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中井正一一における〈時間機能〉としての図書館論

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中井正一一における〈時間機能〉としての図書館論

佐 藤 晋 一

(1982年10月31日受理)

       1

?苣ウ一の図書館論Dは,一般には次のように解される。中井図書館論の特質は「機能としての 図書館論」である。その〈機能〉の概念はE.カッシーラーに由来する。庫としての,容れ物として の図書館論を脱却した図書館論を展開しようとした。 「文庫としての図書館」から「百貨店として の図書館」,そして「情報網としての図書館」への流れが図書館機能の,従って図書館理論の展開 であると,中井は分析した。図書館を,認識を媒介するく場〉と位置づけている。それらネット・

ワークが十分機能するためには,中心にコントロール・センターがなければならない。資料の蒐集 とその利用が最大限の効率を以ってなされねばならないからである。

しかし中井は,そのコントロール・センターに情報の蒐集・記録とサービスの機能を第一に重要 なこととして要求していたのではない。思惟機能と判断機能,そして実践機能を要求していた。そ れらの機能は委員会が担うのである。思惟・判断は委員会での討論においてなされる。その討論が 能くなされるためにデータの蒐集の正確さと提示の効率性が必要なのである。これが図書館での記 憶・記録機能である。委員会は,その上実践機能を持たねばならない。実践機能と実践機関は代表 性の論理によって支えられる。

本稿では,中井の図書館論に含まれるオリジナリティであるく機能(媒介)〉概念を特に時間論 的観点から考察し,中井のく時間論的図書館論〉を粗描してみたい。

       2

?艪ヘ思惟・判断,記憶(記録)及び実践の機能が主として遺伝子,脳及び個体という場(空間)

に支えられる歴史的段階と,それらの機能が集団という空間にも支えられねばならなくなった段階 とを区別する。2)そして,集団主体の認識の論理の分析を自らの課題としたのである。

2−1.遺伝子,脳,個体に支えられる段階での諸機能はその個体が必要と考える程度に応じて発 揮される。それでよかったのである。記憶・記録すべきデータが何であり,いかなる範囲において それを蒐集するか,それらのデータに基づいていかに思惟し,判断するか,また実践するかは,結 局のところ個体としての認識主体の問題であるとみなされていたのである。3)だからこの段階でぽ 蒐集されるべきデータの意味も認識主体によって決定されうると仮定されていたのである。むろん,

どのような形態にデータ類を分類するか,手文庫,文庫の形態とするかあるいはそれ以外の半ば公

開的な形態とするかも,個体が決めるべき事柄であった。従って文庫は非常に多様な形式をとりえ

たのであるが,現実的には蒐集のための物理的空間の確保やコスト等の制約の故に無数には存在し

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124       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

えなかったと言える。この点は個体の頭脳に関しても論理的にはあてはまる。記憶すべきデータの 選別とその量は個体の必要性によって決められ,各個体は可能な限り多様なデータを欲するだけ集 めうるのであるが,現実的には個体の知的関心範囲の問題と,データ蒐集に許される諸条件,特に 時間的,経済的条件のために人間の数だけのく頭脳の文庫〉は存在しえないのである。個体が生き るための糧を得ようとして時間を費すことが多ければ多いほどその労働の中で得たデータや知識を 蒐集・分類するのに一杯で,それ以外のデータを〈頭脳の文庫〉に集積する空間は少なくなる。

〈頭脳の文庫〉もある範囲で類似したものとならざるを得ない。つまり,思惟・判断・記憶はある 範囲の個体では類似したものとなるのである。とはいえ,文庫は個体の必要性を質・量において反 映したものであるから,そこには個性的特徴が備わっている。

2−2.ところが,諸々の機能を個体レヴェルでは担いきれない段階が,質的にも量的にも存在す る。歴史的には既にBC3000年頃に,図書館の発生がみられる。尤も,このアッシュルバニパル 王の図書館といわれるものは行政上の諸文書を収めた文書館というのが正しいようである。けれど

もそれは,もはや個体のレヴェルを超えた記憶・蒐集の場として出現し,作用しているのに相違は ない。この段階は,記憶・蒐集の量の増大の問題をいかに解決するかということを自覚した時点で 画されたと言えるが,根本的には思惟・判断の対象の質的深化,従って実践の課題のレヴェル・アップ によって画されたのである。そこでは誤りのないデータが確実に記録されていなければならない。デ 一タの量的増大を促すのは諸々の問題の困難度であり,問題の質が個体による認識の程度を超えた時 である。個体レヴェルでの,即座の解決が可能ならば,データの蒐集は必要がないのである。この段階で は,個体が各々の必要度に応じて蒐集したデータを使っていたのでは問題の解決に及ばないというこ とである。個体には及ばない問題の解決には,その問題の質・量のレヴェルに対応したデータが必要な のである。故に,思惟も判断も実践も個体におけるそれでは不十分なのである。では,何が個体レヴェ ルを超えたデータ蒐集や思惟等を担うのか。中井は集団主体がそれを担わねはならないと言う。

そもそもデータの正確さ,蒐集範囲の適切さ,保存期間の判断に限ってみても,そこには個体に おける判断を超える問題が含まれているのである。個々の個体が用いるクリテリウムやそれらの単 なる寄せ集めでは用をなさない。そこからの論理的飛躍がなければならない。集団主体が問題を解 決することに成功しなかった場合,そこに生ずるマイナスは個体における場合に比すべくもなく大 きくなる。むろん問題解決に成功した場合のプラスも,個体における場合に比すべくもない。ここ では記憶の量よりは,その質が重要な因子になっているのである。この事情は個体にあっても本来 的には同じなのであるが,集団主体にとってははるかにスケール・アップした形で,しかも鋭く記 憶の質が問われる。問題が全体に関わり,困難であるのみならずその解決が急がれるという時間的 条件が加えられたとき,いかなる情報をどのくらいの時間に蒐集することが可能かということが 大きな問題となる。その情報を基に思惟・討論がなされ,実践のプランがたてられ,実践がなされ

るからである。この場合必要とされる情報は個々の個体が必要と考えるものの寄せ集めではない。

更に,集め方が問題となる。個体が必要とする範囲及び時間の加算的値とか平均値とかを採るわけ

にはいかない。蒐集範囲の問題は一般に指摘されることが多いので,時間の面に絞って考えてみよ

う。上の条件のもとでも個体が必要と考える時間の値は,その固体に固有の値をとり,各々の個体

間に値の差があってもそのこと目体は問題にはなりえない。言うまでもなく,それらの判断がプラ

スに作用するかマイナスに作用するかによって,各々にとっての限定的効果が生じることにはなる

のだが。集団主体の場合はそれに対して,データ蒐集に要する時間は決定的要素になる。その時間

(3)

佐藤:中井正一における〈時間機能〉としての図書館論       125

のとり方が正しくない場合にもたらされる結果は,全体的効果となってあらわれる。だから,ひる がえってデータをどの範囲で,どれぐらいの時間のうちに集めたらよいか,というのは問題の質,

殊にその問題を解決するために必要な時間をどれだけとるかの判断にかかってくると言えよう。そ の時間幅は,個々のアト・ランダムなパラメーターではないパラメーターに基づく判断として現実 的なものとなるのである。

その判断を行うのは,委員会の審議である。ここでなされた思惟(討論),判断は個体に還元さ れえないft並sichなものとなる。審議・討論において個々の個体の, an sichな思惟・判断から,

f枇sichな集団的な思惟・判断が媒介されるのである。この思惟・判断は現実の実践条件の介在を

●  ●  ●  ●  ●  ●  ●   ●  ●

前提とするから,殊に実践的性格を強く持たざるをえないのであり,一般に望ましい選択ではなく

●  ●  ●  ●  ●  ●  ■  ・

して,どうするかの決断である。その決断を促し,実践において実現すべく,データが集められる のである。十分な蒐集とでも言うべきものが既にあって,そこから最良のデータを選ぶことが時間 的に可能な場合はそうすればよい。しかし,解決に要するデータと時間をあらかじめ知ることは,

常になしうることではない。それが常になしうるのであれば,とりわけ時間をどのようにでも調整 しうるならば,むしろそれは問題ではない。問題が存するということは,それを解決すべき時間幅 を決定しなければならないということである。いつ,いかなる問題が発生するかを,あらかじめ知 ることが常に可能ではない。だから発生した問題をどれだけの時間で解決するかを,その都度決め なければならない。いつ生ずるか予測しえない問題のために時間を保留することはできない。存在

●  o      ●  ●  ●  ●  ●  ●       ●  ■  ●  ●  ●  o

そのものが時である,と中井は考える。存在は問いであり,「問いとしての存在……は一つの実験 そある。」4)「我々は目に見えざる意欲の結果としてく今〉とくここ〉を生きている。一これが如実 であり,これが本当の現実の把握の仕方である。」5)存在の時間的側面への注目は中井哲学において 極めて重要である。歴史を生きることは,実践的判断がそれを媒介するという意味を含む。実践的 判断を欠いた歴史や時間は人間にとってありえない。歴史の通時性は人間の実践判断と実践を介し       ●

トこそありうる。故にこの通時性は空間を伴う。実践がなされる空間である場をもたねばならない。

判断はくここで,今〉,〈今,ここで〉という条件の中でこそ求められるのだし,その判断が正し

●   ●

かったか間違いであったかも究極的には実践の中で検証されるのである。判断には,空間的なここ ニあそこを媒介する機能と,いまと過去及び未来を媒介する機能とが含まれる。中井は,その空間 的機能よりは時間的機能を重視している。従って, 「ネット・ワークとしての図書館」論は空間的 機能に重点をおいたものと解されるけれども,中井に即するならそれを時間論的に,時間機能に重 点をおいて把える必要がある。空間的解釈の最もポピュラーなものは,日本全体を図書館でネット・

       ●  ●      ●       ●  ●

潤[ク化するという説明である。すべてのこことあそこが結びつき,それらの間に格差がなくなる。

●  ●       ●  ●  ●

アこにいるのとあそこにいるのとで,情報をうけとる点での差,空間的差が生じないようにしよう というのである。確かに中井の存命中は,メディア自体の側に未解決の困難が含まれていたのでネ ット・ワーク化は興味のある,切実な問題であった。しかし,通信手段の発達を支えた情報理論や 通信工学が原理的にこの問題をも解決している今日では,残るは社会的諸関係のカベである。

       ●   ●       ●  ●  ●        ●   ●

Q−3.時間は,こことあそことに,ひいてはあらゆる場で一様に経過するものではない。ここで       ●   ●

フ時間とあ老とでの時間そのものが異なるのではなく,実践主体にとって,ここで必要とされる時 間とあ老とで必要とされる時間が論理的にも現実的にも同一とは考えられないのである。各々の実

践主体の存在様式が違うのだからそれを支える空間も時間も異なるのである。空間的局在と同じく,       ●

條ヤ的局在もありうるのである。空間的局在はそれらを結びつける手段(メディア)によっては,歪

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126       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

●       ●   ●

むことがある。つまり,即時的に結びつきうるか否かで格差が生ずることがある。この意味での空 間的歪みは解消されるべきものであるが,空間的局在自体までをも,否定的にとらえうるのだろう か。否であろう。空間的局在は時間と論理的関連を有するからである。こう考えてくると,図書館 のネット・ワークという問題には,どんなに消極的に考えてみても,時間の論理が含まれざるをえ ない。網の目に包み込むこと自体が,既にメディアの時間的性質と切り離せない問題なのである。

必要とする情報をいつでも,どこででも簡単に広い範囲にわたって入手出来るという状況そのものが 新しい問題を生み出していると言える。ある空間と他の空間とを結びつけること,そしてある空間 に固有の通時的時間を変換によって他の空間のそれに結びつけうることは,何を意味するのかと中 井は問うているのである。時間的局在そのものは歴史的時間としても実在する。そして時間的局在     ●

ヘ固有の場をもつのである。すべての場・空間に一様に流れる時間はありえない。なのにすべての 空間が結びつき,各々の空間に固有の時間は変換によって相対的に測りうるものとなる。勿論,あ

る時間や空間は他のそれに解消はできないのである。ネット・ワーク化するということは,単に時空 を結びつけるということにとどまらず,新たな問題を提起している,即ち人間にとっては所与の,

しかしan sichなものと意識される時間・空間が, ftr sichな,ネット・ワーク化された時間・空 間と結びつくときの結びつき方にいかなる問題があるかが問われている,と中井は考える。中井に おいてはいつでも,どこででも必要とされる情報を即座にサービスすることが目的なのではなくし て,そのことはan sichな時間・空間とft江sichな時間・空間とのせめぎ合いを,どうして乗り超 えてゆくかの実践判断,実践の論理形成のための条件なのである。実践において,情報は自由選択の 対象でなければならない。情報を自由に選択する,というのは何を情報として選択するかの自由で あり,図書館から必要に応じていつでも,何でも取り出せることではない。ただ,いつでも必要に 応じて,何でも取り出せるという機能は,サービス論を形として保障しうるポイントであり,確か に中井が強調している点ではあるが,実践主体としての図書館にとっては情報が自由選択の対象と なるべきであるというところに意味がある。中井にとっては,図書館は庫ではなくして,実践行動 のための組織でありセンターなのである。つまり図書館自体が実践主体なのである。だから図書館 が自ら情報を自由に選択せねばならないのである。そもそも,いつでもどこででも必要な情報が得 られるという事態は,一般に,ありうることなのだろうか。問題のないところに情報は必要ではな いのである。また,個々の存在にとって情報が自由選択であることと,集団主体にとってそうであ ることとを同一レヴェルで考えることはできない。「エグジステンチアをもって,エッセンチアを 測るという立場……は自己個人のエグジステンチアが,集団の存在様相における位置における部署 をもっていない場合,それは単なる不安の方向に終る」5)のである。人類は,自らが「歴史的に形 成しつつあるエグジステンチア」5)を根拠とする。それは個人の場合よりも「もっと深い不安の中 に,r創造せんとしっつあるもの』」5)にちがいない。個にとっても人類にとっても情報は自由に 選択されねばならないのであるが,時間(歴史)においていかにしてくエッセンチア〉を測るか。

この測り方こそが情報の選択を規定しているのである。

個が測る場合は,即ちエッセンチアとして何を選択すればよいかは個の必要に応じて,an sich に行えばいい。というのは,個にとっての問題は個に固有の時間・空間に即したものと考えうるか らであり,その解決も個に固有な仕方でなせばよいからである。だが集団の場合はそうはいかない,

というか集団に即した選択や解決とは何かの判断それ自体が問題となるのである。何を情報とする

かの判断は,ここではf髄rsichになされねばならない。その際,空間的にどの辺までを情報蒐集の

(5)

の範囲とするかも重要であるが,とりわけ時間幅をどうとるかが決定的意味をもつ。現実は常に,

●  ●     o  ●  ●

いま,ここで動く。だから,個の場合もそうではあるが集団の場合は,いま,ここでの現実をいか にとらえるかが最大の課題となる。しかも単に生起した現象を素早くキャッチすればよいのではな

●   ●      ●   ●   ●      ●   ●      ■   ●   ■

い。それが何故そうなったか,またこれからどうなるのか,いま,ここでが,次に,どこでに接続 されるのかどうかを論理的に見通さなければならない。時の,歴史の流れの方向を通時的にも共時 的にも予測せねばならないし,実践主体は自ら向かうべき方向を決めなければならない。そうでな いと蒐集される情報は,無意味な累積物となり,実践におけるデータとして役に立たなくなる。個 の場合,蒐集の仕方がan sichであるという意味で結果的に蒐集したものが無意味なものとなるこ とが,たとえあるとしてもやむをえない。個の判断の総和として集団の判断が,また判断のための 時間のとり方が生まれ,確定するのではない。だからこそ,この点で矛盾が生ずるのである。この 矛盾のポイントは,空間的な,つまり個の関心範囲をカバーしたり,求めに応じて直ちに情報を提 供したりできないことにあるのではなく,時間的な矛盾にある。

第一に集団にとって必要とされる時間そのものは,個にとってan sichなものではないし,個は 必ずしもそれを理解しうるとは限らない。この点と関連して第二の問題が生ずる。即ち時間のとり 方の論理が異なるという問題である。中井はこのことを鋭く意識していた。だから集団的な記憶 思惟・判断の機能を成立させる場として委員会を考えたのである。その委員会は代表性の機能及び 執行機能をもつところのコントロール・センターであり,時を媒介すべきものであった。即ち委員 会,ひいては図書館は「大きな組織としてのr働き』としての流れ」5)なのである。データの蒐集 の時間を,またサービスの時間を失わないことは,あくまでも側面的な重要性なのである。どのよ

うにして個と集団,個的存在と歴史的存在の間の,時の矛盾を解き放つか一このためにこそ両者を 媒介する場が必要となるのであり,さらにその場がどのような拡がりや作用性を有すべきかは,実 践に要する時間のとり方の論理に基づいてはじめて決まるのである。従って,場は固定的な庫であ ってはいけないのであり,機能そのものでなければならない,と中井は主張する。いわば時そのも のが自由選択の対象とならねばならず,場はその都度自己をメタモルフォーゼしてゆかなければな らないのである。そうでなければ,いつでも場は庫にとどまりつづけるのである。かくして第三に,

個はfUr sichな時間に対しての自己の部署を測らねばならないという問題が生ずる。ここには,時 間におけるく測るものと測られるもの〉の間の二重の関係が鋭く現象している。自己とan sichに 感じられる時間の関係と自己と血rsichな時間の関係とが,である。測る側のまちがいは測る側に かえる。この意味で,個の場合,まちがいは個にかえるので,まちがいから生ずる帰結はそれがプ

ラスであってもマイナスであっても限定された範囲におさまると言える。が,集団の場合は範囲を 限定できるかどうか。空間的には限定することができても,時間の測り方のまちがいは,まずその

ことに気づくのに時の経過が必要であるし,気づいた時には,もはや,もとの時点まで引きかえす ことはできないのである。個の場合でもそうであるが,個の場合は存在そのものが時間的制約をう けていて,その制約の中での問題であるから,集団の場合とは事情が異なるのである。時に即する ことに成功しないと,時を失うともう取り戻すことはできない。俗に言うようにく江戸の仇は長崎

●   ●       ●  ●  ●

で〉とることはできても,ここでのミスをいつかとり戻すことはできない。少くとも問題が不変で ないかぎりは,できない。が,問題は不変のままとどまりえない。時の変化は問題の質を変える。

集団自体も変化する。他面で,測られたもののくあやまり〉の場合は,歴史的な時間の中で,その

ことからいかなる事態が帰結するか範囲を限定しえない。この典型的なケースが戦争である。中井

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128       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

は戦争を結果した原因として,空間的な事柄よりは時間的事柄を論理的に重視している。真理への 無知が戦争につながったのだ,と中井が言う時,それは第一に,空間的な,記録の範囲や量や正確

さにおける欠陥,データの分類・保存の欠陥を指しているのではなくして,時をan und fUr sich にとらえて,それに身をゆだねることについての論理(この論理を中井自身は明確な形で述べては いないし,中井の内側で明確な形をとっていたとするには疑問が残るのであるが)への無知を指し ているのである。即ち,「現実的に日本全体に対して,日々の時間を密着する」5)ための論理への 無知を意味しているのである。いうならば,〈時の論理〉に身をゆだねるという「この当然のこと が,ここまで運ぶまでに(即ち,身をゆだねるための形としての国立国会図書館の実現に至るまで に),どんなに多くの知識人が,またその背後に善意の民衆が,不合理のために涙をながし,死の 覚悟を定め,妻や子が,むごたらしい犠牲になったか」5)と中井は回顧し,歴史に対する自己の部 署を個として,また集団主体として測るための論理を追求したのである。

中井の図書館論の,だから具体的には国立国会図書館運営構想の中心問題は,カード(情報)の

・   ●   ●

ャれ方と,その流れを組織化することにあった。「全日本の総合カタローグの問題」5)に中井は 取り組んだ。「全日本にいかなる本が何処にあるかを,一カ所で把握できるという機構の確立」5)

を目ざした。本,つまり情報は,その「一つ一っが,日本の現状のバロメーターの目盛として記録 整理されてゆく」5)のであり,「調査員はその目盛を研究総合してゆくことで,低気圧が何処に在

り,何処へ向っているかを予測し」5),さらにそこから「純粋に学術的に高い理論」5)を生み出し てゆかねばならない。中井の言うく調査員〉とは,必ずしも国立国会図書館の専門的職員のみを指

しているのではなく,国民全体がく調査員〉でありうる。それは既に集団主体であり,集団的組織・

機関である。「本を読むということは,浄机明窓で静寂境の楽しみ」5)というよりは,「個性の危 機を乗越えて,集団の部署の一員として,自らの全性格をその中に投じ去ること」5)なのである。

図書館は「もはや,本を読むとか,本を納めておくとかいうスペース,場所ではなくして,それは 大きな組織としてのr働き』(機能)としての流れである。本は何処にあってもよい。カタローグが

しっかりしており,流れ作業の組織さえ厳密に,そして巧に出来てさえいれば立派に新しい意味の 図書館が,そこに姿を現わしているのである。もはや固定した場所を図書館というのではなくて,

研究及び調査の流れ作業全体が一っの図書館という機構となっているのである。」5)ここでは,新し い図書館では,ユニオン・カタログ,印刷カードの組織とその組織の機能,とりわけスピードが重 要なのである。読むということは,中井にとってはもはや単に個体的な行為ではなくして,「精密 に合理的メカニークをいかに完成するかという方向に向っている」5)べきなのである。

図書館は,記憶・記録の機関ではなく, 「本に関係をもつよりも,情報行動の集団的中心として,

       モルフエ       メタモルフオーゼ

サの姿をかえつつある」5)のである。rr形態』として自己自らをr変貌』する」5)方向に動き つつあるのである。記録・記憶のための形態から,思惟・判断及び実践のための形態へと動きつつ あるし,そうでなければならないのである。現実的に国立国会図書館は,まさしくそのためにこそ 世界に類例をみない支部図書館制度を持ったのであった。現実そのものに即するためには,現実を 如実に把握するためには図書館の形態の変革が不可欠であった。中井は国立国会図書館の設立その ものには関与しえなかったが,副館長として新しい図書館理論の創造に全力を投入しつつ,支部図 書館制度の理論的基礎づけのみならずその実現にも最大限の努力を傾けたのであった。6)

〈部署を測る〉ために許容される時間を,常に前以って知ることができるわけではない。実践そ

のものの中でこそ時間を測らなければならない。だから,判断のための時間は最も効率的にとらね

(7)

ばならない。この時間的制約の方が空間的制約よりも実践主体にとっては,きびしいのである。あ る時点での判断は,論理的に次の瞬間を媒介しなければならないし,実際的にも媒介するのである。

判断の妥当性は時間的にも検証されなければならないのである。判断は切断でもある。ある時点に おける事態の切断である。しかし,この切断は切断のままにとどまってはならない。切断という非 連続の判断が連続性を媒介するのである。それは実践の場でなされるのである。この意味で,判断 の時間と実践の時間とは論理的に深い関連を有するのである。判断が実践であり,実践が判断であ るような論理的関連があり,時間において判断は実践へと自らをメタモルフォーゼするのである。

時間の中にない判断・実践は,本来的には二義的意味しか持ちえないのではないだろうか。中井 は,実践の論理の発展・展開史として〈時間〉,歴史をとらえようとしているのであると考えられ る。 「国立国会図書館は(いままさに),無限の未来に向って重い任務と課題とをもって,永い永い 時の中に自分自身を試み」7)ようとして活動をはじめたのだと中井が語るのは,それがためである。

こういう試みがかつてなかったのである。繰り返し述べて来たように,何が可能であり,どのくら いの時間でどこまで実践することができるかということを,あらかじめ予測することは困難であり,

実践主体が実践の中でくやってみる〉こと自体が予め測り尽すことのできないことである。だから ともかく日々の存在を実践において貫き通さなくては,問題は未解決のままに残り,次の問題が実 践の対象とならず,時・歴史がそこで中断してしまう。問題の解決に必要となる時間は,実践それ 自体の中で決められるのである。前以って予測的に決められた時間の中で実践するということは,

常に可能ではないし,不可能に近い。判断を一つの実践と考えるなら,判断についてもこのことは 妥当する。所与の条件のもとで判断・実践しつつ,その判断・実践に必要な時間即ち判断・実践を 成立させうる時間幅を,その時々に決めなければならない。この結果としてのみ,時間的連続性が 生み出されてくるのである。

現実に身をゆだねるというのは,fUr sichな時に身をゆだねるということであるが,このfUr sich な時そのものは実践への投企を介さなくては時として把えることは出来ない。実践への投企の中で のみ,問題の解決に要する蒔が決まる。この蒔こそが現実なのであると,中井は考えているのである。

       3

?艪フ図書館論は「真理が我等を自由にする」という国立国会図書館法の前文に示されている文 言に貫かれている。中井において真理とは空間的な意味でのそれではなく,実践の中の時間的・歴 史的な現実なのである。自己を歴史の中へ通時的に位置づけることの認識そしてその時間的位置づ けからの脱却の中にこそ真理がある。「現実にまともであらねばならぬ。脈々として我々を築き上 げたその現実にまず驚こう。かく現実の取扱において我々は如実でなければならぬ」7)のである。

現実というのはan sichな時とfUr sichな時の交差する場であり,その現実を取扱うためには我々 の存在様式そのものを変革せねばならないのである。思惟・判断,実践の形態をも変革しなければ ならないのである。図書館は「今や,この真実を単なる個人として探ろうとしているのではない。

大きな集団的組織として(時の流れの中に)探ろうとしている。個人の記憶のかわりに資料の精密 を極めた整理目録を用意せんとしている。個人の思惟に代って,委員会をもっている。如何なる出 来事をも記憶し,どんな天才よりも広汎な知識と意欲をもつ巨人となって,自らを創造しようとし

ている。

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130       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

かかる実験は,すでに方法論的実験であって,真理の意味も,自由の意味もが,その形成の姿を,

より広く,より大きくするものである。」7)「この組織の崩壊と不備は,やがて,予報の誤謬となり」?)

実践の誤謬を結果するのである。

中井はく形〉としての図書館ではなくして実践機能そのものとしての図書館,rr形』の発展の 形成を,生き身をもって生きる」7)ための図書館論を主張し,構想したのである。そればかりでは なく,この主張は図書館法の実現(1950年4月)のための実践に自らをメタモルフォーゼして行っ たのである。ついに,難行の末に中井はrr論理』とr現実』に密着することの上に」7)図書館法 を成立させたのである。8)

1)中井 浩編『中井正一・論理とその実践一組織論から図書館像へ一』てんびん社,1972,及び中井正一全

集・第4巻『文化と集団の論理』美術出版社,198Lを参照されたい。

2)C.セーガンは,記憶・記録の面に注目して,遺伝子の図書館,大脳の図書館,社会的記憶装置としての 図書館という発展段階を区別している。「朝日新聞」1980年10月9〜11日付,<COSMOS>。

3)一つの例として,F.ダーウィン(小泉 丹訳)『チャールズ・ダーウィン』岩波文庫,1927,を参照さ れたい。その際『フランクリン自伝』における図書館論に関する記述も併せて参照されたい。

4)中井正一全集・第1巻『哲学と美学の接点』美術出版社,1981,P.174。

5)中井正一『論理とその実践』前掲書,P87,P45,P46,P126,P102,P114,P116,P97,P119,

P120,P126,P145,P192。

6)羽仁五郎『図書館の論理一羽仁五郎の発言』日外アソシエーツ,1981,を参照されたい。

7)中井正一『論理とその実践』前掲書,P117,p88,P92,P97,P162。

8)拙稿,「中井正一と図書館法」茨城大学教育学部教育研究所紀要,第13号(1980),を参照されたい。

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