• 検索結果がありません。

フランス革命における保護主義(1)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "フランス革命における保護主義(1)"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

フランス革命における保護主義(1)

その他のタイトル The Protectionism during the French Revolution (1)

著者 吉田 静一

雑誌名 關西大學經済論集

巻 8

号 1

ページ 64‑84

発行年 1958‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15634

(2)

64 

' , ̲

 

m

一七九一年二月︱二日の新関税率︹以上本号︺

フランス革命の経済政策が︑仇敵イギリスを枢軸とする反革命戦争と︑革命への浴々たる流れのなかでフランス

全国から彰拝とわきおこった﹁第三身分﹂の諸要求とを背屎としつつ︑

的色彩を帯び︑しかも︑革命が上向線をたどるにしたがって︑その傾向を色濃くしていったことは︑誰しもがみと

めるところであろう︒そして︑ここでの主題ではないとはいえ︑行論との関係上あらかじめ展望的にみておくなら

ヘクシャーによってもっとも典型的な重商主義として把握された︑かのナポレオンの﹁大陸制度﹂

Co

nt

in

en

ta

l

( 1 )  

Sy

st

em

が︑ナボレオン戦争という歴史的背景を擁しつつも︑革命の保護主義的経済政策を︑もっとも忠実に︑し の輪廓—

②一七九三年︱二月一日交戦諸国からの輸入禁止令

⑥︱七九三年九月ニ︱日の﹁航海条令﹂

その発端から︑ともかくも一貫して保護主義

フ ラ ン ス 革 命 に お け る 保 護 主 義

(3)

65 

( 2 )  

かもよりインテンシィヴな形態で継承したものであったことにも︑もはや異論のないところであろう︒

(3) 

フランス革命の経済政策を︑現在の研究水準に依拠しつつ︑ひと先ず保護主義的色彩を帯びたものと

してごく大雑把にとらえたうえで︑さらに史実そのものに接近していくならば︑われわれは︑つぎのことにー│`す

( 4 )  

一貫して保護主義政策がとられたとはいえ︑革命の各段階に応じて︑その強度もまた異っていた︑という

ことに気付くであろう︒その歴史的過程については︑

みを抜き出しておくならば︑

こうである︒①一七九一年二月︱二日に可決された新関税率︒

のちの諸指標に比するならば︑自由主義的傾向を色濃くもつものであった︺゜②一七九三年三月一日︑

( 5 )  

交戦諸国からの輸入禁止令︒③一七九三年九月ニ︱日の﹁航海条令﹂

Ac

te

de

  Na

v i

g a

t i

o n

︒この九三年の﹁航海

条令﹂に結実していった保護主義体系は︑言うまでもなく︑国内における諸経済改革ー一切の前期的産業規制・

市場規制の廃止

1 1

生産・流通の自由︑ のちに詳述するところであるが︑あらかじめいまその指標の

のとして︑さきにかかげた指標もまた︑国内における諸経済改革との関連の上で︑ 結合しつつ展開され︑自らの﹁経済的必然性﹂を推進していったのであった︒したがって︑保護主義を指示するも

それらを見すえながら︑追求さ

れなければならないであろう︒ともあれ︑ひと先ず︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶

このことをあくまでも念頭におきながら︑保護主義政策の歴

史的展開過程︑その歴史的意義・所産を︑みきわめておこう︒そのさい︑われわれにとって︑そのためにフランス

革命が惹起されたとさえいわれている﹁イーデン条約﹂にふれておくことが︑どうしても必要である︒

( 1 ) E l i   F ・ H e c k s c h e r   :  M e r c a n t i l i s m ,   a u t h o r i z e d   t r a n s l a t i o n   b

y  

M .   S h a p i r o ,  

r e v i s e d   e d i t i o n   e d i t e d  

b y  

E . F .   S o d e r l u n d

̀   

1 9

5 5

,  

v o l .  

T I ,  

p p .  

9 9

,  

1 7

8 .

 

封建的諸権利の廃棄ーとともに︑

いわば併行的に︑というよりむしろ堅く

(4)

66 

フランス革命における保護主義︵吉田︶

(2

) この点については︑未だ展望の域を脱しえないが︑のちに再びふれるところである︒

ば︑このことは︑ナポオン体制の把握にとってきわめて重要である︒

(3

)

さしあたって︑もっとも便宜的なものとして︑

J .

Go

de

ch

ot

  " ' L es   i ns t i tu t i on s   d e  l a   F

ra

nc

e  s

ou

s 

l a  

Re

vo

kt

ti

on

  e t 

I '  

Em

pi

re

, 

1 9

5 1

,  

p p.  

1 8

9 ‑

2 0

3 ,

̀    3 4 9 ‑ 3 6 0  

4 4

1 ‑

4 4

9 .

 

F.L•ここでの士1輝gょニ沿った本)のとして、にと)っ

e

Nu

ss

ba

  8

"

c0

8 

m er c i al   P ol i c y  i n 

th

e  F

re

nc

h  R e vo l u ti o

n ,  a 

st

ud

y  o f  t

he

  c a r e ≪ "

  r o f

  G.

 

J .  

A•

Du

ch

er

, 

1 9

2 3

.  

ただし︑かれの主要q肉心はもっぱ

ら国民公会における貿易政策に向けられている︒なお︑ここでの主題そのものを対象としたものではないが︑

E l i .

F•H?

c ks ch er :  T he   co n t in e n ta l   system, 

1 9

2 3

,  

p p . ̲

1  13 

 

5 0

,  

G•

De

jo

in

  t 

La   po l i ti q u e 

ec

on

o 

ique

u  d   Di r e ct o i re ,  

1

9 5

1 ,

 

p p

5

.  

‑ 3

0 .

 

は示唆的︒もっとも︑問題意識と問題処理の方法とは︑これらの著者とわたくしとでは︑もちろん異る︒

( 4 )

フランス革命の段階規定については︑それ自体︱つの論題たりうる困難な問題であるが︑ここでは深入りすることを避 け︑さし当っては︑河野健二﹁市民革命論﹂︱︱四ー木頁を参照されたい︒念のために摘記するならば︑そこでは︑一七

八九年五月一日の﹁=一部会﹂召集から一七九二年八月一0

日までが第一段階︵﹁プルジョア革命﹂段階︶とされ︑八月一

0

日の事件から一七九四年七月二七日のテルミドール反動までが第二段階︵﹁農民革命﹂段階︶とされている︒

( 5 )  

F .  

L•

Nu

ss

ba

um

,  o p .  c i t . ,  

p .  

i .  

﹁国民公会の終焉以前に︑商業革命

co

mm

er

ci

al

r ev o l ut i o n は終りをつげた︒フラ ンスは︑複雑で酷烈な︑一九世紀のたたかいに︑加わり始めたのであった︒この革命の基本的な条令は︑一七九三年三 月一日の輸入禁止条令

Ex

el

us

io

n Ac t と一七九三年九月ニ︱日の航海条令とであった︒﹂

ただし念のために言っておくなら

一七八六年︑英仏二大強国間にとり結ばれた英仏通商条約︵ー﹁イーデン条約﹂︶は︑一見︑アウグスプルグ同盟戦争

︑︑︑︑︑

を起点とするかの﹁第二次英仏百年戦争﹂に︑終止符をうつかにみえた︒いや︑少くとも原理的には︑終止符をう

つべきはずのものであった︒というのは︑原理的には︑﹁イーデン条約﹂は︑国際分業論にもとづき︑フランスの

産業︵農業︶︑貿易を︑促進させるべきはずのものであったからである︒しかし︑事態は逆であった︒むしろ︑か 六六

. , .  

.

つ・ . . . . . . . . .  

1 " ム . や 、

9●

t''・,.・' 

'.'·"·、マ―•、.

, .  

(5)

を︑イギリスの圧倒的生産力のまえにさらし︑ こうした理論的︑ し︑だからこそ︑

それを危機におとしこんだことは︑ 政策的背景のもとに取り結ばれた﹁イーデン条約﹂が︑

言うまでもない︒

先ず︑織物

一七八六年の通商条約にも︑相変らず一触即発の好戦的対立が底流

( 1 )  

この反革命戦争が︑数年を経ずして触発せしめられたのであった︒

それはともかく︑当面の対象﹁イーデン条約﹂に立ち戻るならば︑

c i a l   w a r

からのこの訣別は︑フィジオクラート的﹁経済改革﹂の理論を背景としつつ︑フィロゾーフの数少い弟

( 2 )  

子であったヴェルヂャンヌ伯によって︑主導せしめられた︒言うまでもなく︑こうした志向は︑フィジオクラート

の現状認識を緒口とする理論構成そのものに︑

ラートの原理を与えたケネーが︑その理論を構築するにさいして自らに課した課題は︑すでにしばしば指摘された

ところであるが︑重商主義体制の揚棄︵それはフィジオクラート的視点からは﹁農業の再建﹂という形態をとる︶︑

国際商業戦争の止揚︑ということであった︒そして︑

フランスの農業生産物をもって︑

ゾーフ︑ヴェルジャンヌ伯は︑

ことに綿工業︒

場していたイギリスを見すえつつ︑

つての平和条約がすべてそうであったように︑

その改革の原理をすえていた︒というのはこうである︒フィジオク

そのさい︑すでに産業革命を経過して先進的工業国として登

'

3) 

﹁ヨーロッパの平和の主宰者たる栄誉﹂をになわしめるために︑

その物質的基礎たらしめんとしたのであった︒こうして︑根深い対立

のもとにあった英仏二大国は︑工業国イギリス︑農業国フランスを想定し︑

けが与えられることによって︑平和的に共存しうるはずのものであった︒

こうした原理に支えられて︑ それが国際分業論という理論的基礎づフィジクラートの影響下にあったフィロ

﹁イーデン条約﹂の締結を主導したのであった︒

未だ幼弱なフランスの国民的諸産業

この部門は︑すでにいち早くイギリスの技術︑機械を導入し︑端初的産業革命に入りつつあ

h u n d r e d y e a r ' s   c o m m e r

(6)

68 

人が諷したように︑ 料の大量買い付けは︑原料価格の騰貴を結果していた︒次いで︑キャラコ︑羊毛︑陶器︑鉄︑

イギリスとの競争の困難性を訴え︑全般的失業に見まわれていた︒そして最後に︑リヨンの絹工業も︑条

約によるイギリスの禁止的関税によって︑不況に見まわれていた︒こうした事態は︑

﹁反イーデン条約﹂

た︒この条約を満足の意をもつてむかえたのは︑僅かに葡萄生産地方のみであったのである︒まさに︑ある同時代

( 5 )  

フランス工業の﹁死亡通知書﹂であった︒だからこそ︑﹁イーデン条約﹂は︑

工業都市から三部会にあてて提出された陳情書には何れにも反﹁イーデン条約﹂の感情がもられているのを︑われ

われは見出すのである︒たとえば︑こうである︒ー﹁イギリスとの通商条約は︑多くの点で国家に不利であり︑

大勢の勤労者

o u v r

i e r s

ーかれらは︑余儀なく王国を離れ︑他の地で国民的産業

i n d .

u s t r

i e

n a t i

o n a l

に就くことe

がありうるだけに︑国家にとって貴重な︑そしてかれらを国内にとどめることが国家の利害にかかわるような市民

なのだーを︑貧困に陥しいれ︑国民的工業

Ma

nu

fa

ct

ur

es

n a t i

o n a l

e s

を破滅させているが︑

いまでも︑少くとも︑われわれの現在の政治情勢に応じた厳重な詞査によって︑また︑王国通商委員会

Ch

am

br

es

( 6 )  

de

  Co

mm

er

ce

  du

  Ro

ya

um

e

の勧告によって︑大幅に改正せしめられるべきこと︒﹂︵レンヌ︑二0

﹁英仏通商条約以来︑わが製造業

F a

b r

i q

u e

s

は︑競争に耐えることができず︑

それが惹きおこしている誤りは︑きわめて明白である︒それは︑長期にわたるならば︑推しはかりえないほどにな シャロンーシュールーマルヌ等々︒ 開していた北部地方において︑ (

4 )  

ことに著しい︒たとえば︑

の感情は︑決して︑ 流入するイギリス製品のまえには抗するべくもなく︑

莫大な損害を蒙っている︒すでに

一七八九年︑諸

それは︑破棄しな これらの地方に限られなかっ

ルーアン︑ランス︑ レザーの諸工業︒こ

フランスの諸産業が著しく展

マニュフアクチュアラー

イギリスの製造業者によるフランス原

(7)

69 

るであろう︒⁝⁝三部会は︑⁝⁝隣国を富み肥やし︑われわれを破滅させるこの条約によって︑次第次第に︑国家

を掘り崩すことよりも︑むしろ︹戦争の︺危険に走ることのほうがまだしもいいのではないかということを︑吟味す

( 7 )  

べきである︒﹂

八九年の陳情書は︑さらに興味深い数々の素材を︑

( 8 )  

de

  co

mm

er

ce

  pr i

v i l e

g e e s

われわれに提供する︒たとえば︑

( 9 )  

植民地貿易の排他的維持︑原料輸出の禁止︑等々︒

ここで取り扱う余裕はない︒いまはただ︑﹁イーデン条約﹂がフランスの幼弱な国民的産業に与えた深刻な影孵

を︑それが革命の保護主義的政策を怖結したという展望のもとに︑指摘しておくことだけに︑とどめなければなら

( 1 0 )  

(1

)

D e j o i n t ,   o p c i .   t . ,   p .  

1 7

.  

さらに︑ヘクジャーが︑この﹁第二次英仏百年戦争﹂をもって︑﹁大陸制度﹂理解の鍵として い る こ と に も 注 意 せ よ

︒ ー

﹁ フ ラ ソ ス と イ ギ リ ス と の 間 の こ の 百 年 商 業 戦 争 の 本 質 の 解 明 は

︑ 大 陸 制 度 の 起 源 と 展 開 と の正しい理解にとって︑本質的なものである︒﹂

H e c k s c h e r ,

0  p .  

c i t . ,   p .  

14 

(2

)

フィジオクラートとフィロゾーフとの人間的︑理論的関係については︑桑原武夫緬﹃フランス百科全書の研究﹄︑河野 健二﹃革命思想の形成﹄

I

│'ことに﹁百科全書派の市民社会観﹂を参照︒

(3

) 

Q u e s n a y ,   F . ,   o e u v r e s ,   p .  

2 6

3 ,

  n

o t e  

2  , 

(4) この点については、遠藤輝明「フランス産業革命史研究序説」(「エコノミア」第六巻、第三•四号)を参照。

(5 )

因みに︑条約が締結された時期の対英貿易差額は︑逆に転じている︒すなわち︑輸出三千四百ー五百万に対して輸入八 千七百ー九百万︒しかし︑植民地貿易に支えられて︑総貿易差額は順であった︒それにもかかわらず︑ドウジョワンがそ うしているように︑これをもって︑﹁英仏条約は︑同時代人がのべようとしたほどには︑被害は大きくなかった﹂と︑考 えてはならない︒ことは︑貿易差額にかかっているのではなく︑まさに国民的諸産業の趨勢にかかわっているのである︒

D e j o i n t ,

  0 

p .   c i t . ,   p .  

1 1  

(6

) 

R e s u m e   g e n e r a l ,   o u   E x t r a i t   d e s   C a h i e r s   d e   P o u v o i r s ,   I n s t r u c t i o n s ,   D e m a n d e s   e t   D o l e a n c e s ,   p

a r n   u e   S o c i e t e   d e   G e n s   d e   L e t t r e s ,   t o m e  

3 °

,  

1 7

8 9

,  

p .  

3 7

2 .

  同様趣旨のものは︑他にルーアン︑コタンタンの陳情書にも見られる︒

0 p .

i t   c . ,   フランス革命における保談主義︵吉田︶

︵エタンプ︑三九頁︶︒

六九

特権貿易会社

co

mp

ag

ni

e

(8)

70 

第一に︑﹁イーデン条約﹂によって︑ フランス革命における保護主義︵吉田︶

相容れざるものではなかった︒

2 7

3 .

 

(7

) 

Op

.  c i t . ,   p .  

3 7

3 ‑

4 .

 

(8) たとえば—|「商取引経営にたいして、個人または会社

compagniesに附与された排他的特権privileges

e xc l u si f s は ︑

所有権に反するが故に︑成文法によって︑禁止または廃止されるぺきこと︒ことに︑インド会社︑セネガル会社︑ベナン

0

o p.   c i t . ,  

p .  

3 5

1 .

 

(9

) 

Cf   Godechot,

  op .  c i t . ,  

p .  

1 9

5 .

 

ただここで何よりも爾要なことは︑保護主義的要求が︑特権の廃止

1 1

国内・国外商業の自由および植民地貿易の維持と︑

表裏の関係にあったということである︒

( 1 0 )

ただし︑その場合でも︑革命期の保護主義を︑直ちに︑﹁アンシアン・レヂーム下の重商主義﹂︑﹁重商主義的梢神﹂への復帰としてとらえるぺきではない︒たとえば︑

D ej o i nt , o p.   c i t . ,  

p .  

1 8

,  

p .  

2 8

. ,

 

N

us

sb

au

m,

  op .  c i t . ,  

p .  

i .  

は︑それらがそれをふまえて発現すぺき基礎過程に本質的な相異があったのである︒

保 護 主 義 政 策 の 展 開

保護主義ないし重商主義を︑

それが依拠する基盤を無視して︑

sy st em e de   la  

re

gl

e

me nt at io

n

( 1 )  

んなる﹁アンシアン・レヂームの重商主義﹂への復帰として︑誤ってとらえざるをえなくなってしまう︒そして︑

1

1

経済的自由主義の実現︵産業規制は︑﹁イーデン条約﹂のもとにおいても未だ存続していた

( 2 )  

ことに注意︶と︑対外貿易における保護主義とが︑相容れざるものとして把握されてしまう︒しかし︑それら二つの

原理は︑歴史的見地よりするならば︑必ずしも︑

それら二つの原理 は︑実は︑ーつの﹁現実的根拠﹂に由来していたからである︒このことは︑革命に先立つ二つの事情ーー・すなわち︑

フランスの国民的諸産業がかなりの打撃を蒙っていたこと︵一七八八年の﹁エ

というのは︑ 0

(9)

﹁イーデン条約一を廃棄し︑保護主義を要望する市は︑誰よりも

先ず国民的諸産業の担い手たるマニュファクチュア資本家岡そのものからおこり︑かれらの圧力こそが︑また︑諸

( 3 )  

産業規制廃棄の推進力でもあったという事情

1

—ーからも、ほぼ推察しうるところなのである。まさに、保護主義

( 4 )  

は、「一~国の内部における自由競争の発達に寄与し」、同時に、「一国の資本にたいして外国の資本に対抗する武

( 5 )  

器をあたえ﹂ていたのである︒したがって︑さきの一見相容れざる二つの原理こそは︑ともに国民的諸産業を展開

(1

)

C f . ,   D e j o i n t ,   o p ・ c i t . ,   p .  

1 8

,  

21•

27-8•

N u s s b a u m ,   o p ・ c i t . ,   p . i .

9 アクト   ﹁フランスのあらたな古今配者は︑一七八六年の条約にそ

の決定的な表現を受けとった旧制度末期の経済的自由主義から︑新霞商主義へと逆向した︒﹂

(2

) 

Cf•

D e j o i n t ,   o p c i .   t . ,   p p .  

27

8 .

G o d e c h o t ,   o p .   cit••

p .  

2 0

0 .

  (

国 内

3

匹 翠 ご に つ い て は

︑ 銘

B

溶 ぃ 的 自 由 主 碑 て が 晦 盆 札 を 占 め て い る

とき︑対外貿易においては︑規制

r e g l e m e n t a t i o n が維持されているばかりか︑強化されさえする︒このプルジョアジ︐

I

の自由主義は︑原理的なものではなかった⁝⁝︒﹂

G o d e c h o t とは異って︑われわれの祝点からするならば︑国内における 自由と対外貿易における規制とは︑むしろこの段階におけるプルジョアジーにあっては︑原理的に統一されたものであっ た ︒

(3

)

ルヴァッスールのつぎの指摘は︑この点の核心をついている︒﹁イーデン条約にたいする本能的反惑によって︑ひどく 激昂させられたマニュファクチュリエの感情はきわめて︑激しかった︒﹂

H i s t o i r e d e s   c l a s s e s   o u v r i e r s   e t   d e   l ' i n d u s t r i e   e n r   F a n c e   d e   1 7 8 9

1 8

7 0

,

t .  

1•

p .  

40

ま た

c f .

G o d e c h o t ,   p .  

1 9

5 ・

か S い

が ︑ 陣 g 面出餡について︑ここで也

m

I

し て い る 超 叩 点 は

︑ わ れ わ れ に と っ て 興 味 深 い

︒ ご く 僅 か の 例 外 を 除 い て

︑ 大 多 数 の 陳 情 書 は

︑ 保 護 関 税 の 維 持 を も と め

︑ そ れ が

︑ 国 民 の 商 業 と 産 業 と を 有 利 な ら し め る こ と を

︑ 期 待 し て い る の で あ る

︒ そ し て

︑ そ の さ い

︑ わ れ わ れ に と っ て も っ と 興 味 深 い こ と は

︑ 保 護 関 税 創 設 の 要 求 が 直 ち に 特 権 貿 易 会 社 c o m p a g n i e s   d e   c o m m e r c e   p r i v i l e g i e e s への攻漿に結合して

いることであり︑さらに︑植民地貿易

植民地体制の維持に向っていることである︒なお︑補足的に︑ニ・三の陳情書を引い 1 1

ておこう︒﹁排他的特権

p r i v i l e g e s e x c l u s i f s の廃止︑また︑王国々境にまで関税を押し拡げることによって︑商業の自由 フランス革命における保護主義︵吉田︶

せしめるための政策にほかならなかったのである︒

業危機﹂

i n d u s t r i a l c r i s i s )

したがって︑第二に︑

(10)

7Z 

かれの報告内容を追っていこうーー

̲ o

①ーー一七九一年二月︱二日の新関税率︒

フランスの絹織物工業が︑外

一七八九年八月二九日︑九月

に備えるぺきこと︒﹂︵ネラック︶︒﹁諸港の関税免除特権

f ra n c hi s e s

de

s  p o rt s

︑ことにマルセイュ︑ベイョンヌ︑および ダンケルクのそれは︑国民的産業

ma

nu

fa

ct

ur

es

n at i o na l

e s

近 隣 都 市 の 商 業

︑ お よ び 国 税 を 破 壊 す る も の と し て

︑ 取 り

消されるぺきこと﹂︵カレ︶︒

Re su me g en e r al ,  o u  E x tr a i t 

de

s 

C ah i e rs   . .  

‑ ,   p .  

3 5 1 ‑ 3 .  

(4

)

マルクス﹁自由貿易問題﹂︑選集第二巻︑四

00

頁 ︒

(5 )

マルクス﹁保護貿易︑自由貿易および労佑者階級についての演説﹂︑選集第二巻︑三七一ーニ頁︒

フランス国内における自由な商品生産・流通の宣言は︑周知のように︑

一八日に︑原理的に与えられ︑溺後︑細部にわたって諸制限が廃棄されていった︒

りあげられた︒

織物製造業者であり船主でもあったドゥ・フォントゥネー︑

Co mi te

d'

ag

ri

cu

lt

ur

e 

et

du  C  O

!

Il

me

rc

e

においては︑関税制度の再編成が︑焦眉の課題としてと

この課題にこたえる報告作成に直接携ったのは︑リヨンの絹織物製造業者グゥダール︑ルーアンの

ネ ゴ シ ア ン

トゥルーズの貿易商ルゥションの三人であり︑なかで

も︑グゥダールは︑保護制度

re gi me

pr

ot

ec

te

ur

の強固な支持者であった︒

国の競争に脅かされつつあったという事情が︑かれにその途を歩ませたであろうことは︑察するに難くない︒

0年︱一月三0

日 ︑

これと併行して︑他方︑

﹁商業・農業委員会の名において﹂︑グゥダールは︑国民議会で︱つの報告を

この報告の内容はいまのわれわれにとってきわめて興味深い︒そして︑後論との関係からするならば︑重要

﹁⁝⁝わたくしが︑国内流通をさまたげていたいまわしき障害の撤廃を︑諸君に提案したとき︑わたくしは︑反

対者を見出すべくもなかった︒自由のまえでは︑これらの束縛は︑破砕されなけれはならなかったのだ︒諸君は︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶

(11)

フランス革命にーおける保護主義︵吉田︶

を︑尊重した︒⁝⁝しかし︑囲気の只中にあって︑ その信奉者ばかりで占められることは︑賢明ではないように思われた⁝⁝︒

( 6 )  

ら︑そのことは︑わが国の産業の破壊を宣言することになるであろうからである︒﹂

アンシアン・レヂームの諸制限に真向から反対し︑商品生産・流通の自由を享受することに急であった当時の雲

かれグゥダールは︑必ずしも自由一般を要望しない︒自由は︑何よりも先ず︑わが国産業の

﹁⁝⁝わたくしもまた︑商業の名において︑諸君に自由をもとめようと思う︒自由は︑商業︑農業およびあらゆ

る産業

i n d u

s t r i

e

の旗印なのだ︒しかし︑それは︑保護

p r o t

e c t i

o n

と安全

s u r e

t e

なしには︑不完全である︒わ

たくしは︑自由が︑国民的商業

co

mm

er

ce

n a t i

o n a l

の保護となり︑自由がわが国のマニュファクチュールの安全

( 7 )  

をはかるであろうという意味で︑自由を要求するのだ︒﹂

こうした論理に基礎づけるならば︑国内における商品生産・流通の自由は︑直ちに外国貿易における保

護主義を︑みちびかざるをえない︒自由と保護主義とは︑

保護主義の足場となるものは︑何なのか︒それは︑言うまでもなく︑関税制度である︒

>ステ

' l a

﹁諸君の義務である保護と安全とは︑商業ヨーロッパの現実の組織においては︑輸出入関税の創設によってのみ

可能である︒それは︑国民的産業

i n d u

s t r i

e

n a t i

o n a l

e

を好転せしめ︑短時日の間に︑諸君の輸出を上昇させるに

ちがいないのだ︒したがって︑関税が樹立されることは︑⁝⁝農業︑わが国のマニュファクチュールおよびわが国

( 8 )  

の技術に︑有利なのである︒﹂ ための自由でなければならなかったのである︒ これらの障害を︑国境にいたるまで︑

その奥底では︑固く結合していたのである︒それでは︑ なぜな 一掃した:・⁝︒農業・商業委員会は︑無制限の自由にもとづくこれらの理論

(12)

74 

フランス革命における保護主義︵吉田︶

こうした論理の運びによるならば︑経済的自由王義の実現が︑国民的産業のためのものであった限り︑そして︑

われわれが自由貿易主義に基づいて締結された﹁イーデン条約﹂は︑他ならぬこの国民的産業に︑かなりの打撃を

与えていたという史実を前提とする限り︑経済的自由主義は︑その当初から保護関税

d r o i

t s p r

o t e c

t e u r

s 制度と

︑ ︑

﹁自由主義﹂は自由主義一般ではない︒自由主義一般

は︑フランスの現状からするならば︑悪しき手段に他ならないのである︒ーー

i

﹁⁝⁝われわれのみが︑しかも︹諸

国との︺相互関連なしに︑無制限の自由を規定した商業立法

l o i s

commercialesをつくることは、…•••その政治

組織が︑今日︑純枠に農業的︑商業的権力

p u i s

s a n c

e p

ur

em

en

t  a

g r i c

o l e  

e t  

co

mm

en

;a

nt

e

のものであり︑その

その国の産業の発展

1

その国の人口︑国力を増大させ︑真の富である農業の繁栄を確保するに

( 9 )  

ちがいないー~に依拠している一国にとっては、誤れる手段であろう。」しかも、こうした論理を裏づける先例を

かれらは︑他ならぬ自由貿易論者の祖国イギリスにもとめていたのである︒言うまでもなく︑かれら自由貿易論者

とは異った視角において°|_「•…••イギリスは、厳重な輸入禁止制度regime

de

  p r o

h i b i

t i o n

 

今日のきわめて隆盛な商業を︑保っているのだ︒わたくしは︑ひとびとがおし通そうとしているこの自由の体系を

(10) 不吉なものと考える︒﹂自由貿易論者の祖国イギリスは︑ここでは逆転せしめられ︑保護主義の論理を例証づける

ためのものになるのである︒かれらにとって︑何にもまして優越せしめられなければならないものは︑国民的産業で

それに基礎づけられた﹁国民的利害﹂

i n t e

r e t

n a t i

o n a l

である︒したがって︑国際分業論に基礎をおいて自

らの論理を展開する自由貿易論者とは︑のちにみるように︑真向から対立せざるをえない︒

こうして︑グゥダールは︑報告の末尾において︑新関税率案を提宋した︒言うまでもなく︑ 結合するべきはずのものであった︒したがって︑

それは︑生産者的視

ー ~,‘

•}

(13)

︑ ょ ︑

t

フランス革命における保護主義︵吉田︶

は︑こう考えた1わが国のマニュファクチュールとわが国の商業とは︑輸入禁止制度によってのみ︑保護されう もしくは規定することが︑有利であるか?﹄諸君の農業・商業委員会は︑

委員会 …•••とすれば、吟味すべき問題は、 的関税に従わされている︒

ただ一っこうなるー﹃フランス国民にとって︑輸出入禁止および禁止的関税

すすんで肯定した︒

フランスの国民的産業を擁護しつつ︑ する︒たとえば︑国民生活に不可欠の生産物︑

ャ ラ

一 ︷

点によってつらぬかれていた︒①先ず輸入について︒輸入商品は︑八つの等級に分けられ︑それぞれ関税率を異に

フアプリック

フランスの製造工場に最も有用な原料は︑関税を免除され︑同じく

必要ではあっても前者ほどではない原料については、

0•

五%から一・五%の低関税がかけられるにすぎない。そ

して︑以下植民地や国内で製造されるのと同種の商品︑奢修品等々についての関税率が規定され︑その最高額は︑

0ー三0%にも達した︒また︑

放されなければならない︒ただし︑

て︑自由貿易論を真向から振りかざしつつ反対論を展開したのは︑ヴェルサイユのモスリン製造業者ボワランドリ

ィである︒かれの言うところによれば︑

一五もしくは二0形をこえる関税は︑

こうであるー—°

﹁⁝⁝︹提案では︺数多くの商品が︑王国への輸出入禁止を全面的に蒙っている︒他の商品も︑多かれ少かれ禁止

禁止的なものだからだ︒

保護主義的色彩の濃い草案を提出したグゥダールにたいし

の措置がとられることが︑要望された︒たとえば︑砂糖︑絹織物︑ これら八等級に区分された商品とは別に︑八六品目の商品については︑輸入禁止

( 1 1 )  

クロース︑磁器等々︒②

次いで輸出︒言うまでもなく︑保護関税のもとにあっては︑ レース︑金物︑帽子︑

フランスの全商品にとって︑国外市場は︑全面的に開

そのさいでも︑原料の輸出には︑関税がかけられるか︑禁止されなければなら

(14)

76 

フランス革命における保護主義︵吉田︶

る︑と︒委員会は︑こう信じたー'真の自由は︑禁止制度が一般的福祉を結果するならば︑不便をも辞さないこと

アンピール

にある︑と︒諸君のこの問題にたいする決定は︑わが国と他国との関係を︑決定するにちがいない︒だから国家の

( 1 2 )  

この問題の解決如何にかかっているのだ︒﹂

こうして︑かれは︑すすんで外国貿易制度の問題に︑視点をうつす︒それが当面の問題であり︑それが革命フラ

ンスの繁栄に︑大きく影響する︑とかれは考えたからである︒かれによると︑外国貿易制度には︑異質的な二つの

﹁この制度は︑牢嶽と漕役刑とを増大させ︑この制度にしたがわされている国民を︑奴隷状態のままに放置して

おくためのきわめて有力な武器を︑政府の手中に握らせるにいたる︒それを採用する国民は︑多数の通商条約を強い

その結果︑他の諸国にたいして排他的な利益を認めざるをえなくなる︒この制度のために︑

メリカを失なった︒それは︑

巨大な出費を招いたのは︑ イギリスは北ア

イギリスにたいする全ョーロッパ諸国の嫉妬をひきおこした︒それは︑最近の戦争に

イギリスの同盟国は一国もなかったほどのものであった︒⁝⁝以前に血醒い数多くの戦争をひきおこし︑

(13) この禁止制度なのだ︒﹂

それでは︑他のもう︱つの制度とは何か︒言うまでもなく﹁輸出入の絶対的自由の制度﹂である︒

﹁この制度を採用する幸福をになった国民は︑地上の全人民と取引し︑全く同じ利益を提供し︑通商条約を無用

のものとみなし、密輸業者を富ませるにすぎない禁止制度を斥ける··…

•O

ヂェノヴァ︑ヴェニス︑

との増大によって︑この制度の結実を摘みとり︑ 体系がある︒その︱つは︑禁止制度︑排他的特権制度である︒

この自由の制度は︑

ハンザ諸都市によって採用されている︒これらの諸国は︑

それ以来︑それを斥けようとは︑ スイス︑オランダ︑その産業とその商業

( 1

4 )

 

ついぞしなかったのだ

C

(15)

保護主義と自由貿易主義︒前者は︑専制政府をもたらし︑自由を犠性にして︑

これにたいして後者は︑自由をわが物とし︑

こうした比較と断定とのもとにあっては︑委員会の提案は︑自由を侵害し

発させるためのものでしかありえない︒自由と平和とを維持し︑しかも一国の利益を亭受することは︑空想にほか

ならないのである︒それでは︑保護主義者の最大の関心事であった国民的産業の問題を︑自由貿易主義者ボワラン

ドリィは︑どのように処理するのであろうか︒かれは︑自由貿易論の原理を提示しつつ︑国民的産業の盛衰を︑そ

の内容とは無関係に︑

﹁ヨーロッパは︑広大な︱つの共和国と同然であり︑その各部分は︑相互間の需要によって結ばれている︒これ

y アン

ら各部分の貿易商人が︑豊作ないしは生産施設の新設によって︑ある地域の生産物ないしは商品が下落したことを

知るや否や︑かれらの注文は︑直ぐさま殺到し︑価格は︑他の地方における同種の商品と同じところにまで︑急速

( 1 5 )  

に騰貴する︒﹂とするならば︑

こうした自由貿易の原理に基礎づけられて獲得されたフランスの侵越こそは︑世界で最も自由で︑最も

保護貿易主義を︑

わが国に向って同様の法を実施せしめる︒それは︑ 正義に満ちた憲法と合致するのである︒ それを空想的利益とひきかえようともしない偉大な国民の

フランスの全貿易量から判断しようとする︒

なかったボワランドリィは︑

七七 ご一形をこえるべきではない︑と結論づけ 平和を攪乱し︑戦争を激

フランス国内における他国の商人の競争は︑おそれるべき筋合いのものではないは

ところが︑禁止的関税法

l o i s

pr

oh

ib

it

iv

es

は︑近隣諸国の嫉妬を招き︑

> ス テ ー ム フ ィ ス カ

9 テ

﹁無智の制度であり︑国庫収入主義の制度﹂にほかならない︒

﹁理性と商業の真の原理﹂とに反するものとして斥け︑自由貿易主義の優越性を主張してやま

こうして︑関税は︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶ いかなるばあいでも︑ 一国の野望と近隣諸国の支配とに

(16)

78 

フランス革命における保談主義︵吉田︶

ここで何よりもわれわれの注意をひくことは︑国民的産業の保護・育成という視点が︑かれからすべ

り落ちている︑ということである︒

もかかわらず︑かれボワランドリィにあっては︑

して︑自由貿易主義が︑国民的産業と関わることなく︑前面に押し出されてしまったのである︒まさに︑国民的産

を見失って展開された自由貿易論こそは︑

0

1 0

日と︱二月一日との両日にわたって展開された︑

は︑まさしく原理的︑政策的対立に根ざしていた︒そして︑

られ︑しかし︑関税率そのものについては︑グゥダール案がより援和された形態で修正されることによって︑終止

﹁委員会の論拠は︑きわめてかんたんであり︑きわめて合理的であるので︑今は︑それを採用するのにためらう

突然採用することが︑

国︑オランダ︑ いかに無思應であり︑

他方では︑商業の無制限の自由からなりたっている︒諸君は︑すでに前者を屠り去った︑と同様に後者も禁止され

るであろう︒四つの小国のみが︑

スイス︒しかし︑ 示している理論体系は︑ェコノミストの原理の一っであった︒この原理は︑ べきではないように思われる︒ 符がうたれたのであった︒

業の保護・育成による国力の増大が︑ フランスの国民的産業の趨勢如何は︑当時の時論家すべての関心事であったに

それがフランスの貿易総量如何という問題にすりかえられ︑

そのことのゆえに︑

あらゆる国民的産業

保護貿易主義と自由貿易主義との論争

manufacturesnationales~1

裳御叫せしめる方策を、

いかに不得策であるかを︑わたくし同様︑認める︒若干の発言者が提

ア ン ポ

・ ユ ニ ー ク

一方では︑単一課税の創設からなり︑

この理論体系を採用したにすぎなかったーー︑すなわち︑

アメリカ合衆

それには︑特殊な理由があったのであった︒わたくしは︑委員会によって承認さ そのことのゆえに︑

︱二月一日︑原理的には︑保護貿易主義が採 ﹁反国民的﹂であったと言わなければならない︒ ﹁国民的﹂であったとするならは︑国民的産業との関連

参照

関連したドキュメント

このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで, 『資本

一方、介護保険法においては、各市町村に設置される地域包括支援センターにおけ

続が開始されないことがあつてはならないのである︒いわゆる起訴法定主義がこれである︒a 刑事手続そのものは

中南米では歴史的に反米感情が強い。19世紀

組織変革における組織慣性の

A︑行政取締違反に関する刑罰法規︒たとえば︑フランスでは︑一般警察行政︵良俗︑公共の安全︑公衆衛生︶に

まず表I−1のの部分は,公益産業において強制アソタソトが形成される基

追加的な PFAS のサンプリング: 2021 年の終わりまでに、 EPA は、 29 の新しい PFAS のモニタリン グを要求するため第 5 次未汚染監視規則(