〔 研究報 告 2〕
溜池 をめ ぐる近世都市論
一弘前 と南溜池 ‑
弘前大学 長谷川成一
は じめに
ただいま紹介 され ま した長谷 川で ございます。
私 の報 告の題 名が 「 溜池 をめ ぐる近 世都市論」 、副題 として 「 弘前 と 南溜池」 とい うこ とでご報告致 します。時間 がない よ うですので、な る べ く時間内において、 この後のご報 告にご迷惑をおかけ しない よ うにお 話を申上げます。
先程第 1 の研究報告 にお きま して榎森進先生か ら、 中世の末か ら幕藩 体制の崩壊期 に至 る北海道 ・蝦夷地 を中心 とした、津軽 ・弘前 との関わ りを ドラステ ィックに論 じていただいたわけであ ります。私の報告は、
榎森先生 とは対照的 に、弘前の内側 か らもしくは弘前の南溜池 とい う溜 池を通 じて弘前の近世都市像 といいま しょうか、都市民衆 の動向、藩政 の動向 との関わ りについて とりあげてみたい と思 います。
1 、弘前城下の建設 と南溜池の成立
ご承知 の通 り、弘前 にお ける南溜池 とは 、1 8 世紀後半の弘前城 下絵 図
( 本報告 の末 に掲載 したので参照 され たい) をご覧いただ きたい と思 う
のですが、ち ょうど城 下の絵 図の真 申あた りといいま しょうか、南溜池 と書いてあ ります部分ですね、そこに位置 します。方位か らい うと城下 の南側 に当た るのですが、 この南溜池を中心 としてお話を申上げます0 南溜池は、新寺町が慶安 3 年 ( 1 65 0) に町立て され る以前には、弘前 の南の堺、南の端 に該 当 したのです。現在南溜池 とい うのは、最近町名 がつけ られ た 「 南塘町」の町域 にほぼ該当す るのです。明治維新後、明 治 1 1 年 ( 1 8 78 ) 5 月に溜池の中での開墾 が進め られていった結果、和徳 小学校な どの 「 学 田」 として貸与 され ることにな りました。また牧場が 設け られ た り、溜池 としての性格を喪失 して しまった といいましょうか、
現在では弘前大学医学部付属病院並びにグラン ド、それか ら住宅地 とし て存在 してお ります。藩政時代における南溜池の跡地 もしくは痕跡 とし ては、東側 の土塁 がわずか に残 ってお りまして、現在 国史跡 ・津軽氏城 跡の一つ として残存 し整備事業が進行中です。
「 平 山日記」や 「 津軽一統志」 に よります と、南溜池の建設並び に成 立は、慶長 1 7 年 ( 1 61 2 ) と同 1 9 年の両説があ ります。いずれ にせ よ、 こ れは津軽藩 2 代藩 主津軽信枚の時期、慶長 1 5 年に弘前城 の建設、それ に ともな う城 下の建 設、その間の津軽氏における城 下建設プランに基づい て、南溜池が建設 され たのは、まず間違いないであろ うと考え られ ます。
この城下建設プランにお きましては、慶長年間にまだ豊 臣氏が大坂 に勢 力を保持 してい ます し、大坂の陣の前で もあ ります こ とか ら、やは り軍 事的緊張 を無視 しえないだ ろ うと考え られ ますので、そこにおいておそ らく城下を防衛す る南側 の軍事施設 として、 この溜池の建設が実施 され たのは間違いないのではないで しょ うか。 これは完全 に人工的な溜池 と しての土木工事 を施 した もので して、そ こに見え る性格はまさに軍事施 設その もの とい うことで、その ような設置の意義 がまず第一義 として考 えられてい るのだ ろ うと思われ るのです。
後年の編纂史料であ る 「 鹿内家記
」の中に、公家の花 山院忠長が勅勘
をこ うむ って、蝦夷力島ついで津軽地方 に配流 された ときに、南溜池の 水面 に映 る景観 を非常に愛でた とい うことで、
池ニ ウツル岩木 ヲ不二 ノ姿ニテ眺 メハ庭 ノ三保 ノ松原
い う歌 を詠んでいます。 しか しこれは何 も初めか ら景勝の地に しよ うと 意図 して、津軽藩 が南溜池 を建設 したわけではあ りませんOある意味で は城下建設の副産物であった と思 うのですが、これは後の南溜池の持つ 多面的な性格 の形成 に大 きな役割を果た したのであ り、結果 として南溜 池に認め られ る機能 の一つ を形成す る契機になったのだろ うと思われ ま す。一応商溜池の建設 と目的 ・位置付 けなど、建設当初における性格 と い うものについて、確認 してお きたい と考えた次第です。
2 、新寺町の成立 と南溜池の機 能の変化
次に新寺町 の成 立 と南溜池の機能 の変化 とい うことですが、 「 津軽編 覧 日記」慶安 3
年2月の記事 に よります と、建設当初の弘前が大 きな変 容 を余儀 な くされ、都市プ ランに大幅な変更 を強制 されたのは、慶安 2
年 (
1 6 49)の寺町大火 によってです。現在の元寺町は、もとは寺町 とい
って寺院街があったのです。 この寺町大火に よって寺院街が弘前の両側
に移転 して、新寺町が成立す ることになるのです。 「 津軽編覧 日記」の
当該記事 の後半部分 の ところに よります と、 「 寺院之儀御城北之方春 日
之辺二御沙汰 も有之候処、毎度南大風強、御城下へ当候二付、風防材木
仕立候ハ ヽ可然旨ニテ、南 二新寺町地割被仰付侯」 と書いています。 こ
の記述 に よれば、新寺町の建設ない し新設は城下 を外敵か ら防御す る冒
的ではな く、弘前 とい う都市 を南か らの大風 よ り守ることに、すなわち
新寺町 に防風林 の役 目を果たす よ うに期待 している。強風か ら城下を守
るこ と、 これ は換言すればただ単に風 当た りが強い とい うことだけでな
く、おそ らく火災 を防 ぐ目的があったのではないか。 といいますのは、
慶 安
2 年 の寺町大火が強風 に煽 られて、いわゆる大火 にな って しまった とい うこ とにな っていますので、その よ うな反省 にた って都市プ ランに おける防火体 制強化の意味 もあ ったのではないか。例 えば、江戸におけ る明暦 3 年 ( 1 6 5 7)の大火後、幕府 は火除地 とい うものを江戸 に数多 く 設置す るわけで して、その よ うな都市プ ランの変更 に ともなって、軍辛 施設 としての性格 を南溜池 と新寺町一帯が脱却 して、都市 を災害か ら守 る とい う機能 とい いま しょうか、それ に南溜池 の南側 に設置 された新寺 町が位置付 け られ たのではないか、 と考え られ るのです。例 えば、江戸 の大火の 7 0% は北西の卓越風 に よって助長 された ものであ り、それ は現 在で も同様 である ことが指摘 されてお り、火災 と大風 の問題 は 当時の都 市 としては深刻な問題 であ ったのです ( 菊池万雄 編 『近世都市の社 会史』
名著 出版
1 98 7 年)。
また現在
、ー先ほ ど申しました商溜池の史跡 が残存 してお ります 中に、
「 最勝院構 」 と記 した木材 の立札が立 っていますが、実は史跡 名称 とし て 「 最勝 院構」は正確 ではあ りませ ん。改めて申す まで もない ことであ りますが、最勝院 は明治維 新後、神仏分離の過程 において現在の地 に弘 前八幡宮 の場所 ( 現八幡町)か ら移転 してきたのです。正 しくは 「 国 日 記」寛文 1 2 年 ( 1 6 7 2 ) 7 月 4 日の条 に 「 新寺構」 とい う文言があること に よって、 この新寺町一帯 の区域は 「 新寺構」 と、当時呼ばれ ていたこ とが判明 したのです。 これ は 「 国 日記」寛文 1 2 年 の前述 の記事 のみでは あ りませ んで、そのほかに も弘前大学付属 図書館 に所蔵 され ています弘 前八幡宮 の社務 日記 に収録 している寛保 4 年 ( 1 7 4 4 ) 7 月 1 8 日の 目付廻 状 に 「 新寺構相触 可申候事」 と、 「 新寺構」 の文言があ ります ので、幕 藩体 制を通 じて 「 新寺構」 の名称 は存続 し活用 されているのです。
「 構」 とい う文言です けれ ども、 これは昨 日、玉井先生が基 調講演の
なかで も申しました よ うに、我 々弘前にお ります と、 「 長勝寺構」 など
軍事 的施 設 としてのイ メー ジが非常に強す ぎ るこ ともあ りまして、 「 構 」
とい う文言の中にかな り思 い込み と思い入れがあ るのではないか と考え るのです。 この 「 構」 とい う言葉 自体の字義 には、例 えば 『日本国語大
辞典』
(小 学 館刊)のなかには、構 とい うのは、砦 とい う意味 もあ るが、
その他邸宅、家屋敷、それ を囲む一角の意味 とい うの もある、 と見えま して、先程の 「 津軽編 覧 日記」の当該条に見 える ように、軍事施 設、砦 としての性格 とい うよ うな意味の ものか らは、脱却いた しまして、 「 新 寺構」は軍事的な色彩 といいましょうか、そ うい うものではな く、む し ろ新 しく建 て られ た寺々を囲む一角が存在す る地帯、いわゆる新寺院の 集合 した地域であ ると考え るのが、妥 当ではないか と思われます。若千 横道 にそれ ま したけれ ども、新寺町 の成立 とい うことは、その よ うな梶 点ない し視野か ら考え られ るのかな、 とい う気が致 します。
先程 も若干触れ ましたが、南溜池は成立当初、いわゆる弘前城下の逮 設当初にはま さに軍事的な色彩の強い施設であ って、それは都市プ ラン の中における軍事施 設 としての側面 を否定で きない ところです。 しか し 以上 にみえるような、災害 を契機 とす る都市プ ランの変更 とい う趨勢の なか において、その性格が変化 して くるであ ろ うことは間違いない とこ ろです。 「 国 日記」享保 1 5 年 ( 1 7 3 0 )9 月 2 2 日の条の記事内容 に、非常 にお もしろい文言が認められ るのです。 この記事 を要約致 します と、そ れは元禄 9 年 ( 1 6 96 ) 、 4 代藩 主津軽信政が商溜池の付近 を回 って歩 い た後、重 臣達 に対 してつぎの よ うな話を した とい うところです。この条 に、
南溜池之儀何 と相心得罷有候故、以之外干水致せ大橋 よ り上二牛局 繋置候、右溜池は我等慰所 こも無之候、又用水之為こ も不 申付候、
高源院様思召被遊御座 、殊外被添御意御取立被仰付候所、皆か 目に 相見江不 申侯哉‑ ( 中略)‑・ 依之末永能持候様 二急度取立可申旨被 仰付侯由、
とあ ります。 ここにみ える 「 高源院様」 とは、先程触れ ました 2 代藩主
津軽信枚 の こ とです。藩主信枚 が特別の思 し召 しをもって、この南溜池 を設置 したのだ とい うことで して、その趣 旨については具体的 に申し述 べた箇所 が見 当た りません。それを明確 にせず に、現在の状態は建 設当 初の意図に反 してい る とい う前提で問題 点が述べ られ てい るのです。す なわち元禄 9 年の実態 と建設当初の原則が如何 に帝離 しているか とい う ことを、 この史料 は強調 してい るのです。 「 我等慰所」 ‑この我等 とい うのは 4 代藩主津軽信政の ことであ りま して ‑、つ ま り現在の南溜池の 実態は、いわゆる 自分 の憩 いの場所 ( 憩 いの場所 とは、 さまざまな意味 があ るで しょ うが、景勝の地 として、非 常に心が慰め られ るところであ るとい うことにします)、それ を楽 しむ ところ として考え られ てい るが、
現在の状 況は本質的には違 うのだ とい ってお ります。
それか ら、 も う一つは用水です。濯概用水 の確保のためにこの溜池は 必要であ る、 とい うよ りは必要 とされて現在 に至 っている とい うこ とで、
それ も本 来の 目的 なのではないのだ とい うこ とです。 ここにおいて、本 来的には高源院様 、す なわ ち 2 代藩主津軽信枚 が造 ったその意志に沿 う
よ うに とい うことで‑それは南溜池が水 を湛 えてい ることですが‑、恐 らく津軽信枚 の意志は こ うだ ったんだ とい うことを、先ほ ど申しました ようにここにおいてハ ツキ リと書いてお りませんので、 これは何 とも推 測にすぎないのですが、水 が湛え られている よ うに とい うことが必要な のだ とい ってお ります。そのこ とは、慰所 で もなければ、用水 のためで もない、すなわち ここでは堀の役割 を、先ほ ど 「1、弘前城下の建設 と 商溜池の成立」で も申 しま した ように、いわゆる軍事施設 としての堀 と しての役割をすべ きなのだ、 と藩主は考えたのであ りましょうか。 しか し元禄 9 年の実態 はそ うではない とい うことです。 とい うことは、現実 の実態 と当初の軍事施設 としての溜池の機能 が、帝離 している とい うこ
とを津軽藩はそ うい う意味で完全に認めていたわ けです。
1 7 世紀 の末 に至 って、南溜池は この よ うな建設 当初か らの機能の変化
が現実の問題 として存在 したのです。 「 国 日記」元禄 1 4 年 ( 1 7 0 1 )5 月 9日の条や同天保 3年 ( 1 8 3 2 ) 年 7月朔 日の条、同天保 1 2 年 ( 1 8 4 1 ) 5 月 1 1 日の条に見え る、南溜池内での漁の問題 が浮上 します。 「 国 日記」
元禄 1 4 年 5 月9日の条の場合には南溜池で網 を引かせてみ た。そ うした ら鮒 が大 きいの と中 くらいのが 2 匹 しか獲れなか った とい う話です。
「 国 日記」天保 3 年 7 月朔 日の条に見えます、石川屋伊助が南溜池へ
「 子鯉弐万四千疋余故人候 旨申出候得共、御 出之節御漁被遊候処」 と出 てきます。 この中の 「 御漁」を遊ば されたのは藩 主です。従 って ここに おいては南溜池における、 この よ うな魚の飼育 ・養殖 は、完全 に藩 主御 用のために行 うのだ とい うことです。 「 国 日記」天保 1 2 年 5 月 1 1 日の条 に見えるよ うに、 これ は先ほどの鯉 を放流 したことですけれ ども、それ と関連 して、 ここにおいては町方の者や家中の召使 がそこで釣 りをす る ために、鯉が減 る とい うこと、それは非常に困るのだ と述べているので すO ここにお きま して南溜池は、まさに藩主の 「 御用池」 としての性格 を付与 されているのです。
藩 主の 「 御用池」の側面のほかに、実は文化3年 ( 1 806 )の絵図 ( 弘 前図書館蔵) による と、 「 十三溜池」 とい う別名が南溜池 にはついてい ます。 これは弘前城下の南郊の農村地帯 にあ ります各用水 の溜池 とそれ が接続 してい まして、 この絵図の中に見 えるよ うに濯概用水の施設 とし て商溜池が機能 していたのは明 らかです し、明治 初年の絵図の中には罪 田組 の農業用水 に使用す る とい うこ とが明記 され ています ことか ら、 自 明の こととして当時は認め られ ていたのであろ うと思われ ます。0
1 8 ‑1 9 世紀 にか けての南溜池は、まさに設置当初の軍事施設 としての 色合いを全 く払拭 され、加えて先ほ ど申しました さまざまな機能 といい ましょうか、漕概の機能 もあ り、また慰所 ( 藩主信政 の意識 としては、
あ くまで も藩主の ものであ って、他の人 々の ものではない)、ついで藩
主の 「 御用池」 としての機能が付与 され て くるわけですが、幕藩体 制 も
後期 に入 ります と別の意味 での軍事 的役 割 を、再び担 わ されて くるので す。 これ はまた後 に述べ ることに致 します。
3、近世都 市 弘前 と南溜池
景勝 の地 ・都 市民衆憩 いの地 「 近世都 市弘前 と商溜池」の問題 に入 り ますが、 まず 第‑ に景勝 の地 ・都 市民衆憩 いの地 ・雨 乞祈祷の地 につい て申 し述 べ ます。都市民衆憩いの地 としての南溜池は、 「 国 日記」文化
5 年 ( 1 8 0 8 ) 閏 6 月 2 0 日の条 に見え ます。 また維 新後 ではあ ります が
「 津軽覚 え書
」とい う史料 に ( 実は明治2 9年 に刊行 された 『鷹 ケ丘』 と い う本 に収錬 され た もので、弘前の名勝 を紹介 した ものです) 、南溜池 を表現 して 「 昔鏡湖 の称 あ り、今は水滑れ て 田園 となれ り」 とあ ります。
さらに続 けて、
回意 すれば岩 木 山に接 し、唐金 日暮 の二橋茂森稲荷の茂林遠近 を粧 点 し、五重塔 影微 に鐸 声 を送 り住吉嗣林徐 ろに月を吐 き、万斜 の涼 味人 骨 を爽 な らしむ‑ ( 中略)‑男女群衆其繁 昌云はん方 な し の記述 があ りま して、南溜池 とは この よ うにま さに景勝 の地であ り、か つ 自然 の公 園のご とく近代弘前都市民の憩 いの地 であ る と述べ られ てい ます。 これ は明治維新後 に、 この よ うな景観 に変更 した とい うのではな くて、寛政年間 に弘前‑廻遊 して きた菅江真澄 が 「 つ がろのお く
」の中 に、水 が滑渇 していた とはいえ、大変な景勝 の地 であ るし、 「 花 も盛 な らん頃は わ きて よか りしにや」 とい うくらい、絶賛 した景色が この南潔 池 を中心 とした地域 に展 開 していた とい うこ とです。先ほ ど申 しま した
「 国 日記」享保 1 5 年 ( 1 73 0) 9 月 2 2 日の条 に も見 えま した よ うに、藩主
の慰所 としての南溜池 とい うこ と、すなわち藩 主がその景色 を非常に壁
していた地であ ったのです。 これは幕末 に百川学庵の筆 にな る 「 鏡池香
景之図」 ( 本報告 の末 に同園の写真 を掲載 してあ るので参照 されたい)
な ど南溜池 を題材 とした絵 画が描かれ ている ことか らも、南溜池 を中心 とした地 域の景観 が、 まさに景勝 の地であ った とい うことを証明す るも のであ ろ うと思われ ます。つ ま り藩 主の意識 は別 として、景観 は広域的 な ものですか ら、それ を見 る人 々に よって共 有 され るこ とはい うまで も あ りませ ん。 したが って景観 を独 占す ることは事 実上不可能であ り、 こ の場合 、南溜池一体 の ゾー ン としての景観は、弘前の都市民衆共有 の も の とな ったので した。
南溜池 が景勝 の地 であ り、 また都 市民衆憩 いの地 であ ることは、 これ は先 ほ ど言い ました藩 主の 「 慰所」 「 御用池」 であ る と同時 に、藩 主だ けの独 占の ものではな く、 これ は都市民衆 の憩 いの地 であ るこ とには間 違 いないわけです。例 えば 「 国 日記」文政 5 年 ( 1 8 2 2 )5月2 8 日の条 に みえ ます よ うに、 この南溜池で都市民衆 が雑魚釣 をす る、それか ら 「 近 辺之子供等井 家来共右池二而浴水等いた し」 て溺れ死んで しま う子供 も い る とい うこ とです けれ ども、 その他 「 国 日記」文政 1 3 年 ( 1 8 3 0 )4 月 9 日の条 に見 えます よ うに、 また この近 辺で雑魚 釣 を して くわ え煙 管で もって往来 をす る ものがい る。 同 じく 「 国 日記」天保 1 3 年 1 1 月 2 7 日の条 にあ ります よ うに、 「 大 円寺夜宮之節南溜池土居参候 処、水嚢屋要吉弟 子福次郎」 が大 円寺夜宮の雑踏 のなかにおい て喧嘩 をす る とい うよ うな 記事 があ ります。 また 「 国 日記」文化 5年間 6月2 0日の条 にもあ ります よ うに 「 御家 中召使井町家之者共涼 に罷越」
、. 煙 管を くわえた り、花火 等 を した りとも見 え ます。即 ち近 代にお いてみ られた (「 津軽覚え書
」 )、 ま さに 「自然 の公 園」 としての、 また納涼 の際の雑踏にみ られ る、 こ の よ うな多 くの都 市民衆 、弘前 の人 々がその憩いの地 として訪れ るこの 南溜池は、それが近 代に入 って も藩政 時代の雰 囲気が以前 として存続 し、
人 々が参集す る場所 としてあったのです。例 えば この よ うな都市 におい
て人 々が参集す る場所 、 これは憩いの地 として、景勝 の地 としてその よ
うな ものが当初の都 市プランの中に組み込 まれ ていな くて も、人 口の磨
集す る地域 で ある都市 の中に こ うい うものが次第 に設定 され てい くこと は、 当然 の趨 勢 なのではないで しょ うか。
これ は江 戸 でみ られ る、例 えば 「 盛 り場」や 「 悪所 」の よ うな ところ
‑ 「 悪所 」 は景勝 の地 と違 い ます けれ ども‑これ は後 で玉井先生 のお叱 りを受 け るか もしれ ませんが、 この よ うに人 口が密集 した地帯 にお ける 南溜池 の よ うな機能 を持つ ものが、都市 プ ランのなか に当初か ら組 み込 まれ ていな くて も、平和 の持続す る時代、安定 した政権下にお ける都市 の繁栄 の中にあ っては、 自然 とで きて くる とい うことが弘前 において も 確 認 され るか と思 います。いわゆる都市 の成 熟 に ともな う繁栄 を享受す
る市 民層 が、次第 に増 えて きた ともいえ ま し ょう。
殺生禁止 も うーっ、景勝 の地 、憩 いの地 のほか に 「 国 日記」元禄 1 6年
( 1 7 0 3 ) 2
月3 日 ・同享保 1 9 年 ( 1 7 3 4 ) 3
月7 日 ・同文化 4 年 ( 1 8 0
7)8 月 2 1 日 ・同文化 5
年7 月 1 9 日の条 に見 え ます よ うに、南溜池付近 では 殺生 が禁止 され ていた こ とです。 「 国 日記」元禄 1 6年2 月 3 日の条 に大 円寺溜池 と五十石町古 川におけ る狩猟 の禁止 が見 えるので して、具体的 には鳥取法度 、即 ち同地では 一 一 一 般的 に狩 鳥 を禁止 され 、それで特別 に狩 鳥 を許 可す る鳥札 を出す とい うことです。 この五十石町古 川は現在 の西 濠 を指す のか と思 いますが、 この五十石町古 川の ほ うは別 にいた しまし て、 「 国 日記」享保 1 9 年 3 月 7 日 ・同文 化 4
年8 月 2 1 日 ・同文化 5
年7 月 1 9 日の条 に見え ます よ うに、南溜池で は餅 で雁 や鴫 を とるのは禁止、
それ か ら漁 をす るのは勿論駄 目。 それ は ま さにこの史料 にある よ うに、
ただ単 に禁止す る とい うこ とで はあ りませ ん。城 下の河川全部 で魚 を釣 っては駄 目とか そ うい うこ とではな く ( 例 えば 「 御用格
」寛政本巻 7
「 ‑統御触之部」天 明 4
年6 月 1 3 日の条 に よれば、五穀成就祈祷 の際 に
岩木 川 を始め とす る郡 内の河 川 にお いて 7 月 1 5 日の 1 日のみ 、 漁留や殺
生停 止 が命 じられ てい る。つ ま り他 の 日には殺生 が禁止 され ていなか っ
た こ とを示唆 している)、 これ は例 えばお城 の堀 などで魚 を釣 るのは禁
止です けれ ど も、お城 の堀 は別 に殺生停 止で はない。
こ こにお け る南溜池の場 合の表現 は、 「殺生停 止之処」 、例 えば 「国 日記
」
文化4
年8
月21
日の条の覚のなか にあ ります が 、 「殺生停止之処 甚以不時 二候 間」 と出てまい ります し、 「国 日記」文化5
年7
月1 9
日の 条 にお きま して も近所 の子供 ・召仕 達が魚取 りをす るこ とに対 して、南 溜池 にお いては 「殺生 之儀前 々 よ り停止之処」
なのです。庶民 に とって は 「殺 生停 止之処」 とい うこ とであ りま して、 「殺生 法度」
が南溜池 に おいては庶民 に対 して適用 され るのだ、 と主張 してい るの です。 しか し 藩 主は 「御用池」
であ る ところの南溜池 にお いて、漁 をす る。 ま さに身 分 に よって殺生法度 の適用が区別 され る、 とい う対 比が鮮 明にみ られ た のです。殺生 法度 な どの側面か らも、弘前 にお け る都市民衆 の南溜池 、 また南溜池 を中心 とした地域 にお け る さまざまな活動 に、管理 の手 が延 び る こ とにな ったので した。雨乞 い祈祷 殺生 法度即 ち殺生 の禁止 が施行 され た商溜池は、弘前 にお ける雨乞 い祈祷 が実施 され る地 で もあったのです。弘前 におけ る雨乞い 祈祷 を行 うのは大行 院 と大 円寺であ りま して、津軽領 内全体 をおお う雨 乞い祈祷 は、藩命 に よって弘前八幡宮の社家頭 が四社 (浪 岡賀茂明神、
長浜 広瀬官 、 田野沢龍 田大明神、野内貴船 大明神) を回 って行 うもので あ りま して、近 世都市 弘前 にお ける雨乞 い祈祷 とは、 ど うも四社 の それ とは関係 がない よ うであ ります。つ ま り津軽領 内全体 の雨乞い祈祷 と、
弘前 にお ける雨乞い祈祷 とは性格が異な る よ うです (拙稿 「近 世北奥大 名 と寺社
」
尾藤正英 先生還暦記念会編 『日本近世 史論叢』 上巻 吉 川弘
文館 1 98 4
年).
南溜池 を媒 介 として弘前の雨 乞い祈祷 が大 円寺 と大行院 において行 わ れ る とい うこ とで して、 「国 日記」享保
1 0
年 (1 7 2 5 )6
月1 0
日 ・同同年 同月1 1
日 ・同延 享元年( 1 7 4 4) 5
月5
日の条 に見 えます よ うに、 白狐 寺 の境 内に壇場 をつ くって、それ を南溜池 に張 り出 して祈祷 を行 うので した。 ところで弘前 にお ける渇水 です けれ ども、 「国 日記」 享保
1 0
年6 月 1 7日の条 に 「弘前町 中所 々井之水 無御座 」 との記述 か ら次 の こ とが分か ります。つ ま り弘前城 下におい ては各家 の水 の供給 が、上水道 ではな く 井戸 で もって行 われ ていた、 とい うこ とです 。 その井戸の水 が枯れ る と い うこ とが、雨乞い祈祷 にいた る引き金 にな ります 。 そ して この雨乞い 祈祷 は、何度 か行 われ るのです けれ ども、町 中総 出で南溜池へ押 し掛 け て思 い思 いに祈祷 を行 う。 その際 には町 々か ら灯龍 を出 し、そ して弘前 の民衆 が雨乞いのため に太鼓 を曝 し、それか ら神 明獅 子舞 をお こない、
大勢 の見物者 と演技者 が雨乞い祈祷 に参集す るこ とに よって南溜池一帯 は大 変な賑 わ い にな ります (「平 山 日記」 ・ 「永禄 日記」 等)。 ま さに これ は、都市民衆 のエネル ギー の一種 の爆発 ではないで し ょうか。余 り に も大勢 の民衆 が押 し寄せ て、死者 まで 出た とい うこ とが史料 に出て参
ります (同前)0
さきほ ど、滝本 寿 史氏 に確認致 しま したが、近 世弘前 においては都市 騒擾 、即 ち 「打 ち こわ し」 が確 認 され ていない、都市騒擾 が江 戸 の よ う な 「打 ち こわ し」へ発展す る よ うな、また県 内にお きま しては、青森 ・ 鯵 ヶ沢 におい て起 きま した よ うな 「打 ちこわ し」 の発生 が確 認 され てい ない都 市 です (滝本寿 史 「宝暦 ・天明期 津軽藩農村 の諸問題
」
『弘前大 学国 史研 究』 第7 1
号1 9 8 0
年) 。 したが って都市民衆 の さまざまなエネ ルギーが どの よ うな形 で発 散 され るのか といい ます と、い ま申 し上 げま した形 で弘前 にお ける都市民衆 のエネル ギー は、爆発 す る部分 があ った ので はないか 、 とも考 え られ るのです。塵 芥捨 て場所 、身投 げ地 南溜池 のい ま申 しま した よ うな性格 を踏 まえ て、近 世後期 にお け る都市 の各問題 に入 りたい と思い ます。南溜池 に塵 芥 ‑ち りあ くたの類 い を捨 て るな とい う法度 が最 初 に出 され ます のは、
「国 日記」宝 永
3
年( 1 7 0 6 )1 1
月9
日の条 に見え る ところであ り、1 7
世 紀初頭 です。 これ は恐 らく南溜池 の美観 を損 な うとか、そ うい う理 由からではな く、 さまざまな溜池の諸施設、水門、それか ら樋 ‑これはゴ ミ が放水路‑流れない よ うに防 ぐものです ‑を保守す る とい う観点か ら打 ち出 され た ものです。 また現在 に残 る土手は当時 「 羽 口」 といいました けれ ども、ゴ ミが土手に当たることに よって土手が痛み、その土手が決 壊致 します と弘前 は水浸 しになるわけですか ら、 これは大変深刻な問題 で した。土手の破壊 とゴ ミに よる色々な危険 を防 ぐため、塵芥 を捨 てる な とい う話ですが、 これは享保期以降次第に近世都市弘前におけるゴ ミ 処理の問題が深刻 になって きた ことを物語 っているのです。その原 因 と しては さまざまな問題 が考え られ るのですが、この時期 における都市人 口の増加 とい うこ とが当然あるのです。 これ については他に書 いた もの ( 長谷川成一編 『津軽近世史料 1 弘前城下史料 上』北方新社 1 98 7 年 解説 ̀ 「 弘前城 下について 」 を参照 されたい)があ りますので、それ をご覧いただ きたい と思い ます。
南溜池 を含んだ弘前における塵捨所の問題 については、まず 1 8 世紀後 半の弘前城下絵図 ( 前述の絵図を参照の こと)をご覧 くだ さい 。1 8 世紀 後半の弘前城 下絵 図のなか に 「 塵捨所」 とい うものを書 き込んでお きま したが、 「 国 日記 」 宝暦 5年 ( 1 75 5 ) 3月朔 日 ・同11 年 4月 7日の条に あ ります 、城 下に設定 された塵捨所 と町の境界 を落 しこんでみたわけで す。 この間題 については色々 と言 うべ きことがいっぱいあるのですが、
時間の関係か ら結論だけ申 します。 この塵捨所の存在 している場所の棉 色だけ申します と∴塵捨所 が設置 されてお. ります場所 とい うのは、町の 外れ、すなわ ち近世都市弘前の外れ の地域、それか ら倖町 と町人町 の間 の境 、それか ら各河原 もしくは溜池の よ うに土手の下 とかですけれ ども、
川欠 けの場所 、い わゆる河原 として未整備の ところ、その ような ところ に塵芥、ゴ ミが投棄 される とい うこ とです。南溜池の土手の下 といいま しょうか、現在の桶屋町の西側 とい うことになるので しょうが、これは
「 国 日記 」 享和 2 年 ( 1 8 0 2 )3 月 4 日の条に見えます よ うに、 「 大 円寺
土手通 り
」が享和 2年の時点においては、投棄場所 として禁 じられ るこ とにな った とい うこ とです。ゴ ミ捨 て場 の変更があったわ けであ りま し て、塵芥投棄 とい うもの、 これ が次第 に弘前の都市問題 として ‑ゴ ミは 捨 てれば次第 に増 えるわけですか ら‑、投棄場所 の問題 が南溜池 もあわ せ て、近 世都市弘前の 中にあって深 刻化 してい ったのです。
商溜池の付近 が、塵芥捨 て場所す なわ ちゴ ミ捨 て場 に指 定 され ていた こと自体 、それか ら 「 国 日記」 貞享 3 年 ( 1 6 8 6) 5 月 5 日の条 な どに見 え る よ うに、南溜池 において身投げが横行 し、それか ら付近 に死体が揺 て られ ます。天明 2 ・3年は天明大飢健 の時ですが、 「 国 日記」天明 3 年 ( 1 78 3)1 0 月 1 9 日の条 にみえ るよ うに、餓死者 の南溜池付近 ‑の投げ 捨 てが横行 しま した。その他の飢健 でない年で も身投げや死体捨て とゴ ミ捨 て、 ゴ ミの投棄 と同様 に死体 も溜池‑投げ捨 て られ る とい うこ とに なるのです。 ここにいわば景勝 の地 、憩 いの地 、宗教 的な場 とい う 「 聖」
の部分 とい うもの と、 さきほ どのゴ ミの問題 、それか ら死体捨 ての問題 、 身投 げの問題 、そ うい うものを 「 聖」 に対 して 「 購」 と呼べ るのか、ち
ょっ と自信 のない ところもあるのですが、一応 この よ うな対比が もしな され る とす るな らば、都市 にお ける 「 聖
」「 嬢」入 り交 じ りの状況が、
かな り典型的 といいま しょ うか、南溜池 において双方 がテ ィピカル に班 て くるのであ ろ うとい うこ とです。
4 、幕藩体制崩壊期の南溜池一北方 問題 との関わ りにおいて‑
それ では最 後の幕藩体制崩壊期 の南溜池 とい うことにつ いて、北方問
題 との関わ りの視点か らお話 を申 しあげ ます。南溜池の改修工事は、藩
政 の成立期 において南溜池 を建 設 した時期 か ら、 当然改修工事 が行われ
てい るのです が、 「 国 日記」元禄 1 0 年 ( 1 6 9 7 ) 7 月 1 2 日の条 な どに よ りま
す と、南溜池の さまざまな改修工事 は弘前の町役 で もって賄われ ている
ことが分か ります。ですか ら、 この町役 、町方 の負担 に よって南溜池の 改修工事 がお こなわれ る とい うことは、南溜池が都市の中にあ るか ら当 然 といえば 当然なのですが、南溜池が近 世都 市のなか に、 まさに都 市プ ランのなか に組み込 まれ た もの、都市の町方 の もの として‑もの として とい うのはあ ま り正確 ではあ りませ んが ‑、町方 がおおいに関わ るもの として存 在 していたのです。 しか し 「 国 日記」文化 3年 (1 8 06 ) 3月11 日の条の記事 に見 ます と、 「 下在用水不足」 を理 由に、町役ではな く
「 郡所米銭」 をもって人夫 の調達 をお こない、郡奉行 の指揮の下に商溜 池の改修工事 が行われ るよ うにな ったのです 。
すなわ ち、 ここにお きま しては濯概用水不足 の補充 を第‑の 目的 とし て把握 され ているのです。南溜池の位置付 け とい うのは、ま さに漕艇用 水の補 いにあ るとい うことで した。 しか し、 これ は北方問題 、 さきほ ど 榎森 先生か らご報告 をいただ きましたが、いわゆる津軽藩 の蝦夷地警備 の問題 が、藩政 に次第 に色濃 くその影 を落 として くる一つ の反映です0
「 国 日記」文化 8 年 ( 1 811 ) 8 月 2 3 日の条に見え るよ うに、 「 商溜池大 矢湯江御 出有之」 、つ ま り藩主が直々に南溜池の大矢場へ 出かけて、家 臣団の弓術稽古 を検 閲す る とい うのです。 その関係の史料 は他 に もあ る のですが ( 例 えば 「 国 日記」文化 8年 8月26日 ・9月1 0日 ・9月24日の 条)、 この時期か ら南溜池付近 の施 設のほ とん どが軍事施 設、すなわち 今 申 しま した 弓術 の訓練 の場 にな ります。それか ら後 にも出て きます け れ ども水練 一水泳 の訓練 の場 にな って くる. とい うことです が、 これ らは 文化年間か ら急速 に実施 に移 され るよ うにな りま した。 これは文化元年 に東蝦夷地 永久警備 を津軽藩が幕府か ら命ぜ られ るこ とに よって、領 内 にお ける藩家 臣団の訓練 が、南溜池の付近 をq jJ Lとして集 中的 に行われ
′
る よ うにな る。 そ して 「 国 日記」文化 3 年 3
月11日の条に見え るよ うに、
とにか く南溜池 の改修 工事 は従来の町方 の負担か ら、郡奉行の指揮下に
入 ります。その方 式が より具体的になるのは 、1 9 世紀 半ばの 「 国 日記」
安政 5 年 ( 1 8 5 8) 7 月 21 日 ・同同年 9 月 1 1日の条 に見 えますが、南溜池 に水練稽古場 を設置す るために土木工事 を実施致 します。 そのためには 南溜池の掘 り上げが必要であ って、 これ は 「 非 常御用柄
」とい う名 目で 国役 高割 で もって、領 内全域、すなわち弘前 だけでな く青森 ・鯵 ヶ沢 そ れか ら在方、領 内全域の負担 を精密 に
割り当てて、それで もって南溜池 の改修工事 が行 ったので した。
ここにみえ る 「 非常御用柄」 の文言 とは、 ま さに蝦 夷地警備 の問題 な のであ り、北方 問題 が南溜池 を含めた津軽領 内に深刻な影響 を与えてい るのです 。安政年間の こととして、一つ私 が注意 してみたいな と思 った のは、安政 2 年 ( 1 8 5 5 ) に津軽藩 が箱館 と西蝦 夷地の警備 を命 じられ、
さらに安政 6 年 にはい る と、幕府 は各大 名達 に蝦 夷地 を分 割領 有 させて
警備 と開拓 をお こなわせ る よ うにな ります。西蝦夷地 の寿都 ・瀬棚 まで
を津軽藩 が割 り渡 され るのです けれ ども、従来 とは異な って よ り具体的
に蝦 夷地経営 に関与 させ られ てきたのであ り、ただたんに蝦夷地‑行 っ
て警備 を して帰 ってきました とい う事態 ではな くな ったのです。 ここに
おいて幕藩体 制下の津軽藩 において初めて、従来の津軽領 とは違 う領土
的な拡大 、つ ま り不動産 を津軽藩が増やす こ とにな ったのです が、その
よ うな蝦 夷地 との関わ りの中において、水練 稽古 とか、その よ うな領 内
にお ける さまざまな動員の態勢が よ り強化 ・管理 され て くるのだ とい う
ことです 。 この こ とは先程榎森先生 よ り、蝦夷地 か ら見れば こ うな る と
い うお話があ りま したが、私 のほ うでは蝦夷地か らの影響 が この よ うな
形 で具体 的に藩政 、 もしくは津軽藩 にお けるた った一つのちっぽけな南
溜池 のなかに ス トレー トに反映 して くる とい うこ と、ただ単に北方 問題
を無視 しえない とい う観点に とどま らず 、北方 問題 を軸 に して南溜池に
す らその影響 が色濃 く投影 して くるこ とに、我 々は注意 しなければ な ら
ないだ ろ うと思 うのです。
おわ りに
時間 もないので・ も うこれで終 りに致 しますが、 このよ うに近世都市 弘前の単 なる一つの溜池にすぎない南溜池、 これ に焦点を当ててみた場 合、藩政の さまざまな動向、都市民衆の生活 の問題、それか ら都市プ ラ ンの問題 、近世後期 における都市間題、それか ら幕藩体制下における北 方問題 とい うものが直接的 ・間接的 に反映 して くる様相を見て きました。
すなわ ち北の城下町弘前の動向を映す一つの鏡 として、商溜池をも う‑
度見直す必要があ るのではないか と考えた次第です。先程 ち ょっと触れ ましたが 、1 9 8 9年3 月に弘前市教育委員会か ら 『商溜池 一史資料 と考察
』 とい う書籍が刊行 され ましたが、この解説 と考察の中で今 日申し上 げま した骨格 は触れてあ りますので、それをご覧いただければ幸いです。
ご静聴 あ りが とうございました。
q.LJrhULLnUロロ
脚 後半の脚 滞 て