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ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

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熊本大学教養部紀要人文・社会科学編第17号:56-70(1982)

この論文の狙いは、ソクラテスにおける倫理学の始め、即ち「よく生きること」の探求の始めを理解するために、『エウチュプロン』(1)『ソクーフテスの弁明』『クリトン』に描かれるソクーフテスを、「行為の正しさ」と「権威からの命への服従」をめぐって首尾一貫した考えをもつ人として跡付けることにある。従ってこの作業の基本前提は、著者プラトンはこの一一一つの作品によって裁判の前後を通しての首尾一貫したソクラテス像を記した筈である、との想定である。とすれば、以下の論述全体はこの想定の正しさを確証する意味をもつが、それはこの三つの作品を読みゆくときに当然ぶつかるであろう次の問題に答えるためである。従来『エウチュプロン』の特に悪1臣すの議論は?行為の正しさについての神意説に対する西洋倫理学史上、最初の批判議論として(2)読まれてきた。いま神一息説の基本主張を「『神がある行為Xを〈叩じる』ことは『Xが正しい行為である』という事態に等しく、かつその根拠である」とすれば、『エウチュプロン』でのソクラテスの議論は明らかにその根拠付けの関係が逆であることを示す方向をもっているからである。つまりこの議論は、何が正しい行為かは、神が何を命じるかに先立って判定されるという含みをもつ。さて行為の正しさについてのこのような神の意志からの独立性の主張は、『クリトン』における行為の正・不正をなにか超越的な神の意志に訴えず はじめに

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

あくまで人間に納得のいくロゴス(言論)の中で求めていく、謂わ

ば「ロゴスの立鑑一に支えられているとみることができる。

もしここにソクラテスの基本的立場があるとして、次に『ソクラテスの弁明』を読んでいくならば、そこでわれわれはかなり立場を異にしたと映るソクラテス像に出会う。というのは、『弁明』でのソクラテスは、自らの生涯をかけてきた問答吟味による哲学活動を(4)「神の〈叩に従った行為」として繰返し正当化するからである。確か(5)にこの作品でのソクーフテスにとっては、不敬罪による不正の訴えを斥ける必要上、自己の行為を「神の命への服従」として語ることはある程度戦術上の利点をもつものであったにせよ、そこで彼が単数形で語る「神」は明らかに訴状にあるポリス公認の「神々」とは異なるなにものかを指している。とすれば「神の命」を引き合いに出すその弁明には、法廷戦術ではない彼の真意が込められていると考えねばならない。とするとわれわれは、『エウチュプロン』『クリトン』では「ロゴスの立場」に立って行為の正しさを測っている人物を、そしてステファヌス版での位置が示す如く内容的にもその二つの作品の間に配列される『弁明』では、なにか測りがたき印象を与える「神の命」に訴えて自己の行為を正当化する人物をという具合いに、直ちには結びつかない二つのソクラテス像に出合うことになる。従ってわれわれの課題は、この二つの像を一つに結ぶべく、これらの作品から倫理の根拠付けにかんするソクラテスの首尾一貫した思考を探り出 篠崎

(七五)

(2)

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

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「敬慶(芹・》◎巴目)とは何か」を主題とする『エウチュプロン』は、ソクラテスの不敬罪という告訴をめぐって内容的にも次に位置する『弁明』の謂わば前編をなす作品である。即ち「古くからの神々を認めず、新しい神々の作り手」として「青年を堕落させる」罪

で告発されたソクラテスは、宗教上の権威を自認するエウチュプロ

ンから「敬慶・不敬度とは何か」を学ぶことによって、告発者メレ(6)トスに対してその生口訴を取り下げるよう説得するつもりなのである。このようにこの作品は続く『弁明』『クリトン』と単に裁判前後を通してのソクラテス像という親近性のみでなく、主題として明白に(7)「不正な行為とはどのような行為か」を問う共通性をもっている。というのも「敬慶」はなんらかの意味で「正義(芹Cs言】・ロ)」の部分(8)であると考えられるからである。それではこの小論で取上げるの①!]弓の議論を要約しておこう。「敬慶とは何か」と問われてエウチュプロンは、(1)「敬慶な行為とはすべての神々が愛するものである」と答える。そこでソクラテスは、この「神々に愛される」というエウチュプロンの信念の中での事実(四m己・目①息.①Z1Po{・]CQ①)と「敬慶な」という徳の表示語が示す一つの形相(の己・P⑦己])は、どちらが他方を根拠付けているのか、即ち「敬慶なものはそれが敬慶であるが故に神々に愛されるのか、それともそれは愛されるが故に敬慶なのか」と問う。続いて行為者による能動的動作とそれに伴う愛動的事実にかんする論理的前後関係について一つの論点が承認(9)されて、エウチュプロンは、(Ⅱ)「敬慶なものはそれが敬虐であるが故に神々に愛されるので していくこととなる。以上が問題の所在である。

『『エウチュプロピにおける権威の問題 あって、その逆l愛されるが故に敬慶であるlではない」との考えを承認する。結局、「神々に愛される」という事実は、「敬慶なもの」のウーシァ(実相)ではなく、それが他から蒙る一つの愛動的あり方(官二・助sにすぎないことが結論され、「敬虞」のウーシァを問う形相への問いの答えとして(I)は不適確であり、問いは振り出しに戻ることになる。ソクラテスによるこのような議論の方向付けを把握するためには、われわれはここで彼の問いのもつ二重の意味を確認しておく必要がある。というのもその問いはもともと「すべての敬慶な行為がそれによって敬慶であるところのその形相そのもの」(詮ごI臣)に向けられていたが、続けて彼はその問いの意義を「ある行為が敬慶であるか否かを、それを見てそれを基準(宮司昌の侭目色)として用いることによって判別しうるようなある形姿(廷の四)」(mの四1①)を教(皿)えてもらいたいからだと説明する。だがこのような幸忌味での基準が与えられたからと言って、それが「それによってすべて敬虐な行為が敬虚であるその形相」と表現されていた「敬慶」のウーシァであるとは限らない。つまりある事実的条件Pが与えられたとき、それがあるものがF(例えば「敬慶」)という性格をもつか否かを判別する基準であるためには、(Ⅲ)「Pであるものはすべて、かつそれらのみがFなるものであ

る」との条件を満せぱよい。だが本来問われている形相とは、(Ⅳ)「なんであれそれらのものがFであることの根拠」である。この判別基準と根拠の違いは、Fに「人間」、Pに恩天うもの」を代入すれば明らかであろう。「笑うもの」であるか否かは、そのものが人間であるか否かの判別基準となるが、他面それは、人間を人間たらしめている根拠ではない。この区別を念頭において先のエウチュプロンの答え「神々が愛す (七六)

(3)

68 篠崎 栄

るもの」が斥けられた理由を考えるならば、その答えが同様に例え

ば「勇気ある行為」にも妥当するので(Ⅲ)の条件を満さないとの理由によるのではなく、それは(Ⅳ)のウーシァの記述を満さない

との理由によっていたことに注意せねばならな燭)即ちこの議論は、

仮にエウチュプロンの答えが条件(Ⅲ)を満していたとしても、有効なのである。そのため従来この議論は、「敬虐さ」を一般に「行為

の(道徳的)正しさ昭「神々が愛するもの」を「神が命じるもの」

と読み換えることによって神意説への有効な一つの批判議論として読まれてきた。即ち先の(1)、(Ⅱ)はそれぞれ(r)「正しい行為は、神の命じるものであり、また神が命じるものはすべて正しい行為である」((1)の逆まで含める)

(Ⅱ)「正しい行為は『それが正しいが故に神が命じる』のであっ

て、『命じるが故に正しい』のではない」となり、この(Ⅱ)は、神意説の次のテーゼ(T)と明らかに矛盾する。(T)「『神がある行為Xを命じる』が『Xが正しい行為である』を根拠付けている」とすればソクラテスの議論の方向は明らかに(Ⅱ)の承認にあるのだから、この議論は神意説を否定する含みをもつものである、と読まれるわけである。確かに議論の構造に関する限り、(1)(Ⅱ)で

の「神々」は①SISで「どの行為が正しいか」について意見が一

致することが容認されているので、その点を考え合せるならば、この読み方はそれとして当を得ていよう。ところで(T)を主張する人は必ず(r)をも主張することになるが、もし(r)の主張が(Ⅲ)を満す正しい行為の基準を答えるためのものであれば、それが同時に(T)をも主張しているとは限らない。とすればこの個所の議論を神意説批判として読むことは、(1)を答えたエウチュプロンを神意説論者に見立てることを含意しないし、むしろ彼の(Ⅱ)への迷いのない同意を考えるならば、 彼を理論家としてではなく、ソクラテスの問いに対してごく一素直に常識の立場から答えている宗教家と見るべきである。常識の立場は、神意説を否定しつつ同時に「正しい行為」の基準としては「神の命じること」を挙げて、怪しむことはない。ではこのようなエウチュプロンの立場に対するこの議論の教訓はどこにあるのか。それは、もし人が規範倫理のレベルで彼のように正しい行為の判別基準をなんらかの権威の意志に求め、しかも「神々は立派なこと、よいこと、正しいことと見倣したものを愛するのである」(「の⑦1『)という具合に、その権威がある行為を愛したり、命じたり、総じて意志するのはある理由に基づいてのこととの事態を認める限り、「正しい行為」を「権威が命じる行為」として定義することは不可能であるという教訓である。というのも「行為の正し

●●●●●●●●さそのもの」は、それを理由にして権威がその行為を命じたその当(旧)の形相(の】goの)に他ならないからである。即ち議論の力点は、神意説の否定そのものにあるというよりは、エウチュプロンの「正しい行為」と「権嗜威の意志」にかんする次の信念の組合せのうち、その(斑)が神意説の主張として解された場合には(i)~(耐)が(M)不整ムロをきたすことを衝くところにある。(i)「ある行為が正しければ神々はその理由から必ずその行為を愛するし、正しくなければ愛することはない」(『の①1魚先の(ⅡごF)「何がなすべき正しい行為であるかは、神々という権威がその行為を愛しているか否かによって判別しうる」Sの四1『臣)(耐)「正しい行為とは、神々という権威が愛するものである」S侍1僻先の(1))ソクラテスの議論は、この(耐)が「行為の正しさ」のウーシァを述べている。即ちその定義を与えていると解された場合には、信念(i)と循環するのである種の不整合に陥るということを指摘す

(七七)

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ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

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(Ⅵ)「ある行為が正しいとすれば、神がそれを命じる命じないに拘らず正しい」まずソクラテスは、屯・で議論のために「すべての神々の意見が一致する」ことを容認するとは言え、彼のエウチュプロンへの批判

●●は、法律そして神々の意志という仕方で、エウチュプロンを怖れか(Ⅳ)ら他律的に縛っている、その権威主義的考えに向け』られていた。というのも⑦の]C1,足での第一議論でソクラテスは、「神々の間で行為の評価について意見の対立があるのだから、同じ行為が同時に或る神々からは愛され、別の神々からは憎まれることがある。従ってもし神々に愛される行為が敬慶で、その逆が不敬度とすれば、同じ行為が敬虐にして不敬塵ということになるではないか」と論じているが、その狙いは、エウチュプロンが行為の規範にしている「神々」という権威は複数あるのだから、それらが正反対のことを命じるときにはどうするのか、その衝突を裁くより高次の行為規範が必要ではないか、ということの指摘にあったのである。ということは、ソクラテスはエウチュプロンに向かって「もし君 るものである。そして議論の方向が(1)の保持にある以上、この指摘はエウチュプロンの信念体系における(i)と(Ⅲ)の整合的組合せを否定する含みをなんらもつものでないことは明らかである。従って、この議論を神意説をめぐる論争として読み占神の意志それ自体はある行為を正しいものとする根拠ではない」ことを認めるに至るこの議論が次の(V)を否定する含みをもつと読むことは、(旧)一ナクスト解釈上誤りである。(V)「ある行為が正しければ、それは必ずや正しいが故に神によって命じられている」とするとしばしばこの三ウチュプロン』の議論の教訓として述べ(応)られる次の(Ⅵ)について、われわれは以下のように一一一口うことができ.F{〉つノ。 のように直接に権威に訴えて自己の行為を正当化しようとするならば、その権威はある行為をそれが正しいということを知ってそれが故に命じるような権威でなければならないのではないか」と問いかけているのである。そして実際エウチュプロンが「神々」と呼ぶ権威に求めているものは、彼の信念(i)を考え合せるならば、実の所(V)に述べられている条件を満すような命令主体であったと言えよう。無論それは既に、伝統的な擬人神観による多神教では担い切れない権威観念である。従って(Ⅵ)の中の「神」がエウチュプロンの信念の中での「神々」のように、結局はその判断に誤りの可能性をもっている「人間的権威」を指しているとすれば、この(Ⅵ)は真である。だがこの「神」が(V)の記述を満す命令主体を意味する場合には、(Ⅵ)の主張はある留保をもって受取る必要がある。即ちその主張が単に(Ⅵ二)「『神がXを命令する』はそれだけでは『Xは正しい行為である』の根拠ではない」という意味であるならば、それはソクラテスによる議論と調和するが、もし(Ⅵ・二)「神がある行為Xを命じなくても、Xが正しい行為である場合がある」をも含意するとすれば、この(Ⅵ.こ)は(V)と矛盾し、ソクラテスの議論が(V)を否定していない以上この(Ⅵ.こ)を彼の議論に読み込むことは許されない。以上『エウチュプロン』の議論の検討を通してわれわれとしては次の点を確認したとしておこう。ソクラテスがこの議論によって示唆していることは、(E)「もしわれわれがエウチュプロンのように何が正しい行為かを直接にある権威に訴えて判別しようとするならば、それにふさわしい権威とは、正しい行為を『それが正しいから』と (七八)

(5)

篠 崎 栄 66

の理由に基いて必ずや命令する、そのような権威である」ということである。このような権威をいま、正しい行為についての判断の不可謬性に着目して「神1権威」と呼ぶならば、その権威について次の点が言えよう。(E・二「その神-権威がわれわれの行為規範とし‐て以外に知られ得る途をいま想定しないとすれば、(V)から言ってその神1権威の命令を知るためには『正しい行為とは何であるか』の探求が不可欠となる」というのも「神-権威」の意志としてなんらかの仕方で伝承されている行為規範も、特にそれが複数ある場合、「今ここでわたしは何をなすべきか」に答えるものとなるためには、「採用する規範に従う●●●●●●一」とがその状況では(或いはその状況でも)正しい行為である」との判断に裏打ちされる必要があるからである。(E・二)「もしなんらかの手続きを経てある権威がそのような神

●●●I権威であると同定する一」とができ、かつその権威がある行為Xをその状況で命じていることを知り得たならば、その命に従ってXをすることが正しい行為となる」というのも、仮に何故Xをすることが正しいのかその理由がわれわれに知られていないとしても、その権威は(E)にあるように「Xが正しいが故に」命令する権威であるからである。そしてその権威を神1権威として同定する手続きのなかには、われわれ自身の正しい行為についてのなんらかの理解が不可欠の要素としてある以上、その手続きを経てわれわれが正しい行為の基準をそのような神1権威の命令に「服従する」ことに求めたとしても、そのことは道徳的行為者としてのわれわれの所謂「自律性」をなんら損うものではな(旧)いとこ一口えよう。

二、『クリトン』における「ロゴスの立場」 では、『エウチュプロン』の議論を導くソクラテスの思考が一つの含みとしてもっていた神-権威に服従するこのような道徳的行為者の自律性は、『クリトン』における「自分で考えて最善であると明らかになったロゴス以外、わたくしのうちのなにものにも従わない」(ぢず)との「ロゴスの立場」から言うならば、どう説明されるのか。この問題に向うために第一に『クリトン』における権威についての考え方をみておこう。ソクラテスはこの作品の主題である「逃亡の企て」という行為の

●●●正・不正を論じるに当って、人間的権威の集約である法律に従う一」

●●●●●とそれ自体がある行為を正しいものとするとは考えず、逆に法律の方こそが「正しさが本来ある姿」(巴・])とか「ハデスの法」(起呂)と表現されている究極的な正しさに照らして裁かれるべきであるとする点で、「神々」の権威を根拠付ける「正しさ」を認めていた『エウチュプロン』と軌を一にする。即ちソクラテスのみるところ、個人(S)と法律・ポリス共同体に代表される人間的権威(P)との関係についての最善のロゴスは、、Cの画l己屋の推論上頂点となる個所からまとめれば次のようになる。(A)SとPの間で自発的な同意に基づく権威関係が成立している場合には、SはPが命じることをなんであれ行うべきである。(B)もしSがPの或る命令に従う必要がないと考えるならば、その不服従が許されることをSはPに対して説得せねばならない。これらのロゴスは、『弁明』から窺われる次のロゴスと首尾一貫するものである。(C)Pの命令内容が直接に「他者への加害一を含むという仕方)Pの命令内容が直接に「他者への加害」を含むという仕方で不正である場合は、SはPに対してその命令が不当一であることを説得すべきであり、それがきき入れられない場合はそ(七九)

(6)

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

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(L・二「正・不正、美醜、善悪のことがらについても、もしだれか知者が存在すれば、その一人の判断をこそ多くの人の判断より畏れ、それに従わねばならない」(sSI烏)とのロゴスを導く。この考え方は、『エウチュプロン』におけるソクラテスの思考が暗に示していた論点(E)と明らかに共鳴している。われわれはそこで語られた権砦威を、その判断の不可謬性故に「神l権威」と呼んでおいた。もしこの神l権威が『クリトン』では七・ 域についても同様に考え、 (四)の命令と亡拒否すべきである。これらのロゴスの基本にある想定は、「あらゆる人間的権威の命令の正しさがそれに照らして判定され、われわれが根本的にはそれに(卯)のみ従って行為すべき『正’しさ』がある」との想定である。では『クリトン』においてソクラテスは、そのような「正しさ」をどのように知り得るとしているのか。彼によれば、知がある種の判断(号箇)において示される以上、一般に判断について当のこと

がらの知を示すものとそうでないものとを区別する基準が与えられ

ればよい。その基準は一言で言えば、当の判断が問題の領域についての知者(ず。で言・ヨロ】・の》ず。①ご&コョ)のなしたものか否かということである。従って「ある人々の判断は尊重すべきであり、ある人々のは尊重すべきでない」(合塁)ことになり、ここから「|般にあらゆる領域において行為のただしさ(・ユゴ・筋切)は、それぞれの領

域での専門家、即ち「知識権威」の判断に従うことに求められる」

とのロゴスが出てくる。これが、

(L)「自分で熟考して最善であると明らかになったロゴスにのみ従う」との「ロゴスの立場」から承認される人々の判断についての最善の

ロゴスである。そしてソクラテスは行為の正・不正を含む道徳の領

(八○)

二における「知者」として語られているとすれば、(L・一)はそ

の者への服従に行為の正しさがあると主張している以上、『クリトン』での「ロゴスの立場」は神l権威への服従を正しさの基準として積極的に支持する立場になると考えられる。そこで以下の論述は、『クリトン』での議論の構造からいって、

この「知者(の己巴二)」と表現されている正・不正についての知識権

威は(E)の神l権威と同じ権威であること、更に『クリトン』ではその権威の唯一性と不可謬性がはっきりと主張されていること、を示すことになる。先ず、(L・一)を支える専門技術知との類比論法を「ソクラテス

は何故この疑義多い論法を用いたのか」という仕方で検討していこ

う。というのも彼は『エウチュプロン』「誘1ミではっきりと、道

徳の領塊股専門技術知の領域がある大事な点で同列には論じられな

いことを語っていたからである。その点とは、言い争いが起ったときに道徳の領域のことにかんしては他方と違って、「われわれはそれらを充分に裁くことができない」という点である。これは、道徳問題の論争について人々の間での充分に共有された判定手続きの欠如を言うに他ならない。そのことは、道徳の領域については知識権威が人々の問に存在しないと言うに等しい。だが正に『クリトン』での類比論法は、このような知識権威の存在を前提した上で初めて成り立つものであった。確かにソクラテスの語り方はこの点を考慮して「もしだれか知者が存在すれば(の二】、の切言①己巴弓)」との条件文によってはいる。また対話の状況を考えれば、無論のことこの類比論法がクリトンヘの説得を意図した対人論法として用いられていることも事実であろう。だが以上の考慮にも拘らず、ソクラテスが終生自覚し、人々と共有しようとした「善美のことへの無知の自覚」

が、正に道徳の領域については知者が存在せず、従ってそこでは各

人がロゴスによって真実を探求する他など」との認識であったとす

(7)

64 篠 崎 栄

れ庵)われわれはソクラテスが敢えてこの類比論法をここで用いて

いることの真意を探り出す必要がある。そのために解きほぐすべき問題は、この議論において、当初の尊重すべき判断とそうでない判断を下す「知ある者(ず。ご冑・ヨョ・】)」と「知なき者(ず。】昌冑。ご・】)」との区別(s騨皀l〕])が、続くs四』四l盆P、の一頁足らずで計七度に及んで「その一人(言うの】叩)」と「多くの(他のすべての)人々(ず○一℃・一一・】》望冒冨昌①叩宮一(四)四一一・】)」という表現で対比されていくことである。もし先の条件文で想定された知者が人間の内に見出されるような権威であれば、「知識ある少数者」と、他の多くの人々」という表現がむしろ適切で(別)あろう。何故殊更に「一者」対「多数者」の対比として、道徳の領域における知識権威と知なき者が対照されているのか。更にその最後の対比では何故「その一者即ち真理そのもの(ず。言】切言】目副訂四一回岳の茜)」(浅呂)という一見誇張とも取れる説明句が加えられているのか。筆者の結論は、これらの事情を最もよく説明してくれる読みは、先の条件文「もしだれか知者が存在すれば」を「善美のことへの無知の地平に住む人間の中にはそのような知者は存在しないが、もし神がかかる知者としてひとり存在するならば」という含みをもつ条(西)件文として読むことだ、と言うにある。というのは、ここでソクーフテスが「一者」対「多数者」の対比を強調したのは、これが専門技術知と道徳の領域における「知者」と硬い知なる者」の対比の異なったあり方の間に類比を成立させる媒介項だからである。「異なったあり方」と言うのは、道徳の領域において「知者」と唖(知なる者」の対比は、専門技術知の場合のように人間の間のこととしてあるのではなく、本来的には神と人間の間の対比だからである。即ちソクラテスがここで「多数者」と言うのは、クリトンが代表する世間の常識人だけではなく、ある意味でソクラテス自身をも含めた人間す これまでの論述でわれわれは、『クリトン』での「ロゴスの立場」が真理そのものに開かれている限り、行為の正しさを人間を超える権威への服従に求める生き方を積極的に支える立場であることをみてきた。とすれば、当初問題であった『弁明』での自己の哲学活動の正しさを「神の命への服従」として説明するソクラテス像との調和の問題は自ずと氷解したと思われる。というのもソクラテスの信念の中でその「神(言二の。、)」と呼ばれる権威が、不可謬な真理そのものとしての神であるならば、彼の思考・行動は三つの作品を通して完全に首尾一貫しているからである。 べてのことなのではないか。このように先の条件文と。者」対「多

数者」の対比を読むことができれば、「その一者即ち真理そのもの」

という句は唯一にして不可謬な知識権威を指すことになる。そしてそのような権威は、『エウチュプロン』での論点(E)における神l(閉)権威に他ならないのである。『クリトン』での類比論法に託された知識権威についてのソクラテスの思考を以上のように探り出すことができるとすれば、(L・二に語られる「行為の正・不正についてわれわれが従うべきその一人の判断」とは、『エウチュプロン』で暗示されていた「神l権威」の判断ということになる。とすれば、『クリトン』でソクラテスが自己の立場を「最善であることが明らかになった(己冨旨型&)ロゴスにのみ従う」(←二m1⑦)と言うとき、そのロゴスは「わたしの中にある様々な思い(3コの日qご)」(余す、)に杭して、光のように射し込み(己宮ご回芭)、「われわれのところに留まる(日の口の二m目。)」(食す、)権威あるものとして、それ自身道徳の領域での神I権威への服従を基礎付けていたのである。

三、『弁明』における「神への服従」

(八二

(8)

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

63

だがここで予想される一つの異論を考えなくてはならない。その異論は、ソクラテスの首尾一貫性を疑うというものでも、また彼がどのような手続きでもっていかなる存在者を「神」と呼んだのか確認するまではその首尾一貫性を肯定も否定もできないというものでもない。後者の尤もな異議について言えば、「ソクラテスは自らの信念の中で真理そのものとしての命令主体を『神』と呼んでいたことを前提すれば首尾一貫していた」と答えておく他はない。むしろ予想される異論は、「これまでの論述が正しければ、ソクラテスの首尾一貫性を問題にすること自体噴末な問いになるではないか」というものである。つまり彼の言う「神」が「正しいことのみを正しいが故に命じる権威」二の(V))であり、その「正しい」というのはあくまでソクラテス自身の理解に照らしてのことであってみれば、実の所彼が服従しているのは、人間の信念とは独立に自らを示した神にではなく、彼の信念体系の中での「正しさ」にではないのか。そしてそれを『クリトン』では「真理そのもの」、『弁明』では「神」と呼んでいるにすぎないのではないか。つまり彼には初めから自分の信念内部での「最善のロゴス」に従うという原則しかなかったのではないか、という異論である。例えばある解釈者の次の見解はこの異論に与するものと思われる。「ソクラテスは彼の宗教とか伝統的信条の方を理性に従わしめたと思われる。彼の神は、彼がいつもの原則と推論に基いて善いとか正しいとあらかじめ結論付け(〃)たことを命じるのである。」つまりソクーフーナスの「神」は、彼が理性的に判断した「善さ」や「正しさ」の代弁者にすぎないというのである。このような解釈は、神が「真理そのもの」である以上、人間の理性は常に「真理そのもの」に到達し得ているとの前提からのみ出てくる解釈である。だがソクラテスの「善美のことへの無知の自覚」は、人間が理性を尽してもなお埋められない隔たりが真理そのものとわれわれの認 (八二)

識との間には厳としてあるとの自覚だったのではないか。彼が「神」

と呼ぶ存在は、『弁明』田&で「実の所、ひとり神のみが知ある者」と語られる、人間の理性を超えてある存在であり、彼が「神の命に服従する」と言うのは、かかる真理そのものとしての神がなにかを命じてきたときには神が命じるが故に服従するとの意味であろう。●●●●●●●●一」のような『弁明』での神の知と人間の無知の鋭い対照を考えるならば、神がすぐには理解できないこと、或いは当の人が最善だと判断すること以外のことを人間に命じる場合が当然考えられよう。少くともソクラテスにとって神からの命とは、かの「ソクラテスより知恵のある者なし」との神託を契機とする彼の問答吟味活動によって引き起された同胞からの多くの敵意・中傷(画]の.田P・)にも拘らず、「神のことを最も優先せねばならぬ」(巴の)という仕方で下される重さをもっていた。同胞から「憎まれていることを感知し、苦しみ恐れている」(巴①)ソクラテスにとって「なおかつ問答吟味をせよ」との命は、人間が測りうる考慮を超えたものではなかったろうか。とすれば彼の思考の中で次の二つの行為者のあり方は区別されていたと思われる。

(i)なんらかの理由に基いてある存在を神1権威として一旦認めた以上は、それが時に理解を超える命令を下すとしても、その権威の命に従って行為する。

(Ⅲ)そのような権威を認める認めないに拘らず、自分の思考で理解し得る限りの「正しさ」に従って行為する。ある状況でこの一一つのあり方は二律背反という仕方で衝突するこ(別)とが考えられるが、もしソクーフーアスが『弁明』で繰返し語る「神の命への服従」という行為基準が(i)に当っていたとすれば、彼の行為原則を(M)として理解し去ろうとする先の異論はその論拠を

(9)

崎 栄

62 篠

失うであろう。そのために以下で(i)と(H)の異なりをより明確にしておこう。第一に、なんらかの理由に基き、ある権威を神l権威として認め、「その命に服従することが正しく、不服従は不正である」との原則を「ロゴスの立場」から立てたとしよう。例えば、「神は人間の創り主であり、完全に慈愛深く、人間にとって最喜のことを知りかつ命じるが故に、その命に服従することは正しい」と考える場合のように。ところが具体的な生の状況においては、神1権威の意志として知られた命令が、何故それに従うことが正しいのか理解できない仕方で下される、ということが起り得よう。人々からの憎しみに拘らず、問答吟味を神の命として続けたときのソクラテスがこれに当ろう。その場合に「このような命令はその正しさが理解できないのだから実は神からのものではない」とするのであれば、その人は(i)の立場にではなく(H)に立つことになる。従って第二の点は、ある命令を受けた場合に「それに従うことが正しい行いか否か」を理解し判定する考慮とは独立に、その命が神からのものか否かを判定(羽)する手続きをもつことである。この点にかんし『弁明』いいのでソクラテスが、問答吟味活動が神からの命であることを「神託、夢、その他考えられるあらゆる手段によって知り得た」と言うのは、彼が然るべき手続きを経て神からの命を受取っていたことを示している。このように以上の二点にかんしてわれわれが『弁明』から読み取れる謂わば状況証拠は、ソクラテスが(i)と(H)の立場を区別していたこと、そして彼は「神の命に従う」との原則を基本的に(i)の立場において語っていたことを示している。結局、『弁明』での「神への服従」の原則は、真理そのものに開かれている限り、『クリトン』での「ロゴスの立場」と完全に首尾一貫しているのである。ここで所謂「ソクラテスの逆説」について検討をし、彼の首尾一 貫性を支える知のあり方をみておこう。いま「ソクラテスの逆説」というのはへ「善美のことへの無知」を公言する(、崖》$ず)その同じ人物が、生涯を正しく歩んできたことを強い自信をもって語る(いい四・一』」・ざ四・四三)ことにある。というのもその人物の考えから言えば、「知は徳のための必要十分条件」なのだから「善美のことを知らない」と言うことは、自分が道徳的に立派に生きているとの保証(釦)が全くないと二目うに等しいからである。このように問題を提出した論者は、ソクラテスの核心が「確信から完全な知を目指す探求者」にあるとして、そこに「逆説」を解く鍵を求める。即ち彼の言う「無知」とは「善美のことについてなんらの確信をももっていない」との意味でなく、「わたしの確信の必然性をまだ完全に掴んでいない」との留保を意味する。つまり「完全によい生を送っているとは言えない」との含みである。他方で彼の「自信」は、それまでの彼自身の信念に照らして「これまで自分に見えている限りではわたしは立派な生を送ってきた」との自信であるのだから、彼の「無知」と「自信」は完全に両立する、というわけである。だがこの論者の「無知」の解釈は是認しうるとして、ソクラテスの「正しさ」への「自信」は単に彼の信念に照らしてのことであろうか。われわれは先にソクラテスが(i)の立場に立っていることを確認したが、この立場にある人の「行為の正しさ」に関する基本原則は次の如きものと考えられる。「不正を避けねばならない。しかるにそれが正しいが故にある行為を命ずる神がなにかの行為(A)を命じるとすれば、その命への不服従は不正となるが故に、神への不服従は避けねばならない。」『弁明』畠」1のでソクラテスはこのAを一般的には「最善のものとして与えられた、或いは自らを置いた持場(冨〆扇)を死守すること」と語り、彼自身の持場を「白・他を吟味する仕方で知を愛し求めながら生きること」と規定する。

(八三)

(10)

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

61

そして続く図害で彼は今の基本原則を殆どそのままに知として語る。(P)「不正をなすこと、即ち神であれ人であれよりすぐれた者へ不服従であることは悪であり醜であることを、わたしは知っ(釦)ている」彼にとって問答吟味活動が正にこの基本原則に基いて死守すべき持場となったその連関は、死刑決定直前の弁明の中で明瞭に語られている。「問答吟味を放棄することは神への不服従であり、それが故に(昌四S員。)わたしは吟味を放棄しておとなしくしていることはできない」(弓の1舘四)と。とすれば彼の自己の生涯の正しさへの自信は、「不正」を「神への不服従」として捉える、この公言された殆ど唯一の知に基いていたのであり、彼にあっては「不正をなすことは悪・醜である」との知と反対の「善美のこと」への無知とは両立しているのである。従って先の論者のいう「逆説」はむしろこの公言された知(P)を鍵として解かれるべきであろう。即ちソクラテスは「善く生きること」のために充分な「善美のことの知」は未だ有していないとしつつも、先ず「善く生きること」は「正しく生きること」を必要条件として(皿)形成されねばならないと考える。そして「正しさ」が本来的に「不(羽)正を避ける」ことにおいて実現する価値である以上、「善く生きること」はなによりも先ず「神への不服従」としての「不正」を避けるという生き方を基本として実現されるものであった。ソクラテスが『弁明』において自己の行為の正しさを繰返し「神の命への服従」として説明するのは、このような思考と「不正」にかんする知に基いてのことであった。

これまでの考察から、ソクラテスにとって「正しい行為」は「善 四、「説得」の途 き生」の本質的構成部分であり、彼はそのような行為を基本的に「神1権威の命への服従」として捉えていたことが明らかになった。ブラトンは裁判前後を通しての「ロゴスの立場」に支えられたこのようなソクラテスの思考を記した後、所謂「ソクラテス的対話篇」においてソクラテスの探求を徳への問いとして描いていく。だがその際もはや「神の命への服従」に行為の正しさを求める語り方を主人公ソクラテスにさせることはない。そこでは広く利己心に訴える「行為者自身を益するもの」という徳の観念を探求の土台に据えていくことになる。最後にわれわれが見届けておこうとすることは、このようなプラトンの戦略がソクラテス自身『弁明』『クリトン』で腐心していた(弧)「説得」ということを重視し、受継ぐものであること、反面でこの戦略は、その説得効果を高めようとすればそれに比例して「魂」を物象化する語り方を免れ難くなることである。かくしてプラトンにおいては、ソクラテスが立っていた「神への応答」という地点から一歩後退したところで「善き生」のあり方が語られていくことになる。先ず『クリトン』でのソクラテスが採った説得の途を合の」1浅四←の議論からみておこう。ソクラテスはそこで専門抜術知の場合と同様に正・不正についても知者の判断に従うべきことをどのように説得しているか。それは、「知者の判断に従わなければその従わない人自身が害悪を蒙るのだから、害悪を蒙りたくなければ従う他はない」という理屈である。「ではその害悪はその人の何に及ぶのか」との問いに対してソクラテスは次の二点を確認する。第一に、病的なものが身体を害するように、不正な行いをすることによって害され滅ぼされるなにか(X)が人間にはあること。第二は、そのXは身体よりも尊いものであること。この二点と「身体が劣悪で害されていてはわれわれの生は生きるに値しない(C巨四曰qのラヨ冒曰)」との判断から「そのXが滅ぼされては、なおのことわれわれの生は生きるに値 (八四)

(11)

栄 篠 崎

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しない」ことが承認される。いまそのXを「魂(冨司C言)」と呼んで

(お)おくと、ソクーフ|ナスの思考の中で「正・不正についての知識権威が存在するとして彼に従わないで不正を犯す」ことは「魂が害され劣悪になる」ことを意味し、「劣悪な魂をもって生きる」とは「その人にとって生が生きるに値しなどと論理的に等価である。従って『クリトン』では知者の判断に従うべきことを、人々の共有する生きるに値する生を望む、謂わば利己心に訴える仕方で説いていると言えよう。この説得の仕方から、「生きるに値する生を送っている」即ち「善く生きる」を「すぐれた魂をもつ」ことから説明する「ソクラテス的対話篇」での一貫した戦略まではほんの一歩であるが、先ず『クリトン』で不正な行いを「行為者の魂にとっての害」として説明する途がどうして採られたのか。一言で言えばそれは、「神への不服従」として不正な行いを説明する場合の説得力の弱さ故である。これは

ソクラテス自身『弁明』で痛感していた点であっし銃)プラトンが

『クリトン』での発想を承けて「正義」を「魂が益され、すぐれたものになること」として語る途を採っていく背景には、このような「善く生きること」への説得の腐心があったのである。そしてこの途は、「正義」を「神への服従」として語るに比してある種の利己心に訴えるが故に、徳を論じる幅広い土俵を設定することになる。だがプラトンがこのような途で「説得」を重んじれば、反面それに応じて「魂」と呼ばれるなにかXを物象化して語らざるを得ない途に踏み込むことになる。即ち正義を論じるに当って「よい魂」を「よい人工品」とか「よい制度」と類比的に語っていく『ゴルギァス』『国家』での途である。このような魂の物象化の語りは、「よい魂をもって生きる」と表現される人間の現実を理解するためのあくまで類比にすぎないことを忘れるならば、魂は自らが善と思うものを追い求めるという仕方で、真理そのものに対して謂わぱ己れ自身を 閉ざす危険なしとは言えない。それに対してソクラテスが『クリトン』で「われわれの生を生きるに値するものとする」ことを語るとき、彼が「魂」という言葉を一度も用いず、その代りに「正しい行いによってより善くなり、不正な行いによって滅ぼされるところのかのなにか(X)(鼻の三・ヶ・)」という表現を用いていることに注意すべきであろう。これは、魂が語られていることに対する対話相手との暗黙の了解によりながら、そのXを「魂」と呼ぶ場合に起り得る悪しき物象化を避けようとする意図による語りと解すべきであろう。つまり、不正な行いを行為者のそのなにかXへの害として語っても、そのXはそれへの害がなにか自明であるかのような存在者としてもののように理解されてはならなかったのである。もし「そのXへの害とは何か」と問われるならば、「それは不正な行いそのものである」としか言えないのではないか。ソクラテスのまなざしは、「不正な行いをなせばその結果の如何に拘らず、不正をなすというそのことにおいて、われわれの生はそれだけ生きるに値しないものになる」との現実を直視していたのである。では何故われわれは己れの生を生きるに値するものとすべきなのか。そしてソクラテスにおいて何故その営みが「神の命に服従すること」と語られていたのか。おそらく彼は「生きること」について次のような直覚をもっていたと思われる。それは、「われわれは自己の生を預かって生きている。無論わたしの生は他の誰でもないわ

●●●●たししか担えない限りで、わたしの生としか一一一口えないが、他面でその生はわたしが自由に扱いうるような所有物としてあるのではない。というのもその生を措いてわたしがある、のではないのだから」と(Ⅳ)の直覚である。とすれば「何故わたしの生を善く生きなければならないのか」との問いは一応次のように答えられるであろう。「できるだけ善く生きることは、わたしの生がそこから送り付けられ、わ

(八五)

(12)

ノクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

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たしにこの生を預けたその当のなにものかへのわたしの応答なのだから」と。ソクラテスが『弁明』で繰返し語る「神への服従」とは、この謂ではなかったろうか。彼にとって所謂道徳的行為者の自律性とは「自ら進んで(訂百ご)」この応答をなすところにあった。少くとも「人間の守るべき道徳は神の存在の有無によってなんら変るところはない」との浅見はソクラテスに無縁のものであった。「神が命じるが故に服従する」という現実にこそ倫理の基盤があることは、彼にとって『弁明』で語られるべき「真実(四扇昏の旨)」に他ならなかったのである。(一九八一・九・二八)

(1)この三つの作品での「ソクラテス」は、『弁明』を基準にして首尾一貫する限りでほぼ「歴史的ソクラテス」と一致すると筆者はみている。その理由は、『弁明』が書かれた際のプラトンの意図・読者層を考慮するならば、この作品で描かれるソクラテスは真実のソクラテス像という

●●にとどまらず、史実のソクラテスをも伝えていると推定されるからである。この点については、。.こ;8切・一二の勺四『且◎〆・{匹自員の、.旨『寺の勺ゴー。⑰◎己夛豈。【の。、『凹戸のい〕の」・の.『一四m8pzの乏巨。『宍』の『■・ロロ・四l《を参照されたい。このことは無論『エウチュプロン』『クリトン』

●●での対話が史実であった}」とを主張するものではない。問題は、}」の両

●●作品でプラトンが記しているソクラテスの思考が『弁明』でのそれと首

尾一貫しているかである。(2)二・【・フランヶナ『倫理学』(林下訳培風館)四七1四九頁参照。(3)筆者がここで「ロゴスの立場」と呼ぶ姿勢は、『クリトン』急匡’ので「わたしは今初めてではなくいつも、自分で考えて最善であると明ら

かになったロゴス以外自分のうちにあるなにものにも従わない(説得されなど人間なのだから」と表現されている姿勢のことである。 (4)特に国⑭の一・四○&》出塁19四『のP他には揺四《・田ずぃ田。-》画①島l‐《》ろSIIの』・いつの四・P堅塁‐I、.以上十一一個所すべてにおいて命じる神は享・与の。、》と単数形で呼ばれている。これは訴状の事・一二の。】.との複数形と際立った対照を示している。特に②因、とsを比べよ。(5)『弁明』画』房lp-.『エウチュプロン』いす]’一(〈O)四画11ケごm四lIワや桿口の$』、の11]①■このように主題がソクラテスの「不敬度」と直結しているが故にこの対話篇での徳の探求では、他の初期対話篇と違って「敬慶」という言葉だけでなく、「不敬度(5go、一・コ)とは何か」という形で反対の悪徳表示語が頻出することになる。、」‐l「@℃」‐lP巨戸]の①など。(7)『弁明』と『クリトン』についてこの指摘は、o・〆・、自白、》の。月呉の⑪.F・己。。]召Pロ・山]にある。『クリトン』では「他者への加害」と「同意を故意に破る」という形の不正が問われている。(8)』囚呂11「・のm1P無論この想定は、ティラーが指摘するように(シ・国司昌一・『・勺一員Pこの二目四三三⑰三.『家.F・己。。]の国P弓・]田’一)徳の一性の問題を引き起すが、「敬虐は正義のなんらかの意味での部分である」との想定そのものは議論全体を通して疑われていない。(9)ここの議論については、の.三・●。》のP⑪。。『員の⑪:弓の□の{一己【-.コ。{勺一のご叩向員耳目『。]○シー]]国ご『ラの勺三一。⑪。つど。{の。。『呉①pの」・の・二:8⑪がよい参考文献である。(皿)罰・ロ・エニの亘勺一員9,両具ごロゴ『。:ユニのロ胃一一の『『ず①。ご○{句CH日切・P・己。ご]①『P弓・$’百を参照。(、)従って、閂.三・O『・曰亘P言ロメ色ョ一コ目:。{勺一四[9mDog『旨の⑪ご◎一』PC己。ご]①s・で.』◎」〕・E1田の読み方は誤っている。(皿)以後「行為の正しさ((・」一百一・回)」というのは「道徳的正しさ」のことである。道徳外の領域も含めた場合は「ただしさ(。『二○筋⑩)」と記す。なお「道徳の領域」については、註(Ⅲ)参照。(旧)この教訓の読みは、○◎ずのPC己.。】[・・己ロ」$.]ゴロから学んだ。また以 (八六)

(13)

58 篠 崎 栄

下「権威」という言葉は、「甲が乙に対して或る領域で権威関係にある」とされる場合の「甲」を指して用いる。そして「権威関係にある」とは「乙はその領域にかんする甲の指示に服従する一般的義務を有する」に等しいとしておく。』・ニポヘンスキー『権威の構造』(丸山訳公論社)の命題一・三などを参照されたい。『クリトン』でこの権威関係は、「甲と乙とにとっては正しさが平等でない(◎二の〆-,.臣のご&8ニニ&:)」(巴のロヨー、)と表現されている。(M)テクストから明らかなように決してエウチュプロンは神意説論者として描かれているのではないQなおギーチは、三ウチュプロン』が含む神意説批判を重視する従来の殆どの解釈(例えば先のコーエン、アレンらの解釈)と違って、神々ヘの畏れから行為を律するエウチュプロンに「主を畏れるは知恵の始め」(『筬言』一章七節)の実践者を見て、名前通りの「真直な思慮の人(三円・幻一m宮‐ヨーヨ)」と評価する。勺・『・●の:戸《勺三・㎡向具ごロゴ『・)二の二・己⑪[.ご・一・mP二・・四.]顎①ヨト。、一・二g【の『、》○篦。『」〕①召》弓.⑭』1造・の。」色己このめ:一》F・己。。』忠PP]屋》ギーチ自身の道徳観に支えられたその読みの独自性は興味をひくが、問題はやはりソクラテスとの対話によってエウチュプロンの一貫しない信念の組合せが露呈されてくる点であろう。なおギーチが「畏れ」と解釈するのに対し「怖れ」と解する私見が註(Ⅳ)にある。(E)このようなテクストの読み込みを推論の形でまとめ、それに対して別に道具立てを用いて批判した論述として、勺・P・の巳自己弓旨のooヨョ画己⑰自已三・『画一”且昌司の己のコヮ○溝{・『」ご「の》己己・色1,つを参照。(肥)例えば、フランケナ上掲書四九頁。(Ⅳ)ある学者によれば、エウチュプロンのとった行為l不注意から使用人を死なせた父親を殺人罪で告発した行為(ぢlclは「誰であれ殺人者は告発されねばならない」との当時のアテナイの法律に従った行為であった。宛、P西◎の『ずの『・《勺一胃9,同こ【ごロゴ『●・勺夛『目の⑪一mご◎一匂い・]①、mも』s・いずれにしろ法律とか擬人神観に基づく伝統的宗教における 「神々」といった形での人間的権威に彼が追順していることが問題なのである。なお「怖れ」については、「正義」と「敬虐」の部分関係を示す別の文脈で(]』の『1旨呂)「畏敬(&」。、)」抜きの「怖れ(」の。⑪)」があるではないか、という仕方で、プラトンは「怖れ」が支配するエウチュプロンの権威主義を椰楡していると思われる。(旧)「自律性」(凹巨:◎目『)という言葉では差当り、「自己の信念体系の中で優先的に『正しい』と信ずることを行うような行為者のあり方」を意味させておきたい。(旧)『弁明』缶ワ」実際この(C)のロゴスの内、「説得すべきであり」までは『クリトン』、C&l呂民の個所でも含意されている。(A)と(C)が両立することは明らかである。なお、法廷の命令に対する服従・不服従をめぐるソクラテスの首尾一貫性については、の自国、》・ロ.。】【・》弓・全1認を参照されたい。(別)そこからこの僅か一頁余りの個所で四度(凹冨l《・g1]P、]の←1コ紹呂1四)も繰返される「(ポリスの法律が)命じることはなんであれ行うか、さもなくぱ説得すべきである」との、権威の命令に対して選択の余地を残した言い方が出てくる。後述するように、ソクラテス・プラトンにとってこの「説得」(己の三q)は重要な概念である。(Ⅲ)「道徳の領域」と筆者が言うのは、単数・複数の違いはあるにせよ、この『エウチュプロン』三]1画と先の『クリトン』sS1]○に全く共通に語られている「正・不正、美醜、善悪のことがら」を指してのことである。(肥)ちなみにく}:【。⑪・・己・の]芹・・で.ご》z・の巨二の量・ヨラの勺三一◎の。ご耳・{の:『鼻の⑪》PC己。。]頷囚も。ご⑦らはこの点にソクラテスの主要な歴史的功績をみている。なお三で確認するように、ソクラテスにおいて「善美のことへの無知」と「不正の何たるかの知」は両立しているので、その無知は註(Ⅲ)での「道徳の領域」すべてにわたるものではないが、この論点に関する限り「正しさ」を「善美のこと」と同列に扱っておく。

(八七)

(14)

ソクラテスにおける「行為の正しさ」と「神への服従」について

57

(路)台巨1脚ワ①l「・亘Cl旨.。』1国.◎旨!』』》s1いぇ茂呂1『(別)実際、専門技術知に当る医術での「人間的知者」については合$で複数形が使われているし、同様な文脈の『弁明』田冨でも二人か極めて

少数の者(己自巨。]厨。》)」と言っている。(妬)このように読むならば、ソクラテスの思考は『弁明』圏呂’三における「神のみひとり知者で、人間の知恵は取るに足らない」との主張と完

全に呼応することになる。(配)ちなみにこのような「神I権威」を指す「真理」の用法l即ちそれに従わなければ裁かれ、多数者と対照的に語られる用法lとしては、『弁

●●●●明』$Z1mの「わたしは諸君によって死の判決を受け、諸君は真理によって劣悪と不正の刑を負わされて」が挙げられよう。(幻)、目白、.◎己.。旨》己・田(詔)この点については、の①:戸の。」四己二のの◎巨].。冨亘の『@を味読され

たい。(羽)この困難な問題について例えば、C昌目》◎己.。茸・》の冨冨の1を参照。(釦)この「逆説」の定式は、二:8⑪.:.。】[・》弓.①1mによる。また以下の論述が批判的に答えようとする相手もヴラストスである。彼の解決は】す丘・)弓.①1旨にある。(皿)行為規範とするに値する「よりすぐれた者」であればソクラテスは人間的権威に従うのに吝かではないが、無論力点は、囹匹にある如く「神が命じた場合」にある。この重要な一文のサンタスの読みについて若干のコメントをしておこう。Ⅲ、筆者が「即ち」と訳した(百一・を彼は《:&◎曰・としてぼかしているが、ここは「不正」を「よりすぐれた者(本来的には神)ヘの不服従」として説明するソクラテスの意図を汲んで《一・の.》と訳すべきである。⑰、彼は「不正をなす」と訳した一己房の旨・を不完全用法にとってその目的語に「不服従である」《gのこの三のそれと同じ「よりすぐれた者」を充てるが、『クリトン』全ZlgS1mでの《昌男①ご》の完全 用法からいってこの読みは採らない。(以上、切目菌⑪・・己・◎溝・》弓・出》弓)い、ただ彼の「よりすぐれた者」の解釈はすぐれている。即ち彼は「誰より」の特定がテクストにない点に注目し、通常の解釈「行為者であるわたしよりすぐれた者」に限らずに、「他のいかなる権威者よりもすぐれた者」(すの言の『二目岳の四mの具色且すの耳の『弓目:]。この可。aの『の円)と読んで、ここに異なる権威者からの命令が衝突した場合それを裁く高次の原則が語られていると読む。(己の目も・台)(皿)これが『クリトン』盆房の「『よく生きる』と『正しく生きる』とは

同一である」との主張の意味するところである。即ちソクラテスにとって「正しい行為」は、目的論者の言うように「よき生」に対して「目的I手段連関」における手段としてあるのではなく、それは「よき生」の本質的構成部分なのである。(羽)ソクラテスは例えば十人将軍裁判事件とレオン連行事件のくだりで、「不正をなさない」(四臣囚’四)ことが「正義のために戦う」(缶山])こ

とだと言っている。

(弧)『弁明』を読んで気付くことは、「説得する」己の】弓の旨という動詞の頻出である。一つは「魂を気遣うようにアテナイ人を説得する」(の.m・邑畏》い』ずP山①&)との文脈で、より主要には「この裁判において自分の正しさを説得する」(の.、,い』&・観呂》い『&》四コの、)との文脈においてである。この語は『クリトン』でも重要視され、その対話はいずれが「説得」の

ための論拠をもっているかをめぐるものとなる。(の.m・会畏・孟)なおソクラテスのように語るべき「真実(四]の弓の旨)」をみている人にとって(『弁明』]「三1m》廷す、.←』&)、次に「説得(己の二コ)」が問題となることが哲学の正統な伝統であることは、次のパルメニデスの断片

(□【』門」一山I←)から明瞭に読み取ることができる。「一つは『そ

●●れはある。かつあらぬ}」とは不可能』とする途である。それは説得の途である。なぜなら真理に従うものだから。」(弱)『ゴルギァス』巴曽の同様な文脈でこのXが「魂」と呼ばれている。 (八八)

(15)

56 篠 崎 栄

(師)このようにある意味でわたしのものでありながら決してわたしの所有物ではない関係に立つものとして、わたしが使う言葉がある。わたしがその中で生きている言葉もまた預かりものである。ソクラテスが言葉を大事にし(例えば『弁明』葛監1『で彼は自分がそれをせずに敗訴になった哀訴嘆願を「厚顔と無恥」と呼び、それを「言葉」(百mC、)と呼ぶのを拒否している)、彼にとって言葉の中で哲学をすることが同時に「善き生」への気遣いの意味をもっていたことは、われわれにとって「生」と三百葉」が共に送り付けられてきた預かりものであることの消息を伝えてはいないだろうか。 (記)弓の←1銘昌・続くい、民主かけるように四度語られる。 続く冨農までで詞説得」の容易ならざることが、たたみ

(八九)

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