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―居場所を利用した不登校経験者へのインタビュー による検討―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

不登校児童生徒の適応に向かう転機についての考察

―居場所を利用した不登校経験者へのインタビュー による検討―

著者 大原 史也

発行年 2016‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/00013054

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2015年度 修士論文

不登校児童生徒の適応に向かう転機についての考察

―居場所を利用した不登校経験者へのインタビューによる検討―

奈良教育大学大学院 教育学研究科 修士課程 学校教育専攻 教育臨床・特別支援教育専修

131303 大原史也

(3)

目次

問題と目的 ... 1

研究の方法 ... 3

1)調査対象 ... 3

(2)調査期間 ... 4

3)手続き ... 4

4)調査内容 ... 5

5)分析方法 ... 6

事例と結果 ... 7

1)事例A ... 9

2)事例B ... 15

3)事例C ... 23

4)事例D ... 32

5)事例E ... 40

6)事例F ... 50

7)事例G ... 55

考察 ... 64

1.インタビュー結果の考察 ... 64

1)居場所 ... 64

2)タイミング ... 81

2.総合考察 ... 96

1)自己肯定感 ... 96

2)周りからの刺激 ... 97

3)何ができるかよりも誰がいるのか ... 99

4「普通」への思い ... 99

まとめと今後の課題 ... 101

謝辞 ... 103

引用・参考文献 ... 104

(4)

1

問題と目的

筆者自身も不登校が理由で病弱養護学校に通っていた経験を持っている。最初は「なぜ 自分が養護学校に」という思いが強かった。だが、ありのままの自分を受け入れ状態に応 じた指導をする教師たちや、同じ悩みを持つ仲間たちとの出会いによって「なぜ」という 思いがなくなり、養護学校こそが自分の居場所であると感じられるようになった。

不登校問題の現状として文部科学省は、『平成26年度文部科学白書』2015)の中で、

平成25年度の調査結果から「小・中・高等学校における不登校児童生徒数は175,000 と、依然として相当数に上っています」と不登校児童生徒の数が多いことを問題視してい る。また、「生徒指導・進路指導総合推進事業」において、教育委員会が設置、運営する適 応指導教室を活用した取り組みなどについて調査研究を実施している。それと同時にNPO 等の学校外の機関などに対して、不登校児童生徒の実態に応じた効果的な活動プログラム の開発などを委託している。また、国会への上程は見送られたが、小中学校以外の場での 普通教育を認めることなどが盛り込まれた「多様な教育機会確保法案(仮称)」についての 議論も行われている。不登校支援において、それまで通っていた以外の場所の働きにも注 目しているといえるだろう。

停滞状態にある不登校の子どもたちに対し、大人の関わりとしては、出席日数を稼ぐこ とを第一に考え、保健室登校や、フリースクールなどへとつないでいくことを考えがちで ある。だが、子どもたち本人は出席のためならばどこへでも行きたいというわけではない。

どのような場であり、どのような人がいるのかということが大事なのである。関係性を作 り、場や大人、仲間への信頼関係を築いていくことではじめて安心することができる。エ ネルギーが溜まるまで待つという考え方や、子どもが自己決定するまで待つという考え方 の基で子どもたちと関わる場も存在しているが、それではいつまで待てばよいのだろうか。

実際に不登校の子どもたちと関わっていると、そのような点で子どもと大人にずれが生じ ているのではないかと感じる。

停滞状態を抜け出すため、今通っている学校と別の場所を利用するという決心が大きな 転機となる場合がある。緒方ら(1996)は病弱養護学校を卒業した不登校生徒の前籍校で の出席率と転入後の出席率を調査している。その結果、前籍校での出席率よりも養護学校 に転入後の出席率の方が高くなっており、その理由として「養護学校が治療構造の視点か らすぐれているからだけでなく、病院に入院して隣接する養護学校へ登校しようとする登 校意欲が転入の時点ですでに対象とした不登校生徒にあったと考えられる」と述べている。

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2

大きな決心を経てやってくる子どもたちであるが、その心はまだ脆く支えが必要となる。

そこで貝塚養護学校の寄宿舎指導員であった大藤栄美子(2012)の実践に見られるような、

子どもたちを全面的に受容し、信頼関係を築いた上で生活の中から指導していくという姿 勢が求められる。また、自己決定について、田中(2001)は、純粋な自己決定は存在せず、

コミュニケーションの中から導き出されるものであり、「子どもの意識内で『自分が決めた』

という思いがあった場合、それを『自己決定』というのではないだろうか」と述べている。

ただ単に待ち続けるだけでは選択は引き出されず、大人の関わりは欠かせないのである。

だが、いつでも同じ関わり方をすればよいということではなく、小野(2003)が述べてい るように、不登校の子どもの段階をとらえ、その段階に応じた関わりが求められる。

本研究では、不登校を経験し、それまで通っていた学校以外の場を利用した経験を持つ 者を対象とし、インタビュー調査を行う。同じく不登校経験者を対象とし、インタビュー 調査を行った研究として松井ら(2012)は、不登校経験者の予後に注目している。義務教 育終了後は、自分が安心できる場にこだわり過ぎている姿を指摘し、その場を広げ自分の 問題と向き合っていくことが重要であると述べている。その後の研究で松井ら(2013)は

「日常の中で、彼らの本質的な問題を見据え、働きかける他者の存在が不可欠である」と 生活に沿って支援することの大切さを指摘している。他にも松坂(2010)の調査では、不 登校経験の意味に注目している。不登校の弊害はすぐに現れるが、不登校になったからこ そ感じられた成長感や、特別な経験をした実感などの利益は、浮き沈みを乗り越えてきた こと、マイナスからプラスに転じる伸び幅により、肯定的な成長を感じられる。そのため、

不登校経験者はその経験に意味を見出すのであると述べている。

そして本研究は、不登校経験者に対する支援のタイミングに注目する。彼らがそれまで 通っていた学校以外の場を利用するに至った背景や、その場が居場所となっていくまでの 過程を調査し、どのようなタイミングで子どもに働きかければよいのかということを明ら かにすることを目的とする。また、その後の進路決定や、段階に応じて越えられた壁や、

越えられていない壁を調査することで、不登校の子どもたちが一歩を踏み出すきっかけや、

学校外の場を利用する意味を明らかにすることができると考える。

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3

研究の方法

1)調査対象

義務教育期間に不登校を経験し、その後定期的に通うことのできる学校外の場を利用し た不登校経験者7名を対象にインタビュー調査を行った。対象者の詳細は表1に示した。

年齢等は1回目のインタビュー時のものである。また、客観的なデータによって対象者が 不登校経験者か特定できないため、貴戸(2004)を参考にし、自らを不登校経験者と語る 者を不登校経験者としている。

利用した学校外の場を居場所とした。居場所は、移り変わるものであり、複数存在して いると考えられるが、ここでは最も影響を受けたと推測される場所を居場所として考えて いる。また、居場所に関しては柴田ら(2011)が述べている「何からかの理由により社会 へ参加する意欲をなくした人が、仲間や支援者とともに、再び社会参加への意欲を高める ための場所や集団活動」という定義に沿って考えた。

今回、対象者の転機に大きく関わった居場所は、適応指導教室、病弱養護学校、病弱養 護学校寄宿舎、親の会である。物理的な場所だけでなく、集団活動まで居場所を広げて考 えている。自助グループである親の会は、生活の場とは言えないが、調査対象者にとって、

親の会との出会いは転機となっている。不登校を経験者にとって居場所となりうる場所は、

教育機関や、それに準じるものだけではなく、幅広く存在しているという視点から、調査 対象者とした。

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4 1 調査対象者

2)調査期間

20143月~201510

(3)手続き

対象者の選定は不登校支援の場や、彼らが所属していた場が主催するイベント等で出会 い、関係性を築いた上で、自らの経験を客観的に振り返ることができるだろうと考えられ る対象者に限定して依頼を行った。

1回目のインタビューを20143月~5月に、2回目のインタビューは20158月~

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5 2 質問項目

10月に実施した。時間は2回とも12時間で行った。

インタビューは、半構造化のインタビューの手法を用い、研究協力者の了解を得て IC レコーダーに録音した。なお、研究協力者からは、研究に利用することに関して同意書に サインをもらっている。データに関しては、個人が特定されないよう、加工を行っている。

(4)調査内容

1回目のインタビューの質問内容は表2に示した。内容については松井ら(2012)や松 坂(2010)を参考に作成した。協力者の全体像を掴むため、主に不登校以前と以後の生活、

現在までの生活について聞き取りを行った。1 つ目の視点は不登校以前の生活であり、家 庭環境や不登校前後での生活の変化についてである。2 つ目の視点は不登校以後の生活と して、居場所とした場所に出会うまで、出会ったきっかけ、居場所へとなっていく過程に ついてである。3 つ目の視点は現在までの生活について、生活上壁になったことや、進路 などの自己決定についてである。

2 回目のインタビューは、1 回目のデータを分析した上で、聞き取りが足りない部分に ついて調査を行った。対象者は、調査時の状態が比較的安定しており、追加して聞きたい 項目があった対象者CDFGである。

詳細

・不登校になるまでの生活

・不登校になる前、後で変わったこと

・出会うまでの生活

・出会ってからの変化

・利用を決断するまでの過程

・決断を後押ししたもの

・自分の居場所として受け入れるまでの過程

・現在の生活につながっていると感じること

・進路決定までの過程

・選択した背景

・乗り越えられたもの

・乗り越えられていないもの

・葛藤として残り続けているもの 視点

不登校以前の生活 生育歴

不登校後の生活

居場所と出会うまで

居場所を利用したきっかけ

利用後の生活

現在までの生活 進路

壁となったもの

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6

5)分析方法

インタビューを逐語に起こし、語られた内容をカテゴリー化し、それらをもとに対象者 それぞれの特徴や共通点などを比較検討する方法で分析を行った。転機に関連する語りを 文章単位で抜き出し、内容別に要約し、要約したものを領域に分けて整理する。整理され た領域ごとの特徴を文章化する。その後、複数の事例で共通する特徴をグルーピングする という手順で分析を行った。

グルーピングを行った結果、転機に関するデータを集め、「タイミング」という領域を作 成した。そして、特徴が似ているデータを集め、下位カテゴリーを作成し、その下位カテ ゴリーを特徴ごとに分類し、上位カテゴリーを作成していった。その後、分析に使われな かったデータの中に「タイミング」では分類しきれないが、共通点が見られるデータの集 まりができていった。そのデータの集まりを「居場所」として、新たな領域を作成し、「タ イミング」領域のデータ、分析に使われていないデータ全てを見直し、グルーピングを行 った。「居場所」に関しても、「タイミング」と同じように下位カテゴリー、上位カテゴリ ーを作成し、分析を行った。

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7

事例と結果

7 つの事例インタビューは対象者が全員、不登校を経験し、それまで通っていた学校以 外の居場所を利用した経験を持っている。現在は不登校や引きこもりというような状態に はおらず、安定した社会生活を送っている元不登校当事者である。

インタビューは、3事例に対しては 1回ずつ、4事例に対しては2回ずつ行った。表2 の視点でインタビューを行い、分析を進めた。語られた内容を切片に分け、コードを作成 し、類似性を考慮しながらグルーピングを行った。その結果、「居場所」と「タイミング」

という2つの領域に分け、それぞれ上位カテゴリー、下位カテゴリーを作成した。

表記されている対象者の年齢は、インタビュー調査を行った時点での年齢である。年を 重ねることで、経験の位置づけが変わることも考えられるが、その時点で振り返った内容 で考察する。

また、「居場所」と考えられる場所は 1 つに限定されず、複数あるものであるし、移り 変わっていくものである。今回は、心理的安定という観点から考え、転機に大きく関わっ ている場所を居場所として考えた。そのため、分析段階では複数の居場所について扱って いる。

以下に 7 事例から語られた体験や思いを、視点ごとに記述する。「」はインタビュー内 で語られた印象的な語りである。

作成したカテゴリーは表3と表4に示した。

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8

3 居場所 表4 タイミング

上位カテゴリー 下位カテゴリー

自分で決めているという感覚 自らに問う

問題と向き合う どうなっても大丈夫 これからを考える 追い込まれた状況 外との繋がり

前向きになったときに選択肢がある 情報を得る

大人への信頼 受け入れられる この人だったら 人を通して向き合う

信頼している人からのアドバイス きっかけを求める

暇と思える余裕 整理する時間 自己決定

決断するまで

安定した生活 人との関わり 上位カテゴリー 下位カテゴリー

段階的に慣れていく 落ち着ける場所を作る 生活を組み立てる

頑張れば越えられそうなハードル 楽しみを共有する

友達と関わる 自分を見てほしい

ありのままを受け入れられる 問題と向き合える

ありのままの自分を許す 普通になれた感覚 当たり前の生活 特別扱い

特別が普通である空間

同じ悩みを抱える仲間との出会い 普通

同質集団 生活を作る

友達との時間

無条件の承認

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9

1)事例A(男性・18歳・適応指導教室を利用)

小学生の頃に両親が離婚し、母、姉との 3人暮らしをしていた。中学生1年生のとき、

中先生から理不尽に怒られたことがきっかけで不登校になった事例である。中学校3年生 から適応指導教室の利用を始め、中学校卒業まで利用し続けた。中学校卒業後、全日制高 校、4年制大学へと進んでいる。現在は大学生である。

①成育歴 家庭環境

小学校5年生の頃に両親が離婚。以降、本人、母親、姉の3人暮らしをしている。母親 は仕事で家を出ている時間が長いため、その頃から洗濯や、ご飯を炊くなどの家事を任さ れていた。不登校になってからは、家にいる時間が長くなったことと、姉が学校で忙しく 家にいないことが多かったため、Aさんが家事を任される比率が高くなった。しかし、任 される家事が少し多くなったというだけで「時間がすごいあるうちにちょこちょことする ぐらいなんで」と、本人にとっては大きな変化ではなかった。

不登校になったきっかけ

不登校になった理由は、中学生の頃、同じ部活の友達と喧嘩になった時、教師から理不 尽に怒られたことがきっかけとなった。お互いが悪かったにも関わらず「一方的に僕だけ 怒られて、それで教師のこと、めっちゃそこでキレて、それでもうええわってなったんで すよね」と、それ以降、ほとんど学校に行かなくなってしまった。

②居場所と出会うまで 家の中の生活

学校を休み始めても、友達とのつながりは切れず、休みの日は一緒に遊んでいた。平日 は、部活の後は疲れて遊べないだろうと考え、誘うことはしなかった。

家での生活については、平日は「ほぼ同じルーティンで動いてるという感じ」で過ごし ていた。決まった時間に起き、決まったテレビを見てぼうっとし、お昼を食べ、ゲームを したり、漫画を読んだりという生活を続けていた。そのような生活は楽しいからしている ということではなく、「自分がやってることにも関わらずやらされてる感じ」であり、何か 目的があって行っていたことではない。また、起きてからトイレに行く、顔を洗うなどの

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順番も全て決めており、強迫的にこだわっていた。落ち着いた生活を送ることはできてい たが、満たされた生活ではなかった。

完全に引きこもって生活していたということはなく、平日であっても欲しい本やゲーム があれば自分で買いに行っていた。学校がある時間帯でもそれは変わらず、あえて学校の 前を通って行くこともあった。

③居場所を利用したきっかけ

1度目の出会い

最初の出会いは中学2年時、担任の先生からの紹介だった。何度かこういう場所がある という形で紹介されており、1回行ってみいいへんかということで、1回くらいならいい かな」と「深く考えず行った」。そのように、言われるがままに行き、適応指導教室自体に は嫌な感じはしなかった。しかし行きたいとも思えず、「別に、ええかなみたいな」と継続 して通うことはなかった。なぜこんなところに行かなくてはならないのかということを思 うことはなかったが、行きたいとも思えなかった。そのときのことは「印象にあんまり残 ってなかった」と魅力も感じられなかった。

2回目の出会い

中学3年生の1学期、「もう3年かと思って、ちょっと一応高校も行かなあかんし」と 思っていたところに適応指導教室の先生が家までやってきた。全く知らない先生だっため、

驚いたが、その場の流れで、「ほぼ拉致られる感じで」先生の車に乗り、2人だけで近くの 喫茶店まで行った。そこで先生といろいろなことを話し、また明日迎えに行くからという 話になっていた。Aさん本人は行くとも一言も言っていなかったが、「はい」と答えること しかできなかった。

翌日、本当に来るのかと考えていたら、先生が本当にやってきた。行く、行かないで時 間をかけることもなく、すぐに家を出て、適応指導教室に向かった。そのとき、先生がや ってきたことは、「嫌じゃなかったです」と拒否感はなかった。また、「まあいいかなって。

おもしろいことないし」と家での生活を暇と思い始めているタイミングであり、学校に行 こうかなと思い始めているタイミングでもあった。そんなときに先生がやってきて、「無理 やり連れて行ってくれたのはよかったかもしれない」「強引に連れだしてくれた方がよかっ たかもしれない」と、多少強引であったとしても、きっかけとなってよかったと思ってい

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11 る。

危機感を持って

適応指導教室に通わなかった中学2 年生時と、通った中学3年生時の違いについては、

「危機感じゃないですか。中3やばいな、もう1年しかない」と振り返る。次の段階が見 えてきているのか、来ていないのかという違いがあった。その違いは同級生の友達との関 わりの中で生まれてきたものだった。遊んでいるときに進路の話になり、『お前どうすん の』みたいなことを言ってて、そうか進路決める時期か」と気がつき、自分のこれからを 真剣に考え始めた。中学校行っても勉強はわからない、部活に行ってもレギュラーが決ま っている中に入っても迷惑だろうと、どこかに行かないと考えていた。そんなときに、適 応指導教室に誘われ「じゃそっち行こうかな」と思うことができた。また、「出席日数に入 るのがたぶん大きかった」と進路に向けて出席日数を稼ぎたいという思いもあった。そし て、「新しいところに行った方が逆になんかにいいかな」と心機一転して始めようという気 持ちもあった。

④利用後の生活 楽しいことと辛いこと

最初の 23 週間は先生が家まで迎えに来て、通っていたが、その後は自転車で通うよ うになった。

通い始めてすぐに安心して過ごせる場にはならず、「安心というよりは遊びに来てる感じ」

で通っていた。Aさんの入室タイミングは、同学年の子ども達が増え始めていた時だった。

その子ども達とは仲良くなりたいという思いが強く、どのようにしたら仲良くなれるのか 考えながら生活していた。その点で、楽しいと思えるような余裕はない生活を送っていた。

そのような生活を送っていくうちに、気がついたらその空間にも慣れ、楽しいと思えるよ うになっていた。遊びにきて楽しいという面が強く、指導員から勉強したらと言われても 何もせず、ただただ楽しい時間を過ごしていた。

3 年生になると受験に向けた勉強が始まり、適応指導教室内でも、みんなで勉強すると いう雰囲気になっていった。勉強することを求められ、午前中は勉強、午後からは遊ぶと いう枠組みが出来上がっていった。その頃、子どもたちの間で卓球が流行り、それをきっ かけにして同級生との距離も縮まっていった。卓球は勉強してからであるが、Aさんは遅

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く登校し、あまり勉強しないようにしようとしていたが、そんなときは先生が離してくれ ず、「あんた来るの遅いんやから長いことしい」と卓球の時間を削られていた。しかし、嫌 な思い出ではなく、楽しい思い出として残っている。

色々なタイプの人と付き合えるようになった

適応指導教室の生活で、現在までつながっていることは「癖の強い子と接しやすくなっ た」と振り返る。適応指導教室に来ていた子どもたちは癖の強い子が多かったが、そこで 接した経験があるから、今ではどんな子でも接することができるようになった。それでも 関われないなと思うような人もいるが、「こいつ無理やわって思っても顔とか態度には出さ ないようになりました」と人との関わり方を学ぶことができた。

高校ではアスペルガー障害の診断を受けている同級生がおり、あまり仲良くないのによ く話しかけてきた。他の同級生は関わることを避ける中、Aさんは「上手いこと受け流せ る」対応をしている。関わりにくいような先輩に対しても、「上手いこといけます」と対応 できている自信を持っている。嫌いな相手に対しても「上手いこと距離感を作れる所を作 れたのは大きいと思います」と、人数の少ない適応指導教室で経験した濃い人間関係の中 で学んだことを生かしている。

⑤進路 制服を着たい

高校進学時、学校に通っていなかったということで、内申点が足らず、高校の選択肢は 限られていた。そこに行くしかないと高校を選んだが、高校に行こうと思った背景には「自 分の中で高校は出とかなあかんみたいなところはあった」という思いがある。また、「行く んやったらちゃんと登校してみたい」と、全日制高校にこだわりあった。中学校の定期テ ストは制服を着て受けていた。そのときに「制服着るのええな」と思い、「ああ制服やなっ て。それで制服をちゃんとまた着たいなって思って」と全日制の普通高校に進みたいと思 うようになっていた。

⑥壁となったもの 隠すつもりはない

高校進学後、適応指導教室に通っていたということに対しては「別に行ってなかったこ

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とを隠すつもりはなかった」と不登校経験を隠すつもりは最初からなかった。また、同じ 中学校出身の同級生が多くいて、隠せるような状況でもなかった。入学までその存在は知 らなかったが、会っても「本当に変な感じ」というだけで嫌な感じはしなかった。

ブランクを取り戻す

高校1年生の1学期は「中学校のブランクがあった」ために「戻すのに必死」に生活し ていた。高校に適応することが大変なことであり、「必死すぎて 1 学期の頃なんて何して たか覚えてない」というほど追い込まれながら生活していた。入学してすぐに人の多さに 驚いた。人の多い高校ではなかったが、中学校には行けていなかったということで、教室 30 人ほどの人がいる空間に圧倒されてしまっていた。誰がいるのかわからない公共の 場とは異なり「全員知らないわけじゃなくて、顔見知りで1年間付き合っていかないとい けない」ということに大変さを感じていた。

そんな中、夏休み中に生徒会の仕事でよく学校に行くようになったことがきっかけとな り、適応できるようになっていった。生徒会の仕事ということで様々な行事に呼ばれるよ うになり、そこで仕事をしていくことで「いろいろなことを経験できたのはよかった」と、

適応が進み、2年生のときはもうブランクはなかった」。高校1年生の間で集団の中で過 ごすことに慣れ、「普通に生活してて、普通にいたら戻っていた」と、気がついたら大変さ を意識することもなくなっていた。

生徒会

部活に所属していないということで生徒会担当の先生から生徒会に参加しないかと誘わ れ続けていた。文化祭で忙しい時にもやってくれるかと聞かれ、「やりますとすごい適当に 返事したんです」「それで勝手にやることになりました」と生徒会に所属することになった。

また、家に帰っても何もすることがなく、バイトを始めると勉強に着いていくのが厳しく なるのではないかという思いもあった。そんな中、活動は毎日ではないということを聞き

「じゃあやってみようなかって」ということで生徒会に所属したという面もある。

生徒会に入ってよかった

生徒会に所属し、様々なイベントに参加することを通し、成長することができ、「やって なかったら本当に何も中身のない3年間を過ごしていたと思う」というほどに大きな経験

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となった。特に、高校3年生の文化祭では、ステージイベントの司会を務めたことは大き な経験となっている。自分たちが中心となり企画したイベントであり、その中心でイベン ト運営に関わることができたことは大きな達成感と、自信を得ることができた。そのとき のことを「ああ司会できたなって。まさか司会できるようになるとは思ってなかった」と、

自分の成長を実感できた出来事として振り返る。

成長を実感する

高校の入学式では11組、出席番号1番ということで、入学式では先頭で出ていく役 目を担った。人が多いだけで緊張している上に、先頭ということも加わり「入学式の1 1番は最悪」と苦しかった思い出として心に残っている。そして、卒業式でも1組の1 で「緊張していらんわ」と思っていたが、「卒業式の11番は緊張しなかった」「やっぱ り慣れたんかなって思いましたね、大勢いるところに」と、緊張しなかった自分の成長を 実感する卒業式となった。

勉強面でのサポート

受験勉強を頑張ったとは言え、中学校での学習は不十分であった。そのため、勉強面で は苦しむことが多く、特に「積み重ねがないので数学はわからなかった」と、積み重ねが 必要な教科である、数学と英語が特に辛かったと回想する。しかし、「副担任が数学の先生 でよく教えてもらいに行っていました」と、わからないことはわからないと、先生によく 聞き、自分なりの努力を重ねていった。

⑦まとめ

1つ目の転機は中学3年生時、友達との関わりの中で進路について真剣に考え始めてい たときに、適応指導教室指導員が家までやってきたことである。多少無理やり出会ったと しても、動きたいと思っていたところで動くことができた。2 つ目の転機は、高校入学後 に生徒会に入ったこととである。学校内での自分の役割や落ち着ける場所を獲得すること で、高校生活に適応していくことができた。

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2)事例B(女性・18歳・適応指導教室を利用)

小学校1年生の頃に父親が蒸発し、母、祖母との3人暮らしをしていた。父親は小学校 5 年生の頃に戻ったが、別居状態で一緒に暮らすことはなかった。家族よりも親戚と過ご す時間が長く、家庭環境は安定していなかった事例である。小学校5年生のとき、父親が 家に戻り、環境が大きく変化してしまったことがきっかけとなり不登校になった。適応指 導教室は中学校2年生の2学期から中学校卒業まで利用していた。中学校卒業後は単位制 高校、専門学校と進んでいる。

①生育歴

家族と過ごした記憶はあまりない

幼い頃から家の周りには親戚が多く住んでおり、親戚と過ごした記憶が多い。小学校 1 年生の頃に父親が蒸発し、祖母の家に引っ越したことも大きな変化となった。祖母の家は 工場をしており、大人たちと関わることが多かった。そのような環境下で、誰と誰の仲が 悪いなどのことが見えてくるようになった。「周りの大人をすごくよく見るようになって」

大人との関わりの中で上手く立ち回れるよう意識するようになった。

幼稚園児の頃には長期休暇の際には親戚の家に預けられており、父親が蒸発してから母 親は工場の手伝いで忙しく、親と一緒にいたという記憶はあまりない。「あんまり親との記 憶というより、いとことの記憶の方が大きい」という幼少期を過ごしていた。

いとことの関係

よく関わっていたいとこは4歳年上の女性と、10歳以上年上の男性の2人いた。女性は 姉のような存在で、その人がリストカットしているのを見て、小学校5年生頃から「半分 まねごとみたいに始まって」中学校2年生の終わりまでリストカットが続いていた。自分 とその人の悩みや、思いなどを言い合うための「コミュニケーションツールの1つみたい な感じ」で使い、女性のいとこと繋がり、辛い気持ちを共感し合っていた。

男性は年が離れているということもあり、「結構話を聞いてもらったりとかで助けてもら ったりはした」という関係性であった。

親戚全てが家族のような感覚があり、「いとこ連中がやっぱり 1 番支え的にも大きかっ たかな」と親との関係を補完する存在でもあった。

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16 父親との関係

小学校1年生頃に蒸発した父親は、小学校4年生の終わり頃、家に戻ってきた。戻って きたことで家庭環境が大きく変化し、それに加えて「子ども返りみたいな感じがあって、

幼稚園とかで甘えたい時期に甘えなかったというのもあって」父親に甘えたいという思い から学校にも行きづらくなっていった。

②居場所と出会うまで 落ち着けない家での生活

学校に行けないことについて、母親からは強く当たられていた。「無理くり学校に引きず って行かれた」「引きずって行かれて教室に放り込まれる」こともあった。Bさんにはきょ うだいがおらず、父親も家にいないということで、母親の焦り、イライラは全てBさんに ぶつけられていた。母親に強く当たられる中で「いや、あなたたちのせいで行ってないん だよ」という思いで過ごしていた。

そのような環境にある家での生活は負担が大きいものであった。「家にいることがストレ スやけど、家以外に、お金を持っているわけではないから行けるところもない」というこ とで、どこへも行くことはできなかった。親戚の家に行くことも考えたが、すぐに母親に つながってしまうと考え、行くことはできなかった。Bさんが生活していた家は祖母の家 であったため、いとこたちがよく遊びに来ていた。1番しゃべっているのはやっぱり4 上のいとこのお姉ちゃん」「大人にはしゃべらない」「いとこのお兄ちゃん、お姉ちゃんが 大事」と、親に話せないことも話せるいとこ達は大きな存在だった。

短期間の学校の復帰

小学校5年生の2学期から不登校になっていたが、6年生の3学期から、中学校1年生 の最初までは学校に通うことができていた。6 年生のときは「卒業やしなという、ただそ れだけ」という心境の変化によって通うことができた。また、関係がこじれてしまってい た友達グループから離れることができたということも関係している。

中学校1年生になると、最初の1週間ほどは通うことができていたが、すぐに通うこと ができなくなってしまった。仲が良かった友達は、周りの人達に馴染むのが上手かったた め、中学校に入ってもすぐに溶け込むことができていた。それを見たときに「あそこに入 れるわけない」と置いていかれてしまったように感じ、「居場所がないなって思ってしまっ

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17 た」ことで再び通うことができなくなってしまった。

保健室登校

いとこのお姉さんが通っていた中学校と同じということで、保健室登校の存在は聞かさ れていた。保健室登校は1年半ほどしていたが、居心地がよかったから通っていたという ことではなく、家にいたら母親から怒られるだけであり「あんだけやんや言われるんやっ たら学校でじっとしてる方がまし」という思いだけだった。充実した時間を過ごしていた わけでもなく「保健室行って、ぼーっとして」過ごしているだけの時間だった。また、保 健室の先生は、勉強や、その他の活動を常に何かしていることを求める人であり、それを うるさく思っていた面もあった。

中学校1年生の中頃から、2年生の最初までは保健室登校もしていない時期があり、そ のときは大きな理由はなく、何となく行けていない時期であった。2 年生になり、保健室 登校を再開すると、保健室登校をしている生徒との間で揉め事が起き、保健室登校も完全 にしなくなってしまった。

先生との関係

担任の先生との関係は険悪なものであった。話を聞いているというよりも、自分の考え を押し付けてくる先生だった。とにかく学校に来なさいという働きかけがほとんどで「ケ アとかも一切なく、ただ単にやんちゃなやつとして見られて」いた。「たぶん見て欲しかっ たというのもある」と振り返り、自分と向き合ってくれるような関わりを求めていたにも 関わらず、それは一切なく、関係は悪くなっていった。

③居場所を利用したきっかけ 保健室の先生からの紹介

保健室登校を再開し、再び行かなくなっていたときに保健室の先生から適応指導教室を 紹介された。保健室の先生が適応指導教室とのパイプ役になり、つながり始めた。また、

適応指導教室はフリースクールのようなところということを聞かされ、「その時読んでた小 説の内容がそういうフリースクール系の話で」「本の世界に近いしちょっと行ってみようか な」と、前向きに考え始めていた。

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18 この状況からの脱却

小学生の頃から関わっていたガールスカウトと、中学2年生から所属し始めた芸能事務 所での経験が、進路について具体的に考え始めるきっかけとなった。ガールスカウトでは 年の近い子ども達と関わるため、中学校の話題が多くなる。しかし、中学校に通っていな いためにその話題に入ることができず「やっぱり普通の生活を送れてないんだっていうの はすごい身にしみて感じる」「学校の話になると行ってないから疎外感があるから、ああど うしようってなって」と、一般的な同年代との関わりで自分の置かれている立場について 考えるようになった。そして「このままいったらたぶん末路は見えてる」「環境を変えるた めにも行くべきかって行き出した」と入室を決心した。

仕事面では、芸能界で生きていく上で、学生時代の話題は必要となると実感し「普通の 生活を送らないと仕事が成り立たないと思ったから」、入室に向かったという影響もある。

④利用後の生活

マイナスの印象からのスタート

入室当初、同い年の子どもはいなかった。それでも仲良くなろうと話しかけていたが、

Bさんとはタイプが異なる人で、上手く関わることができなかった。指導員たちの対応は

「すごく腫れ物に触るような感じ」の関わり方であり、「何でこんな扱いされてるんやろう」

と強い違和感を抱きながら生活していた。

何かを強制させられるということはなかったが、ただ時間だけが流れていくことに対し、

「何をしに来ているんだろう」「無駄に時間を過ごしてても意味ない」と思いながらの生活 であり、毎日通う場にはならなかった。また、趣味のギターを持って来てもいいというこ とになり、1 人でギターを弾いて過ごす時間だけが楽しみとなった。しかし、結局は「1 人の世界」であり、「これは来ている意味があるのだろうか」と思いながら、違和感が大き くなっていた。

人が集まり楽しさが変わる

幼稚園からの友達が学校に行けていないということを知り、適応指導教室に誘ったこと がきっかけとなり、「知ってる子だからしゃべるようになって、そこから楽しくなった」と 人と関わる楽しさも感じることができるようになっていった。同じ時期に同級生達が次々 と入室するようになり、関わりの広がり、より楽しさを感じられるように変化し始めてい

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った。中学3年生になると「友達とつるんでる方が楽しい」と思えるようになり、放課後 も教室内に残り、友達と時間を過ごすことも多くなった。最初にやってきたときのような 違和感はなくなり、その頃から「居場所的には思ってた」と居心地の良い場所となった。

また、よく関わる友達が 56 人と増えていくと、適応指導教室内であっても友達間の いざこざが起こってしまうようにもなった。大きな集団では広く浅く関われば問題はない が、小さな集団であるために、「小さいとやっぱり深い話もするようになってくるから、深 い話を聞いて」間を取り持っていく役割をB さんが担っていた。「小さいコミュニティの 中で人間関係を円滑に進める方法とかを学ぶ」機会となり、高校進学後の生活にも生かさ れていった。

⑤進路

周りからの働きかけ

Bさんは勉強が好きではなく、高校に進学するつもりはなかった。専門学校に入り、手 に職をつけて生きていくと考えていた。親戚は中卒や、高校を中退している人達が多く、

その人達から経験談を聞いていく中で気持ちが変化していった。いとこのお兄さんからは、

勉強だけではない経験を積むことができるから、「とりあえず入るだけ入れ」と言われ、い とこのお姉さんからは「楽しくはないけど多少友達はできるし、まあ行ってみたら」とい うことなどを言われていた。お父さんからは中卒で生きてきたからこその大変さについて 聞き、「普段そこまでしゃべらへんから、この人がこれに関して口を出してくるのは相当な こと」「それはやっぱり高校進む要因の割と芯のところかもしれない」と真剣に考えるよう になっていった。そして、高校で勉強したことが役に立つことがあるかもしれないと「将 来的に考えてということで、じゃあ」と高校に行くことを決めた。

自分で考える

高校に行くと決心してからは、自分で条件に合う学校を探すようになっていった。家に 届いていた高校を紹介している冊子を見て学校を探した。仕事と両立したいという思いが 強く、「人少なくてなおかつ通信制で、仕事と掛け持ちできる」という条件で見つけた学校 を「じゃあここでいいや」と進学先に決めた。「人生の分岐的なことを真剣に考えずに直感 で全部考えてる」とやると決めたことはすぐに決めてしまう面がある。その背景には「ま だ若いし、たぶん選択肢はこれからやめてしまってもまだまだある」と、失敗しても大丈

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20 夫という考え方がある。

高校進学を決めたことには、仕事に生かせるということも大きく影響している。「そうい う肩書きがついたらお笑いでおもしろい」と仕事に使えるのではないかという考えもあっ た。高校入学直後も「仕事があれば将来生きていける」という思いが強く、仕事のために 高校に行くという面が強くあった。しかし、それでは卒業できないということがわかって いき、「いつのまにやら高校の方が」主な目的になっていった。

高校を決めた際に「美容の授業があった」「系列校に美容高校ある」ということも理由と してあった。タレント以外の仕事として、美容に関する仕事も興味があり、「この業界だけ で生きていけるかって言ったらそうではない」とその時決めた選択とも違う道に進めるよ うにということも考えることができていた。結果的に、タレント以外の美容系に進むとい う方向に変化していった。

仕事と勉強を両立させたいという思いで進路を決めてきた。「目標がないと生きてても楽 しくないなって思って。目標ないと何していいかわからへんくなっちゃうから」と、目標 を持ち、それに沿える道を考え、選択してきた。

⑥壁となったもの

先生に対するイメージの変化

小学校、中学校と自分のことをわかってくれる先生とは出会うことができず、学校の先 生に対しては悪いイメージしか持っていなかった。先生だけでなく、大人に対しての不信 感が強くあったが、進学先の高校は中学校で上手く行かなかった子どもたちが集まる学校 であり、先生たちも心理系の資格を持っている先生が多い環境だった。その環境下で、先 生たちとも関わることができ、先生たちは「気にかけてくれて、事務の先生もけっこうみ んな生徒と一緒にしゃべるというのとかあった」と否定的な感情を持たずに関わることが できるようになっていった。

大人が自分に対して求めることの意味についても気がつき始めていた。勉強や学校に行 くことを求める大人たちに対し、中学生の頃は「どういうことを思って自分たちにこうい うことを言ってくるのかということをわかっていない」ために反発するだけだった。高校 生になると大人の気持ちを考えることができるようになり、自分の中で納得することがで きた。しかし、「親はいつまで経っても壁かなって思う」1 番理解してないのは親」と、

親に対する否定感は続いている。

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21 人の中で揉まれる

人間関係で上手くいかなくなると、学校を休み始めるということを繰り返してきたが、

高校では通い続けることができた。やんちゃな子どもたちも多かったが、継続して通って いく中で「人に合わせることを覚えた」と言う。

中学生の頃から、ピアスを開けたり、髪を染めたりしており、それを否定ばかりされて いた。高校に入ると、それらはより過激になっていったが、高校は自由な校風であったた め、否定されることはなく、逆に「『ピアスやばいな』って、『かっこいいやん』とかって 話しかけてくれる子も増えて、個性を認めてもらえたのは1番大きかった」と、自分の存 在が認められ、楽しく過ごすことができた。

スイッチが切り替わる

進学先の高校は、同じ学校から進学した人は誰もおらず、「高校で一から作り上げる」と 思い、自分の理想とする高校生活を作り上げていった。入学した高校は、服装等に関する 校則が厳しくなく、自由な服装で、自由に登校することができた。縛り付けられていた大 人の目、先生の目から開放されたことで、「パンって弾けちゃって、そこがたぶんスイッチ になったのかもしれない」と気持ちが大きく変化し、「過去はもう知らんっていう。完全に さようなら」と、新しい自分を作り上げていくということに目が向いていった。

本当にやりたい芸能活動と出会うことができ、「生きがい的、みたいなことを見つけたか らこれがあればいいや」と思えた。何か乗り越えなくてはならないことがあっても、後ろ 向きにはならず、(やりたいことが)あるからそれのためにこれを乗り越えよう」と前向 きにぶつかっていけるようになっていった。

また、不登校を経験した子どもが多く入学する学校であったために「不登校ってこうい うとこが大変やね」「勉強追いつかれへんよな」などということを言い合い、不登校を経験 したことで感じた、感じている大変さを共感し合うことができた。そして「でも別に勉強 できなくてもこの高校は行けるしみたいな感じで」話すこともあり、できないからやらな くてはならないということではなく、できないのは仕方ないと許せる環境でもあった。

⑦まとめ

1 つ目の転機はガールスカウトの友達や、仕事関係の人との関わりの中で、学校に行っ ていない自分に気がついたことである。そこから何かを変えようと思い、適応指導教室を

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利用することとなった。2 つ目は高校進学時、周りの人からの関わりがありながら、自分 の人生について真剣に考えたことである。周りの人達から高校進学を勧められ、自分の生 き方について具体的に考えられるようになった。そのときに、自分が行きたいと思える高 校と出会い、進路を決めることができた。3 つ目の転機は自由な校風の高校へ進学し、自 由さを手に入れたことである。社会の目に縛られた自分から解放され、本当にやりたいと 思える仕事とも出会うことができた。

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3)事例C(男性・1回目:26歳、2回目27歳・病弱養護学校を利用)

両親、妹と暮らしていたが、高校生の頃に母親が他界、その後は父、妹との3人暮ら しだった。母親は精神障害者だったということもあり、不安定な家庭環境だった事例であ る。持病であるてんかん発作がきっかけとなり、学校に行きづらくなっていった。小学校 2年生のときに大きな発作が起き、2年生の5月から翌年1月の終わりまで入院していた。

そのときは、X養護学校とは別のR養護学校に通っていた。小学校3年生は地域の小学校 に通っていたが、4年生になると再び入院し、R養護学校に通っていた。そして、R養護 学校に籍を置きながらX養護学校への体験入学を重ね、小学校5年生9月からX養護学 校に正式に入学した。X養護学校の寄宿舎で生活し、中学校卒業時まで通い続け、卒業後 は専修学校、大学(中退)へと進んだ。現在は、アルバイトとして福祉施設等で働いてい る。

①成育歴 不安定な生活

母親は精神障害者であり、状態の波が大きかった。ご飯が出てくる日もあれば、出てこ ない日もあるという生活を送っていた。1 か月間隔ほどで波はきて、家でご飯が出る日が 1か月続いたと思ったら、次の1か月は出てこないということが繰り返され、不安定な生 活を送っていた。また、父親は研究職で、毎日忙しくしていたが、母親が不安定な状態に なったときには家事や、子どもたちの世話など父親に大きな負担がかかっていた。そのよ うになると、Cさんと妹は何日もお風呂に入らないなど、劣悪な環境で生活していた。

小学生になると、母親がどのような人なのか、家庭がどのような状態なのかを理解し始 めた。親に気を使いながら生活することになり、自分の要求も出せず、「親の顔を気にする という状況に陥ってしまっている」という環境で生活していた。家が落ち着ける環境では なかった。

てんかん発作から不登校へ

幼稚園の終わりから、小学校に入るくらいになるとてんかん発作が頻繁に見られるよう になった。小学2年時には授業中に重積発作を起こし、それがきっかけとなり、いじめを 受けるようになる。その頃、家で「泣き出し、『自殺したいわ』」と親に対して漏らすこと もあった。

参照

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