役割を《対象となることが ら≫ と 《生産されることがら》 の二つに分けて論じる方 法は、一見妥当であるかのように思われる例もあるが、

以下のような理由で支持できない。

橋本(1990)は、 (15)について、 「(「後悔する」は〕

捕文にあらわされることがらに対してなんらかの感情を おこす、というタイプの意味を持っ動詞であるから補文 の意味役割が 〈対象となることがら〉 である」

(p.108[5J)とする。それに対し、 (16)については、

「本稿で問題となる補文は必ず《対象となることがら≫

であるか 《生産されることから卦 であるかのどちらかで あ」 (p.108[5]〕るとしたうえで、 「 〈生産されることが ら》ではない以上、 〈対象となることがら≫ でしかあり えない」 (p.108[5]‑107[6])とする。つまり、これら の記述は 《対象となることがら≫ の定義が非常にあいま いであることを示しているO

また、次の例の(19) (20〕は、橋本(1990)が「構 文が〈生産されることがら≫をあらわしているのか《対 象となることがら卦 をあらわしているのか、直感では分

かりにくい」 Cp.106[7]‑105[8])と問題視している例 であり、 (21) (22)は、橋本(1990)が問題なく 《生産 されることがら≫ をあらわすとしている例である。

(19)新聞はストが中止になった?の/こと を伝 えた。 (井上)

(20)櫨は多報の借金を抱えている ?め./こと を 白状した。 (橋本)

(21)その国は戦争が終結した ??の/こと を宣 言した。 (橋本)

(22〕 A氏は当時松本氏が陸軍司令部にいた??の

′/こと を証言した。 (橋本)

これらの例について橋本(1990)は、それ以外の 《生 産されることがら≫ をあらわす文よりも「補文が《対象 となることがら≫ をあらわしていると解釈される余地を 持っていること」 (p.105[8])と、 「「の」の許容度が高 い(すなわち「の」「こと」両用文に近い)ということ」

(p.105[8])などの理由から、 「意味規則Ⅱに対して少な くとも決定的には障害をきたさないことは確実」

(p,105[8])であると判断し、その理由から(19) (20) の例についても 〈生産されることがら≫をあらわすと決

定している。しかし、これらの例の補文が〈生産される ことから卦 をあらわしているとは到底考えられない。な ぜなら「伝える」「白状する」という行為によって「ス トが中止になった」 「多額の借金を抱えている」という 事態が「生産される」と解釈することは不可能だからで ある。同じく(21) (22)についても、 「宣言する」 「証 言する」という行為によって「戦争が柊結した」 「当時 松本氏が陸軍司令部にいた」という事態が「生産される」

とは考えられない。以上のように、用例観察の点で、橋 秦(1990)の論は支持できない。

04)は、補文の意味役割がすべて 《対象となること がら≫か《生産されることがら渉 のどちらかに分けられ ることを最大の根拠としているが、それらの意味役割の 定義があいまいであるため、どちらの意味役割とすれば よいのかという判断が困難なものが出てくる。したがっ て、このような意味規則は、 「の」 「こと」の選択を決定 する、積極的な規則としては採用しにくいと考える。

2.3. 「の」 「こと」の意味的特性

大島(1996)は、 「の」 「こと」それぞれの統語的・意 味的特性に注目しながら、両者の用法の相違が生じる要 因を考察している。大島(1996)は、 「の」 「こと」には それぞれ固有の意味的特性があり、それによって、 「の」

専用文と「こと」専用文における、 「の」 「こと」の統語 的特性が説明できるとする。ここでは、大島(1996)の 論にしたがって「の」 「こと」の意味的特性について述 べ、その後、その問題点を明らかにする。

大島(1996)は、まず引用形式「と」を用いた文と

「こと」専用文とを比較して「こと」の意味的特性につ いて考察する。次にあげる例がそれである。

(23〕a.博士は珍しい動物を発見したと述べた。

b.博士は珍しい動物を発見したことを述べた。

(大島)

大島(1996)によると、 「と」を用いた(23)a.は、

「博士」が実際に「珍しい動物を発見した」 、あるいは それに類することばを発したと解釈されるのに対し、

(23) b.の補文があらわす内容は「博士」が「述べた」

内容のあらましであると解釈される。このようなことか ら、大島(1996)は「「こと」は基本的に「ある事象の あらましを導く」という機能をもつ」 (p.50)とする。

次に「の」の意味的特性について説明するために、次 の例を提示する。

(24)太郎は巨大な飛行機が離陸する の/ノ*こと を見た。 (大島〕

(5)

4 大 嶋 秀 樹・加 藤 久 雄 (25)次郎は花子がピアノでショパンを弾く の/*

こと をじっくりと聴いた。 (大島〕

大島(1996)は、これらの例について、 「(主文述語に よって)前者ではその(補文のあらわす)事象から視覚 的側面が、後者では聴覚的な側面が取り出される」

(p.54)とする。そして、これらの例文の意味解釈のな され方を「まず当該の事象の全体があらかじめとらえら れており、そこから何らかの側面が取り出される」

(p.54)と考え、補文を導く「の」の機能を、 「ある事象 の全体をとらえる」 (p.55)こととする。

以上のように、大島(1996)における「の」 「こと」

の意味的特性は「事象のあらまし」 「事象の全体」とい う概念がキーワードとなって記述されているが、その概 念の厳密な定義が明示されていない。論文の記述から漠 然とは把握できるが、問題の核となる概念の定義があい まいであるため、 「の」 「こと」の意味的特性の記述とし て、積極的には採用しがたいのである。

2.4. 「の」 「こと」の使い分けと主文述語

工藤(1985)や佐治(1993)は、用例を観察した結果、

主文述語を、 ①「の」のみをとるもの、 ②「こと」のみ をとるもの、③「の」「こと」の両方をとるもの、の3 種類に大きく分類した。

たとえば「見る」は、両者の研究において「感覚動詞」

に分類されるが、主文の述語が感覚動詞であれば「の」

をとる、という具合である。同様に「思う」は、工藤 (1985)では「思考動詞」、佐治(1993)では「心内言語 行動を表す動詞」に、それぞれ分類されるが、主文の述 語がそれらの動詞であれば「こと」をとるとされる。ま た「知る」は、工藤(1985)では「認知動詞」、佐治 (1993)では「認識活動を表す動詞」に、それぞれ分類 されるが、主文の述語がそれらの動詞であれば「の」

「こと」の両方をとりうるとされる。次に、それらの例 をあげておく。

(26)伴子は、雄吉が手で草をむしっている の/

*こと を見た。

(27)的子の境遇の変わっている *の/′/こと を、

島村は思っていた。

(28)謙吾は豊永がまだ新人である の/こと を知 7sm

佐治(1993)は、主文述語を分類したうえで、 「「の」

と「こと」では、同じく節を体言化するにしても、その 仕方が異なり」、 「「の」は、事態をそのままで、何の意 味もっけ加えずに体言化し、 「こと」は、事態を事柄と

してまとめて体言化する」 (p.9)とまとめている。

以上二つの研究は、 「の」 「こと」の用例を観察・分析 したものである。しかしながら、佐治(1993)が、使用 状況の観察・分析から、体言化に関する、 「の」 「こと」

の性質の違いに言及したのに対し、工藤(1985)では、

観察結果の記述に重点が置かれていて、 「本稿では、 「ノ」

をとるか、 「コト」をとるか、どちらでもよいかの選択 の一要因を、主文の動詞に注目しながら述べてみたい」

(p.45)と掲げた目的に対して、用例の観察結果の記述 だけからはその答えを十分読みとることができない。網 羅的な観察結果の記述を選択の一要因とすることは、動 詞の分類基準の数だけ「の」 「こと」の使い分けを説明 しなければならず、それでは一般化したことにはならな いのではなかろうか。また、 「の」 「こと」の選択の問題 を考察するのであれば、使用状況の観察結果が、なぜそ うなるのかということまで論じなければならないのでは なかろうか。

佐治(1993)は、 「の」 「こと」の性質の違いに言及し ているが、 「の」と「こと」の体言化の方法の違いにつ いての記述には疑問が残る。つまり、 「事態をそのまま で、何の意味もつけ加えずに体言化する」 (p.9)ことと、

「事態を事柄としてまとめて体言化する」 (p.9)ことと が、大島(1996)における「事象の全体」 「事象のあら まし」の定義と同じく、その内容があいまいなのである。

佐治(1993)は論文中にあげられている例文も少なく、

例文から推測することも困難である。

2.5.まとめ‑本稿の立場‑…

以上、先行研究を分析の観点別に整理してみると、い ずれも何らかの問題点を指摘することができるようであ る。しかしながら、 2.4.で見たように、工藤(1985) や佐治(1993)における、 「の」 「こと」の使用状況の観 察結果は客観的事実であり、その使い分けられ方に一定 の規則が見られることも事実である。したがって、本稿 も、主文述語の意味特性によって「の」 「こと」が使い 分けられるという立場をとる。

このような立場をとるのであるならば、先行研究が観 察結果の記述に重点を置いているという問題点を解決し なければならない。そのために、本稿は、 「の」 「こと」

の使用状況の結果が、なぜそのような結果になっている のかという点について、発展的に考察することとする。

具体的には、工藤(1985)や佐治(1993)の観察結果を 踏襲し、それらと奥田(1960)を比較することで、なぜ そこに規則性が見られるのかについて考察する。

(6)

3.考   察

3.1.研究対象

本稿で対象とするものは、いわゆる「外の関係」の連 体修飾にあたるものであり、文中のある要素を指すもの ではなく、文を名詞化することが主たる機能であるかの ような「の」 「こと」である。次の例文は本稿における 研究対象となる。

(29)明日が晴れるのを願った。

(30)酸素と水素から水ができることを知った。

次の(31)a. (32)a.は、それぞれ(31)b. (32)b.

のように修飾節中に戻すことができ、その意味で「内の 関係」の連体修飾と考えられる。そのため、本稿では研 究対象から外すことにする。

(3Da.トマトがたくさんなっていた。よくうれたの をとった。

b,トマト(‑の)がよくうれた。

(32〕a.親に言われたことを守りなさい。

b.菓削こ、ある内容(‑こと)を言われた。

さて、 「外の関係」にある「の」「こと」でも、 「構文 十の./こと」が、組み入れられる主文の中でどういう働

きをするかによって、次の4類が考えられる。

I類 補語になっている。

・高田は体中に電流が流れるのを感じた。

・ノブはくつがなくなっていることに気づいた。

Ⅲ頓 いわゆる題目語(主題)になっている。

・国家を日常的に運転するのは、官僚組織である。

・今回も彼が試合に勝っことは当然だろう。

Ⅲ類 「だ」 「である」と共に文の述語になっている。

・政党の役目は、官僚の立てた政策に対し、修正 要求を出すことである。

Ⅳ類 「〜ことができる」「〜ことがある」

・桜庭はどんなタックルでも切ることができるO

・私も銀座の寿司屋で寿司を食べたことがある。

本稿で対象にするのは、上のI類にあたるものである。

以下、その理由を述べる。

まずⅡ類の、いわゆる題目語(主題)になっているも のは、述語に対する格関係を示すとすれば、次の例が示 すように、 I短に取り込むことができる。また、 I短の

「〜ことを/に/が」も「〜ことは」と主題化すること ができる。

(33〕a.父が夕食を作ったことは、母が自慢した。

b.父が夕食を作ったことを、母が自慢した。

〔34)a.今回も彼が試合に勝っことは、当然だろう。

b.今回も彼が試合に勝っことが、当然だろう。

(35)a.不審者が侵入したことは、ポチが気づいた。

b.不審者が侵入したことに、ポチが気づいた。

以上のように、 II類はI類にパラフレーズできるoよっ て、直接の研究対象からは外すことにする。

次に、 Ⅲ頓とⅣ類は、用例観察の点から、明らかに

「の」の出現が許されないといえるものである。次にあ げる例は、 (36) (37)がⅢ類の例で、 (38) (39)がⅣ 類の例である。

(36)彼が教えてくれた事実は、大使館が爆破された

*の./こと だ(である)0

(37)私が証明したのは、気象に規則がある *の/

こと だ(である)0

(38)桜庭はいくら早いタックルでも切る *の//こ と ができる。

(39)私も銀座の寿司屋で寿司を食べた *の/こと がある。

以上はいずれも、 「こと」が自然であるのに対し、 「の」

は非文であるといえる。 (36) (37)が「の」をとること ができない理由は、おそらく、 「の」の名詞的特性に起 因するものであると考えられる。 「の」 「こと」の名詞的 特性(名詞性)に関しては後述するが、明らかに「の」

をとることがないという理由から、 Ⅲ類は本稿の分析対 象から外すこととする。

次に、 Ⅳ類のような、可能の意味をあらわす「〜こと ができる」や、経験の意味をあらわす「〜ことがある」

などは、慣用的形式であり「の」をとることがない。し たがって、 Ⅳ類も本稿の研究対象から外すこととする。

3.2 「の」「こと」と具体名詞・抽象名詞の対応

奥田(1960)は、単文において、動詞の意味を類型的 に分類し、それぞれの動詞によって要求する名詞の種類 に一定の規則があることを大童の用例から実証している。

たとえば「かける」 「あてる」などの動詞は、 「物にたい するはたらきかけ」 (p.152)をあらわす動詞と分類し、

これらの動詞は、対象に対して物理的な変化をひきおこ す動作や作用を示しているため、次の例のように貝体的 なものを示している名詞と組み合わされるとしている。

(40)往来にはくわをかたにかけて、かえっていく農 夫がある。 (奥田)

(7)

6 大 嶋 秀 樹・加 藤 久 雄 (41) きんは煙管のすい口をほおにあてて、あいまい

な表情でうなずいてみせた。 (奥田)

これらの例で、述語は「かける」 「あてる」であるが、

その対象はそれぞれ「くわ」 「煙管のすい口」といった、

「異体名詞」 (p.153)である。このように、奥田(1960) は述語(特に動詞について)と捕語(特にヲ格・‑格の もの)を「かざられ動詞」 (p.152)と「かざり名詞」

(p.153)とし、それらの「くみあわせ」を連語論的にと らえるのである。

以上は、補語に貝体名詞をとる動詞の例であったが、

さらに、 「抽象名詞」 (p.228)をとる動詞もある。以下 にその代表的な例をあげる。

(42)わたしはそうした矛盾を汽車の中で考えた。

(奥田)

(43〕義母の経歴をおもうと、 ‑‑・ (奥田〕

以上の動詞「考える」 「おもう」は、奥拍(1960)に おいては、 「思考活動のむすびつきをいいあらわす単語 のくみあわせ」 (p.228)の「かざられ動詞」である。こ

ういった動詞は、 「かざり名詞」に「そうした矛盾」 「義 母の経歴」などの抽象名詞をとるとする。

ところで、奥田(1960)と工藤(1985)を対照比較す ると、興味深い対応が見られる。それは、工藤(1985) において「の」をとるとされている2種類の動詞、すな わち「感覚動詞」 「動作性動詞」が、カテゴリーとして の名称は違うものの、奥田(I960)ではどちらも、かざ り名詞に貝体名詞をとる動詞とされ、 「こと」をとると されている4種類の動詞、すなわち「思考動詞」 「伝達 動詞」 「意志動詞」 「表示動詞」がいずれも、かざり名詞 に抽象名詞をとる動詞とされ、 「の」 「こと」の両方をと

るとされている2種類の動詞、すなわち「認知動詞」

「態度動詞」がどちらも、かざり名詞に貝体名詞・抽象 名詞の両方をとり得る動詞とされていることである。つ まり、異体名詞をとる動詞は「の」をとり、抽象名詞を とる動詞は「こと」をとり、異体名詞でも抽象名詞でも よい動詞は「の」でも「こと」でもよい、という対応が 見られるのである。 「の」と貝体名詞、 「こと」と抽象名 詞が対応しているわけであるが、抽象度の高い抽象名詞 が、より抽象化の進んでいる「の」ではなく、相対的に 抽象度の低い「こと」の方に対応していることをどのよ

うに解釈すべきかが問題となる。

「の」のみを とる .感覚 動詞 .動 作性動 詞

か ざり名詞 に具体名詞 をとる動詞

「こ と」の み を と る . 思 考動 詞 . 伝達 動 詞 . 意志 動 詞 . 表示 動 詞

か ざ り名 詞 に抽 象 名 詞 を と る動 詞

「の」「こ と」の 両 方

を と る か ざ り名 詞 に貝 体 名 詞 . 抽 象 名 詞 l . 認 知 動詞

. 態 度動 詞

の 両 方 を と る動 詞 i

3.3. 「の」「こと」の名詞性

3.3.1. 「こと」について

いわゆる伝統的な日本語学の研究において、 「こと」

は一般に「形式名詞」として扱われてきた。そこでまず、

「こと」の名詞性について、同じく形式名詞と考えられ る「もの」「ところ」と比較し考察することにする。次 にあげる例は「内の関係」の例であるが、形式名詞の機 能が理解しやすい。

(44)雑貨店で、タマネギをみじん切りにするものを 圏sia

(45)犯人は植え込みの陰になっているところに隠れ ていた。

形式名詞の機能のひとっに、井手(1967)のいう「範 時を規定する機能」 (p.42)がある。つまり、 (44)の

「もの」は「機械」などをあらわすと考えられるが、被 修飾名詞を「もの」にすることで、修飾節のあらわす内 容がく物>の範噂にあることを示す。同様に、 (45)の

「ところ」は「歩道」などをあらわすと考えられるが、

被修飾名詞を「ところ」にすることで、修飾節のあらわ す内容がく場所>の範暗にあることを示す。このように、

修飾節の内容がいかなる範噂に属するものであるかを定 める働きを「範時を規定する機能」という。形式名詞に はこの機能があるため、被修飾名詞を替えると、修飾節 が同じであっても、次のように、示す内容が違ってくる。

(46〕 タマネギをみじん切りにするところは、特にき れいに洗っておく。

(47〕植え込みの陰になっているものをすべて見える ようにしなさい。

つまり、同じ「タマネギをみじん切りにする」という 修飾節であっても、 (44)の示す内容は<物>の範時に 属していたが、 (46)の示す内容は<場所>の範噂に属

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している。 (45)と(47)についても同様のことがいえ る。そして、以上のような、 「もの」「ところ」に見られ る「範噂を規定する機能」は、 「こと」の場合にも存在 する。

(48)今回の不祥事で学んだことを忘れないでほしい。

(48)の「こと」は「内容」などをあらわすと考えら れるが、修飾節のあらわす内容は、く物>やく場所>で はなくく事柄>の範噂に属しているといえる。井手 (1967)はこのことを指摘し、さらに、 「数詞によって表 現され・る数量表現や、指示語による関係表現の際にもあ わせて範時の表現が認められる」 (p.44)とする。

つまり、 「一人」 「二匹」 「三枚」などの数量表現は、

抽象的な数概念をあらわした「一・二・三」の下に「人」

「匹」 「枚」などのいわゆる助数詞をっけて具体的な数量 をあらわす。その助数詞は、事物の性質や形状などによっ て範時を示すものになっている。すなわち、助数詞「人」

は<人間>、 「匹」はく動物>、 「枚」はく物(特に薄く て平たいもの)>の各範曙に属することを示した表現と なっているということである。さらに、 「こいっ」「それ」

「あそこ」などの指示語による表現も、範時の規定がな されているといえる。すなわち、 「こいっ」はく人>、

「それ」はく事物>、 「あそこ」はく場所>などのように、

指示語そのものが範時の表現をあわせもつのである。

以上、いわゆる「内の関係」の「こと」に「範噂を規 定する機能」があることを見たが、 「内の関係」の場合 と同じではないにせよ、この機能は「外の関係」の場合 にも見られるo 次にあげる例文は「外の関係」の例であ

る。

(49〕部長は太郎に長野に出張することを命じた。

(50)捜査員は家族が現場に入ることを許可した。

これらの「外の関係」の場合も、 「こと」を修飾する 節の内容は、具体的な個体をあらわすような<物>など ではなく、やはり<事>の範時に属するものであると考 えられる。

つまり、 〔49)は抽象名詞を補語にとる動詞「命ずる」

が、 「(太郎が)長野に出張する」という文相当句を補語 相当句とするには、文の形のままでは都合が悪く、それ に「こと」をっけることによって、抽象化する必要があっ たと考える。したがって、抽象名詞を補語にとる動詞は、

語を補語にとるときは抽象名詞を、文を補語相当句にと るときは「こと」を伴って、抽象化された節をそれぞれ

とるのである。このように考えることによって、奥田 (1960)と工藤(1985)に見られたような、抽象名詞が、

より抽象化の進んだ「の」ではなく、むしろ、 「こと」

の方に対応すると分析することの理解が得られると考え る。

「こと」をつけることによって抽象化がなされる例は、

次の例が示すように、抽象名詞を要求する動詞が具体名 詞と組み合わさるときにも見られる。次の例の動詞「語 る」 「たずねる」は、補語に抽象名詞をとるとされるも のである。

(51) a  富永は理事会の模様をぽつりぽつり語った。

b. *コメンテーターは故郷の友人を語ったO C  コメンテーターは故郷の友人のことを語っ

た。

(52) a  面接官は貞っ先に和志の経歴をたずねた。

b. *教官は学生が書いた小説をたずねた。

c  数官は学生が書いた小説のことをたずねた。

これらの(51)a. (52)a言ま抽象名詞をとっている例 で、 (51)b. (52〕b.は員体名詞をとっている例で、

(51)c. (52)c.は異体名詞が「こと」によって抽象化 されている例である。いずれも貝体名詞をとれば非文と なるが、貝体名詞が「こと」を伴うと文法的になる。こ れは「こと」によって抽象化がなされている証拠である

といえる。

以上のように、 「こと」が形式名詞といわれることや、

抽象名詞的な性質をもっていることなどから、一般の名 詞と同じ程度の名詞性を備えていると考えられるD 「こ と」か一般の名詞と変わらない分布を示すことが指摘さ れるが、それは「こと」が十分な名詞性を備えているた めであると考える。

3.3.2. 「の」について

これまで「形式名詞」として扱われてきた「こと」と 違い、 「の」の扱われ方は、 「形式名詞」の場合と「準体 助詞」の場合の2つに大きく分けられる。仮に「の」が 形式名詞であれば「範噂を規定する機能」があるはずで あるO そこで、その点について用例を観察Lてみる。

(53)今声を出したのは高田君だ。

(54)波の言っていたのとは事情が違っていた。

(55)故郷‑帰るのはいっにしましたか。

(56)君が行ったのは鳥取ではなくサ‑ラです。

これらは「内の関係」の例である(53)はく人>を、

(54)は<事>を、 (55)は<時>を、 (56)は<場所>

を、それぞれあらわしている。いずれも「の」が用いら れている文であるが、構文はあらゆる範時のものをあら わしている。このことについて、井手(1967)は「これ

(9)

8 大 嶋 秀 樹・加 藤 久 雄

らの形式名詞においては、もはやその意味が稀薄化、形 式化して一定の範噂を表示しえなくなっている」 (井手 (1967) p.50)とする。つまり「の」は、 「もの」「こと」

「ところ」などの形式名詞が本来あらわすべき範噂を越 えて、それ以外の範噂に対しても用いられ、その意味に おいて、範噂としての意味が著しく形式化していると考 えられるのである。したがって、 「の」はもはや範噂を 規定することはできず、その点で形式名詞としての特性 を欠いているといえる。

このような「の」について、井手(1967)は「使用範 囲の拡大、普遍化によって、連体修飾する先行の語句を 全体として体言に準ずる資格の語句に転換する符号とし て用いられる」 (p.50)としている。

以上から、本稿は、構文がそこで終了することを示す 機能、すなわち補文標識としての機能が「の」の主要な 機能であり、それが、一定の述語のもとでは「補文+の」

が補語相当旬としてはたらくのだと考える。また、 「外 の関係」の「の」の起源は、この考察を支持する。

古典語においては、 (57)のように、 「咲ける」という 活用語の連体形が、名詞や「の」などを伴わず、それだ けで連体修飾構造を構成していたのに対し、現代言吾にお いては、 (58)のように、 「の」を伴って連体修飾構造を 構成するようになった。

(57〕かの白く咲けるをなむ夕顔と申侍る (58)あの白く咲いているのを夕顔と申します。

柳田(1993)は、この変化について次のように説明し ている。つまり、 「咲ける」は「連体修飾機能をもちな がら、それが同時に体言でもあるために、連体修飾機能 を果たしているのかどうか不明であるため」 (p.17)、

「の」を伴うことで、二つの役割を二つの形態に分担さ せたのである。

そこで「の」は、連体修飾機能を明示するために付加 された「標識」であると考える。連体修飾機能を明示す るには被修飾名詞に相当する語句が必要であるが、異体 的な実質的意味がある体言を付加すると、文の意味が変 わってしまう恐れがあるため、ほとんど実質的意味のな い「の」を付加することが最適であったのである。 「の」

を付加することで、連体修飾機能が明示されるが、それ は同時に、 「の」までが連体修飾節であることを示す。

つまり、補文標識としての機能をも果たすことになるの である。

補語として異体名詞をとる動詞が、文相当句をとると き、 「こと」を伴って抽象化された節をとると、具体名 詞から離れてしまい、非文となってしまう。そこで抽象 化を経ない「の」節が要求されるのである。先述のよう に、 「の」は実質的意味がほとんどないため、 「構文+の」

でも構文だけの意味と変わらない。したがって、異体名 詞を補語にとる動詞は、語を補語にとるときは具体名詞 を、文を補語相当句にとるときは「の」を伴った、異体 的な文と変わらない節を、それぞれとるのである。

以上から、 「の」は名詞性を十分に備えていないとい える。 「の」が非常に限られた分布を示すのは、このた めである。

4.ま  と  め

構文標識「の」「こと」の選択に関しては、これまで もさまざまな観点から盛んに研究がおこなわれてきたが、

いずれの研究も問題点を抱えており、結論においては一 致することがなかった。一方、 「の」 「こと」の用例を観 察・分析し、その使用状況に見られる規則怪を客観的に 記述することに関しては、非常な成果が見られる。しか しながら、その研究でさえ、使用状況の記述に亀員が置 かれているという問題点を抱えたものだった。本稿では、

その問題点を解決するために、客観的事実としての使用 状況を踏まえ、さらにその規則性が生じる原因について 発展的に考察した。

「の」の機能については、形式名詞の機能である「範 時を規定する機能」が「の」にほとんどないことと、連 体修飾機能を明示するために「の」が付加されるように なったという起源説から、 「補文がそこで終了すること を示す」という、補文標識としての機能が主であると考 えた。つまり「の」は実質的意味および範時的意味がほ とんどなく、 「こと」のように文を抽象化することがな いため、具体名詞を補語にとる動詞が文を補語相当句と してとる際に用いられるのである。 「の」の分布が限ら れているのは、このように、名詞性を十分に備えていな いためであると考えられる。

一一一‑方「こと」は、 「範噂を規定する機能」をもってい るため、形式名詞として扱われると考えた。さらに、

「こと」は貝体名詞を抽象化する機能をもっていること から、抽象名詞的な性質をもっているとした。このこと から、抽象名詞を補語にとる動詞が、異体的である文を 補語相当句としてとる際に、その文の内容が「事」の範 噂に属することを明示し、抽象化するために、 「こと」

が用いられると説明した。 「の」とは異なり、「こと」が 一般の名詞と変わらない分布を示すのは、このように、

名詞性が十分に備わっているためであると考えられる。

文  献

井手至(1967) 「形式名詞とは何か」 : 『講座 日本語の 文法3』 (明治書院) pp.37‑52

井上和子(1976) 『変形文法と口本語(上〕』大修館書店 大島資生(1996〕 「補文構造にあらわれる「こと」と「の」

(10)

について」:『東京大学 留学生センター紀要』 6

pp.47‑

奥田靖雄(1960) 「を格のかたちをとる名詞と動詞のく みあわせ」 : 『日本語文法・連語論(資料編)』 (むぎ 書房) pp.151‑279

奥津敬一郎(1974) 『生成E]本文法論』大修館書店 工藤貢由美(1985) 「ノ、コトの使い分けと動詞の種阻」:

『国文学 解釈と鑑賞』 (至文堂) 50‑3 pp.45‑52 佐久間鼎(1940) 『現代日本語法の研究』恒星社厚生閣 久野暗(1973) 『日本文法研究』大修館書店

佐治圭三(1993) 「「の」の本質‑ 「こと」 「もの」との対 比から‑」: 『日本語学』 (明治書院) 12‑10

pp.4‑14

信太知子(1987) 「 『天草本平家物語』における連体形 準体法について‑ 『覚一本』との比較を中心に消滅 過程の検討など‑」:『近代語研究 第7集』 (武蔵 野書院〕 pp.121‑139

坪本篤朗(1984) 「文の中に文を埋めるときコトとノは どこが違うのか」:『国文学 解釈と教材の研究』

(学燈社) 29‑6 pp.87‑92

寺村秀夫(1981〕 『H本語の文法( F)』国立国語研究所 寺村秀夫(1984〕 『日本語のシンタクスと意味 Ⅱ』く

ろしお出版

時枝誠記(1950〕 『日本文法 口語篇』岩波書店 橋本修(1990〕 「補文標識「の」 「こと」の分布に関わる

意味規則」 : 『国語学』 (国語学会武蔵野書院) 163

pp.[l]‑[12]

橋本修(1994) 「「の」補文の統語的・意味的性質」 : 『文 要言語研究 言語篇』 (筑波大学文芸・言語学系)25

pp.153‑166

橋本進吉(1948) 『固語法研究』岩波書店

日高吉隆(1992) 「「の」 「こと」の選択に関わる制約」 :

『創価大学別科紀要』 pp.23‑30

松下大三郎(1930) 『標準日本Ll語法』中文館書店 村木新次郎(1991) 『日本語動詞の諸相』ひつじ書房 柳田征司(1985) 『室町時代の国語』東京堂出版 柳田征司(1993〕 「無名詞体言句から準体助詞体言句

(「白く咲けるを」から「白く咲いているのを」)への 変化」:『愛媛大学教育学部紀要 第Ⅱ部 人文・社 会科学』 25‑2 pp.ll'

山内洋一郎(1981) 「中世前期語(鎌倉)」 : 『講座日本語 学 3』 (明治書院) pp.55'

山田孝雄(1908) 『R本文法論』露文館 波辺実(1971) 『国語構文論』塙書房

A Study of NO, KOTO, Japanese Complementizer

Hideki OSHIMA and Hisao KATO

{Department of Japanese Linguistics, Nara University of Education, Nara 630‑8528, Japa花)

(Received April 30, 1999〕

In comparison of Kudo(1985) and Okuda(1963),we find the correspondence of NO and concrete noun, and KOTO and abstract noun. In this paper, we examine these correspondences. We find that NO is a marker that shows the end of complement sentence,and that NO has no substantial meanings.The first reason is that NO doesn't have the functic,n to pi‑escribe the category,which is the function of formal noun. Second is that NO is originally used to show tlle adnommal function. For these reasons, NO has no substantial meanings and has no categorical meanings. Hence, NO has a limited distribution and NO is used when the verb that takes a concr,ete noun as its complement combines with a sentence.

1蝣Ye find that KOTO is a formal noun. We prove two facts as follows. KOTO has two functions:

Koto prescribes the category and renders a concrete noun abstract. These functions characterize KOTO as an abstract noun. KOTO is used when the verb that takes an abstract noun as its complement combines with a sentence. From these aspects of KOTO we claim that it has the similar distribution as common noun takes.

Key Words: "No", "Koto , concrete noun, absti,act noun, noun phrase complement

参照

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