駒 澤 短 期 大 學佛教 論集 第
1
號1995
年10
月 (49
)プ
ラ
マ
ーナ
の
定
義
に
つ
い
て
木
村
誠
司
1
仏 教論理 学 派1)の
創
始者
デ ィ グナー ガDignaga
(480
−540
)は, 『集
量 論 』P
η 〃2σpasamaccaya
の 冒頭で, 人間の 認 識 と信仰
の対象
を同 一の 言葉で表 現 した 2冫。 現 在,暫定
的に, 前 者 を 「認 識 手段 」 〔= 知覚
(pratyak
$a)・推
理 (anumana )〕, 後 者 を「権
威 」〔
= 仏 陀〕と訳 し, 区別
し てい る が, 原語は 同 じプ ラマ ーナ (pramana
) とい うサ ン ス ク リッ ト語で ある3)。 さて, 人間の 認識 と信 仰の対象
との関係
は, 仏 教 論 理 学 派に とっ て も, 当 然避 けて通れない問
題の はず
であっ た。 しか し, デ ィグ ナー ガ は, その 問題に 深 く立 ち 入 らなか っ た。 という
よ り, 彼は, その 考 察 を嫌
っ たの か も しれ ない 。 な ぜ な ら, デ ィ グナ ー ガ は , 『集
量 論』 の 末 尾に おい て,認 識の 対象 (
gzhal
bar
bya
ba
> と認 識の 主体 (’jal
bar
byed
pa )の 確立 は, きわめ て困 難 で あるが , 他 派は, こ れに つ い て, 核 心に触 れ ずに (snying po med
par
)教 示 す るの で, さらに, そ 〔の 教示〕に対する諸々 の愛着を排 除する た め に , こ れ
〔= 『集量論』〕を著わ した の である。 〔しか し〕
, これ を通 じて, 如来の 教示 に は 入
らない の である。な ぜ な ら, 彼 〔= 如来 〕の 教 え (chos ,
dharma
)は, 論理学 (rtogge
)の 範 ちゅ うで は ない か らで ある。 (『集 量
論』,
85bi
『2)
gzhal
byar
bya
ba
dang
/’jal
bar
byed
pa
sgrubdka
’ba
nyidkyi
mu stegs can’
di
la
snying po medpar
bstan
pa
’i
phyir
dang
/de
la
sproba
rnamsbzlog
par
bya
ba
’i
don
du
’di
brtsams
so ノ’di
las
de
bzhin
gshegs
pa
’i
bstan
pa
la
’jug
pa
ma
yin
te
/de
’i
chos rtogge
’i
spyodyul
mayin
pa
’i
phyir
ro / と述べ てい る か らで ある。 こ こ に, ディ グナ ー ガの真 意が表明 さ れ てい る , とみ る なら ば,彼
に問題 の解
決 を求
め るの は所 詮無 理である。 この問
題は, ダル マ キ ー ル テ ィDharmakirti
(600
−660
)に よっ て,本 格 的に考察
さ れた。彼
は, 『量
評 釈』.P
η 〃24 郷 厩 漉 伽 「量 成 就」Prama
ロasiddhi 章 を その 考 察に あて た。 問題 を解 く鍵プ ラ マ ー ナは , 同章のkk
.1
−7
で, さっ そ く規 定 された。 彼は, そこ で, 「認 識 手段」(
50
)プ ラマ ー ナの
定義
に つ いて(
木村)
として の プ ラマ ーナに定義 (lak
$ana ) を与 え, その 定義は 「権 威」 としての プ ラ マ ーナ に適 用され る , と宣 言 した。kk
.1
・7
は, 一 言で言 えば , 「プ ラマ ー ナの 定義
」 を説 く詩 節であ り, 章の 序 論に相 当する重 要 な もの で ある。 それ故, こ の詩 節は, 多くの 学 者の 注 目する とこ ろ とな り, こ れ まで幾 度 も, 翻訳 ・研 究 さ れ た 。 本 稿 は, そ れ らを再
考察す
るもの である。さて,
筆者
の知
る限
り,k
k
.1
−7
に対す
る翻
訳のす
べ て に お い て 4) , 次の点は 一致 してい る。 すな わ ちkk
.1
−7
には, 「欺か ない もの であ るこ と 」 (avisamvadatva ) (X
)と「未知の 対 象 を明 らかにする もの であるこ と」 (ajfiatarthapraka §atva )(Y
)という
ふたつ の プ ラマ ーナ の定
義
が説
か礼 ◎O
はk
.1
「プ ラマ ーナ とは, 欺か ない知で ある」 ‘pramanam
avisamvadijfianam
’で, (Y
)はk
.5
「あ
るい は,未知
の 対象
を明 ら かにする もの で ある」 ‘ a
節
atarthapraka
§o va ’て示 されて い る。 こ の 当否は後 に考察す
るこ とに しよう
。 以 下で は, まず, ダル マ キ ール テ ィがCX
)・(Y
)を
プ ラマ ー ナの定義
として採用 した際
の背景
や動機
につ い て諸学者
が どの よう
な見解
を示し
てい るか を確 認 し, そ れ らにつ い て 所見
を述べ よ う。II
近 代の 学 者の 代 表 的 見解 は次の 三説であ る。 彼 ら自身
の 言葉で以 下に示 そう
。 (A
)シュ タイン ケ ル ナーE
,Steinkellner
, ク ラ ッ サ ーH
.Krasser
説この
定義
の 問題はい まだ十 分に解
明されてい る とは考
え られ ない 。 この理 由のひ とつ は, ダル マ キ ー ル テ ィ の 記 述の 歴 史 的状 況や
背
景にある。つ ま り, 彼はディ グ ナ ー ガの 考 えだけ を踏 襲 した の で はな く, パ クシ ィ ラスヴ ァ ー ミン
Pak
$ilasvamiq
そ して お そ らくよ り多
くクマ ー リラKumarila
の 考えをも
取 り入れたの だが, そ
う
い っ た彼
の思
想的 負
債は, ダル マ キ ー ル ティ が その 陳述 で意
図 し た 目的や 暗示 につ い て 明確 な結 論 を下せ る ほ ど 明 ら か に な っ て い な い の で あ る5 )。 (B
)ビ ジ ュ レー ルV
.A
. vanBijlert
説
ダル マ キー ル テ ィ が そ れ らの 詩 節 を著わす 前に は, そ れ 以前の 如 何 な る認識 論
書
に も, 一般的
なプ ラマ ーナの定義
は 示さ れて い ない 。 それ故
, 『量評釈
』第
二章の
kk
.1
−7
は イン ド認識 論にお い て , きわ め てユ ニ ー ク な位
置 を 占め て い るのプ ラマ ー ナの 定 義にっ い て (木 村)
(
51)
で ある6 }。 (C
)フ ラン コEFranco
説こ の一節にお けるダル マ キー ル テ ィの 目的は, 認 識手段 の 一般
的
な 理 論 を発 展させ るこ とで は な く, む し ろ, 仏陀が唯 一 真の 認識 手段で あっ て, 自在 神や他の
常
住
な実体
は そう
で は ない , と論証す
ることで ある。 …もし , ダル マ キ ール
テ ィはプ ラマ ー ナに一般 的 定
義
を与
えるこ とを試みず
に, た だ仏陀
が プ ラマ ーナ である こ とを論 証せ ん とした, とい う私 の 主張が 正 しい とする な ら, 次の よ う
に仮
定す
るの は筋
が通 っ た こ とであろう
。す
な わ ち, 彼は 既成の あるい は 周知のプ ラマ ーナの
特性 を採
用 して,仏
陀が それ らの条
件 を充た して い る か どうか テ ス トし た と7)。 はあ くまで も慎 重で あ り, 強い て結論 を示 して い ない の で, こ こで は(B
) ・(C
)につ い て考 察 しよう
。まず, (
B
)は ダル マ キ ール テ ィ の 業績 を きわ めて高
く評価 す
る。 しか し, で指 摘 さ れて い るよ うに, ダル マ キール テ ィ以前に,すで に,プ ラマ ーナ と関
連付け て◎○・ (Y
)にっ い ての 言及 がある。 しかも
, 言及 した 人物
が ダル マ キ ール テ ィ に とっ て強 い 影 響力 を持
つ デ ィ グナー ガ と クマ ー リラで あ るこ とを考慮す
れ ば8} , (B
)は誤解 を
生 じやす
い 説であ ろう
。次に(
C
)につ い て考察
しよう
。 まず
「(X
)・(Y
)が既 成の もの で あ る 」 という
点 は, (B
) に対
する考察
か ら して妥
当とみて よい であ
ろう
。 しか し 厂 ◎O
・(Y
)は周知の もの であ る」とまで言い 切 れ る だ ろ うか 。筆
者は, そう
言い 切 っ て もさしつ か え ない と考
え てい る 。CX
)と(Y
)の内
容 を今少 し調べ て み よ う。 ◎○ 「欺か ない もの であるこ と 」 は, た とえば, ダル モ ッ タラDharmottara
(740
−800
)9 )に よ っ て, 次の よう
に説明 さ れ てい る。世間 (’
jig
rten,
10ka
)で は, 約 束 した もの (khas
blangs
pa
’i
don
)を獲 得 さ せ る人が欺か ない 人 (mi slu
ba
)である (『量決択注』Prama
’n. avinisicayat
z’kdi
,
p
、(5
),11
.3
−5
)
jig
rten nakhas
blangs
pa
’i
don
dang
phrad
par
byed
pa
mi sluba
yin
pa
こ の 説 明 か ら
す
れ ば, ◎O
は誰 に とっ て も理 解 しやすい 概 念であ り, 周知の もの とな り得
るであ
ろう
。 (Y
) 「未
知の 対象
を明 らか にする もの であるこ と」 は どう
だ ろう か。 こ れにつ い て は, フ ラン コ 氏自身
の指摘
があ
る。氏
は, 「多
くの イン ドの 諸 学 派は, 「認識 手 段 」 と しての プ ラマ ー ナ か ら記 憶 を除 外 す る傾 向にある」 ’°)旨指摘
(
52
) プ ラマ ー ナの定 義につ い て(
木村 ) して い る。 とすれ ば, (Y
)も周知の もの とな り得
るであ
ろう
。で は, (¢ 〉全体は妥 当な もの であろ
う
か。筆
者は, フ ラン コ 氏の見
解に魅
力 を感ず
る と共に不 満 も感 じる。 氏は , 何 故, 次の よう
に言わない の だ ろ うか, す なわ ち 「ダ ル マ キール テ ィは, 仏 陀だけが プ ラマ ーナであ り ,自
在神 等
は そう
ではない と論 証 しよう
とした。 彼は, その 土 台 とな るプ ラマ ーナの 一般 的定義
の 確立に意 を
尽 し, 自派他
派すべ て が認め るよ うな周 知の定義
を慎 重に 採用 し た」と。筆者
に は, こ の 方が は るか に筋
の 通 っ た もの に思わ れ る。 ジナJina
は, 次の よう
に言う
。一 般 的 定義
(
spyi ’i
mtshan nyid, samanyalaksa ロa)が な け れ ば, ヴェ ーダ (rig
byed
,veda )等がプラマ ーナ (
tshad
ma )で な く定義
を離れて い る もの で ある こ と は, 理解できない の で, プ ラマ ーナの 一般的定 義 を確立する た め に , 第 一章 〔= 「量成 就 」
章 〕11 )でそ れ を示 した。 ( 『 量 評 釈 荘 厳 註』
P
愬 解4
解 循 π 褫σ伽 舷π 〜繊鷹De
,4a4
)spyi ’
i
mtshan nyid med na / rig
byed
la
sogspa
tshad ma mayin
pa
mtshan nyiddang
bral
ba
can mi rtogspa
’i
phyir
tshad ma spyi ’i
mtshan nyid rab tu sgrub
pa
’i
phyir
le
’udang
Pos
te
de
bstan
pa
筆 者はこの ジナの
見
解 を至 当な もの だ と思 う。 今は, ジナ の 見解
に賛意
を表 して, 次の考 察に移ろう
。III
先に紹
介
した よう
に,kk
.1
−7
に対す
るすべ て の翻 訳にお い て, 厂 (イ)ひ○はk
.1
で 示 さ れ てい る , (ロ)6
りはk
.5
で示さ れてい る」 という
点は 一致 して い る 。 (イ)に は何
ら問
題は ない 。 しか し(ロ)には問題 な しと は思わ れない 。k
.5
は,実
は, ‘ §astram
mohavivartanam ajfiatarthapraka §o va ’とい うつ なが りの 文 章である。 これ を訳せ ば 「論
書
(§astra
)は迷 妄 (moha )を滅ぼす
もの , あるい は未 知の対象
を明 ら か にす
る もの である」となろう
。 この 場 合,6
りの 主語
は プ ラマ ーナでは な く , 論 書 であ る。 ビ ジュ レ ー ル 氏は , これ に着 目し た。 氏は言う
。文法 的に は , 「 論書は迷妄 を滅ぼすもの 」とい う陳 述 と続 く ように見 えるが, デ ーヴ
ェ ン ドラ ブ ッ ディ
Devendrabuddhi
(
630
−690
)や彼に続くすべ ての 註 釈者達に よって, 第二 の プ ラマ ーナの 一般 的 定義と し て解釈 さ れた iz )。 確か に,
k
.5
に対 する諸
註釈 書は, 一致 して , こ こ に第
二 の定義
が説
か れて い る, と解釈
する。 次に, それ らを列挙
してみよ
う
。プ ラマ ー ナの 定義につ い て (木 村 )
(
53
) (のデ ーヴ ェ ン ドラ ブ ッ デ ィか くして, その よ うに プ ラマ ーナの 定
義
「欺か ない もの で あるこ と」 とい う第一のもの が示 された の であ る。「あ るい は , 未 知の 対象を明 ら か に す るもの である」は別
な 第二 〔の 定 義〕で あ る。 ( 『量 評 釈 細 註』
P
愬 〃吻 仞 碗 褫 ¢加勿曲¢Che
,5bS
−6 )de
bas
nade
ltar
tshad
ma ’i
mtshan nyid mi sluba
gcig
cigbshad
do
/mi shesdon
gyi
gsal
byed
kyang
/gzhan
mtshan nyidgnyis
pa
yin
no(イ)シャー キャ ブ ッ デ イ
Sakyabuddhi
(660
−720
)こ れ 〔= ◎
O
〕は第一であ り、一方 これ 〔=60
〕は 別 な 第二種 類の もの で あ る, ( 『量評 釈註』
P
勿 吻 嬲 〃4
π’褫α嫌4Je ,79a6
)
’
di
nigcig
yin
Ia /
’di
nigzhan
rnamgnyis
pa
yin
no(ウ)プ ラジニ ャ ー カ ラグプ タ
Prajfiakaragupta
あるい は , こ れ 〔 =
60
〕が プ ラマ ー ナ の 定 義である。 (『量 評 釈 荘 厳 』Pm
吻 吻 仞 醗 露fea
−lafOkalra
,p
.30
,1
,3
)atha veda 卑
pramaOaiak
$a箪am体)ギェ ル ツ ァプ ; タル マ リン チ
ェ ン rGyal
tshab
Dar
ma rin chen (1364
−1432
)欺か ない もの であるこ と だ け で, プ ラマ ーナ の 定義は完 成 しない , なぜ な ら, 以 前
に未知の もの で あ る対 象 を明 ら か に するもの で ある か ら。 最 初 に あるい は新たに知
るこ とも, それの 定
義
の 一部 として述べ な けれ ば な らない か らで あるt3 > 。 ( 『量評 釈頌の 解 説, 解 脱 道不顛倒 明 説』
Tshad
ua rnam ’grel
gyi
tshig
le
’urbya
Pa
’i
rnambshad
Thar
瓰〃zPhyin
ci molog
Par
gsal
ba
,Cha
,
131a2
−3
)
mi slu
ba
tsam
gyistshad
ma ’i
mtshan nyid rdzogspa
mayin
te/
sngar ma shespa
’i
don
gyi
gsal
byed
de
/dang
po
’am/gsar
du
sheskyang
de
’i
mtshan nyidkyi
zurdu
smrosdgos
pa
’i
phyir /
(オ)ゲ ドゥ ン ドゥプ = ダライラマ ー世
dGe
’dun
grub
Dalai
Lama
I
(139H474
)欺かない 知だけに よっ て プ ラマ ー ナの 定 義は
完
成するの だ ろ うか。 〔完 成 〕 しない ,
な ぜ な ち, 以前に未知の もの である対象を明 ら か に す るこ とも,プ ラマ ーナの 定 義
の 一部と しな け れば な ら ないか らであ る13)。 (『量評釈善 説
』
Tshad
〃ma rnam ’grel
legs
Par
bshad
1
)a.2b5
6
)
mi slu
ba
’i
shes
pa
tsam
gyis tshad ma ’(
54
) プ ラマ ー ナの 定義につ い て (木村)zhe na
〆
mayin
te
/sngar ma shespa
’i
don
gyl
gsal
byed
kyang
tshad
ma ’i
mtshan nyidkyi
zurdu
dgos
pa’i
phyir /
以上の註釈書
に よ れ ば,k
.5
は プ ラマ ーナの 第二の 定義
(Y
)を説 くもの であ る 。 近代
の 諸 訳 もそ れ に従
っ て い るの で あろ う (ビ ジュ レ ー ル 氏 も結 局 デー ヴ ェ ン ドラ ブ ッデ ィの 註釈に従っ てい る)
。 しか し, こ こに奇
妙 な事実
が ある。kk
.1
・7
中
のk
.3
は 「世俗 的な もの (samvrta )は, 把 握 さ れた もの を把 握 す る (grhitagrahana ) の で 〔プ ラマ ー ナ とは〕認 め られ ない 」 ‘grhitagraha
ロan
neStam samvrtam ’とい
う
文章で ある。 こ こ に第
二の定義
が示 されてい る と考
えて も不 都 合は ない はず
であ
る。 だ が, 註釈者達
は そ う言 わ ない 。 何 故だ ろ うか。 も うひ とつ 注 目すべ き事 実 を挙
げ よ う。 ダル マeq
一一ル ティ は , 『量決 択 』 の 冒頭 で も 「こ の ふ たっ 〔=知 覚
と推 理〕に よっ て
対象
を判 断 し行
動す
るな ら 目的達 成 (don
bya
ba
, arthakriya )につ い て欺 くこ とが ない か らである」 (『量決択』
Prama
’n. aviniSicaya p .
30
,
11
.17
−18
) ‘ ’di
dag
gis
don
yongs
subcad
nas ’jug
pa
nadon
bya
ba
la
bslu
ba
medpa
’iphyir
ro ’ と述べ , プ ラマ ーナ を定義
してい る。 こ こ には, ◎○だけが示 されて い る。 (Y
)はk
.・20
の 註釈 部分に い たっ て よう
や く 「プ ラマ ー ナ とは未知の もの を対象
とす
るもの に他
な ち ない か ら である」 (『量決択』p
.60
,ll
.16
・17
) ‘tshad
ma ni ma rtogspa
’i
yul
canyin
pa
nyidkyi
phyir
te
’と言及 さ れ る。『量決 択 』 の 冒頭の
記
述が, プ ラマ ー ナの 定義
を示 すこ とを 目的とす
るも
の な らば , ()は そこ で同
時
に 示 され なけ ればな らない の で はない か。 何 故, ダル マ キ ー ル テ ィは そう
し な か っ た の だ ろう
か 。 さ らに , もう
ひ とつ参考
とな る記 述 を示そ う。 それは, テー ヴェ ン ド ラ ブ ッデ ィ のk
.1
に対
する註釈 中の 記 述である。 デ ー ヴェ ン ドラブ ッ デ ィは 「〔後 の 知ではな く〕最初 〔
の 知 〕こ そが プ ラマ ー ナで ある14)」 (『量 評 釈 細 註』Che
,2b6
) ‘dang
po
nyidtshad
mayin
te
’と述べ てい る。 こ の記
述 は6
りを念頭 にお い た ものの よ うに み え る。 σ
O
を註釈 する時点で, (Y
)は デ ー ヴ ェ ン ドラ ブッ デ ィの 意 識に すで に存在 してい るの である。 という
こ とは,Cx
)は (Y
)を含 意 して い るこ とになる。 も し そう
な らば, どうなる だ ろ うか。 実は,先
の 事 実の 奇 妙 さ は解 消 す る, なぜ な ら,k
.3
で佃 を示 す必要はない し , 『量決択
』 で00
(y
)を同時
に示 す 必要 もまたな くな る か らであ
る。 しか し, そう
な る と,k
.5
で こ と さ ら(
Y
)を第
二の定
義
として示 す こ と が, 逆に奇妙に み えて くる。 ダル マ キ ー ル テ ィ に は何か意
図が あっ たの だ ろ うか 。彼
の意
図は おそ ら く, 次の よ うな デ ー ヴ ェ ン ドラ ブ ッ デ ィの 註 釈 に表 われて い よプ ラマ ー ナの 定義につ い て (木村 )
(
55
) う。望ん だ通 りに , 達成 され るべ き 目的に 対し て欺 くこ と が な く, 未 知の 対象を明 らか
に す るの で プ ラマ ーナ に他ならない の で あ る。 その ように, 世 尊 も至 善
(
nges ・par
legs
pa
,nihsreyasa ) 等を特質とする人間の 目的(
skyebu
’i
don
,puruSartha
)に対して欺 くこ とが な く, 〔通常の〕 認 識者 (rtogs
pa
po
)に とっ て達 成 され るべ き人間の
R
的 とい う未 知 の もの を示 すの で プ ラマ ー ナに他な らない の で あ る。 (『量 評 釈 細 註』Che
,6b5
−7)ji
ltar
mngonpa
ピdod
pa
bzhin
du
bsgrub
par
bya
ba
’i
don
la
mi sluba
’i
phyir
dang
/mi shespa
’i
don
gsal
bar
byed
pa
’i
phyir
tshad
ma nyidyin
no/
de
ltar
ni
bcom
ldan
’das
kyang
ngespar
legs
pa
la
sogs pa ’i
mtshan nyid
gyi
skyebu
’idon
la
mi slubar
rndzad padang
/rtogspa
pos
skyebu
’i
don
bsgrub
parbya
ba
mi shespa
stonpar
mdzadpa
’i
phyir
tshad
ma nyid yin no た だ し◎O
に(Y
)が含 意
さ れ てい るこ とが周 知の こ とで あっ た な ら, デ ー ヴ ェ ン ドラ ッ プ デ ィの 註 釈 も説得
力を失う
。 事 実, コ ラム パ ; ソナ ム セ ン ゲGo
rampa
bSod
nams sengge
(1429
−1489
)は次の よ うに 言っ てい る。欺か ない 知だけによっ て , プ ラマ ーナの 定 義は完成してい るの で ある … 『量 評 釈 』
や 『量 決択』
(
rnam ’grel
nges)
の 諸典籍は, 欺か ない こ とを満た し てい るか , 満た して い ない か とい うこ と に基づ い て プ ラマ ーナ で あるな し を規 定 して い るよう
に みえる が, 「 新た に …
」 〔=
60
〕とい う語句を加えて い るよ うに はみ え ない から で ある15)。(『量 正理 の 宝 蔵の 難解個 所の 説 明
七部明 説s
Tshad
ma n ’gs
Pa
’i
gter
gyi
dka
’ba
’i
g
「nas rnamPar
bshad
Pa
sdebdun
rabgsal
,p
.58
/3
.3
〜
4
.2
)mi slu
ba
’i
shespa
tsam
gyis
tshad
ma ’i
mtshan nyidyongs
su rdzogspa
yin
te
...rnam ’
grel
ngeskyi
gzhung
rnamskyis
mi sluba
tshang
matshang
gi
sgonas
tshad
mayin
mingyi
rnambzhag
mdzadpar
snang gi gsardu
zhespa
’i
tshig
bsnan
pa
mi snangba
’i
phyir
コ ラム パ の見解 は , 合 理的
なも
の かも
しれ ない が , 一面 「量 成就
」章
の特
異性 をな お ざ りに して い る ように思わ れ る。 仏 陀がプ ラマ ーナ であ るこ とを論 証 する「量 成 就」章は, 扱っ て い る テー マ が テ ーマ だ けに, ダル マ キ ー ル テ ィ に とっ ても
一種 別
格
の存在
だ っ たはず
である16 )。 その土黜
を提示 するこ とは必 要 不可 欠 とな ろう
。筆
者には, (Y
)を不用 とする コ ラム パ の 見解
は ダル マ キー ル ティ の 意図
を反 映 して い るよ うに は 見 え ない。さて, コ ラム パ と異な り, プ ラジニ ャ ー カラグプ タは , 「 量成 就」章の 特
異
性 を 深 く意
識 し,00
をこ とさ ら提 示 するこ とにも
重大 な意
味 を認め た。 プ ラジニ ャー カ(
56
) プ ラマ ーナ の 定義につ い て (木村 ) ラグプ タは言う
。その うち, これ 〔 = (
Y
)〕 は 究 極 的 な プ ラマ ー ナの定義 (
paramarthikaprama
ロalaksana )であ り,一方, 前者 〔 = ◎
0
〕は , 世 俗 的 な (samvyaharika )〔プ ラマ ー ナの 〕〔定義で〕ある。 (『量 評 釈 荘 厳 』
p
.30
,1
.22
)tatra
paramarthikapram
盈nalak $aロarn etatpUrvarn
tu
samvyavaharikasya プ ラジニ ャ ー カ ラグプ タ は
, さ ら に言
う
。知 覚 を本質とす る世 尊 だ けが プ ラマ ー ナ である。 (
『量 評 釈 荘 厳
』
p
.32
,L5
)pratyakSarUpa
evabhagavan
pramanam
GO
= 究極
的 なプ ラマ ー ナ= 知覚
= 仏 陀 とす
る プ ラ ジニ ャ ー カ ラ グプ タの解
釈は見
事
な もの で ある。 しか し, 残 念なが ら彼の解 釈は, ダル マ キ ール テ ィの意
図 を根 本 的に逸 脱 してい る17)。 な ぜ な ら, 知覚
と同 一視 され た仏陀
は , もはや 論 証 不能
の 存 在 と化
してい るが, ダル マ キール ティは推
理 に よっ て仏陀 が プ ラマ ー ナであるこ とを論証
し よう
として い るか らで ある。 で は, なぜ そ う断 言で きるの か。答
えは,k
.5
にある。先
に,k
。5
は 「論 書は迷 妄 を滅
ぼす も
の , あるい は未
知の対 象 を
明 らか にす るもの である」 と読
め る, と指 摘 した。筆 者
よ りみ れ ば, こ の 論書
とは, 直接
的には, 「量成
就」章
を指 す
。 つ ま り, ダル マ キ ー ル テ ィは, ここ でG
のをプ ラ マ ーナの第
二の 定義
として提 示 する と と もに, その60
は 「量 成 就 」章 という
論書
を 通 じて理解 すべ き もの である, という
こ と を も示 した の で ある。 こ の 場合, (Y
) 「未 知の 対象
を明 らか にす
るも
の 」 の 「未知の対 象
」 と は, お そら く 「量 成就 」 章の メ イン テーマ 四聖諦 (catuhsatya )を意 味 する こ とに な ろう
18)(本 文p
.(55
)の デー ヴェ ン ドラブ ッ デ ィ註参照)。 さ らに,k
.5
を考 察 する上で, 次の 三点は忘
れ て はな らない 。 a)
四聖 諦 はダル マ キ ー ル テ ィ に よっ て推 理の 対 象 と さ れ てい るこ と 18〕 。b
)
言葉
に基づ く認 識 (§abda
) 〔= 論書〕
を ダル マ キール ティ が 推理 に含めて い る こ と19)。 c)
「量成 就 」 章のk
.1
で 「言葉に基づ く認識に も 〔 「欺か ない もの で あ るこ と」CX
)という
プ ラマ ーナの 定義
は適 用 さ れ る〕〔
諸者
の 〕意
図 を伝 え るか ら」 ‘ §abde
’pi
abhiprayanivedanat ’と述べ て, 言葉に基づ く認 識に確 固た る地 位 を与
えてい るこ と。 これ らの こ と を考え合わせ て, よう
や く, ダル マ キ ー ル テ ィ がk
.5
に込め た意 図はみ えて くるであ ろう
。 少 な くとも,k
.5
は単
に60
を
示 す もの で あ る, とす
る従
来の 翻 訳 は再 考 され る べ きである。以
上の 考察
に よっ て次の よう
な結論
が得
られ る。k
.5
は ,60
をプ ラマ ー ナの第
二 の定義
として示 す詩
節であ る。 た だし, 基本 的
プ ラマ ーナ の 定義に つ い て (木 村) (
57
)には,
60
は(X
)に含 意 される概 念 なの で, (Y
)をこ と さ ら提
示す
るこ とは, 「量
成就
」章 とい う
特 異
な章に お い て効 果 を発す
る 。k
,5
は,単
に プ ラマ ー ナの第
二 の定義
を示 す もの で は ない 。 論 書 = 「量 成 就 」章
を通
じて(Y
)が 理解
さ れ るべ きであ
る , という
こ とも示 す。 その 意 図は, 知 覚=仏
陀 とす る見 解 を斥 け, 推 理 〔 = 論 書 〕に 基づ い て , 「四聖 諦 という
未知の対象
を明 らか にする もの 」 (
Y
)= 仏 陀 を理 解 させ る点にある。さ て, こ れ で終止 ま と ま りの なか っ た槁 を
閉
じ よう
。 本槁 は, 徒 に問題 を混 乱さ せ た だけ なの かも
しれ ない が ,今後
, さらに考察
を重
ね, よ り明確
な結 論に到達
し たい と思う
2°} 。 註1
)本稿で は慣例に従っ て こ の呼称 を用い るが, こ の呼称に文 献 的裏 付 けがあるわ けで はない 。
RR
.Jackson
:The
Buddha
asPramaDabhata
,ノbumal
Of
lndian
PhilosoPhy
l6
,1988
,p
.334
& n.3
参照2
)M
.Hattori
:Dignaga
On
PercOption
,Hamard
,
1968
pp
.23
−29
参 照3
)本来なら ば プラマ ー ナに訳語 を与 え なけれ ばならない が, 統一的な訳語 を与えるの は困難なの で カ タカナ表記した。 なお書名ではすべ て量 と訳 し た。 註
2
)のHattori
本 n.
1
・3
,T
.J
.F
.Tillemans
:Persons
Of
/1
躍加 万顔Franz
Steiner
,1933
pp
. v−vi,D
.Jarkson
:The
Status
ofPrama
ロaDoctrine
According
to
Sa
skyapapdita
andOther
Tibetan
Mastors
(The
BuddhtSt
Foram
volIII
)Heritage
Pub
.1995
pp
.87
−88
.袴谷憲昭 「選別学派 と典拠学派の無表 論争 」 駒 沢短期大学研究紀要第
23
号H
.7
年pp
.46
−47
参照4
)被見し得た訳は次の通りである。木村俊 彦 『ダル マ キール テ ィ宗教哲学の原典研究』 木耳 社
S
.56pp
.32
・38
谷貞志 「逆 行する認 識論 と論 理」平 川顕古稀記念論集 『仏教 思想の 諸 問題』春 秋社
1985
pp
.534
−54
渡辺 重朗 「『量評釈 荘厳 』 に於 ける量の定義」成田山仏教 研 究 所紀 要
第一号
1976pp
.367
・370
稲 見正 浩 「『プ ラマ ーナ ・ヴ ァール ティカ』 プ ラマ ーナ シ ッ ディ章の 研 究(1)」 広島
大学文学部紀要
第
51
巻1992
pp
.59
−75
,「『プ ラマ ーナ ・ヴ ァール ティ カ』 プ ラマ ーナ シッ ディ章の 研究(
2
)」 同第
52
巻1993pp
.21
−41
S
.Katsura
:Dharmakirti
’sTheory
ofTruth
,ノ
bumal
Of
Jndian
Philosophy
12
,
1984
,pp
.219
(
58
) プ ラマ ー ナの 定義につ い て (木村 )
V
.A
. vanBijrert
:」Epistemology
andSpiritual
A
uthorily (WSTB
,20
)198g
PP
・
115
−168
EFranco
:The
Disconjunction
in
Pramairiavarttika
,Pram
…斑asiddhiChapter
5c
(Studies
in
the
Buddhist
Epistemological
Tradition
ed.by
.E
Steinkellner
)1991pp
.44
−45
CLindtner
:The
lnitial
Verses
ofthe
Pramanasiddhi
Chapter
in
thePramaD
avarttika ( 〃 )
pp
.155
−158
5
)E
.Steinkellner
&H
,Krasser
:1
)harmottaras
Exleurs
zurDefinition
gdiltiger
Erk
enntndS
in
Prama
’n. aviniSicaya ,Wien
,1989
p
.3
6
)註4
)一P
.XIX
7
)註4
)一 PP .47
−48
8
)註4
)の シュ タ イン ケル ナー ・クラッ サー本 n.4
,K
.Mimaki
:Le
re’
futation
bouddhi
−que
de
la
Permanence
des
choses etla
Preuve
de
la
momentane ’ite
’des
choses ,Paris
,1976pp
.88
・89
, n .302
,303
参照9
)ダル モ ッ タラの年 代につ い て は,H
.Krasser
:On
theRelationship
between
Dhar
−
mottara ,
§antarakSita
andKamala6ila
,Tibetan
Studies
,
Narita
1989
p
.157
参照10
)註3
)一p
.48
な おイン ド哲学に おけ る記憶の 問 題 に つ い て は,S
.Bhandare
:Memory
in
lndian
Epistemology
its
Nature
andStatus
,Sri
Satguru
1993
参 照11
)『量評釈』 の章の 順序に つ い て は異説が ある。これにつ い て は,
Th
.Stcherbatsky
:Buddhist
、Logic
vol .1pp
.38
−46
,拙稿「『量評釈 』 の 章の順序につ い て(
1
)」 駒 沢大学仏教学部論集
第
19
号S
.64
pp
.471
−462
参照12
)註3
)一P
.150
13
) チベ ッ ト仏教におけ るプラマ ー ナの 定義につ い て は,G
.Dreyfus
:Dharmakirti
’ sDefinition
ofPrama
ロa andits
Interpretaters
(StUdied
in
the
Buddhist
EPdS
−temological
Tradition
ed .by
E
.Steinkellner
)pp
.19
・51
に詳 しい 。タルマ リン チェン ・ゲ ドゥ ン ドゥプの 見解につ い て は,
p
.21
参 照。 また,タルマ リンチェ ン の見解につ いて は,
R
.R
.Jackson
:Is
Enlightment
Possible
,Snow
Lion
,1993
p
.184
参照なお本書は 厂量成就」 章に対する タル マ リンチェ ン 註の 英 訳である。
14
)この 前後の記述につ い て は , 稲 見正浩 「 仏教論理学派の真理論」渡辺 文麿 博士追悼記念 論集 『原始 仏教 と大乗 仏教 』 (下)1993
pp
.91
・92
参 照15
) 註13
)の ドレイフ ェ ス論文pp
.30
−33
参 照。サ キャ パ ン ディタ
Sa
skyapapdita
(1182
−1251
)著 『量正理の宝蔵』Tshad
ma 郷Pa
’i
gter
ee
八章で は, プ ラマ ー ナの定義は定義
の付 論 と して扱 わ れてい る。 それ故, チベ ッ ト仏教に おい ては,
定義
の理解 を前提 として プラマ ーナの
定義
を論じなければならプ ラマ ーナの 定
義
につ い て (木村 ) (59
)26
)
。 註4 )
の シュ タインケル ナー ・ク ラッ サー本 n.5
,
6
小 野 田俊 蔵「mtshan
nyid と mtshon
bya
に っ い て」 印仏研 vo1 .33
no .11984
pp
.92
−95
,L
W
.J
. vander
Kuijp
:Contributions
to
the
∠)evelopment (〜f
Tibetan
Buddhist
Epistemology
,Franz
Steiner
,1983
pp .59
・60
, pp .65
−69
参照16
)拙稿 「 チベ ッ ト仏教にお け る論 理 学の位 置付 け 」 『チベ ッ トの仏教と社会』春秋 社S
.61
pp
.365
・401
参照17
)桂 氏は註3
)一 の論 文に おい て 「実践的 観点 か らは, 人 間の 目的 を達 成 し, 対象にっい て新しい 情 報 を与 える とい う意味で知 覚 と推理 は 両 方とも , 欺か ない もの で真実で あ
る。 純粋 に 認識論的観 点か ら は, 知覚の み が欺か ない もの で あ り真実で ある」 (
p
,230
)と述べ てい る。ビジ ュ レール氏は これを批判し次の ように 言う 。 「この く実践的〉 とく純
粋に認識 論 的〉 とい
う
区別は , ダルマ キ ール テ ィ 自身によっ ても, デ ーヴ ェ ン ドラプ ッデ ィ に よっ て もな され なかっ た ように思 われる 。 … これ はプラジニ ャ ーカ ラグ プタによっ て行わ れ た もの である」
(
註3
)一n.
21
)18
)若原雄昭 「 アーガマ の価値と全知者の 存在証 明」 竜谷大学 仏教 研 究第
41
号1985pp
.59
・61
参照19
)秋元勝 「Sabdapramana
をめ ぐる問題」 印 仏研26
−2
S
.53
pp .679
・680
戸崎宏正 「ダル モーッ タ ラ とシャ ーンタラクシ ター 語に もとずく知をめ ぐっ て 一」 雲 井 昭 善博士古稀
記念論集 『仏教と異宗教 』
S
.61pp
.273
−283
参照 使 用テキス ト ディ グナーガ 『集量論 』 デル ゲ版No
.4204
ダル マ キール ティ「量 評釈 』 ed .
by
.Y
.Miyasaka
『 量 決択』 ed .
by
.T
.Vetter
ダル モ ッ タ ラ『量決択 註 』 ed .
by
.E
.Steinkellner
&H
.Krasser
ジナ『 量 評釈 荘 厳 註』 デル ゲ版
No
.4222
デーヴェ ン ドラブ ッ デ/ 『 量 評釈 細 註』 デル ゲ版NQ
.4217
シャーキャ ブッ デ ィ 『量 評釈 註 』 デル ゲ版No
.4220
プ ラジニ ャ ーカラ グプタ『量 評釈 荘 厳 』 ed ,
by
T
.R
.S
訌hkrityayana
(
60
)プ ラマ ー ナの 定義に つ い て (木村 ) タル マ リン チェ ン 『量評釈 頌の解 説 解脱道不顛倒明説 』 東北
No
.5450
ゲ ドウ ン ドウプ 『量評釈善 説』
Collected
Works
vol .5
コ フ ム ノ丶
『量正 理 の 宝蔵の難解個 所の 説明
七 部 明 説
』 サ キャ 派全集