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真宗教学研究 第30号(2009)

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ISSN 1346-2156

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真宗における仏事

講 演 真宗教学と仏事 林 智 康 1 一『歎異抄J.『親驚{云絵J.『御文章』ー 『浄土論註

J

における仏事について 延 塚 知 道 30 研究発表 親驚における「自然」の思想 山 田 恵 文 48 清沢満之の有限無限論 伊 東 恵 深 64 一二つの「骸骨」を中心としてー 道宣における説法勧化の意義 戸 次 顕 彰 76 一『四分律行事紗J轄病送終篇を中心としてー 親驚における教学の視座 名 和 達 宣 88 一「三心一心問答」を手掛かりとしてー 真宗教学学会講演会一宗祖としての親鷲聖人一 認知症高齢者に学ぶ仏教 釈 徹 宗 107 交流する願心の場 本 多 弘 之 132 真宗教学学会仙台大会記念講演 『教行信証』の現代的意義 藤 場 俊 基 148 一権威・権力との付き合い方の作法, 「もっともらしい病」との闘い方ー 極・単な時代 鷲 田 清 一 176 2008年度教学大会発表要旨 197

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6 月

真 宗 教 学 学

ふ云

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講 演 二

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八年度 真宗大谷派教学大会

真宗教学と仏事

||﹁歎異抄﹂・﹃親鷲伝絵﹄・﹃御文章﹄|| 真宗教学と仏事 皆様こんにちは。只今ご紹介いただきました、龍谷大 学の林でございます。この度は第十五回の真宗大谷派教 学大会の記念講演にお招きいただきまして、大変有難く 思 っ て い ま す 。 テーマが﹁真宗教学と仏事﹂ということで、﹃歎異 抄 ﹄ ・ ﹁ 親 鷲 伝 絵 ﹄ ・ ﹃ 御 文 章 ﹄ と サ ブ タ イ ト ル を 付 け さ せ ていただきました。﹁真宗における仏事﹂という大会 テ

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マに、直接結びつかないかもしれませんが、間接的 には非常に結びついていると思います。レジュメをまず 出していただきます。﹁仏事﹂の言葉を調べてますと、 中 村 元 先 生 の ﹃ 悌 教 語 大 辞 典 ﹄ ︵ 東 京 書 籍 、 一 九 八 一 年 ︶ の中には四つの項目があります。最初が﹁仏のなすべき

仕事、仏の教化をさす。衆生を救う事業活動。仏の所 作 。 ﹂ と 、 ﹃ 華 厳 経 ﹂ そ の 他 の 内 容 を 引 か れ て お り ま し た 。 二番目に﹁仏の教化を助ける飾りの役﹂といい、これは 荘 厳 等 に 入 る と 思 い ま す 。 ま た 一 一 一 番 目 に 、 ﹁ 仏 に な っ た さとりの上での仕事。何事も仏事ならざるはない。﹂と いう。衆生が浄土に生まれて仏になったその後の還相回 向などもこの中に入るかもしれません。四番目が﹁すべ て仏教に関係のある行事をいう。特に死者の年忌に追善 供養や法会などを行うこと。﹂とあります。一般的に仏 事といいますと法事とか法要とかそういう内容も入って くると思います。年忌法要などです。もうすぐ平成二十 と え ん き だ い お ん き 三年には親鷲聖人の御遠忌、大遠忌の法要がございます。

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つ 句d 五十年に一回の大法要です。東本願寺の大谷派の方は、 ﹁ごえんき﹂ということですが、西本願寺の本願寺派の 方は、﹁だいおんき﹂と、同じ内容を別な表現で言われ ております。真宗十派が、親鷲聖人の七五

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回思の法要 をむかえるということでございます。たまたま私は七

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回の大遠忌に、ちょうど中学三年生を卒業して、それ から高校一年に入る春休みに、西本願寺にお参りさせて いただきました。だからもうしばらくすると二回目の法 要に参拝できるという、とても有難いご縁だと思います。 このような例をあちらこちらで聞いてみますが、ほとん ど少ないようです。やはり五十年という単位は大変長い 時 間 だ と 思 い ま す 。 私達がお話したり、ものを書いたりするということは 自分の力ではなくて、仏様の大悲のはたらきによると思 われます。どれだけこの愚かな凡夫である私がみ教えを 伝えられるか分かりませんけれども、微力ながら﹁自信 教入信﹂、このみ教えを自ら信じて人に教えて伝えてい こうと実践することが大切だと思います。 だ い ひ く ふ け 親 驚 聖 人 は 、 ﹁ 大 悲 弘 普 化 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ ・ ﹁ 信 巻 ﹂ 二 四 七頁︶とみ教えは私が伝えるのではなくて、やはり仏様 が伝えていかれるということで、﹁自信教入信難中転 更難大悲伝普化真成報仏恩﹂︵﹃真宗聖教全書一・﹃往 ごもん 生 礼 讃 ﹄ 六 六 一 頁 ︶ の 善 導 大 師 の 御 文 を 直 接 引 か な い で 、 ち し よ う だ い し し ? っ し ょ き ょ う ら い さ ん ぎ 智昇大師の﹃集諸経札機儀﹄の﹁大悲弘普化﹂の方 を挙げておられます。これは﹁信巻﹂と﹁化巻﹂の二箇 所ございます。そういう読み替えなどを通して、本願他 力のはたらきを感じさせていただくわけでございます。 レジュメの一番目ですが、﹁今なぜ﹃歎異抄﹄を読む か﹂という、これは親鷲聖人のみ教えと現代社会の諸問 題に関係すると思います。﹃歎異抄﹄というのは、現在 非常によく読まれています。この大谷大学に深い関係の わたくし あります清沢満之先生の、﹁私の三部経﹂ということ の中に﹃歎異抄﹄が入っております。明治以降、倉田百 三、その他の色々な方によって﹃歎異抄﹄が世の中に広 がっていったと言われております。一番身近な例では、 時々お会いするのですが、私の一年先輩で今、武蔵野大 学の教授をされています山崎龍明氏が、﹃

NHK

こ こ ろ の 時 代 j 宗教・人生 j ﹄﹁歎異抄を語る﹂という題で放 送されていました。やはり

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でも﹁歎異抄﹄を宗教 の香組で扱われている、ということです。 それから私の勤める龍谷大学の共同開講科目である ﹃歎異抄﹄の受講者数をみますと、今年はまず深草学舎

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真宗教学と仏事 の方が二コマありまして五一六人、滋賀県の瀬田学舎の 方が一コマで五十七人となっています。深草の方は多い 時は千人を超えていたのですが、今はちょっと多すぎる ので、予備登録をしております。瀬田の方は今年から始 まりました。龍谷大学も学部が沢山増えまして、文学部 以外にも、経済学部、経営学部、法学部、短期大学部と いうのが深草学舎にあり、理工学部、社会学部、国際文 化学部が瀬田学舎にございます。文学部の一・二年生が 深草学舎、三・四年生が大宮学舎と分かれています。一 年生の必修科目として﹁仏教の思想﹂というものが全学 部にあり、前期が釈尊、後期が親鷲聖人となっています。 ﹃歎異抄﹂は二年生以上の選択科目になっているのです。 その中で沢山の学生が登録しています。﹁仏教の思想﹂ で親鷲聖人のみ教えや生涯を学んだ学生の多くがもっと 勉強したいということで、﹃歎異抄﹄の科目を登録する という傾向になっております。 その他色々なところにおきまして﹃歎異抄﹄は学ばれ ています。龍谷大学では社会人向けの河一加の︵龍谷エクス テンションセンター︶講座がございます。瀬田と深草に地 域交流センターがあります。深草では市民レクチャーと して﹁﹃歎異抄﹄を読み解く﹂というテ

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マで前期

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人 、 3 後期4人の講師が講義を行います。これは有料講座です が、五十人定員でいっぱいです。たまたま私がトップバ ッターでこのあいだお話をしましたが、その他に仏教学 や真宗史の方とか、色々な分野の人にもご講義をお頼み しております。学外では、朝日カルチャーとか

NHK

の カルチャーとか、そういうところにも出講させていた、だ いています。したがって学内学外を問わず﹃歎異抄﹄を 中心として、親驚聖人のみ教えを伝えていきたいという 気持ちを持っています。 レジュメの二番目でございますが﹁歎異抄﹄の出版と いうことです。有名なのは岩波文庫の金子大祭先生の校 注︵﹁歎異抄﹂一九一三年、岩波文庫︶がございます。これ が 今 日 一

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刷りを越えておられるということです。そ れから西本願寺の方では梅原真隆先生の文庫本︵﹃歎異 抄﹄一九五四年、角川文庫︶、これも六十九版が出ていま す。またこの角川文庫を承けて、先日亡くなられました 千葉乗隆先生の新装版の﹃歎異抄﹄︵﹁新版歎異抄

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現代 語 訳 付 き ﹄ 二

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一年、角川ソフィア文庫︶第四版が出てお ります。私達がつくったのは﹃歎異抄事典﹄︵谷川理宣・ 土井順一・林智康・林信康編著、一九九二年、柏書房︶で 谷川氏、故土井氏そして私達兄弟ということで、これが

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4 十六年前に出した﹃歎異抄事典﹄でございます。柏書房 から出しまして第六制で、大変よく使っていただいてい ます。そのほか﹃歎異抄﹄の現代語訳、これが本願寺出 版社から出ております。現在六刷りされております。た だこれらは私の知っているところの本願寺派・龍大関係 が中心ですので、こちらの大谷派のあるいは谷大の先生 方にも色々な﹃歎異抄﹄に関する本が沢山あると思いま す。その他一般の方々が﹃歎異抄﹄の書物を書かれてお り ま す 。 私自身が今日こうして記念講演をさせていただくのも 不思議なご縁であると思います。といいますのも、この 後に記念講演されます延塚先生と私は、同じ福岡県の高 等学校の先輩と後輩の関係があり、私の方がちょっとだ け先輩でございます。本当にこの日にこの場所でお会い できたことは嬉しく思います。 それから安富先生とは大学院時代に交流がございまし た。大谷大学と龍谷大学の大学院同士の交流をしようと いうことで、記念講演を開催した思い出がございます。 また私自身が大谷大学には交換講義で金子大築先生のご 講義を半年間聞かせていただきました。当時、たしか ﹁﹃教行信証﹄二部作﹂という題でご講義され、九十歳 を超えておられたと思います。白い髭を生やされ、そば にお弟子の方がおられ、朗々と﹁﹁教行信証﹄二部作﹂ をご講義されたことが記憶に残っております。金子先生 の書物を時々読ませていただき、その時の思い出を懐か しく感じさせていただいております。 少し余談になりました。それではその次、レジュメの 三番目ですが、﹁著者について﹂と書いています、皆さ んご存知のように﹃歎異抄﹄は今のところ親驚聖人の弟 子である唯円説が強いと思われますが、かつては親鷲聖 人のひ孫にあたります覚如上人の書かれたものだと言わ れていました。ところが実際お会いした方でもないので、 どうも違うというところから、孫の知信説が脚光を浴び ニうがついんじんれい てまいりました。恵空師あるいは香月院深励両が述べら れています。深励師の﹃歎異抄講林記﹄には、はっきり さんもんいちり と如信上人が著者ということで、﹁三文一理﹂の内容を、 三つの文と一つの道理を通してこれは如信上人であると、 このようにおっしゃったのです。最後の唯円説はその深 みようおんいんりょうしよう 励師のお弟子である妙音院了祥師が述べられました。 にさん 最初の著﹃歎異抄耳喰﹄では、深励師の説を支持してお られたそうです。けれども後の著﹃歎異抄聞記﹄では、 はっきりと師の深励師とは違うのだということで、了祥

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真宗教学と仏事 師は唯円説を説かれました。それについてはレジュメの この後に資料を出しておきました。資料は二枚目です。 そこに﹃歎異抄﹄について出ておりますが、﹃歎異抄﹄ の内容を通して、やはり九章、それから十三章はどうも 唯円一房というお名前が出てくるということも含めて、了 祥師は﹃聞記﹄によって唯円説を支持されたようでござ います。それは資料 1 の真ん中以降に、了祥師の﹃聞 記﹄に拠って章の名を書かせていただきました。前半の 師訓篇十章と、後半の異義篇八章です、これは了祥師の っけられた名を、ここに出しました。本願寺派の方でも、 げ ん ち し り ぜ 人 し その前に玄智師、履善師そういう方々が唯円房が著者だ ということをおっしゃったようですが、この了祥師が理 論的にそれを証明されたというように言われております。 四番目に﹁﹁歎異抄﹄の組織と内容﹂です。資料の 1 のところにありますように右の方に﹃歎異抄﹄は大きく 分けて前半と後半にわかれます。前半が師訓篇という親 驚聖人のお言葉中心で、後半が唯円房の異義を嘆く言葉 ということで、これが異義篇とか歎異篇と申します。研 究者によっては前半は九章で終わる、ないしは八章で終 わるという方がございます。しかし私は一応前半十章、 後半八章と分けて、聞に中序・別序というものがあると いうように思います。それから最後の方には、これも異 こ じ ゅ っ こ う き 義の八章の後に言葉があります。これが後述とか後記 とか後序とか後序とか色々な言い方で述べられておりま す。中には漢文の序文を前序として前序、それに中序、 後序というように、三序という言い方もあります。﹃歎 異抄﹂は一応ここでは前半の序は漢文、後半の序は和文 であるとし、そしてその後述・後記の後に流罪記録があ るものとないものがあります。さらには蓮如上人の書写 本には蓮如奥書というものがある。これについては資料 の 1 の左の方に、ちょっと横になっておりますがコピー をしておきました。最初の漢文と第一章の一部、それか ら後の蓮知上人の奥書さらには花押、これが載っており ます。﹁歎異抄﹄の場合は、一応この蓮如本が今のとこ ろ一番古いと言われております。今日、蓮如本は西本願 寺にございます。最近、コロタイプ本ができてそれを私 か ん す ぽ ん 達も手にすることができます。今は巻子本で巻物が二巻 に分かれていますが、原本は冊子本であったのではない かと言われております。これは法蔵館から冊子本の形で 販売されております。それからこの師訓篇、異義篇とい う流れですが、むしろ反対であったという、異義篇が中 心で最初にあって、師訓篇が後だという、こういう説を

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6 説かれている方もおられますが、 ま せ ん 。 レジュメの五番目は、写本・刊本についてです。その 次の資料の

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です。そこに図を掲げさせていただきまし たが、室町時代の以前の﹃歎異抄﹂の写本は現存してお りません。唯円房の書かれた原本も実は行方不明です。 ひょっとしたらどこかに有るかもしれません。無いとも 一言えません。有るとも言えません。もし発見されたらど うぞご連絡ください。授業をほったらかしてでも行かな くてはと思います。まあ、そこに載っていますように、 室町時代の写本としてはだいたい八本あります。まずハ門 はしのぼうぽん 蓮如本がありまして、そしてその後に口端ノ坊本が二番 ごうしようじぼん 目です。これからまた続いて臼の牽摂寺本、四の光徳 みようりんぼうぽん 寺本、田の妙琳坊本と、これらはいわゆる流罪記録が 有る方でございます。流罪記録が無いのが点線の流れで せんしょうじぽん 閃専精寺本、出龍谷大学本、それを受けて川大谷大学 本がございます。こちらの川大谷大学本は端ノ坊別本で す。今研究者の中には、流罪記録の無いものも実は有っ たんだと、たまたまそれが外されたのだというような説 も 出 て き ま し た 。 あんご 西本願寺の方も毎年安居という僧侶の夏季研修会がご ここではその説をとり ざいまして、年に一度龍谷大学の本館講堂で、七月十七 日から一二十日まで二週間教学者が集って勉強する、そう いう行事がございます。私も二回副講を勤めさせていた だきました。一回目の時には﹃歎異抄講讃﹄︵永田文昌堂、 二

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六年︶という講本を出しました。その時に、蓮如 本を中心にこの八本の校異をさせていただきました。ひ とつひとつ、一字一字比較していきました。﹁歎異抄﹄ の写本だけを比較したことを今思い出しました。若干、 違うところがございますけれども大体ほほ蓮如本を受け ていると、こういう風に思います。 まずハ門から閃まで、室町時代の写本を出しておきまし み ょ う が ん じ ぽ ん え く う た。それから江戸時代の写本が同名願寺本と、附慧空 ぽ ん 本と言われます。大谷派の初代講師の慧空師という方の ものが当時出ております。 し き げ ん 次に江戸時代の刊本として付﹃歎異抄私記﹄、口﹃元 ろ く よ ね ん ぽ ん か し ら が き 禄四年本﹄、臼﹁首書歎異抄﹄があります。どういうわ けか私の寺には、書庫はありませんけれども、内障の裏 なんど にある納戸を探っていたら﹃首書歎異抄﹄が出てきたの です。昔の人の中に﹃歎異抄﹄を勉強した人がいたのか なあと思い、びっくりしました。私の自坊は九州の福岡 県ですが、そこまで刊本が流れているのです。それから

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真宗教学と仏事 か な し よ う ぎ ょ う ぽ ん 四に﹃真宗法要本﹄、回に﹁仮名聖教本﹂です。刊本 は沢山ございますが、それぞれ小異はあるけれども大体 は蓮如本、あるいは端ノ坊本の枠内に入ります。 今も大学院生や研究生が私たち教員と一緒に﹃歎異 抄﹄の講録を刊行しようと頑張ってくれています。もう すぐこの写本、あるいは刊本の叢書的なものの出版を計 画 し て お り ま す 。 そして、レジュメ六番目がちょっと問題なのですが、 三歎異抄﹄が禁書である﹂というように見る人が結構 おられます。有名な評論家である山折哲雄氏が、このこ と を ﹃ 人 間 蓮 如 ﹄ ︵ 洋 泉 社 、 一 九 九 五 年 ︶ 、 あ る い は ﹃ 悪 と 往生|親鷲を裏切る﹃歎異抄﹄

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﹄ ︵ 中 央 公 論 社 、 二 0 0 0 年︶という題で書いているのです。書店に並ぶ本はど ういうわけか、梅原猛氏とか山折哲雄氏とか有名な方の ものが多いのです。その間違った解説を鵜呑みにして、 ああ﹃歎異抄﹂ってこんな本か、と表面的に受け止めて わ た く し しまいます。また最近は﹁私の﹃歎異抄﹄﹂という内 容で多くの本が出されております。それらの﹃歎異抄﹄ の内容を見ますと﹃歎異抄﹄ではない﹃歎異抄﹄、要す るに後半の異義篇がカットされたり、あるいは自己流に 解釈しているといいますかね、そういう﹃歎異抄﹄が結 構多いのです。ところがそういう本の方が、著者が有名 なので売れるということもあって店頭に出されています。 このようなことでは非常に問題が多いのです。そういう 点でやはり正しいといいますか、本来の﹃歎異抄﹄の内 容を、少しでも教学者が話したり書いたりしていく必要 があろうというように思います。そのためにここに禁書 説を出しました。深励師の﹃歎異抄講林記﹄にも、幼子 に刃物を持たせるような、非常に危険なところがあると いう指摘がございます。深励師だけでなくて他の方にも そういう説があります。それをそのまま持ってくると非 常に問題でございます。そこに書いていますように 右斯聖教者為当流大事聖教也 於無宿善機無左右不可許之者也 ︵右この聖教は当流大事の聖教となすなり 無宿善の機においては左右なくこれを許すべから ざ る も の な り ︶ 蓮知上人の奥書にこう書いてあります。﹁右聖教﹂とい うのは﹃歎異抄﹄は浄土真宗では大事な聖教だというこ とです。まずそれがありまして、その後に﹁無宿善﹂の ものには勝手にこれを見せてはいけないということです。 その後半の部分が﹃歎異抄﹄の禁書説に繋がってくると

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8 思います。宿善すなわち過去世の善根の無いもの、これ を現代語訳しますと真面目に真剣に取り組まない人です。 やはりいい加減に学ぶ者にはたしかに悪人正機も造悪無 碍になってしまう。薬があるからといって毒を好んでは いけないのですが、そういう所を含めて勝手に、山折氏 あたりは都合のいいようにこれを解釈しているように思 うのです。山折氏はもう一つ﹁歎異抄﹄と蓮如上人の ﹃御文章﹄を比較し、この二つが矛盾しているという、 こういう考え方も持っておられます。しかしこの考え方 も間違っています。この事は後に述べます。大谷派では 哉 の ﹄ 0 ・40 ﹁御文﹄と言われますが、本願寺派では﹃御文章﹄と呼 び ま す 。 さて、その次の出﹃歎異抄﹄と覚知上人。実は今日の 中心がここになると思います。私は﹁歎異抄﹄と﹃御文 章﹄は、非常に結びついていると思い、今までそういう ところを中心に研究してきました。そして最近は、この ﹃歎異抄﹂と﹃御文章﹄との聞にやはり覚知上人がおら れると再確認いたしました。皆さんご存知の報恩講とい う行事は、この覚知上人が始められたのです。それがま ずそこのレジュメの

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番です。そして資料の 3 番目に関 わってきます。この次の資料の 4 番目と関連しますので 見 て く だ さ い 。 覚如上人は一二九四年、永仁二年の親鷲聖人三十三回 忌の時に、法然上人の﹃知恩講私記﹂にならって﹃報恩 わ た く し 講私記﹄を著されました。私記は﹁私﹂の記、あるい そ う ら い さ ん 勺 い に よ ら い は式次第の﹁式﹂と両方あります。惣札・三礼・知来 ば い ひ ょ う び ゃ く え こ う 唄・表白・回向よりなっており、表白はまず﹁真宗輿 行の徳を讃ず﹂、次に﹁本願相応の徳を讃ず﹂、さらに ﹁滅後利益の徳を述す﹂と、こういう内容に分けられま す。真宗教団で最も重要な報恩講はここから始まってい るのです。さらに具体的にそれをどのように展開されて いくかということですが、翌一二九五年、永仁三年に ﹃親驚伝絵﹄が著されます。これは親鷲聖人のご遺徳を 讃えるために、その生涯を上下巻数段に−記された詞書 ず え と、各段に相応する図絵が描かれました。後に調書と図 絵が分かれて、詞書を﹃御伝紗﹄、図絵を﹃御絵伝﹄と 呼ぶようになりました。 最初に作られたのが覚如上人二十六歳の時ですが、晩 年に至るまで数回増補改訂されています。現在は一般的 には上下二巻、計十五段から成っています。上巻が八段、 下巻が七段で、今日の視聴覚伝道の先端をいっておられ ま す 。

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真宗教学と仏事 さらには親鷺聖人のご遺跡ですが、色々な所をお父様 の覚恵上人とご一緒に回っておられる。そして親鷲聖人 の伝記や絵を作られました。ここに親驚聖人のご遺徳を 偲んで、親驚聖人を讃える報恩講の行事が広まっていき ました。詞書と図絵は、存覚上人の時に分かれていくの です。﹃御絵伝﹄もいろんな研究がされておりますので、 皆さんよくご存知だと思います。今回は存覚上人の著述 はふれておりません。本来ならば覚如上人と存覚上人、 このお二人が親鷲聖人から蓮如上人を結びつける中に入 ってくると思います。しかし今回は覚知上人だけを取り 上 げ て お り ま す 。 その資料の 4 の一番左の方に、ちょっと図を描きまし たが、法然聖人のところから親鷲聖人へと、親驚聖人の 右にいってお弟子の唯円房、そして親鷲聖人から、直接、 覚如上人、あるいは唯円房から覚如上人とこう書いてお ります。さらには親鷲聖人の左の方に存覚上人それから 仏光寺の了源上人です。さらには覚知上人と存覚上人お 二人の教学を受けて蓮如上人の教学へ展開する、このよ うな図を私は書かせていただいています。そういう点で 親鷲聖人からいきなり蓮如上人に飛、はないで、覚如上人 や存覚上人の教学と伝道というものが間にあるから、蓮 9 如上人の時にこれが花開いていくということになると思 い ま す 。 今まだ最初の﹃報恩講私記﹄とそれから﹃親鷲伝絵﹄ のことをお話したのですが、その次にもう一度これは資 料 の 3 へ戻っていただきます。あっちいったりこっちい ったりしてすみません。覚如上人の主な著述に﹃親鷲伝 絵﹄がありますが、まず西本願寺本、次に高田専修寺本 ニ う え い ぼ ん です。それから康永本、これは東本願寺にございます。 し よ う が ん じ ぽ ん ぐ が ん ぽ ん その東本願寺の康永本を受けて、照願寺本とか弘願本 があります。これも若干歴史があって十三段、十四段、 十五段と内容が分かれております。最初に西本願寺の ﹁善信上人絵﹂があったのですが、それが焼けてしまっ て、その後にすぐ高田専修寺本が書かれました。後にま り ん あ ぽ ん た西本願寺本の琳阿本が復活して書かれていったという 歴 史 が ご ざ い ま す 。 続いて二番目にこの﹃執持紗﹄、三番目に﹃口伝紗﹄、 四番目に﹃改邪紗﹄と挙げておきました。﹃執持紗﹄が 覚如上人五十七歳、﹃口伝紗﹄が六十二歳、﹃改邪紗﹄が 六十八歳、歳が少しずつずれておりますが、この覚知上 人の著述に引用されている﹃歎異抄﹄の文を対応します と、以下①から④までになります。その後の後半に解説

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10 をしております。①の﹃親驚伝絵﹄の上巻第七段にある、 信心一異の論争、これは有名でございます。法然聖人と 親鷲聖人の信心が同じか違うかということですが、これ は法然聖人の信心と親鷲聖人の信心が同じだという結論 し ゅ う い こ と く で ん になっています。﹃拾遺古徳伝﹄というのを覚如上人が ﹃執持紗﹄を書かれる前に作っておられます。というこ とは覚如上人は法然聖人の伝記も書いておられる。それ ゆえに、法然聖人と親驚聖人を非常に結びつけておられ さんだいでんじ ます。これをレジュメに書いておりますが、﹁三代伝持 の血脈﹂ということに繋がっていきます。これは﹃口伝 紗﹄だけではありません。﹃改邪紗﹄にも関わってきま す。例えば次の③のところには、最初に﹃口伝紗﹂第四 条の前半、善悪二業の事、阿弥陀仏の大願業力と、この ことに関わってきます。覚如上人のお子さんには存覚上 人と従覚上人のご兄弟がおられますが、その従覚上人の ぼ き え ニ と ば 書かれた﹃慕帰絵詞﹄には覚如上人の伝記があり、そ し よ う お う ひ た ち の く に か わ の三巻第三段の中に、﹁正応元年冬のころ、常陸国河和 だ の ほ う り ょ 田唯円房と号せし法侶上洛しけるとき、対面して日頃不 審の法文にをいて善悪二業を決し﹂とあります、ここで こ う さ い ベ ん ぜ っ す。﹁かの唯円大徳は鷲聖人の面授なり、鴻才弁舌の名 誉ありしかば﹂ということで実際、唯円房とこの覚如上 人が対面しているわけです。唯円房は大変立派な方だと いうことで、ここで誉め言葉を述べておられます。その 内容がここにありますように﹁善悪二業のこと﹂という ことです。となると、やっぱり悪人正機という﹃歎異 抄 ﹄ 第 一 一 一 章 の と こ ろ に 非 常 に 関 わ っ て く る と い う こ と で はないでしょうか。やはり善悪の概念につきまして、宗 教的な内容と一般的な倫理や道徳さらには法律、そうい うところによる使い方の問題を覚知上人は唯円房に聞い ていかれたのではないかと思います。 さらには資料の 3 の③のところが﹃口伝紗﹄の第四条 後半で千人殺害と往生について、これも﹃歎異抄﹄のと ころに大きく関わってくる内容です。唯円房の名前が実 際出てくるところですが、親驚聖人が唯円房に、人を千 人殺せと言、っ。とんでもない、千人も殺せませんと唯円 房が答えるところから、この宿業の問題がここで展開し ていきます。さらには﹃口伝紗﹄第五条には、﹁念仏は 行者の善にあらず行にあらず﹂という﹃歎異抄﹄の第八 章と非常に関わるところがあり、さらには﹃口伝紗﹄第 六条では有名な﹁親鷲は、弟子一人ももたず﹂という言 葉 が あ り ま す 。 弟子の信楽房と本尊・聖教の問題で、 信楽房が親鷲聖

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真宗教学と仏事 人の元を離れていく。その時に蓮位房が親鷲聖人の与え られた本尊・聖教を返しなさいと言ったところ、親鷲聖 人はその必要はない、本尊や聖教は野や山のどこに捨て ても、そこに生きている色々な動植物に如来の大悲の流 れが伝わっていくのだということを述べておられます。 後に信楽房は、親鷲聖人のもとに帰ったといわれており ます。その後にもまた色々な﹃歎異抄﹄に関係するもの が あ り ま す 。 第七条は凡夫往生の事で、﹁五劫の思惟も兆載、水劫の 修行も、ただ親驚一人がためなり﹂の文があります。さ らには第十六条に信の上の称名の事として、高田の覚信 房のお話が出ております。﹃末灯紗﹄第十四通には、覚 信房が上洛の折に病気になったので、同行がもう関東に 帰りなさいと言われたところ、病気になっても、どこで も私は命を終えることができる。帰っても留まっても、 病気は治るものは治るし、命も終わるなら終わると言っ て、できれば親鷲聖人のもとにおいて命を終えたいとい う、そこまで徹底した素晴らしい生き方をされたのがこ の 覚 信 房 で す 。 ﹁ 正 信 偶 ﹂ の 龍 樹 讃 の 、 憶念弥陀仏本願自然即時入必定 唯能常称如来号応報大悲弘誓恩 11 ︵ ﹃ 真 宗 室 典 ﹄ ・ ﹁ 正 信 偶 ﹂ 二 O 五 頁 ︶ という四文の意、すなわち﹁信を得れば現生に往生成仏 に定まる正定棄に住し、常に称名報恩に励む﹂生き方を さ れ た と 思 わ れ ま す 。 ご え い もう一つ関係するのが﹁鏡の御影﹂です。﹁鏡の御影﹂ は国宝で西本願寺にございます。親鷲聖人の絵像の下に 言葉がありまして、少し薄く見えるのですが、﹃選択集﹄ に あ る 法 然 聖 人 の 信 疑 決 判 の 文 ︵ ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 一 ﹄ ・ ﹃ 選 択集﹄九六七頁︶があったのです。覚知上人はそれを変 えてこの龍樹讃を書かれました。要するにここでは信心 正因、称名報恩そして、聞に信心の利益、現生正定緊・ 平生業成、そういう内容に変えていかれたというように 見 え ま す 。 それから第十九条が、先ほどの悪人正機と善人傍機で す。これは﹁知来の本願はもと凡夫のためにして、聖人 のためにあらざる事﹂これが出てきます。皆さんのお持 ちの講演要旨の方では一字誤りがあります。こちらの後 のレジュメの方が正しいのです。皆さんのお手元にある 2ページの、ちょうど下から八行目、︵

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︶のところで す。悪人正機の後に善人正機になっていますが、悪人正 機と善人傍機としてください。ちょっと訂正しておきま

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12 す。これについても色々問題があります。本当は善九夫、 悪凡夫となっておりますので、ここのところは必ずしも 同じ言葉ではありません。そういう点で言葉は若干違い ますが、ここでは一応﹃歎異抄﹄の第三章に関係すると ころで、悪人正機と善人傍機とこういうように訂正をし ておいていただきたいと思います。 また﹃改邪紗﹄の中にも、それぞれ﹃歎異抄﹄に関す るものが出てきます。今ここでは④の﹁改邪紗﹄には三 箇 所 ほ ど 出 て お り ま す 。 ﹃ 親 驚 伝 絵 ﹄ 、 ﹃ 執 持 紗 ﹄ 、 ﹃ 口 伝 紗﹂、﹃改邪紗﹂と、この﹃歎異抄﹄に関わるものが沢山 出ているということは、先程の唯円房との面談を通して いかに﹃歎異抄﹄の影響を受けているかということです。 ﹃歎異抄﹄に覚知本があったという説もあるのですが、 今のところそれはわかりません。まあそういう点で﹃歎 異抄﹄の影響が覚知上人の色々な著述にあります。ただ しお子さんの存覚上人は﹃歎異抄﹄を引かれていないの です。そのあたりがちょっと不思議なのです。覚如上人 は存覚上人を、二回義絶されて二回とも赦されている。 親驚聖人と善鷲大徳の間では一回義絶があってこの場合 は赦されてない。覚知上人と存覚上人の間にはこういう 不思議な事柄もあるのです。仏光寺の了源上人の指導を この覚如上人が存覚上人にさせたわけですが、その存覚 上人の考え方というのが広く仏教を踏まえた真宗という ことで、真宗と仏教を結び付けていかれました。しかし 覚如上人の方は真宗独自の考え方を強く打ち出していか れました。こういうところで教学の違いもあるというこ とです。しかしそれだけではなくて、他にも色々な要素 があったようです。とりあえず﹃歎異抄﹄については存 覚上人は引かれておりません。しかしながら先ほどの報 こ と ば が き ず え 恩講関係の﹃親驚伝絵﹄の場合でも詞書と図絵を分け られ、覚如上人に協力されたのが存覚上人であります。 そういう点で結構、覚如上人を助けている場合も沢山ご ざいます。もう一ついいますと、この﹁平生業成﹂ある いは﹁信心正因、称名報思﹂などを覚如上人が﹁口伝 紗﹄、﹃改邪紗﹂で書かれていますが、それ以前に存覚上 人が﹁浄土真要紗﹂あたりにそれを強く出しておられる のです。だから覚如上人よりも存覚上人のほうが先に平 生業成のことは出しておられ、それから覚知上人が平生 業成を強く出していかれたのです。そういう点でも、も っとこの二人の関係を考えないといけないと思います。 存覚上人の﹃六要紗﹄を私の大学院のゼミで毎週十数 名で学んでいます。すでに

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年目に入っておりますが、

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真宗教学と仏事 け し ん ど か ん し ゃ く 今は﹁化身土巻釈﹂を読んでおります。さらには大学 院博士後期課程を出られた研究生と博士後期課程の院生 が一緒になって、ともに存覚上人の研究を毎月一回行っ ております。できれば親鷲聖人の七百五十回忌の法要の 前に、何か一つ存覚上人の研究室田を出したいという願い を持って、皆張り切っております。若い人がどんどん今 伸びておりますので、そういう点でも、もっと存覚上人 を表に出していきたいというのが私の考えなのです。 時聞が迫ってきましたので、蓮如上人のところに入っ ていきます。八番目に蓮如上人にも﹁歎異抄﹂の影響が 大きいのですね。﹃御文章﹄一帖自の第一通にも﹁歎異 抄﹂第六章の﹁弟子一人ももたず﹂という文があります し、﹃御文章﹄の五帖目の第十通に﹁歎異抄﹄第十四章 の﹁信心正因称名報恩﹂というのが書かれております。 これについても次の資料の

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です。吋御文章﹄は﹁たの むたすけたまへ﹂という、こういうお言葉がありますが、 これはもともと浄土宗鎮西派の言葉で、﹁たすけたまへ﹂ という言葉を蓮如上人が真宗流に変えていかれました。 ﹁たのむたすけたまへ﹂で信心、信順といいますか、こ こに内容を変えて、祈願請求︵いのり求める︶でなく て真実信心の内容であるとされました。いわゆる﹁たま 13 へ﹂というのを、命令とか祈願でなくて許諾︵任せる︶ という、そういう表現をとって﹁たのむたすけたまへ﹂ を親驚聖人の教えの中心である信心の内容だということ を表に出していかれました。 もう一つ九番目の蓮知上人と異義について述べます。 ﹃御文章﹄の中には、親驚聖人の教えと違った内容がど んどん広がっているということで、これは浄土異流とか 真宗他派そういうところの内容と関わってきますが、こ の 資 料 の

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に出させていただきました。まず初めに親鷲 聖人の時の異義には﹁教行信証﹄や﹃御消息﹄等をみま すと、一番目に有念無念のこと、二番目に一念多念の争 せいがんみようごうベっしゅう ぃ、三番目に造悪無碍、四番目に誓願名号別執あるい ベ っ し ん け じ ん ぎ け い ぷ は別信計、五番目に諸仏・諸菩薩・神祇軽侮、六番目に せんじゅけんぜんけ 自力・義・はからい、七番目に専修賢善計など、こうい う異義があったと思われます。善驚が義絶されたのは造 悪無碍と専修賢善両説のどちらだろうかと考えますと、 私は専修賢善をとります。二番目に﹃歎異抄﹄の異義を、 妙音院了祥師の﹃聞記﹄から出させていただきました。 それからこの三番目が覚如上人と異義です。これは皆遁 い ん ぎ じ よ う 院宜成師の﹃改邪紗聞記﹄の二十章の中の言い方を出 させていただきました。この大谷派の学匠である宜成師

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14 は、鳳嶺師のお弟子になっておられます。この方は大谷 派の流れを受けており、深励師の孫弟子になります。深 励師のお弟子の中に鳳嶺師があり、その弟子に宜成師と いう方がおられます。そして次の四番目の蓮如上人の異 義を私なりにこれをまとめていったのです。こうなると やはり、親驚聖人の時の異義は﹁歎異抄﹄の異義篇、覚 如上人の﹁改邪紗﹄、そして蓮如上人の﹃御文章﹄へと 継承されます。そこには仏光寺の了源上人の主張した、 み ょ う ち ょ う 名帳や絵系図の問題もあるようです。これについても 仏光寺派の教学者から今反論が出ております。まあそう いう点も色々とこれから研究をしていかなくてはならな い と 思 っ て い ま す 。 また、次に﹁六箇条の提﹂と覚如上人の﹃改邪紗﹂、 こ の 二 つ を 比 較 し て お り ま す 。 こ の ﹁ ム ハ 箇 条 の 提 ﹂ と は じようらくじでんのにじゅうよはいのみよういのこと ﹃常楽寺伝二十四輩名位之事﹄ということで、これ そ う り ん し ゅ う じ つ ご き じ ゅ う い は﹃叢林集﹄、﹃実悟記拾遺﹄に載っています。そうい う点で、浄土異流とか真宗他派の内容に対する異義、こ れを蓮如上人は﹁御文章﹄を通して非常に強く批判して ご ん いかれたと思います。今この﹃御文章﹄はお勤め︵勤 行︶の後にだいたい読まれる場合が多いです。﹁あなか しこあなかしこ﹂、という内容がよく読まれます。先ほ ど の ﹃ 御 伝 紗 ﹄ 、 ﹃ 御 絵 伝 ﹄ も 、 報 思 講 を 通 し て 伝 道 に 使 われていきますが、﹃御文章﹄も、そのお勤めの後に必 ず読まれます。これもやはり伝道の中に入っております。 それから蓮如上人は、﹁正信偶和讃﹂を刊行され、それ をお勤めに使われました。当時のお勤めは﹃往生札讃﹄ が中心だったのですが、﹁正信偶﹂と三帖和讃を結びつ けていかれました。﹁正信倍﹂を﹃教行信証﹄の中から ピックアップされたのはお父様の存如上人です。天台声 明の流れを受けて、今日のような﹁正信偶和讃﹂に展開 していったのです。今日の真宗のお勤めの中心になって おりますし、﹁正信侮﹂の内容と和讃の内容は教義的に も非常に大事だということです。したがって、蓮如上人 の書かれたものは親驚聖人の教義と深い関係があるので す 。 あ し た こ う も う 一 ︹ J 、有名なのは﹁白骨の章﹂です。﹁朝には紅 が ん 顔 あ り て 夕 べ に は 白 骨 と な れ る 身 な り ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ ・ ﹃御文﹄八四二頁︶あれはだいたい存覚上人の﹁存覚法 語﹄から来ていると思います。さらにもう一つ遡れば、 むじようこうしき 後鳥羽上皇の﹃無常講式﹄の内容を受けておられます。 私は﹁白骨の章﹂は蓮如上人が私達に残された遺言であ ると、その都度そういう気持ちで読ませていただき、開

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真宗教学と仏事 かせていただいております。そういう点でこれは存覚上 人の影響を受けています。蓮知上人は、覚知と存覚、両 上人からの影響を受けています。だから私が言いたいの は、覚如上人と存覚上人の教学をもっと研究していくべ きであり、そして真宗教団史としてもこのお二人は無視 できない。むしろこの二人がおられたからこそ、蓮如上 人の教化が花開いたのであると、このように思います。 最後の十番目にまた﹃歎異抄﹄に戻ります。不思議な ご縁ですね。私の力ではありません。おそらく﹃歎異 チ ン 41 シ ン 抄﹄の力でしょうね。﹃歎異抄﹄の中国語訳を陳一信さ マ オ − タ ン チ ン んや毛丹青さんがされています。陳一信さんは台湾の出 身で龍谷大学大学院の修士課程真宗学専攻を出られ、現 在台中市にあります光照寺の住職を、また弟さんは光明 寺の住職をされています。北京大学から三重大学大学院 マ オ ダ ン チ ン へ留学された毛丹青さんが中国語訳された﹃歎異抄﹄ ︵中国の文津出版社︶の冊子を、どういうわけか東本願寺 から私のところに送ってこられました。それを見ました 時に、私達の出版した﹃歎異抄事典﹄の口絵にある親鷲 聖人像︵高田派専修寺蔵︶の写真と﹃歎異抄﹄の諸写本の 写真、および﹁親鷲聖人の歩まれた道﹄の図をコピーさ れていましたから、直接抗議の電話をしました。私はい 15 いのですが、発行所元の柏書房が見たらやはりクレーム がつくでしょうから、どうぞ一つ再版する時には、柏書 房の名を入れてくださいと言いました。その次の二版か ら入れてもらいました。それがご縁で、毛丹青さんに龍 谷大学にも講演に来ていただきました。 ホスンク その後にある韓国語訳が許成九さんのもので、この方 は本学の大学院博士課程真宗学専攻を出ております。ま たロシア語訳はヴイクトル・サノヴイツチさんです。こ の方は、最初は﹃日本古典全集﹄︵岩波書店︶の中にある ﹃方丈記﹄を訳していたら﹃方丈記﹄の下に﹃歎異抄﹂ があり、これはちょっと今までと違う、不思議な書物だ ということで﹃歎異抄﹄を翻訳されたのです。ロシアで は道元禅師は有名だけれども、親鷲聖人は有名ではない というのです。しかしやはり親驚聖人の教えは素晴らし いということでロシア語訳を試みられました。 同じようにシンハラ語訳というのがワドウレッセ・ア リヤワンザさん、これはスリランカの方です。この方も わざわざ本学大学院博士課程で真宗学を学んで帰ってい かれたのですが、やはり親鷲聖人の教えは素晴らしいと いうことで、シンハラ語訳を出されております。その他 に﹃歎異抄﹄は、英訳とか仏訳、独訳、色々な言葉に翻

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16 訳されております。東アジアの方々との縁というのは、 私はこれから大事だと思います。これは﹁歎異抄﹄が取 り持つ縁なのです。私が初めからこの方達を知っている わけではなくて、﹃歎異抄﹄を通してこの方達とご縁が あ り ま し た 。 それから数日前、スイス、ジュネーブのデユコールさ んという方が私のゼミに来られました。存覚上人の研究 で博士号をとられた方なのです。外国人の方が存覚上人 の研究で博士号をとられているのです。日本人がもっと 存覚上人の研究をしなくてはならないというように思い ました。今や﹃歎異抄﹄は国際的な書物になっておりま す。そういう点で色々な翻訳を通して、外国人の方の訳 したのもやっぱりこれから目を通していく、あるいは交 流していくことも必要だと思います。また、日本の評論 家を始め、色々な方が﹃歎異抄﹄について書かれていま すけれども、その中でやはり私たちは正しい内容をきち んと押さえた﹃歎異抄﹂の解説書を伝えていくことが必 要だと思います。多くの﹃歎異抄﹄に関する著述に対し て、ある時には厳しく批判もしていく必要があろうと思 いますし、またある時には素晴らしいと讃えることもい いのではないかと思うのです。親鷺聖人が亡くなられて から、二十数年後に異義を歎いて、正しい教えはこうだ と押さえられたのが、親驚聖人の弟子の唯円房だと思い ます。もう一ついいますと、唯円房についてこれからま た色々と研究をしていかなくてはなりませんが、彼は親 鷲聖人にとって非常に身近な人だと思います。すなわち 親鷲聖人の姻戚関係になっています。﹁親驚は弟子一人 ももたずそ、つろう﹂とか、﹁弥陀五劫思惟の願をよくよ く案ずれば、ひとへに親鷲一人がためなり﹂と、﹁親鷲﹂、 ﹁親鷲﹂、と呼ぴ捨てにしています。普通のお弟子だっ たら、呼び捨てはできません。また系図から見ても、覚 ひ の ひ ろ っ 必 信尼公の前のご主人が日野広綱さん。そのお子さんが覚 恵上人、お孫さんが覚知上人です。日野広綱さんが亡く おのみやぜんねん なられた後に、覚信尼公が再婚された方が小野宮禅念さ ゆ い ぜ ん んで、小野宮禅念さんとの聞に生まれたのが唯善さんで す。唯円さんは小野宮禅念さんの連れ子であり、したが ってその唯円さんと唯善さんは義理の兄弟ではないかと 言われる研究者が出てきました。唯円さんというのは、 親驚聖人にとても近い方だというようにも言われており ます。﹃歎異抄﹄の著者の研究も進んでいます。別に大 谷大学、龍谷大学だけの特権じゃありません。皆さん全 員が、﹃歎異抄﹄の著者および﹃歎異抄﹂の内容を研究

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真宗教学と仏事 していただきたい。そしてもっと言えば、親鷲聖人のみ 教えをどのようにこの現代に伝えていくか、これが私た ちの親驚聖人七百五十回忌の法要を迎える、大きな使命 であろうと思います。その親驚聖人七百五十回忌の法要 を迎えて、龍谷大学と御本山の西本願寺とが力を合わせ て 龍 谷 ミ ュ

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ジアムというものを建てようとされていま す。先日私もその会議に出たのですが、ハードとしての 建物はできますけれどもソフトとして中身の問題があり ます。中身は何を展示するか、何を人々に伝えていくか ということについて、活発な意見が交わされました。学 内・学外の専門家の先生方も何人か集まられておりまし た。真宗の方は私に依頼がありましたので、少しでもお 手伝いができればと思って参加しました。みんなで聖人 の七百五十回忌法要、御遠忌法要、大遠忌法要を、成功 させなくてはなりません。ただセレモニーだけではいけ ません。法要の内容、法要の意義、中身をどうしていく かというのが、一人一人に課せられた問題だと思います。 あれやこれやと話をしてきましたが、もう時聞がきまし たのでこれで終わらせていただきます。ご清聴ありがと う ご ざ い ま し た 。 17

て﹃歎異抄﹂について ﹃歎異抄﹄は前半が師訓篇

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漢文序・親驚聖人の語録 十章、後半が異義篇 1 和文序・唯円房の異義を歎く言葉 八 章 か ら な っ て い る 。 ﹃歎異抄﹄は親驚聖人滅後二十六年の後に、直弟子の 唯円房によって書かれたと言われるが、その原本は現在 不明である。南北朝時代、本願寺第三代宗主覚如上人の 著 ﹃ 口 伝 紗 ﹄ を は じ め 、 ﹃ 親 驚 伝 絵 ﹄ ・ ﹁ 改 邪 紗 ﹄ ・ ﹃ 執 持 紗﹄に﹃歎異抄﹂の文が継承されている。また現存する ﹃歎異抄﹂の書写本の中では、室町時代中期に書かれた 第八代蓮如上人の書写本が最も古く、多くの諸本はこれ によっている。そして蓮如上人はその著﹁御文章﹄︵﹃御 文﹄︶の中で﹃歎異抄﹄の精神を承け、親鷲聖人の教え と異なった異義についても強く批判されている。 ﹃歎異抄﹄の著者については、唯円説はすでに履普師 や玄智師によって主張されていたが、了祥師は﹃歎異抄 聞記﹂において厳密な論証でもって学問的研究を進め、 唯 円 説 が 定 説 化 し た 。

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18 二 、 知 信 上 人 、 唯 円 一 房 と 覚 如 上 人 の 出 会 い 従覚上人著﹃慕帰絵詞﹄は、弘安十年︵一二八七︶に、 覚 如 上 人 ︵ 十 八 歳 ︶ は 知 信 上 人 ︵ 五 十 三 歳 ︶ よ り 真 宗 の 教 えを口伝によって受けると述べられる。また﹃口伝紗﹄ 二十一条と﹁改邪紗﹄二十条によって、黒谷法然聖人

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本願寺親驚聖人!大網如信上人の三代伝持の血脈を示さ れる。続いて正応元年︵一二八八︶の冬、正しい教えを 了解させようと上洛した唯円房︹六十七歳?︺に覚知上 人︵十九歳︶は対面して、日頃持っていた疑問である善 悪二業の問題を解決し、その他種々の問題を話し合った。 そして覚知上人は唯円房を親驚聖人面授の弟子であり、 学問にも弁説にもすぐれた立派な人物であると讃えた。 ﹁歎異抄﹄と﹃口伝紗﹂を比較すると八箇所関連があ る 。 そ の 主 な 個 所 を 挙 げ る 。 ︵1︶﹃口伝紗﹄第六条|﹃歎異抄﹄第六章、親鷲は弟 子一人ももたず ︵2︶﹁口伝紗﹄第十六条|﹃歎異抄﹄第十四章、信の 、つへ称名の事、信心正因、信心の利益︵現生正定 緊 ・ 平 生 業 成 ︶ 、 称 名 報 思 ︵ 3 ︶ ﹃ 口 伝 紗 ﹄ 第 十 九 条

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﹃ 歎 異 抄 ﹄ 第 三 章 、 如 来 の 本願はもと凡夫のためにして、聖人のためにあらざ る事、悪人正機・善人正︵傍︶機 覚如上人︵二十五歳︶は親鷲聖人三十三回忌の時に ﹃報恩講私記︵式︶﹄を、また翌年﹃親鷲伝絵﹄を著し て親驚聖人を偲ばれるとともに、その生涯を教囲内外に 示され伝道活動に利用された。﹃親鷲伝絵﹄は現在五本 伝えられ、後に調書と図絵に分けられる。親驚聖人の報 恩講に、詞書は﹃御伝紗﹂として読まれ、図絵は﹃御絵 伝﹂として掲げられた。上巻七段の﹁信心誇論﹂は﹃歎 異抄﹄の後述︵後序︶にある。法然聖人の信心と親驚聖 人の信心が同一であることを述べる。﹃改邪紗﹂は﹃歎 異抄﹄異義篇を承け、浄土異流や真宗他派の異義につい て 言 及 し て い る 。 三、蓮如上人について 蓮如上人の﹃御文章﹄は﹃五帖︵帖内︶御文章﹄とそ れ 以 外 の ﹃ 帖 外 御 文 章 ﹄ ・ ﹃ 夏 御 文 章 ﹄ ・ ﹃ 御 俗 姓 ﹄ 等 が あ る。一帖目第一通には﹁親驚は弟子一人ももたず﹂の文 がある。﹃御文章﹄の中心は︵一︶﹁信心正因・称名報 思﹂であり、五帖目第十通の﹁聖人一流の章﹂は﹃歎異 抄﹄第十四章を承けている。また︵二︶﹁たのむたすけ たまへ﹂については、四帖目第十四通の﹁一流安心の

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章﹂や五帖目第一通の﹁末代無智の章﹂にある。﹁たの む ﹂ は 信 頼 ・ 帰 命 の 義 、 ﹁ た ま へ ﹂ は 許 諾 の 義 で 、 ﹁ た の むたすけたまへ﹂は衆生が仏に向かって救いを請求する のではなく、﹁たのむたすくる﹂という弥陀の本願召喚 の 勅 命 に 信 順 す る 義 で あ る 。 ﹁ た の む ﹂ お よ び ﹁ た の む ﹂ を 意 味 す る 語 は ﹃ 歎 異 抄 ﹂ に 十 一 一 一 ヵ 所 あ り 、 蓮 如 上 人 は こ れ を 承 け る 。 蓮如上人の﹃御文章﹄もまた﹃歎異抄﹄異義篇に大き く影響を受けている。また蓮如上人は親鷲聖人の﹁正信 閣﹂と﹁和讃﹂を結びつけて﹁正信偶和讃﹂として刊行 し、また勤行に使われた。その折に﹃御文章﹄を必ず拝 読 さ れ た 。 真宗教学と仏事 19

仏 教 ・ : ① 仏 の な す べ き 仕 事 、 仏 の 教 化 を さ す 。 衆 生 を 救 う 事 業 活 動 。 仏 の 所 作 。 ② 仏 の 教 化 を 助 け る 飾 り の 役 。 ③仏になったさとりの上での仕事。何事も仏事な ら ざ る は な い 。 ④すべて仏教に関係のある行事をいう。特に死者 の 年 忌 に 追 善 供 養 や 法 会 を 行 な う こ と 。 ︵ 中 村 元 著 ﹃ 傍 教 語 大 辞 典 ﹂ 一 一 九 一 一 j 一 一 九 三 頁 ︶ 一 、 今 な ぜ ﹃ 歎 異 抄 ﹄ を 読 む か 代 社 会 の 諸 問 題 ﹂ ・ ﹁ 歎 異 抄 を 語 る ﹂

NHK

こころの時代

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宗教・人生 j 山 崎 龍 明 氏 二

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七 年 ︵ 平 成 一 九 年 ︶ ・龍谷大学共同開講科目﹃歎異抄﹄前期受講者数 深草二コマ五一六人、瀬田一コマ五七人 二

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八年︵平成二

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年 ︶ ﹁ 親 鷲 聖 人 の 教 え と 現 一 一 、 ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の 出 版 ・ ﹃ 歎 異 抄 ﹂ 金 子 大 柴 校 注 岩波文庫、第一刷 九

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20 三一年︵昭和六年︶六月五日 第五六刷改版一九八一年︵昭和五六年︶七月二ハ 目 、 第 一

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一 制 二

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六 年 ︵ 平 成 一 八 年 ︶ 七 月 一 五 日 ・﹁歎異抄﹄梅原真隆訳注角川文庫 五 四 年 ︵ 昭 和 二 九 年 ︶ 一

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月 一

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日 第六九版一九九九年︵平成一一年︶七月一

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日 ・新装版﹃歎異抄﹄千葉乗隆訳注角川文庫第四版 二

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八年︵平成二

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年︶四月五日 ・﹃歎異抄事典﹄谷川理官一、土井順て林智康、林信 康編著柏書房、第一刷一九九二年︵平成四年︶ 三 月 一 一 一 一 目 、 第 六 刷 ︵ 新 装 版 ︶ 二

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二 年 ︵ 平 成 一 四年︶一月二六日 −浄土真宗聖典﹃歎異抄﹄︵現代語版︶本願寺出版社 第一刷一九九八年︵平成一

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年 ︶ 一 一 一 月 一 四 日 第 五 刷 二

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年 ︵ 平 成 一 一 一 年 ︶ 一

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月 一 一 一 一 日 ・ ﹃ 歎 異 抄 ﹂ 本 願 寺 出 版 社 第 一 刷 二

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二 年 ︵ 平 成 一 四 年 ︶ 一 一 一 月 一 一 一 一 目 、 第 六 刷 二

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六 年 ︵ 平 成 一 八 年 ︶ 一 一 一 月 一 五 日 第一版 九 三、著者について −覚如説性応寺一雄著﹃真宗正依典籍集﹄ −知信説恵空著﹃仮名聖教目録﹂、香月院深励師 ﹃ 歎 異 抄 講 林 記 ﹄ ・唯円説玄智著﹃浄土真宗教典誌﹄、妙音院了祥著 ﹃ 歎 異 抄 聞 記 ﹄ 四 、 ﹃ 歎 異 抄 ﹄ の 組 織 と 内 容 ︵ 資 料 1 ︶ 五、写本・刊本について︵資料 2 ︶ 六 、 ﹃ 歎 異 抄 ﹄ 林 一 万 書 説 に つ い て ﹁右斯聖教者為当流大事聖教也於無宿善機無左右 不 可 許 之 者 也 ﹂ ︵ 蓮 如 上 人 書 写 本 ︶ ・ 深 励 著 ﹃ 歎 異 抄 講 林 記 ﹄ 、 山 折 哲 雄 著 ﹃ 人 間 蓮 如 ﹄ ・ ﹃ 悪 と 往 生 1 親 驚 を 裏 切 る ﹃ 歎 異 抄 ﹄

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﹂ 七、﹁歎異抄﹄と覚如上人︵資料 3 ・ 4 ︶﹃口伝紗﹄・ ﹃改邪紗﹄:・三代伝持の血脈︵法然上人・親鷲聖 人 ・ 如 信 上 人 ︶ ・従覚上人著﹃慕帰絵詞﹄第三巻第三段︵覚如上人の 伝 記 ︶

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﹁正応元年冬のころ、常陸国河和田唯円房と号せし 法呂上洛しけるとき、対面して日頃不審の法文にを いて善悪二業を決し︵中略︶かの唯円大徳は鷲聖人 の面授なり、鴻才弁舌の名誉ありしかば﹂ 入、﹁歎異抄﹄と蓮如上人 ﹁御文章﹂一帖自第一通﹃歎異抄﹄第六章:・﹁弟 子 一 人 も も た ず ﹂ ﹃ 御 文 章 ﹂ 五 帖 目 第 一

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﹃ 歎 異 抄 ﹄ 第 一 回 章 : ・ ﹁ 信 心 正 因 ・ 称 名 報 恩 ﹂ 九、蓮知上人と異義︵資料 5 ︶ 真宗教学と仏事 十、﹃歎異抄﹄の翻訳︵中国語訳︶陳一信師、毛丹青 氏︵韓国語訳︶許成九氏︵ロシア語訳︶ヴイク トル・サノヴイツチ氏︵シンハラ語訳︶ワドウ レッセ・アリヤワンサ師 Zl ︻ 資 料

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︼﹁歎異抄﹄の組織と内容 ﹃歎異抄﹄は弟子唯円が師親驚の教えと異った邪説 ︵異義︶を歎き、それを札すために親驚から聞いた言葉 を抜き出︵抄出︶して書かれたもので、大きく二部に大 別される。前十章は親鷲自身が述べた語録であり、﹁師 訓篇﹂といい、後八章は唯円が異義を歎き批判する﹁異 義 篇 ﹂ ︵ ﹁ 歎 異 編 ﹂ ︶ と い う 。 そ の 後 に 信 心 一 異 の 論 争 や 唯 円 の 述 懐 を 記 す ﹁ 後 述 ﹂ ︵ ﹁ 後 記 ﹂ ︶ が あ る 。 また専修念仏教団弾圧を記した﹁流罪記録﹂や蓮知の 文 で あ る ﹁ 奥 書 ﹂ が あ る 。 組織を示すと次のようになる。 師 訓 篇 ︵ 第 一 部 ︶ 序 ︵ 漢 文 ︶ 親鷲自身の語録︵第一章から第十章まで︶ 異 義 篇 ︵ 第 二 部 ︶ 序 唯円の昇、義を歎く言葉︵第十一章から第十八章ま で ︶ 後 述 ︵ 後 記 ︶ 流罪記録 蓮 知 奥 室 田

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亀 を 歎異抄=蓮如本現存する写本で最も古い。結びの後に流罪記録をのせ、蓮知の 奥書がある。(京都・西本願寺蔵) また妙音院了祥の﹃歎異抄聞記﹂によれば師訓篇十章 および異義篇八章を次のようによんでいる。 師訓篇︵十章︶ 第 一 章 弘 願 信 心 章 第 二 章 唯 信 念 仏 章 第 三 章 悪 人 正 機 章 第 四 章 慈 悲 差 別 章 第 五 章 念 仏 不 廻 向 章 第 六 章 誠 諦 弟 子 章 第 七 章 念 仏 無 碍 章 第 八 章 非 行 非 善 章 第 九 章 不 喜 不 快 章 第 十 章 無 義 為 義 章 異義篇︵八章︶ 第 十 一 章 誓 名 別 信 章 第 十 二 章 学 解 念 仏 章 第 十 三 章 禁 誇 本 願 章 第 十 四 章 一 念 滅 罪 章 第 十 五 章 即 身 成 仏 章 第 十 六 章 自 然 廻 心 章 第 十 七 章 辺 地 堕 獄 章 第 十 八 章 施 量 分 報 章 序 ︿一﹀序︵中序・別序︶について 0 上人のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほくお ほせられあふてさふらうよし、ったへうけたまはる。 いはれなき条々の子細のこと。 O 先師の口伝の真信に異なることを歎き︵師訓篇の序、 漢 文 ︶ O 一室の行者のなかに、信心ことなることなからんため

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に、なく/\ふでをそめてこれをしるす。なづけて歎 異 抄 と い ふ ベ し 。 ︵ 歎 異 編 の 後 述 ・ 後 記 ・ 後 序 ︶ ︷ 資 料

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︸﹃歎異抄﹄の写本と刊本 室町時代以前の﹃歎異抄﹂の写本は現存していない。 室町時代の写本として重要なものは八本である。付蓮如 本 、 口 端 ノ 坊 本 ︵ 、 氷 正 本 ︶ 、 日 妻 摂 寺 本 、 四 光 徳 寺 本 、 回 妙琳坊本、同専精寺本、出龍谷大学本、川大谷大学本が あ る 。 真宗教学と仏事 まず唯円の﹃歎異抄﹄原本が後に蓮如本として書写さ れる。そしてその付蓮如本が元になり、それから巻尾の 流罪記録の有無によって二系統に大別できる。一つは流 罪記録のある系統で、口端ノ坊本が直接的に蓮如本を承 け、臼牽摂寺本、四光徳寺本、回妙琳坊本へと連なる。 一一つは流罪記録のない系統で、同専精寺本、国龍谷大学 本が間接的に蓮如本を承ける。後者の龍谷大学本系統を 底本とし、端ノ坊本系統で−訂正したものが州大谷学本 ︵ 端 ノ 坊 別 本 ︶ で あ る 。 図 示 す れ ば 左 記 の 如 く で あ る 。 23 ﹁ ! 国 連 摂 寺 本 唯円の原本i : : 付 蓮 如 本

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ロ 端 ノ 坊 本

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十冊光徳寺本 ﹁伺妙琳坊本 寸肘専精寺本 ﹁肘龍谷大学本

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大 谷 大 学 本 蓮知本西本願寺蔵。巻子本二巻。 現存する写本で最も古く、本来は冊子本︵袋綴︶で あったのを、江戸時代に二巻の巻子本に改めた。蓮如 四十歳頃、または六十五歳頃の書写といわれる。結び の後に流罪記録を載せ、かつ蓮如の奥書がある。 口端ノ坊本︵永正本︶端ノ坊旧蔵、大谷大学図書館 蔵 。 粘 葉 装 一 帖 。 流罪記録の前の綴じ自に、﹁永正十六ウシノトシ ︵永正十六年︶十二月十三日﹂と、記されているので 永 正 本 と も い う 。 日妻摂寺本兵庫県摂津の牽摂寺所有、龍谷大学図書 館 保 管 。 粘 葉 装 一 帖 。 四光徳寺本大阪府河内の光徳寺蔵。粘葉装一帖。 回妙琳坊本大阪市の妙琳坊蔵。粘葉装一帖。 (ー)

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24 同 専 精 寺 本 袋 綴 一 冊 。 出龍谷大学本龍谷大学図書館蔵。粘葉装一帖。 山大谷大学本︵端ノ坊別本︶端ノ坊旧蔵、大谷大学 図 書 館 蔵 。 粘 葉 装 一 帖 。 橘感月氏蔵、岐阜県の美濃専精寺旧蔵。 江 戸 時 代 の 写 本 に は 、

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名 願 寺 本 、 附 慧 空 本 が あ る 。 出名願寺本龍谷大学図書館蔵。袋綴一冊。 慶安二年書写。この本は後人の手で訂正されている が、末梢の部分はおおむね専精寺と一致している。室 町時代の写本と江戸時代の刊本との聞をつなぐ写本で あ る 。 山川慧空本 ト 白 。 占 m T 大谷大学図書館蔵。善立寺旧蔵。粘葉装 次 に 江 戸 時 代 の 刊 本 と し て は 、 ハ 門 歎 異 抄 私 記 、 口 元 禄 四年本、白首書歎異抄、四真宗法要本、回仮名聖教本の 五 本 が あ る 。 付歎異抄私記上中下三冊円智著。 ﹃ 歎 異 抄 ﹂ の 最 初 の 註 釈 書 で あ る 。 元禄本元禄四年刊本文のみ。 (二) (凹)(ヨ 首書歎異抄元禄十四年刊上下二冊。著者名なし。 真宗法要本一冊明和二年刊。 西本願寺の親驚聖人五百回大遠忌記念出版である ﹃ 真 宗 法 要 ﹄ 一 一 一 十 一 冊 中 の 第 八 冊 。 蓮 知 本 と 元 禄 本 と の 校 合 で あ る が 、 他 本 も 参 照 し て い る 。 回仮名聖教本 東本願寺の親驚聖人五百五十年御遠忌記念出版であ る ﹁ 真 谷 一 小 仮 名 聖 教 ﹄ 十 三 冊 中 の 第 二 冊 。 元 禄 四 年 本 を 底本とし、真宗法要本との異同を註記する。 以上の刊本の本文は、それぞれ小異はあるが、広く いえば蓮如本あるいは端ノ坊本︵永正本︶の枠内に入 る 。 この﹁﹃歎異抄﹄の写本と刊本﹂については、多屋頼 俊 著 ﹃ 歎 異 抄 新 註 ﹄ 、 姫 野 誠 二 著 ﹃ 歎 異 抄 の 語 学 的 解 釈 ﹂ 、 佐 藤 正 英 著 ﹃ 歎 異 抄 論 註 ﹄ 、 安 良 岡 康 作 著 、 ﹃ 歎 異 抄 全 講 読 ﹄ 、 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ の ﹁ 解 説 ・ 校 異 ﹂ 等 を 参 考 に さ せ て い た だ い た 。 ︻ 資 料

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︼﹃歎異抄﹂と覚如の著述 覚如の主な著述

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山﹁親鷲伝絵﹂西本願寺本一四段︵二六歳︶、高田専 修寺本一三段︵二六歳︶、康永本一五段︵七四歳︶、 照 願 寺 本 | 一 五 段 ︵ 七 五 歳 ︶ 、 弘 願 本 | 一 五 段 ︵ 七 七 歳 ︶ 凶﹃執持紗﹂五条︵五七歳︶ 山 間 ﹃ 口 伝 紗 ﹄ 一 一 一 条 ︵ 六 二 歳 ︶ 凶﹃改邪紗﹄二

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条 ︵ 六 八 歳 ︶ 右の覚如著述に引用されている﹃歎異抄﹄の丈を対応 すると次の如くである。 ①﹃親驚伝絵﹄上巻第七段 ﹃歎異抄﹄後述 ③﹃口伝紗﹄第四条前半 ﹃ 歎 異 抄 ﹂ 第 一 章 第 七 条 第 一 六 条

後 述 第 一 回 章 ④﹃改邪紗﹄第四条 ﹃ 歎 異 抄 ﹂ 第 六 章 真宗教学と仏事 25 ② ﹃ 執 持 紗 ﹄ 第 二 条 ﹃ 歎 異 抄 ﹄ 第 二 章 第四条後半第五条 第 二 二 章 第 八 章 第一七条第一九条

第 九 章 第 三 章 第八条前半第八条後半

第 二 一 章 第 六 章 第三条 第一章 第六条 第六章 ①﹁親驚伝絵﹄上巻第七段

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信心一異の論争、法然・親 驚両聖人の関係 ②﹃執持紗﹂第二条往生浄土は信心が根本、法然・親 驚両聖人の関係 ﹁ 同 ﹄ 第 三 条

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往生は阿弥陀仏の大願業力による。 善業も要にあらず、悪業もさまた げにならず ③﹃口伝紗﹄第四条前半|善悪二業の事、阿弥陀仏の大 願業力 ﹄第四条後半 1 千人殺害と往生 ﹄第五条|念仏は行者の善にあらず行にあら ず ﹄第六条親驚は弟子一人ももたず、信楽房 と本尊・聖教 ﹄第七条|凡夫往生の事、五劫の思惟、ただ 親驚一人がためなり ﹄第一六条|信のうへの称名の事、高田の覚 信 房 、 ﹁ 正 信 偶 ﹂ ︵ 龍 樹 讃 ︶ の 四 文、信心正因、信心の利益︵現 生 正 定 緊 ・ 平 生 業 成 ︶ 、 称 名 報 思 ﹄第一七条|凡夫として毎事勇猛のふるまひ、 唱間『 ==『 同 同 − 『 同 同 ー=『 同 ー 『 同

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26 みな虚仮たる事、往生の一大事 は知来にまかせる ﹄第一九条|如来の本願はもと凡夫のために して、聖人のためにあらざる事、 悪人正機・善人傍機 ④﹃改邪紗﹄第四条|念仏する人は人中の妙好人なり、 それがしまったく弟子一人ももた ず、みなともの同行なり ﹄第八条前半わが同行ひとの同行といって 相論する事、誇論のところは もろもろの煩悩おこる、智者 これを遠離する ﹄第八条後半あひともなへといふとも、縁 尽きぬれば疎遠になる。親し まじとすれども、縁尽きざる ほどはあひともなふにたれり − 『 同 胃−司 同 .値『 同 ︻ 資 料

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︼覚如著述の内容 覚如は一二九四︵永仁二︶年の親驚三十三回忌の時に、 法然の﹃知恩講私記﹄にならって、﹃報恩講私記﹄を著 した。﹃報思講式﹂ともいわれる。惣札・三礼・如来 唄・表白・田向よりなり、表白はハ門真宗興行の徳を讃ず、 口本願相応の徳を讃ず、臼滅後利益の徳を述す、この三 段に分けられる。真宗教団で最も重要な報恩講はこれか ら 始 ま る の で あ る 。 次に翌一二九五︵永仁三︶年に﹃親鷺伝絵﹂を著され る。親鷲のご遺徳を讃えるために、その生涯を上下数段 こ と ば が き ず え に記された詞書と、各段に相応する図絵が描かれたが、 後に詞書と図絵が分かれ、調書を﹃御伝紗﹄、図絵を ﹃御絵伝﹄と呼ぶようになった。最初に作られたのが覚 如二十六歳の時であったが、晩年に至るまで増補改訂さ れた。現在は上下二巻、計十五段から成っている。上巻 ||付出家学道、口吉水入室、臼六角夢想、四蓮位夢想、 じ よ う ろ ん か ん ざ っ 回選択付属、閃信行両座、同信心一静論、

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入 西 鑑 察 。 し し せ ん ち ゃ く 下巻||付師資遷諦、口稲田興法、白弁円済度、四箱 せ ん げ 根霊告、国熊野霊告、閃洛陽遷化、出廟堂創立である。 次に﹁執持紗﹄は一三二六年︵嘉暦元︶年、覚如五十 七歳の時に著された。阿弥陀仏の名号を信受し、かたく 執持する他力信心の要義を示された書である。五条の法 語からなり、前四条は親驚の法語による。また最後の一 条は覚如自身の心を述べ、信一念往生や平生業成につい て 示 さ れ る 。

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