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中井正一 と 図書館法

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(1)

中井正一 と 図書館法

佐 藤 晋 一

(1980年11月15日受理)

は  じ  め  に

 「この数年間,わが図書館界は,この法のために,実に多くの討論をし,実に多くの交渉をし,      1)海を越え山を越えて,ここに辿り来ったのである(154頁)」と,中井正一は図書館法の通過に際

して記している。図書館法案は参議院を1950年3月3ヱ日に,衆議院を4月8日に通過し,4月30 日に公布された。それは国立国会図書館法が工948年2月9日に成立し,同4月16日に中井が国立国 会図書館副館長に任命されてから2年後のことであった。ここに日本における公共函書館の在り方 が明示されたのである。戦後の教育史の上でも非常に重要な意味をもった図書館法の意義を,それ の成立に全力をかたむけ,遂に病に倒れた中井正一の実践活動を通して論じてみたい。これまで,

図書館法(以下図法と略記)の成立及びその問題点が中井の側から検討されたことはなかったよう

      2)である。図法の成立史については別に論じたい。

1.国立国会図書館副館長中井正一が図法の成立に実質的に関与するのは,1948年8月から9月に 捌て公姻書館法委員会の委員に加えられ塒点からであっ腱.躰図書燃会(以下日図協と 略記)は同9月27・28日の両日,まだ赤坂離宮に仮寓していた国立国会図書館(以下国会図と略記)

で第1回「公共図書館法委員会」を開催した。ここで,それまでの論議を土台に最終案の作成のた めの講がなさ礼更に「法の制定実現のための具体的な取り組みかた(169貢/」カ・蔽さ礼「通 過に必要な諸工作に当る」(図書館法委員会の報告,「図書館雑誌』 (以下r図・雑』と略記)1949 年2月号)目的を以って,中井正一,甘日出逸暁千葉中央図書館長,中田邦造東京中央図書館長の 三名が公共図書館法実施促進委員会(以下促進委と略記)を組織することとなった。この委員会は

u先ぽう隊として(6尚」,公姻書館法の実現を図るために「占領軍当局,文部省はじめ政府関係 当局,議会関係」への働きかけを行い,更に「一般民衆の関心を喚起(69頁)41することにも努めた。

この時から中井の,図法成立のための苦しい努力が始まる。しかも難行に難行を重ねたすえ,や っと決った国会図の副館長中井に対しては当初から国会図内において抵抗があった。国会図内の「官        5)

サ勢力からはr田舎侍』として迎えられたようだ」という指摘が,当時の状況を端的に表現してい るように思われる。中井の長女由紀子氏は「ものすごい抵抗の中で徐々に理想を実現させようと努

      6)       ・・

@      と当時を回想している。〈アカ〉だという攻撃もあった。中井を館長とし力し(113頁)」ていた,

て強く推薦した参議院図書館運営委員長羽仁五郎氏も,「官僚主義のまっただ中にただひとり副館 長として入っていったのだから,その苦労は想像にあまる」ものだったこと,また「中井副館長を失      7)

rさせる陰謀」があったと指摘している。「何をやろうとしても手かせ,足かせで思うように動け なかったω4翻けれども,「彼は_訥泣き言をいわず?に奮闘していたと羽玉は言己しぷな

(2)

その中井が国立国会図書館法の具体化と図法の制定とに全力で打ち込むことになったのである。

中井は副館長であると同時に,日図協(会長は1948年6月14日から国会図・館長の金森徳次郎とな った)の促進委員として活動を開始したのである。中井と日図協との公式の接触は1948年4月6・7 日に行われた日図協総合役員会で,中井が参与の要請に応じたとみてよいことが公表された時点から          8)

ヘじまったと言えよう。正式に副館長に任命されたのはその4月16日であった。また6月14日の日 図協第一回図書館大会には,金森館長の代理として出席した。中井はユ949年6月から1952年5月死        9)

獅キるまで,日図協の理事長をつとめた。

さて,中井ら促進委は1948年9月以来「三人の促進委の外に非公式に文部省(雨宮祐政,武田虎

●   ●   ●   ●   ●

之助),国立図書館(加藤宗厚)及び日比谷図書館(占野健雄)の参加を求めて,五十日の間或は 会合し,或は分担研究によって全醐鹸討し最終案を得た(236副のである.その訪で「世 論の喚起と支持とを求めるため,各地方図書館を通じて社会各層から,その社会,地位,職業等の 具体的事情と結びっいた意見を蒐集し,これを民衆の聲として中央地方のラジオ新聞に発表し,或 は在京新聞人を招き,又議会方面や出版業界に活発な働きかけ」(r図・雑』1949年2月号)を行っ たのである。そこで11月3日にそれを日図協は公式見解・公共図書館法案として公表した。促進委 は第一回報告を11月12日に行った。

この法案において,公共図書館は「地方公共団体,又は営利を目的としない法人が設置する」も のとされ,前者を公立図書館,後者を私立図書館という。組合立図書館は前者に加えられている。

公共図書館は「一般公衆の利用に供するため,図書記録の類をしゅう集整理保存する文化機関」と 定義された。そして民衆の利用の機会を均等にするため分館・支館・閲覧所・配本所等を設けると した。私立図書館については,特に,充分その自主性を尊重すべきであるとされている。学校,博 物館,公民館,各種の機関と緊密に連繋し協力すべきこと,更に読書会,討論会,研究会等の外に 文化的会合を開催したり,あっ施に努めることも明記された。

公共図書館の運営・管理は各レヴェルの教育委員会に設置された図書館協議員会が行う。更に全 国図書館協議員会が設けられ,文部大臣の管理下におかれた。それらの委員は,都道府県及び地方 図書館協議員は各々の都道府県及び公共図書館長又はその推薦する者,図書館関係団体・地方議会 が推薦する者,そして学識経験者から5〜7人が選出され,全国の場合は前記の委員の中から互選 された者の他に,芸術院,学術会議,国会,実業界代表者の推す者から9人が選ばれる。任期はす べて4年で,2年毎に半数を改選する。委員名は公告される。

図書館員の養成・研修等については図書館学校(これには職員研修のための図書館講習所が附置さ れる)の設立,更に図書館員養成所の設置(中央図書館に設置する)を明文化している。館員の身 分についての配慮もなされた。

公共図書館の経費は設置者負担を原則とした。国庫負担,国庫補助も規定された。閲覧料はとら      1。)

ない。以上のような内容をもつ公共図書館を「地方公共団体は,設置しなければならない」のである。

促進委は以上の法案の検討の過程で,特に館長の資格について論議があったことを報告している。

「各種館長の資格,特にその地位に相応しい条件を求めて,その向上をはか」るべきであるとさ礼

「それと共に広く人材を求める一途として,教育委員会(当時は公選制であった一引用者)が推薦 し文部大臣が認定するものに途を開」くこととした。その場合「他の経験は多く,教養は高くとも 活動力の澗渇した素人館長の転入によって,この法文の目的が失われることのないように」するた

@      4)

゚,年令を50才以下とした。更に,一般の大学卒業者に対しても道を開くこととした(237頁)。こ

(3)

の結果,中央図書館長は「文化運動に理解があり,図書館行政に識見の高いもの」であって,中央 図書館副館長,図書館学校を卒業又は高等司書検定試験に合検し,5年以上中央図書館において司 書事務を経験したことのある市立図書館長,大学を卒業し3年以上中央図書館で司書事務をした市 立図書館長(あるいはいずれの場合も館長ではないが中央図書館で8年以上司書をしているもの),

そして都道府県教育委員会が推薦する50才以下のもので文部大臣が認定するもの,のいずれかを選         10)ぶと決定したのである。

この案は後に国会を通過する際.「公共」の二文字が削除されたのをはじめ,内容的にも相当の 変化を余儀なくされて現行のようになった。目立つのは1)図書館学校の規定が削除されたこと,

2)館長についての条項は大幅に変更され,補助金を国からうける都道府県及び市立図書館につい て,司書資格と経験3年ということが条件となったこと,3)補助金と設置者の経費負担が軽減さ れたこと,である。当時文部省社会教育施設課に勤務していた川崎繁は,日図協案が変更されざる をえなかった理由について「①義務設置制を採用したため莫大な予算を伴い,時恰も学制改革の際 でもありこれが実現は最も困難であったこと,②図書館の設置及び運営の基準の設定が現状に比し 高度のもので,その実現に困難が伴うこと,③私立図書館の取扱い,特に助成方法において区々の意

ゥが介在していたこ眉をあげている。確かに「あっちで叩かれこっちで突つかれ磁苦闘してと もかく城立したのであるから「首尾一貫しない所もあろう(19削力咽法1ま・顯においては        4)

Rしいが,理念においてゆたか(20頁)」であるとか,「実を棄てて花を採った(86頁)」ものだとか,

あるいは「全く寄木細工みたい(19責9」だとか,「理念としては立派であってもその裏づけが帆

      ・・   1りその意味ではカスである」とかの評言は,何故に出てくるのであろうか。中井の側から見るとどう

みえるであろうか。

豆.図法成立のために中井が何を考え,どれだけのことをしたのか,中井自身の文章を中心として 考察してみよう。

まず図法については,冒頭にも引用した如く,そこまでやっと辿りついたのだと考えている。だ

o   ●   ●

から「未だ多くの夢」はあるが,図法という「かたちに於て,一つの橋頭塗を,かちえた」という ことは, 「現段階の酷薄な情勢のなかにあっては」まぎれもなく「一つの前進である。」この点は 強調されなければならない。しかし「法案が通過したその最初の瞬間こそが最も大切な時で」あり,

●   ●   ■   ●   ●   ●   ●   ●   ■   ●   ■   ■

「われ等は,この瞬間に決して,法の内容の批判に立止ってはならない(傍点は引用者による)。」

「立止って人に援助を哀願してはならない。」何故なら,法の成立は「私達に安堵をあたえた」の ではなくて,即ち立止ることを許しているのではなくて「多くの心躍る不安をもたらせている。」

問題はだから,この〈心躍る不安〉に対してどう構えるのか,不安とは何かを考えることではなく して,「われわれが前進することによって」のみ不安を払いのけることが出来るし,不安を解決出 来るのだから,「遠い遠い前進の第一歩を今日私達は踏みくだいて」行かねばならない。そうすれ ば「法も亦,おのずから進んでゆくのである。」「この画期的な曲り角に,腰を沈め」ねばならない のは他ならぬ我々なのである。

       r

熕ュの問題等の「法の不備は,館友自体の努力をもって覆いかくさなければならない。」「一っと して図書館界の手をさしのべなければ,危機がそのr死の十字』の様相を示さんとしていないもの はない」ではないか。その危機は「今正に」「深まりつつある。∫この「危機を救うべき最初の狼火」

が図法なのである。日図協理事長としての中井の考え方である。この中井の考え方は,r図・雑』

(4)

1950年4月号(発行は5月20日)の巻頭言・「図書館法ついに通過せり」として公表された。

図法の成立に関して,結局何がどのように問題とされたのか,そして中井自身はそのことをいか に観ていたのだろうか。

H−1.中井ら促進委がまとめあげた公共図書館法案は,日図協の公式見解となった。しかし,こ の法案の実現を図ろうとした時に最大の問題となったのは,「予算通過困難を予想して案の財政措 置を縮小せんと(168頁)」する側と「できるだけ補助を得ようとして(168頁)」努力しようとする地 方の,中小の館界との間の矛盾であった。そもそも図法の問題が地方館界と中央との間の矛盾対立 という形をとって現れることには,大きな歴史的社会的な現実というものが原因となっているのであ る。かくして「案自体が揉みに揉むというかたちになった(168頁)」のである。文部省内でも館界 でもそうであった。

そこで中井は国会図の副館長として,また日図協の理事長として「ほんとうに腹を据えはじめ」,

そして「この現実の冷厳さの中に本気に立ち直る(169頁)」べく行動するのである。「つまらない法 案なら(200頁)」,「弱い法案なら通さない方がよい(169頁)」のか,「最少限度の予算措置をも忍 ぶ(169頁)」ことによって法案を通過させるのか。この行きづまったように見える状況の中で,中

●   ●   ●

井は「いつでも膨らむ用意をもちながら,一見何の経費を要せぬ屍のような法案と見えるものとし て装わなければならない(169頁)」,即ち「なるべく大蔵省,閣議,両院の抵抗を少くする(200 頁)」ために「r法案の流線型化』という妙な言葉を考えつい(169頁)」て,説得をはじめた。「流線 型法案として(自分はr砲弾型』とたわむれに呼んだ)(169頁)」通過させようというのである。

「私達の流線型は魚鱗の流線型の如く,ときに鱗の動きでふくらむ事を計算に入れていたのである

(201頁)。」中井がこうして法案の実現のために没頭している間の1949年4月3日には,妻・みち が死去した。中井が喪に服したのはわずか6日前後であった。

1949年12月になってやっと,法案通過を最大公約の原則としそのためには「最少限度の予算措置

                . 14)をも忍ぶという統一一態勢にまとめあげる(169頁)」ことが出来た。こうして12月27日文部省々議は

通過した。ここでも補助金をmayとするかshallとするかの議論がなされたのであるが,文部省 自体はこの問題を,〈見通し〉或はく要求〉として論ずればよいとしても,大蔵省,閣議,両院に とってはそれはく見通し〉や〈要求〉ではなくして,補助金の額をどのようにするかを決定しなけ ればならないのである。

1949年にはJ・M・ドッジ公使,C・S・シャウプ使節によるドッジ・ライン,シャウプ勧告が出さ れ,財政再建及び税制改革が緊急の中心問題となっていた。中井は1949年1月9日に文部省,大蔵 省,法制局を回り補助金問題の善処を申し入れた。また総司令部民間教育情報部(CIE)の図書館 担当者J・M・Nelsonを訪れ協力を要請した。1月19日に次官会議は通ったが,依然としてmay かshallかは解決していない。

ここで法案自体の変化にっいて,簡単にふれておこう。1948年11月の日図協案は1949年1月19日 の次官会議は通ったが,その後「文部省では,協会の最終案を骨子として法制化を急ぎ」 「漸く成        4)

トを得て近く省議に附せられる運びとなった(300頁)」のである。日図協は3月22日に公共図書館法 委員会を召集している。こうして日図協案は文部省案として修正されて4月5日,文部省々議を通 過した。が,折から開期中の第5特別国会への提出は見送りとなってしまう。「その基本理由は文 部省原案1、対する予算措置ができなかったこと(318晶にあった.そこで中井ら促進委は6肚

(5)

       4)

{「辞任を申し合わせ(319頁)」第二回全国図書館大会に諮ったが,日図協側は「促進委は単に今議 会への議案提出を促進する任務を委任せられているのではなく法律が生まれるように促進する任務を

      ママ       4)

奄、ているのだから最後の目的を達成まで辞任すべきでない(319頁)」とし,促進委の強化のために 新たに2名(東大図書館河合博,全日本図書館職員組合吉田邦輔)の委員を追加した。にも拘ら ず,この後もなお日図協案は様々の修正を余儀なくされてゆく。8月には「現行図書館令(1933年 改正)より一歩前進すると認め得る条件にして現在の社会情勢の下に実現を期し得ると認められる

もの(322〜3頁)?をつくろうということになる。1。月31日と11月18日の「図書館基準に関する小委 員会」(文部省の要請に基づき日図協が招集した)では,遂に公共図書館法としないで単に図法とす

ることになった。内容的には「現実の情勢を考慮して,今春省議を通過した四月案よりは高いが,

協会が出した11月3日案(昨年)より低い程度の基準を設定する建前で具体的数字を出した(329

 4)ナ)」ものとなった。

こうして,再度国会への上程を目ざしての作業が続けられた。12月になって,結局「義務設置は 考えない(330頁潮こととするが 「中井理事長はイ)内容,補助金については文部省にまかせる。

ロ)その代り第7国会に是非通せ。ハ)われわれは今後実際活動を通してわれわれの欲する法案を         4)

墲「とる,(331頁)」という条件で,最終的条文の作成を文部省に委せたのである。これをうけて〔文       4)部省においては井内,川崎の若手事務官が夜を徹して,最終的な条文を作成(333頁)」した。年があ

けてからも両事務官は「CIEのネルソン氏と随時打ち合せをして」仕事をすすめ,「休むことなく 出勤し._頑張った(8削」この間,幸いにも文部省々議が12月27日に通り,CIEからの。Kが12月

31日に出た。が,問題は補助金である。法制局も1月11日OKを出した。それでも補助金の話は決       マ

?ェっかない。23日,24日とmayかshal lかでまた揉めた。「1月25日,このまま揉んでいると結 マ極国会上程は不可能となるおそれが多分にあるから,図書館界としてはMayで我慢するから国会 上程を是非(讃/」働てくれるよう文部省腰望,文部省はCIEと交渉することを決心した。

が,25日の昼にそれまでshallであるべきであることを支持して来たCIEも「r角を嬌めて牛を

殺す』のは図論界にとって気の毒だからMayで獺しよう(1。削と薦してく礼その代り「今後図書館界の欲するものを戦い取ってくれ(1。蜀」と励ましてくれた.そこで謎26帥

ノ「一切の官庁的手続きを終了し,27日の閣謙かけることになった(1δ賀)」のである.27日の閣 議は無修正で通過した。

今後は議会対策である.脇会は文縮と呼吸船せて国会対策に全力をあげ(1接)」る.その 眼目は「補助金の条項を….国会で、h。llにする(1皆責)」ことであり,「是ヲ嘔会に於て、h訊1に まで引くりかえしたい(11責1」ということである。ところがGHQの民政局(GS)の了承がなかな か出ない。GSの方は「日本の現状から言って町村図書館などに余り高度の図書館奉仕を強いたり,

職員の資格を規定することは無理」であるし,「中央集権的になる」条項があるので,それは「地

方自治に任せるべきである(,

?求j」との懸念を表明している.2月下旬になっても返答がないので「関儲_同神繊弱的症状を示す1,至った(1猛)」という.けれど硬に25日にはrGS側の意

見を容れて最終的修正(1i造)」をほどこして, GSに提出.ところがすぐには回答がない.「アセ ル気持が濃くなる(1造).」国会開期も残り少くなっているの鵡やっと3月旧}こなって・Kが出

る。直ちに国会提出を7日と決めて準備にかかる。中井は2日に有山事務局長とCIEにネルソン を訪れ「労を謝し,国会対策について所見を訊ね(1碧責)」る.二人は「明日から最初にして最後の 国会工作を猛烈、やるd造)」ことを互いに確かめ合った.4日には法案鯵議院に上程さ礼文

(6)

部委員会附託となった。

このような息づまる醐を中井は,「溝型法案の議を再確認すべき時(17猛)」ととらえ,

「魚があの鱗の動きでそのカーヴを翫うる(17δ黄)」如く,「魚鱗の陣礪えた。補助金の㎞。yを、h。11へ』と文法法学的なス。一ガンをもって臨んだ(エ7δ貴)」のである.この魚鱗の陣はあざ

やかであった。「まず参議院を,そして(再び)GHQのOKを,そして衆議院をとぬらりくらり しながら,m。yを,h。llに翫て通りぬけ(17蹟)」てしまったのである.田舎侍が官僚の壁を鱗 を一閃させてあざやかにとびこえてしまったのである。「国会に於いて補助金をmayからshall に引っくりかえしたのは図書館界が世に示した最初の集団的威力である。」一図法の成立を告げる最 後の「図書館情報」第10号は,こう結んでいる(r図・雑」ユ950年5月号)。中井は書いている。

「思えば五年越しの紆余曲折のはての刀折れ矢つきた形の法案である。この回顧の上にのせて見て,

はじめて,あの屍のような法案が意味をもち,それを喜ぶこころもわかって貰えるのである。文化 法案が,この日本でもつ運命が,こんな苦労をしたことを,私は石に刻んで置きたいのである。数

+年後の人々颯それを笑をふくんで読みかえす日のために(17δ實).」

だが,法はどこまでも〈野に点ぜられた一つの火〉にすぎず,この火が「燃えに燃え,広がりに 広がる焔となる(159責/」のでないなら「単なる屑法案(1711實)」となってしまうかもしれない。

図法成立以後も,中井は日図協のリーダーとして図法の実現・具体化のために全力を傾注する。

皿.2.中井にとってもう一つの重要な課題は,新しい図書館理論の構想であり建設であった。国 会図の館長に擬せられた時には,素人であるという批判が内部からも起っていたのであった。副館 長となった中井の念頭からは,そういう批判を乗り越えて新しい図書館理論の創造へと向かわねば ならないという思いが去ることはなかったであろう。中井にとってこのことは,一面ではそうせざ るをえないことではあったろう。しかし,他面では美学者中井正一,哲学者中井正一の最も興味を そそるテーマでもあったのではないかと思われる。中井は「あと三冊の本を書かなくては死ねない。

論理学の本と図書館学の軋それに自叙伝を(114謝」と言し、残したということである.現在明ら かになっている限りでは,中井の図書館論は1948年以降のものしかない。しかもユ954年に公刊され

た1編を例外として,それ以外はすべて,死去するまでのわずか4年間に書かれ,公けにされたも      14)ののようである。

「真実が必ず歴史の中に実現するという確信膿づけるところの機関(91韻である国会図は,

「この真実を単なる個人として探ろうとしているのではない。大きな集団的組織として探ろうとし

トいる(91−2翻のである,と副館長としての中井ははじめて国会図韻1、語った。個人の記憶       14)のかわりに「資料の精密を極めた整理目録(92頁)」が,個人の「思惟に代って,委員会」が「新た       14)な哲学,新たな論理の創造への,試みの石(92頁)」となろうとしている。 r真理が我等を自由にす      14)る』という国会図の「困難な命題に対決(86頁)」しようという中井である。国会図が「解決すべき課題は時を隔てて見鮒れば判らぬほど」の「大いなる変革(94責/」なのである.国会図は「国会

自身が立法の調査機関をもち,独自の見地の下に調査資料を集め,その根拠に基づいて法案を,組       14)立ててゆくところの組織(94頁)」として設立された。そして国会だけでなく「行政及び司法部の各

部門にも,支部図書館を置き,横の連絡を保ちつつ,総合畷能を発揮(95削すべきこと臆図 されている。むろん「一般の国民に対しても公開し,全国の図書館とも連絡して最大限の奉仕を任 務としている」のである。このような「図書鰍倉旨の出現は我国有史以来初めてであり(95尚)」世

(7)

界的にも類例を見ないのである(本稿では,国会図の構想をめぐる議論には立ち入らないでおきた

い。)。

 何故,国会図はかく構想されたのか。「日本民族が,戦争のはてに立ちあがってゆくにあたって

サの新しい生きかたの法則をさぐりもとめるために(1・6醐である.しかも「「現実』がそれを求       14)めている(151頁)」のである。つまり「民族の教養低下が,大衆自らの文化遺産を硫酸で焼くという

     14)

梠縺i110頁)」ではならないのである。そのために「過去から現在に至るまでの状態を調査しっづ      14)けていかなければならなくなる(96頁)」だけではなく,「あたかも中央気象台のように,純粋に学

術的に高い理論の保持者であると共に,現実的に日本全体に対して,日日の時間を密着していなけ 黷ホならない(1。2諭のである.「躰の現状のバ。メーターの目盛(9尚)」を刻々しるしてゆか ねばならない。「低気圧は奈辺にある瓶危機は何処にひそむか(1。3崩を,かつて国民は自から

の組織たよって記録整理し,そして判断したのではなかった。我々は「脈々として我々を築き     14)      14)      …上げた(88頁刀ところの「現実に身をゆだね(103頁)」,       そしてその現実に「まともであらねばな

轤ハ(88貢ll」現実1・ま屋である我々の行為こそが「髄棚実である(88首1も」我々は「我々 ゥらに挑んで(86勧ゆかねばならないのである。

自からに対していかに挑むか。この自己自身への挑戦は,失敗しても成功してもどちらでもよい というものではない。そのためには「いろいろの要求を予測して,間断なく資料を準備し,整理し,

それがあらゆる角度から求めて来られても,直ちにその問題の資料として配列され報告されるよう       14)に配備されていなければならない(100〜1頁)。」 この「組織の崩壊と不備はやがて予報の誤謬とな

閨C文化自体の災害となってゆく(97超」_このことは身を以っ磁しく体験させられたことな のである.しかし我々は,そこに「筋,悲しみ絶望を告白し,嵯嘆する(m削わけにはゆ かない。実にここにこそ「『主体性』の問題が起って来る基礎もあり,それが妙にこんがらかって来

骼柾薰烽?驕i11償1」のである.どのように自ら蹴むか.r姻人的主観』として骸す硫

「集団主体』として対決するか」を「解答者は果して決定しているかどうか(111〜2鰯。」既に「昏      14)迷がここに起っている(112頁)」のである。けれども我々は「『集団的主体』における個人の位置

をはじめて経験し,それを完成するには人類全体の努力によって数世紀かかるかもしれない(11214)頁)。」それ故にこそ今,「国民が国民の現実を把む」ため国会図を創り,これを手がかりにして歩

み始めたということは,我々が「この集団的主体的構成の中に部署として入り込むことができる  14)(117頁)」ことである。 「集団的主体の性格は,かかる行動の中に,かかる行動を貫いて,自ら創造

さ礼自ら成長し泊己自らを批判し,規定してゆくのではあるまいかω7凱」中井は第歌ア

メリカ教育使節団報告書のテーマは噺た脇力組織コミュニテ、一をつくりあげること(183諭であったとみている。国会図は「繍の誤謬(139貴/」を反省しながら「無限の未来に向って重い

任務と課題をもって,永い永い時の中に,自分自身を試み(117頁)1曾はじめたのである。

「場所としての図書館ではなくして,大きな組織としてのr働き』(機能)としての流れ」である

図書館「全騰を流れている研究及び調査の流れ作業の全体が_つの図書館(12櫛。」「協同したr機能』としての(126貴)」図説rEロ刷かドの流れの環としての図書輔(131豊)。」

rr実体概創としての図書館から磯能概創としての図書館(145戴」「インフォメーシ。ン

       14)センターとしての大組織(213頁),」等々の標語が中井の図書館論を特徴づけている。この標語はし

かし,中井の長い思惟的努力に裏づけられている。個人の思惟にあたるのが「委員会の討論」,個 人的記憶にあたるのが「かドであり,カタ_グであり,リストである(174鑓.」「個人がもの

(8)

      14)

考えるように集団がものを考える時はどうして考えるのであろう(191頁)。」「集団は「委員会」

でものを考えている・躰では・この集団としての 研究の勢局 ヲ羅暢合がある・」「個

lがものを記憶するように,集団はどうして記憶するのであろう(191頁)。」かつてはもの憶えのよ い個人が歌のようにして歴史を憶えたけれども, 「今,民族を単位として,巨大な組織として,図 荒贈総合目録で・またマイク゜ フィノレムによって全記録繊すことを試みようとしている(192

ナ)。」かくして「ここでは読むことは,読む場所のスペースとか本の量」の問題ではなくして,「読       14)む働きであり,読む機能(197頁)」の問題となる。 「カードの整理とリストの完全なものさえあれ

ナプスタソス

ば「どこかの本』をr誰かの机』の上に伝達することはできる。本と図書館という実体そのもの ヘ必ずしも,その当体がもっていなくてもよいのである(215蹴」にの中井の論ずるところを最

初に採り上げたのは「農林省の図書機関で」あり「8つの研究所と,渉外課と,調査局とを打って      14)一丸とする組織の事務局として,図書課なるものが出現したのであった(215頁)。」これは戦後の日

本の最大の問題がどこにあったのかを示すデータでもあろう。)

アの実現のためには言うまでもなく「実距大な蒐集材料が腰なのである(115凱備1ご出版 物の蒐集は根本的重要性をもつ。「全日本にいかなる本が何処にあるかを,一カ所で把握できると いう編の磁(116黄/」を急がね1まならない.この考え方は納本制度として期する.「一つ一つ の納本は面倒ではあろうが,それが集まると,不幸を防ぐことのできる巨大な防塞の組織にまでも 発展できる(116翫」そのうえ,公共図書館や学校図書館等が「結合する時,それはすで}礪買組 織としても巨大(12。鋤であって,納本制度と相鞭係を成すであろう.「図書館力鼻つの網とし て『はた]」の網として重撫尽の映し合う露々の玉として輝くとき・それははじめて生き トくる(130頁)。」本の交流,カードの流れ,そして「図書館教養の充たし方において常に一貫した 流れが,滞ることなき関連において…一つの運動として巨大なる動きをするときはじめて,図書

館の概念は,新しい颯爽たる姿をもって,大衆の前にあらわれ,大衆の支持と愛とを得ることがで    14)

きる(131頁)」と中井は主張する。

こうすることによって「現実は恰も,蚕が蠕となり,更に繭となるように,r型態』として自己モルフエ    メタモルフオーゼ

ゥらをr変貌』する如く,吾々の生活自体が,歴史の中に一つの必然の変革を自ら験しつつあるか フようである(127跳」繍が変われば「吾々の心撒も変ってゆかざるを得ない(127鋤力㍉

我々自身の「敢えて未来の美しさを嗅ぎ出そうとする挑戦(12讃/」が繍を変えるのでもある。

何故このことに早く気づき,実践しようとしなかったのか。中井は「この当然のことが,ここまで 運ぶまで,どんなに多くの知識人が,またその背後に善意の民衆が,世の不合理のために涙を流し,

死の覚悟を定め凄や子力㌔ダたらしい鮒になったのかを思えばこの数千年を思いみてしん みりせずにいられない(114頁)」のである。

中井をして図書館法実現へと努力せしめたのは以上のような理論的認識にもその根拠があった。

●   ●

論理は現実といかに交差する時に自己自身を具現難?か・そして燗によって確信されるのカ㌔

現代においては論理がいかなる「r形』の発展(124頁)」をするのかを,中井は探ろうとしたのであ

る。

現代に至るまでの図書館の歩みについて,中井は次のように把握した。「第一は,r文庫として の図書館』である。第二はr百貨店としての図書館』,第三はr情報網としての図書館」である

(192貢ll」第_の時代における図書館は「円天井のあるシーンとした,いかめしいお寺力轍会 堂のような」もので,ここでは「お経やバイブルの注釈書がそうであるように,人に見せるよりも

(9)

古い本が集まっていることが大切であり,そのためには,なるべく人に見せない事が保存するため

P,は薄良い(192蹴」保存用の「庫でしかない(192尚)」図書館である。この時代にあっては本は「賄物財宝(2。4劃」とされていた沖井は「ギリシャ,。一マ時瀧その意味では同じ  14)(211頁)」だと観ている。「活字のあらわれる前の図書館の構造は,それが万人のものというより,

むしろ,ある王朝のものであり,ある貴族のものであって,その人たちを中心とした本の収集をも       14)ととしたのである(222頁)。」そしてこの庫としての図書館の考え方は「大衆Public㎜という言葉       14)      18)にふさわしいもの(223頁)」が生まれるまで,即ち印刷術の発生まで続いたのである。

大衆があら櫨「書いた言葉が人に伝える範囲(222削の中には,大熟まもはやおさまらな い存在となった時,「大学(イタリーの工員組合の教育機関がその起源となったのであるが)の図 書館は駆教会から離れて,職のための矢職の図書館をもつこととなってくる(223蹴」ア刈 カで,B・フランクリンが1731年にフィラデルフィアに作った「クラブ組織の図書館も,かかる意味 ナ新しい図書館の姿(223鋤をもっているのである.ここ紳井は「二+世糸己の図書館の本流の ケ泉(193削があると言う.「麟店のような図論人のもの,われわれのものとし、う,入る のに階段のない図書館,威厳もなければ,ゾーッとするようなシメッポさもない。軽い親しい,あ ゥる磯能的な図書館(193鋤の出現である.そこにゆけば何でもあり洞でも諭るく百貨店の よう姻書館〉の出現である.大衆が「読むための「鰍のような図書鰯(193尚)」であり,「読 ゙工場(193尚)」ですらある.「万人サービスの機関としてその姿をととのえた(2。4貴/」図甜 である。もちろんこの図書館は「保存の絶対自由と,研究の絶対舳を確保(2。5宣〜」し鮒ればな

らない。

ただ,この〈百貨店としての図書館〉にあっては,未だ個の主体性のみが問題であって,集団 の主体性の問題は明瞭なものとはなっていない。既に述べたように,実にこの点こそが中井にとっ ては基本的問題であった。中井が,第三の,ネット・ワークとしての図書館の考え方を必要とした 理由は,ここにこそあったと言えるであろう。

中井の図書館の発展についての概括的把握は, 「委員会の論理9⊂⊃∈∋」(r世界文化』1936年1

〜3月号,本誌は1975年に小学館から復刻されている)において展開された,論理の史的発展型態 に関する考察が根拠になっていると思われる。古典文化一言われる論理中世文化一書かれる論理 近代文化一印刷される論理,として中井は論理の発展型態をつかんでいるのである。

@      注

@1)中井正一「図書館法っいに通過せり」,中井 浩編『中井正一論理とその実践一組織論から図書館像

へ一」てんびん社,1972年。

2)この点については,裏田武夫・小川 剛編『図書館法成立史資料』日本図書館協会,1968年,岡田 温

「終戦直後図書館界大変動期の回顧(1){2}」,『図書館界』VoU9−3, Vo1.20−−2,『図書館法研究・図

書館法制定三十周年記念/図書館法研究シンポジウム記録』日本図書館協会,1980年を参照されたい。

3)8月中旬に公共図書館法速報(一)が公表され,委員の名が示されたがそこに中井の名はない(『図書館

法成立史資料』同上,235頁)。しかし『図・雑』1949年2月号(刊行は5月27日)の協会記事・図書館法

委員会の報告,では中井が加えられている。中井はく理事長指名〉によって加えられたものであろう。当

時理事長は衛藤利夫であった。

(10)

4)裏田。小川『図書館法成立史資料』同上。

5)国立国会図書館職員組合『第1回図書館研究集会記録・1962』同組合,1963年刊行。27頁。

6)岡田由紀子「父の底ぬけの明るさ」・荒 正人他『私の心に残る父の教育」明治図書,1973年。

7)羽仁五郎『自伝的戦後史』講談社,ユ972年。

8) 『図・雑』1948年4・5月合併号,総合役員会報告。

9) 『国立国会図書館三十年史」日本図書館協会発売,1979年では,理事長を昭和26年5月までっとめたと

あるが(438頁),これは間違いであろう。

10)日図協案は,裏田・小川『図書館法成立史資料』に収められている。

11)川崎 繁「図書館法の成立まで」・『図・雑』1949年6月号,108頁。

12)有山樫「図書館法あれこれ」 『図・雑』1950年4月号。

13)裏田武夫「図書館法の精神とその成立過程」『図書館界』Vo1.22−2,69〜70頁。

14) 中井 浩編『中井正一論理とその実践一組織論から図書館像へ一』てんびん社,1972年。

15) 「図・雑』1950年2月号。

16) 『図・雑』1950年3月号。

17)内田魯庵「古羅馬の図書館」 日本書誌学大系5『内田魯庵書物関係著作集』第3巻所収,青裳堂,

1979年。粟野頼之祐「アテナイの図書館とその発掘碑文」(『出土史料によるギリシャ史の研究』岩波書 店,1950年)をはじあとする諸論文。山本成二「ローマ図書館史の研究」 『図書館学年報』Vol.4−1等

を参照されたい。

18)中井の他にも,例えば徳川頼倫は日図協第8回大会において総裁として次のように発言している。 「図 書館は単に書籍の倉庫ではございませぬ… ・種々の仕事を持っているので書籍を利用して見る所でござ います。」『図・雑」19号,1914年1月刊。庫としての図書館に対する批判的な見方としては,かなり早 い時期のものであろうと思われる。

〔補注1〕中井の三高時代の同窓だった江草四郎有斐閣会長は, 「『中井正一は赤だ。国立国会図書館に赤 を入れるな!』などという馬鹿げた排斥運動が,一一部の心ない職員から起こった」と語っている(「中井 正一君の憶い出」『国立国会図書館月報』1980年9月号,19頁)。

〔補注2〕個人の記憶,集団の記憶ということについては,最近情報理論の研究が進み,そこから有効な示

唆が与えられていると言えよう。朝日新聞ユ980年10月9日,10日,11日付紙上に,rCOSMOS」の28回,

29回,30回分が載っている。そこで, 「遺伝子の図書館」,「脳の図書館」「記憶の倉庫=図書館」という 用語が使われ,その上, 「からだの外に,社会的な 記憶 を蓄える方法を発明したのは,この地球上で は,私の知る限り人間だけである」という指摘がなされている。筆者はアメリカ・コーネル大学惑星研究 所所長のカール・セーガンである。氏は「かすかな地球の上で,遺伝子から脳へ,脳から図書館へという,

長い進化の過程が起こった」とみている。氏によると「世界の大きな図書館には数百万冊の本がある。そ れらの本の文字は百兆ビットほどの情報に相当し,絵はおそらく千兆ビットに相当するだろう。それは,

私たちの遺伝子のなかの(図書館がもつ)情報にくらべて,一万倍の情報量であり,脳のなかの(図書館

■   ● がもっ)情報に比べても十倍の情報量である」という。これらの指摘は,記憶に関してのものであるが,      9

中井の図書館論との関連において考えてみると,興味あるものであると言えよう。

参照

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