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清 水 真 志

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(1)

企 業 統 治 と 市 場 機 構

清 水 真 志

は じ め に

今日,法人企業における経営者を任免あるいは牽制するために,どのような 機構や制度を整備すべきかという問題が,俄かに関心を集めるようになってき ている。いわゆる企業統治論の盛行である。ここにいたるまでには,国によっ て幾分時期は前後するものの概ね

70

年代以降に,さまざまな種類の企業犯罪 や企業倒産が続発し,その都度,経営者の無能力や無責任,ありうべき倫理観 の欠如などが喧しく糾弾されてきたという経緯がある。企業の舵取り役として 不適格な人間をできるだけ早急に罷免し,あるいは更迭し,もって経営者の独 走や専横を防止しようとする要請が,一種の社会的圧力をもつほどに強まって きたわけである。むろん,企業規模の巨大化とともに,ー企業の行動といえど も,それが社会全体に与える影響が見過ごしにできないほどに深甚化しつつあ ることも,こうした要請を強めずにはいない一因として挙げられよう。

(1) 

さしあたり,目下広範に見られる理解に照らしてみると,企業統治

(Corporate Governance)

とは,企業経営

(Corporate Management)

に優先し,その上位に 置かれるべき概念とみなされる。すなわち,企業経営の役割が,企業が何らか の目的を達成するためには欠くことのできない戦略,いわゆる経営戦略を選択 したり実践することに求められるのにたいし,企業統治の役割は,企業経営が 追求すべき目的そのものを設定することに,あるいはまた,好ましい企業経営 のメカニズムを設計することに求められる。こうした役割からすれば,現実の

(1) 

たとえば,加護野

[1996] 777790

頁を参照せよ。

(2)

‑144‑

香川大学経済論叢

338 

企業統治が主として関わり,その解決に腐心するべき問題は,およそ以下のよ

うなものになるはずである。まず,経営者の任免権を誰に帰属させるべきか,

いいかえれば,誰を企業の統治主体(主権者)とすべきかという問題がある。

そこからさらに,統治主体にいかなる責任を負荷させるべきかという問題や,

統治主体が経営者に脱みを利かせるために,具体的にいかなる方策を設けるべ きかという問題が派生することになるであろう。現に,こうした問題は何れも,

数多の企業統治論によって今日取り上げられているトピックスでもあり,企業 統治の当事者や関係者にとっては切実な,いわば企業統治の実践面における課 題というべきものであろう。この課題にたいする解決策として,企業構造や報 酬制度の改革を始めとして,株主議決権の強化,社外取締役や社外監査役の導 入,経営者の成績開示など,交々の方法が検討され,また実践に移されてきた ことは,すでに周知のところである。

以上は,まず異論の生じようはずもない,企業統治という分析対象について のごく大まかな概説にすぎない。しかし議論を一歩進めて,この分析対象にた いしていかなるアプローチをもって臨むべきか,いいかえれば,いかなる問題 を企業統治論の主題に据えるべきかと問うや否や,忽ちのうちに諸説の分岐が 生じることになる。たとえば,そもそも「企業」という非市場的関係を理論的 に根拠づけることをもって,企業統治論の主題とみなす立場がありうる。これ は,企業統治の実践からは少なからず距離を置いた,いわば抽象的な企業組織 論とでもいうべきものであろう。これにたいし,企業統治のための具体的な方 法を提言することをもって,企業統治論の主題とみなす立場もありうる。これ は,企業統治の実践にたいして積極的に関与しようとする,いわば具体的なメ カニズム・デザイン論とでもいうべきものであろう。そして,こうした問題設 定の相違からして当然ともいえようが,それぞれの立場において採用されてい るアプローチも一様ではなく,むしろ論者の数だけ異なるといってもいいほど 多種多様である。抽象的な企業組織論だけをとっても,株主同士の間で,ある

いはそれらと経営者の間で,経営の主権を奪い合う経営支配機構こそ企業であ

るという見方,個人の意思決定の「限定された合理性」を克服するネットワー

(3)

クこそ企業であるという見方,環境との相互依存関係とパワー関係にある組織 こそ企業であるという見方,取引費用節約のための市場と代替的な手段こそ企 業であるという見方などが,各々それなりに一定支配的なアプローチを形成し

(2) 

ているのである。こうした一連のアプローチには,相互の優劣を競い合う以前 に,経済学や経営学における諸学派が今日にいたるまで培ってきた相異なる問 題関心が,多分に反映されざるをえないであろう。

それではマルクス経済学としては,企業統治という分析対象にたいして,ど のようなアプローチをもって臨むべきであろうか。周知のように,「資本」に ついての理論的考察こそ充実を極めたマルクス経済学であるが,固有の意味で の企業論や組織論にかんする限り,およそ十分な先行研究の蓄積をもつとはい いがたい現状にある。すでに「企業統治」という文言自体が,従来のマルクス 経済学の土壌にもう一つ馴染まない感を否めないのである。したがって本稿の 議論も,企業なり組織なりにかんする出来合いの理論にそのまま依拠し,現代 企業をそうした理論の効能を試すための実験台に見立てるといった類の,まさ しく今日的な企業統治論には,到底なりうべくもない。むしろ本稿の主たる関 心は,既往の企業統治論においては検討済みの問題とみなされて正面から取り 上げられることも稀な,いわゆる「所有と機能の分離」や「経営者支配」といっ た現象をどのように捉えるべきかという,いたって原理的な問題に限定される ことになろう。ただし,これらの,いわば企業統治論の一歩手前にある問題に

(2)  ここに列記した四つの見方のうち,一番目のものを代表するのが,マルクス経済学に 立 脚 し た 株 式 会 社 金 融 論 で あ ろ う 。 馬 場

[1978a], 

後藤

[1970],

小松

[1980],

小松

[1983], 

片山・後藤編著

[1983]

などが代表的である。もう少し広く取れば,

Berle

Means [1932]

Sweezy [1942]

以降後を絶たない一連の経営者支配論も,あるいはこ の立場に含めてよいかもしれない。二番目の見方は,経営学のいわゆる組織論や組織意 思決定論としては,古典というべきに属するものである。

Barnard [1938]

を始めとし て ,

Simon [1957],  March Simon  [1958]

などが挙げられる。これにたいし,三番目 の見方は,比較的新しい経営学の潮流をなすものといえるであろう。

Pfeffer& Salancik 

[1978],  Pfeffer  [1981]

などが代表的である。四番目の見方は,新制度学派や取引費 用アプローチといった名称ですでに遍く知られるところの,やはり比較的新しい理論経 済学の潮流をなすものであり,

Coase [1937]

並びに

Williamson [ 1975]

をもって噂矢 とする。なお,以上の整理,およびそれに関連する文献については,主として寺本絹著

[1997]  5057

頁に依った。

(4)

‑146‑

香川大学経済論叢 3 4 0   ついてであれば,従来のマルクス経済学においても,株式資本論や株式会社金 融論,あるいは資本結合論や資本市場論といった理論領域において,それなり の議論の応酬を見てきており,ー通りの知見はすでに打ち出されている。した がって本稿の端緒は,これらの知見を参看しつつ,経営者ならぬ「資本家」と いう存在をどのように捉えるべきかという今更めいた問題を,いま一度検討す ることのうちに求められることになる。就中,問われるべきは,個人資本を前 提として組み立てられた「資本家」という概念が, 「所有と機能の分離」や「経 営者支配」の生じた株式資本において,どのような変質を余儀なくされるかと

いう問題であり,また振り返って考えてみて,そもそも「資本家」という概念 はどのように組み立てられるべきであったかという問題であろう。本稿のこう

したアプローチは,企業統治論としてはいかにも迂遠なようでありながらも,

法人企業を取り巻くさまざまな利益集団—株主に始まり,顧客,果ては社会

にいたるまで一の一切合切をいきなり論じようとする総花的なアプローチ や,はたまた,法人企業を市場関係と互換的ないわゆる「契約の束」として論 じようとする退嬰的なアプローチにたいしては,少なからず理論上の優位を主 張しうるように思われるのである。

実際,こうした古典的な株式資本論へと立ち戻ることは,近年において「企 業統治」という用語の意味がたどってきた変遷に照らしても,むしろ省くべか らざることのように思われる。すなわち「企業統治」とは,元を質せば,株主 による経営者の牽制を意味する用語に他ならない。しかし,現実に株主のもっ 統治力が形骸化するにしたがって,あるいはまた,企業を取り巻く利害関係が 錯綜化するにしたがって,「企業統治」という用語はこの本来的な意味から次 第に遊離し,労資関係や市場関係(企業とその取引先の関係),さらには社会 関係(企業とそれを取り巻く社会構成員の関係)までを意味するものとして,

半ば済し崩し的に拡大解釈されていったという経緯がある。こうした経緯に照

らすならば,今日の法人企業を取り巻くさまざまな利益集団(ステーク・ホル

ダー)との関係が,手の付けどころに困るほどに多岐にわたるとしても,一つ

一つの関係ば必ずしも孤立したものではなく,いわば入れ子状の構造を保ちな

(5)

がら相互に結びついていること,そしてこの入れ子の中心に置かれているの が,株主同士の関係であり,また株主と経営者の関係であることは容易に理解 できよう。しかも,この二つの関係こそは,それを抜きにして企業統治はおろ か,株式資本自体をも語りえないという必須性を帯びている。したがって,考 察の範囲をこの二つの関係にまで絞り込まれた企業統治論であれば,株式資本 論という理論領域が厳然として存在する限りにおいて,マルクス経済学のなか でも十分に扱われうるし,また扱われて然るべきだということになるわけであ

(3) 

る 。

とはいえ,株主同士の関係やそれらと経営者の関係こそが企業統治論の核心 であるとしても,マルクス経済学のもつ理論的な体系性に鑑みるならば,いわ ゆる株主分化や経営者支配,株主総会と取締役会の分離を始めとする会社機関 の設定など,株式会社の経営機構にかんする問題ばかりを取り上げることで事 足れりとするわけにはいかないであろう。そう考えるのも,経営学的な企業統 治論とは一線を画して,マルクス経済学の独自色を鮮明にしなければならない といった,いわば分析主体の手前勝手からのことではない。むしろ上のように 考える第一の理由は,企業統治という分析対象が有していて然るべき,そして また現に有しているところの,独特の広がりにある。すでにくり返し述べたよ うに,企業統治の本体をなすのは,株主同士の関係,またそれらと経営者の関 係に他ならない。とはいえ,企業統治論の主題をこの二つの関係だけに限定す るというのでは,企業統治論はもとより株式資本論と同ーか,せいぜいその幾 (3)  ここまで絞り込まれたかたちでの企業統治論であれば,株式資本に限らず結合資本一 般の成立を論じる際にも,それを扱わずに済ますことこそかえって難儀となるもののよ うに思われる。実際,すでに『国富論』にも,「合本会社の事業は,つねに取締役会に よって運営される。……ところが,こういう会社の取締役は,自分の金というより,む しろ他人の金の管理人であるわけだから,合名会社の社員が,自分自身の金を見張る時 にしばしば見せるのと同じ鵜の目鷹の目でひとの金を見張るとは,とても期待できな い。……だから,こういう会社の業務運営には,多かれ少なかれ怠慢と浪費がつねには びこること必定である」

(Inq.,

皿 ,

pp.23223

ふ〔3 〕

7677

頁)というように,今日の 企業統治論を先取りしたかのような記述が現れるのである。もっとも,スミスは他方で,

外国貿易を促進するための公共事業(たとえば堡塁や守備隊の設置など)に携わる場合,

合本会社の取締役には,制規会社の取締役には欠けるような利害関心や能力の高さが認

められることを指摘してもいる

(Inq.,III,  pp. 228229, 

⑬ 〕

8384

頁 ) 。

(6)

‑148‑

香川大学経済論叢 3 4 2  

分小振りな応用分野というべきものに止まるのであり,「企業統治論」という 固有の名称を与えられるに十分なだけの理由を失うことになるであろう。本稿

もまた,荀も企業統治を論題とするからには,株主同士の関係,またそれらと 経営者の関係にかんする考察に端緒を求めつつも,それに終始するものであっ てはなるまい。企業統治という分析対象のなかに,外部の利益集団との関係ま でが取り込まれるにいたる理由についても,一定の示唆が与えられるべきなの である。

しかし,そればかりではない。第二の理由は,一見したところかえって第一 の理由と矛盾するようであるが,従来の株式資本論という問題領域が有してい て然るべき,しかし実際には有していないところの,独特の狭さにある。従来,

株式資本論はどちらかといえば,個人資本同士の等位的な結合関係として,あ るいは特に巨大な個人資本を中心とする非等位的な結合関係として,何れにせ よ株式資本のもつ経営支配機構としての側面,つまりはその対内的側面を重視 するかたちで組み立てられてきたといってよい。しかしながら,この対内的側 面を十全に理解するためには,後述するように,株式資本の対外的側面をも脱 み合わせなければならないのであって,まさにこれら二側面を機械的に分離し えないという点にこそ,株式資本という資本形態の一つの特質が求められるの である。しかも,その場合の対外的側面には,たんに株式資本同士の水平的な 関係が含まれるばかりではなく,一個の株式資本と信用機構の関係,さらに一 個の株式資本と商業機構の関係という,いわば垂直的な関係までが含まれる。

したがって,一個の株式資本における株主同士の関係や,それらと経営者の関 係のあり方,延いては企業統治のあり方も,当該株式資本を取り巻く資本市場 の動向によって左右されるばかりではなく,資本市場以外の市場機構,すなわ ち貨幣市場や商品市場の動向によっても左右されることになるのである。そう

した,企業統治そのもののうちに反映される諸市場機構の重層的な関連を捉え

るためには,従来の株式資本論の文脈において「所有と機能の分離」や「経営

者支配」といった問題を取り上げるだけでは不足であり,これらをより大きな

市場機構論の文脈のなかに位置づけ直す必要があるわけである。

(7)

「所有と機能の分離」論と「資本の人格化」概念

すでに冒頭でも述べたように,本稿の基本的なスタンスは,企業統治を構成 しているさまざまな利益集団のなかでも,株主同士の関係,およびそれらと経 営者の関係を特に重要なものとして取り上げるというものであった。こうした

スタンスで臨んでみて,まず目に飛び込んでくるのは,いわゆる「所有と機能 の分離」論や,その延長線上に説かれることの多い「経営者支配」論 その 直接的な根拠を,株式分散と機関所有の何れに求めるか,という相違こそあれ

(4) 

といった,マルクス経済学の株式資本論における一種の定説である。ここ での論点は,自ずから二つに分かれよう。第一に,いわゆる「所有と機能の分 離」が何らかの程度で進行した株式資本における経営支配の主体,すなわち所 有なき機能だけを担う主体にたいして,マルクス経済学の側から「資本家」の 認定を与えうるかどうか,という論点がある。第二に,少数大株主も含め,い わゆる「経営者支配」を黙認する株主,すなわち機能なき所有だけに専ーする 主体にたいして,やはりマルクス経済学の側から「資本家」の認定を与えうる かどうか,という論点がある。一見して明らかであろうが,何れの論点も,詰 まるところ,マルクス経済学における「資本家」概念をどのように組み立てる べきかという問題に帰着するのである。

すでに諸多の先行研究が明らかにしているように,株式資本や資本市場の発 生自体は,マルクス経済学の原理論においても十分に説かれうるし,また説か

(5) 

れるべき必然性を有している。とするならば,株式資本よりも歴史的に先行し て現れたさまざまな資本結合の様式,すなわちソキエタスやコンメンダといっ たパートナーシップ,合名企業,合資企業,株式合資企業などについても,そ れらと対比することで株式資本の特質がいっそう明らかになるのであれば,頭

(4)  周知のように,マルクスは株式会社の経営機構を,「現実に機能している資本家が他

人の資本の単なる支配人,管理人に転化し,資本所有者は単なる所有者,単なる貨幣資

本家に転化する」

(K.,

i l l ,  

S. 452, 

〔 刀

221

頁)というように,いわば「所有と機能の

分離」の成れの果てともいうべき姿で描き出している。

(8)

‑150‑

香川大学経済論叢

344 

から無視してかかるわけにはいかない。それぞれの様式の詳細には立ち入らな いまでも,資本結合以前の個人企業も含めて,少なくとも企業形態が多様であ りうるという事実自体は,株式資本論を資本結合論として組み替える場合には なおのこと,マルクス経済学の原理論においても一定の理論的な意義を帯びて くるのである。多様でありうるのは,何も資本結合の様式ばかりではない。株 式資本の経営機構に目を向けるならば,その様式も,官僚制組織を始めとして,

職能別組織や事業部制組織,より過渡的な職能別事業部制組織があるという具 合に,およそー通りではないのである。そして,これらの様式の何れが選ばれ るかによって,経営機構の中枢に位置する資本家の職能や権限にも,やはり相 応の変化が, しかも確実に生じるはずである。とすれば,ここでもまた,上に 述べたのと同じ指摘をくり返すことができるであろう。すなわち,それぞれの 経営機構の様式の詳細にまでは触れないとしても,少なくとも経営機構が多様 でありうるという事実自体は,マルクス経済学の原理論においても,これを頭 から無視してかかるわけにはいかない。しかしまた,こうした現実の企業形態 や経営機構に見られる多様性にたいして門戸を開くためには,マルクス経済学 に伝統的な「資本家」という概念を,たとえ企業形態や経営機構がさまざまに 変わろうとも,そのことで直ちに内容を書き換えずに済むように,充分包括的

な概念として組み立てておかねばならないのである。

それでは,従来のマルクス経済学において,「資本家」という概念はどのよ

うに組み立てられてきたのであろうか。そう借問して真っ先に想起されるの

(5)  先行研究によって主として明らかにされたのは,

(1)

産業資本の諸種の遊休資金のなか

でも,比較的長期にわたって遊休せざるをえない償却資金や蓄積資金であれば,利子付

預金機構としての貨幣市場をもって満足な運用機会とはなしえないこと,

(2)

貨幣市場を

つうじては動員しえない長期資金も,資本市場をつうじれば動員可能であり,そのこと

で社会的労働配分の調整もいっそう円滑化されること,

(3)

株式投資それ自体も,いわば

派生的な価値増殖の機会をなし,それを行う産業資本にたいして競争媒介的な作用をも

たらしうること,という三点であった。以上の三点をもって,貨幣資本家というあるま

じき仮構を措かずとも,また価値法則の貰徹を妨げずとも,原理論体系のなかに株式資

本や資本市場を組み入れることが可能であり,また必要でもあることが証明されるにい

たったわけである。山口

[1971] 139145

頁,山口

[1979] 139146

頁,山口

[2000] 197200

頁,伊藤

[1971] 391399

頁,伊藤

[1974]242243

頁 ,

246

頁,伊藤

[1989] 184

頁 ,

189190

頁を参照せよ。

(9)

は,マルクスによって提起された「資本の人格化

(Personifikation)

」という見

(6) 

方であろう。資本家とは「資本の人格化」であるという文言をそのままに受け とるならば,この「人格」が,自然人たる個人のみに限られなければならない という特段の理由は見つからない。というのも,「資本の人格化」という見方 は,初期マルクス以来の疎外論の残滓といえばいえるかもしれないが,資本家 という存在を,資本の効果として与えられる被規定的な,いわば自体的ならざ る存在として抽象化するところにこそ本来の主旨があり,個々の資本家の具体 的なありようまでを細かく指定するものではないからである。それが「資本の 人格化」として機能する限りでは,個人資本家以外の,複数の資本家からなる 資本家集団や,さらには法人格やその集団までもが,資本家としての認定を受 けるのに何ら不都合はない。マルクスにおける初発の「資本の人格化」という 見方は,このように読み込むならば,結果的に「資本家」の定義域を大きく押

し広げる可能性を蔵していたともいえる。

しかし,もう少しく注意してみると,問題はそれほど一筋縄ではいかないこ とが分かる。というのも,この「資本の人格化」という見方は,それと一組を なす「資本の肉体化」という見方によって,上述の可能性を封じられてしまっ ているからである。たとえば,「商品から貨幣への,また貨幣から商品への,

資本の形態転化は,同時に資本家の取引であり,売買行為である。資本のこの 形態転化が行なわれる期間は,主観的には,すなわち資本家の立場からは,販

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

売期間と購買期間,すなわち彼が市場で売り手または買い手として機能する期 間である。資本の流通期間が資本の再生産期間の必要な一部分をなしているの

................ 

と同様に,資本家が売買し市場を歩き匝る期間は,彼が資本家として,すなわ ち人格化された資本として機能する期間の必要な一部分をなしている」

(K.,

(6)  この見方は,いかにも古風ではあるものの,今日のマルクス経済学においても依然と して幅広い支持を集めている。価値形態論のなかで商品所有者の「欲望」を明示化すべ きことを説き,いわゆる行動論的アプローチの機縁を築いた宇野ですら,その例外では ない。宇野

[195052]2327

頁を参照せよ。宇野の「資本の人格化」概念にたいして

は,山口

[1984] 1012

頁,松尾

[1987] 145157

頁,松尾

[1999]6364

頁 ,

7581

頁など,すでに多くの批判がある。

(10)

‑]52‑

香川大学経済論叢 346 

II,  S.  131, 

〔 む

214

頁,傍点部は引用者)という場合,この「人格化された資 本」は,自分で市場を歩き回ることができない商品にたいして,文字通りの手 足となって奉仕するところの,行商にも似た「彼」つまりは個人資本家の姿を,

(7) 

自ずと

1

方彿させよう。さらに元を質せば,資本家に先立つ商品所有者も,「商 品には欠けている,商品体の具体的なものにたいする感覚を,商品所持者は自 分自身の五つ以上もの感覚で補う」

(K.,S.  100, 

〔 日

156

頁)存在として,

いわば商品という抽象的な存在を受肉化させた一―—商品体としての使用価値と

はまた違った意味で価値を受肉化させた一一個

l

人という姿で,描き出されてい るのである。以上の記述からすれば,それ自体が抽象的な存在に他ならない法 人格は,具体的な手足をもって資本に奉仕するべき「資本家」としては,到底 認定しがたいことになるであろう。しかも,こうした誤読を招きかねない「肉 体化」という比喩は,もう一方の「人格化」という比喩と,意味の上での区別

(8) 

を明確にされることもない。その結果として,「資本の人格化」という見方は,

個人資本家こそが「資本家」であるという狭陰な理解を,かえって強力に根拠 づけてしまうことになるのである。

もっとも,マルクスの「資本(あるいはその他の物的範疇)の人格化」とい う概念には,それが用いられる箇所なり文脈なりの違いに応じて,意味すると ころに相当の違いが出てくることも確かである。一つには,先の「資本の肉体 化」という見方にそのまま通じるところの,商品や貨幣に欠けている具体的感

(7)  現にマルクスは,「商品は,自分で市場に行くことはできないし,自分で自分たちを 交換し合うこともできない」

(K.,S. 99, 

lJ 155

頁)からこそ,こうした商品の欠 を補うべ<. 商品所有者が登場せねばならないという説き方をしている。こうした説き 方をいわば匝喩的に読むならば,尚品の所有権移転とは,すべからく商品の場所移転で もなければならない,という結論が導かれよう。また商業労働者とは,資本主義的生産 の規模が増大し,個人資本家がもはや全ての商品を売り歩くことができなくなるに及ん ではじめて登場した,何かしら工場労働者とは異質な存在であるかのようにも思われて こよう。事程左様に,「資本の人格化」という比喩的表現は,『資本論』全巻をつうじて 意想外の誤読の連鎖を生じかねない危険性を有しているのである。

(8)  実際,「この生産様式(資本主義的生産様式)そのものの再要な当患者了あそ資杢家

と賃金労働者とは,そのものとしてはただ資本と賃労働との肉体化であり人格化である

にすぎない」

(K.,

I I I ,   S .  8 8 7 ,   〔 別 434 頁,括弧内および傍点部は引用者)という,端

的な表現も見られるのである。

(11)

覚の補充,およびそれに続く肉体的運動としての交換行為の実践, といった意 味での「人格化」がある。この意味での「人格化」は,『資本論』第一部「資 本の生産過程」の第一篇「商品と貨幣」から第二篇「貨幣の資本への転化」に かけての第一巻前半部分において,集中的に用いられている。第一巻前半部分 が,資本家の最も本源的な姿を確定するはずの箇所に当たることからすれば,

この第一の「人格化」は,以後再三にわたって登場する「人格化」の,いわば 祖型ともいえるものであろう。たとえば,第一巻第一篇第二章「交換過程」で は,他商品所有者の所有権や他商品の使用価値にたいする具体的感覚を伴いな がら,自商品の価値物たる証を立てるべく,商品流通に出向してゆくという実 践的性格,すなわち「業」

(K.,S.  101, 

〔 日

159

頁)の契機が,「人格化」

の実質的な意味として前面に押し立てられるのである。この意味での「人格化」

が,売買の現場に立ち会う個人資本家の姿を表象することは,すでに述べた通 りである。しかしながら,『資本論』の全巻にわたって多用される「人格化」

という概念からは,これ以外に,少なくとも二種類の意味を読み取ることがで きるように思われる。

そのうちの一つは,節欲ないし致富欲,飽くなき蓄積衝動,といった意味で の「人格化」である。資本家の個人的消費にたいする禁欲が,買わずに貯め込 むという原始的な方法で行われるところから,蓄蔵貨幣の存在が導き出され,

買わずに投資するというより進んだ方法で行われるところから,貨幣の資本へ の転化,および剰余価値の資本への転化(資本蓄積)が導き出される。この場 合,単純に考えて,ー消費者としての奢

1

多を恣にすることは,「資本の人格化」

(9) 

たるべき資本家にあるまじき行為だということになろう。とはいえ,この意味

(9) 

「勤勉と節欲と貪欲とが,彼(貨幣蓄蔵者)の主徳をなす」

(K.,I,  S.  147, 

〔 日

235

頁 , 括弧内は引用者)という記述などは,その際たるものであろう。こうした発想をひた押

しに進めるならば,「彼がただ資本の人格化としてのみ,産業資本家としてのみ機能す

るかぎりでは,彼による商品価値の供給はつねに商品価値にたいする彼の需要よりも大

きい。……資本家がただ産業資本の人格化でしかないかぎりでは,彼自身の需要は生産

手段と労働力とにたいする需要だけである」

(K.,II  , S.  1201

幻,〔

4

〕1

96197

頁)と

いうように,一切の個人的消費を行わない資本家だけが「資本の人格化」の名に値する

のだという,冗談とも本気ともつかない極論さえ生じることになる。

(12)

‑154‑

香川大学経済論叢

348 

での「人格化」は,どちらかといえば,利潤の源泉を資本家の個人的な節約と 勤勉に求めるような,シーニアを始めとするいわゆる「節欲説

Abstinenztheo rie

」にたいする皮肉を込めて,やや椰楡的な語調を伴いつつ使われているよ

(10) 

うに思われる。当のマルクスは,資本家の個人的な奢

1

多と資本蓄積の進行を,

(11) 

必ずしも対立するものとは見ていない節も伺えるのである。これにたいし,三 番目に来るのは,生産部面における人格的権威の付与,生産過程の指揮監督,

といった意味での「人格化」である。この意味での「人格化」に遭遇しようと すれば,第一部「資本の生産過程」の第三篇「絶対的剰余価値の生産」以降を,

つまりは商品流通の考察に充てられた第一巻の前半が過ぎるのを待たねばなら ない。そこでは,商品流通における売買活動と並んで,商品生産における指揮

(12) 

監督が,資本家の果たすべき任務の一つに数えられるのである。資本家はこの 場合,労働者にたいして人格的権威を振るい,さらに自らの目を光らせて生産 過程の陣頭指揮にも当たるところの,現場監督や工場長といった姿で描き出さ

(13) 

れることになる。しかしその一方で,こうした文字通りの指揮監督の役目は,

資本の生産規模が拡大してゆくにつれて,遅からず上級労働者へと委ねられざ

(14) 

るをえなくなることをも,マルクスは併せて指摘している。しかもその際,や むなく生産現場を立ち去った資本家が,もはや「資本家」の名に値しないもの とは必ずしも考えられていないようである。

このように,マルクスの「資本の人格化」という概念を三つに大別し,それ ぞれの中身を検討してみると,「資本の肉体化」という概念からの隔たりが最 も大きいのは,二番目に挙げたそれであるように思われる。しかし二番目の「人

( 1 0 )   事実,こうした「節欲説」にたいする皮肉ないし椰楡は,『資本論』全巻にわたって 奇異ともいえるほどの執拗さで反復されるのである。

K.,S. 206, 

且 〕

334335

頁 ,

K., S. 243, 

1J393394

頁 ,

K.,S. 620625, 

⑬ 〕

154164

頁 ,

K.,I S. 636, 

3

181182

頁 ,

K.,I,  S. 741, 

⑲ 〕

357358

頁 ,

K.,II,  S. 43

ふ 〔5 〕

296297

頁 ,

K., III,  S. 455, 

げ 〕

225

頁を参照せよ。

(11)  K., S. 620, 

⑱ 〕

155

頁 ,

K.,I,  S. 63

ふ〔3 〕

181182

頁 ,

K.,III,  S. 455, 

げ 〕

225 

頁を参照せよ。

(12)  K.,  I S. 199200, 

〔 り

324

頁 ,

K.,S. 326328, 

⑫ 〕

143146

頁を参照せよ。

(13)  K., S. 350, 

〔 幻

181

頁 ,

K.,

皿 , s .

887888, 

〔 別

434437

頁を参照せよ。

(14)  K., S. 351352, 

〔 幻

183

頁 ,

K.,S. 447, 

⑫ 〕

333334

頁を参照せよ。

(13)

格化」は,個人的消費を節欲してこその資本家だという見方を,よしんば椰楡 的な意味合いからにせよ,ともかくも示している部分があった。その限りでは,

ここでもなお,ー消費者としての欲求を抱え, したがってまた使用価値にたい する具体的感覚にも欠けることのないような,個人資本家の残像がちらつかな いわけではないのである。一方,三番目に挙げた「人格化」は,生産現場に立 ち会うための肉体を資本家に要求するものであるから,「資本の肉体化」とい う概念との間には,明らかすぎるほどの呼応関係をもっている。しかしこの「人 格化」も,要求された肉体を誰か自分の代理人や上級労働者から調達すること まで,資本家にたいして全面的に禁ずるものではなかった。総じていえば,三 つの「人格化」の何れも,「資本の肉体化」という概念からの離脱を大なり小 なり予感させつつ,その予感を現実へと移すことなく終わっているのである。

そして,初発の「資本の人格化」という概念のなかに秘められていた以上の ような弊害は,後の株式資本論にいたって,決定的ともいえる幾つかの理論的 瑕瑾となって現れることになる。すなわち,個人資本家こそが言葉の真の意味 での「資本家」だ,という理解に引き摺られる限り,複数資本の結合体として 現れる株式資本においては,真の意味での「資本家」は不在であるか,あるい

(15) 

経営機構のシステム分化とそれに伴う人的契機の消極化を,個人資本にはありえない

「資本の自立化」として,株式資本に固有視している須藤

[1984a]

も,このマルクス 経済学に伝統的な「資本=個人資本」という想定を,大筋において追認しているわけで ある。須藤

[1984b]

も参照せよ。現代の日本経済を,大企業からその支配者たる資本 家の姿が消え失せ,代わりにサラリーマン経営者を筆頭とする労働者による共同支配の 体制が敷かれるにいたった「脱資本主義社会」

(15

頁)であると断ずる西山

[1983]

も , そうした古典的な資本概念そのものを疑うことなく反蜀している点では変わりがない。

西山

[1981]

.  も参照せよ。またアタリは,個人株主の株式所有時間がほんの数分にまで .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

短縮され,「経営するのはもはや資本家ではなく,資禾そあらという事態がしだいに進 行 」

(Attali [1988] 

〔 訳 〕

474

頁,傍点部は原著者)している現代の株式会社を,「正体 不明の全体主義的な国家とほとんど同様に,抽象的で匿名的で無情なものとなった市場 の要求によって占有〔憑依〕され」

(Attali [1988] 

〔 訳 〕

475

頁,括弧内は原著者)て おり,かえって儀礼的秩序の神々に律せられていた資本主義以前の時代を想起させるも のと総括している。すでに宇野

[1971]

も,株式資本における資本家は,その経営機構 に直接関与すると否とにかかわらず「単なる産業資本家とは異なった性格をもたざるを 得ない」ものとし,その根拠の一つとして,株式資本における「生産過程の機械化と,

それに対応した経営の組織化」が,本来産業資本に濃厚であった「個人的性格を脱却せ

しめることになる」という点を挙げている

(160162

頁 ) 。

(14)

‑]56‑

香川大学経済論叢

350 

は虚偽の意味での「資本家」へと変質を余儀なくされるのだ,と断案される以

(15) 

外になくなる。この断案は,個人資本によって編成されることを前提に組み立 てられてきた,つまり自由競争的で短期流動的な色彩をかなり強くとって組み 立てられてきた商品流通にかんする諸原理をも,株式資本が一般化されるにつ れてその妥当性を大幅に損なうことになるのだという,もう一つの断案にも繋 がるところであろう。株式資本を価値法則の貰徹を妨げるところの資本集中=

(16) 

独占機構に見立てようとする傾向が,避けられないものとなるのである。しか もこうした弊害は,「資本の肉体化」という概念を意識的に斥け,「資本の人格 化」という概念をいわば単数形ではなく複数形で活用するというだけでは,容 易に回避されるものとはいえない。蓋し,個人資本家こそが言葉の真の意味で の「資本家」だという理解のなかには,とりもなおさずオーナー経営者を戴い

(16) 

確かに,自己資本の動員をつうじて巨大な固定資本を建設するにいたった産業株式会 社の場合,たとえ構造不況業種へと転落した後にも,その解散ないし整理を滞らせざる

をえないということが起こりうる。ヒルファデイングも,たとえ多くの産業企業が平均 利潤を実現しえず,場合によっては純益さえ出すことができずに,個人企業が次々と倒 産を余儀なくされる局面においても, 「株式会社は比較的たやすく『再組織』されうる。

それは資本の調達がたやすいので,株式会社はその継続や整理に必要な額をととのえう るからである」

(Hilferding[1955] 

〔 訳 〕

199

頁)と述べている。しかし以上の点をもっ て,たとえば鎌倉

[1971]

のように,株式資本を直ちに価値法則の貫徹にたいする阻害 要因とみなし,そこからさらに原理論体系において株式資本論を説くこと自体の無理ま でを結論づけることは,株式資本を「一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ」であ り , 「一般的利潤率の平均化には参加しない」ものと断定したマルクス

(K.,

i l l ,  

S. 454, 

7

222

頁)と同様,理論的には拙速との誹りを免れないように思われる。鈴木編

[1960 62]

下,および岩田

[1964]

も,原理論体系において株式資本を積極的に説くべきもの

とする点では,宇野や鎌倉の純粋資本主義論と対鎚的な立場にあるとしても,そのため に原理論体系の抽象の基礎を帝国主義段階にまで延長することを要求しているという点 では,かえって後者に比較的近い発想を示している。さらに,原理的な株式資本論を説 きうるものとし,かつその抽象の基礎を自由主義段階の株式会社に求めることを提唱し ている武井

[1978]

においても,株式会社は地代と併せて「利潤率均等化法則の制限・

否定」

(150

頁)として現れるものとされている。武井

[1972]

も参照せよ。これらの発 想は詰まるところ,既成産業の規模を変えないままその所有持分のみを不特定多数の株 主に分散させるといった側面,いわば「資本の流動化」という側面を後退させて,もっ ばら「資本の集中」という側面から株式資本論を捉えようとする方法に由来するものの ように思われる。この問題について主題的に論じているものとして,伊藤

[1981]377 378

頁 ,

394397

頁,伊藤

[1989] 184185

頁 ,

189190

頁 を 参 照 せ よ 。 関 連 す る も の

として,{宅美

[1980]274275

頁も参照せよ。

(15)

て,その下に資本の所有と機能という二つの契機が分かちがたく一体化されて いることこそ資本の本来置かれているべき状態だという理解までが,半ば同 義的なものとして含まれているからである。この二番目の理解を温存しておく 限り,たとえ一番目の理解を斥けようとも,行き着くところに大して違いはな い。複数の人格からなる資本家集団にたいして「資本家」の認定を与えたとこ ろで,この集団において所有と機能の完き一体関係が損なわれてしまえば,や はりその集団によって動かされているのは,言葉の真の意味での「資本」では ない,何かしら別種の機構なのだという結論になる。いいかえれば,株式資本 や結合資本は,そこでの個人資本家たちの結合関係がいわば等位的なものたり 続けている間は,個人資本よろしく「資本」たりうるが,この関係が何らかの 意味で非等位化されてしまえば,即座に「資本」以外の何ものかに変質してし まうという結論になる。どの途,一方に貨幣資本家ないし株主が,他方に機能 資本家ないし経営者がいて,それぞれは機能なき所有を,あるいは所有なき機 能を代表するにすぎないという「所有と機能の分離」論の基調には,些かの変 化も見られないことになるのである。

とするならば,むしろ次の事実こそ,本稿としては決定的となるはずである。

すなわち,こうした「所有と経営の分離」論の基調をそのままに受け継ぐ限り,

資本の所有と機能という二つの契機は,いわば加算的に一体化されているか除 算的に分離されているかの何れかで,加減の何れによらず,その他の契機を中 間に差し挟む余地はない,という理解を頭から前提してかかることになる。そ の結果,所有者支配論と経営者支配論の何れに立ったところで,所有とも機能 とも区別されるべき第三の契機,すなわち資本の「統治」という概念は,マル クス経済学から欠落してしまうのである。ここから振り返って考えるならば,

個人資本家こそが言葉の真の意味での「資本家」だという理論的前提について は一切改めることなく,ただマルクス経済学の外枠を広げることで企業統治論 を展開しようとする試みは,この本来ありうべからざる「統治」という概念を 無自覚なままに用いるという,一種の方法上の矛盾を芋んでいたことが知られ

よう。

(16)

‑]58‑

香川大学経済論叢

352 

資本家の「機能」概念の拡張

すでに述べたように,「資本の人格化」という概念は,所有と機能という二 つの契機の間に,ほとんど個人資本以外にはありえないほどの完き一体関係を 要求するという点で,後々の「所有と機能の分離」論にまで強い底流を残して いたのであった。マルクス経済学に伝統的な「資本家」という概念は,一口に いって,歴史的実在としての個人資本家に梵れかかるかたちで組み立てられて きたのである。一方,株式資本はいうまでもあるまいが,複数の個人資本によっ て作り出されて間もない結合資本においても,すでに多かれ少なかれ所有と機 能の一体関係は損なわれている。したがってまた,この結合資本の「人格化」

も,やはり自然人としての個人資本家やその集団からは多かれ少なかれ乖離を 始めている。こうした現実を想起するならば,「資本家」という概念があまり

にも狭溢にすぎることは,むしろ指摘するまでもないほどに自明な事実なので ある。ところが,問題はそれで片づくわけではない。というのも,従来の「所 有と機能の分離」論には,肝心たるべき「機能」の内容までを問い返そうとす る姿勢を欠いているという,前節に述べたのとはまた別の問題点が見出される からである。こうした欠落の生じる背景には,従来のマルクス経済学が,資本 家がその活動をつうじて何ら価値を生産するものではないという結論を急ぐあ

(17) 

まり,その活動の中身についての考察を疎かにしてしまったという事情が,さ しあたり指摘できるであろう。しかしながら,いっそう重要と思われるのは,

「分離」されると否とにかかわらず「機能」は不変であるという理解が,従来

(18) 

のマルクス経済学に支配的であったという事情なのである。

(17) 

そうした事情を共有しないであろう数少ない論者のうち,生産過程において資本家

(Bosses)

の果たしている機能に焦点を当てつつ,階層的な労働編成の非階層的なそれ にたいする技術的優越性を否定しているものとして,

Marglin [ 197 4]

が挙げられる。

田中

[1994), 

田中

[1996]

も参照せよ。マーグリンにたいする批判としては,

Williamson [1980]

および

Landes [ 1986]

がある。

(18) 

資本が,価値増殖する運動体という本質さえ不変であれば,その運動形態はおろか,

企業形態さえもさまざまに変容させうることは,これまでにも種々説かれてきたにもか

かわらず,「資本の人格化」として捉えられる資本家が,そうした資本の変容に伴って

(17)

周知のように,大株主から経営者へと経営権の割譲や委託が生じるには,つ まり資本家の機能の部分的な分離が生じるには,まず,経営者の任免権を大株 主が掌握しており,それゆえに経営者にたいする「統治」の可能性が担保され ていることが必要条件となる。とはいえ,こうした必要条件を満たしてさえい れば,いつでも機能を分離することができるものと考えるわけにはいかない。

あるいはまた,こうした必要条件に加えて,事業規模の拡大や株式分散―—ーと いっても,大株主の存在までを無化するにはいたらない,いわば中小株主の増 加ないし株式の下方分散――—に伴う経営機能の複雑化といった,幾つかの副次 的要因さえ補足してやれば,機能はむしろ必然的に分離されざるをえなくなる ものと考えるわけにもいかない。そもそも資本家の機能自体が,全体を打ち砕 かなければ部分を取り出しえないという結晶構造ではなく,少しの負荷によっ て全体から部分を剥離させることができるという多層構造を有していることこ そ,「所有と機能の分離」が実行されるための十分条件となるはずなのである。

しかしながら,従来のマルクス経済学においては,こうした資本家の機能その ものの,いわゆる「資本家的活動」そのものの内部構造にまで,十分な考察が 加えられてきたとは到底いえない。すでに述べたように,この資本家的活動は,

使用価値と価値の何れも形成せざる特殊歴史的な労働として,したがってま た,利潤の源泉ならざる非生産的な労働として,価値論の次元においていわば 否定形で一~ し て 一 語 ら れ こ そ す れ,それ自体の積極的な規定性にかんする限り,正面から問題にされることす

ら希有だったのである。

そうした,等閑ともいえる姿勢からして当然の帰結ともいえようが,この資

さまざまにその機能や態様を変えてゆくことは,ほとんど奇妙なまでに不問に付されて

きたといってよい。その点では,「資本の人格化」という見方を斥け,むしろ個別資本

家間の行動のバラッキから個別資本間の運動のバラッキを説明しようとする,いわゆる

行動論的アプローチも,必ずしも十全とはいいがたい。蓋し,そこでは個別資本家間の

行動のバラッキは,一種の理論的な与件として説かれてしまうことになり,その限りで

は,原理論の冒頭から末尾にいたるまで一貫して変わることがないものとして,やや逆

説的にいえば平坦化された不均質性として,かえって資本の運動形態や企業形態の変容

から超然してしまうことになるからである。

参照

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