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個体化 と社会化

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個体化 と社会化

‑ J. G.フィヒテの哲学 にみ られ る自己実現観 につ いて‑

池 田 全 之

I ndi vi dual i zat i onandSoc i al i zat i on

‑ ∫. G. Fi cht e' st houghtupont hewayofBui l di ng‑ up‑ Humani t y. I

TakeyukiI KEDA

Whe nwer e adSur u e 乙 I l aT L C eandPur ni s c hme ntwhos eaut hori sMi c he lFouc aul t( oneoft hemos t f amouspos Lmode r nphi l os ophe r s ),wec an' tbutbes hoc ke d. Be c aus ehei ns i s t st hatt hes oc i al i z at i on ofhumanbe i ngsme ansonl ypr oc e s st hr oughwhi c ht hel nne rl i ve sofi ndi vi dual sar edi s c l pl l ne dc r af t l y.

Mor e ove r,ac c or di ngt ohi m,s c hooll SOneOft hemos tr e pr e s e nt at l VeS ys t e msf ors uc hdi s c l pl i n. I st he pr opos i t i on' Se l f ‑ r e al i z at i onofi ndi vi duali se qualwi t hI de als oc i al i z at i on'onl yf ant as yt oday?

I nt hi spape rIi nqul r et hi sque s t i onof∫ . G. Fi c ht e' sphi l os ophy. I nhi se ar l i e rphi l os ophy,he adovoc at e st hatwes houl dmakee f f or t se ndl e s s l vi nor de rt or e al i z eourabs ol ut ef r e e dom byour s e l ve s . Andhes uppos e sappe al( Auf f or de r ung)whi c hi sc aus e dbyot he r sast hei ndi s pe ns abl ec ondi t i ont odo s o. I ns hor t ,Fi c ht e ' se ar l i e rphi l os ophyi snotonl ye t hi c alant hr opol ogy,1 nWhi c ht heval ueofhuman f r e e dom i se mphas i z e dar de nt l y,butal s os oc i alt he or y. Ont hec ont r ar y,i nhi sl at e rphi l os ophy,hei s c onvl nC e dt hatt heabs ol ut ee xi s t si nt hef oundat i onofhumane xi s t e nc e ,andt hati de alwayofl i f ei s t ol i v ei t sownl i f ei nt e nt l yasar e f l e c t i on( Bi l °)oft heabs ol ut e . Buti ns pi t eofs uc hs t r uc t ur al c hangeofhi st hought ,t hec onvi c t i oǹ aut onomyofi ndi vi duali sdi r e c t l yl i nke dt ot hec ons t r uc t i onof i de als oc i e t y'pe r s i s t sf i r ml y.

Ⅰ fwec or r onts uc hFi c ht e ' st houghtwi t hFouc aul t ' spol e mi cagal nS tC l as s i c alf r ame wor kofpe da‑

gogi c alt hi nki ng,Wec ans t i l lgi ves uppor tt ot hef or me r . Be c aus e ① i tat t ac hsi mpor t anc et oi ndi ‑ vi dualpe r f or manc e, ② i tr e f us e se as yt ot al i z at i on , ( i nt he s evi e wpoi nt sFouc aul twoul dagr e ewi t h Fi c ht e ),and @ i tpr e s e nt spos i t i ve l yt hegoalofBui l di n g‑ upI Humani t y.( Fouc aul tc an' ti ndi c at ei t c l e ar l yandi twoul dbes e r i ousf aul t,whe ns omee duc at l Onalt he or ys houl dbet houghtoutont he s t r e ngt hofhi sphi l os ophy. )Ⅰ ' m s ur et hatt hei mpor t anc eofFi c ht e' sphi l os ophys t i l lr e mai nse ve n af t e rpos Lmode r nphi l os ophyde c l ar e st hei nval i d

i

t yoft hepar adi gmspr e s e nt e dbyc l as s i c alphi l os ophy.

は じめに

古典的な教育哲学 の今 日的な妥当性 をその根幹 か ら揺 るが し, それを無条件 に前提す ることを不可能 に した書 物 と して, ミッシ ェル ・フー コー ( Fouc aul t ,Mi c he l . 1 926 ‑ 1 9 84)の 『 監視 と処罰一監獄 の誕生 ( Sur u e i l l e re t puni r .Nai s s anc edel apr i s o n) 』 ( 1 97 5 年 ) が あ る。 唐

突 で はあ るが,本稿 をその一節 を引用す ることか ら始 め よ う

「 1 7 世紀初頭 に, ヴ ァル‑ ウゼ ンは 『 良 き訓練』 の術 と して 『 正 しい規律 ( di s c i pl i ne ) 』 につ いて語 っていた。

実際,規律的な権力 ( pouvoi r ) は, ‑ 〔 人 々 の〕 諸 力

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を減 らすために抑圧す るので はな く, それ らを操作 し活 用す るためにそれ らを結合 しよ うとす る。 ・ ・ ・ 規律が個 々 人 を 『 造 り出す』。それ は個 々人 を, 自 らを行使 す る対 象 とか道具 とみなす権力が もっ特殊 な技術 であ る。・ ‑計 算 されているが絶 え ることのない経済策 というかたちで 機能す る ものが,慎 まやかだが疑 り深 い権 力 で あ る 」 〔 1 ' 。

普段 われわれ は権力 と言われ ると,外部 か らの抑圧 や

強制力をイメー ジしがちであ るが, この一節で はそれを

社会 と置 きかえ ることが可能 であ る。 す るとそれ は主体

の社会化 を解説 してい ることにな る。 しか もそれ は, お

定 ま りの近代批判 とは異 な り,隠微 に校滑 に個人 が内面

を規格化 されてゆ くことこそが社会化 であ ると告発 して

いる。 そ して, この フーコーの分析がわれわれを驚惜 さ

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秋田大学教育学部研究紀要 教育科学部門 第

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せ るのは, こうした 「 規律」 の最 も撤密 な装置 と して,

「 試験 ( e xame n) 」があげ られていることである。

「 試験が,監視を行 う階層秩序の技術 と規格化を行 う 懲戒 の技術 とを結 びつ ける。 それは,規格化の視線,資 格付与や階層分 けや処罰を許す監視である。 それは個 々 人 に対 して可視性を確立 し, その可視性を通 して彼 らは 差別 され処罰 されるのである。それゆえ規律 の一切 の装 置の中で,試験 は高度 に儀式化 されているので あ る」〔 2 ) 。

すなわち,権力 ( 社会) は教師を通 してその要求す る ものを生徒 に提示す る。 そ して権力の装置 としての 「 試 験」 によって生徒 は評価 ・分類 され, 合格 な らば (真 壁) に与か ったとい う資格を付与 され,不合格な らば資 格を奪われて処罰 され る。 こうして , 「間断 のな い一 種 の試験装置 ( appar e i ld' e xame n) 」 とな る学校 は , 「試 験」結果を記録 ・集成す ることによって個人を ( 事例) とな し,個人の支配を完成 させてゆ く。 しか もフーコー によれば, この 「 規律」化の起源 は,古典的教育学の全 盛期だ った1 7 ,1 8 世紀 にあるとい う。

人が人 となるというとき, われわれは通常それを,人 が 自律 した成人 にな ってゆ くことであ り,その結果,万 人が 自由を享受で きる理想社会を形成で きると考えてい るが, フーコーはこうした常識の虚妄性 を暴 き出 してい る。だが,か りにこの分析が正 しいとして も,社会人で あることを断念す る人間像 を想定す るのは不可能であろ う。む しろ, フーコーの分析の衝撃を受 けとめつつ, な おかつ 自らの生を支え うる人間の可能性 を探 ることが必 要 になろう。そ して,そのために筆者 は,まさにフーコー が批判の曙矢を向けている 1 8 世紀末 に 「 教育国家」 の樹 立を説 いた フ ィヒテ ( Fi c ht e ,JohannGot t l i e b.1 7 6 2 ‑ 1 81 4 )の人間形成観をあえて取 り上 げ,その形成過程 を 顧みなが ら , 「 個人の完成 ‑社会化」 命題 の今 日的妥 当 性 を考察 してみたい。

さて フィヒテは , 「 知識学 ( Wi s s e ns c haf t s l e hr e ) 」 で 著名な思想家である。 そ してその哲学 は,絶対的な前提 として個人 の自由 ・自律を堅持 し外界一切の由来を自我 の能動的な活動性 に見 る主観主義であると考え られてい る。だが フィヒテが,他者 との共同性 にこそ自我の完成 をみる社会理論を構想 していた ことはあまり知 られてい な

い。

「 人間には理性の概念や,理性 に則 した行為や思考 の 概念が与 え られている。 しか も彼 は必然的に, これ らの 概念を単 に自分 白身の中で実現 しようとす るだけではな く, それが 自分の外で も実現 され るのを見 よ うとす る。

彼 と同類 の理性的存在者が彼の外 に与え られていること は,彼の欲求 のひとつである 」 。 ( Ⅵ .3 04)

さ しあた り論証 を省 くが , 「個人 の理性化 ‑社会化」

の命題が人間の根本衝動であることが確認 されて い る。

そ してその うえで,近代 の典型的な教育像が明瞭に語 り 出されている

「 各人がその根本衝動 によって,他の誰 もが彼の理想 に近づ くのを兄いだ したいと思 う。彼 は‑他者が彼の理 想以下 の者であることを兄 いだす場合 には, この人 をそ こまで高めようとす る。精神同士 の こうした戦 いにおい ては, より高 くより善 い人間が常 に勝利す る。 こうして 社会 によ って人類 の完成 が な され るので あ る 」 。 (Ⅵ . 307 )

理性的存在者の相互啓蒙の場 としての理想社会‑ こう したフィヒテの信念をわれわれ はどこまで支持で きるだ ろうか。本稿で筆者 は, 自己形成の自由が理想社会 の形 成の源であるとい う確信 の妥当性を, 自我の哲学者 とし て出発 した前期か ら,絶対者 の哲学 に到達 した後期 まで のフィヒテの論著をモデルに選 び,理論的著作 としての 知識学 と啓蒙的な通俗的著作を随時対照 させなが ら検討

したいと思 う。

絶対的自律 と他者 による 「 促 し」

まず, フィ ヒテの前期哲学 にみ られ る人 間形成観 か ら検討 を始 め よ う。 この哲 学 は, 『全 知 識 学 の基 礎 (Gr undl a ge de r ge s ammt e n Wi s s e ns c ha ft s l e hr e) 』 ( 1 7 9 4 年 以下 『 基礎』 と略記)を基礎理論 とす る一連 の通俗的著作で展開 されている。そ して, それ らに共通 した根本原理 は,端的に自己を定立す る自我 の自律性で ある。本来 はまず, 自我が自由を行使 して自己と外界の 一切を規定 してゆ く様子 を再構成す ることか らは じめる べ きだろうが,筆者 はすで にそれを試 みて い るので ( 3 ) ,

『 基礎』の核心部分,すなわち,非我 を被 りなが らもな おかつ 自己の自律性を確保 しようとす る人間の自由が生 き生 きと描写 されている 「 努力の演鐸」を想起す るに留 め,む しろ知識学が提示す る厳密ではあるが抽象的な論 理を人間の具体的な行為 にあてはめている一連 の通俗的 著作 ( 特 に 『 学者 の使命 についての若干の講義 ( Ei ni ge Vor l e s un ge nt i b e rdi eBe s t i mmun g de sGe l e hr t e n) 』 ( 1 7 9 4 年 以下 『 講義』 と略記)および 『 知識学の原理 に従 った倫理学 の体系 ( S ys t e m de rSi t t e nl e hr emac h de nPr i nz L ' pi e nde rWi s s e ns c ha ft s l e hr e ) 』 (1 7 9 8 年 以 下 『 倫理学』 と略記))を中心 に して,人間 の 自己形成

のあ り様を解明 したいと思 う。

『 基礎』 の基本方針 は, 自己を定立す る自我の能動性 をあ くまで も擁護 して非我か らの被 りの事実 を説明す る ことである。そ してそれは, その第三原則である 「自我 は自己の内に可分的 自我 と可分的非我を定立す る」の分 析の中でなされている。 まず, フィヒテは非我が 「障害 ( Ans t oB) 」 として自我 に現 れ ることを 「意識 の事実」

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として容認す る ( 第二原則) 。す ると, 経 験 的 自我 は 自 らを 自覚す るときには, いっで もすで に制限を被 ってい ることにな る。 しか しそれで は, 自我 の無制約 な 自由の 原則 ( 第一原則) に反す る。 そ こで フ ィ ヒテ は , 「自我 が制限 されているとして 自己を定立す るの も実 は自我 の 活動性 であ る」 と考 え ることによ って この難局を切 り抜 けよ うとす る

「自我の活動性 は阻害 された もの と して定立 され るか ぎ リにおいてのみ,回復 された もの と して定立 され うる し, またそれが 回復 された もの と して定立 されるかき り においてのみ阻害 された もの と して定立 され うる。 なぜ な ら, ‑両者 は交互規定 ( We c hs e l be s t i mmung)に立 っ てい るか らである。 ‑ こうして,阻害 され た活動 性 は, それに もかかわ らず定立 され, したが って回復 されなけ ればな らないが, それ は もっぱ ら自我 の中に, しか も自 我 によって定立 されなければな らないだろう 」 。(Ⅰ. 2 6 6)

文意 を説明すれば, 自我 は制限 されて い る自己 ( 「阻 害 された活動性」) が,非我 に直面 して い る と意 味づ け る自由を行使す る ( 「( 活動性 を)回復 す る」) とい うこ とであ る。 日常的な場面 を想定す るな らば,眼前 にある 客観 を,意識 が客観 によ って刻印 されて認識す るので は な く, む しろ客観か ら受 け取 る知覚 の与件 を 自力で構成 して しか じかの客観 であると判断 しているとみなすべ き だ とい うのであ る。 したが って 自我 は,被 りを所与 とし て認 めなが らも, あ くまで も理念 と しての無限の能動性 を回復す るために,所与 を受 けている自己す らも自 ら定 立 しよ うとす る。 フィヒテはこの二重化 された定立作用 を 「 努力」 と呼ぶ。 しか もこの 「 努力」 は,経験的 自我 が成立す るか ぎり常 に同時 に兄 いだ され る被 りをその都 度 自己内に取 り込 まなければな らないのだか ら, けっし て終了 しない 「 無限の努力」 となる。

さて,『 講義』 は 『 基礎』 にみ られ る こ う した抽 象 的 な 「 努力」 の説明を次 のよ うに現実面で具体化 している。

「 理性 のないあ らゆる ものを 自己に従属 させ, 自由に 自分 自身 の法則 に従 ってそれを支配 す ることが人間の究 極 目的であ る。人間が人間であ ることをや めな けれ ば, 彼が神 にな るのでなければ こうした究極 目的 はま った く 到達不可能 であ り,永久 に到達不可能 であ り続 けなけれ ばな らない。彼 の究極 目標 が到達不可能であ り, そ こへ 到 る彼 の道が無限でなければな らないとい うことが人間 の概念 に含 まれている。 ‑・しか し,人間 はこの目標 に漸 次接近す ることはで きる し, また接近すべ きであ る。 こ うして この 目標への無限の接近 が人間 としての彼 の真 の 使命で ある」 。 ( Ⅵ .2 9 9 r . )

『 倫理学』 において は,非我 を規定す るものは経験的 自我 白身が 自 らに定立す る 「目的概念 ( Zwe c kbe gr i f f ) 」 であ るとされているが,前期 フィヒテによれば,非我 を

そ こに依存 させ る概念 を定立す る活動性, 自律 こそが人 間が 自由であることの証である。 自律的たれ。‑ これが 理性的存在者 としての人間 に与 え られ る第一 の 「 義務 」 ,

「 道徳法則」である

ところで,絶対的 自律性への要求 を道徳法則 の実質 的 内容 とみなす フィヒテは,『 倫理学』 にお いて さ らに議 論 を進 め,道徳法則 の実現 を 目指す 自我 の現実存在 の分 析 に着手す る。 そ して,人間が社会内存在であ ることが 道徳法則実現 の条件 であるとされ る。 「自我 は 自由 な活 動性 それ 自体 によ って特徴づ け られ る。 したが って, 自 由な活動性 はや は り制限 されなければな らない。 自由な 活動性 が制限 され るとい うことが意味す るのは, その活 動性 の うちのあ る量が 自由な活動性一般 に反定立 され る とい うことで あ り, そのか ぎりで は別 の自由な活動性 に 反定立 され るとい うことである 」 。 ( Ⅵ .218 f. )

『 基礎』 によれば,人間が 自律性 を成就す る場合 には 常 に,客観 の制限を受 け, なおかつ制限を加 え る客観 を 制限す るもの と して意味づ け自己の内 に包摂 してゆ くと い う制限の克服過程 が付随 していた。 この 『 倫理学』 の 一節 もその ことを念頭 に置 いてい るのだが, フィヒテは そ こで言 われている 「 反定立す る一定量の自由な活動性」

の原因を,実践哲学 の領域 で は , 「私 外 の現実 的 な存 在 者」 に しか求 めることがで きない と考 え る。 す なわ ち, 他者か らの 「 促 し ( Auf f or de r ung) 」 を被 ることに よ っ て は じめて, 自我 は自分 のための特定 の領 域 を確定 し,

自覚的で現実的な個体 ( I ndi vi dum) とな るとい うので あ る。

「 私 はこうした理性的存在者 に私 を反定立 させ, この 理性的存在者 を私 に反定立す る。 そ して この ことが意味 す るのは,私が個体 としての私 をあの理性的存在者 との 関係で定立 し,個体 と しての理性 的存在者 を私 との関係 において定立す るとい うことであ る。 だか ら,個体 と し ての自己を定立す ることが 自我性 の条 件 で あ る 」 。 (Ⅵ . 2 2 日

む ろん フィヒテによれば, 自我 の自己実現が他者 か ら の 「 促 し」 ( 制限) を被 って こそ成就 され る と して も, それ はま った くの他者 か らの被 りなので はない。「 〔 他 の 理性的存在者 との関係 の中にある〕私 が今 や何 にな るの か, あるいはな らないのか は,端的 にす っか り私だ けに 依存 している。‑私があ らゆ る可能的な ものの うちで別 の ものを選 ばなか った ことの根拠 は,私 の外 には存在 し ない 」 。 ( Ⅵ.223) 『 倫理学』 と同時期 に公 刊 され た 『知 識 学 の原 理 に従 った 自然 法 の基 礎 (Gr undl a gede s Nat ur r e c ht smac hPr i nz i pi e nde rWi s s e ns c ha ft s l e hr e ) 』

( 1 7 9 6 年) で は, この一節 を補足す るか の よ うに, 自我 には他者 の促 しに応 じない自由 もあるとの ( 促 し)関係 の分析がなされてい る (Ⅵ .34) が, 『基 礎』 の非我 理

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解 の場合 と同様 に,促 しを意味づ ける自由はあ くまで も 自我 の側 にあ るとされ るのである( 4 ) 0

ただ し, こうした 『 倫理学』 におけるフィヒテの思考 の道筋 を追 って くるな らば, か りに自我 の 自律 は他者 と の ( 促 し)関係 においてのみ実現す ると して,他者 か ら の要求 を被 りかつそれ に対応す るとい うかたちで 自我が 自己を実現す るな らば, 諸 自我 の共 同体 は欲求 の戦場 とな らないのか, とい う疑問が生 じて くるだろ う。 これ は, 自我 の自我 性理 解 とい うフ ィ ヒテの社 会理 論 の根 幹 に関わ る問題 であ る。 そ して, それ につ いては 『 倫理 学 』 と同年 に講義 され た , 『新 しい方 法 によ る知 識 学 (Wi s s e ns c ha ft s l e hr enov a me t hodo) 』 ( 1 7 9 8/9 9 年 ) において厳密 に議論 されて いる。

この知識学 において も, 自我 は根本的 に制限 された も の として 自 らを兄 いだす と理解 されてい る。 しか し, 自 我 の無制約的 自由が原理 とされている以上,制限 の原因 を 自我 自身 の中に兄 いだす ことは許 されない。 だが,実 際 に自我 は制限 されているのだか ら, 自我 の中に制限の 動因の 「 欠如 ( Mange l ) 」 があ ると考え られざ るをえ な い。 こうした推理 を経 て フィヒテは, この 「 欠如」 か ら 他 の理性的存在者 の存在が証明で きると言 う

「 〔 行為 の〕 目的 はわれわれに促 しにお いて与 え られ る。 したが って,個別的な理性 がそれ 自身か ら説 明 され ないとい うことは,最 も重要 な結論 であ る。個体 はただ 全体 の中で,全体 によって,全体 の部分 として存在する。

とい うの も, もし個体 の中に欠如 がなければ, ど うや っ て彼 の外 の理性的存在者 とい う知識 は説 明 され うるとい うのだろ うか 」 。( NM.1 7 7 ) 「 理性 か らの個 体性 ( I ndi ‑ vi dual i t at ) の発生 の場面 に立ち止 まろ う。 個体 性 の発 生 は次 の よ うにな って い る。 す なわ ち, 私 は 自分 を, 本来 自分 に と って根 源 的 にな けれ ば な らな い何 か を な

しえないか, して はな らない もの と して兄 いだす。 その ときの規定 された行為 が 自由な活動性 へ の促 Lで あ り, この促 しは, 私 と等 しい別 の理 性 的存 在者 か ら由来 し てお り, また由来 していると判定 され る。 だか ら自己意 識 は, 理性 的存在 者一般 の集 団 ( MaBeve r nt i nf t i ge r We s e nt i be r haupt ) か らの私 の掴 みだ し ( he r aus gr e i f e n ) か ら始 まる 」 。 ( i bi d, )

最初 の引用文か らは, 自我内の 「 欠如」 とは 「全 体」

と呼ばれているものであ ることを知 らされ,二番 目の引 用文か らは, この 「 全体」 が , 「 理 性 的存在 者一 般 の集 団」であることが明 らか にされ る。つ ま り, フィ ヒテが 自我成立 の動機 と考えていた他者 とは,個 々の他者 を想 定 してい るばか りで はな く,理性的存在者集団全体 の こ となのであ る。『倫理学』 はこのよ うな知識学 で提 示 さ れた枠組 みを さ らに敷宿 して,社会化 を個人 の 自己実現 に課 され る実践的 目標 として取 り上 げている

「あの 目的 〔 理 性 の絶 対 的 自律 〕 は‑共 同体 的 目的 ( ge me i ns c haf t l i c he rZwe c k) で あ る。 各 人 が この 目的 を持つべ きである。 そ して,各人が普遍的な道徳的教養 を欲 してい るだけ確実 に,すべての他者 が 自分で この 目 的を定立す ることがで きるとい うことが各人 の 目的なの であ る。 この ことが は じめて人 々を結 びつ ける。各人 は ひたす ら自分 の考 えを他者 に納得 させ ようする。そ して, おそ らく諸精神 の こうした闘争 の中でそれが他者 に納得 され る。各人 はこうした相互作用 に加 わ るべ く準備 して いなければな らない 」 。( Ⅵ.235 )

つ ま りフィヒテが考 え る自我 は,常 に全体 との関係で の自我 なのであ り〔 5 ) , けっして世界か ら超 然 と して それ を規定す る超越論 的主観 とい う性格 だけがそ こに認 め ら れて いたわけで はないのである。以上 のよ うに, フィヒ テの前期哲学 において は,個人 の 自律 を極 めてゆ くこと が理想社会 の成立 に繋が るとされてお り,人間形成 ‑社 会形成 を信奉す る 「 近代教 育 の フ ィクシ ョン性」〔 6 ) が そ

こで如実 に実現 されているといえ るだろ う

自由 存在 愛

ところで フィヒテの哲学 は,体系 内での超越論哲学 の 位 置 づ け を め ぐる シ ェ リン グ ( Sc he l l i ng,Fr i e dr i c h Wi l he l m Jos e ph.1 7 7 5 ‑ 1 8 5 4 ) との論争 と, 無 神論 論争

( At he i s mus s t r e i t ) を転機 に自我 の哲学 か ら絶対者 の現 象論へ と変貌 してゆ く。 ( 筆者 はこの時期 の フ ィ ヒテの 哲学的努力 を,すでに 『秋 田大学教育学部研究紀要』第 5 1 集 ( 7 ) において検討 した。本稿 の課題 に関 してそ の要 点 だ けを述べ るな らば, この時期 に発見 された命題 は, 自 我 の相互性 の根元 には絶対者 の無限意志があ り, しか も 絶対者 はわれわれにとって 「 知識 の非存在」 とい う消極 的な現 れ方 しか しない とい うことであ る。) それ らの論 争 の時代 を経 た フィヒテは,絶対者 を根元 に置 く人間観 をよ り直裁 に次 のように表現 している。

「 神 の外で は,真 にかつ言葉 の本 当の意味で現存 して いるものは知識 だけである。すなわち この知識 とは,直 接端的 に神的な現存在 なのであ り, われわれが知識であ るか ぎりほ, われわれ 白身がわれわれの最 も深 い根元 に おいて神的な現存在である 。 」 。( Ⅴ. 4 4 8 )

この時期 の フィヒテの人間理解 につ いて は ,1 8 0 4 年 の

『知識学』 ( 以下 , 『 知識学 1 脱』 と略記) にお いて, 最 も 厳密 に描かれているが, ここで はこれ まで と同様 に, そ れへ は必要最小限 の論及 に留 め, この時期 の人間 と社会 の形成観が よ り具体 的 に展 開 され て い る通 俗 的著作 で ある , 『 学者 の本質 につ いて, および 自由 の領域 で の そ の現象 につ いて (むb e rdasWe s e nde sGe l e hr t e n,und s e i neET ・ S C he i nun gi m Ge bi e t ede rFr e L he i t ) 』 ( 1 8 0 5 年

38 一

(5)

以下 『本質』 と略記 ) お よ び, 『幸 福 な生 へ の指 針 , あ るい は宗 教 論 ( Di eAnwe i s u n gr u m s e l i ge nLe b e n ,

o d e ra u c hdi eRe l i gi o ns l e h r e ) 』( 1 8 0 6 年 以 下 『指 針 』 と略記) を中心 に考察 を進 めたい と思 う〔 8 ) 0

まず 『 本質』 の分析か ら着手 しよう。 この著作でのフィ ヒテの 目標 は , 「 学者」 の使命 を明 らか にす る こ とだ っ た。 だか らまず , 「 学者」 とはいか な る人 間 で あ る と考 え られて いたのかを見 ることか らは じめよう。「どうや っ て彼 は学者 と しての 自 らを維持 す るのだ ろ うか。一私 は 手短 か に答 え よ う。彼 に内在 す る,彼の人格性を形作 る,

自 らの内へ飲 み込 んでゆ くイデーへの愛 によってである 」 。 ( Ⅵ. 3 5 6 ) っ ま り, ここで 「学 者 」 とい う言 葉 は , 「イ デーを愛 す る者」 とい う意 味で用 い られている。そ して, このイデー とは 「 神 的 イデ ‑ ( g6t t l i c heI de e ) 」 で あ る とされ る 。 「 感性 界 にお ける人 間 の生 命 は, ‑ 自然 現 象 の根元 にあ る何 か よ り高度 な隠 され た もので あ る。現象 の こう した よ り高度 な根拠 は, その最高 の普遍性 におい て,まさに技巧 的 に神 的 イデー と呼 ばれ うる 」 。( Ⅵ. 3 5 1 )

しか もフィヒテは,人 間 の核心 にあ る この イデーが個 人 が思 い描 く単 な る思念 や理想 とは考 えず,神 的 イデー の特徴 と して,人 間 はイデーの現象 で あ る こと, イデー は, 自ずか ら現象 へ と移行 す るとは考 え られな い ことを あげて い る。 したが って, 『本質』 に よれ ば, 人 間 の 自 己実現 とは , 「 学者」 に導 かれて神 的 イ デ ーを各 人 が各 人 において実現 す る ことで あ るとい うことにな る。 そ し て さ らに, フ ィヒテ は社会形成 の原理 につ いて も注 目す べ き発言 をす る 。 「 学者 的教養 を積 ん で イ デ ーを所 持 す る人 の 目標 は,意志 のな い世界 を こう した イデーに従 っ て形成 す るとい う彼本来 の意 図 に関係 しなが ら,立法を, ない しは人 間相互 の ま った く法 的で社会 的な関係 を, ‑ 法 とか美 の神 的 イデーに従 って,所与 の時代 と条件 の下 で可能 なか ぎり完成 す る こ とで あ る 」。 ( Ⅵ. 3 5 4) す る と, フ ィヒテの議論 を裏返 せ ば,人間形 成 の原理 も社会 的共 同性形成 の原理 もともに神 的 イデーで あ るとい うこ

とにな る。

それで は人 間 にその使命 を 自覚 させ, ひいて は共 同体 形成 の原理 ともな る神 的 イ デ ー とは何 か。 『本 質 』 は, それの根拠 と して 「 神 的生」 をあげて はい るが, これ に つ いて は , 「 純粋 にそれ 自体 の内 に隠 され て い る 」 ( Ⅵ.

3 6 1) と , 「自 らを表現 し,現象 し, 自 らを神 的生 と して 提示 す る 」( i bi d. ) とい う相反 す る定義 を提 示 す るに留 ま って い る。 これで はなぜ 自己内 に完結 して い る ものが 自己を表現 す るに及 ぶ のかが不 明 な ままで あろ う。 そ こ で , 「 神 的 イデー」 と 「 神 的生」 の関係 を 明 らか にす る ために も,一度 『 知識学

1

8 0 4 』 に立 ち戻 ってみ よ う( 9 ) 0

この知識学 は過渡期思想 の到達点 , 「知 識 の非 存 在 と しての絶対者」 にその出発点 を とる。 「絶 対 に不 可 解 な

一3 9

もの ( Dasabs ol utUnbe gr e i f l i c he ) が, 自力 で存 立 す るもの と して理解 され うるよ うにな るべ きな らば,概念 は無化 され ( Ve r ni c ht e t ) なければな らない 。 」 。( X. 1 1 7 ) 絶対者 を前 に してのわれわれの反省 の無力が宣言 されて い るとい う点 で は 『 叙述』 の成果 が継 承 され て い るが, フィ ヒテは今度 は,絶対者 の側 か らわれわれ の知識 とそ れ との関係 を規定 しよ うとす る。 絶 対 者 (『知識 学 1 B O 4 』 の用語 で は 「 純粋 な光 ( r e i ne sLi c ht )」) が現 象 す べ き であ るとす れば, われわれ によ って絶対者 の概念 が まず 定立 され, その後 で概念 が否定 され な けれ ば な らな い。

だがその ときわれわれ は,概念化 しえない何 かを 「 不可 解」 と述語 づ けてお り, こう して,絶対者 を客観化 して しま って い るので はないか と 『知識学 1 弧1 』 の フィヒテは 疑義 を唱 え る

フィヒテは, この難 問を,絶対者 を二重化 す る ことで 打 開す る。 た しか に絶対者 は 「ま った く自己か ら, 自己 にお いて, 自己によ って ( vons i c h, i ns i c h, dur c hs i c h ) 」 ( X. 2 0 5 ) 存在 す る。 だが , 「 根源概念 ( Ur be gr i f f ) 」 に よ って 自 らをわれわれ に映す とされ る。 しか し, この解 答 で は,一度概念 の無効 が宣言 され た後 で再 び概念 が持 ち出 されてお り奇異 な感 じが否 めないだろう。けれども, 根源概念 が根源的で あ るゆえん は, それを定立 す るのが われわれで はな く絶対 者 自身 だか らで あ り, したが って それ は,絶対 者 が与 え る理 由 を聞 え な い絶 対 者 自身 の

「映像 ( Bi l °) 」 で あ るとフィヒテ は主 張 す る。 す る と, 人 間 と絶対者 の関係 は改 めて次 の よ うに規定 され る。

「 光 〔 絶対者〕のような写像 されるもの ( Abge bi l de t e s ) は, 映像 がな ければ考 え ることがで きず, そ して また, 映像 は,映像 と して は,写像 され る ものがな ければ考 え ることがで きない 」 。( X.1 41 )

われわれ は , 「端 的 に定 立 され た映 像 〔 「根 源 概 念 」 〕

によ って,写像 され る もの 〔 隠れ た絶対者〕 を概念 的 に 捉 え る 」( X.1 0 4 ) しか ないので あ る。 こ う して, 絶 対 的 に不可解 な 「写像 され るもの」 自体 と写像 され る もの で はないが, その 内実 を映 して い る 「映 像 」 との間 を 揺動 す る ことがわれわれの生 の境地 とされ る。 (フ ィ ヒ テは,映像 を通 して絶 対 者 を か い ま見 る営 み を 「確 信

( G e wi Bhe i t ) 」 と呼んで いる。) す る と次 に問題 とな る のは,根源概 念 を 「 確信」す ること,すなわち神的イデー を生 きる こととはどのよ うな事態 か とい う こ とで あ る。

『指針』 が この問題 を最 も包括 的 に論 じて い る。

「 一切 の 『いか に ( Wi e )』 のか わ りに単 な る 『こ と ( Da B)』 を置 け。 ‑・ す なわ ち, 〔 絶 対 者 とわ れ わ れ の〕

秤 ( Band) は端 的 に存在す る 」 。( V. 5 4 0 )

この一節 には 『指針』 にお けるフ ィヒテの方針 が率 直

に述 べ られて い る。 それ は, われわれ の側 か らの概念 的

把握 の断念 と絶対者 への放下 の姿勢 で あ る。 それ で は,

(6)

秋 田大学教 育学部研究紀要 教育科学部門

5 3

われわれ と絶対者 との秤 は何 によって開示 され るのだろ うか。 テキス トは次 のよ うに告 げてい る 。 「この粋 は感 覚 ( Emp f i n d un g) である。 そ してそれ は, 粋 なのだか ら愛であ り, さ らにそれ は純粋存在 と反省 との粋 であ る ので神 の愛 である。 この愛 において存在 と現存在,神 と 人間 とは一 つ に完全 に混 ざ り合 い融合 して い る 」 。 (V.

5 4 0 ) 大峯 顕氏 はこの 「 感覚」 につ いて, 赤 や緑 の知 覚 のよ うな もので はな く , 「 絶対者 によ って内 か ら貫 か れているとい うところの 自己発 見 の感 情 で あ る」〔 1 0 ) と解 釈 して いるが, これ はおおいに首肯 で きるだろ う。す る とまず , 「 根源概念」 , 「 神 的イデー」 は, 現実 のわれ わ れの生 の場面 で は 「 愛」 において開示 され るとい うこと が明 らか にな る。 フィヒテは 「 愛」 の特徴 を さ らに次 の よ うに述べている。

「 愛 は,永遠 にわれわれの中で, そ してわれわれの周 囲で肉 とな り, われわれの下 に住 ま って い る。 そ して, 愛 の素晴 らしさを神性 の永遠 な必然 的流 出の素晴 らしさ

として常 に眼前 にす ることは,ひとえにわれわれにかか っ ているので ある 」 。( V. 5 4 3 )

こうした言葉 を , 知識学 1 淋』 の人 間理解 と重 ね合 わ せ るな らば , 「 交互的な愛」 において神 は 自 らを 「根 源 概念」 と して人間 に与 え るが,今度 は人間の側か らそれ を受 け取 る必要 がある。 その とき 「 愛 を解釈 して形象化 す る 」( Ⅴ. 5 4 1 ) だけの概念的把握 ( 反 省) は無 力 で あ る。 フィヒテは, ヨ‑ ネ伝 にあ る 「 愛 の内 にあるものは 神 の内にあ り, そ して また神 はこの者 の中にあ る」 (Ⅴ.

5 4 3 ) の境地 をひたす ら生 きるはかな い と言 う。 ひ とつ ひとつの行為 の中で愛 が実現 されていなければ,神 の映 像 としての 自己を生 きているとはいえないとい うのであ

こうした フィヒテの考 え方 を踏 まえ るな らば, 自己実 現 のあ り方 につ いて端 的に語 られてい る命題 , 「意 識 の 自律性 と自由の根拠 は, もちろん神 の中 にあ る。 けれ ど もその根拠 が神 の中 にあれば こそ 自律性 と自由が真 に現 存す る 」( V. 4 5 5 ) の意味 も明 らか にな るだ ろ う。 目的 概念 を企投 して世界 と自己 とを形成す る自由を支え るの は自我 自身 であ るとい う前期哲学 の基本的立場 が, ここ で は, 自我 の 自由は神 に根拠 を得 て は じめて 自由である とい うふ う変更 されたのであ る。 それで はこの変更 にと もな って,前期哲学で は自我 の 自律性 の実現 と直結 され ていた社会化 の論理 はどのよ うに変貌 す るのだ ろ うか。

この時期 には社会理論 を扱 った著作が著 されていないの で,社会化 のメカニズムが体系的 に解 明 されているとは 言 い難 い ものの, この問題 を フィヒテが どのよ うに考 え ていたのかを窺 わせ るヒン トは残 されている。

「この意志 〔 道徳的 ・宗教的意志〕 の対象 は永久 にひ たす ら理性 的な諸個人 の精神界 だ けであ る。・ ・ ・ この精神

‑4 0

界 に向か うその積極的な意志 は次 の よ うな もので あ る。

す なわち,各個人 の行為 において神的本質が この個人 の 中で とった形態が純粋 に現象す ること,各個人があ らゆ る他者 の行為 において神 を‑認識 し, それ と同 じよ うに 他 のすべての個人がその個体 の行為 において神 を‑認識 す ること, だか ら,常 にかつ永遠 に,一切 の現象 におい て神が全体的に現れて,神 だけが生 きて支配 し,神 の他 に何 もな く,神 だけが遍在 してあ らゆ る方向で永遠 に有 限者 の眼 に現象す るとい う意志 であ る 」 。 ( Ⅴ. 5 3 6 )

生 の根元が絶対者 と不可分 に融合 しているさまを実現 す ることこそが後期哲学 が 目指す 自己実現であるとすれ ば, 同様 の 自己実現が他者 に も要請 され, か くて,個人 において も社会 において も,絶対者が顕現す る世界が求 め られ る。一 自他 の相互性 につ いて は言及 されていない ちのの, そ こか らは, それぞれが各個 に絶対者 の映像性 を極 め る中で,相互 に神 の顕現 を促 しあ う社会 のあ り方 が想定で きるだろ う。絶対者 一人間関係への相互主観性 の基礎づ けへ と重心移動 しなが らも,後期哲学 において も個 の自己実現即理想社会 の実現 の命題が保持 され続 け ていることを知 ることがで きよ う

おわ りに

ここまで 「 絶対的な自律性 の確立」 とい う近代 の人間 形成 のスローガ ンがいか に実現 され るのかを, フィヒテ の諸著作 に迫 って きて明 らか にな ったの は, 自己実現 を 支 え るのは人間 自身であ るとい う発想 か ら,究極的 にそ れ は絶対者 であ るとい う発想への フィ ヒテの哲学 の変転 であ る。先行研究 を見 るか ぎり, こう した変転 につ いて は社会理論 と して は, フィヒテの自由の哲学 は背理に陥 っ た とす る解釈者 もいる反面, それを超越論哲学 の完成 と み る評者 もいる〔

11)

。 だが, 筆 者 は フ ィ ヒテが提起 した 構想 の内在的当否 に留 ま らず,人間の 自己実現 の基本構 造 を今 日考察す る際 に, フィヒテが何 を示唆 して くれ る のかを考えてみたい と思 う。

前期 の通俗的著作 の根底 には , 『 基 礎』 で描 か れ た 自 我 の 「 無限の努力」 の発想があ った。 それ は,経験 的な 自我 は常 に非我 を被 っているが,被 りを与 え る非我へす らも絶 えず 自分で意味を付与 してい こうとす ることに有 限 な自我 の存立根拠 があるとされていた。 『倫 理学 』 は これを, 自我が 自 ら 「目的概念」 を定立す ることによ っ て,意志 の因果性 に客観 を従属 させ ることと具体化 して いる。 だか ら,前期哲学 において自己実現 とは,まず もっ て,制限を被 りなが らもなおかつ この制限を動力 として,

自己を外 に向か って実現 してゆ く努力 とい うことになろ

う。 しか も,前期 フィヒテによれば, われわれの現実存

在 は,非我 と しての他者 との相互関係 の中に兄 いだ され

(7)

る。 「 私 の個体性 の最初 の状況,言 わ ば私 の個体 性 の根 元 は,私 の自由によ って規定 され るので はな く,別 の理 性的存在者 と私 の関係 によって規定 される 」 。( Ⅵ.222 f. ) われわれ は常 に他者か らの促 し ( 制限)への応答 を迫 ら れてい る。す ると,社会 は自他 の欲求 の闘争 の場 とな り そ うであ るが, フィヒテによれば, 自他 はともに全体 と しての理性的存在者 の分肢 にす ぎないのであるか ら,真 の 自律 に目覚 め る者 はそのまま共同体形成 を目指 してゆ く 。 「 共 同体的完成 ke me i ns c haf t l i c heVol l kommung) , すなわ ち, われわれに対す る他者 の働 きか けを 自由に利 用す ることによ って 自 らを完成す るとともに,他者へ働 きか け返す ことによ って他者 を完成 させ ることが,社会 におけるわれわれの使命である 」 。 ( Ⅵ.3 1 0 )

ところが ,1 8 0 0 年 を境 にフ ィヒテの哲学 は , 「倫理 的 人間学 」〔 1 2 ) か ら絶 対者 の現 象論 ‑変貌 す る。 『使 命』 と

『 叙述』 において準備 された, 自我 の根元 に絶 対者 を見 るとい う構想 は,『 知識学 1 8 0 4 』 にお いて は じめて定 着 さ れた。 そ してそ こでの原理 の現実的応用 を描 く通俗 的著 作 において, まず 『 本質』 で は,絶対者 がわれわれに与 え る概念が 「 神的 イデー」 と呼ばれ,同時 にそれ は人間 の行為 を介 して は じめて実現 され るとの知見が示 された。

次 いで 『 指針』 において は,神 と人間 との粋が 「 神的愛」

と して開示 され,人間 はそれを受 け入 れてひたす ら自己 の行為 の中で実現 しよ うと努力す ることが 自己実現 であ ると考 え られた。「 人間 は神的愛 を直接 自分 自身 の中 に 兄 いだ さなければな らない。彼 はあ らゆ る自分 の意志 や 目的を放棄 し,す っか り自分 を無化す るや,労せず に必 ずそれを兄 いだすだろ う 」 。 (Ⅴ. 532) そ して また, 十 分 に展 開 されてい るとは言 い難 い ものの,個人 の行為 に おける神 の顕現 が,他者 の行為 における神 の顕現へ, そ して社会 における神 の顕現へ と拡大 してゆ くと考 え られ ていたのであ る。

このよ うに, フィヒテの哲学 は自我の自律を原理 とし, 自己実現 の不可欠 の成立要件 と して共同体形成 を位置づ けていた点 で は一貫 していたが, その前期哲学 において は, (自我一非我)関係 を基礎 にお く発生 的損得 を手法 とし, その さいに, 目的概念 を客観 に企投す る自我 の能 動 的 自由が究極原理 とされていた。 しか も,自我を促 し, 制限す るⅩ として他者 を理解 す ることによって,(自我一

れていた。 これ に対 して,後期哲学 において は自我 はそ の起源 か らすで に絶対者 に制限 されてお り, 己の行為 の 中でひたす ら絶対者が現象す るよ うに我意 を無化す るこ とが求 め られた。 また共同体 の構成員 も自己の同様 の無 化 を求 め られ ることによ って,絶対者 の現象 と しての共 同体 のあ り方が構想 された ことか らも明 らか な よ うに,

( 映像一写像 され るもの)関係 に立脚す る (自我一絶対

者)関係 に基づ いて,(自我一他者 ) 関係 も常 にす で に 絶対者 による制限を受 けていると理解 されていた。 ここ に, 自己実現論,共 同体形成論 と したみた場合 の フィヒ テの哲学 の前期か ら後期 にいた る最大 の変更点があ る。

ところで, こうした フィヒテの構想 について は,初発 の 自由の哲学 の構想 を自 ら裏切 って絶対者 の形而上学 に 変質 した とす る先 にあげた異論 の他 に も,二 つの異論 が 提起 され るよ うに思 われ る。 ひ とつ は, フィヒテの最終 的な社会哲学上 の立場である , 「 愛 に基 づ く共 同体」 の モチー フが,後 の世 代 の観念 論 者 , と りわ けヘ ーゲ ル ( He ge l ,Ge or gWi l he l m Fr i e dr i c h.1 7 7 0 ‑ 1 8 31) の 批削 に耐 え うるのか とい うものである。すなわち, ヘーゲル はイエーナ期以前 の段階で, キ リス ト教的愛 に基づ く共 同体 の成立 の可能性 を真剣 に検討 し,最終的 に 『 精神現 象学 ( Pd ' no me T I O l o gL ed e sGe i s t e s ) 』 ( 1 8 0 7 年 ) にいた る時点でそれを廃棄 しているので ある。 そ して, その廃 棄 の理 由 は,欲求 の体系 と しての市民社会 において,蘇 外状況 を克服す るための原理 と して は狭 い閉鎖的な同胞 愛 で は不十分 であると自覚 され た ためだ った( 1 3 )。 と こ ろが,社会理論 の宗教哲学への解消 とい う後期 フィヒテ の解決案 は,初期 へ‑ゲルの この ( 克服 された)試 みに 酷似 しているのである。 もうひ とつの異論 は,本稿 の冒 頭で も述 べた,個人 の自律 と理想 の共 同体形成 をイコー ルで結ぶ フィヒテの発想 はあま りに も楽天的で はないか とい うポス ト・モダ ン陣営 か らの当然予想 され る異論 で あ る

前者 の異論 について は, ドイツ観念論 にお ける社会理 論 の継承関係 とも関わ り, にわか には断 じ難 い問題で あ る( 1 4 ) 。 この ことについて は,『 精 神 現象 学』 そ の他 にみ られ るへ‑ゲルの フィヒテ批判 の妥 当性 も踏 まえて,節 たな稿 を起 こす必要 があ るだ ろう。 そ こで,今回 は, 問 いを限定 して,後薯 を,一 や は り中途半端 になろ うが‑

考察 してみたい と思 う

まず手続 きと して,再 び 『 監視 と処罰』 に戻 って,既 存 の教育 システムが権力 の再生産 システムにな っている とい うフーコーの分析 の下 で, それで はいかな るシステ ムが望 ま しい とそ こで は考 え られているのかを探 ってみ たい。 (とい うの も,解放 のテロスの定 か で はな い解 放 はま った く実効力を もたないか らであ る。) す る と, こ の著作 の結章末尾 に, フー コーの姿勢 を示す次 のよ うな 注 目すべ き一節が見 られ る。

「したが って,抑圧 とか排斥 とか排除 とか,社会疎外 の制度 とい う概念 は,監禁都市 の中心で,老捨 な心地 よ さ, ほとん ど口外 されえない悪意, わずかばか りの策略, 計算 された措置,諸技術,『 諸科学』 が いか に形成 され たのかを,つ ま りそれ らは要す るに,規律的個人 の製造 をゆ るす ものであるが, を記述す るに は十分 で はな い。

41‑

(8)

秋出大学教育学部研究紀要 教育科学部門 第5 3

中心 にある, そ して中心 に集 め られた 〔 人 々の〕 ヒュー マニティーにおいてあ るのは,複合的な権力関係 の結果 と道具 なのであ り, さまざまな 『 投獄』装置 によって服 従 させ られ た身体 と諸力であ り, ‑ こうした ものの中に 戦 いの轟 きを聞かなければな らない 」 〔 1 5 ) 。

この一節 を見れば明 らかなよ うに, この書物 において は , 「 権力」 による主体 の規律化 ‑社会 化 の歴史 的起 源 を分析す るに留 まると宣言 されているのであ り,主体が 解放 され るユ ー トピアの描 出 は禁 欲 されて い るので あ る( 1 6 ) 。言 いかえ るな らば, ユー トピアは読 み手 ひと りひ とりに委 ね られていることにな る。す ると, この ことを 教育学 の文脈 に戻 してみ るな らば , 「個人 の 自律 ‑理想 社会形成」 の命題 の虚妄性 が暴露 された と して も, なお かつ教育 は日々営 まれなければな らない以上, ユー トピ アの不在 を託 ちなが ら , 「 権力」 に仕 え ざ るをえ ない己 の原罪 を自覚 して,教育活動 はおずおず と進んでゆ くし かないだろ う( 1 ㌔ こう した論点か ら見れば, フィヒテの 人間形成論 は , 「 絶対者 の映像化」 とい うグ ラ ン ド ・セ オ リーを持 ち出す ことによ って,社会が学 む 「 権力」構 造 を隠蔽 していると断罪 され るだろ う。だが筆者 は,す でにフィヒテが, ポス ト・モ ダ ン陣営が告発す る全体的 イデオ ロギーのいかがわ しさを自覚 し, またその陣営 が 強調す る個人 の実践 に救済 を模索 す る態度を,議論 の う えでかな り先取 りしていた と考 えたい。

「われわれ は神 はいったい何か とい う問 いに何 と答 え るのだろ うか。唯一可能 な答 えは,神が絶対的 にそれ 自 身 によ って, それ 自身 を通 して, それ 自身 において存在 す る, であ るが, これ は神 において提示 され るわれわれ の悟性 の根本形式 にす ぎない。 ‑ しか もそれにつ いて も 消極的に語 っているだけなのであ る。すなわち, いか に われわれが神を考 え るべ きで はないのか を 」 。 (V. 47 0)

フィヒテにとって絶対者 とはわれわれの生 の原理 だ っ た反 面 , 『知 識 学 1 弧』 で定 式化 され た よ うに, そ れ は

「 知識 の非存在」 , 「 概念 の無化」 だ った。 す る と, この 一節が意味 しているのは, われわれが実際 に自己実現 の 原理 を求 め る場合 に も,安易 にわれわれの思考が発見す るもの ( 「 悟性 の根本形式 」) を絶対者 とみなすべ きで は ないとい うことになる。 フィヒテは,絶対者 との合一 と い う人間形成 のテロスが盲目に陥 らないようにと 「 反省」

の意義 を改 めて強調す る。 フィヒテによれば,反省 はた しか に生 の原理 を解釈 し,空疎 な言葉で表現で きるにす ぎない。 だがそれ は, ち ょうど陰画か ら実像 を浮かび 上

が らせ るよ うに,絶対者 の内実 をかいま見 させ る唯一 の 器官 と して,生 の確実 な原理 を究 め るために無限 に押 し 進 め られな ければな らないのであ る。

「 反省 を けっ して停止 させず, それが到達 した各 々の 反省 された ものか ら次 の ものへ, そ してそ こか らさ らに

次 の ものへ と反省 を絶 えず駆 り立 て るものは何か。 それ は必然的 に反省か ら逃れた, あ らゆ る反省 の背後 に隠れ た‑純粋実在的な絶対者への消す ことので きない愛 であ る。 この愛 が反省を永遠 に駆 り立 てて, それが停止す る のを永久 にゆるさないのである 」 。( V. 5 4 1)

た しか に , 「 学者」が指導す る共 同体 とい った プ ラ ト ンを思 わせ る構想 や ヨ‑ ネ伝への依拠 に隠れて, フィヒ テの 自己実現観 はわれわれ に直接 には響 いて こないか も しれない。 またそれを解釈す る場合 には,国民国家形成 の時代 と現在 の社会状況 の違 い も念頭 に置かれなければ な らないだろ う。 しか しわれわれの現状を考えるな らば, フィヒテがその哲学 において一貫 して求 めていた もので あ る,理性 的存在者 の相互承認 による共同体 にかわ る理 想 をわれわれ は持 ち合 わせているだろ うか。 それに代わ りうる積極的なモデルが提示 されて いない以 L, われわ れ はそれを鍛 え直 してゆ くことが不可欠 になろ う。 この よ うに考え るな らば,すで に前期哲学 において,絶対 的 自律 の確立 ‑理想社会 の実現が結局 は到達不可能 な個 々 人 の実践 の努力 目標 とみなされていた ことや,体系構想 が変貌 した後期哲学 において も,絶対者 との完全 な合一 が断念 されつつ も, なおかつ行為 の中で絶対者 ( 生 の原 理) を求 め る理性 的な反省 の眼が要求 されていた ことを 認 め るな らば,安易 な全体化 を拒 み, しか も,理想社会 の実現 のための個 々人 の真筆 な実践 を要求す るフィヒテ の哲学 は, ポス ト・モダ ンか らの異論 に応酬 し, しか も, その今 日的当否 は別 と して も,個 々の実践 を励 ま し導 く

「 神的愛 の実現」 とい うはるかなか そ け さユ ー トピアー それ は内在的でないがゆえに こそ解放 の夢であ り続 ける だろ う‑ を提示 しえてい る点 で, ( 詳 しく言 え ば, ① 安 易 に全体 に視点 を置かず全体化 への反 省 の余地 を残 し,

② それゆえ,個 の実践 の可能性 を尊重 し,③解放 の夢 を 語 り, その実践 に内実 を与 えている, とい う点 で), 今 日われわれがわれわれの 自己実現論,社会化論 を構想す る場合 に, そ こか らわれわれの議論 を構想 しうるひとつ のポジテ ィブな範例 を提起 していると考え うるのである。

本文中のフィヒテ全集からの引用は小フィヒテ版の全集に拠 り巻数と貢数を示 した。また , 『 新 しい方法による知識学』 は, Wi s s e ns c ha ft sl e hr e nov a me t hodo, hr s g.u.e l nge l .V.

Er i c hFuc hs,Me i ne r,1 9 8 2,Hambur g.に拠 り貢数を示 し た。( 本文中ではNM.と表記のうえ頁数を示 してある。 )また, 引用文中の太字は原著者による強調であり,鈎括弧内,下線 は 筆者による補足である。

(1)

MI C he lFouc au l t ,Sur L ) e i l l e re tp L L n L r,p.1 7 2,Gal l i ‑ mar d,1 97 6,Par i s.

4 2‑

(9)

( 2 ) a.a.0.p.1 8 6f .

( 3)

拙稿 「社会理論 と しての知 的 直観論‑ 『自我性

( I c hhe i t )

は共 同性 である』 とい うフィヒテの命題 につ いて」 (奥羽大 学文学部紀要第

7

号所収

1 9 9 5

年)参照。

( 4 )

『自然法 の基礎』 にみ られ る 「促 し」関係 の説明によれば, まず他者か ら促 されて行動す る場合 には, 「主 観 が行為 す る だけ確実 に, それ は絶対 的な自己規定 によって 〔行動 の〕 唯 一 の仕方 を選択 したので あ り, そのか ぎりでそれ は自由で あ

。 (

.

3 4)

他方他者 に促 されて も行動 しない場合 も

,

観 は自由である。‑主観 はこの要求 に対立す る振 る舞 いを し て,行動 を差 し控え ることによって, や は り自由 に行動 と, 非行動 との間で選択 して いる

( 1 bl d.

) 人 間 は現存 して い るか ぎりは 「促 し」関係 か ら脱却す ることがで きないとい う のである。

(5) この点で, フィヒテはヘーゲル と一致す る。 ただ し, ヘ ー ゲルはフィヒテの個体化即社会化 の理解 を不十分である と難 じている。 その批判 は 『自然法 の基礎』 の国家論 に向け られ ている。 すなわちそ こで は,個人 の自由を制限 して全体 へ と 統合 してゆ く 「窮乏国家」 の必要性が説かれているので あ る が, ヘーゲルはこれを

,

『フィヒテ とシェ リングの哲学 体 系 の差異

( Di f f e T l e nZde sFi c ht e s c he nundSc he l l i ngs c he n Sys t e msde rPh乙 l os o phi e )

( 1 8 0 1

年) において

,

「悟 性 は 果て しない規定作業 に陥 らなければな らない。悟性 の原理 と 概念 による支配の欠陥が これ ほど直接的に示 されている とこ ろはない」 (ズールカ ンプ版 ヘ ーゲル全 集

Bd.Ⅱ.S.8 4)

論難 している。 なお

,

『自然法 の基礎』 の国家論 につ いて は, 南原 繁著 『フィヒテの政治哲学

』,1 7 2 ‑ 2 6 2

頁, 岩波書 店, 昭和

3 4

年参照。 また, ‑‑ゲルによるフィヒテ批判 の概 要 に ついては

,Vgl .Pe t e rBaumans ,Fi c ht e sur s pr ungl i c he s Sys t e m,S.1 41 1 1 4 3,f rommann‑ hol z boog,1 97 2,St ut t ‑ gar t

.参照。

(6)鈴木晶子,「フィクシ ョンと しての近代教育」 (現代思想』

1 9 9 6

6

月号所収)

1 5 9 ‑ 1 6 0

頁参照。

(7) 拙 稿

,

「自由の根 源 的地平 ‑ フ ィ ヒテ 『知 識 学 の叙 述

』 ( 1 8 01 /0 2

年) にみ られ る知識 の成立根拠」 (秋 田大学教育学 部研究紀要教育科学第

51

集所収 平成

9

年)

( 8 )

‑ル トムー ト・トラウプによれは この時期 の通俗的著作 は相 互 に緊密 に連関 しており

,

知識学1804』を基礎理論 として

,

『本 質』がその倫理学

,

指針』が宗教論をな している

。Har t mut Tr aub ,JohaT m Got t l i e bFi c ht e sPo pul a T ・ Phi l os o phi e 1 8 0 4 ‑ 1 8 0 6,f rommann‑ hol z boog,1 9 9 2,St ut t gar t .

(9)拙稿 「知,存在,人間形成‑ 自己形成か らみたフィヒテとシェ

リング」 (奥羽大学文学部紀要第

3

号所収 平成

3

年)参 照。

また

,

知識学1

8 0 4

』 の前半部分 (真理論)については,渡辺二 郎 「フィヒテにおける光 と生命

‑ 『 1 8 0 4

年 の知識学』研究覚 え 書 き」(日本 フィヒテ協会編 『フィヒテ研究』創刊号所収

5

年)が, その後半部分 (現象論) につ いて は

,Ludwl g

Sl e p ,He gel sFi c ht e hri t i hand di eWi s s e ns c ha ft sl e hr e u on1 8 0 4,S, 6 9 ‑ 8 6,Al be r,1 97 0,Fr e i bur g/Mt i nc he n

が要 旨を簡潔 にまとめている。

テ研究』第

3

号所収 平成

7

年)

1 6

貢。

(ll) こうした社会理論 の宗教哲学的解消を肯定す る先行研究 の 例 と して は,福吉勝男

,

『自由 の要求 と実践 哲学

』, 1 8 5 ‑ 1 8 8

貢,世界書院,昭和

6 3

年。 それを フィヒテの哲学 の自己撞 着

と して批判す るもの として は, ヴェルナル ト・ヴィルムス著, 青山政雄他訳

,

全体的 自由‑ フィヒテの政治哲学

』 ,1 9 3

貢, 木鐸社,昭和

51

年,および

,Pe t e rBaumans ,J.G. Fi c ht e

,

Al be r,1 9 9 0,Fr e i bur g/Munc he n.

( 1 2 ) Pe t e rBaumans ,Fi c ht e sur s pr 乙 i ' ngl i c he sSys t e m,S.

5.

(13)この理解 は

,

精神現象学』刊行以 前 の初 期 ヘ ーゲ ル解 釈 において常識 にな っている。管見 に入 った ものの うちで, 相 互承認論 を巡 っての この時期 のヘーゲルの思想遍歴 を詳細 に 追跡 しているもの と しては,高 田 純著 『承認 と自由一 ヘ ー ゲル実践哲学 の再構成』,未来社,平成

6

,Ludwi gSi e p

,

Ane r he nnungal sPr L nZi pde rpT ・ aht i s c he nPhi l oso phi e , Al be r,1 97 9,Fr e i bur g/Mt i nc he n

参照。

( 1 4 )

入江幸男氏 は, フィヒテによるカ ン トのア ンチノ ミー論 理 解か ら,前期 フィヒテの相互承認論 の構 造 を読解 す る中で,

ヘーゲルの継承関係が認 め られ ると述べ て い る。 「フ ィ ヒテ における弁証法 と決断」 (里見軍之編 『ドイ ツ観念 論 とデ ィ ア レクテ ィク』,法律文化社,平成

2

所収

)1

11頁以下 参 照。

(15

) MI C he lFouc au l t ,a.a.0.p. 31 5

(16)中山 元氏 によれば,解放 のユー トピアを描 くことは フー コーの死 によ って達成 されていないが,少 な くとも, この問 題 について何 を フーコーが考えていたのかは

,

「バ レー シア」

(真理を語 るの意) とい う用語 に暗示 されて い る。 中 山氏 は その意味を次 のよ うにまとめている。「フー コー は, 哲学 の つ とめは真理 を自明な もので も普遍 な もので もな く歴 史的 に 作 られた ものであることを暴露す ることによ って, その真 理 の絶対性 を崩壊 させ ることにあると考えていた。絶対 的 な真 理が存在す るので はな く,個 々の真理 は, 自由な主体 の行 為 として しかあ り得 ない と考え ると,すべての主体 は自分 な り の真理 の確立 に参加す ることがで きる。 そ こでは真理 は一 つ のゲームとして機能 しているのである

。 (同著

,

『フー コー 入門

』 ,2 31 ‑ 2 3 2

頁,筑摩書房,平成

8

年)

( 1 7 )

ポス ト・モ ダンか らの批判 を経て教育哲学 が逢着す るこの 事態 を,鈴木 晶子氏 は, 日本教育学会第

5 1

回大会 での全 体 シ ンポジウム 「教育 はどこへ 教育学 のパ ラダイムの再 検 討」

における報告 において

,

人間 として の可能 性 と限界 を知 っ た上で, それで もなお人間 はその生 を享受 してい く勇気 を も

‑ 4 3‑

(10)

秋田大学教育学部研究紀要 教育科学部門 第

5 3

つ存在 なのだ, とい うことを次世代 に伝 えてゆ くこと, それ 本稿 は,東北教育哲学教育史学会第

3 0

回大会 (平成

9

9 月

が教育 (学) の今後 の使命ではないか と私 は考 えます

(『教

6

於 :東北大学) において口頭発表 した ものに,加筆訂 正 青学研究』第

6 4

巻第

1

,7

頁, 平成

9

年) と述 べ て い る。 および注 を付 した ものである。

まさに適切 な総括であろう。

4 4‑

参照

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