N. M. Robertson's "South Africa : economic and political aspects"
著者 鶴嶋 雪嶺
雑誌名 關西大學經済論集
巻 7
号 7
ページ 696‑715
発行年 1958‑01‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/15643
遥かに上位である︒その日本が狭義の後進国中に入らないので もちろん︑南アフリカ連邦は︑国際連合などが後進国につい 連邦の人種差別政策を批難する決議を行ったが︑これにたい して︑南アフリカ連邦代表は︑これまた前年と同様︑総会から 退場することによって︑この決議を無視する態度を明らかにし らためて考えさせられたのである︒ て考える際に基準になっている一九三九年における各国の一人
( 1 )
当り年収と人口についてみれば︑世界で一六位︑いわゆる中層
群の筆頭に位するのであり︑下層群中の日本︵二九位︶よりは できごとによって︑後進国開発論と人種差別政策の問題を︑あ まさらながら示したものであった︒しかし︑わたくしは︑この このできごとは︑南アフリカにおける人種問題の深刻さをい た ︒ 一九五六年国際連合総会は︑前年に引続いて︑南アフリカ
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とを否定し︑後進国のいわゆる民族資本の発展を抑圧するもの し︑わたくしは︑まず︑この南アフリカの人種差別政策にたい する国際連合の非難決議にこそ︑戦後の後進国政策とこれに結 の
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国際分業論に基くものであれ︑社会学的考察に依拠するもので
あれ︑・後進国が独自の資本を基礎にして工業化を進めてゆくこ
であった︒そのためには︑前資本主義的なものとの妥協ないし
ばあいによってはそのようなものの積極的な温存さへ計られた
のであった︒それにたいして戦後の後進国政策の基調は︑後進
国が独自の資本を基礎にして工業化することを肯定するもので
ある︒この後進国政策の基調と︑その論理的必然性を最もよく 戦前の後進国ー植民地政策は︑古典学派的自由貿易論ないし びつく後進国開発論の基本線が最も明瞭に示されていると思う あるから︑簡単に後進国と規定するわけにはゆかない︒
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い︒これらの報告書では︑後進国の経済開発を可能にする前提
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﹃国際経済安定のための施策に関する報告書﹄Re
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動にともなう貿易量の変動および一次的生産物の価格変動を小
巾に止め後進国の貿易条件の振幅を少くする施策に目的がおか
( 2 )
れた︒このように︑世界経済
( 1 1
世界資本主義市場︶の拡大の 除した社会の創造と︑それにともなう代価の支払に喜んで応
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0五万人︑アフリカ原住民と白人との混血︱
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万人
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インド人三五万人︑アフリカ原住民八五0万人の人口を擁して 本主義的なものの排除を主張するのは︑
決して不思議ではな
ために打ち出された後進国の経済開発が︑後進国における前資南アフリカ連邦は︑オランダ系ボーア人一六0万人︑イギリ じようとしないかぎり︑急速な経済進歩はありえない︒﹂ ために各国の指導者層が︑経済的︑政治的︑社会的特権を排 信条︑種族などのき.つなを断ち切ることが必要である︒その い︒要するに経済的進歩は古い哲学︑旧い社会組織︑族制︑ によって解決しようとしたものであるのにたいして︑
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しようとしている社会でも経済的進歩はほとんど実現されな そして︑この報告書が後進国の経済の脆弱性を経済開発の促進理由によって機会が遠ざけられ︑一部の独占者が特権を維持 るということであったのにかんがみて行われたものであった︒に分れていて︑人口の大部分が法律︑習慣または妥当でない のためには後進諸国の経済開発が最も重要な一要因をなしてい会が世襲的な階級や皮膚の色︑信仰などによって幾つかの層 世界経済のなかにおいてはじめて可能であり︑世界経済の拡大ないし法律によってそれを妨げられるような国︑⁝⁝また社 進国開発の施策に関する報告書﹄
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その前の専問委員会の行った﹃
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の結論が︑完全雇用問題の解決は拡大するないような国︑あるいは生産者が革新を行おうとしても習慣 ﹁土地にたいして投資を行っても小作人の権利が保護され にのぺている︒ 専問委員会から提出された報告書がある︒四月に提出さた﹃後 物語るものに一九五一年四月および︱一月に国際連合の経済
とであり︑第二には社会的︑経済的︑法律的体制が経済的進歩
に好都合のものでなければならないと指摘した後に︑次のよう 条件として︑まず第一にその国民が経済進歩を希求しているこ
別を徹底的に推進するトムリンソン計画を行おうとした︒それ
を国際連合が非難したのである︒この国際連合の非難に︑世界
経済の拡大のために後進国の経済開発が必要であり︑そのため
にはその国の古い哲学︑旧い社会組織︑族制︑信条︑種族など
のきづなを断ち切ることが必要であるとする後進国開発の基本
線を︑最も明瞭にうかがうことができるであろう︒
ところで︑戦前の植民地政策から戦後の後進国開発政策へと
いう変化︑すなわち︑後進国が独自の資本を基礎にして工業化.
を進めてゆくことにたいする否定から肯定へという変化は︑ど
のようにして生じたのであろうか︒このことにたいする解答の すぎない︒このような南アフリカ連邦が︑さらにこの人種的差 に低く︑黒人の平均年収よりは遥かに高いものなのである︒政
離脱して共和国を結成することを目標としているのにたいし 国内的には徹底的な有色人種の差別政策︑外交的には英連邦を 別政策を支持しているのではない︒政府与党である国民党は︑ 野党をわずかにリードしているにすぎない︒そして︑国民党が
て︑野党勢力の圧倒的な部分をしめる統一党は︑イギリス人と
アフリカ人の協調︑英連邦の一員としての地位の保持︑鉱物資 している︒しかし︑南アフリカのすべての白人が︑この人種差 画によって人種的差別の強化を企て︑いわば世界の流れに逆行 に上院議員四四名中四名︑下院一五九名中三名を選出できるに ればならなかったかを見ることによって︑先進的な経済の後進 的な経済社会にたいする関係の変化を通じて︑.先進国の後進国 にたいする政策の変化の経済的必然性をうかがうことができる のではなかろうか︒現在︑南アフリカ連邦は︑トムリンソン計 治的には︑有色人種の選挙権も極めて制限されており︑わずか 済的進歩の過程で白人と黒人との関係がどのように変化しなけ 共同体的な生活を営んでいるといった国について︑その国の経 人当り年収一八八ドルという金額も白人の平均年収よりは遥か が あ り ︑ し た が つ て ︑ るのである︒経済的には︑白人と有色人種との間には格段の差
一九三九年における南アフリカ連邦の一 人口のごく一部にしかすぎない白人が高度に資本主義の発達し
た社会に住むのに︑人口の大部分をしめる黒人がその傍でなお あろう︒しかし︑南アフリカのように︑極端な表現を用いれば︑ いるが︑この人口の大部分をしめる有色人種は︑まさしく法律 および習慣によって政治的︑経済的な機会から遠ざけられてい
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ためには︑もちろん︑いわゆる社会主義圏をも含めた世界全体
の政治的︑経済的な状勢の変化が考慮されなければならないで
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45をはじめとするいわゆるアメリカの民主化政策の検討が である︒たとえば︑わが国の農地改革の意義を明らかにするた
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で白人と黒人との関係がどのように行われてきたのかがかえり 策をみるばあいには︑当然︑まず南アフリカの経済発展の過程 このような問題意識のもとに︑南アフリカ連邦の人種差別政 な意義をもつている︒それは︑まず第一に︑わが国の経済の現 状把握をめぐつて重ねられてきた従来の混乱が︑戦前の植民地 政策がいまなお生きているとする錯覚に基くこと少くないから るかなどを明らかしてゆかなければならない︒ 政策のもとで先進国と後進国とがどのような関係におかれてい 進国政策の変化がどのようにして生じたか︑この新しい後進国 にしたうえで確認することは︑とくにわが国においては︑重要 この後進国にたいする政策の変化をその経済的基礎を明らか されていると思うのである︒ 者の昨夜見た夢を今夜もまた見続ける可能性があるということ に︑有力な論拠を提供していた︒戦前のままの植民地政策が行 盤としているといわれている︒経済発展あるいは資本主義的諸 関係発展のテンポが︑第一次産業よりは︑第二次︑第三次産業 のほうがはるかに速いということから︑農業資本家は︑商工業 をあわせ考えるとき︑このような南アフリカ連邦の白人内部で の人種差別政策をめぐる見解の相異のなかにも︑後進国にたい する政策の変化がどのような関係を基礎にしてできたかが示唆 改革が寄生地主制にほとんど打撃を与えなかったという見解 ボーア人であるのにたいして︑統一党は欧州系の商工業者を地 源の開発および工業化︑労資協調による労仇者の地位の向上を スローガンにしている︒しかも︑国民党の地盤が農業資本家の 遠要である︒ところが︑この農地改革とアメリカの占領政策と
﹁アメリカ帝国主義が日本を支配するに当
つて天皇及びその相似形たる農村の権力者たる地主を決してな
くそうとせず︑かえつてこれを利用する立場を堅持していた﹂
といったことが︑まことしやかに語られていた︒そして︑農地
.われているにちがいないという信念が︑農地改革によって小作
地が低とんど消滅したという事実にたいする否認と結びついた
のである︒農地改革後一
0年の年月が︑わが国の農村がもはや
地主対小作人の対立を基本的な関係としないことを明らかに
し︑最近になってようやくこの事実が一般的に認められるよう
になった︒わたくしたちは︑さらに一歩進んで︑このような後 の
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い る か ら で あ る ︒ がどのような関係にあるかが明らかにされ︑人種差別政策をめ ばならないであろう︒
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.ロバートソン氏の﹃南アフリカ
ーその経済および政治状勢﹄
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白人ーその歴史的発展﹂ は︑まさしく南アフリカ連邦の人種差別政策をこのような視角 から考察したものである︒﹁南アフリカの経済における黒人と
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五年にイギリスのリーズ大学とケ
ンプリッチ大学に学び︑
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0年にケープタウン大学の講師
現在その大学の教授であるとともに︑
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Eアフリカぐる白人と黒人との︑また白人内部での斗争が検討されなけれ みられ︑現在の南アフリカ連邦の経済にたいして人種差別政策
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ン氏は︑けだし最近の後進国開発理論の本流に位置する人であ は︑ロバートソン氏の経済学の位置を明瞭に知ることができる︒ 連邦記録委員会
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のメンバーでもある︒業績としては︑﹃経済的個
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と﹃アダムス・スミスの伝統﹄
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個人主義の発生の様相﹄は︑すでに近代精神発生史に関する文
献として定評のあるものである︒ ﹃アダム・スミスの伝統﹄で
『雇用•利子および貨幣の一般理論』を生みだしたケインズの
月曜日の集会に出席し︑ホプソンについて研究したロバートソ
そこで︑このロバートソン氏の﹃南アフリカ﹄を要約しなが
ら︑わたくしの問題意識のもとにどのようなことが把えられた
かを記すという方法で簡単な紹介を試みよう︒南アフリカ経済
の歴史と現状についてわたくしたちは充分な知識をもちあわせ
ていないので︑このような方法によることが最適と考えたから
註
( 1
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国際連合などが後進国について考えるばあいの各国
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で︑白人と有色人種とが︑南アフリカの経済発展の過程で︑ど においては︑白人が南アフリカに到着して以来今日にいたるま .の順位は︑一九四九年にアメリカ国務省から議会に提
出された文書
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によっている︒ここでも︑この文書によった︒
( 2 )
これららの報告書の内容を理解するのに︑報告書作
製にあたった委員の名前を明らかにしておいた方がよ
いと思われる。第一会の委員はジョン •M
・クラーク、ニコラス・カルドア︑アーサー・スミツース︑ピエー
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E・ロナルト・ウォーカーであり︑第二回
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・ガドギル︑アルパート・パルトラ・コルテ
ーズ︑ジョーン・ハキン︑
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・アーサー・ルイス︑セオドール.w.ッュルズ︑第三回はジェームス.w.
アル ゼン
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・マクダガル︑ジャヴィエール
・マルケーズ、フラ・ミント、トレヴォール •W ・ス
ワン であ る︒ (3 )
この代表的なものとして細貝大次郎・上原信博﹁農
地政革の行われた内外の諸条件﹂︵﹃日本資本主義講
座﹄第五巻岩波書店︶をあげることができる︒
﹁南アフリカの経済における白人と黒人ーその歴史的発展﹂
10
七 ろの伝統と文化の広般な相異が無視されたりするならば︑南アフリカの現在の条件を理解する手助けとはならないからである﹂︵一八頁︶という見解に基くものであり︑また︑白人農民と原住民との関係が前面にでていたこの時代に︑現在世界の注 導入される過程でアフリカ人をョーロッ︒ハ人から区別したとこ るいは︑南アフリカがヨーロッパ人企業者によって世界経済に つてきたが︑これは︑もし武力衝突の歴史が無視されたり︑あ 武力衝突をも含む白人と黒人との関係をかなり長たらしく取扱 以前の歴史にあてられている︒これはロバートソン氏の﹁私は かし︑ここでは︑大部分のスペースはダイアモンドと金の発見 いうまでもない︒ロバートソン氏もこの事実を認めている︒し のダイアモンドと金の発見によって大きな変化を生じたことは 発見にはじまるといわれ︑ポアー戦争は単なる武力抗争ではな 南アフリカの歴史に重大な転機をもたらしたものにダイアモンドと金の発見があり︑この発見を契機にした﹁金の戦争﹂ーポアー戦争がある︒南アフリカの現代史はダイアモンドと金のく︑南アフリカに経済革命をもたらしたものであるともいわれている︒白人と原住民あるいは白人と有色人種との関係が︑こ のような関係をもつてきたかが追究されている︒
ープタウンにオランダ東印度会社がおかれた当初は︐必要な食 トット族との取引は非合法であり︑ケープの白人定住者がホッ したのは︑遊牧的なホッテントット族である︒一六五二年にケ 配をめぐる斗争として出発したのであった︒白人がまずでくわ ではなかった︒新入者と原住民とのつながりは︑天然資源の支 立的な抗争者の関係から︑支配者と従屈者の関係へと大きく変 よ
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たわる必要ではあるが歓迎されない道程にすぎなかった︒
南アフリカ海岸にたどりついて定往したョーロッパ人と原住
民とのつながりは︑彼等相互間の交易を行うために生じたもの と水の支配をめぐる斗争に敗れたホッテントット族が︑かつて かった︒彼等にとつては︑南アフリカは︑単に︑極東への道に されることによって生活を保たなければならなくなった︒土地 またはそこの住民に︑それ自身のために興味をもったのではな ずれ︑新入者にたいする抵抗力を失い︑かえつて新入者に雇用 目をあびている地域別土地居住法の原型がすでに実施されてい て︑このような政策の必然性を理解するのに好都合であると考 えられたからであろう︒そこには︑原住民との交易のためではな く︑インドヘの航路を発見し︑その基地を確保することを目的 民の奥地への進出によって原住民との接触が濃くなっても︑両 者の関係は︑対抗的な面が強く︑相互依存的な関係が容易につ
南アフリカは︑ くりだされなかったいきさつが︑かなり克明に描かれている︒
一五世紀の終から︑徐々にヨーロッパ人に
知られるようになった︒しかし︑ヨーロッ︒ハ人は︑南アフリカ とホッテントット族との間に激しい抗争が繰返されることにな として白人と南アフリカとの関係がはじめられ︑やがて白人農 ︒ハ人の家畜のための牧場として取上げられることになり︑白人 なると︑かつてホッテントット族の牧場だった土地がヨーロッ
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料品などをこのホッテントット族から購入しようと思っていた
がうまく行かなかった︒そして︑会社が自らの家畜をたくわえ︑
会社従業員でない白人居住者
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に農業を許すように
る︒ホッテントット族は白人の家畜を奪うことによって白人の
土地の拡大を防ごうとしたが失敗に終り︑白人は次第に奥地へ
と進出を続けてゆく︒やがて一八世紀の間に︑ホッテントット
族の間に天然痘の流行などの不幸も重なって︑部落の結合もく
自分達の牧場であった土地を占拠して営まれる牧畜業に依存す
るようになったとき︑白人とホッテテントット族との関係は︑対
化したものであった︒しかし︑この両者間に生じた新しい関係
は︑なかなか法的に確認されなかった︒オランダ人とホッテン
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し︑白人はブッシュ人を︑救い難い家畜盗人であり︑恐るべき
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九 を︑原住民に割当てた︒これらの各割当地は︑狭少で︑白人の 十 ケ 所 に 二 二 ︑
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000ェーカーの土地 テントット族を自分の住居に入れることさえ条令
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じめて︑ホッテントット族の自由が幾分か認められたが︑しか
白人が奥地へ進出してゆく過程で︑プッシュ人と接触するよ
うになる︒狩猟を主にして︑石器時代の段階にあるプッシュ族
のばあいにはホッテントット族のばあいのような共存の機会は
詣矢をもつ永久の敵とみなした︒有名な軍団組縛
(C om ma nd o Sy st em
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は︑このプッシュ人にたいするために作られたもので
ポルトガル人がバンツー語族と接触したのは一六世紀の初顕
である︒そして︑一八世紀の半頃までに︑オランダ農民とバン
ツー語族の先端とが︑東ケープでしばしば接触するようになっ
た︒バンツー語族は家畜を所有し︑牧場の側線にオランダ農民
とまったく同様の方法で小さな耕地をもち︑しかもその作物の なかにはとうもるこしをも含んでいた︒とうもろこしは︑了メ たものでありこれを耕作していることは︑バンツー語族が白人 の農業を取入れる能力をもつていたことを示すものである︒バ ンツー語族にたいしては境界が設けられ︑白人と黒人が混在す るのは︑その境界附近においてのみであった︒白人は︑この境 界を次第に奥地へおし進め︑この境界をめぐつて両者の間に抗 争が生じた︒この白人のバンツー語族にたいする圧迫は︑オラ ンダ人とイギリス人の白人間の対立によって促進された︒オラ ンダ農民︵ポアー人︶が︑ケー︒フを支配することになったイギ
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1 8 3 6 ) を吟茫汀し︑それだけバンツー語族にたいする圧迫
が強化されたからである︒ボアー人は︑各部族に分れて割拠し
ていた状態からそのなかの強者に統一されようとしていたバン
ツー語族とナタールで斗つて勝利するが︑このボアー人のナタ
ールの支配は永く続かず︑やがてイギリス領であると宣言され
ることになった︒そして︑シエプストン
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リス人のもとにいるのを嫌つて︑集団的に奥地へ大移動
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畜を︑減少しつつあるしまうまやかもしかの代用物と考えた えられなかった︒プッシュ人は︑彼等の猟場に現れた白人の家 み認められるものと明記されていたのであった︒ しその自由は白人の平和と完寧秩序を害わない限りにおいての によって禁じられていた︒一七八七年七月の条令にいたっては リカ大陸の原産で︑ポルトガル人によってアフリカに導入され
ントット族にたいして生じたのと同様のことが生じた︒すなわ
このように︑ロバートソン氏は︑ダイアモンドと金の発見以 なかった︒そこで︑定住については︑ケープにおいて︑ホッテ かへの労佑需要の集中がほとんどなかった︒このような条件の 国では︑市民の農場にたいする要求は末占拠地に限られるとい をみたす大規模の産業になされるという特殊な仕事とか地域と オレンジ自由国とトランスヴァールの新しい大移動民の共和 とられた政策であった︒ このようにして︑ナタールと東ケープとトランスケイとに︑ 民に影響をおよ匠すだけである︒しかし貿易の活動は︑はるか
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の長官が︑ナタールの原住民は一般的には労仇者となっ
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リカで土地所有を拡大することは︑この土地にかつて住んでい e , 結びつけた主要なものは貿易であった︒ヨーロッパ人が南アフ 民の労仇力の需要を満すことが考慮されていたのである︒そし なかった︒一八七
0年代までに︑アフリカ原住民を世界経済に ち︑さらに︑原住民が彼等の割当地から出て︑隣接する白人農 土地の間に分散されたが︑これは︑ ︱つには軍事的な意味をも
たと言明する仕どに︑この目的ほ達成されたのであった︒
アフリカ原住民を彼等の割当地に分離する政策がはじまるので
ある︒それは︑アフリカ人を彼等自身のバンツー語族の地域の
住民として取扱う政策の破綻が明らかとなったときに便宜的に
うことを保証する努力がなされた︒しかし︑土地が末占拠地で
あるかどうかということに関しては︑原住民の占拠は考慮され
ち︑白人が土地を陣取ると︑以前にそこを占拠していた原住民
は︑その土地の利用を許されるばあいには︑その占有権の代償 一年のうちの多くの日数の労力奉仕をしなければなら
たのに︑今はその土地を割当てられこうすることによって労仇
者として賃金をうるために佑くことを教えられたアフリカ原住
に革命的であった︒原住民がヨーロッパの商品をより多く買お
うとするならば︑彼等はそれと交換に売るものを見出さなけれ
ばならず︑このようなものとしては本質的には彼等自身の労仇
があるだけであった︒一八七
0年代までには︑原住民の労仇に
たいする需要は僅かであった︒しかも︑雇用が広い市場の要求
もとにおいては︑ただ末熟練労仇のみが需要の増大を見出すこ
とができ︑そして︑それがきわめて低廉であるばあいにのみ要
求されたのである︒
前の白人と黒人との関係を克明に画き出す︒そこでまず存在し
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に濃密になるのである︒ロバートソン氏は︑その過程を追つて 熱心にはじまり︑そして大量のイギリス人熟練土工の供給と大 ない︒これらの産業によって︑白人と原住民との接触が飛躍的 れたのではなかった︒鉄道建設がまずダイアモンド発見の後に の建設は︑大きな変化をもたらす︒これらの産業が大量の原住 民の労仇力を吸収し︑それまで貧弱な農業を基礎にして共同体 的な結合をしてきた原住民の生活は一変する︒それだけでは 労仇にたいする需要は︑ただダイアモンドの領域にのみ開か ンドからさえやってきた︒ 代に考え出されたものであった︒このような白人と原住民との 関係に︑ダイアモンドと金の発見およびその開発のための鉄道 であった︒原住民を一定の狭い地区に分離する政策は︑この時 (七•四 うに農業と商業とによる間は︑両者の交流はまだ微々たるもの った︒そして︑賃金は月︱
0S. od
か ら
週 一
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へ と
︑ そ
住民をますます労佑力の販売者に転化させた︒しかし︑このよ し︑労佑にたいする需要が︑その価格で利用できる供給を上廻 た交易はこの白人と原住民との関係を濃厚にし︑そのなかで原 供する原住民と︑その労仇力を買う白人との関係が生じた︒ま を提供する原住民との関係︑牧場雇人︑子守などの労佑力を提 ら七
0年におけるダイアモンド採掘の開始によってもたらされ
た︒最初は小規模で行われ︑普通の鉱山では︑二︑三人の原住
人 が
月 ︱
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(ニ・四四ドル︶で仇いた︒彼等は︑約三ヶ月
に な っ た ︒ そ し て ︑
を求めて採掘にやって来はじめた︒一八七四年までに一万人の
原住民の労仇力がキムバレイに見出されるはずであった︒しか
して︑労仇力が極度に不足なばあいには週三
0S. od
0
ドル︶にまで︑着実に上昇した︒原住民達は︑ダイアモンド
・ラッシに加わるために︑自発的に︵あるいは彼等の首長によ
つて︶北トランスヴァールや二
00マイルはなれたバロッエラ
一 八
七
0年から原住民が二人︑三人と仕事 らいまはその土地の一部に耕作させてもらう代債として労仇力 程鉱山で仇いた後に家に帰り︑直ちにニュースがひるまること 所有者としての白人と︑その土地のかつての所有者でありなが て両者の共存が確保された︒そして︑両者の間には︑占拠地の を掘り崩され︑勝者と敗者とが明確になったばあいに︑はじめ して白人が占拠地を拡大してゆく過程で黒人は部落結合の基礎 たのは︑天然資源をめぐるまった<敵対的な関係であった︒そ!
原住民の雇用にたいする最初の大きな剌激は ゆ
く ︒
一 八 六 九 年 か
一八九九年から一九
0二年までの間のボアー戦争は︑ダイア 全な発展を必要とした︒ このように大量の原住民労仇者を得ることが︑雇用体制の完 る ︒
0 00
以上に上つていた︒ 現在では三
0万人以上となってい
によって有色人種にたいする制限が鉱山業に課せられた︒
一 九
え ︑
一九︱一年﹁鉱山および労仇法﹂
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ウオーターランドで雇われている原住民の平均数は︑常に九六 て︑白人労務者に仕事を確保しておいてほしいという希望がふ 一九世紀の終る前に︑ウイット
っ た
︒
量のアフリカ人未熟練労仇者の供給との双方を必要とした︒し
れなければならなかった︒鉄道がキムバーレイに達したのと同
じ年の一八八五年に︑トランスヴール高原における金の発見が
ダイアモンドの発見が着手した変化を強化し完成した︒それは
外国からの資本の急速な供給を剌激し︑そして︑既存のヨーロ
ッパ人と原住民双方の中心地から遠い所で熟練労仇と未熟練労
仇の双方にたいする大量の需要をつくりだした︒熟練労佑と半
熟練労仇とは︑南アフリカに存在しなかったので︑輸入されな
ければならず︑またそれを引きつけるのに充分に高い賃金が支
払われなければならなかった︒ した一九
0四 年
に ︑
最初の重要な有色人種入国制限が行われ めに行われたものである︒この中国人労務者の輸入が行われだ 近代産業の時代をひらいた︒ウイットウォータランドの発展は 薄な農村を通過して建設された︒そのために︑労仇募集が行わ かし一般的に︑鉄道は原住民地域から遠く離れており︑人口稀
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し た
︒
する南アフリカから鉱・工業を主とする南アフリカヘの転換を
決定的にするものであった︒しかし︑この戦争は︑その直後
に︑人種問題に大きな影響を残す二つの新たなできごとを附属
︱つは中国人労仇者の輸入であり︑これは戦後黒人労務者を
大量にひきつけることができなかったから︑それを補充するた
た︒中国人労務者入国条令であり︑それはただ原住民労仇者だ
けが中国人と置かえられることを確実にしようとしたものであ
もう一つはプア・ホワイト︵白人貧民︶の問題である︒そし
一 三
年 ︑
一四年および二二年にはストライキと暴動が白人鉱山
業者により排外的な決意をすることを示威した︒そして︑立法
と慣習と組合の圧力のために︑鉱山における地位は︑実質的に モンドと金の採掘業の発達によって培われながら︑農業を主と
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展の過程を通じてたんねんにみてくることによって︑ロバート は︑ダイアモンドと金の採掘業が南アフリカに開花した特殊な 等︑有色人種にたいする偏見︑白人労仇組合の利益との協同 s s
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の忠告にもかかわらず︒これらの法律の作用は︑全体と
して︑とくに初期の数年間においては︑ヨーロッパ人職人に有
利な賃金決定に導いた。•そこで、後年には、規制、教育の不平
条件のために生じた熟練労仇者と未熟練労仇者との所得の開き
を︑これらの条件がそれ自身過去のものになっているにもかか
わらず永続させようとしたのである︒
このように︑南アフリカの白人と有色人種との関係を経済発
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主張する人が沢山いることを指摘したのちに︑次のようにのペ
わめて魅力的であるけれども︑接触をさけることによって衡
お人種間の緊張の機会が存在しない黄金時代を期待するの
は︑まったく結樅である︒しかし︑実際に︑人種差別政策を
なしとげるために︑立法行政の領域に進んで適用された方法
が︑それを究極的に解決することが人種差別政策の公然たる
~
突をさける方法であろう︒人種差別政策が完全であって︑な ﹁しかし︑人種差別政策は︑そのような態度からみればき
て い
る ︒
げ︑このプロレタリア化をおそれるところから人種差別政策を はきわめて緊迫したものとなったであろう﹂という言葉をあ ず皮腐の色に関係なく最低賃金労仇者を取扱わなければならな のできない黒人プロレタリアートが作り出されると︑その状態 一度部落の紐帯が完全に破れ︑まった<賃金に依存しながら︑ ということになった︒ 仇者にリザーヴされ︑他方各鉱山の異った階級の原住民労仇者 に支払われる平均賃金は認められた最大限をこえてはならない
この白人熟練労仇者の特権的地位は一九二四年の調停法
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とその後の産業規制によっても強化
されたー賃金規制の適用は除々に注意深くなければならず︑ま
いという﹁経済・賃金委員会﹂ 相並んで仇いているのをみて驚嘆し︑ ﹁黒人労仇者が季節的な すぺての熟練的な︑あるいは責任あるポストは高賃金の白人労 ソン氏は何を語ろうとするのであろうか︒彼は︑まず︑ドイツの 経済学者モリツ・ボン博士が︑南アフリカで世界の三大人種が ものであり︑労仇者が短い鉱山における滞在後に彼等の田舎の 部落の生活に帰るかぎり︑社会的危険は必ずしも大きくない︒ 白人労仇者の地位の確保のために熟練労仇者の地位に上ること
南アフリカの面積と人口について簡単な概観を行った後に︑ トソン氏の言を要約してゆこう︒である︒その部分が不作の年などの不幸な時に白人投機業者に 視しているのは原住民の労仇の移住的性格である︒まずロバー 時の南アフリカはそのようなものであったのである︒原住民が 企図であるところの衡突の怨恨と機会とを提起するかどうかということはまったく別のことである︒このことは︑白人がその間に衡突にもかかわらず︑異った人種の日々の生活の確実な絡み合せもまた相互依存の利益の結びつきを通じて存在南アフリカの経済発展の過程で︑白人と有色人種との関係が︑いくたの衝突や偏見にもかかわらず︑その相互依存の利益の結びつきを通じて︑日々の確実な絡み合せを進めてきたのをみたのちに︑ロバートソン氏は︑﹁人種差別政策と南アフリカの経済﹂において︑人種差別政策の起源と発展を南アフリカ経済の最近の傾向と結びつけて検討している︒そこではまず土地問題が取り上げられ︑やがて労仇問題に移り︑人種差別政策に関する主張の検討が行われているが︑ここでロバートソンが注 直に︑原住民割当地の問題を取上げる︒南アフリカ連邦における土地利用は種々の方法で制限されており︑その制限のうちでものにとつて最も目新しいものは︑アフリカ原住民の割当地以外では住民が土地を所有したり保有したりすること︑および︑この割当地内に原住民以外のものが土地を所有ないし保有することにたいする制限である︒原住民保有地は四八︑三00マイ
アフリカにおいては︑二千万ヘクタールの原住民割当地が独占
総面積の四分の一に達する︒
一九一三年の原住民土地法
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tの政策は︑こ
の特殊の土地利用の分離の起源であるが︑根本的には農業社
会︑あるいはより正確にいえば︑ほとんど絶対的に農業と鉱業
の社会のためのものであり︑連邦になった一九一0年直後の当
保有することを保護された面稽を提供することが企てられたの
安く売払われるというおそれをなくし︑保護された土地がその 的な原住民の保有のために備蓄されてきた︒これはこの地域の ル平方であり︑連邦の面積の一0分の一より僅かに多い︒南西 あまりにも明瞭に示すにすぎないのである︒﹂ したという過程を逆転させようとする教条的な試みの危険を 南アフリカに最初に定住してから︱︱
10
0年間を通じて生じ︑最も特徴的でありまた複合社会における生活の経験をもたない
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にたいする制限された添加の過程を動きださせるためにとられ
︱︱五
土地にたいするすぐれた実質的な附加となったことである︒よ れるにちがいない︒真実は︑ 全にしようとすることが企てられた︒しかしながら︑ようやく されたような充分の意義をもたなかったということが注目さ している︒この原住民割当地に附加される土地購入計画が予期 的な移動労佑者としてであれいたので︶住んでいなかった︒そ の交換率では二八
00万ドル︶の取定めがついやされたが︑ト 一九一三年から連邦はそれまで特徴的であった比較的変化の とから防ぎ︑かくしてかなりの農民が原住民を固定して自らが より企業的な隣人となることからはなれることを防ぐことが企 て ら れ た の で あ る ︒
ない経済からはるかに発展してきた︒土地法が公布されたとき
でさえ︑原住民人口の三分の一にたいする四分の一は︑それが
原住民地域として計画した地域に︵他の所に永久的であれ一時
して︑予定の原住民地域に隣接する数百万エーカー以上の地域
をアフリカ人による購買に解放することによって分離の型を完
二三年が経過した後にはじめて︑実際の進捗がこの原住民地域 た︒しかし国家基金をこの目的に割当てることは︑きわめて不 に多くの原住民農民にたいして借すという安易な方法をとるこ の手中に入っていた備蓄地に隣接する土地に一般的な囲をし も達する大農場を小さな土地片にして︵耕作権とともに︶さら カ人の福祉の増大がほかられた︒最初には年々約百万ポンド から支払われる金額を加えたものによって金融されて︑アフリ 保有者をして彼等の大部分の日を怠惰に過すことのできるほど には大きくないことを確保するためになされたのである︒耕地 の他の部分を土地略奪的な材木破壊的な原住民の農業の実施か ら保護すること︑白人農業者がしばしば一〇︑マイル平方以上に たのである︒一九三六年に︑原住民のトラストが設立されて︑ 原住民の人頭税の収益に︑ が︑トラストによって︑購買用に備蓄され︑そしてかつて白人 規則となるようになった︒戦争中には︑それらは中止され︑そ して︑戦時および戦后のインフレーションの過程での土地価格 の騰貴のために︑戦後数年のいくらかにおける献身も全部で一 五
00
万エーカーの土地の購入となっただけであった︒この土
地 は ︑ 最 初 に は ︑
‑0
年間に完成することが希まれたものであ
った︒千万ポンド︵一九四九年九月のポンドの取下げ後の今日
ラストはまだ最初に計画された地域にまだ四百万エーカー不足
それが原住民保有に利用できる 一般的歳入ないし国家の貸付基金
われわれの発表された統計はアフリカ原住民の職業的分布に で 増 大 し て い た ︒
000
人 の 白 人 女 子 と 臼 製 造 業 に 従 事 し て い た ︒ 間に平等に敬布されていた︒一六二
000人の白人男子と四四 五年後の一九五一年にはその比率はちょうど二九彩足らずにま
00
人の女を含んでおり︑また雇用も異った人種のグループの の町に住んでいた︒ニ一年前の一九ニ︱年のセンサスでは︑わ ずかに︱ニ・五彩のアフリカ原住民が都市地域に集り︑他方︑ が建設業に雇われていた︒これもまたほとんど男性に限られて 年のアフリカ原住民の人口の約四二彩が原住民割当地に住んで おり︑他方︑二八彩が白人保有の農園に︑二三彩が混在の鉱山 万四千人のアフリカ原住民︑そして一万三千人の他の有色人種 七 八
0万人の原住民のうちの三二五万人︑すなわち一九四六 理解はかなりの量の特殊な知識を要求する︒ れた﹂原住民地域のいずれか以外に住んでいる︒最近発表され た細かな分類が一九四六年センサスにおける状態を示し︑その
000人の有色人種が国鉄体系に雇われていた︒婦人はここで 分のアフリカの人口はまだ﹁予定された﹂かあるいは﹁解放さ P u
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設立されたということは普通になってきた︒はるかに多くの部
0人の有色人種とが金鉱に雇われており︑他方炭坑は五五
00ことさえしばしばあることである︒ことに北トランスヴァール に
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ぃべっかの部分の部落が王領地(Crown
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000人の黒人とが鉱山に雇われていた︒この大部分が男 有であったにもかかわらず︶部落の基礎の上に保有されている
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鶴嶋
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り大きな部分の﹁解放﹂地域は︑実際に︑すでに原住民の家族
︵それがかつてヨーロッパ人の所 によって保有され︑そして︑ し︑南アフリカにおける雇用型のすばらしい発展は示すのに困
難ではない︒一九五六年の半ばには︑六五
000人の白人と四
であった︒三三
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人以下がアジアないしケープ・カラードと
してしられる混血であった︒五一
000人の白人と三六二
0010
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000
人の黒人︑そして一︱
0人の有色人種とをもつてこの領域で第二に位置してきた︒総
計
1一 三
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