デューイの教授法論における個人的方法の諸特徴
関 勤*
(1982年9月30日受理)
The Traits of Individual Method in John Dewey急
Theory of MethodTsutomu SEKI
(Received September 30,1982)
1 一人ひとりを育てる教育・授業と個人的方法
最近,多くの幼稚園や小学校や中学校で活発な教育研究への取り組みが行なわれ,その成果が
研究発表会として公表され,また,その際に研究の歩みや意図や結果の記録としての研究発表会 「
要項が頒布されている。これらの研究発表会の実施とその研究発表会要項の頒布とは,当該研究 発表校にとっても,参加者にとっても禅益することが多大であり,その必要性は今後ますます増 大するものと思われる。私は,これらの事情を,昭和55年11月,本学部教育研究所紀要に「公 開保育の意義と重要性 幼稚園や保育所の研究発表会はなぜ必要か一」1)という主題のもと で述べてきており,さらにまた,昭和56年10月,同じく教育研究所紀要に,「学校における教 育研究にっいて(1)」2)という主題のもとで言及してきた。
ところで,これらの研究発表会においては,いかなる研究主題のもとに研究が行なわれている のであろうか。公立小・中学校の場合と国立大学教育学部附属小・中学校の場合とでは,その傾 向性が必ずしも一致するとはかぎらないであろうが,しかし,附属小・中学校の研究主題は,そ の時代の教育現場の実践的研究の必要性や方向性をもっとも敏感に反映しているとも推測するこ とができるので,それをみれば,公立小・中学校を含んだ教育現場の研究の動向を,大きな誤り なしに把握できるのではないかと思われる。いま,筆者の手元には,本学教育学部附属小学校長
ノ在任のころ,全国の国立大学教育学部附属小学校より研究発表会の案内が送付され,各学校ご との研究主題をメモしたカードが残されているので,それによって昭和52年より54年までの目 ぼしいものを摘記してみることにする。
昭和52年度
学びがいのある授業の創造 授業の構想(福島大附小),個性化をめざす教育経営一個を 生かす教育活動の実践 (金沢大附小),個が生きる教育の構想一一ひとりひとりの追求を保
* 茨城大学教育学部教育制度研究室
証する場の構成 (大分大附小),自ら喜んで学ぶ子どもを育てる教育一一どの子もゆとりを
持って充実した活動のできる授業をめざして一(福岡教大附久留米小),個を伸ばす一みんながわかり,ひとりひとりが生きる授業 (京都教大附京都小),子どもが「わかる・できる
・あらわす」すじ道に即す授業(静岡大附静岡小)。
昭和53年度
ひとりだちできる子を育てる指導法一教材の開発とその配列(愛知教大附名古屋小),その 子としての考えが検討され発展する授業(信州大附松本小),追求する子どもの育成をめざして
(横浜国大附鎌倉小),子どもを生かす授業一子どもの問題意識を持続させる働きかけ一
(三重大附小),個の創造性を認め合う学習集団(京都教大附桃山小),充実感にみちた学校生
活の創造一子どもが生きる「教材」の構想と展開一(群馬大附小),よりよい生活をめざすこどもを育てる教育課程の編成(新潟大附新潟小)。
昭和54年度
個性を伸張し合う学習集団の創造一確かな学力を培う教材・指導法の開発 (広島大附小),
個が生きる教育の構想一子どもの追求を保証する場の構想一(大分大附小),子どもの意欲
的な活動を求める指導の検討 教材の特性にふれさせる指導一(三重大附小),子どもが力 を生みだす学習透導(福岡教大附小倉小),よろこびを生む授業一よろこびにっながる相と条 件一(金沢大附小),確かな力を身にっけさせる授業の創造一認識を高める行動を求めて
(香川大附坂出小),豊かな人間性を育てる操作学習一子どもがっくりかえる操作 (香川 大附高松小),対話的思考が育てる学習指導一個が生きる出会いの深化 (福岡教大附久留 米小),よりよい生活をめざすこどもを育てる教育課程の編成 第2年次研究 (新潟大附 新潟小),授業の探究一子どもの必然性にねざして一(大阪教大附天王子小)。
以上に摘記した内容によって,昭和52年より54年にいたる間のころの,全国の国立大学教育 学部または教育大学の附属小学校における研究発表会の研究主題を概観すると,個性化をめざす,
個を生かす,個が生きる,個を伸ばす,ひとりだちできる,子どもを生かす,個性を伸張し合う,
子どもの意欲的な活動を求める,ひとりひとりが生きる,というような形容詞をっけた授業なり 学習指導なり教育課程の編成なりが研究されていたことが了解されるのである。これは一人ひと りを育てる教育や授業の研究が重視されていたといって差し支えないであろう。あるいは,個を 大切にする教育や授業の研究が重視されていたといってもあやまりはないであろう。
ちなみに,茨城大学教育学部附属小学校の例をみると,昭和54年度より昭和56年度にいたる 3力年間の研究主題が「一人ひとりをきたえる授業の計画と実践」3)として設定され,その統一 的研究主題のもとで,より具体的な年次毎の主題が定められている。また,同附属中学校の例を みると,昭和53年度より昭和57年度にいたる4力年間の研究主題が「ひとりひとりの創造性を 豊かにする新教育課程の研究」4)として設定され,最終年度にその完結発表が行なわれている。
いずれも一人ひとりをきたえるとか,ひとりひとりの創造性を豊かにするということを目標とし た教育研究であって,全国の国立大学教育学部または教育大学の附属学校における研究動向とも 一致していることがみとめられるのである。
さて,以上のように現今の小学校・中学校における顕著な研究動向の一つは,一人ひとりを育
てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業の研究を重視するところにあるということが
できる。ところで,これらの一人ひとりを育てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業 の研究ということは,こと新しい教育実践上の課題ではない。否,きわめて平凡な,当然すぎる ほど当然な,教育実践上の課題というべきものである。しかし,このきわめて平凡な,当然すぎ るほど当然な教育実践上の課題が,新しい教育実践上の課題であるかのごとく現われ,そして迎 えられているところに問題があるといわなければならない。一つの面において,一人ひとりを育 てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業の研究ということは,教育における永遠の課 題と呼ばれるものかも知れない。しかし,他の面において,それは研究の態度や方法がマンネリ 化しているために,開拓し解決されるべきであるにかかわらず未解決のままに放任されており,
そのためにマンネリ的に教育実践上の課題とみとめられているのかも知れない。もし,後者のこ とき姿が真実であるとするならば,一人ひとりを育てる教育や授業の研究,個を大切にする教育 や授業の研究ということは,徹底した教育改革を導入しなければならない重要な教育課題である
ということができる。
稲垣忠彦氏は,昭和50年に「オープンプラン・スクールを見て」5)という記事において,教 育改革を導入する際における条件への配慮の重要性を述べていられるが,それは内容的に普遍性 を持つことが認められるので引用することにする。
「第一は,オープンプランはあくまで一つの教育思想にもとつくものであり,方法,建物,
設備の変化は,その表現であり結果なのである。わが国のオープンプラン・スクールの最初の 紹介が,建物の紹介であり,今日,実践の改革やその思想の検討以前に校舎がっくられている
という事実は,導入における倒錯を示すものといえるだろう。
第二に,オープンプランの生命は教師の個性的な実践であり,学校,教師の実践の自由がそ の基底的な条件なのである。カリキュラムの作成や教材の選択において教師の自由が制約され ている場合,オープンプランは本来の展開の条件を欠くか,変質をもたらすだろう。子どもの 個性に注目し発展させるという目的は,定められた内容を子どもの進度にあわせて指導してい くという「個別化」に綾小(わいしょう)化され,テスト体制に従属した方法へと変質するだ
ろう。
第三に,歴史的にみた場合,オープンプランはわが国の教育の実践史において決して新奇な ものではない。ダルトンプランや「児童の村小学校」など大正新教育でおこなわれた教師の実 践の試みと共通性を示している。そのような自由な試行や工夫が,年月をかけて交流され,発 展するのではなく,抑圧されてきたという教育の政策や体制,さらにはテスト中心の教育の体 質の克服をぬきにして,その方法の導入を考えることはできない。」
以上に述べられたことは,稲垣氏によるオープンプランという一っの教育改革を導入する際に おける考慮すべき条件の説明であるが,これは,あらゆる教育改革を導入する際にも考慮すべき 条件の説明と敷術して述べられるであろう。第一に,あらゆる教育改革は一っの教育思想にもと つくものであるということ,それが根幹であり,方法・建物・設備の変化は,その表現であり結果なの だ。この指摘は,我が国の過去の教育改革の導入における最大の欠陥を露呈せしめるものである。
もとつくべき思想を導入しないで,方法・建物・設備のみを変化せしめていたわけであつて,ま
さに倒錯というべきである。第二に,教師の個性的な実践こそ教育改革の生命であり,学校,教
師の実践の自由こそ,教育改革の基底的条件なのに,それらの自由が制約されては,改革の導入
がさまたげられることは理の当然である。第三に,教育改革の自由な試行や工夫を抑圧する教育 の政策や体制,テスト中心の教育の体質の克服をぬきにして,方法の導入を考えることは不可能 であるということ。いずれの点も,われわれが今後,教育改革を考える場合,配慮しなければな らない事項である。一人ひとりを育てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業の研究の 場合でも,これを一つの教育改革の導入とみるかぎり,例外ではあるまい。
現在の教育現場における教育研究の動向を研究主題の側面から考察した結果,その一つの現わ れが一人ひとりを育てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業の研究にあることが理解 せられてきた。しかも,この研究課題は徹底した教育改革を導入しなければならない,重要な教 育実践上の課題であるということができると述べられてきた。そして,それらの研究課題を有効 に解決するために,教育改革を導入するとすれば,いかなる条件への配慮が重要であるかという 点についても,稲垣氏の所論を引用して,それを明らかにしてきたわけである。この稲垣氏の所 論の三つの点のうち,筆者の関心をもっとも強く惹付けるものは第一の点である。あらゆる教育 改革(たとえばオープンプラン)を導入する場合,まっ先に考慮しなければならないこと(条件)
は,それが単なる方法的な,技術的な,物質的なものでないということ,すなわち,根底に教育 思想があるということである。凡そ物に本末があり,事に先後があるとすれば,この場合,本と なるべきものは教育思想であり,末となるべきものは方法であり,建物であり,設備である。先 となるべきものは教育思想であり,後となるべきものは方法であり,建物であり,設備である。
この点についての主客,順逆の関係をあやまるべきではないと思うが,我が国の過去の教育改革 の導入においては,いくたの倒錯された姿を見いだしうるのである。われわれは,一人ひとりを 育てる教育や授業の研究,個を大切にする教育や授業の研究においても,このあやまりを犯すご とがないように配慮しなければならない。すなわち,方法が,建物が,設備が先走りして,教育 思想がともなわないような愚を行なうべきではないと思う。教育思想としての目的・意義を明ら かにして進むべきであろう。
デューイは,かれの教育学の主著r民主主義と教育』の第一三章「教授法の本質」(The na一 ture of method)の内容を,第一節「教材と教授法との統一」(The unity of subject matter and method),第二節「一般的な方法と個人的な方法」(Method as general and as individual),第三節「個人的方法の諸特徴」(The traits of individual method)から構成し ている 第一節において述べられていることの要点は,筆者の最近出版したばかりのr教育的経 験の探究』6)の第四章「教育的経験における状況の意味」,第四節「学習において子どもの能力 や活動と教材とは分けられない一状況」,(2)「子どもの能力や活動と教材とは分けられない 状況」に叙述されているので,それを参照されたいと思う。「一人ひとりを育てる教育や授業の 研究」,あるいは,「個を大切にする教育や授業の研究」という研究主題に関連して,それに或 る程度の参照すべき意味や示唆や確信をあたえうる可能性をもっものは,第二節の「一般的な方 法と個人的な方法」であり,特に第三節の「個人的方法の諸特徴」であろう。なぜなら、教育方 法に関する一般の概説書においては,教育方法に関する一般的な原理にっいては論及することが あっても,個人的な方法に就いては言及しないのが通例である。しかるに,デューイにおいては,
一般的な方法と個人的な方法に就いて,特に一節を設けて,その関係を論じる態度を示している
のであって,ここに,デューイにおける教授法論の一っの特色が存在するといわなければならない。
っぎに,デューイは第三節に「個人的方法の諸特徴」をとりあげて,一人ひとりの子どもの学習 を成立させ,それを効果あるものとするための諸特徴にっいて詳述しているのであるが.この部 分はとりわけ,「一人ひとりを育てる教育や授業の研究」,あるいは,「個を大切にする教育や授 業の研究」に直接に役立っ考え方,意味,確信をあたえるものがあると考えられる。一人ひとり を育てる,あるいは,個を大切にするという言葉は,現在あまりにもスローガン化され,手垢が ついて,新鮮さを失いっつあると思われるが,デューイの意味付けによって,それに再生の機会 をあたえられるならば,教育実践の研究の向上にまことに幸いというべきである。
皿 デューイにおける一般的な方法と個人的な方法との関係
デューイは,第三節「個人的方法の諸特徴」において,自己の真意を詳述するのであるが,そ こにいたる前に,とくに第二節に「一般的な方法と個人的な方法」を設けて,第三節にいわんと することの前提,あるいは,布石たらしめている。すなわち,教授法には一般的な方法と個人的 な方法と呼ばれるものがあり,この両者が相互に予盾するものでも,二者択一的なものでもなく,
かえって,相互に協力し補完しあう関係にあることを述べたのである。デューイがとくに第二節 において,この両者の関係を論じた理由は,当時(あるいは今でも)この両者は共存しえないも の,競合し合うもの,相互に予盾対立の関係にあるもの,二者択一の関係にあるものという認識 があり,これが当時の教育実践,とくに教授法の効果的な運営をさまたげていたものと考えられ る。教授法における一般的方法を採用し,これを重要視して教授の実践にあたることは,必然的 に個人的な方法を無視し否定せざるをえないものであり,ひるがえって,個人的な方法を採用し,
これを重要視して教授の実践にあたることは,必然的に一般的な方法を無視し否定せざるをえな いものと考えられており,これが教授の実践においても慣行化されていたものと推測せられる。
デューイはこの弊を打破し,教授法における一般的な方法と個人的な方法との正しい関係を樹立 しようと意図したのであると考えられる。
かれは,一般的な方法と個人的な方法との相互協力の関係を明確に主張する根拠として,両者 をともに含む教授法の定義を,「要するに,教授の方法とは,一つの技術の,つまり,目的によ
って知的に方向づけられた行動の,方法である」7)と規定している。基本的にみれば,教授法は 一っの技術の方法であり,それは目的によって知的に方向づけられた行動の方法なのである。目 的によって知的に方向づけられたということは,目的によって賢明に指導されたと表現しなおし ても同じことであろう。教授法の定義を技術の方法としてこのように規定したデューイは,この ように叙述することによって,一般的な方法も個人的な方法も,ともに同じ教授法の定義のなか に含まれるものであって,それは,ともに,目的によって知的に方向づけられた行動の方法であ るのであり,その意味で相互に予盾し,対立し,競合し,二者対立の関係にあるものでないこと を明らかにしたものと考えられるのである。
つぎに,デューイは,一般的な方法の意味を,技術の方法の一種である美術の仕事の場合に例
をとって,「過去伝来の知識や,現在広く行なわれている技術や,材料や,自分の最良の成果を
確実にする方法についての知識というようなものが,一般的な方法といわれるものの素材となる。
いろいろな結果に達するためのかなり安定した方法の蓄積した体系,過去の経験や知的分析によ って正当化された体系が存在するのであって,それを無視するのは危険なのである」ρ)というよ うに述べている。厳密な意味での一般的な方法の規定とはいえないが,その意味するところは推 察することができる。そして,デューイは,美術の仕事の場合に,このような一般的な方法を無視 するのは(ということは自分の得手勝手な方法のみで仕事をするということは)危険であるとい ましあている。かれは,美術の仕事の場合に,何か永続的なものを成し遂げ,一時的な評判以上 の仕事をする芸術上の革新者が,彼自身あるいは批評家などが意識している以上に,伝統的な方 法を利用している,ということもまた真実であると,言葉を加えることを忘れてはいない。それ だけにデューイにおいては,一般的な方法の重要性が確認されているわけである。
そして,デューイは,いよいよ教育における一般的な方法の説明にすすむのであるが,具体的 な内容の叙述のまえに,教育における一般的な方法というこの言葉は,生徒の場合よりも,教師 の場合の方にいっそう明白に当てはまるとしても,生徒の場合においても同様に真実なのである,
と前提的言及をしている。この発言は,直戴にいって,教育における一般的な方法というものは,
教師の場合にも妥当するし,生徒の場合にも妥当することになる。いままで,一般的な方法なる 言葉は教授の方法(the method of teaching)の一形式としてみとめられてきたものであるが,
デューイの説明の結果から判断すると,教授法の本質(the nature of method)というこの言 葉は,教師の側における教授の方法ということのみを意味するものではなくて,生徒の側におけ る学習の方法をも意味するものと解さねばならぬことになる。むしろ,爾後の説明においては,
一般的な方法という言葉は,教師の立場における意味で用いられるよりも,学習者の立場におけ る意味に用いられている。これは,デューイ的な教育思想の特色の一つのあらわれであるかもし
れない。デューイは,「かれ(生徒)の学習の一部,それも非常に重要な部分が,他人の経験において 類似の学習場面で非常に高い有効性をもつことが明らかになった方法を学びとって,それを意の ままに使いこなせるようになることにある。これらの一般的な方法は,決して,個人の創意や独
創性一物事をなす個人的なやり方一と対立するものではない。かえって,それらは,個人的なやり方を補強するのである」9),と一般的な方法の意味と価値とを描き出している。そして,
一般的な方法に関するこの説明のなかには,期せずして,個人的なやり方(個人的な方法)に関 する説明もあらわれてきており,それは個人の創意や独創性の意味であることが明らかにされて いる。一般的な方法と個人的な方法とは,対立するものではなくて,前者は後者を補強するもの
なのである。一般的な方法と個人的な方法とは,対立するものではなくて,前者は後者を補強するものなの
である。この関係の把握,この関係の主張,これこそ,デューイが第二節において訴えるすべて
であるかもしれない。かれは,この関係を例証するために医者の場合をとりあげ,「他人によっ
て用いられた方法についての知識が,われわれに,何をすべきかを直接教えたり,既成の模範を
あたえたりしないとしたら,それはどのようにして作用するのだろうか。ある方法を知的である
というのは,何を意味するのだろうか。医者の場合について考えてみよう。医者の場合ほどにす
でに確定している診断や治療の方式についての知識を重大なものとして要求する行動様式はほか
にない。けれども,結局のところ,いろいろな病例は,似ているだけであって,同一ではない。
現存する慣用手段は,どんなに権威づけられていようとも,それを知的に用いるには,特定の患 者の危機に適応させられなければならない。したがって,すでに確認されている処置は,医者に,
彼自身でどんな検査を始めるべきか,どんな手当てを試みるべきかを指示する。それらの処置は,
調査を行なう観点なのである。つまり,それらは,特に詳しく調べるべきことを示唆することに よって,特定の病例の諸特徴の調査の手間を節約するのである。その医者独自の個人的態度,彼 が関与している状況を処理する彼独自のやり方(個人的方法)は,一般的な方法原理に従属する のではなく,それらの原理によって容易にされ,指導されるのである」10),と述べている。
この論述は,医者の場合における一般的な方法と個人的な方法との関係を解明するものである が,結論は,「その医者独自の個人的態度,彼が関与している状況を処理する彼独自のやり方(個 人的方法)は,一般的な方法原理に従属するのではなく,それらの原理によって,容易にされ,
指導されるのである」,に示されている。一般的な方法と個人的な方法とは対立の関係にあるも のではなくて,協力の関係にある。しかも,この協力は,一般的な方法が個人的な方法を補強す るというところに特別の意味を有するもののようである。あくまでも個人的な方法が主であって,
一般的な方法は従として個人的な方法を助け強めるものでなければならないものである。この本 末主従の関係の認識をあやまると,一般的な方法は教授・学習において有用であるよりはむしろ 有害となるかもしれないのである。
デューイは,上述の医者の場合における一般的な方法と個人的な方法との関係に関する実例を,
教師の場合にも普遍化されるものとして,っぎのように述べている。すなわち,心理学的な諸方 法や,過去において有効性が認められた経験が(これらは一般的な方法を意味する),彼独自の 健全な判断力の邪魔になり,彼と彼の行動が行なわれるべき状況との間に割り込むときには(と いうことは個人的な方法を補強するのではなくて,むしろ侵害していることである),それらは 無益であるというよりも,むしろ有害である。これに反して,彼がたずさわる独自の経験の必要 や手段や困難を評価するための知的手段として,彼がそれらを習得するならば,それらは建設的 な価値をもっものとなるのである。一般的な方法は,あくまでも,個人的な方法を補強するもの,
個人的な方法を望ましい方向に発展せしめるのに役立つかぎりにおいて有用とみとめられるもの
である。かれは,個人的な方法というものを,これまであまり厳密に定義していないのであるが,いま までに使用されてきた言葉を挙げてみると,個人の創意や独創性一物事をなす個人的なやり方 一一 Cその医者独自の個人的態度,彼が関与している状況を処理する彼独自のやり方(個人的方 法)などがとり出される。この個人的な方法を侵害するのではなくて,むしろ補強することによ
って,その存在理由をみとめられる一般的な方法というものは,どのような性格,どのような条 件を帯びるべきものであろうか。かれは,それをっぎのようなやり方で示している。それは一般
的な方法(the general method)と他から命ぜられた規則(a prescribed rule)との比較対照によ
る前者の性格の強調である。他から命ぜられた規則は,行動に対する直接的指導であり,外部か
ら課せられた命令に直接に行動を一致させることを要求するものである。これに対し,一般的な
方法は,目的や手段に関して啓発することを通して間接的に作用するのである。すなわち,一般
的な方法は,知性を通じて作用するのであって,外部から課せられた命令に一致することを通じ
てでない。また,それは,一般的な方法と「ある教科を習得し,解釈する際に従うべき方法の模範」(rno一 dels of method to be followed in acquiring and expounding a sublect)との比較対照に よる前者の性格の強調によっても示されている。一般的な方法の特色は前述のとおりである。後 者の性格が,個人に対して厳密な画一的な行動を要求するものであるとすれば,それは個人の創 意や独創性(個人的な方法)を圧殺してしまうものとなる。一般的な方法とはまったく異なった ものといわねばならない。「人はどんな場合にでも自分独自の反応をしなければならないのであ る。類似の場合に他の人々一特にすでに熟達している人々 が用いた,標準化された,つま り一般的な,諸方法の指示することは,それらが彼自身の反応をより知的なものにするか,それ とも,彼自身の判断を使うことなしにすますように人を誘導するかによって,価値あるものにな ったり,有害なものになったりするのである」11)と説くデューイは,厳密な画一的な行動を要 求するものとしての方法の模範よりも,一般的な方法の価値を高く評価する。しかし,…般的な 方法の価値というものも,究極においては,それとかかわりをもつ人自身の知性の問題に還元さ れてくると説くのである。すなわち,「結局,一切が,彼自身の反応の仕方のいかんにかかって いるのだから,多くのことは,彼自身が反応をなすに当って他人の経験の中に生じた知識をどの 程度まで利用することができるかに,かかることになるのである」12),と述べることによって,
事実としての一般的な方法の価値は,それとして正しく評価しながらも,教育の場合に,それが 個人にとって現実にどのように受容せられ,正しく反応として実現されてゆくかは,個人の知性 の問題に帰することをみとめるのである。
なお,一般的な方法と個人的な方法の関係の問題に関連して,上田薫氏のつぎのような主張は 注目されなければならぬと思う。 r子どもたちの意欲を喪失せしめる本質的な要因としてもう一 度とりあげておきたいのは,さきに触れた教師の統制力のことである。すなわち教師がどれだけ 子どもたちを,かれらの意欲を,自分の思うままにできるかということである。意欲が両刃の剣 であることは,すでに述べた。教師が指導性を強めようとして安直に子どもをふりまわそうとす れば,逆に致命的な傷を負わされるのが当然である。
「教師の要求はつねに裏切られずにいない」誇張したようにみえるであろうが,わたくしはそ れが本質的な把握だと考えている。子どもそれぞれのなかに成り立っ理解は,教師自身のもって いる理解にひとしくないのはもちろん,教師が一般的に期待している理解と違うだけではなく,
教師がそれぞれの子どもについてえがいている内容とさえもずれているのである。確かに教師は 子どもに影響を与えることができる。しかし影響を与えるということと,子どもを思ったところ へぴったりもっていくということとは違う。要求が裏切られるとわたくしが言うのは,この意味
である。多くの教師は自分の教えた通りのことばで子どもが答えてくれると,いとも満足げにみえる。
その子どもなりの個性的なずれが加えられて答がされると,ちょっと首をかしげる。教師からき いたことをうのみにし,棒暗記して答えるには思考はいらない。考えれば教師とのくいちがいが はいりこむのは当然であって,山びこのような答こそ,意欲を欠いた憂うべき状態をものがたっ ているのである。
けれども残念なことに,この 山びこ を好む教師は大学から小学校にいたるまで,数が多い
というより,むしろその大部分がそのたぐいなのである。先生に教えられたとおりにしなければ
しかられる。疑問を出せばにらまれる。そういう世界では意欲など高まるはずはないではないか。
思考を重んぜよということがさけばれているのと同じように,個性尊重の声も決して小さいと はいえない。しかも教室では子どもが自分らしい息をすることさえためらわずにいられないとい うことなのである。教師はなぜもっとゆとりをもって子どもにむかうことができないのか。いや 直接っかみかかることなどほんとうはできはしないのだということが,どうしてわからないのか。
このように言うと,子どもを野放しにし教師が遠慮していれば学習意欲が高まるのかと思う人 があるかもしれないが,それは全くの誤りである。教師は予測し計画し,それによって行動しっ つ,しかも子どもがそれを越えて動くのを発見することがたいせつなのである。働きかけをしな いなら,いうまでもなく教師は無用である。ただその働きかけが一元的な固定したわくのおしっ けではなく,自分自身のなかにすじをもちつっ,それを修正発展させていけるということが重要 なのである。子どもが自分の思った通りになるはずはないというきびしい認識の姿勢をもちつつ,
その上にもっとも意図的な実践がきずかれることが正しいのである。」13)
私は,一般的な方法と個人的な方法の関係の問題に関連するものとして,以上のように,いさ さか異常と思われるほど,長文の上田薫氏の所説の引用を試みた。それはデューイの思想と上田 氏の思想とのおどろくべき相似性に心を惹かれたからだといってもよい。あるいは,デューイが やや抽象的に述べていることを,上田氏がデューイにかわってやや具体的に述べているように思わ れたからだといってもよい。もちろん,デューイは一般的な方法と個人的な方法との関係を真正 面からとりあげている。それに対して,上田氏は教師の統制力と子どもの個性的なずれとの関係 をとりあげている。一見それは異なる問題を論じているかのごとく思われるかもしれないが,論 じられている内容にあたってみれば,それは全く同一の問題について論究されていることを了解 するはずである。しかも主調点も全く同じであることに気付かせられるのである。以上の理由を
もっての上田氏の所説の引用であるが,この内容によって,われわれはデューイの所説の正しさ を,益々具体性をもって理解しうるはずである。
なお,デューイは,一般的な方法と個人的な方法との正しい関係を認識できないという場合に は,各個人の思考の独創性を認識できないという理由が存在し,その理由の根拠には,精神一般 という虚構の概念が存在することを述べている。rもしも,思考の独創性について前に述べたこ とがあまりにも無理な主張であって,平均的な人間の能力の限界を越えた教育を要求しているよ うに思われるならば,問題は,われわれがある迷信的な考えの影響下にあるということである。
精神一般という概念,すべてのものにとって同一な知的方法という概念が提唱されてきた。そこ で,個々人は,彼らの中に詰め込まれている精神の量において相違していると見なされるのであ
る。それゆえ,平凡な人間は,平凡であることが期待される。ただ例外的な人間だけが,独創性
をもつことを許されるのである。平均的な生徒と天才との間の相違の尺度は,前者には独創性が
ないという尺度である。しかし,精神一般というこの概念は虚構である。ある人の能力が他の人
の能力と量的にどのように相違するかということは,教師にかかわりのある事柄ではない。それ
は彼の仕事には関係がないのである。必要なことは,あらゆる個人が,意味のある活動において
自分自身の力を使用する機会をもつようにすることなのである。精神,個人的方法,独創性(こ
れらは同じ意味の語である)は,目的をもつ行動,すなわち方向づけられた行動の質を表わす語
である。われわれがこういう確信に従って行動するならば,われわれは,たとえ月なみの基準に
よってであろうと,いま発達させているよりも多くの独創性を創り出すであろう。画一的な一般 的方法といわれているものをあらゆる人に押しつけることは,非常に例外的な者以外の,すべて の者の中に凡庸さを育てることになる。」14)このデューイの主張は,過去の教育実践において 教育方法における一般的な方法の考え方が,きわめて画一的で固定的で,「他から命ぜられた規 則」のように,あるいは,「ある教科を習得し,解釈する際に従うべき方法の模範」のように考 えられていたこと,そのために個人的な方法への配慮や留意がほとんど無視され否定されていた 事実の反省に立ってのものであると考えられる。教育実践や教育方法におけるこのような考え方 や慣行を,その基底から支えていたものが,精神一般というこの虚構の概念なのである。
虚構の概念として,デューイによって指弾されたこの「精神一般」とはなんであろうか。デュ 一イによって「学校と社会』のなかですでに説かれ,筆者がこれを引用したこともあるものによ れば,「古い見解に従えば,精神とは精神のことなのであって,一切はそれで終わっていた。精 神は徹頭徹尾同一のものであった。というのは児童におけると成人におけるとを問わず,精神は 同じ取合せの能力を具備するように出来ているものであったからである。もしいくらかの差異を
つけるとすれば,これらのすでに出来上っている能力のあるもの一例えば記憶力のごとき一は比較的初期にはたらきを開始するが,一方判断力や推理力のごとき他の能力は,児童が記憶力 の訓練を通じて他人の思想に完全に依存するようになった後において,はじめてあらわれてくる ということぐらいのものであった。そこに認められる唯一の重要な差異は,量的な差異・大きさ の差異であった。少年は小さな大人であって,その精神は小さな精神であった。大きさの点を除 けばすべての点において成人の精神と同一で,注意力・記憶力等の諸能力がちゃんとそれなりに 具っていた」1成と述べられているものが,「精神一般」という概念をもっとも具体的に説明し たものであろう。デューイによって「精神一般」というこの虚構の概念と呼ばれたものは,近代 の心理学によって「機械論的要素観」16)という名称をもって古い精神観として批判超克せられ ていることは周知のとおりである。
皿 デューイにおける個人的方法の諸特徴
デューイは,第三節「個人的方法の諸特徴」の冒頭において,認識の方法のもっとも一般的な 特徴について,これは第一一章「経験と思考」で示してきたことだがと断わりながら,つぎのよ うに述べている。 「それらは,反省的状況の諸特徴である。すなわち,問題,資料の収集と分析,
示唆ないし観念の案出と精密化,実験的応用と検証,その結果生ずる結論ないし判断,である」き7)
この表現は極度に要約してあるので,われわれは第一一章にたちもどって,反省的経験の諸特徴 といわれるものを再現してみることにする。それはよく一般に知られた項目である。
第一,困惑・混乱・疑惑。それは,その完全な性格がまだ決定されていない不完全な状況の なかに人がまきこまれていることから起こる。
第二,推測的予想 与えられているいろいろな要素についての試験的解釈。それは,それ らの要素に一定の結果をもたらす傾向があると主張する。
第三,考究中の問題を限定し明確にするものを,得られる限りすべて,注意深く調査するこ
と(試験,点検,探索,分析)。
第四,その結果起こる試験的仮説の精密化。それによって,その仮説はさらに広い範囲の事 実と一致することになるから,それは,さらに正確な,さらに整合的なものになる。
第五,現存の状況に適用される行動の計画として,案出された仮説に一応立脚してみること。
すなわち,予想された結果をもたらそうと,何かを実際に行ない,それによって仮説を
試すことま8)デューイが,教授法における一般的な方法と称するものは,この「認識の方法のもっとも一般 的な特徴」を指すと考えられる。これは学習者における学習の一般的な方法をも同時に意味する ものと考えられている。だから,デューイの場合においては,教授法(あるいは学習法)におけ る一般的な方法は,認識の方法のもっとも一般的な特徴と同じものであり,それはまた,反省的 状況の諸特徴と称するものと同じものであり,さらにそれは,反省的経験の諸特徴と称されるも のと同じものであることが知られるのである。
かれは,このように一般的な方法の意味を,認識の方法のもっとも一般的な特徴の意味と同一 であると規定したうえで,個人的な方法の諸特徴の説明に筆を走らせて,「ある個人がある問題 に立ち向かう方法,つまりやり方の独特の諸要素は,究極的には,彼の生まれつきの諸傾向と彼 が獲得した習慣と興味の中に見出される。ある人の方法は,彼の最初からの本能的能力が他人の
ものと異なり,彼の過去の経験や彼の好みが他人のものと異なるに応じて,他人の方法と異なる
(当然異なる)であろう」19)と,述べている。そこで,デューイは,これらの個人的な方法につい て研究した人々は,いろいろな生徒が行なう反応を理解する点で,また,これらの反応をいっそ
う能率的にするように指導する点でも教師を援助するような知識をもつ人であると認め,さらに,
児童研究,心理学,社会的環境にっいての知識は,教師が得た個人的知見を補う価値をもっと説 いている。が,それにもかかわらず,個人的な方法を研究する方法は,依然として,ある個人の 個人的関心,接近法,取り組み方にとどまるのであって,いかなる目録も,それらの個人的な方 法そのものの形態や色合いの多様性を全部記録することは決してできないと,個人的な方法を研 究する方法の限界を指摘しているのである。
デューイは,以上のように限界をみとめながらも,そこで断念することなく,教材を取り扱う 効果的な知的方法における重要ないくつかの態度を指摘することができるとして,以下,率直さ,
開かれた心,専心なること,責任をあげているので,これらの要点の把握をしてみることにする。
第一,率直さ(directness) (知的態度の一要素として)
学習における率直さとは,ある人とその人の扱うものものとが直接に率直に結合して,
無用なものが間に介在しない状態を意味している。学習者が教材に直接に率直に関心をも っており,無用なものが介在しない状態を意味する。デューイは,この率直さの意味を明 らかにするには,肯定的表現によるよりも,否定的表現による方が容易だとして,率直さ とは相反するものとして,自意識過剰,当惑,気がねなどをあげている。それらは人が教 材に直接に関心をもっていないことを示している。人の関心を枝葉末節の問題へ逸脱させ
る何かが,人と教材の間に割り込んでいる状態である。
例えば,自意識過剰ということは,学習者が幾分かは自分の問題(教材)について考え
るけれども,また幾分かは他の人々が自分の行為についてどう思っているだろうかと考え
ている状態である。この後者は間に介在する無用なものであり,人の関心を枝葉末節の問 題へ逸脱させる何かといわれるものである。デューイは,(イ)人が教材に直接に率直に関 心をもつ態度をとることと,回人が自分の態度を意識することとを,明確に区別している。
(イ)は,自発的で,素朴で,単純であり,それは,ある人と,その人が取り扱っているもの との間の,心からの関係の現われである。(ロ)は,必ずしもすべて異常とは考えられない。
テニスをする人が打法の「感じ」を得るために練習をしている場合のように,人が,なす べきこととの関連において,目的実現のためのいろいろな手段の中の一つとして,自分自 身のことを考えるのは正常である。しかし,演技者が,自分の態度が見物人に与える印象 のことを考えながら,ある態度をとったり,あるいは,自分の動作がある印象を引き起こ しては困ると心配するために悩んだりしている場合のように,人が目的遂行の諸力の一部 分としてではなく,単独の対象として,自分自身のことを考えるとき,異常な場合となる のだと述べている。
なお,デューイは,確信(confidence)という言葉は,率直さということの意味するも のをよく表わす良い名称だが,自己過信とは違うと断わったうえで,「確信とは,人が自 分の態度について考えたり,感じたりするものの名称ではない。それは鏡に映った姿では ないのである。それは,人が自分のしなければならないことに立ち向かうときに示す率直 な態度を意味する。それは,自分の力の効力を意識的に信頼することではなくて,状況の 可能性を無意識的に信じていることを意味する。それは,その状況の必要に応ずることを 意味するのである」20)と解釈している。人と対象との純粋無雑な相互作用の状態が意味
されている。
学習者が教材に直接に率直に関心をもっている状態を育成すること,そして,自分の学 習態度を意識することのないように指導すること,自分たちは学問または学習をしている のだということを学習者に意識させることのないように指導すること,これが率直さの意 味するものである。大村はま氏は,子どもの学習への熱中に関して,「そして子どもとい うものは「与えられた仕事が自分に合っていて,それをやることがわかれば,こんな姿に なるんだな。」ということがわかりました。それがないという時に子どもは「犬ころ」み たいになるということがわかりました。・…」21)と述べているが,これも率直さに関す
る指導であろう。第二,開かれた心(open mindedness) (知的態度の一要素として)
デューイは,開かれた心を「あらゆる方面からの示唆や適切な情報を積極的に歓迎する 精神的態度」と表現したり,また,「心が開かれているということは,解決する必要のあ る状況を解明し,あれやこれやの方法で行動することから起こる結果を決定するのに役立 つととろのあらゆる考察を容易に受け容れることのできる心の状態を意味するのである」22)
と述べて,それが,知的成長 絶え間のない視界の拡大と,その結果として生ずる新た
な目的と新たな反応の形成を意味する一にとって基本的な態度であることを明らかにし
ている。知的成長は,これまで縁のなかった観点を歓迎する積極的な性向,現存する目的
を修正するところの諸考察を喜んで迎え入れる積極的な意欲がなくては不可能である。開
かれた心に敵対するものとしての,心の頑固さや偏見というものは,発達を阻止する,す
なわち,新しい刺激から心を遮断してしまうのである。
、 サこで,デューイは,開かれた心の育成に関して,教師たちにつぎのような忠告を与え ている。行為の画一性を求め,すぐに現われる外的結果を求める途方もない要求は,学校 において開かれた心を育てることの敵であると。問題を取り扱う操作の多様性をゆるさず 奨励しない教師は一一彼の心がたまたま是認する一つの筋道に生徒たちの視野を制限して
生徒たちに知的目隠しを押しつけているのであると。
デューイによれば,開かれた心をもつことと空虚な心をもつこととは同じではない。開 かれた心には,ある種の受け入れ態勢があり,それは経験を蓄積し,浸み込ませ,熟させ る積極的な姿勢があり,それは発達にとって欠くことのできない要素である。結果(外面 的な解答または解決)を急がせることはできようが,過程を強制することはできない。過 程は,成熟するのにそれ独自の時間を要するのである。
最後にデューイは, 「すべての教師たちが,教育的成長の尺度は,精神的過程の質のい かんによるもので,単に正しい解答を作成することではないということを認知したならば,
ほとんど革命にもひとしい教授上の改革がもたらされることであろう」といっている。
ここに,デューイによって主張された開かれた心,すなわち,あらゆる方面からの示唆 や適切な情報を積極的に歓迎する精神的態度というものを,具体的に示す例として,社会 学者であり,同時に評論家である加藤秀俊氏の言葉を記述しておこう。かれは,「わたし にとって,いささかの取柄でもありまた欠点でもあるのは,たぶんどんなことについても 好気心をおさえることができないという性癖であろう。とにかく,心のおもむくままなん でも勉強してみる。それがおもしろくてしかたがない」23),と述べている。デューイの 主張は,ある一つの課題の解決のための開かれた心という意味で,必ずしも加藤氏の自己 ・
フ性癖の告白と同一ではないが,しかし,広義の意味では開かれた心として共通であろう。
どんなことについても好奇心をもつということ,心のおもむくままなんでも勉強してみる ということは,知的成長にとって,もっとも基本的な重要性をもっ態度といわねばならな
いであろう。第三,専心なること(single−mindeness) (知的態度の一要素として)
デューイは,専心なることについて,「率直さ」の項で述べた多くのことがあてはまる としながらも,とくに「十分な興味があること,目的が一つにまとまっていること」24)
であると強調している。これは,われわれが普通にいう,集中・没頭・没入・熱中などの 言葉が意味する内容を示している。デューイは,ここでも,肯定的表現によるよりも,否 定的表現によって,専心なることの意味を明らかにしようと努力をしている。
かれは,学習者が二重の分裂し対立した意識状態,活動状態にあることを専心なること と反対のものとみなすのである。すなわち,公言された目標は単に仮面であって,その仮 面の下に抑圧されてはいるが実際的効果を生ずる隠れた目標が存在する場合がそれである。
また,意識的な目的(欲求)にしたがった学習とその意識の下にある自然な目的(欲求)
にしたがわうとする学習のある場合もこれにあたる。かれは,「他の人々の要求や希望が
(本人の)欲求の直接的な表出を禁ずるとき,欲求は,たやすく地下の奥深い水路に押し
こめられる。完全に他人に服従して,他人が要求した行動の方針を心の底から採用するこ
とは,ほとんど不可能である。故意に反抗したり,故意に他人を欺こうと企てたりするこ が,結果として起こるかもしれない。しかし,もっとしばしば起こる結果は,興味が混乱
し分裂して,自分の本当の意思について思い違いをしてしまうという状態である。人は同 時に二人の主人に仕えようと努める。社会的本能,他人を喜ばせ他人に認めてもらおうと する強い欲求,社会的訓練,漠然たる義務感や権威感,処罰に対する恐れ,これらのこと すべてが,同調するとか,「課業に注意するとか」,あるいはまた,要求がどんなことで あろうと,気乗りしないながらも何でもやろうとする中途半端な努力を起こさせることに なるのである。愛想のよい人は,自分に期待されていることは何でもしようと思う。生徒 は,意識的には,自分はこれをしているのだ,と思う。だが,彼自身の欲求は消えていな い。ただそれらをあからさまに現わすことが抑えられているだけなのである。欲求に逆ら うものに注意するという緊張は煩わしい。つまり,その人の意識的な望みにもかかわらず,
意識の下にある欲求が,思考の主な道筋,深部の情動的反応を決定するのである。心は,
名目上の主題から逸脱して,本来一そう望ましいものに専念する。その結果として,欲求 の二重性の現われである注意力の系統的分裂が生ずるのである」25)と,学習の分裂状態,
注意の分裂状態を叙述しているが,これ以上,なまなましい具体的な描写を,われわれは 教育学の著作において読んだことがない。
デューイは,さらに,注意の分裂している態度について,「ある事柄に精を出そうと意 識的に努めている(あるいはそう見えるように努めている)のに,彼の想像が無意識にも っと性に合った事柄に自然に逸脱して行っているときには,いま有効な思考のエネルギー が浪費されていることは明白である」26)と表現したり,また, 「現実性には二つの基準 があって,一方は,われわれ自身の私的な,しかも多かれ少なかれ隠密の興味のためのも のであり,他方は,公的な,一般に認められている関心のためのものであって,その二重 の基準が,大部分の人々の,心の働きの公明正大さと統一を狂わせるのである」27)と述 べてみたり,また, 「意識的な思考や注意と,衝動的で盲目的な感情や欲求との分裂が生 ずるということも,同様に危険なことである。熟慮して教材を取り扱う行動は,強制され たものになり,気乗りしないものになって,注意は脇道に逸れる。その逸れた注意が向か う事柄は,公言されないものであって,それゆえ知的には禁制のものである。つまり,そ れらの事柄の処理は人目を忍んでこっそりと行なわれるのである。目的をもつ思慮深い 探究によって反応を調整することから生ずる訓練は行なわれないのである」28)と論じた
りしているが,共感せざるを得ない。
このような注意の分裂,精神の分裂の生ずる温床となっているものとして,デューイは,
学校の諸条件を挙げているが,それには,「厳格な訓練」,すなわち,外からの威圧的な
強制,なされるべき仕事とは無関係な報酬による動機づけ,学校教育を単に準備的なもの
とするものなどが含まれている。授業を改革して一人ひとりを育てることが意図されるな
らば,これらの問題こそ,第一番目に改革,改善されるべきことであろう。なお,前述し
た加藤秀俊氏は,「日本人は好奇心のつよい民族だ,とよくいわれる。たしかにそのとお
りである。しかし,なにごとにも手を出してみないことには気がすまない,という好奇心
ではなく,ひとつのことを徹底してしらべあげてやろう,という集中的好奇心を,これか
らのわれわれは開発すべきなのではないか。すくなくとも,拡散的好奇心にくらべて,集 中的好奇心がわれわれにはやや欠けているようなのである」29),と述べているが,重要
な提言である。第四,責任(responsibility)(知的態度の一要素として)
デューイが,個人的な方法,すなわち,教材を取り扱う効果的な知的方法における重要 な態度として,最後に指摘するものは責任ということである。かれは,「知的態度の一要 素としての責任とは,計画されたあらゆる処置について,その予想される結果を前もって 考案し,それらの結果を熟考したうえで容認する一一すなわち,それらの結果を考慮し,
単なる言葉のうえの同意を与えるのではなく,行動においてそれらを承認する,という意 味で,それらを容認する一性向を意味するのである」30),と定義している。この定義 に関連して,かれは,観念(アイデアー暗示,可能的解決法)について,本質的には,
当惑させる状況の解決をもたらすための見地と方法である,つまり,反応に影響を及ぼす ように考案された予想なのである,と説明している。しかし,これは,かれの思考論を理 解しないと了解され得ないであろう。筆者はかれの思考についての二っの定義を中心とし て,その反省的思考の本質31)を追究したことがある。第一,「思考は,探究の目的にと って,ものそのもののなかにある真の関係,すなわち,暗示するものと暗示されたものと の関係を基盤として,暗示されたものに対する確信を引き起こすような方法において,現 前の事実が他の事実(あるいは真理)を暗示する作用として定義される」,第二,「要す るに,思考は与件と観念との二つの連続的評価である」。また,「与件(事実)と観念(暗 示,可能的解決法)とはすべての反省的活動の二つの不可欠の相関的な要素を構成する」
ともいわれている。これらが参考になるであろう。
なお,デューイは, r民主主義と教育』の第一〇章「興味と訓練」の第一節「興味および 訓練という語の意味」(The meaning of the terms)において,意志(will)について h
柾qしているが,それは責任ということを考える場合にも参考になるであろう。かれは「意 志ということの普通の意味での大部分の内容は,正確には困難や邪魔をする誘惑が強いに
もかかわらず,計画された行動の筋道に執着し忍耐してゆく,思慮あるいは意識的な心的 傾向を指す,ということは明白である。意志の強い人というのは,普通の言葉の使い方と
しては,選択された目的を達成するに当って,移り気でもなければ,弱腰でもない人で ある。彼には実行力がある。すなわち,彼は,自分の目標を実行し,達成するために粘り 強く精力的に努力するのである。……明らかに意志には二つの要素がある。一方は結果の 予見に関係があり,他方は予知された結果がどれだけ深くその人の心をとらえているかに 関係がある」32)と述べているが,それは,知的態度の一要素としての責任ということを 別の言葉で表現したにすぎない。
責任に関して,デューイは,学校の学科目が過度に複雑化したこと,学校での学科や学
課が過密化したことによって生ずるもっとも持続的な悪結果は,それから生ずる気苦労や
神経の過労や浅薄な知識(これらのことも重大なことだけれど)ではなくて,何かを真に
知っており,信じているということが,どういうことを意味するのかを明らかにすること
ができなくなることである。知的責任とはこの点に関する厳格な規範を意味する。この規
範は,習得したことの意味をどこまでも追求し,それに従って行動する実践を通して,は じめて確立することができるものなのである,といっている。大いに留意すべき点の指摘
である。
終わりに,デューイは,責任と同じ意味の知的几帳面さと,純粋に肉体的な一種の几帳 面さの差異をこう説明している。「それ(肉体的な一種の凡帳面さ)は,ある教科をその すべての細部にわたって機械的に徹底的に練習しつくすことを意味するような凡帳面さで ある。だが知的凡帳面さとは,物事をやり通すことである。それは,細部を統合する目的 の単一性によるのであって,たくさんのばらばらな細部を示すことによるのではない。そ れは,その目的の完全な意味を展開する堅実さの中に現われるのであって,外部から押し つけられ,命令された行動の段取りに留意すること たとえそれがいかに「良心的」に であろうとも一に現われるのではない」33)と。教育は子どもが主役だ,授業は子ども が主役だということの意味は,このデューイの叙述が実現されるときにはじめて結実する
ものであろう。
注
1)拙稿「公開保育の意義と重要性」 『茨城大学教育学部教育研究所紀要』13,1980,pp. ll3−120.
2)拙稿「学校における教育研究にっいて(1)」『茨城大学教育学部教育研究所紀要』14,1981,pp.211 一218.
3)茨城大学教育学部附属小学校「一人ひとりをきたえる授業の計画と実践」 「研究紀要』198ユ.
4)茨城大学教育学部附属中学校「ひとりひとりの創造性を豊かにする新教育課程の研究」 『昭和57年 度教育研究発表会要項」1982.
5)稲垣忠彦 「オープンプラン・スクールを見て」 (朝日新聞,昭和50年11月6日夕刊).
6)拙 著 『教育的経験の探究』 (教育調査研究所,昭和57年) pp.110−113.
7)J.Dewey, Democrαcッαπd edωcα εoπ (The Macmillan Company,1916), p.200.
デューイ著,松野安男訳『民主主義と教育』ω(岩波書店,昭和50年)p.269.
8) Zb d., p.200.
9) 1bεd・, p.201.
ユ0) 1b 〔f., p.201.
11) 1δ (乙, p.202。
12) ノわ (1., p.201.
13)上田薫 『個を育てる力』 (明治図書,昭和47年) pp.192〜194.
14)J.Dewey, Dθmocrαcッαπd e伽cα o几(The Macmillan Company,1916), pp.202−203.
15)拙稿「デューイの教育思想における経験と系統」『茨城大学教育学部紀要』11,1962,pp.41−57.
拙著 『教育的経験の探究』(教育調査研究所,昭和57年)pp.64−65.
16) 「古くは個体は感覚,表象,簡単感情などの相互に独立した心理要素から加算的に結合したものと 考えられ,子どもが大人へと発達することは,一定の萌芽が量的に開発され,今までなかった心的要
素が年令とともに漸次付加されることであると考えられた。子どもは大人の縮図であるという見方も,
高等の段階から一定の心的要素を減算することによって下等の段階に達するという考え方も,ともに この機械論的要素観にもとついたものである。」(上武正二『児童心理』誠文堂,昭和25年,pp.15
一16).
17)J.Dewey, Democrαcッα認2伽cαεめη(The Macmillan Company,ユ916). p.203
18) 1わ dl., p.176.
19) 1わ d., p.203.
噂
Q0) 丑) d., p.205.
21)大村はま 『教えるということ』 (共文社,昭和48年),P.62.
22)J.Dewey,1)θmocrαcッαηdθd配cα oη(The Macmillan Company,ユ916).p.206.
23)加藤秀俊 『メディァの周辺』 (文芸春秋,昭和51年)の帯の言葉。(加藤秀俊氏自身のプロフィル
「諸君」1976年7月号より)と附記されている。
24)J.Dewey, Dθmocrαcッαπdθ伽cα oπ(The Macmillan Company,ユ916). p.207.
25) 1わ (1., pp.207−208.
26) 1わ d., p.208.
27) 1わ d., p.208.
28) 1わ d., p。208.
29)加藤秀俊 「日本人の周辺』 (講談社,昭和50年),p.141.
30)J.Dewey, Dθmocrαc)ノαπdθ伽cα oη(The Macmillan Company,1916). pp.209−210.
31)拙稿「デューイの反省的思考の本質」『茨城大学教育学部紀要」第13号,1963,pp.23−36.
拙著 r数育的経験の探究』 (教育調査研究所,昭和57年)pp.154−163.
32)J.Dewey, Democrαcッαπd ed配cα oη(The Macmillan Company,1916).p.150.
33) 1わ (オ., p.210.