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方法論的個人主義の諸類型
松 嶋 敦 茂
1 いわゆる「新古典派経済学」を特徴づける主要なパラダイム的特徴として次 の二点をあげることができよう。 第一。経済を「稀少性システム」として把握する。もちろん「適度の稀少性」 の存在が,経済の存立条件であることに異議を唱える経済学者はほとんどある まい。しかし,稀少性を規定する諸要因一消費者の選好体系,期首において 利用可能な資源存在量,生産技術体系一一がそのまま「経済均衡」の基本的な 決定変数であると考える点で,それは例えば「古典派経済学」と根本的に相違 している。 第二。分析方法としての「方法論的個人主義」(methodological individualism, 以下MIと略記)。それはときにr原子論的」「合成的」あるいは「構成的」方 1) 法ともよばれている。 Popper(1961)はそれを「方法論的本質主義」(実在論的社会観)や「全体論」 (holism)的方法と対置しつつ,社会現象を「諸個人の見地」からいわば「唯名 論」的に分析する学説として次のように定義している。「すべての集合体現象 を,個々の人間の行動や相互作用,目的,希望,思考などに帰因するものとし て,また個々の人間によって創られ保持される伝統に帰因するものとして理解 しようと努めるべきだという教説」(p.157f,訳p.237)である,と。 したがって一つの「稀少性システム」として捉えられた市場経済が,このM Iという方法によって分析されるとき,その「全帰結が諸個人の選択的行為の 1)ハイエク(1986)p.175,(1979)p.46.見地から(in terms of individual acts of choice)説明されねばならない」(0’ Drisco11, Rizzo,1985, p.1)ことは明らかである。 だが,その「説明」の仕方はけっして一様なものではありえない。というの は次に示す三つの問題に対してどのように答えるかに応じて根本的にその性格 を異にする種々のMI理解が生じてくるからである。 (1)MIは一種の「主観主義」(subjectivism)である。私は「主観主義」とい う言葉をオドゥリスコルらにならって次のように定義しておきたい。「人間精神 の諸内容,したがって意思決定は外的事象によって厳格に決定されることはな いという想定」(ibid.),と。だが「人間精神」(human lnind)という言葉で何を 意味させるのか,その性格はどのようなものか? (2)「諸個人の選択的行為」はいかなる性質をもっていると考えることができ るのか。新古典派経済学はそれを,「完全知識」に基づく効用の「極大化」行為 として理解している。が,MIはつねにそのように想定しなければならないの か。 (3)MIは社会現象をその構成要素である諸個人の行為や主観などから理解 しようと努めるが,J.シュムペーターも指摘するように,個人が「実質」的に も社会に先行すると考えているわけではない(1983,ch.6)。しかし諸個人の行 為の相互作用という契機をこのモデルのなかでどのように位置づけるのか。こ の問いは,また人間性一般からいわばア・プリオリに導出されることのない「経 験」という契機をこの方法のなかでどのように処理するか,という問題にもつ ながる。以下,II−IV節ではこれらの論点を順次とりあげM Iの類型的分析を 行なう。最終V節ではこれらの諸類型に共通する諸特質の批判的検討を試みた い。 II 人間精神の働き,したがってまた意思決定を「外的」環境(自然環境,社会 的環境,肉体的条件)の諸要素に「還元」しない点に「主観主義」の本質はあ るけれど,この「外的」条件によって決定されつくさない「主観」をどのよう
方法論的個人主義の諸類型 233 に把握するかをめぐって,相対立する二つの思想類型があるように思われる。 一つは,「主観」を「実証科学」的方法によって直接的もしくは間接的に測定 しうる(すべき)ことを主張する立場。二つは,人間性一般に普遍的な事実は, 観察と「内観」(introspection)によって知ることはできるが,個々の主観の働 きを精密に量的に測定することはできないとする立場。 本稿で私は,前者(以下Aと表す)を心理学的・実証科学的主観主i義,後者 2) (以下Bと表す)を哲学的・反科学主義的主観主義とよんでおきたい。これら の概念の全体像を明らかにすることは,私の力を越えている。以下の行論では 経済学に限定してその主要な特質を検討してみよう。 Aの立場に属する見解は,さらに二つの部類に分けて考えることができる。 A1:心の働き (経済学的には欲望・効用)は,直接的にもしくは貨幣的尺度に よって測定可能であるとみなす見解。A2:欲望・効用などをそのものとして測 ることはできない。が,それらの論理的対応物(写像)は知ることができると 考える見解。 経済学史における「主観主義」の最初の本格的台頭は,18,19世紀におけるイ タリア・フランスの経済学者たち(ガリアニ,グラスラン,テユルゴー,コン ディヤック,セイ)の業績のうちに認めることができる。しかし彼らの学説に おける欲望・効用・稀少性といった概念は,山川義雄(1968)が明らかにしてい るように,財貨の客観的有用性と密接に結びつけられて理解された「客観的」 3) もしくは「問主観的」(intersubjective)な概念であった。 19世紀中葉以降になると,ステイダラー(1974)も指摘するように,欲望・効 用・稀少性の概念は,財貨の客観的有用性との関連をますます稀薄にさせてい く。しかし世紀の転換点ごろまでの「主観価値」概念は,程度の差こそあれ全 体として「間主観的」な性格をもち続けたといってよかろう。 2)対象が計量的に測定可能で命題の真偽が経験的にテスト可能なもののみを「科学」とす る立場を「科学主義」とよんでおく。 3)L.ワルラスの父A。ワルラスにおいても基本的に同一のことが確認される。「効用」「稀少 性」という同一の言葉が両者において相異なる内容を負わされてれていることの認識は, 経済学史における連続・非連続の関係を・考える上で興味深い。松嶋(1972)参照。
しかし世紀の転換とともに,Aの類型に属する主観主義の主要類型はAlから A2へと移行する。この転換の主要な担い手であったパレート(V. Pareto)に即 してこの転換の過程をヨリ立ち入ってみてみよう。 パレートは当初L.ワルラスの「純粋経済学」を基本的には踏襲しているが, 10年も経たぬうちに基数的効用理論は選択理論にとって代わられる。『経済学提 要』(1909,伊語初版1906年)では次のようにさえ述べられる。「個人は,彼が 嗜好の写真を残されれば消え失せることができる」(p.170),と。ここで「写真」 とはいうまでもなく「無差別曲線」のことである。効用概念そのものはパレー ト経済学から放逐されるけれど,主観主義そのものもそれから取り除かれたと 考えるべきではあるまい。というのは,「写真」=無差別曲線は,主観的選好体 系の客観的財世界への写像であり,それは線形変換を除けば一義的で(少なく とも短期的には)安定的であると考えられているからである。主観主義は実証 主義にヨリ親和的な形態へと変移するのである。つまり,この型Aの主観主義 は「問主観的」主観主義A,から「行動主義」的なそれA2へとその主要な形態を 転換させたとみることができよう。 主観主義のいまひとつの類型の端緒は,おそらくM.ウェーバーやC.メンガ ーの思索のうちに求めることができるのであろう。じじつ彼らは,たとえば限 界効用逓減の法則を,単にウエーバー・フェヒナーの法則のような心理学的事 実に依拠して説明する「心理主義」的説明ではなく,人間とその思惟に普遍的 4) な事実(稀少性と「目的合理性」)によって基礎づけている。しかしKirzner (1992)も指…摘するように,オーストリー学派の強い影響のもとに執筆されたし. ロビンズの『経済学の本質と意義』は新古典派的正統のうちにその方法論的基 礎として組み込まれてゆくのだから,このタイプの主観主義の本格的展開は, 1930年代後半以降に公表される「新オーストリー学派」の諸論稿やG.L. S.シャ ックルの業績のうちに見出されねばなるまい。 1.M.カーズナーは上掲論文のなかで,新古典派的主流を批判しつつ,彼らの 4)入木紀一郎(1988),ch. 1, ch.5§3参照。
方法論的個人主義の諸類型 235 いう「主観主義」の特徴を素描している。 主流派理論は市場システムについて「確定的帰結」(determinate outcome) ;均衡の規定に成功しているが,それは二つの「方策」(device)によって可能と む コ なっている。一つは,所与の無差別図表の形で与えられる自己の選好体系を, 所与の予算制約式のもとで極大満足させているという想定。二つは,システム 内で生起する諸意思決定は相互に「あらかじめ調停され」(pre−reconciled),相 互に相矛盾しないものとなっているという想定。 第二の点については,IV節においてHayek(1937)と関連させて考えてみるつ もりなので,ここでは第一の点に関するカーズナーたちのいうところをきいて みよう。 経済均衡を消費者の選好の無差別図表との関連で考察するこの見方は,それ を個々の消費者の具体的な「心の働き」(mental acts)と関連させて考察するこ とはしない。だから「消費者がある商品バスケットを,誤りをおかしたりある いはたとえば将来の価格変化について想像力を働かせたりするのを許容するよ うな仕方で,選択する自由は注意深く取り除かれていた。彼が買うべきものは 彼の主観的選択過程からは独立に彼を取り囲む諸条件(確かにそのうちに彼自 身の選好構造も含まれているが)によって完全に決定されているのである」 (Kirzner,1992, p.48) つまり正統的ミクロ経済学は消費者の意思決定が彼ら自身の選好体系によっ て支配されるという「大権」を否定しはしない。これはこの派の理論における 「主観主義の要素」である。しかしこの型の理論が許容する主観主義は,この ような無差別曲線(図表)によって表わし尽くされるような「人間的気質につ いての主観主義」(subjectivism of human disposition)一周知のように,こ れ自身に関する分析は経済学から排除されうる であって,誤謬をおかした り想像力を発揮したりする「能動的精神(active minds)についての主観主義」 は排除されてしまう(ibid., p.49)。 要するにカーズナーの上述の批判は,経済学における主観主義的要素は,無 差別図表によって表示されるものだけではない,というものであったが,彼を
も含めて新市ーストリー学派の経済学者は,この無差別曲線分析そのものをも 一とくに「不確実性」の存在する動態的状態においては 強く批判してい る。L.ミ一掃スやM. N.ロスバードらによるその批判については,他の機会(松 嶋,1991,ch.4)に述べたのでここでは繰り返さない。しかしカーズナーが書き しるしている次の行りは紹介しておく価値があろう。 正統的ミクロ経済学にとっては「関連する諸目的は,明確で確定的な順序づ け(ranking) 無差別図表(引用者)一という形で意思決定者に与えられて いると想定されている。つまり二つの選択肢のいずれがヨリ高く評価されるべ きかに関して思い悩む余地はない。それぞれの所与の可能な目的を達成するた めに必要とされている犠牲は完全に知られていると想定されている。任意の一 つの目的を:達成するさいに,どの一つが放棄されるかをめぐって思い悩む余地 はないのである」(ibid., p.50)。つまり同一の無差別曲線上に位置すると想定さ れる諸点のうちのいずれが選ばれるべきかをめぐって意思決定者の心中には一 つの葛藤があるのであって,けっしてそれらは「無差別」なのではありえない のである。 オドゥリスコルらは前掲書においてAタイプの主観主義を「決定論」的・「静 態的」主観主義とよび,これに対して彼らのそれ(Bタイプの主観主義)を「非 決定論」的・「動態的」とよんでいる(0’Driscoll, Rizzo,1985, ch.2)。つまり 新オーストリー学派にとって「主観主義は個人の選択の創造性と自主性とに余 地を与える」(ibid., p.1)ものとして捉えられているのである。 これまで本節では主観主義のAタイプとBタイプの間にある相違について考 えてきたが,本節を終る前に両者が共通にもつ一つの特徴について指摘してお きたい。 ハイエクは方法論的個人主義の方法を特徴づけて次のように述べている。「個 人が自己の行為を理論化した結果からではなく個人を行為に導いている観念か ら体系的に出発するというのが,かの方法論的個人主義に特有な特徴なのであ る。それは社会科学の主観主義と密接に結びついているのである」と。つまり
方法論的個人主義の諸類型 237 MIが拠るべきものは,「人々の行為を動機づけるようなあるいは社会現象を構 成するような意見」なのであって,「人々が全体に関して形づくっている思弁的 または解釈的な見解」ではない(ハイエク,1979,p,42)。 ところでこのような「二分法」一「個人を行為に導いている観念」と「個 人が自己の行為を理論化した結果」の区分一は,Aタイプの主観主義者パレ ートがその社会学説において行なっている区分一「残基」と「派生(体)」の 区分一に対応している。パレートと同様ハイエクも「イデオロギー」的要素 を社会認識の第一義的要素をなす「主観」的要因とはみなしていないことは興 5) 味深い。 III 「・… 厳密に目的合理的な行為を構成することは,これらの場合におい ては,その行為が明証的に理解されうるために,かつそれが一合理性に伴う
一一
`性をもつために,類型(「理念型」)として社会学に役立つことにな る。すなわち,あらゆる種類の非合理1生(感動,誤謬)によって影響される現 実の行為を,純合理的行動の場合に規定されるべき経過からの「偏椅」として ロ コ 理解するのに役立つのである。その限りにおいて,そして方法的に有効である というこうした理由からのみ,「理解」社会学の方法は「合理主義的」である。 しかしこうした取り扱いは,もちろん社会学の合理主義的な偏見として解され てはならず,ただ方法的な手段としてのみ理解されるべきである」(M.ウェー ノく一一,1953,p.11)o 「個人主義」的・「理解」的方法によって社会学理論を構築したM.ウェーバ ーのこの発言はMIの方法によって展開される経済学説にもそのまま妥当して いる。すでに引用したポッパーやハイエクによる定義は,この方法が人間行為 におけるいかなる合理性にも依拠していないことを示している。しかし「明証 5)「残基」「派生(体)」の意味については松嶋(1985)72ページ以下参照。またこれら二人 の主観主義と異なりイデオロギー的要素の重要性を強調する主観主義をP.Winch(1958) のうちに認めることができる。性」と「一義性」を重視する理論経済学が,諸個人が「目的合理的」(パレート の言葉を用いれば「論理的」)に行為すると多く想定してきたことは周知の事実 であろう。問題は,このような「合理主義」的アプローチが,「ただ方法論的手 段としてのみ理解される」ならば問題はないのか?また「合理主義」的アプロ ーチによらずにMIの方法で理論経済学的展開は可能なのか?これらの論点に 関して本節では若干考えてみたい。 Aタイプの主観主義の立場から,これらの論点に関わる形で最初の理論的展 開を試みたのは,V.パレートであった。以下の行論の前提として,まず彼の行 為論を簡単に要約しておこう。 人間行為(C)を「論理的行為」(C1)と「非論理的行為」(C2)とに二分す る。C、はウェーバーの「目的合理的行為」に対応するもので,行為者が,自己 の目的の実現のために適合的であると一般的に考えられている手段を,自覚的 かつ論理的推論に基づいて選んでいるような行為である。これに対してC2は Crの残余カテゴリー(C−C,)として規定されている。しかしそれは非合理的= 「反論理的」(illogique)行為と同じものではない。『経済学提要』からの次の引 用はそのことをよく物語っている。「非論理的ということは反(没)論理的とい うことを意味しはしない。というのはC2は諸手段を目的に適合させるにさいし て,観察と理論に依っていればもっとうまく発見することができたかもしれな いもの[=手段]でありうるからである。ただこの適合は論理的推論以外の方 法によって得られたのである」(p. 41)。 ところでパレートは経済学を「社会システム」(S)の部分システムである「経 済システム」(Sr)の均衡(経済均衡)であると捉えている。が,ここで問題と なるのは,Siを構成している「経済的行為」が主としてClであるのに対して, コ Sを特徴づけるものは主としてC2である,と捉えられている。が,現実の「経 済均衡」は「社会均衡」でしかありえないとすれば,「経済学」は社会システム に関する学(「社会学」とよばれている)のなかでいかなる位置を占めうるのか? 他の機会(松嶋,1985,III)に論じたように,彼の「経済学」と「社会学」の間 には「越えがたい溝」があるように思われる。それはまた次のように言い換え
方法論的個人主義の諸類型 239 ることもできよう。パレートは一方において,現実の「社会均衡」がけっして 「合理主義」的な方法によっては構成しえないことに気づきながら,他方では 彼の経済学を「合理主義」的体系のままに放置した,と。 パレート体系が抱えているこの矛盾の,MIの分析枠組み内部での「解決」 (それが本質的解決であるか否かは別として)としては,相対立する次の二方 向一(1)経験主義的と(2)先験主義的と一がありえよう。 第一。パレートがClの残余概念として一括したC2は彼自身も気づいていた ように(『提要』p.41),じつはC1と「反論理的行為」とを両端とする線分=諸 行為のスペクトラムである。たとえばH.A.サイモンのいう「限定された合理 性」(bounded rationality)や「手続き的合理性」(procedural rationality)はそ の一例と考えることができよう。C、のみならずこのようなC,をも理論経済学の 6) 対象とすることによってパレート経済学と社会学の間にある「越えがたい溝」 が埋められるであろう。が,そのためには二つのハードルが越えられねばなら コ コ ロ なかった。すなわち一つには,人間行為の合理性に関しての「合理主義的偏見」 が除去されねばならない。そしてそのためには,人間の行為がもつ「時間」と ロ いう次元と「不確実性」の事実についての洞察が必要であった。また二つには, 理論経済学を純「演繹的」な性格をもつものとしてより,ヨリ帰納的な性格を もつものとして捉えなおすことが必要であった。 第二。Bタイプの主観主義者ミーゼス(L. von Mises)の「人間行為学」(prax・ eology)はパレート体系が直面したような矛盾を「回避する」一つの方策であっ た。彼のプラクシオロジーについては,他の機会(松嶋,1991)において比較的 詳細にみておいたので,以下では行論の展開に必要なかぎりでの諸特質を要約 的に検討してみよう。 以上みてきたパレートの議論との対比においてみれば次の二点が特徴的であ る。 (1)ミーゼスにおいては,行為は時間的経過のうちにおいてのみ生起し未来 6)パレートも「応用経済学」においては「貯蓄」などについてそのような分析を試みてい た。
志向的である。そして未来は本質的に不確実なものとして捉えられている。次 の章句はそのことを如実に示している。「未来の不確実性は,すでに行為という 概念自体の中に含意されている。人間が行為することと未来が不確実であるこ ととは決して二つの独立した事柄ではない。それらは一つのことを述べる二つ の態様に過ぎない」(Mises,1949, p.105,訳p.128)。1920−30年代の「社会主 義経済計算論争」以来ミーゼスにとって固有なこの認識は,彼のプラクシオロ ジーの最大の学史的貢献であるといえよう。 (2)ところでこの点とも関連して,両者が行為の合理性について抱いている 観念の相違が生じてくる。すなわち端的にいえば,パレートの観念が実証主義 的であるのに対して,ミーゼスのそれは徹底して主観主義的で先験主義的であ る。 パレートの観念が実証主義的であることは,彼が「論理的行為」の概念に対 して与えている第二の定義がよく示している。すなわち,それは「客観的目的 が主観的目的と一致している」ような行為である(1917,§151),と。ここで「主 観的目的」とは行為主体の「目標」,「客観的目的」とはこの目標の達成のため に採られる手段(行為)によって実際にもたらされると,一般的にまた合理的 な理由をもって期待される(つまり間主観的で蓋然的な)帰結を意味している。 これに対して,ミーゼスにおいては「人間行為」は必然的につねに合理的 (rationa1)である」(1949, p,18,訳p.43)。というのもBタイプの主観主義者で ある彼にとっては「主観的目的」は行為者以外の観察者にとっては知りえない ものであり,「客観的目的」もまた,不確実性が存在する状況のもとでは明確に は知りえない。だから「合理性」はパレートにおけるように客観的事実によっ てテスト可能な事実ではありえず,人問の「主観」に関する先験的な命題でな ければならない。ちなみにミ一端スにとって「人間行為とは目的的(purposefu1) な行為である」(p. 11,訳p,35)。ここで「目的的」とは客観的状況に対する「意 識的適応」あるいは「合理的熟慮」(reasonable deliberation)に基づいて「特 定の目標」を達成しようとする試みである(p.20,訳p.44)。八木(1986,ch.5) もっとに論じているが,「ミーゼスにおける『合理性』とはH.A.サイモンのい
方法論的個人主義の諸類型 241 う『主観合理性』あるいはM.ウェーバーの『主観的目的合理性』・… に対 応しうるものである」(松嶋,1991,p.244),といえよう。 Bタイプの主観主義者であり,アブりオりストであるミーゼスにとって,区 別されるべきものは,「目的的」でない行動=「反応」(reaction)と「行為」と の違いのみであって,その行為がパレートにおけるごとくさらにC、とC2とに 区別されることはありえない。また「その言明と命題は・… 経験と事実に 基づく検証や反証の対象とはならない」(p.32,訳p.55)と書くミーゼスにとっ ては,パレートにおけるごとき理論と現実との相違一「理論的均衡」と「具 体的均衡」の相違一も問題になりえないことも明らかであろう。ミーゼスは パレート体系が直面せざるをえなかった矛盾を巧みに「回避した]ということ もできよう。だが,それはその真の解決でありえたのだろうか?この問いは, この種のアプリオリズムとMIとの関連を問うことでもあろう。さらにまた「論 理的」でないだけでなく「目的的」でもない行動とMIとの関連を問うことで もあるにちがいない。これらについて考察することが次節の課題となる。
IV
『人間行為』の一節,「方法論的個人主義の原理」をミーゼスは次の章句で始 めているが,それはアプリオリストである彼が「個人」と「社会」との論理的 関係をどのように考えているかを示すものとして興味深い。「人間行為学は個人 の行為を扱う。人間の協業にたいする認識が得られ,人間行為それ自体の一層 普遍的なカテゴリーの特殊なばあいとして,社会的行為が扱われるのは,その 研究がさらに進んでからである」(p.41,訳pp.64f)。 第一節でシュムペーターによりっっ述べたように,MIと「実質的個人主義」 とは区別されねばならない。たとえば経済学において方法論的個人主義者であ るパレートは「個人」を「社会」から切り離して理解しようとする試みに反対 している(松嶋,1985,p.268)。ミーゼスもまた次のように書いている。「論理 的には,全体の諸観念とその部分の諸観念は相関的である」(p. 42,訳p.65)。 そして「個人は社会的に組織された環境の中に生まれてくる。この意味においてのみ社会は(論理的または歴史的に)個人に先行する,という論調を受け入 れてもよい・… 」(pp.143f,訳pp.167f),と。 だが,実証主義者でシステム論的に思考するパレートと主観主義的アプリオ りストであるミーゼスとでは個人と社会との関係の理解をめぐって実質的相違 がある。 すなわちパレートにとって個人は平面を構成する点のように社会の一構成要 素にすぎない。これに対してミーゼスにとっては,個人は社会という平面上の 単なる点ではない。本節冒頭の章句から知られるように,全体である社会は部 分である個人を通してのみ理解されうる。 Bタイプの主観主義に立脚するMIは,このようなアプリオリスト的形をと らざるをえないのだろうか。私はそうは考えない。この点でHayek(1937)は重 要である。Hutchison(1981)のように,この論文を契機としてハイエクがアプリ オリストからポッパー主義者への転換を始めたとみるのが正しいか否かは別と して,少なくともハイエクがミーゼス的プラクシオロジーの社会認識上の価値 を相対化し,MIの原理をミーゼスのそれとは異なる地盤の上に構築しはじめ る契機となったことは確かであろう。 この論文が批判の主要なターゲットとするのは正統的均衡理論であった。「完 全市場」「完全知識」の想定に立脚する正統的均衡理論は経済均衡の成立条件に ついての,経験的に意味のある説明ではありえない。均衡の成立のために必要 な「知識」が,諸個人によっていかにして獲得され伝達されるかについての命 題あるいは仮説が必要なのである。だがこの論文は本節のテーマとの関連で, つまりアプリオリスティックなMIへの批判としても読むことができる。その ような観点からその主内容を要約すると次のようになろう。 (1)「選択の純粋論理学」一ミーゼス流のプラクシオuジーはいうまでもな くその一典型一は数学や幾何学と同様に一つの「トートロジー」である。そ れがもつ認識価値をけっして彼は否定しない。しかしそれと並んで,「現実世界 における因果関係について我々になにごとかを語る命題」一「ともかく原理 的には,検証(verification)[あるいはむしろ反証(falsification)… (註1)]
方法論的個人主義の諸類型 243 可能である」(p.33,訳p.47)ものを提供しうる経済理論が存在しなければなら ない。 (2)というのも,「選択の純粋論理学」は単一個人の計画・行為についての均 衡状態を規定することはできる。が,複数の個人の行為の結果として生ずる均 衡については何も語りえない。なぜならそのような均衡が成立するためには, 諸個人の抱く「計画」・「期待」が相互に両立しうる(compatible)ことが必要で あるが[II節でのカーズナーの議論(本稿p.235)を参照],その成否について 論じうるためには,単なるトートロジーを越える「経験的(empirica1)要素」を 理論に導入しなければならないから。 (3)「選択の純粋論理学の出発点である諸想定は,すべての入間の思考に共通 であると我々が考えている諸事実である。これらの諸想定は我々が他人の思考 過程を理解し,もしくはそれを頭の中で再構築することができる分野を定義し, もしくはこの分野の限界を定める諸々の根本原理であるとみることもできよう。 ・…@これらの諸想定は,一つの型の人間行為(「本能的」な行為と区別する ために我々が通常「合理的」な行為,もしくは単に「意識的」な行為と呼んで いるもの)にかかわるものであ[る]」(p.47,訳p.62)。 だが市場において現実に成立している均衡は,このようないわばプラクシオ ロジカルな知識に加えて,諸個人の行為を取り巻く具体的諸状況,すなわち人 人の知識は現実に照応しているかとか,人々は経験からいかに学ぶか,といっ たことについての因果的知識や仮説である。人々は実際には外的状況について ほんの僅かしか知らない。しかし彼らの「自発的相互作用」(spontaneous inter− action)の結果として市場均衡がもたらされる(p.50f,訳p.66)。 以上から明らかなように,ミーゼスの経済学=プラクシオロジーとハイエク のMIとの間には根本的ともいうべき相違があるように私には思われる。 第一。ミーゼスがプラクシオロジー=経済学はいかなる検証も必要としない 先験的学としたのに対して,ハイエクは両者を区別し,後者は検証もしくは反7︶ 証の対象となる経験科学であるとしている。 7)Hayek(1955)は,社会科学もポッパーの意味での「反証」のなされるべき科学であると している。ただここでの反証の対象は「パターン」に関する予測である。
第二。ミーゼスが「個人」の次元と「社会」の次元とを連続的なものとして 捉えるのに対して,ハイエクにとって両者の関係は単純な連続性の関係におい ては把まれてない。前者は後者の前提となるが,両者が「連続」するのは後に みる「自生的秩序」の論理を介してである。 第三。ミーゼスが人間行為を「目的的行動」=主観的に「目的合理的」な行 為として把握したのに対し,ハイエクにあってはそれはサイモンにおけるごと く限定された知識に基づく,しばしば伝統や慣習に従う行為と考えられている。 たとえばHayek(1962)は,人間の行為や認識はつねに自覚的・意識的ではあり えず,充分には弁別されていない「ルール」によってしばしば導かれている。 さらにまた人間の精神は,「超意識的」(supra℃onscious)な,したがって意識に よっては把捉しえない「ルール」によって支配されていると説くのである。 第四。先にみた(3)によっても示唆されているように,ハイエクのMI論は「自 生的秩序」論と一対をなしている。彼は『科学による反革命』のなかで次のよ うに書いている。「社会科学が解答を試みる問題が提起されるとしたら,それは 多くの人々の意識的行為が意図せざる結果を生み出す場合とか,誰の意図の結 果でもない事柄が規則的に観察される場合に限られる。社会現象が,意識的に, 計画される場合以外に何の秩序も示さないとしたら,社会に関する理論的科学 の入り込む余地はまったくなくなるだろうし,またしばしば論じられることで あるが,そこには心理学の問題しか存在しなくなるであろう(1979,p.44)。 ミーゼスのように個人の次元での合理性を必ずしも前提しないハイエクにと って,社会における「合理的秩序」は,言語,貨幣,市場そして「荒野の中の 小道」のように,それは「多くの人々の慎重な決断の結果ではあるが,しかし それはやはり誰かが意識的に計画して作り上げたものではない」(p.46)ような 仕方で作り上げられる。人々の「自発的相互作用」を通じてのみ社会的合理性 は成立しうることとなる。
v
前節までにみてきたように,MIは三つの次元(レヴェル)で相対立する二方法論的個人主義の諸類型 245 つのタイプに区分しうる。すなわち(一)「心理学的・実証主義的」と「哲学的 ・反科学主義的」と (A,B)。(二)「合理主義的」と「純合理主義的でない」 と(a,b)。(三)「先験的」と「経験的」と(α,β)。そしてこれら三つの次 元(A,B)(a, b)(α,β)を組み合わせれば次の入つの類型に分類するこ 8) とができる。(1)Aaα(ワルラス),(2)Aaβ(経済学者パレート),(3)Abα (?),(4)Abβ(サイモン),(5)Baα(ミーゼス),(6)Baβ(ウェーバ ー),(7)Bbα(ウィンチ),(8)Bbβ(後期ハイエク)。各項後のカッコ内には 本稿に登場した社会科学者の名を一つずつ配したが,ウェーバー,ウィンチは Bbβに挙げることもできよう。(Abαについては該当者を見出しえなかった。) これまで私はMIをもっぱら分析方法という側面からのみ考察してきた。が, それはまたイデオロギー的インプリケーションをももっている。その意味で区 別の第四の次元として,「中立的・没評価的」と「評価的・イデオロギー的」 (N,V)の二つのタイプを区別することができよう。シュムペーター(1983, ch,6)はNの好例であり,ハイエクやミーゼスなどはVに属しているといえよe︶ つ。 MIのこれらの諸類型一一純形式的には十六のタイプに区分しうる一は, それぞれ固有のメリットとデメリットをもっている。しかしここでそれらに立 ち入る余裕はない。これらに共通する問題点とメリットとを概観して本稿をお えることにしよう。 第一。MIは「主観主義」であり,これに対立する方法は「客観主義」であ る。Bタイプの主観主義者は客観主義を「決定論」と同一視し, Aタイプの主 観主義をも「客観主義」的とよぶ。私はこの見解には与しない。私は経済学に おける「客観主義」を次のように理解している。一経済システムの構造と運 行は「個人を行為に導いている観念」のみによってはけっして「理解」しっく 8)社会学者としてのパレートが,この類型に属さないことは上述から明らかであろうが, 社会学者としての彼は,方法論的個人主義者でもないように思われる。 9)私は「自生的秩序」論には,イデオロギー的・調和理論的要素が含まれていると考えて いる。
しえない。むしろそれは,このような「観念」とは独立に論理的にはそれらに 先行して,「客観的」に存在すると想定されるべき「構造」の総体的認識 それは漸近的には近似的に到達可能であると考えられている。(ハイエクらとの 基本的な認識論上の相違)一を基礎としてのみ把握できる,という見方とし て。このような見方は,経済を「社会的再生産システム」として捉える見解(ケ ネー,イギりス古典派,マルクス,スラッファ)と,社会的集計量の間に確定 的な函数関係の存在を認める見解(ケインジアン)とがある。それらがつねに 「決定論」的である必要はないし(例えばスラッファ体系をみよ!),マクロ的 関係には確固たる基礎がないとも私は考えていない。これらの見解を斥けるこ とによって,MIは経済・社会現象の重要な一側面を見失っているように思わ れる。 第二。MIは「全体論」を斥ける。たしかに社会は個人からのみ構成されて いる。しかし個人の行為と意識がつくりあげたものが一つの「疎外態」として 油入を支配することもあるのではあるまいか。論点のみ指摘しておく。 コ の 第三。私はすべてのMIとすべての客観主義,全体論とが両立しうるとは考 えていない。しかしある種のMI(例えばBbβNのタイプ)と非決定論的な構 造をもつ客観主義的・全体論的理論とは「統合」しうるように思う。このよう な統合こそが,非決定論的で非独我論的な,また単なる帰納主義に堕さぬ社会 経済学体系を生み出すのではあるまいか。 文 献 Hayek F. A.(1937) “Economics and Knowledge”, lndividualism and Economic Order, Chicago,1948,邦訳「全集3」春秋社,1990。 (1955) “Degrees of Explanation” in Hayek(1967). (1962) “Rules, Perception and lntelligibility” in Hayek(1967). (1967) Studies in PhilosoPhy, Politics and Economics, London. ハイエクF.A.(1979>佐藤茂行訳『科学による反革命』木鐸社。 (1986)田中真晴他門『市場・知識・自由』ミネルヴァ書房。 Hutchison T. W.(1981) “Austrians on Philosophy and Method” The Politics and Philoso− Phy of Economics, Oxford. Kirzner 1. M.(1992) “Subjectivism, Freedom and Economic Law”, The South African
方法論的個人主義の諸類型 247 ノb%7r%α!of Economics, vol.60, no. L 松嶋敦茂(1972)「オーギュスト・ワルラスの経済学」彦根論叢155号。 (1985)『経済から社会へ パレートの生涯と思想』みすず書房。 (1991)「ミーゼスの『人間行為学』をめぐって」彦根論叢273,4号。 Mises L. von(1949)Hzamαn、Action, Chicago,村田稔雄訳『ヒューマンアクション』春秋社 1991e O’Driscoll, G. P. Jr. and Rizzo, M. J.(1985) The Economics of Time and lgnorance, Oxford. Pareto, V.(1909) Manuel d’e’conomie Politique, Paris, (1917) Traite’ de sociologie ge’ne’rale, Lausanne. Popper, K.(1961)The Povemp of H[iston’cism, London,久野平炉『歴史主義の貧困』中央 公論社,1961。 ステイダラーG.J.(1974)丸山点訳『効用理論の発展』日本経済新聞社。 シュムペーター,J.(1983)大野忠男他訳『理論経済学の本質と主要内容』岩波文庫。 入木紀一郎(1986)『オーストリア経済思想史研究』名古屋大学出版会。 山川義雄(1968)『近世フランス経済学の形成』世界書院。 ウェーバー,M.(1953)阿閉吉男他訳『社会学の基礎概念』角川文庫。 Winch, P.(1958)The ldea of a Social Science, London,森川真規雄訳『社会科学の理念』 新藤江。 (追記) 私は本稿で,紙幅的制約から,日本の社会科学者による所論をとりあげなか った。が,たとえば内田義彦がスミスを例にとりつつ行なっている次の指摘 一社会認識のためには「理解的方法」と「分析的方法」が不可欠である(『社 会認識の歩み』第II部第3章4)一は本稿の最終節でとりあげた問題(MIと 客観主義的・全体論的方法との関連の問題)を考える上で傾聴に値する。