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戦後電機企業における「企業コミュニティ」と福利 厚生 : 工場新聞『日立笠戸』を手掛かりに

著者 長谷部 弘道

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会志林

巻 66

号 4

ページ 75‑95

発行年 2020‑03

URL http://doi.org/10.15002/00023182

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はじめに

 失われた20年を経て,日本企業はかつての日本的特質を捨て,他の欧米企業と同様にグローバ ル化・均質化していったのか,それとも頑強にかつての特質を維持し続けているのか。この問いは,

2000年代の日本企業の「凋落」の要因分析と並んで,社会科学研究者たちの間でも盛んに議論さ れたホットトピックの一つである。2000年代以降の日立製作所の変化を取り扱った Inagami &

Whittaker は,同社の企業コミュニティは,巷の企業福祉終焉の声にもかかわらず,状況に応じて 具体的な形を変化させることによって,その本質的な部分は生き続けているとの見解を示し,その 特質は市場サイドに近づきつつも継続していることを明らかにしている(Inagami & Whittaker 2005)。また呉も,日立製作所が2000年代の経営危機とその後の組織改変・大規模な分社化によっ て,その労務管理のあり方をどう変化させたのかについて論じている(呉 2017)。これによれば,

会社の従業員に対する接し方は「自立的・自律的個人」をより一層促すものへとシフトし,またコ ミュニティの成員自体も減少する一方でその属性も女性・外国人といった多様化が進展するなど,

長期勤続・雇用保障への従業員の意識もふくめ,個人とコミュニティのあり方が変化したという。

加えて,年功的賃金運用からの脱却とグローバル共通人材管理の導入によって,従業員間での格差 の拡大が進行し,「日本純粋性」が弱まったことや,労働条件の多様化によって企業コミュニティ 内の同質性が弱まっていること,また企業のコミュニティ性の強化にこれまで強い影響を及ぼして きた労組も,2000年代の日立グループの経営危機に際して,企業コミュニティの中の対象者の減 少や賃金支払い基準を「人」から「仕事」へとシフトさせることに理解を示したことなどが指摘さ れている。こうした変化は,特定企業の日本的な特徴を薄くし,国内外にグローバルに広がる企業 グループコミュニティへと変容させつつあるという(呉 2017,pp49-50)。

 これらの指摘からも明らかなように,「企業コミュニティ」は,今日においても日本の労働社会 において看過することのできないテーマとして注視され続けており,近年においては,長期不況を 経て変化を余儀なくされた日本企業において,この日本的特質がいまだに歴史的一貫性をもつもの なのかどうかという点にも関心が集まっている(Inagami & Whittaker 2005, 呉 2017, 山下 2017, 金野 2017など)。

 本稿では,この「企業コミュニティ」を下支えする要素のひとつである福利厚生施策の変遷につ

戦後電機企業における「企業コミュニティ」と福利厚生

─工場新聞『日立笠戸』を手掛かりに─

長谷部 弘 道

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いて,日立製作所笠戸工場に焦点を当てて観察し,その変化の特質を析出することを目的とする。

1.企業コミュニティをめぐる先行研究と問題意識

 いわゆる企業コミュニティをめぐる研究は,その初期においては経営家族主義の観点から論じら れ,都市社会学・民俗学との近接性を活かしながら,モノグラフィックな研究が展開されていた

(松島 1951,尾高 1948など)。この経営家族主義をめぐる代表的研究者である間宏は,経営家族主 義が従業員にもたらしうる心理的効果として,①生活安定の欲求の満足,②社会的欲求の満足(威 信への満足),③(忠誠心の見返りとしての)経済的欲求の満足,④愛国心のような情緒的欲求の 満足の4点を指摘し,「歴史的に見れば,経営家族主義とは封建時代における家業経営(その典型 は商家にみられる)が,明治以後の近代資本主義経営の中に再編されたもの」と述べている(間 1964, p16)。また,こうした経営家族主義の普及は,職住近接に基づく生活全般におよぶ労務管理 を前提とし,その多くは,労働力を一地域に集めて工場運営を行ったイギリスの紡績業やアメリカ で広まりつつあったウェルフェアキャピタリズムの福利厚生制度の様態に強く影響を受けていた

(山下 2017)。

 しかしながら,こうした戦前期における日本企業の経営家族主義的特質の戦後への連続性につい ては,短絡的な連続性説を唱えることに慎重な意見もある。山下充は,経営家族主義は「戦後に繋 がるような企業コミュニティへの動きもみられた」ものの,「第二次世界大戦前夜において戦後に みられるような企業コミュニティが形成される十分な条件があったとはいえ」ず,むしろそれは,

膨大な政治的・社会的資源が投入された戦後の労使関係の転換の中で初めて形成されていったもの であると捉えている(山下 2017)1。これはつまり,成員への効果という点では連続性があるが,

コーポレートガヴァナンスという点では断絶しているという理解とみていいだろう。

 コミュニティの成員に対して,こうした企業コミュニティがいかにアプローチし,また包摂する かをめぐっては,株式会社日立製作所日立工場,および多賀工場における詳細な聞き取り調査を基 にしたロナルド・ドーアの研究が参考となる(ドーア 1973/1987, pp238-240)。これによれば,日 本的雇用システムに規定された日本の企業コミュニティには,次の5つの特徴がある。第一に,福 利厚生の規範と範囲の違いについて,日本企業ではイギリスに比べると,福利厚生担当部門が冠婚 葬祭・余暇活動など,様々なかたちで深く,広く関与しており,従業員たちはそれらの厚生事業に

「はじめから」加入していることである。日立の管理者は,これらの厚生事業が手厚いことを積極

1 第一に,敗戦で財閥系企業を中心とした大企業が分割され,資本が多数の個人や機関投資家に分散した こと。第二に,労働条件の決定が企業内の労使関係によって決定されるようになり,企業業績によって従 業員の労働条件が左右され,企業の利害と従業員の利害が一致するようになったこと。第三に,戦後公認 された労働組合の解雇反対闘争と,戦時中から始まった生活難に対応する生活賃金としての年齢給や勤続 給の要求により,長期安定雇用慣行が広まり,労使の利害の一致が現実的となったこと(山下,2017)。

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的に評価してすらいることも,ここでは指摘されている。第二に,個人的な悩み事は職場の上司の 責任であり,社内の交流パターンも,この上司と部下を軸に構成される顔見知りの職場単位がレク レーションの単位となることである。第三に,組合は連帯を強めて会社活動に対抗姿勢を見せる一 方で,住宅や医療サーヴィス等については増額を熱心に要求し,一定の発言権を得ようとすること。

第四に,会社と従業員の関係では,会社は従業員の「徳目」に関心を持つこと2。そして第五に,

従業員の家族は「日立一家」の準構成員であるが,仕事と家族を秤にかけた場合,仕事を優先する よう要求することである。日立の労働者は,会社に対する期待が高く,「日立マン」である意識が 強いが,必ずしもその高い期待値が充足されているわけではないということである3。以上の指摘 からもわかるように,ドーアは日英の労使関係比較に重点を置きつつも,そこから析出される「日 本的要素」として,組織内のフォーマル/インフォーマルな人的関係の編成傾向に福利厚生事業が 深く関わっていることを指摘しているのである。

 労使関係という点から見た場合,こうした組織内のフォーマルな人的関係の編成傾向として,労 働組合がもつ経営側の利害に資する機能を「経営内的機能」と表現した研究もある。河西宏佑は,

日立製作所の企業別組合における職域運動の仕組みの詳細な記述を通じて,この「経営内的機能」

を指摘した(河西 1970)。この研究の中枢には,ドーアのように職場の従業員の関係性を「コミュ ニティ性」として表現した形跡は認められないが,確かに労使関係上,企業別組合が持ちうる機能 として,このような組織凝集力を向上させる「経営内的機能」をみとめることができるだろう。

 あるいは,金野美奈子が指摘するように,企業コミュニティを下支えする福利厚生は,大企業を 中心に「高度成長期,家族を含めた生活保障による安定した関係性を基礎とする労使の,また従業 員相互の関係」が実質化したものであり,企業コミュニティの成員にとって,生活は職場の外にあ るものではなく,むしろ仕事や職場そのものが,従業員の生活世界そのものとなっていたことを指 摘する(金野 2017)。同時に,そうした環境では,その成員はさまざまな役割を期待され,この期 待に応じることは生活保障4を安定的に再生産するうえで不可避の条件であった。しかしながら,

この安定的な再生産は,滅私奉公的で勤勉に働くという仕事優先の規範に,男性成員たちを動員さ

2 ここで「徳目」と表現されているものは,ドーアによる表現に基づいているが,「倫理的」な評価のこ とを意味している。

3 同様の指摘として,稲上毅がある。氏は同様の問題意識について,以下の5点を指摘した。第一に,成 員の社会的アイデンティティが企業中心的な性格を帯びやすいこと。第二に,「貪欲な制度」としての企 業コミュニティは,成員に対して没我的忠誠心を要求すること。第三に,ウチ/ソトの社会的境界をひき,

対内道徳を優先しがちとなること。第四に,年功重視の男性中心的・閉鎖的社交圏を形成しやすいこと。

そして第五に,企業コミュニティは長期的経営と協調的労使関係の発展に寄与するよう従業員を促すこと

(稲上 1999, p15)。

4 なお,ここで用いられている「生活保障」というターミノロジーは,「一定の生活構造の再生産の保障」

を意味し,特に今日一般に福利厚生,企業福祉,経雄企業保障などの言葉で表されているものだけでなく,

賃金制度など基本的労働条件,またインフォーマルな職場レベルの慣行をふくめ,働き手の職場内外の生 活を日々,あるいは長期的に形作る仕組みのことを指している(金野, 2017, p74)。

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せることで成立していたものの,失われた20年を通じて,こうした「安定的・調和的関係」への 信頼や期待は大きく揺らぎ,コミュニティのリアリティを低下させたとの指摘もある(金野, 2017, p80)。

 以上の先行研究は,企業コミュニティを下支えする諸要素について分析を行う際に,いかなる点 に着目すべきかについて,多くの示唆をもたらす。一方で,個別の事業所や職場において,そうし た企業コミュニティ性の再生産を促進ないしは変容させるような施策がどのように展開されていた のかをめぐる実証研究は,十分に蓄積されているとはいえない状況にある。本稿は,これらの施策 をめぐる事例研究の蓄積に資することを目的とするが,上述の先行研究の現状認識に従った場合,

以下の点をどう考える必要があるだろうか。

 第一に,そもそも企業コミュニティを存続させた労務管理以外の仕組みとして,どのようなもの があったのかという点である。また第二に,それが2000年代以降,どう変化したのかという点で ある。約100年ほどの歴史のなかで,いくつかの組織改編と大規模な分社化の影響をうけて,日立 製作所の企業コミュニティを構成する諸要素には,何らかの変化の兆しはみられたのだろうか。こ れらの問いは,先行研究が提起した課題のうえに,モノグラフィックな歴史実証的記述を積み上げ ることで,解決可能となる可能性がある。

2.本稿の目的と課題

 こうした問いに答えるべく,本稿は,日立製作所笠戸事業所において企業コミュニティを下支え する福利厚生施策としていかなるものがあり,またその通時的な変化はいかなるものであったのか を観察する。

 ドーアが企業コミュニティ概念析出の材料として取り上げた日立製作所の2工場(日立工場・多 賀工場)は,ともに茨城地区に位置する。特にこれらの地方の工業都市では,従業員は余暇を過ご すところも限られ,生活の在り方が会社中心とならざるを得ない。このため会社も,これらの事業 所における福利費を,都市部(本社や京浜地区)に比べてより多く捻出する必要が出てくる。具体 的には,文化会館や体育館を建てたり,病院を運営したり,ランニングコストを含めて,維持して いくための費用がかなりかかる5。反面,都心部に本拠を置く本社を始め,東京・京浜地区の工場・

事業所とその従業員は,大都市圏に所在する強みとして,広大な社会インフラの利用機会を持つた め,捻出される福利厚生費は地方都市と比べて差がでてくることとなる。つまり,企業コミュニテ

5 これに対しては,京浜・本社側の従業員からはクレームがたつことがあった。福利費といっても,各工 場に何か基準が定められているわけでもなかったので,こうした地区・事業所間の格差が生じるというこ とがあったのである。このため,本社に対しては,たとえば昼食の会社補助を手厚くし,社食のクオリテ ィを本社と事業所とで差別化するといった配慮の必要があった(2019年10月8日,元日立製作所笠戸工 場総務部長,役重道明氏へのインタビューより)。

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ィ性を下支えする福利厚生施策について,任意の事業所の実態を観察する場合,必然的に,大都市 圏からは隔絶された地方都市を選択することが,少なくともドーアが立った調査対象の条件に目線 を合わせるうえでは必要となってくる。日立製作所の文脈で言えば,茨城地区の工場を中心に検討 を行うことが重要となってくるのである。

 しかしながら今日,事業所の通時的な変化を追おうとする場合,調査を行ううえで大きな壁が立 ちはだかる。それは,日立製作所が経験した2000年代における大幅な事業再編である。これによ って,数十年の伝統を持つそれぞれの事業所のほとんどが大きく様変わりした。例えばドーアが対 象とした日立工場は,現在は「三菱日立パワーシステムズ株式会社」という別会社となっている。

また,その他のほとんどの事業所は,複数の事業所と統合・再編され,過去の工場経営の文脈から は断絶している。このため,現状,長期的な視座での検討が可能な事業所は,分社化された事業所 を除くと,笠戸事業所のみという状況なのである。

 また,ドーアは電機企業であるEE社との比較のために,日立工場および多賀工場を選定したが,

笠戸工場は歴史的に車輌製造を主としてきたため,そもそもこの工場を対象とするという選択肢は 想定されていなかったことが推察される。しかし笠戸工場の事業は,車両や化学装置,半導体製造 装置といった,量産品というよりも受注設計・生産のビジネスモデルであったという点においては,

製品的にも日立工場・茨城工場と遜色ないばかりか,地域的特徴という観点からも共通点が多い。

このため,笠戸事業所に着目することは,日立製作所における「企業コミュニティ」の変容を精査 する近道となる可能性が高いのである。

 ただ,予め申し添えておけば,本稿は,既存の企業コミュニティをめぐる研究蓄積によって得ら れた共通理解,特に,企業別組合を前提とした協調的労使関係が軸となってこうした「企業コミュ ニティ」の素地が再生産されているという理解を覆すことを意図しているわけではない。むしろこ れらの理解を前提として,そうしたシステムを再生産してきた人々の営みを,歴史実態としてより 高い解像度で把握し,新たな実証研究と問いを発見することに,本稿のねらいがある。

 本稿の構成としては,続く3節では笠戸事業所の沿革について論じ,その工場経営の変遷と実態 とを,主に工場史の記述から把握する。4節では,笠戸工場の福利厚生施策の展開過程のうち,福 利厚生施設がどういったタイミングで整備されたのか,あるいは「運動会」や「夏祭り」といった レクリエーションが実際どういう頻度で行われていたのかといった実態について,主に工場新聞

『日立笠戸』(1940年代~2018年まで)の読み込みから把握する6。「おわりに」では,本稿の発見事 実をまとめ,今後の研究に向けた課題を述べる。

6 なお,工場新聞は一般的に,従業員および従業員OBに配布されるが,外部の者がこれに触れる媒体と して,比較的歴史の長い企業において発行される縮刷版が挙げられる。例えば,水戸工場,土浦工場,横 浜工場,小田原工場,栃木工場などで,縮刷版が出版されている。

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3.笠戸工場の沿革と従業員属性・給源

3-1.高度経済成長期までの笠戸工場

 日立製作所笠戸工場の起源は,久原房之助による下松の艦船建造都市開発計画に遡り,彼が「日 本汽船株式会社笠戸造船所」を創業し,1918年に工場を操業開始したことにはじまる。しかしそ の経営は安定せず,もともと川崎重工で汽車製造の指揮にあたっていた古山石之助工場長は1919 年3月に機関車製造に着手した。小平浪平の働きかけもあり,翌年6月,同社は鉄道省指定工場と なった。しかし久原は1921年2月,これを日立製作所に事業譲渡する決断をし,同年5月,株式 会社日立製作所笠戸工場となった。古山も引き続き工場長に留任し,電気機関車製作に着手した。

 これ以降,笠戸工場は鉄道省からの受注を軸とした機関車・客車の製造によって発展の足がかり を掴んだ。車両産業における戦前・戦間期の日立製作所笠戸工場は,川崎車両,汽車製造,日本車 輌製造とならぶ四大企業のひとつとして,また南満州鉄道の有力指定メーカーのひとつとして車両 事業を展開し,同企業を中心とした弥生会なるカルテル組織に属し,日立製作所内でも好業績を維 持していた(沢井 1998, p212)。しかし1943年9月,国家総動員法による陸軍監理工場ならびに運 輸通信省監理工場に指定されたことで1945年6月と7月に空襲を受け,31名が死亡した。

 第二次大戦終了後は,1946年に運輸省受注品を中心とした製造を再開し,同年4月には南朝鮮 への輸出も再開した。1949年8月頃には生産が回復基調となり,1956年以降は日立工場から移管 された化学装置製造と車両製造の2事業を軸とした工場経営を展開した。

 1960年代は,拡大生産を基調とした生産体制の強化に伴い,モノレールカー,温風暖房機の量 産化が軌道に乗った。道路車両の大型化も着実な前進をみせ,特に新幹線用電車の量産化は,「日 立総合技術の粋を集めてその真価を発揮し,斯界の注目を集めた」(日立製作所笠戸工場史編纂委 員会編 1975, p123)。化学機械関係でも,大型機器,生産体制を強化した新たな設備投資が進み,

技術革新を担う新製品が相次いで生み出された。

3-2.低経済成長時代への突入と円高との戦い,そしてバブル期へ

 しかしこうした状況は,1970年代以降,大きく変化する。特に1970年代後半~80年代中盤は,

国鉄の受注減少,民間鉄道会社の受注獲得競争の激化にともない,困難の一途をたどった。1979 年に大幅な作業量不足に陥り,1978年9月時点では110名であった社内派遣者は,1979年2月には 約350名にまで膨れ上がり,附近地出向約270名,在籍人員約2600名中20%が余剰人員となる事態 に陥った。

 1979年5月9日,会社から労働組合に「人の移動に関する協議」の申し入れが提示され,約2 ヶ月間,19次に渡った交渉を経て,7月5日に転勤150名を含む,400名の異動が取り決められた。

ただ,下松から茨城・関東地区への異動という提案には反発が強く,「転勤は可能な範囲にとどめ,

残りは派遣で対処する」という組合要求に可能な限り寄り添う形で対策が打たれ,400名のうち転 勤は150名,システム関係への移動が40名,福利関係に配転・転属,210名は当面派遣を継続するが,

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うち90名は1980年に構内に設立が決まった笠戸機械工業株式会社に吸収されることとなった。こ うして雇用調整時の吸収先(具体的には定年退職者の再就職先・従業員の出向受入先)として機能 する系列企業が,笠戸にも誕生した。また,工場存続をかけ,他事業の模索をし始めたのもこの頃 からで,その後,同事業所の事業の一翼を担うこととなる半導体製造装置の研究開発が開始され た7

 なお,笠戸工場は創業以来,全社的にも輸出比率の高い工場であったが,1976年下期にはこれ が55%に達し,過去にない高輸出比率となった。さらに1977年下期には,1973年に移管された運 搬機部門において実に91%,化学装置部門において70%の高比率となり,「従業員で輸出に関係し ない者はいない状態」であった。この背景には,国内需要の冷え込みがなかなか回復しないなかで,

仕事量の確保を余儀なくされたという事情があった。

 1984年から87年にかけても,1983年以降,国鉄再建計画に基づく投資抑制によって受注が激減し,

日立製作所全体としてはエレクトロニクス関連産業が活況を呈した反面,笠戸工場は厳しい経営状 況となり,結果的に多くの従業員が他工場へ派遣・転勤することとなった(日立製作所笠戸工場年 史編纂分科会編 1996, pp100-101)。このため,やはり南アフリカ向けや米国向け輸出といった輸出 生産で,この状況の打開が図られた(日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌 編纂委員会 2011, p365)。

 こうした状況が好転するのは,受注元である民営化後のJR各社の投資需要の拡大にあった。受 注減に苦しむ中で笠戸工場が開発を続けていた軽量ステンレス車両構体の技術が評価され,JR東 日本から山手線ステンレス車両80両(205系直流電車)の大量受注を獲得し,危機を乗り切ること となった。1988年にはJR東海から100系新幹線電車95両,211系直流電車30両を大量受注し,1990 年にはJR東海向け新型新幹線電車(300系)6両を納入するなど,それまでの笠戸工場史上最高の 受注高を記録した。この新型新幹線は1992年から量産され,「のぞみ」号として使用された。

3-3.長期不況から2000年代以降の鉄道のグローバル化へ8

 このように,1980年代の後半から1990年代の半ばまでは,笠戸工場も,車両を中心とし,産業 プラント関係の受注拡大,半導体製造装置の大幅な伸長等により,月平均受注高が工場操業以来最 高を記録した。

 バブル崩壊後は,1991年をピークとして再び下降線をたどるものの,デフレ経済下で他の事業 が伸び悩むなかで,鉄道事業は内需関連でも比較的好調が続いた。加えて,特に2000年以降,鉄 道システムの海外展開は,社会基盤事業において電力と並ぶもう一つの軸として本社のビジネス戦

7 半導体製造装置事業の操業開始に至るまでには,中央研究所,および社内顧客となる横浜工場の協力を 仰ぎつつ,徐々にドライエッチング装置の製品開発に取り組んだ。その後,徐々に事業を拡大していった。

(日立製作所笠戸工場年史編纂分科会編 1996, pp130-131)。

8 これ以降の日立製作所のガバナンス構造の変革に関しては,基本的に断りがない限り,『日立事業発達 史―100年の歩み―1910-2010』第7章~9章の記述に依拠している(pp308-482)。

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略において中核的位置づけがなされるようになった。

 2001年に台湾新幹線,中国高速鉄道プロジェクトに日本連合の一員として参画し,受注に成功 したことを皮切りに,2004年には初の新幹線完成車両輸出となる台湾新幹線向け電車84両を納入 した。また,2002年には,中国の重慶市軌道交通総公司向けモノレールと,シンガポールのセン トーサ・モノレールを受注し,2008年にはドバイ市向けモノレールも納入した。時期が前後するが,

2005年には,鉄道発祥の地である英国から,新型高速鉄道CTRL(Channel Tunnel Rail Link:ドー バー海峡トンネル連絡線,現HS1)-DS用の車両および保守事業の受注を正式に獲得し,これ以降,

鉄道事業は,日立製作所にとって全社的な重点事業として位置付けられるようになった。

 ただ,こうした海外展開の背後で,日立製作所のガバナンス構造は,大規模な変革を遂げていた。

1990年代初頭まで同社に根付いていた工場のガバナンスモデルは,受注設計・生産型のビジネス モデルに適した「工場プロフィットセンター制」であったが,これは顧客のニーズに柔軟に対応し た迅速な製品開発や,海外進出先の社会と調和した販売戦略,生産拠点のグローバル化に対応した 総合的な事業戦略を推進するうえでは不十分と考えられるようになり,「市場志向の事業体制への 変換」が図られたのである。

 具体的には,工場プロフィットセンター制の枠を超える複数事業にまたがる新ビジネスを推進す る推進本部を設け,また事業部の再編や工場間の製品移管などを行い,組織再編を進めた。また,

1991年以降,工場と事業部を統合して,プロフィットセンターを事業部に置く事業部主導の経営 体制へと転換を図った。ただ,非量産型の重電事業に関しては,事業の特性から工場主導の体制の ほうが合理的である面も少なからずあったため,事業部制への転換は慎重に進められた。

 1995年になると日立は比較的業態が近い複数の事業部を緩やかにまとめて電力・電機,家電・

情報メディア,情報,電子部品の4つのグループとするグループ制を導入し,笠戸工場は電気シス テム事業本部下の交通事業部の管轄となった。1999年4月にはグループ制が再編され,笠戸工場は,

その名称を笠戸半導体本部,笠戸流通産業プラント本部,笠戸交通本部,笠戸事業所へと変更した。

2003年には,電力・電機グループが分割され,笠戸事業所は電機グループに属することとなった。

3-4.リーマンショック後の日立製作所と笠戸事業所

 2008年のリーマンショック以降,日立製作所は7800億円を超える当期純損失(連結ベース)を 計上するに至った。翌年会長兼社長に就任した川村隆は,日立の事業構造をこれまで以上に社会イ ノベーション事業にシフトさせていくという方針を全面に打ち出した。同年10月,「カンパニー制」

を敷いたが,これは,日立内の事業を関連するグループ会社とともに自律性の高い「カンパニー」

としてまとめ,他の主要なグループ会社と並列にすることで,各事業の目標,責任・権限を明確化 しようするものであった。

 このなかで笠戸事業所は,「社会・産業インフラシステム社」の中に位置づけられ,2011年5月 には,社会・産業システム社から交通システム社が分離・発足した。2015年にはイングランド北 東部のニュートンエイクリフに新たな車両製造工場を開設し,ヨーロッパ市場における生産拠点と

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した。2016年には,カンパニー制からマーケット別の事業体制である「ビジネスユニット制」へ と移行となり,「交通システム社」から「鉄道ビジネスユニット」へと変更となった。

 現在,鉄道ビジネスユニットの本社はロンドンにあり,鉄道事業の海外売上比率も83%を占め るに至っている。2015年のニュートンエイクリフ工場の開設に加え,同年イタリアのアンサルド ブレダ社を買収して日立レールイタリア社とし,同社のピストイア工場においても車両製造を展開 している9。同社は,米国ほかスペインにも工場を有しており,鉄道ビジネスユニット全体で,全 世界で11の生産拠点が整備されるに至っている。こうしたことから,笠戸事業所は全体の中では マイノリティとなっている。

3-5.従業員数およびその給源

 以上の笠戸工場(笠戸事業所)の沿革をふまえたうえで,本項では,現在の笠戸事業所の従業員 の実態について,より詳しく見ていきたい。

 図1は,笠戸事業所における正規従業員数の推移を示したグラフである。このグラフが示すよう に,現在の笠戸事業所の人員は1,524人であり,同図には示されていないものの,このうち高卒従 業員が849名を占める10。2003年の3月に603人という数にまで落ち込んだものの,その後堅調に人 員数が回復し,現在はバブル期よりも多くの人員を抱えているという状況にある。ただし,世界全 体でみれば,笠戸事業所の従業員数は,鉄道ビジネスユニットの全世界の従業員1万2400名のな かの,わずか12%程度にとどまっている(光冨 2018, p9)。

 また表1は,高卒現業職員849名の出身地を示す表である。これをみると,出身地として最も多 いのは山口県で,全体のおよそ80%を占めることがわかる。その次に多いのは宮崎県で全体の10

%をなし,福岡と大分がそれぞれ2パーセント,広島と長崎が1%という分布である。総じて,主 な高卒従業員は山口県出身者で占められていることがわかる。出身校としては,一校でおよそ全体 の10%を占めるのが,同じ下松市内にある下松工業高校の出身者たちで,これに続くのも山口県 下の工業高校がほとんどである。

 得られたデータからわかるのはこれだけであるが,補足として,笠戸事業所の関係者によれば,

「高卒労働者を採用する際に着目する地域は,比較的山口から見て西側(主に九州)を意識してき た」という。このことを考え合わせれば,笠戸事業所は,山口県を主な労働供給源としつつ,山口 以西を射程に入れた採用活動を,現在も行っているということがうかがえる11

 なお,笠戸エリアは現在,日立ハイテクノロジーズ,日立プラントメカニクス,日立製作所の3

9 同社はこのほかにも,ナポリ,レッジョ・ディ・カラブリアに事業所を有しているほか,子会社として アメリカ・マイアミとスペイン・マドリードにそれぞれ生産拠点を有する(Hitachi Italy,ブローシャーよ り)。

10 笠戸事業所総務グループよりご提供いただいたデータに依拠する。なお,全従業員から高卒従業員を除 いた母数は,主に大卒従業員であるが,ここには高専出身者を含んでいる。

11 笠戸工場元工場長,奥村貞雄氏のインタビューより。

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表1 出身県ごとの従業員数

図1 日立製作所笠戸工場における従業員数推移

※笠戸工場史[1975]巻末付録の期末人員をもとに筆者作成。

※「期末人員」の表に記載された数値は,1918年が1月/10月,1919年から1938年までは4月/10月,1939年が3月/8月,

1940年から1951年までが2月/8月,1952年から1975年までは3/9月,1976年から1995年までは上半期下半期,1996年から 2019年までは再び3月/9月となっており,基本的に本グラフでは期初の数値を用いている。また,1976年から1995年ま での数値はグラフからの読み取り値(目視による概算)である。それぞれ,第Ⅰ期(1918年~1975年)は『笠戸工場史』,

第Ⅱ期(1976年~1995年)は『七十五年の思い出―母なる海よ周南の―』,第Ⅲ期(1996年~2019年)については,日 立製作所笠戸工場からご提供いただいたデータをもとに作成した。

※記載された従業員数は,高卒以上の正規従業員全体を意味している。

※その他とは,複数キャンパスをもつ通信制学校を指す。

※笠戸事務所よりご提供いただいたデータに基づき筆者作成。

※出身者が1名のみの都道府県(徳島県,茨城県,岡山県,沖縄 県,群馬県,佐賀県,静岡県,千葉県,島根県,栃木県,北海道 は除外した。)

(12)

表2 笠戸工場におけるレクリエーション施策のあゆみ

(13)

社体制となっているが,総務グループはこれらの関係会社内で相互連携して業務にあたっている。

4.福利厚生の充実とその変化

 さて,笠戸工場における福利厚生の諸施策を歴史的に観察するにあたってさしあたりの参考とな るのは,1975年発行の工場設立50周年記念誌である『笠戸工場史』,工場新聞である『日立笠戸』

およびその後継誌である『Kasado』である。これらをまとめるとみえてくるのが,①社宅・寮の 漸進的整備,②保養施設の整備,③病院の整備,④レクリエーション(文化祭や運動会,職場レク リエーション)の挙行,という4つの福利厚生施策群である。一見するとこれは,ドーアが指摘し ていた「幅広く深い福利厚生サーヴィス」そのものであるように見える。

 本節では,こうした福利厚生の変遷をたどるために,ドーアが指摘していたように,福利厚生事 業を「ハードなもの」と「ソフトなもの」という分類で整理する。そのうえで,笠戸事業所の福利 厚生の変化を検討していくこととしたい。

4−1.ハードな福利厚生施策について

(1)寮・社宅

 まず,従業員の生活の基盤上重要な,社宅施策からみていくこととしよう。戦後の笠戸工場には,

戦前に建設された宮前社宅,末光社宅があったが,1949年には宮前社宅に子供遊園地が設置された。

また1953年12月,大谷アパート3棟30戸が完成した。1956年7月,鉄筋コンクリートの先駆けと 表2 笠戸工場におけるレクリエーション施策のあゆみ(続き)

(14)

して,江口アパート3棟が完成し,同年の12月には,高卒独身寮である宮前寮が4階建鉄筋コン クリート化し12,1959年2月には2棟目が完成した。

 このほか,1958年には企画員アパート1棟(24戸),独身寮1棟が完成した。さらに1962年6月,

1963年4月に,それぞれ学卒寮である百田寮の1寮・2寮が完成し,1964年,1966年には双葉ア パートの第2棟・第3棟も建てられた(それぞれ鉄筋コンクリート4階建)。1968年3月,1970年 7月には,江口アパートの第4棟・第5棟が完成(鉄筋コンクリート4階建)した。1973年9月 には花垣寮をはじめ,アパート10棟,寮3棟の福利厚生施設が増設された。

 このように,従業員向けの寮・社宅は,1950年代から1970年代の,ちょうど従業員数が4500人 をピークとし,2,000人後半から3000人あたりを推移していた時期に,断続的に拡充されている。

しかしその後は,景気の低迷によって新規採用者が少なくなり,こうした施設は新たに建設される こともなく,老朽化が進んだ。なお,この背景には,日立製作所全社で「住宅総合対策」という施 策が策定され,男子従業員の持ち家目標年齢を35歳とし,これに関する住宅資金貸付制度も改定し,

持ち家を奨励したという経緯もあった。会社は持ち家制度を促進するために,社宅については,使 用料を1.5倍程度引き上げ,これらに住まう年限を40歳とし,それ以上を超える場合は使用料が増 加するようにし,独身寮も使用料を引き上げた(『日立笠戸』昭和49年3月1日 第305号)。

 1988年には本社勤労部が全社規模で「寮・社宅改善5カ年計画」を策定し,その一環として宮 前寮・百田寮を改装し,各室にエアコン,電話,衛星放送受信機能棟が完備され,食堂・浴室・談 話室等の共用部分が充実化するなど,従業員の生活スタイルの変化にあわせた改善がなされた。

 近年,こうした社宅政策は,日立製作所全体で大きく様変わりしており,社宅については上述の ように,持ち家制度の普及により利用者が減ったため,設備が縮小した。また,寮についても,百 田寮が廃止ののち,跡地が2016年3月に売却されるなど,社宅や寮の資産を手放し,かわりに日 立グループの不動産会社がこれを建設・賃貸提供するといった形に変化してきている。これは,日 立製作所全社の方針で,社内の保有資産を減少させ,住宅手当化していく施策の一環で,笠戸事業 所でも,2013年,日立アーバンインベストメントが建設・所有する新共同住宅ブールヴァル双葉 が完成し,セキュリティ設備の向上により,女性も安心して入居できる社宅が提供された。この社 宅には現在,独身寮・単身赴任寮の寮生が入居するほか,笠戸事業所をはじめ各グループの新入社 員が入居している。

(2)保養施設

 保養施設は,社宅と同様に,戦後,特に労使関係の安定化以降に充実化していった。まず,1946 年6月に映画常設の宮前会館が設置され,開館した。「世論の背景には,笠戸工場従業員のみの会 館として使用するよりも映画常設館として,一般公開し,市民の文化向上に貢献することの必要性

12 『笠戸工場史』内の記述による。ただし,『七十五年の思い出―母なる海よ周南の―』においては,宮前 寮の完成は1957年3月とあり,この真偽は定かではない。

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が叫ばれ」たことをうけて,当初の従業員向けとの方針を転換し,市民にも開放された施設となっ た(日立製作所笠戸工場史編纂委員会編 1975, p68)。この施設では,従業員に向けた様々な慰安興 行,慰安会,文化祭等も行われた。しかし,1948年以降は工場による経営から離れ,1959年に従 業員の社交を目的とした「宮前クラブ」,および宮前会館の建設にともない,解体された。また,

1952年には従業員の保養所として「春日荘」が建設された。

 従業員の日々の活動において最も身近な昼食を提供する施設については,1962年,構内食堂が 建設された。また健保関係でも,1959年1月に武道場が,1963年に健保会館が建設され,1976年 5月には健康保険組合設立50周年を記念して体育館が建設され,多くの組合員に利用された。

 1980年代に入ると,こうして1970年代までに建設された設備を生かしながら,それを再整備す る動きがみられるようになった。例えば,1981年3月には,「宮前グランド」を近代的に整備する 事業がすすめられ,整備後は総合グラウンドとして一般市民にも開放された。また,保養所として 愛された「春日荘」にかわり,1988年11月,「日立室積荘」がオープンした。1991年6月には,「宮 前テニスコート(一面)」が完成し,その2年後の1993年6月には同施設に「全天候オムニコート

(三面)」が完成し,一般市民にも開放された。また,1962年に建設された構内食堂は老朽化して きたため,1993年11月,新食堂が完成した。さらに1994年から1996年にかけては,「健保会館」,

「宮前クラブ」の改装やリニューアルが段階的に実施された。

 しかし,2000年代以降,こうした施設は整理統合・縮小の対象となった。例えば,2001年8月 31日,健保保養施設「日立室積荘」は営業を終了し,2013年5月31日,「宮前クラブ」も閉鎖され ている。

(3)病院

 日立病院は1941年10月,工場に隣接して診療所を新築したことが設立のきっかけとなった。こ の診療所は手狭だったことから,1944年に日立笠戸病院を建設開始し,1946年5月に竣工した。

1947年5月,一般市民の診療にも応じ,健康保険医,優生保護医,労災保険医の指定を受け,地 域社会の病院となった。1956年には結核病棟を建設,1957年1月には,健保組合専用病棟を完成さ せた。1958年5月には現場診療所が建てられ,1960年には給食施設も改築された。1964年4月に 新病院となり,以降49年にわたり,笠戸工場をふくめ,管町地域の病院として運営された。

 こうした歴史ある日立笠戸病院であったが,2013年4月1日,医療法人緑山会に事業譲渡し,

医療法人緑山会下松中央病院に名称も変更され,日立の経営から離れることとなった。

(4)小括

 以上を俯瞰すると,いわゆるハードな福利厚生施策については,戦後の大きな労働争議以降,す なわち1950年代の後半から,その整備が徐々に進められてきたことがわかった。これらは,協調 的労使関係の帰結として,同時期に漸次的に建造されたものであった。そしてこうした施設は,先 行研究が示すように,1990年代の大規模な組織再編をひとつの契機として,大きく整理縮小,な

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いしは外部化されていることがわかる。

 なお,補足となるが,こうしたハードな福利厚生施策は,戦後,関連会社への外注が一般化して いった。日立製作所では,茨城地区の工場については,日立土地(後の日立木材,日立ライフ)が この案件を受注しており,神奈川工場やソフトウェア工場,小田原工場,戸塚工場といった京浜地 区の事業所については,主に「京浜商事」が福利厚生サーヴィスを受注・提供していた。なお,本 社については「中央商事」がこれを受注・提供しており,主にこの3つの企業が日立製作所全体の 福利厚生サーヴィスを請け負っていた。なお,こうした業者への外注以前は,各事業所が中心とな ってこれを実施していた。

 笠戸工場における福利厚生サーヴィスは,戦後すぐに厚生課(のちに庶務課に統合)を主体に食 堂・売店・寮管理を直営していたが,1976年7月にこれらの厚生業務を「京浜商事」の流れをく む「日立京浜商事」へ移管した。上述のように「日立京浜商事」は1966年1月に設立された日立 グループの会社を対象とした福利厚生運営会社であり,京浜地区において業務を行なっていたが,

西部地区への業務拡張の一環として笠戸事業所を開設した。その後,同社は1984年に「日立京商」

となり,構内郵便業務,切手手配業務,緑化業務等々,業務を拡張し,2000年10月に「株式会社 日共クリエイト」と商号を変更した。2010年6月には,同じく日立グループの福利厚生サーヴィ スを展開していた日立ライフフード部門と「中央商事フードサーヴィス」を統合し,フードサーヴ ィス事業を拡大し,2018年には日清医療食品株式会社の100%子会社となり,現在は日立グループ からは離れている13

4−2.ソフトなサーヴィスについて

 では一方で,人的ネットワーク形成にも関わる「ソフトな」福利厚生施策としては,いかなる特 徴がみられるだろうか。まずは,こうしたソフトなサーヴィスの変遷,特に,それらが実際いつ執 り行われたのかについて,現在手元にある史料(1953年から2019年10月までの工場新聞『日立笠 戸』および後続の『Kasado』,および2つの工場史)から概観してみよう。表3は,大運動会,夏 祭り,日立会主催課対抗行事といった福利厚生施策群を時系列で並べたものである。これを見ると,

以下のことが明らかとなる。

(1)大運動会

 笠戸工場の大運動会は,戦後1951年以降,1995年まではほぼ毎年開催されている。手持ちの資 料から開催されていたかどうかの確認がとれないのは,1952年,1954年,1968年,1971年,1985年,

1988年,1991年である。発見事実として興味深いのは,第一に,1996年から2007年にかけての12 年間,大運動会は実施されていなかったということ,そして第二に,2008年以降再び実施され,

13 日立製作所笠戸工場年史編纂分科会(1996)『七十五年の思い出―母なる海よ周南の―』,pp142-144,

および日京クリエイトホームページ:http://www.nikkyo-create.co.jp/company/history,(2019.01.05閲 覧)

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現在通算で50回開催されているということである。

 関係者からの説明によれば,まず,第一の点についてであるが,この期間は意図的に大運動会を 開催していなかったとのことである。また,2017年~2019年の3年間について,実際には運動会 は開催されていないものの,企画自体は「継続的に開催する方針に則って毎年準備を行っている」

ということで,職場間の交流を活性化することに加え,従業員の家族や地域住民にも開かれたイベ ントとして,引き続き盛況であるようである。なお,1996年から2007年までの空白期間について,

『日立笠戸』4月号(2016年3月8日)の座談会記事に「久々に開催された運動会の定期的な実施 をぜひ復活すべきだ」との所員の意見が述べられていたことからも,この催しがもつ組織内での意 義というものが,多くの従業員に共有されていることがうかがわれる。

(2)日立会主催の職域対抗行事

 同様に興味深いのは,「日立会」が主催する「職域対抗行事」である。「日立会」は,戦前の労使 対策として設立され,また戦時期には産業報国会として再編された「下松温交会」が源流である。

これは,全従業員がもれなく参加し,それぞれの級に応じた会費を納入するかたちとなっており,

その活動は共済,運動娯楽,庶務の3部によって運営されていた。その活動内容は福利厚生と労使 間の意思疎通機会とを合わせたようなもので,戦後,日立労組を中心とした企業別組合型の労使関 係の構築以降は「下松日立会」となり,工場従業員の慰安,娯楽,体育に関する団体として,社内 レクリエーションをはじめ様々な行事を企画・主催している組織である14。現在は,工場と労組の 協議による中間団体という位置づけとなっている。

 実は,(1)の主催団体もこの日立会なのであるが,日立会の数ある催しのなかでも,この職域対 抗行事は,オセロやパンポン,ボウリング,駅伝,輪投げ,ディスクドッジ,バドミントン,イン ディアカ等の競技会に加え,地域自治体主催の盆踊りへの動員人数等,多岐にわたる課ごとの競技 活動とその成績を一年間で積算合計し,その総合獲得ポイントを競い合うというものである(競技 は各年ごとに変更される場合がある)。

 笠戸工場における,こうした日立会主催の職域対抗行事は,1953年の工場新聞『日立笠戸』の 創刊から1997年に至るまで記事を確認することができる。ところがそれ以降の2008年までの間,

この行事の成績を集計して紙面で公表する「表彰」にかんする記事を確認することができない。関 係者によれば,この間,スポーツ系の大会はほぼ実施していないということである15。ただ,2008

14 笠戸工場は日立製作所に吸収される以前から争議を経験していた。合併後の6年後,約2ヶ月にわたる 争議を経験し,これ以降,日立笠戸温交会を結成し,終戦までこれが継続した。しかし戦後になると,労 働基準法の制定等を考慮に入れた結果,笠戸労組を結成。日立総連合の指令のもと,工場側と紛争状態と なる。全社的な整理解雇施策のもとで853名の解雇を実施して以降は,協調的労使関係となったとされる。

また,戦前の温交会と同様の性質の団体として,下松日立会が設置された(日立製作所笠戸工場史編纂委 員会 1975, pp215-216)。

15 笠戸事業所総務部部長代理,浜安崇氏からのご指摘による。

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年以降,この日立会の活動は再び活発化しており,1997年以降みられなくなった「表彰」にかん する記事は,現在も確認できる。

(3)夏祭り・家族工場見学会

 こうしたレクリエーション活動のなかでも,1996年から2007年までの大運動会休止期間中も継 続していたものとして,夏期に実施される夏祭り(サマーフェスティバル)および家族工場見学会 がある。この催しの直接の契機と思われるものは,1964年4月号に記載された,日立会総会の議 決内容である。この年の日立会総会では,工場勤務の時短実施を背景とした従業員の余暇生活への 配慮の一環として,職場レクリエーションの充実化・活性化のための方策を練ることが決議されて いる。あわせて,これまでの日立会の催しを「地味であった」と反省し,従業員全体で楽しめる催 し物へと発展させていくことが決議されている。さらに,工場新聞『日立笠戸』と連携して,こう した取り組みの周知徹底に取り組むことが申し合わされている。

 実際,表2をみると,この年以降,所内はもちろんのこと,広く地域に開かれた催しとして,

1966年から1978年までは,「日立会文化祭」が開催されている。1973年からは,これに夏季の納涼 盆踊り大会が加わり,1979年以降,日立会文化祭は催されなくなったものの,納涼盆踊り大会は 存続し,1986年に納涼カラオケ大会に装いを新たにすると,1989年までこれが存続する。1990年 以降は納涼夏祭りとなり,翌1991年以降はサマーフェスティバルと称して1997年まで開催が継続 した。また,この催しは1998年(表中に記載はあるが開催されなかった可能性あり),1999年,

2008年~2010年を除いて,2014年まで継続して実施してきたが,2014年以降は実施されていない ようである。

 2014年以降は,所内従業員向けの「納涼ビアガーデン」が,今日に至るまで継続して実施され ている。また,家族工場見学会も1986年,1988年,1990年,1992年,2006年,2011年,2014年,

2018年と断続的にではあるが実施され続けている。

4−3.既存の福利厚生サーヴィスへの参加主体の多様化とその対処

 最後に,企業コミュニティが直面する今日的課題として,事業所内に「外部」を抱えるような施 策を展開していくうえで,いかなる対処を行なっているのかという点について,若干の検討を行う。

 笠戸事業所では,2015年ごろからフィリピン人技能実習生を受け入れているが,企業コミュニ ティ向けの福利厚生施策を,これらの技能実習生にも関連づけようとする取り組みがなされている。

例えば,『Kasado』2016年1月号には,『末光地区クリーン作戦実施』という見出しが付された記 事で,技能実習生たちが居住する末光社宅周辺の道路や切戸川周辺の清掃を,地域貢献活動の一環 として行なったことが報じられている。この清掃活動は,所内で長年実施している地域貢献活動が 源流にある。このような地域清掃活動にフィリピン人技能実習生が参加したという記事は,2018 年7月号および4月号,2019年7月号にも確認されている。

 また,『Kasado』2016年1月号では,『フィリピン人実習生交流親睦スポーツ大会開催』という

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記事がある。笠戸事業所構内の体育館で「フィリピン人実習生交流親睦スポーツ大会」を開催した との内容で,「実習生,笠戸グループ関係者の親睦促進などを目的とし,各職場関係者を含め100 人を超える」人員が参加し,フィリピンでさかんなバスケットボールをチーム対抗で行なったほか,

日立製作所の伝統的スポーツである「ぱんぽん」の講習・体験も行われたことが報じられている。

この取り組みは,翌2017年にも行われており,「各職場関係者を含め250人を超える」人員が参加し,

職場別の10チームがバスケットボールのリーグ戦を行なったという(『Kasado』2017年4月号 No.716)。

 さらに,『Kasado』2016年4月号では,フィリピン人技能実習生受入機関から講師を迎えて,「フ ィリピン人技能実習生について」の講演会が行われたことが報じられている。この講演会には,

「フィリピン人実習生の受入部署の管理監督者を中心に83名」が聴講し,「①外国人技能実習制度,

②フィリピン文化,③技能実習生の私生活やトラブル事例等の理解」を深めたという(『Kasado』

2016年4月号 No.712)。

 これらのことから,外国人技能実習生を「受け入れる」側であった笠戸事業所は,フィリピン人 技能実習生に対しても,「地域清掃活動」や「レクリエーション行事」,講習会による「理解」とい った,過去からの制度・慣習,人的コミュニケーション構築の技法を用いて,これに対処しようと 試みていたことがうかがわれる。

おわりに

 以上,本稿では,日立製作所笠戸事業所において企業コミュニティを下支えする福利厚生施策群 としていかなるものがあり,またその通時的な変化はいかなるものであったのかを,工場の沿革を なぞるとともに,工場新聞『日立笠戸』およびその後継誌である『Kasado』,工場史『笠戸工場史』

(50年史)および工場史『七十五年の思い出―母なる海よ周南の―』(75年史)といった限られた 資料から観察してきた。以下,簡単に本稿の内容を振り返り,本稿の到達点と発見事実とを確認す る。

 改めて本稿が前提とする問いを振り返ると,第一に,企業コミュニティを存続させた労務管理以 外の仕組みとして,どのようなものがあったのかということと,第二に,それが2000年代以降,

どう変化したのかという2点であった。

1.本稿の到達点と発見事実

 まず本稿では,笠戸工場の沿革を,工場史を中心に紐解くことで辿った。日立製作所笠戸工場

(1999年以降,笠戸事業所)は戦後,車両製作事業を中心に,主に海外への輸出製品の製作も含め,

事業活動を行ってきたが,特に1970年代以降,受注の減少や円高の進行,そして国鉄民営化前夜 における極端な受注抑制等に翻弄され,その工場経営は困難を極めた。しかし,その後JRの民営 化が進展し,新規設備投資が活発になったことを受けて大幅な受注増を経験し,1990年代におけ

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るデフレ経済化においても,堅調な工場経営を実現していた。また,2000年代になると,海外案 件の受注を増加させていき,大幅な日立製作所自体のグローバル組織再編のなかで,鉄道事業の重 要性が共有されるに至り,現在は欧州を中心にM&A等を通じて事業拡大した鉄道ビジネスユニッ トの日本の拠点の一つとしての位置づけで,国内外の受注を取り付けている。

 本稿の問いの一つ目に関してだが,日立製作所笠戸工場においては,1990年代中盤までは,ハ ード面,ソフト面ともに,日立における企業コミュニティを下支えすべく,①社宅・寮,レクリエ ーション厚生施設,病院といった施設の充実化や,②日立会による課対抗行事,③運動会・工場開 放イベント・夏まつりなどが実施されていた。

 日立製作所の変革期(1990年代後半~2000年代初頭)になると,社内の組織変更が頻繁に実施 され,笠戸事業所自体は必ずしも業績が他の事業所に比べて著しく悪かったわけではなかったもの の,全社的な動向に配慮して,②と③が衰退し,また従業員のニーズの多様化を受けて,①の充実 度についても,特に寮や社宅の整理や病院の外部化など,大きな見直しが行われた。この意味で,

本稿の検討を通じて,先行研究が示すように,企業コミュニティを下支えする福利厚生施策の多く が1990年代後半から2000年代に大きな転換期を迎え,それが確かに任意の事業所においても実践 されたことが,改めて確認された。そのなかで,全社的な枠組みで展開された持ち家推進施策や 寮・社宅の縮小・外部化,病院の外部化などは,笠戸事業所におけるハード面の福利施策にも不可 逆的な変化をもたらしたといえよう。

 一方で,工場(事業所)の組織再編は,確かに1990年代の後半以降頻繁に行われるようになっ たものの,笠戸工場においては,笠戸エリア内で分社化こそ起こったものの,操業当初から継続し てきた車両製作事業は,好調な業績を背景に存続しており,従業員の規模も,高卒従業員でさえ,

表立った減少はみられない。さらにその大半は山口県内からの採用に依拠しており,グローバル化 による大規模な従業員属性の変化が起こっているわけでもない。これらのことから,本稿の問いの 二つめに関して,企業コミュニティの変化をめぐっては,少なくとも成員という観点からすれば,

ラディカルな変化を認めることは難しい。

 なお,こうした変化/存続といった判断をめぐっては,本稿の作業の結果,いくつかの新たな発 見事実もあった。しばしば企業コミュニティを下支えする様々な福利厚生サービスについて例証さ れることの多かった②と③であるが,これは日立製作所の組織再編期には休止されており,その休 止期間は10年に及んだ。しかしその後2008年以降,その活動は復活の兆しを見せている。Inagami

& Whittaker(2005)が指摘しているように,企業コミュニティはそう簡単に崩れるものではない。

むしろ,変化・消失したように見えた様々な施策も,何かしらのきっかけで過去の形に回帰するこ とすらあり得るということを,この事例は示しているといえる。

2.今後の課題

 これまでの企業コミュニティや日本的経営を取り扱った研究群がすでに取り組んできたように,

内部人材の活用という意味での「従業員の企業コミュニティへの包摂施策」も,あるいは「外部労

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働人材の利用」も,基本的には経済合理的な動機と組織のガバナンスの特性や文脈との兼ね合いの なかで,具体的な実践活動に落とし込まれている。

 しかし,本稿で事例として紹介した,「一旦,組織的文脈の中で経済合理性がないと判断されて 取りやめられたはずの施策が再び定式化する現象」や,「本来包摂の対象とされてこなかった外部 の対象にも,包摂のための施策が一部展開される」という,一見不合理にも見える現象が生起する メカニズムについて,本稿は十分な検討・考察に至っていない。これは,外国人技能実習生という,

明らかに企業コミュニティの外部の存在を,“名”目的にではあれ既存の方法を用いて包摂しよう と試みている実態についても同様である。残された紙幅でこの壮大な問いに挑むには無理があるう えに,本稿の趣旨とも解離していることから,この問いについては今後の課題としていきたい。

 また,企業コミュニティを下支えする人的交流を促す施策は,福利厚生施策によるもののみには とどまらない。例えば,小集団活動や企業内教育,学卒者の寮における集団生活,または消防団と いう防災組織に至るまで,企業コミュニティの成員としてのアイデンティティや人的関係構築に関 与しうる施策は,数多く日立製作所内に存在しており,その多くが,いまだ十分に検討されている とは言い難い。こういった,準公式的な集団活動に関する歴史研究の深耕についても,あわせて今 後の課題としたい。

参考文献

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T. Inagami & D. H. Whittaker, 2005, The New Community Firm, Cambridge University Press.

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松島静雄,1951,「高山労働者の営む生活共同体としての友子」『労働社会学序説』,209-395頁,福村出版。

(22)

光冨眞哉,2018,「デジタル技術を駆使した鉄道システムを世界へ―人と環境に優しいモビリティサービ スの中核として」『日立評論』,vol.100, No.05, 472-473, 9頁。

インタビュー調査

2019年10月8日 役重道明氏(元日立製作所総務部長)

2019年10月8日 三浦淳事業所長,山口仁総務部長,浜安崇総務部部長代理 2019年10月28日 奥村貞雄氏(元日立製作所笠戸工場工場長)

参照

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