身体の教育 Physical education と身体活動を通しての 教育 Education through the physical actibity
花 田 大四郎
1〕 「身体り教育」Physieal edueatonより,
t㎞o口gh the pbysieal acti▼ityへ。
「身体活動を通しての教育」Ed眠。鋤io耽
戦前ならびに戦時中の学校体育を昭和11年体操科要目及び昭和16年体錬科要綱に見て見
ると,
「身体各部を均斉に発達せしめ,四肢の動作を機敏ならしめ,もって,全身の健康を保 護増進し……。」 (昭和11年体操科要目)
「身体を鍛錬し,精神を錬磨し,澗達剛健なる心身を育成し……。」 (昭和16年体錬科
要綱)となっているQ
「身体各部を発達せしめ」たり,「機敏ならしめ」たり,或は,「身体を鍛錬し」たり
「精神を錬磨」したり……此の主語は誰か。誰が,誰の身体を鍛錬したり,精神を錬磨し たり,と云うのであろうか。学校体育に関する要綱であり要目であって見れば,それは当 然教師であると考えられよう。すなはち教師が,児童,生徒の身体を鍛錬し,精神を錬磨
したりと,考えるのが,当然の筈である。このように専ら教師が,主体性を持って,生徒 の身体を発達せしめたり,精神を錬磨することが,学校体育の目的であり,そのような理.
念をもって行なわれていたと解されるといえよう。此のことは,何も体育のみではなく,
戦前の我が国における学校教育全体が,そうであったのであり,もっぱら教師が,主体的 は生徒の身体や精神を鍛錬し,綱干し……ということは,生徒は,唯教師の意のままに発 達せしめられたり鍛錬させられるという,全く,彼等自身の主体的な意志は考えられなか ったというのが,当時の学校体育の実態であったというべきであろう。
このように,教師が,主体性を持って,生徒の身体或は精神を直接に鍛錬しよようとす る考え方を持って「身体の教育」的な体育と考えるわけである。
これに対し,戦後昭和22年学校体育指導要綱によって,どう変化しているであろうか。
「体育は,運動と,衛生の実践を通して,人間性の発展を企図する教育である。」
明らかに「運動の実践」という生徒自身の身体活動を通して行なう教育そのものある,
ということが先ず確立されているのである。
そして「それは健全で有能な身体を育成し,人生における身体活動の価値を認識させ,
社会生活における各自の責任を自覚させることを目的とする。」
というように身体活動の価値を認識させよう,或は各自(被教育者)の責任の自覚をさ せること,すなはち被教育者の方の主体的な活動を挙げているのである。
昭和28年版 小学校学習指導要領体育科編によっても
「今日の体育科のたいせつなねらいは,ただ教育の全体としての目標のある部分を分担
するのではなく,むしろ……全体としての教育のさまざまな目標にわたって貢献しよう
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第19号
と,いう立場をとっているのである。」
と先ず従来の知育,徳育,体育的部分分担的体育の考え方を否定して,体育が教育全般 に全面的に貢献する,すなはち教育そのものであることが先ず確立されていると考えられ
よう。
そして,同時に指導のあり方としても,
「体育指導の中心点を児童におく。」と明らかにすると共に
「身体活動の能力を持つことが終局の目標ではなく,その能力をどのように使うか,ど のように役立たせるか,ということがたいせつなのである。」
とただ単に身体活動の能力というような局限された能力を持たせたり,高めたりするこ とを終局の目標と考えるのではなく,高められた或は強められた能力をどの様に使うか,
どのように役立てようとするか……。
「身体活動が,児童の発達や,望ましい社会生活に貢献し得るような能力」
すなはち,彼等の身体活動が,彼等自身の発達は勿論それ以上に,社会生活に役立たせ 得るような或は貢献し得るような,そのような全面的な能力を身につけさせようとするの が,現在の体育科の使命なのである,と説明されているのである。このことは,そのまま 彼等被教育者の自主性の確立をその目的としていると考えるべきであろう。
このように体育の目標が教育の一般目標と一致しなけれぽならないということが,終戦 を境としての学校教育そのものの基本理念の改革(村上俊亮民主々義の教育理念)にそく して,学校体育も従来の身体訓練的な「身体の教育」ないしは,極端には「心身の鍛錬」
という考え方より,「身体活動を通しての教育」えと,その基本理念の改革を強調してい るものと理解すべきであろう。
このことは,又同時に教育基本法に云う所の教育の目的,「教育は人格の完成をめざ し……自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならな い。」目的としての自主性の確立ということに対して,学校体育が直接貢献しようとして 1いるのであろうと考えるのである。
此の様に戦後の体育は,被教育者としての生徒,児童の自主性ないしは,主体性を確立す ると云う教育の目的に直接貢献するという考え方に立つことによって,従来の「身体の教 育」(Physical education)より,「身体活動を通じての教育」(Education七hrough the Physical ac七ivity)えと,その基本的理念の改革を目指したものと解釈すべきであろう。
2〕基準性の強化と,被教育者の自主性
「1958年7月31日小中学校全教科にわたる改訂学習指導要領の中間発表が公示され,10 月1日官報告示という異例の形式をもって,正式に決定,発表され。」 (続 戦後日本教 育論争史 船山謙次著)
「指導要領の性格,今回指導要領(33年版)が,現行のもの(28年版)と非常に違った 点は,今までのものが,参考にすぎなかったものが,必修の最低限を示したということで ある○」 (小学校学習指導要領の展開体育科編,本問茂雄i)
官報告示であるとか,必修の最低限等とその基準性を強調されているように,28年版ま
での指導要領が,試案であったのに対し,必修として,教師に対し義務付けられたものと して,出されている点,衆知の通りであるが,此の点種々論争を生ずるところであろう。
体育について考えて見れば,
続戦後日本教育論争史P(169)の中で春田正治氏は学習指導要領批判として次のように 述べられている。
「まえの学習指導要領,一般篇では,とにもかくにも,教育のあり方についての構想を 熱意をもって語っていた。だがこのたびのものは,小学校の教育過程について云えば各教 科と,道徳と特別教育活動と学校行事とをもって,編成するということにつきている。…
…法律をつくる官僚が教師に命令するつもりで書かれたにすぎず,日本の教育について深 く考えるという様子がみえない。現場の教師は,日本の教育の目的や原理などについて考 える必要は,ないということであろうか。」
氏は一般篇について述べられているのであるが,此の批判は,そのまま,体育について も当てはめられるものであって,28年版が,あれ程熱意をもって語っていた体育科の役割 とか,或は体育の教育一般目標えの直接貢献等の説明は,33年版においては,全部省略さ れているのである。このことは,春田氏の云われるように,現場の体育教師は,日本の体 育の目的や原理等について考える必要は,ないと云うことであろうかと云う同じ疑問を生 ずるのである。
それはとにかくとして,基準性の強化という形で学習指導要領が,告示されたことによ って,教師の自主性は,当然打消されるあろうが,被教育者の自主性又は主体性というこ とは,一体どのように変化するであろうか。或は変化せざるを得ないかについて考えて見
る。
33年版小学校学習指導要領のうち,
「総則第2項 指導計画作成および,指導の一般方針」として,
「2・各教科,道徳,特別教育活動および,学校行事等の指導を能率的,効果的にするた めには,下記の事項について留意する必要がある。」として,その第3項に
「③児童の興味や関心を重んじ,自主的,自発的な学習をするよう導くこと。」
此のことは,中学校のそれも全く同じである。
則ち,教師の指導を能率的,効果的にする……まさに,そのための方法手段として,生.
徒,児童の自主性ないしは,自発性を考えよ,ということなのである。
此点44年版のそれも全く同様に
「総則第7項以上のほか,次の酒室について配慮するものとする。
①児童の興味や関心を重んじ自主的,自発的な学習をするように指導すること。」
このように被教育者の立場としての,児童,生徒の側の自主性,自発性を以って,教育 者の立場としての教師の指導の能率或は効果を挙げる上での方法として考えているに過ぎ ないと云えるのである。
(体育科教育法治5章,学習内容編成論,丹下保夫)
「戦後の民主体育は,子ども中心すぎはしないか,興味を重視しすぎはしないか,子 どもの興味のある運動のみを与えてよいか,という批判があった。この対策として,改訂 指導要領は,運動と,その時間数を規定した。……運動がきめられ,その時間数も決めら・
れていることは,教えるべき運動は動かすべきでないから教師の計画に従って,学習効果、
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を挙げる,という点から,子どもの自主性,協力性,創造性を利用するということにな る。すなはち,目的としてではなく,学習効果を挙げるという方法として自主性が考えら れるということなのである。」
というように氏は,基準性の強化ということが理由とされているが,当然その結果とし て,子どもの自主性の方法化を批判されているのである。戦時28年版学習指導要領迄は,
体育の性格或は,体育の基本的理念として,「身体活動を通しての教育である」という考 え方に改革の重点を置くと共に,被教育者としての児童,生徒の自主性を以って,その目 酌と考えたのに対し,33年以後基準性の強化と共に,彼等の自主性を質的に変化させ,方
・法としての自主性に止めるように改変されたと云い得るのではないだろうか。
・3〕被教育者の自主性の変質はいかなる原因によっているのか。
此の原因について,丹下氏は,指導要領の基準性の強化を挙げられているのであるが,
勿論それも大きな原因の一つであると云い得ようが,或は証人によって種々その原因につ 一いて考えられると思うのであるが,筆者はここで我々体育関係者が,過去より現在に至る
.長い学校体育の歴史の中で常に見落されがちであった,人間の身体活動について考えて見 ることにする。
」28年版学習指導要領において
「もちろん,身体活動が無用であるというのではない。それを否定すれば,もはや体育 科の存在理由は失われるであろう。したがって,身体活動についての考え方が何よりも重 要である。」
と,身体活動というものについての考え方が,体育科自身の存在理由を左右すると迄重 要視し,その考え方を強調しているのである。そして,
「この学習指導要領(28年版)では,児童の身体活動に対する必要性や,児童をとりま く,地域社会の必要性を無視して,教材まは,身体活動の激を教える立場を否定しようと 一するのである。」
というように,児童の「必要性による身体活動」は肯定し, 「教材または身体活動のみ」
・は否定する,すなはち同じ身体活動といっても,肯定するそれと,否定するそれとがある ということである。
そして,「このように考えると,現実の児童を考えることなく,抽象的に教師の立場か ら身体活動を教えこむよりも,学習者であるところの児童の側に立って指導することが,
体育科の目標のいずれの場合を考えても大切であると,いわなければならないのである。」
すなうち,肯定さるべき身体活動,……これは飽くまでも児童自身の側からの必要性 と,彼等をとりまく地域社会の必要性に基く……しかも児童の側に立って指導する……と ここまでは正しい,まことに同意見と考えるのであるが,
28年版 指導要領 体育科の目標
「児童の必要の分析に基いて,身体活動を中心として構成される諸経験の内,児童にと 一って,望ましいねらいが,その目標でなければならない。
しかし,この場合の児童の必要は,同時に社会の必要をも含んでいるものでなければな
らない。それ故この指導要領では教師の立場から見て,こうあらせたいという(社会的必
要) を児童の必要経験のうちに収め,、これを一体的に考え体育科の目標を定めたのであ
る。」
果して児童が, (こうありたい)という必要性と地域社会の代弁者としての教師の(こ うあらせたい)という必要が,一体的に考えられるであろうか。
此のことは,「新学習指導要領の理解のために」 (昭和82年)の中で竹之下休蔵氏も次 のように述べて居られるのである。
「現在適当と考えられている教材の多くは,そのままの形で子ども達の生活の中で用い られており,むしろそのようなものを教材としてもってきていると考えてよいほです。…
…こうなると,運動(身体活動)は教師の立場からすると教材になり,児童め立場からす ると,学習内容になる,という二重の性格をもってくる。」
戦後民主体育が,集大成されたと考えられる昭和28年版,当時に於て此のように考えら れていたことがわかるのであるが。
果して氏が,述べられているように,教材……正課体育の教材として,運動ないしは,
身体活動が,そのままの形で子ども達の生活……ここでは,正課をはなれた時間の中で,
用いられている,と考えられるであろうか。すなはち子ども達が,自らの必要性によって 行なっている,いわゆる放課後あるいは,自由なる時間における身体活動と,それを授業 として正課の時間中に課されて行なわせられている身体活動とが,果して一体的に,或は そのままの形でと考えられるのであろうか。
ここに28年版指導要領が,自ら「身体活動に対する考え方が,重要である。」と述べて いながら,しかも自主的な身体活動を肯定することで,そうでない身体活動を否定しよう と,説明しながら如何にも外見上,形式上同様に見られるとしても,子どもの必要に基 く,時間外の身体活動を,そのままの形で正課の授業として,はてはめ得るかの如く,或 は一体的に扱い得るかの如く考えた所に大きな錯誤があったのではあるまいか。
「学習指導といわれている活動は,この広い範囲の活動の中で,生徒と教師との問での 相互作用をなしている。それは学ぶこと,Iearningと,学ばしめること, teachingか
ら成立つが,同一過程を児童側から1earning教師側から七eachingと呼んで,これを単 純に割切るのは適当でない。またこの中え医学,生理学,心理学,社会学等の各種科学の 要因が,浸透していることも見のがすことはできない。」 (資料 教育原理,東京教育大 学教育学会編)
とすれば,先の竹の下氏の論にあるところの「運動……すなはち,児童の身体活動が教 師の立場からは教材,児童の側からは学習内容という二重の性格を持つ」と簡単に割切っ たのは,果してどうであろうか。
成程,児童,生徒は彼等の生活の中で自由に官主的に身体活動としてのスポーツ運動で
も楽しむであろう。叉教師もその彼等の自由なる身体活動を,より合理的に或は,より盛
んに行なうよう……そうあらせたいと考えるであろう。則ち教師が,生徒児童をとり囲む
社会の必要性の代弁者として,そう考えるのは正当である。それ故に教師が正課め時間と
して,そのようなスポーツ活動を採用することも正当である。しかしながら,ひとたび教
師が,それを行なった,正課授業として採用したとすれば,形の上では如何にも類似した
形,同様な姿と見えても,そこで行なおれる児童,生徒の身体活動は,既に彼等にとって
は,義務的な,他律的な身体活動と変じているのであって,自由に行なっている放課等の
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