Jinakālamālī について
―特に 1 つの難句をめぐって―
古 山 健 一
1.はじめに
本稿は、ラーン・ナー地域の仏教史を叙述するところに眼目が置かれたパー
リ語の仏教史書 Jinakālamālī
(1)(※以下 Jkm と略記)について論ずるものである。
詳細は後述するが、本書は、A.D.16c 初頭に、現在のタイ北部に位置するチ
エンマイ(เชียงใหม่)の Wat Pā Däng
(วัดป่าแดง
、Jkm.:Rattavanavihāra)において、“Ratanapañña”
と呼ばれていた比丘によって著された典籍である。
ここではまず、著者や述作の時期・場所といった文献に関する基本情報を、
Osker von Hinüber の A Handbook of Pāli Literature における説明にコメントを付
するかたちで示す。
更にまた、ラーン・ナー史の碩学 Hans Penth が 1994 年に上梓した Jinakālamālī
Index(= Jkm-Ind.)
の ‘Preface’ において指摘されている、Jkm の史料としての問
題点について概略化して紹介する。
次いで、これが本稿の主たる関心事になるのであるが、Jkm の文中に存する
難句の 1 つについて、その意味解釈を議論する。
その「難句」とは、Jkm においてラーン・ナー地域の仏教史の叙述が本格的
に始まる章、PTS 本
(= Jkm.)の章題で言うと第 19 章 Haripuñjayappavatti に見ら
れる、“...mātupaharanaṭṭakaṃ chinditvā...” なる句
(2)のことである。
筆者
(古山)がこれを「難句」と名付ける所以は、前部にある対格の名詞の
意味が確定し難いところにある。この名詞は、複合語であることと相俟って、
後分のパーリ語 “aṭṭa” はサンスクリット語の “aṭṭa”、“artha”、“ārta” の 3 つに対
応することから、語義が甚だ捉え難いのである。この複合語は、語義を示唆し
得る如き文脈が Jkm そのものに見出すことができず、また、筆者が調べた限
り、他のパーリ語文献には用例がない言葉のようである。Jkm には幾つかの翻
訳があるが、これらを見るに意味解釈は実に紛々としていて、混沌の感すら否
めない。先訳からこの「難句」の理解において手掛かりを得ようと当て込むこ
とは難しい状況にある。ここでは、この「難句」を読み解くための手掛かりに
ついて考察し、従来からの混沌を少しでも打開したいと思う。
本稿を以てラーン・ナー仏教研究の発展に些少なりとも資するところがある
ならば幸甚である。ラーン・ナー仏教の研究に手を染めてから 10 年を過ぎよ
うとし、不惑も半ばに至ったが、相も変わらず己が浅学菲才を嘆き、昏惑の
日々を過ごしている。斯様な筆者の論稿であるから不備不足や緩慢な点が多々
あろうかと思うが、諸賢の批判と𠮟正を心より乞いたい。
2.Jkm の著者並びに述作の年代・場所
Osker von Hinüber は、
〈Jkm は、チエンマイ近郊の当時突出していた Wat Pā Däng 即ちレッ ドウッドの森僧院に住していた、Ratanapañña(A.D.1473 年 -1527 年以後)によって、A.D.1516/17 年 につくられ、A.D.1527 年に増補された〉[Hinüber1996., p.197]と述べている。
まず著者であるが、これを Ratanapañña とすることに大過はないと言える。
し か し な が ら、 こ の 名 は 実 際 の 僧 名
(monastic name)で は な く、「 あ だ 名 」
(sobriquet)である可能性が、Hinüber も参照していた Hans Penth の論稿
[Penth1995.]において示唆されている。
Jkm の原著者と思しき人物の名は、最終章である Nigamanagāthā 章の偈文部
分にのみ現れる
(3)。Penth は、ここでの表現の仕方に着目して、ここに言われ
るところの “Ratanapañña” というのは「あだ名」
(a sobriquet, an honourable nickname)であったかもしれないのではないか、と問題提起した。そして、Jkm 第 28 章
中の記述
(4)及びパヤオの Wat Wisuttha-Ārām 碑文
(5)を参照しつつ、実際の僧
名を解明するべく考察を加えた。当該の論稿では実名の解明は果たせなかった
のであるが、あだ名である可能性が未だ排除されないことを訴えかけている
(6)。
Jkm の原著者と思しき人物の名は、上引の Nigamanagāthā 章の偈文部分から
しか知ることができず、そこには “Ratanapañña” としか書かれていない。故に、
それが実名であるにせよ、あだ名であるにせよ、当面この名前で呼ぶほかない。
しかし、それはあだ名であるかもしれないのであるから、恰も実名であるかの
如くに扱うのは、目下は余り適切ではない。
次に、この “Ratanapañña” の生没年であるが、Hinüber は、生年を A.D.1473 年、
没年を同 1527 年以後、と書いている。この生没年の記載には註記がなされて
おり、それを見ると、先程の Penth の論稿に依拠したものであることが分かる。
Penth は、先程の Nigamanagāthā 章の偈文
(v.4 = PTS 本 v.161)、即ち、Jkm の述作
時点で雨安居歴 23 年
(=授具足後 23 年)であったとする記述と、第 29 章の中に
見られる述作年についての原著者の言及
(※後述)とに基づいて、“Ratanapañña”
の生年を割り出している。
しかし、ここには問題がある。それは、“Ratanapañña” の授具足
(upasampadā)の年齢を、確かな根拠もなく 20 歳とした上で、誕生年が算出されていること
である。Penth の論稿は BEFEO vol.25
(1925 年)所収の George Cœdès による Jkm
の紹介論文を参照しているのであるが、実はそこに同じ生年の算出が見られ
(p.6)、Penth は Cœdès の所論にそのまま拠ったものと推察される。確かに律蔵
の規定によれば 20 歳になれば授具足の基礎資格が生じる
(7)が、すべての人が
20 歳 ち ょ う ど で 授 具 足 戒 式 を 受 け る わ け で は な い で あ ろ う。 故 に、
“Ratanapañña” が 20 歳で比丘になったとする確かな史料的裏付けがない限りは、
Jkm の述作年から単純に 43 年を引き算しても、そこから実際の生年が導き出
されるわけではない。まったく想定の域を出ない話である。よって彼の生年に
ついては、目下のところは、A.D.1473 年かそれ以前、と説明するのが至当で
ある。
没年についても問題点が含まれている。後に詳述する如く、Jkm は A.D.1516
年に述作が開始され、翌 1517 年に終了した。しかしながら、本書には A.D.
1517 年以降の記述がある。第 30 章の後半、第 31 章、第 32 章、第 33 章は
A.D.1517 年以降の出来事が語られている。最後の記述は C.S.889 年の Jeṭṭha
(= Ket[เกศ
])王 の 事 績
(A.D.1527)で あ る。 こ の A.D.1517 年 以 降 の 増 広 部 分 が
“Ratanapañña” による増補なのか、あるいは別人による付加なのか、目下のと
ころは判然としていない。仮にもし、C.S.889 年までの増広部分が紛れもなく
“Ratanapañña” によるものであるならば
(8)、少なくともその年まで生きていた
ことになるから、その没年は A.D.1527 年以後ということで問題ないであろう。
しかしながら、当該の増広部分を書いた人物が “Ratanapañña” であると断定し
うる確定的な証拠は今のところ見出されてはおらず、別人が書いた可能性は排
除されていない
(9)。となれば、A.D.1527 年以前に “Ratanapañña” は亡くなって
いたかもしれないのであり
(10)、Jkm に語られている最終年の出来事を基準と
しては “Ratanapañña” の没年を推定することは出来ない、ということになる。
なお、これは本文ではなく、終結部の Nigamanagāthā 章のことであるが、同
章の偈文部分には “…so...Jinakālaṃ gaṇetvā ganthaṃ akāsi yaṃ subhaṃ”
(v.4、PTS 本 v.161)というように、Jkm の原著者のことを 3 人称扱いで表現する箇所が確
認される。この偈文部分は、ほぼ間違いなく、“Ratanapañña” が書いたもので
はないであろう。A.D.1517 年以後の記述は、全部かまたその一部を、この偈
文を書いた不詳の人物が書き足したのかもしれない。
因みに、A.D.1517 年以前の記述の中にも、別人の手が入っている可能性は
否めないであろう。
Penth は、
〈1527 年、54 歳のときに Jkm の更新をやめる。/彼が後にどうなったのかは分から ない〉[Penth1995., p.217]と述べつつも、自ら付した註記においては、
〈最後の言は仮説 である。Jkm は 1527 年でもって終わっているが、1517 年から 1527 年まで年代記を継続したのは、 Ratanapañña 自身であるのか、別人であるのかは、知られていない〉[Penth1995., p.219 footnote8]と
断っている。まさにその通りである。Hinüber は、これらをしっかり読んでい
たと思われるが、不用意にも没年を「1527 年以後」と書いてしまっている。
これは正される必要がある。没年は、A.D.1517 年以降とするのが、目下は穏
当である。
(なお、Penth は Jkm-Ind.,p.x のほうでは「Ratanapañña は 1527 年に死んだ」と言ってお り、氏の論は一貫性に欠けるのであるが)述作年とその場所に関しては、Hinüber の説明に特にコメントをすべきとこ
ろはないが、Penth も含め両氏が参詳した Cœdès の所論に問題があるため、こ
の点について一言述べ添えておきたい。
著述年については、1 人称代名詞が用いられた明らかに “Ratanapañña” 本人
によるものと分かる Jkm の第 30 章にのみ依拠して考えなければならないと思
う。そこには、
〈また、Sakarāja 暦の子ねと言われる年に、Mahāsāmī である Abhayasārada が天国に 行き、そ〔の年〕も、その直後の Sakarāja 暦の丑年も、Mahāsāmī の空位(11)となった。何故か。Rattavanārāma において、Mahāsāmī の住まう場所である大付設堂(mahāmaṇḍapa)が、工事が完了し ていなかったからである。それ故、2 年のあいだ、私によりこの Jinakālamālī という書物類(ganthajāti) が書かれたが、その私は、Mahābodhārāma の寺主である大長老の同意によって大カティナ〔衣〕をま とった〉[Jkm., p.115]
とある。
文中の「子年」とは C.S.878
(A.D.1516/17)年を、「丑年」は C.S.879
(A.D.1517/18)年を指す。暦法に基づけば明らかである。この子年と丑年の期間においては、
チエンマイの Rattavanārāma
(= Wat Pā Däng)の Mahāsāmī
(「大管主」の意、この場合は Wat Pā Däng 派の僧長の意)の居室である大付設堂が完成していなかったので、新た
Pā Däng の住僧であったが、同寺の住持でもある Mahāsāmī がいなかったため、
Mahābodhārāma
(= Wat Jet Yòt[วัดเจ็ดยอด
])の寺主
(12)の同意を得て Wat Pā Däng に
おいて大カティナ衣をまとう比丘として過ごした。そして、この大カティナ衣
をまとっていた時期、即ち子年・丑年における 2 回の雨安居明けの時期を含む
期間において、Wat Pā Däng に住まいつつ、Jkm を書いた
[Cf. Jkm-Ind., pp.228-229(13)]。
単純に「子年」と「丑年」というだけでは、述作の開始から終了までの期間
は A.D.1516-1517 年とも言えるし、A.D.1517-1518 年とも言える。しかしなが
ら、2 回の雨安居明けの時期を含むという点を勘案すると、当時の彼地の暦法
の観点から前者即ち A.D.1516-1517 年と考えるのが妥当である。しかしながら、
Cœdès による Jkm フランス語訳における第 30 章の当該文の訳を見ると、子年
(l’année du Rat)
を A.D.1515 年とし、丑年
(l’année du Bœuf)を A.D.1517 年としてい
る
[Jkm-tr[C/F]., p.129]。これは間違いと評さなければならないのであるが、開始
年の解釈は N. A. Jayawickrama の英訳にも踏襲されてしまっている
[Jkm-tr[J/E]., p.165](14)。
Jkm の述作年を考える際に必ず参照されるものに、ほかに Nigamanagāthā 章
の散文部分
(15)がある。ただし、これは “Ratanapañña” の手に成るものである
のかどうか定かでない。先述の如く同章の偈文部分は別人が書いたと考えられ
るが、このことから散文部分についても同様である可能性が付き纏う。故に、
これを述作年を考察する上での 1 次史料としてはならない。1 次史料は、あく
までも上引の第 30 章の文である。ここは決して顛倒してはならない。
Nigamanagāthā 章の散文部分は、< B.E.2060 年= C.S.878 年>という年記を
述作開始年と解す限り第 30 章の文と齟齬をきたすことはないが、文末の「完
了した」という語にかかると見ると、それを述作終了年と受け止める解釈が生
まれかねない。そして、Cœdès の如き述作開始年の誤解を生みかねない。
最後に述作地であるが、先に引いた第 30 章の文にあった如く、それはチエ
ンマイの Wat Pā Däng
(16)である。このことは “Ratanapañña” が Wat Pā Däng 派
の戒統に属する比丘であったことを示唆するであろう。Jkm を紐解くと、第
23 章とこれ以降の章の内容は、Wat Pā Däng 派の由来や栄光
(それは当事者における「国家的・社会的正統性」という意識と表裏をなすのであろう)
を滔々と語っている。戒
統をめぐって Wat Pā Däng 派と緊張関係があったと思われる
(17)、先行のスリ
ランカ系僧衆 Wat Suan Dòk 派
(Jkm:Pupphāvāsi-gaṇa)については、Jkm に同寺と同
を語る第 23 章の初節は PTS 本で僅か 11 行程度の内容でしかない。“Ratanapañña”
は、当時あった仏教諸派
(18)の歴史を平等かつ網羅的に語ろうとする意識のも
とに Jkm を著したのではなかったと言えよう。故に、Jkm は、同派の由来と
栄光を叙述することに主眼を置いた「Wat Pā Däng 派史」とでも呼ぶべき仏教
史書と位置づけるのが相応しいと考えるのであるが
(19)、そうであれば “Ratanapañña”
が Wat Pā Däng 派の比丘であった可能性をいっそう高からしめるかと思う。
A.D.1516-1517 年と言えば、ラーン・ナー王朝の Bilakapanatta
(= Kæo[แก้ว
])王の熱烈な支持と支援を受けて、Wat Pā Däng 派が俄かに隆盛を極める時代で
ある。斯様な状況において、Wat Pā Däng 派の比丘が自派の何たるかについて
意識的になるということは相応に考えられよう。「ラーン・ナー黄金期」に属
する A.D.15-16c は、碑文や種々の典籍が盛んに著された時代である
[Cf. Hinüber2000.]。
Wat Suan Dòk 派は、既に Buddhañāṇa と “Buddhabukāma”
(= Buddharakkhita)の手
によって Mūlasāsanā
(ตำ�น�นมูลศ�สน�
、※以下 MS と略記)(20)と題される仏教史書を完
成させていたし、Jkm 述作の同時期頃には同じく Wat Pā Däng 派の Bodhiraṃsi
が Cāmadevīvaṃsa
(※以下 Cdv と略記)と『シヒン仏伝』
(ตำ�น�นพระพุทธสิหิงค์
)(21)とい
う 2 つのパーリ語史書類を著している
(Cdv はタイ語伝承のパーリ語訳として著された)。
斯様な内外の動向が、Wat Pā Däng 派の比丘をして自派の「歴史」を書かしめ
るに至ったのではなかろうか。あるいは、自派の「歴史」乃至「歴史認識」の
構築を必要としていた Wat Pā Däng 派の有力な比丘が、“Ratanapañña” と呼ばれ
ていた博学聡明な比丘に促して、これを書かせたのかもしれない。Jkm の述作
の経緯は、“Ratanapañña” が直接言明していないので定かではないが
(22)、筆者
(古山)はこれを斯様に推定している。
3.Jkm の史料としての問題点
Jkm の史料としての問題点について、Jkm-Ind. の ‘Preface’ に依拠して、既に
前節までに触れた事柄は繰り返さずに、概略化して紹介しておきたい。
Jkm-Ind. の著者 Hans Penth は、周知の如くラーン・ナー史の碩学であり、
George Cœdès、Säng Monwithun
(แสง มนวิทูร
)、N.A.Jayawickrama に並ぶ、Jkm につ
いての造詣が極めて深い現代の学者である。
Penth は
〈我々が今日知っている如き Jkm は、精確には、Ratanapañña が書いたところの Jkm で はない〉(p.ix)と述べる。これは極めて根本的なテキストの問題である。その理
由は、活字刊本の諸版は、Jkm の諸写本に忠実にしたがっておらず、しかもそ
の諸写本は、筆写を重ねたもので、それ故に、欠落や、現存しない原写本から
の逸脱や原写本への付加が含まれるからである、と言う。そして、問題を多く
含むテキストとして、先行の Jayawickrama の指摘に基づき、A.P.Buddhadatta
(※ PTS 本 の 校 訂 者 で も あ る )によるシンハラ字本
(1956 年)と、Wachirayān National
Library によるタイ字本
(1908 年、「ダムロン親王本」とも言う)を例示している。前者
は、写本伝統の威信
(authority)を欠いたままテキストに恣意的な改作がなされ
おり、後者は、筆写の繰り返しによって原形が損なわれたテキストになってい
る、と言う。ちなみに、ここに例示されるシンハラ字本は、この「ダムロン親
王本」を底本としている
[Cf. Jkm-Ind., p.336]。
また、Penth は、
〈…今のところ、北部タイにおいて Jkm の写本は 1 本も見つかっていない。 バンコク写本と、思うにプノンペン写本はクメール字で書かれており、スリランカ写本はシンハラ 字で書かれてる〉(p.x)と述べている。“Ratanapañña” がチエンマイの Wat Pā Däng
において Jkm を述作したのであれば、ラーン・ナー地域のタム文字でこれを
書いたと考えるのが自然であろう。クメール文字やシンハラ文字で書くなどと
いうことは一般的には考え難い。Jkm がラーン・ナー地域において伝持されて
写本が作成されたのであれば、その場合もこのタム文字が用いられたはずであ
る。ところが、北部タイにおいて写本が発見されず、タム文字の写本もないの
である
(例えば現ミャンマーのチエントンに Wat Pā Däng 派が展開しているが、そこにもないので あろうか?)。何故に斯様なことになったのかを解明することが Jkm 研究の大き
な課題であろう
(23)。筆者
(古山)は、Jkm 完成以降の Wat Pā Däng 及び同派の
消息を可能な限り明らかにして、原写本が辿ったかもしれない命運を推定する
ための下地をつくらねばならないと考える。また、ラーン・ナー地域で Jkm
完成以後につくられたと確認乃至推定されるタムナーン
(ตำานาน
)類における
Jkm の引用や依用についても、その有無等を仔細に調査して、Jkm がラーン・
ナー地域に根を下ろしていた痕跡があるのか否かを確認する必要があるであろ
うとも考える。
ちなみに、Wat Suan Dòk 派の MS はタム文字写本がラーン・ナー地域に残っ
ており、活字刊本も出ている。残念ながら広く利用されるための英訳がない。
Penth は、現存写本について、
〈最古の既知の Jkm 写本は、バンコク諸写本のうちの 1 つ であるようであり、思うにアユッタヤー後期から始まる〉(p.x)と述べ、Wachirayān Library
に所蔵されている、A.D.1788 年のクメール字写本がそれであるとしている。
これは、A.D.1757 年以前のアユッタヤー王朝期写本を写したものであると言
う
[Cf. Jkm-Ind., pp.335-336]。Penth は、Jkm の写本が〔“Ratanapañña” の死後に〕中
央タイにもたらされ、そこで当地において通用しやすいクメール字に翻字され
たが、その際に、間違いが起こり、テキストの章節が何気なく欠落し、幾つか
の付加がなされた、と言う。そして、この不十分な中央タイ写本がプノンペン
とスリランカに伝えられた、としている。
同氏は、現存 Jkm における欠落や付加、間違いについて、やや詳しく言及
している。先ず、
〈幾つかの欠落と、付加、間違いは、容易く見つけられ、後代の筆写者たちに 帰することができる。それ以外は、然程明らかではなく、Ratanapañña や後の代書者たち(subsequent scribes)によるものであるのか否か、確信がない〉(p.x)と述べ、欠落等に関することを
種々に論じている。
これを要約すると以下の如くである。①既知の Jkm 諸写本はどれも、Wat Pā
Däng 派の史書であるにもかかわらず A.D.1453 年から A.D.1516 年までの Wat
Pā Däng の記述がない。② A.D.1455 年から A.D.1476 年までの記述がない。③
別の事柄との関係で後段にそれに言及してはいるが、Wat Jet Yòt において A.
D.1477 年に開かれた結集の記事が欠落している。④周知のことであったため
Ratanapañña が省略・要約した部分が現在の我々に欠落の如く見える場合があ
る。⑤ Jkm の述作期までに無かったが故に当然書かなかった部分が現在の
我々に欠落の如く見える場合がある
(※欠落の如くに見えるのは、Jkm 以後に生まれた話と比較しているから)(24)
。⑥第 24 章の A.D.1447 年の記事中に Chappada が
Saṅkhe--pavaṇṇanā を著したを著したという文がある[Cf.Jkm., p.96]
が、これは間違いで
あり、明白な後代の竄入である。⑦ Jkm に語られているシヒン仏像
(Sīhaḷa-paṭimā)
、エメラルド仏像
(Ratana-paṭimā)、シキー仏像
(Sikhībuddha-paṭimā)、舎衛城の
旃 檀 仏 像
(Candana-paṭimā)の 伝 来 記 は、 後 代 の 竄 入 で あ る か も し れ な い が、
Ratanapañña により記されたものであるかもしれない。
以上が、Jkm-Ind. の ‘Preface’ の p.xii までに指摘されている、Jkm の史料と
しての問題の主要な諸点である
(25)。
ここで、次節で議論する「難句」のことに関連して、一言触れておきたい。
Jkm のテキストの問題を勘案すると、原著の述作地から離れた地域で後代に翻
字され、さらに筆写を重ねたが故に、その過程で本来の語形が損なわれてしま
い、意味解釈に窮する「難句」に変じてしまった可能性も考えられるであろう。
なお、この「難句」が後代の竄入であることは考え難いと思う。後述する如
く、Jkm におけるこの句を含む段の故事説話は、MS と Cdv などに確認するこ
とが出来るからである。つまり、この段の語りは、Jkm の述作期までに成立し
ており、ラーン・ナー地域で知られていたものと言えるからである。この「難
句」について、その語義を示唆し得る如き文脈が Jkm そのものに見出すこと
ができないという点については、後代に生じた欠落の故とも考えられるが、む
しろ、この複合語が表示している事柄は Jkm の述作当時において周知のこと
であったため、その仔細を “Ratanapañña”〔あるいは現存テキストの原著を完
成させた人物〕が態々語らなかったが故と考えたほうが良いように思う。
4.1 つの難句をめぐって
冒頭に触れた如く、Jkm 第 19 章には “...mātupaharanaṭṭakaṃ chinditvā...” なる
句があり、筆者はこれを「難句」と呼んでいる。その理由は既述の如くである。
同章の初めは、Ucchu 山
(チエンマイのステープ山とされる)に住まう Vāsudeva 仙
人が Haripuñjaya
(ランプーン)を建都するに至る経緯を語るのであるが、そこに
〈…Kunarisi には 3 人の息子がいた。すなわち、Kunarirāja、Kunarilola、Kunarisiganāsa である、と。し かも、Vāsudeva は、彼の 3 人の息子たちに、個別に都を建都して与えた。彼らのうち、Kunarisiganāsa は、父の亡き後、Migasaṅgara〔都〕において王権を行使し、さらに、仙人が建都した Rannapura〔都〕 において王権を行使した〉[Jkm., p.73]との件があり、この直後に続く “so taṃ Rannapuraṃ
kaṭṭhakhaṇḍa-upamaṃ katvā mātupaharanaṭṭakaṃ chinditvā adhammena vināseti” とい
う文の中に、その「難句」が含まれている。
文頭の代名詞 “so”
(男性・単数・主格)が Kunarisiganāsa を指していることは疑
いないであろう。Kunarisiganāsa は、統治していた Rannapura 都を、木片の如
き〔取るに足らない〕ものとし、「非法」によって滅ぼした、と語っているの
であるが、この「非法」に相当する事柄が、どうやらこの “mātupaharanaṭṭakaṃ
chinditvā” なる句で言われているようである。滅ぼしたのは、後続する段の内
容
(Vāsudeva 仙人が新たな都、即ち Haripuñjaya の建設を思い立つ)から見て、Rannapura 都
と判断して間違いない。
Jkm には幾つかの翻訳があるが、この句の意味解釈は実に紛々としている。
まず、翻訳の際に必ず参照される George Cœdès のフランス語訳
(1925 年)を
見ると、当該箇所は “...causa la mort de sa mère en brisant un mirador...”
(26)と訳
と同じであるので、氏の訳したパーリ語原文に特殊事情があるわけではない。
氏は、このパーリ語に、監視塔を損壊するときに彼の母に死を引き起こした、
という訳を与えているわけであるが、筆者には奇怪至極なしろものとしか見え
ない。氏の訳から複合語中の “-aṭṭa-” をサンスクリットの “aṭṭa”
(a watch-tower)と
解したことが分かるが、氏が解釈の際に参照した Cdv には、これを監視塔と
解し得るが如き記述はない。“mātu-” については「Kunarisiganāsa の母親」とす
る 解 釈 が 採 ら れ て い る が、 こ れ も ま た Cdv か ら は 根 拠 付 け ら れ な い。
“-paharana-” の訳はどれに当たるのであろうか。多分 “causa la mort” の辺りな
のであろう。句末の “chinditvā”
(<√ chid)は “en brisant” に当たるのであろうが、
その目的語を直前の複合語全体と見るのではなく、複合語中の “-aṭṭa-” のみと
している。斯様なパーリ語の読み方が可能であるのであろうか。Cœdès の解釈
は眉唾物との感が否めず、参考に用いるのは危険である。
次に、Phrayā Phojanāphimon
(พระยาพจนาพิมล
)によるタイ語訳
(1908 年)を見てみ
ると、こちらは驚くべきことに当該句の訳が見当たらなかった
(27)。その理由
は、目下の筆者
(古山)には定かでない。このタイ語訳は A.D.1794 年にタイで
作製された写本の翻訳のようであるが、当該写本の原文にはこの「難句」の部
分がなかったのであろうか。それとも、意味不明であったため訳さなかったの
であろうか。いずれにせよ、訳が見当たらないのであるから、これもまた参考
にはならないと言うべきである。
次に、Säng Monwithun
(แสง มนวิทูร
)のタイ語訳
(1958 年)を開いてみると、氏は、
上 に 示 し た「 難 句 」 を 含 む 文 を “ยังเมืองรันนปุระให้ฉิบหายด้วยความอยุติธรรม ตัดสินคดีถูกตีแม่อ้าง
อุปมาเหมือนไม้ตีฆ้อง (ว่าไม่มีความผิด)”
〈なお、ランマプラ都は、都を銅鑼叩きの木に譬え挙げ(過失はな いと言って)母親殴打の訴えに判決を下す不公正のせいで滅亡させた〉[Jkm-tr[S/T]., p.82]と訳し
ていた。この訳には、恐らく Cdv から着想を得て深読みし過ぎた結果と思わ
れるが、“kaṭṭhakhaṇḍa” を「銅鑼叩きの木」とする問題点が含まれる。しかし
ながら、複合語部分を如何に解したかは良く分かる翻訳となっている。複合語
を
〈母親殴打の訴えに〉と訳しているが、ここから、“mātu-paharana-” は「母親を
殴打すること」の意に、“-aṭṭa[ka]” はサンスクリット語の “artha”
(lawsuit, action)に対応する語と解したことが分かる。“chinditvā” の訳はいずれか判然としない
が、Cœdès のフランス語訳に比すれば至極真っ当と評せるであろう。
最 後 に、N.A.Jayawickrama の 英 訳
(1968 年 )を 見 る と、“Part of sentence left
untranslated above.” との断り書きを脚注に付して、この「難句」に訳を与える
ことを放棄してしまっている
[Jkm-tr[J/E]., p.99]。意味解釈に窮したのである。同
氏は、この脚注において、Cdv に参考となる記述のあることと、Cœdès のフラ
ンス語訳を示している。また、PTS 会長を介して U Titthila 師に教示を仰いだ
ようであり、同師から示された解釈を紹介している。Titthila が「提案」とし
て示した当該の「難句」の解釈は、“cutting down(chinditvā)(those persons who
were a) 'mother-like-supporting-scaffold'(māt'upaharaṇaṭṭakaṃ)(to it).” というもので
あった。同師は複合語を “mātu-upaharaṇa-aṭṭa-ka” と分解したようであり、ここ
は参考になる。しかし、Rannapura 都にとって支える足場に擬えられる母親の
如き人々を切った
(殺した?)、と言うが、そのような故事が、例えば MS や
Cdv と言った先行の史料などに語られているのであろうか。“-aṭṭa-” は「足場」
と訳せる言葉なのであろうか。筆者には、Cœdès の訳と同様に、眉唾物との感
が 否 め な い。Jayawickrama は、Titthila の 提 案 に 批 評 を 加 え て “-aṭṭaka” は
“fortifications” の解すことができるのではないかとし、斯様に解せるならば、
この「難句」の意味は “destroying the fortifications set up by his mother” と訳せる
のではないかと述べている。こちらのほうが Titthila の「提案」よりは好意的
に受け止められるが、“mātu-” を「Kunarisiganāsa の母親」と解しているところ
は疑念が残るし、その母親が築いた城砦とは何を指すのか理解に苦しむと言わ
ざるを得ない。何らかの裏付けを示して欲しいところである。
以上が公刊されている主要な先行諸訳における「難句」の意味解釈であるが、
本稿冒頭にも述べた如く、実に紛々としていることが分かるであろう。のみな
らず、俄かには肯い難い点も含まれ、混沌の感が否めない。
それでは、この「難句」は如何に解するのが、より妥当なのであろうか。こ
のことを考える上で着目すべきは、前節でも触れた如く、その故事説話が、先
行の MS 及び Cdv にも語られているということである。複合語の語形につい
ては後代に変化を被っているかもしれないが、この言葉自体は、古くから知ら
れていた周知の故事説話における、ある内容の部分を、“Ratanapañña” が略述
化して表現したものである可能性が極めて高いと思われる。
この故事説話が A.D.15c 後半から A.D.16c 初頭の成立と推定されている『ラ
ンプーン年代記』にも略述されている
[Cf. L-Chronicle., pp.12ff.(28)]ことを勘案する
と、Jkm の書かれた時代には、よく知られていて、詳述せずとも十分読み手に
理解されるものであったことが窺がわれる。
故に、この複合語の意味解釈においては、何はともあれ、MS と Cdv の記述
内容をしっかり読み、これに沿って考察してみることが必要であろう。
そこで、先ずは、George Cœdès、Säng Monwithun、N.A.Jayawickrama も注意し
ていた、Cdv の記述のほうから見てみたい。同書の第 2 章には以下の如くある。
…その時のあいだ、Vāsudeva は考えた。「この Migasaṅgha 都は平でなく、美しくない。私は平 坦な一つの地域を探し求めよう。もし私にとって満足のゆくところであれば、私は一つの都市 を建設しよう」と。ちょうどこのように考えていたとき、世尊の舎利が現れた場所の南方域に お い て、 平 坦 な ひ と つ の 地 域 を 見 つ け た。 す る と、 そ の 区 域 に お い て 都 市 を 建 設 し、 Kunarikanāsa 王に統治をなさしめた。なお、自分が満足のゆく楽しき(ramma)場所として自 ら建設した都市は Ramma 都という名で呼ばれた。まさにその後幾久しくして、そこに住まう 多くの人びとは、あらゆる幸福を実現し、托鉢し易く、より更に楽しんだ。その後幾久しくし て、その都に、残忍で粗暴でとても強暴なひとりの男が、自分の母親を罵り(akkosati)、謗っ た(paribhāsati)。それで、その男の母親は、苦しみにまったく堪えられず、Kunarikanāsa 王の 面前に行き、泣いてその出来事(※原文 pavuttiṃ は pavattiṃ と見做す)を言おうとした。する と、王は彼女に言った。「やれやれ、賎しき女よ、息子というのは、自分の母親を殴っても適 当である(sakamātaraṃ paharituṃ yutto)。銅鑼のようなものだ。母親が息子らに殴られれば声 (音)が出る。もし息子が殴っても、母親は出てこずに、まったく黙っているべきである。ど うしてお前は泣くのか。ここから出て行け」と。このように言われると、すべての将軍などの 大臣たちは同様に言った。彼女は弁をなくし、王の住居から下りて、王宮の庭において両膝で もって地に立たせ、…。[Cdv., pp.37-40;Cdv-tr[DS/E]., pp.43-44、※原文はパーリ語]この説話における人物や都市の名前は Jkm のそれとすべて同じではない。
しかし、Jkm の「難句」を読み解くのに重要な示唆を与えてくれるのではなか
ろうか。
Cdv の語りに拠るならば、そこにある “sakamātaraṃ paharituṃ yutto” という
句が示している如く、Jkm の「難句」中の “mātu-” は、王の母親ではなく、都
の住人である、粗暴な息子を持った母親を指すと解することが出来る。また、
“-paharana-” は、この粗暴な息子が母親になした暴行即ち「殴打」を指すと解
することが出来よう。最後の “-aṭṭa-” は、息子の暴行に堪えかねて国王に何と
かしてもらおうと告げたこと、即ち「訴え」
(Skt.artha に相当)と理解することが
出来るように思う。“-aṭṭaka” とは、「訴え」に附属・関連することを、具体的
には審理や審判ということを意味するのではないか
(29)。語りの中に、監視塔
や城砦は出てこない。
都の王は、息子の殴打に苦しむ母親から訴えを受けたが、詭弁を弄して、息
子に殴られたぐらいのことで態々来るなと言い、その母親を追い返してしまっ
た。つまり、審理を拒み中止してしまった。複合語を目的語にとる “chinditvā”
とは、「遮る」
(to interrupt)や「止める」
(to stop)の意に解せるのではなかろうか。
上引の語りの後、王に追い返された母親は絶望にくれて大地神 Basundari に
苦境を訴え、これを聴いた神は怒り、大洪水を起こして王や非法の人々
(adhammika-manussa)もろとも都を滅ぼしてしまう、という話が続く
[Cdv., pp.40ff.; Cdv-tr[DS/E]., pp.44ff.]。
次に、MS を見てみよう。MS の「ワーステーワ仙人がプラナコンを造る」
(วาสุเทวฤษีสร้างปุรนคร
)と題される章には、以下の如くある。
…それ以来、ワーステーワ仙人(Skt. Vāsudeva-ṛṣi)はというと、審査して、このミカサンコ ン・ナコン(Skt. Migasaṅgara-nagara)は相応しくないと観た。そこで、世尊が遠い昔に予言を なされておいた場所の、南側のとあるところに、王都を建設しに来ていた。プラナコンと名付 け、クナーリカナート(Skt. Kunārikanāda)をしてこれを統治せしめた。その時代に、ひとりの 老婆がいて、ここプラナコンに住んでいた。ひとりの息子がおり、とても兇暴で卑劣な者で あった。その者は毎日自分の母親を殴打するのを当然としていた。ある日のこと、母親は、憤 慨していたのを抑えることが出来なかった。そこで、頼みにして行き、国主が審査(พิจารณา
< Skt. vicāraṇā)をなされて徳(คุณ<Skt. guṇa)と過失(โทษ
<Skt. doṣa)とをご覧になられるべく、 跪拝して奏上した。王様はというと、この老婆の話す言葉(ถ้อยคำา
)について、まったく審査 (พิจารณา
)をなされなかった。「これ老婆、かの小子のことは、よく知られておる。父・母を打 つのは当たり前である(※ย่อมพอแม่ตี
は異本のย่อมตีพ่อแม่
で読む)」と繰り返し述べた。国主はた だ述べるだけであった。老婆は斯様に仰せられるのを聞くと、頼りどころを探しえないために ひどく心が傷付いた。そこで、辞去すると奏上して王宮から出て来た。…[MS., pp.130(30)。 ※原文はタイ語]ここには人物名や都市名等、細部において Cdv と相違が認められるが、話
の筋そのものに差異はない。ここには示さなかったが、上の話の後の展開も
Cdv と同様である。
Cdv の場合と同じく、この MS の語りからも、“mātu-” は粗暴な息子を持つ
母親を指し、“-paharana-” は母親に対する息子の暴行を指す、とする解釈が導
き出せる。
MS の語りでは、サンスクリット語の “vicāraṇā” からの借用語である “พิจารณา”
という語が 2 回現れる。息子の暴力に苦しむ母親は王に “พิจารณา” を求めたが、
王は、そんなことは気にするなと言って、その “พิจารณา” をまったくなさなかっ
た。この点に注目すると、「難句」の中の “-aṭṭaka” は “พิจารณา” を意味している
可能性が高いと考えられよう。この場合、“พิจารณา” とは徳と過失を審査するこ
とを言う。つまりは「審理」である。Cdv の記述から推量された解釈は、MS
の記述において、より確度が上がることになるであろう。“chinditvā” は、やは
り「遮る」や「止める」の意と解せる。
以上の Cdv と MS に語られる故事説話から、Jkm の「難句」は、
〈〔息子が〕母 親を殴打することについての審理を遮って/止めて〉などと訳せるのではないであろうか。
Jkm を著した “Ratanapañña” が実際に如何なる意味で用いたのかは分からない
が、蓋然性は高いように思う。ひとまず識者の批評を仰ぎたいが、少なくとも
先行諸解釈よりは良い訳ではなかろうか。Donald K. Swearer が、MS の話を要
約して、“…refused to mete out justice to a boy who had beaten his mother.”
[Swearer 1974., p.77]と紹介していることも付言しておきたい。
ちなみに、Cdv と MS に語られる故事説話は、目下筆者の知るところでは、
成立期不詳のチエンマイの Wat Phrathat Doi Kham
(วัดพระธาตุดอยคำา
)の創建縁起に
も素材として取り込まれていることを指摘しておきたい
(31)。恐らく Jkm の後
においてもラーン・ナー地域においてしばしば語られていたであろうことが窺
がえよう。ラーン・ナー史研究の史料としてしばしば用いられる『ヨーノック
年代記』
(32)にも見られるのである
[Cf.Y-Chronicle., pp.206ff.]が、しかしながら、
これは A.D.20c にバンコク王朝の高級官吏によって編まれた非ラーン・ナー文
献である。斯様な典籍を、Jkm における当該の「難句」の意味解釈の中心史料
として真っ先に用いることは、当然のことながら厳に慎まなければならないで
あろう。
5.むすび
Jkm にある “so taṃ Rannapuraṃ kaṭṭhakhaṇda-upamaṃ katvā mātupaharanaṭṭakaṃ
chinditvā adhammena vināseti” という文章は、
〈…彼(Kunarisiganāsa)は、その Ranna 都を、 木片の如きものとし、〔息子が〕母親を殴打することについての審理を遮って、非法によって滅ぼした〉
と訳し得るであろう、というのが、本稿の主たる関心事に対する筆者
(古 山)の議論の結論である。
斯様な解釈が可能であるならば、息子の暴力に苦しむ母親の訴えに耳を貸さ
ず、その息子のことを審理しようともしないような王の振舞いは、「非法」の
烙印が押され、善神の怒りを被って〔自然災害により〕都を滅亡させてしまう、
という訓誡が、この 1 文に込められているということになるであろう。
Jkm 第 19 章の語るところが、Haripuñjaya 建都前夜に実際に起きた出来事で
あるのかどうかは定かでない。多分、史実ではないであろう。故に、「職務怠
慢や傲慢により王が悪を裁かない場合は、その国は天罰により滅びる」という
観念が、Haripuñjaya 王朝期の前時期に当該地域にあったのかどうかは分から
ない。しかし、MS が著された A.D.15c には確実にその観念は存在していたと
言える。Jkm 第 19 章の語りにおける「難句」が、“Ratanapañña” による略述の
所産であるならば、即ち、Jkm の述作当時に周知のことであったので手短に書
いた結果として生まれたのであるならば、上述の観念は、A.D.15c 頃には、存
在していたと言うより、根を下ろしていたと言うほうが相応かもしれない。
「ラーン・ナー黄金期」における為政者論、国家統治論について考える上で示
唆に富むかと思う。
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飯島 1998.: 飯島明子「ラーンナーの歴史と文献に関するノート―チエンマイの誕生をめぐって―」 新谷忠彦編『黄金の四角地帯―シャン文化圏の歴史・言語・民族』(東京外国語大学アジア・アフ リカ言語文化研究所歴史・民族叢書Ⅱ)、慶友社、1998 年 飯島 2001.: 飯島明子「「タイ人の世紀」再考―初期ラーンナー史上の諸問題」『岩波講座東南アジア 史第 2 巻 東南アジア古代国家の成立と展開』、岩波書店、2001 年 石井 1969.: 石井米雄「図書紹介」『東南アジア研究』(京都大学)第 7 巻第 2 号(1969 年 9 月、※ Jkm-tr[J/E]. の書評が含まれている) 佐々木 1964.: 佐々木現順「書評」『大谷学報』第 44 巻第 1 号(1964 年 10 月、※ Jkm. の書評) 中村 2015.: 中村哲夫『タイ北部歴史伝説探訪 改訂版』、(私家版)、2015 年 タ日.:冨田竹二郎編『タイ日大辞典』、日本タイクラブ・めこん、1997 年 タ辞.:松山納『タイ語辞典』、大学書林、1994 年 註 (1) Jkm は、PTS 本によれば、33 の章立てにより構成されている。即ち、[1]Paṇāmagāthā(5 つの帰 敬 偈 )、[2]Manopaṇidhānakathā、[3]Mahānidānakathā、[4]Atidūrenidānakathā、[5]Dūrenidānakathā、[6] Avidūrenidānakathā、[7]Santikenidānakathā、[8]Dhātuvaṇṇanā、[9]Pakiṇṇakakathā、[10]Saṅgītikālakathā、[11] Laṅkāsāsanapatiṭṭhānakathā、[12]Dhātvāgamanakathā、[13]Mahiyaṅganacetiyakathā、[14]Duṭṭhagāmaṇī- pavatti、[15]Mahācetiyakathā、[16]Catthasaṅgītikathā、[17]Laṅkārājaparamparā、[18]Dāṭhādhātvāgamana-kathā、[19]Haripuñjayappavatti、[20]Lāvavaṃsakathā、[21]Sumanattherakathā、[22]Sīhaḷapaṭimākathā、[23] Sīhaḷasāsanāgamana、[24]Mahādhātucetiyakathā、[25]Bilakabaddhasīmākathā、[26]Ratanapaṭimākathā、[27] Bilakarājakathā、[28]Bilakapanattādhirājakathā、[29]Sikhībuddhapaṭimākathā、[30]Sīhaḷasāsanajotanakathā、 [31]Gajuppattikathā、[32]Candanapaṭimākathā、[33]Jeṭṭhādhipatirājā[-kathā]、[34] Nigamanagāthā(8 つ の結偈+散文の結語)である。これらのうち、[2] ~ [6] は釈尊の前生譚、[7] は釈迦仏伝、[8] ~ [10] は釈尊の入滅後の教団の消息[※結集は第 3 結集迄]、[11] ~ [18] はスリランカにおける仏教の伝 来・確立と仏教史[※大凡 A.D.12c 頃迄]、[19] ~ [33] は広義のラーン・ナー仏教史である。 ところで、[1] の帰敬偈は、そこに “vakkhāmi ganthaṃ Jinakālamāliṃ”(v.5)との表現が見られる
ことから、Jkm の原著者によるものと見て良いと思う。これに対して、[34] の偈文部分は、本文で も述べた如く、Jkm の原著者の手に成るものではないと考えられる。
ちなみに、本書の典籍名は Jinakālamālinī などと綴られることがあるが、これは妥当でないこと が先学により論じられている[Cf. Jkm-tr[J/E]., p.vii; Jkm-Ind., pp.vii-viii]。上に示した帰敬偈 v.5 な ど、本文中に現れる表記を見れば一目瞭然であろう。
(2) こ の「 難 句 」 は “…so taṃ Rannapuraṃ kaṭṭhakhaṇḍa-upamaṃ katvā mātupaharanaṭṭakaṃ chinditvā adhammena vināsesi”[Jkm.,p.73]という文中に含まれるものである。
(3) 原文:paññā ratanaṃ asseti Ratanapaññasaññito, tevīsativasso so antovasse vasaṃ tadā, Jinakālaṃ gaṇetvāna ganthaṃ akāsi yaṃ subhaṃ.(v.4 = PTS 本 v.161)
拙訳:彼にとっては智慧(paññā)が宝(ratana)であったので、Ratanapañña と呼び名されていた。 彼は、その時、雨安居歴 23 年であり、雨安居の最中にあった。勝者の時代を数えて、清らかな書 物をつくった。
(4) 同章の “Bodhārāme Sīmāsammutikālo” 節には、Bilakapanatta 王(※= Phraya Kæo[
พระยาแก้ว
])が、 C.S.873(A.D.1511/12)年に、支配地域の各地から長老比丘を多数招いて、Mahābodhārāma(※= Wat Jet Yòt[วัดเจ็ดยอด
])に新設された布薩堂のための結界認定羯磨を行わせた、との記事があり、 この儀式に参加した各地の長老比丘の名が列挙されている[Jkm., pp.105-107]。そこに Ratanapañña と い う 名 を 持 つ 僧 が 2 人 挙 げ ら れ て い る。 即 ち、Byāvanagara( パ ヤ オ ) の Ratanapañña と、 Khelāṅganagara(ランパーン)の Ratanapañña である。Hans Penth は、両者のうちの 1 人が Jkm の 原著者であるかもしれないと考えたようである。氏の論考は、ひとまずどちらが Jkm の原著者と 言えるのかについて議論するものであり、その過程であだ名の可能性があることを示唆したので あった。当該の論考では、特にパヤオの Ratanapañña のほうに注目して詳しく論じている。 (5) Cf. Curpus of Lān Nā Inscriptions vol.6 Inscription in the Chiang Sän Museum, Part 2,ประชุม จ�รึกล้�นน� เล่ม
6จ�รึกในพิพิธภัณ์ฯ เชียงแสน ภ�ค
2. Chiang Mai : Archive of Lan Na Inscriptions, Social Research Institute Chiang University, 2003 . pp.187-203この Wat Wisuttha-Ārām 碑文には、B.E.2049(A.D.1506)年に、同寺の寺奴奉納を記録する碑文 をつくることを、パヤオの Wat Pā Däng Luang(
วัดปาแดงหลวง
)の住職であったソムデット位の高僧 Śrīvimalabodhiñāṇa が、チエンマイの Kæo(แก้ว
)王に願い出たということが述べられている。この 時、王からの許可を得るための仲立ちとなるよう、Śrīvimalabodhiñāṇa が Jayapāna-Ratanapaññā 大長 老なる比丘に依頼した、と言う。Hans Penth は、この大長老比丘が、Jkm にその名が挙げられてい るパヤオの Ratanapañña に相当する人物であるかもしれないとした。そしてこの場合、“Jayapāna-” を “Jayabāla-” と読み替えた上で、“Jayabāla-” の部分が “the ‘real’ monastic name” で、“Ratanapaññā” の部分が “a descriptive addition” であろうと述べている。(6) Hans Penth は、当該の論稿の末尾において、“…he was either from Phayao or Lampāng (one of tha
two Ratanapañña listed), or else he figures in the list under another name, viz. under his correct monastic name which we ignore”(p.218)と述べ、Jkm に名が挙げられている 2 人の Ratanapañña 以外の比丘
が原著者であることも考えられる、と付言している。 (7) Cf. Mahāvagga-pāḷi[Vinayapiṭaka]、ミャンマー第 6 回結集版、p.129;『南伝大蔵経』第 3 巻 p.159。 なお、ここに説かれる 20 歳とは入胎後 20 年を指し、分娩後の年齢ではない。 (8) Jkm の英訳者 N.A.Jayawickrama は、〈…もしかすると、年代記は Mahāvaṃsa のように継続される べきである、というのが、著者の意図であったかもしれない…〉と述べ、C.S.889 年のところまで “Ratanapañña” が書き足していったが、以降については後継者を見つけることが出来なかっため、 そこで終わった、と論じている[Jkm-tr[J/E]., p.xxix]。しかしながらこれは、傾聴すべき見解では あるが、1 つの可能な仮説に過ぎない。 (9) Hans Penth は、〈…Jkm は、2 回分またはそれ以上の回数分において編纂された。第 1 回分は 1516-17 年に Wat Pā Däng の Ratanapañña によって書かれ、その年代までの記録がもたらされた。後 に、1 つまたは幾つかの更新が、Ratanapañña か別人かによって、1527
年まで、付加された〉[Jkm-Ind., p.vi]と述べている。
(10) ところで、C.S.879(A.D.1517)年に Jkm を書き終えたということを “Ratanapañña” 自身が語って いる Jkm 第 30 章の文(p.115)の直後には、C.S.880(A.D.1518/1519)年における出来事、即ち、 Rattavanārāma の大付設堂が完成したことと、Mahābodhārāma の寺主であった Saddhammasaṇṭhira 長 老が Rattavanārāma の Mahāsāmī に就任したこと、に言及する記述が続いている[Jkm., pp.115-116]。 前後の結びつきに不自然な点はない。むしろ、大付設堂完成の話が後に続かなければ、前の文の 語りの意図が分からなくほどである。故に、ここは “Ratanapañña” が書いたのではなかろうかと筆 者(古山)には思える。A.D.1517 年に何らかの理由で執筆が中断し、然程時を経ない頃に書くべ き残りを書いたのではなかろうか。まったく想像の域を出ない話ではあるが、もしそうであるな らば、“Ratanapañña” は C.S.880 年かその少し後頃までは生きていたことも考えられるであろう。 (11) 原 語:Mahāsāmī-suññaṃ。PTS 本 の 脚 注(No.1) に は、1908 年 刊 の タ イ 文 字 版(Wachirayān
National Library 版)には “Mahāsāmī-puññaṃ” とあると註記されている。Jkm-tr[J/E]. はこの異読の方 を採り、亡くなった Abhayasārada の葬儀における積徳行為により功徳が生じたことを指している と解している(p.165 footnote 4)。しかし、Jkm-tr[J/E]. も続けて述べる如く、後続の文との繋がり を考慮すると、“Mahāsāmī-suññaṃ” を採って読むほうが良いと思う。
(12) Saddhammasaṇṭhira 長老のこと。Jkm 第 28 章の Pallaṅkadīpaka の結界浄化の記事(p.104)に見え る Dhammasaṇṭhira と同一人物かもしれない(Cf. 拙稿「Yod Chiangrai 王と Tapodārāma の建立」『駒 澤大学仏教学部論集』第 47 号、2016 年)。この長老は、Rattavanārāma(= Wat Pā Däng)の大付設 堂が完成した C.S.880 年に、ソムデット位(samaga)の王師(rāja-guru)の地位とともに、Wat Pā Däng の寺主及び Mahāsāmī の役職を与えられている[Jkm., pp.115-119]。Wat Pā Däng の住僧であっ た “Ratanapañña” が、Mahābodhārāma(= Wat Jet Yòt)の寺主であった Saddhammasaṇṭhira 長老から 大カティナ衣被着の同意を得たのは、この時に Saddhammasaṇṭhira 長老が Wat Pā Däng の次代住持 と Mahāsāmī に内定していて[Cf.Jkm., p.112]、住持代行職的な立場にあったからではないかと推定 される。住持居室の大付設堂の未完成のほか、先代の Abhayasārada 長老の葬儀のことなどがあっ たため、正式な就任はそれらが片付いてからということになったのであろう。
(13) Hans Penth は、“(In 1516 and 1517)During these two years (Rat and Ox), I (Ratanapañña) wrote this (book)
Jinakālamālī (in Wat Pā Däng) (Dvīsu vassesu yena mayāyaṃ Jinakālamālī ti ganthajāti racitā).” というよ
うに、筆者と同様に解している。
(14) N. A. Jayawickrama は、「子年」を C.S.877 年とし、これに A.D.1515 年との註記を付している。 (15) 原文:iccevaṃ satthu parinibbāṇato vassānaṃ saṭṭhi-adhike dvisahassaparimāṇe, aṭṭhasattatiadhike ca
aṭṭhasata-sakarāje mūsikasaññite saṃvacchare jinasāsanassa ciraṭṭhitatthaṃ vicaritoyaṃ gantho Jinakālamālī nāma paripuṇṇo ti.[Jkm., p.129]
拙訳:以上、師の入滅後 2060 年、Sakarāja 暦 878 年、子ねと言われる年に勝者の教えの久住のため に著された、この Jinakālamālī という名の書物は、完了した。
(16) チエンマイの Wat Pā Däng(
วัดป่าแดง
)は、A.D.15c 前半の Sam Fang Kæn(สามฟั ่งแกน
、Jkm:Tissa) 王治世期にチエンマイに来たスリランカ修学僧(Jkm によれば Mahādhammagambhīra ら諸長老。 MS によれば Mahāñāṇagambhīra 長老)により興起せしめられた派(gaṇa)のチエンマイにおける中 心拠点の 1 つとなった寺院である。この派は Jkm では “sīhaḷa-bhikkhu”、“sīhaḷa-gaṇa”、“Sīhaḷavaṃsika” と呼ばれており、一般に Wat Pā Däng 派、“new Lankavamsa” や “Sihala School”、“Sihon School” などと呼ばれている。この派の呼称は、A.D.14c の Kü Na(
กือนา
、Jkm:Kilanā)王治世期に、モン族の 支配するラーマンニャ地方(ミャンマー南部)で Udumbara Mahāsāmi 師に就いて修学した Sumana 長老のチエンマイ来訪により興きたスリランカ系仏教の派に対するものである。この派は、Jkm に おいては “Pupphāvāsi-gaṇa” と呼ばれ、チエンマイにおける拠点が Wat Suan Dòk(วัดสวนดอก
、Jkm: Pupphārāma)であったことから Wat Suan Dòk 派とも、また一般に “Lankavamsa”、“Ramanya School”、 “Mon School” とも呼ばれている(※拙稿「タイ・チエンマイの Wat Chiang Mun の Phra Sila(石板像) について」『駒澤大学仏教学部論集』第 42 号、2011 年 pp.311-310[註(20)]において、Wat Pā Däng を Tilokarat 治世期と書いてしまったが、これは筆者(古山)の誤りであった。ここにお詫び して訂正したい)。Jkm によれば、Wat Pā Däng は A.D.1431 年に Tilokarat(
ติโลกราช
、Jkm:Bilakarāja)王によって創 建された。A.D.1447 年には Tilokarat 王がここで一時出家している。この寺院は、チエンマイ旧市 街(城域)西郊のステープ山の麓に現存している。ただし、往時の寺院は、現在の位置より少し 離れた東側にあったようである(Cf. Hans Penth. 'Note : A Brick from Old Wat Pa Däng (Chiang Mai).' The Journal of the Siam Society 63.1. 1975: p.176 (footnote 1))。同寺はチエンマイがミャンマーの王朝 国家の支配下に入った後で衰退し、廃寺となったようである。復興ラーン・ナー王朝の成立期に 復興されたと言う[Cf. 中村 2015., p.186]。筆者は 2011 年 3 月 18 日に同寺を訪問した。現住寺院 であるが、大規模な復興修繕はなされておらず、遺跡同然であり、観光地化もなされていなかっ た。(17) Wat Suan Dòk 派と Wat Pā Däng 派の関係については今後の究明課題である。ただ、例えば、チエ ントンの Wat Pā Däng 派の MS(※ C.S.970 年までの記事がある)には、チエンマイの Wat Pā Däng 派の祖である Mahāñāṇagambhīra 長老に対して、「師匠である Mahādhammakitti 長老を裏切り僧団分 裂(破僧)をなした愚か者である」との批判(言いがかり)が C.S.869(A.D.1507)年にチエント ンでぶつけられ論争が起きたとする記述が見られる[MS[CP/T]., pp.29ff.;MS[CP/E]., pp.106ff.]。 Mahādhammakitti 長老は、Wat Suan Dòk 派に属する、ソムデット位の王師という高僧であった。 Mahāñāṇagambhīra 長老は、スリランカ修学前は、この Mahādhammakitti 長老を和尚として出家して いた。Wat Pā Däng 派は Wat Suan Dòk 派を出て行った人間がつくった分派、という意識が当時のチ エントンの比丘たちの中にあった。チエンマイの Wat Suan Dòk 派比丘らにも、同じような意識が あったかもしれない。
(18) Jkm には、Wat Suan Dòk 派及び Wat Pā Däng 派のほかに、“nagaravāsī” あるいは “nagaravāsīgaṇa”(都 市住派)と呼ばれる僧衆も含めて 3 つの派があったことが述べられている(初出は第 29 章の C. S.871 年の記事)。この “nagaravāsī” はスリランカ系の Wat Suan Dòk 派・Wat Pā Däng 派が “araññavāsī” (森林住派)と呼ばれるのに対する呼称であるが、このことから、“nagara-vāsī” とは、実際のとこ ろは定かでないが、スリランカ系仏教が伝来する以前からあった、〔Haripuñjaya 期以来の〕在来仏 教の系譜を引く僧衆ではなかろうかと推定される[Cf. Penth2004., pp.70-71]。Jkm や Cdv には、 Haripuñjaya 王国の建国にともなって、Cāmadevī が故郷ラワ(Lava-pura、現在のロッブリー)から 500 人の三蔵憶持の大長老を連れて Haripuñjaya 都に入り女王として即位した、という話が語られている。 この話を信じれば、ラーン・ナー王国以前にモン族仏教系統の僧衆がいたことになる(※このモ ン族仏教については、Daniel2006., pp.31-41 を参照されたい)。なお、Saeng Manavidura(= Säng Monwithun[