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カント『平和論』におけるレトリカルな表現について

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Academic year: 2021

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(1)て. Ⅰ Ⅰ了 Ⅱ つ. ⅠⅠ Ⅰ. 現 衷. な. Ⅰ. Ⅰリア. カ リ. 叶泰 朽木 捌山. ケⅠ Ⅰ. 諸山. Ⅱ 中. 和 平. ト. ン. カ. 生. Das@Rheforische@bei@der@Friedensschrift@von@ImmanuC@Kant Yasuo@ YAMAMOTO もしも修辞的であ ることが、 イェスの美点であ るとするなら、 それはイェスが、. あ くまで修辞を. もって武器と 見なし、 これをふるって、 現実の変革のために 果敢な闘争を 試みたからであ った。. 1. '. 課題 カント ImmanuelK. ㎏ nt(1724-1804). は、 言. う. までもなくドイツ 観念論の最初の 代表者であ る。 観. 念論 Ideahismus は、 理想主義とも 訳される。 それは、 入野・鶴見によれば、 「精神的. (あ. るいは観念. 的 ) なものを 電 大なものと考え、 それがもとになって 世界がなりたっているという 思想」であ る 2。 それは、 所与の現実的・ 形而下的条件の 下に実現可能と 考えられたものだけを 目標とするのではな く、 末だ実現. (現実化 ). されていない、 つまり現在まで 不可能であ ったところのもの. 想 ) を目指す志向であ る、 といえるだろう。 カントは 、 言. う. (= 観念・ 理. までもなく、 この点で明快に 徹底して. いる。 F 理論と実践』の 冒頭で、 理論を定義して「実践的規則が、 あ る程度の普遍性をもっ 原理とし て 捉えられ、 かつ、 少なくない条件が、 たとえその実行に 必然的に影 笘を 及ぼすものであ っても捨 象される」ものだ、 と述べている '。 す な れ ち 、 理論は、 実現のための 条件のあ る部分を度覚視する。 そして、 当為が問題になる 場合は、 さらに徹底する。 「しかし、 義務の概念に 基づく理論の 場合、. こ. の義務という 概念が空虚な 理念なのではないか、 と心配する必要はない。 なぜなら、 たとえわれわ れの意志が、 この経験世界においてにれをすでに 完成したものと 考えるにせ. く途上にあ るものと考えるにせ. よ). ・観念 ). 、 なお完成に近づ. 何らかの実を 結ぶことが不可能だとしても、 義務とは、 意志の. 結果をめざすことではないだろうからであ 想. よ. る。」。 要するに、 問題は「われわれ. であ って「経験世界」における「意志の. 結果」 (成否,幸 不幸 ). において、 カントの思想が、 たんなる理想主義ではなく「先験哲学」と. ( 主観 ). の意志」. (理. ではない。 経験との関係. 呼ばれるのは、 この意味で. 正当であ る。 カントの著作に 見られる突出した 特徴は、 この「現実条件への 顧慮」を排斥する「理 想への純化」志向の 強さであ る。 概念を 、 彼は、 経験世界の垢から 治 め、 純粋な形で、 つまり影面 上 的な姿で描き 直す。 しかし、 経験は 、 多くの場合. (あ. るいは常に ) 、 概念の内容を 構成する。 彼の. 形而上志向と 先験哲学は、 普遍的ではあ るが、 その反面、 具体的内容の 乏しい抽象的形式を 結果す. ぬ Ⅲ 4歴 nlc ンe トr b. 01.

(2) 90. る。. 山本. 素生. しかしまた、 アプリオリな 形式に純粋化された 道徳法則は、 具体的なあ らゆる場合を 包括する. だろう。 経験世界から 脱出し、 これを超越した 視点からは、経験世界の全体を 見渡すことができる。 そこに認識主観の 超越性と結 び ついた体系性が 生まれてくる。 これは、 文化論的に言えば、 具体性. よりも普遍性を、 経験よりも一貫性を、 断片よりも体系を 求める傾向が 強くなければ 生まれてこな い 思想であ るといえるだろう。. 加藤周一が、 T 日本文学史序説 コで 描いた、 「おそらく下っても 四、 五世紀の頃 には成立していた であ ろう」日本の 土着的世界観は、 お ょそ カント的な理想主義とは 懸け離れたものであ る。 その「非 超越的な世界観」は「抽象的・. 理論的ではなく、 具体的・実際的な 思考への傾向、 包括的な体系に. ではなく、 個別的なものの 特殊性に注目する 習慣。 そこには超越的な 原理がない。 力ミ は全く世界 内存在であ り、 歴史的には神代がそのまま 人代に連続する。 しかもその よろずのカミ. )、. 力ミ. は無数にあ って似面. 互いに排除しない。 当然、 唯一の絶対者はあ りえない。 いかなる原理も 具体的で特. 殊な状況に超越しないから、 超越的な原理との 関連においてのみ 定義されるところの 普遍的な価値 も 成り立たない。」。. こうした土壌の 上に、 外来の超越的。 抽象的,包括的。 彼岸的な世界観が 移. 入されたとき、 何が起こるか。 「第一に、 外来の世界観がそのまま 受け入れられた 場合があ り、 第二 に 、 土着の世界観を 足場としての 拒絶反応があ った。 しかし第三に 、 多くの場合におこったことは、. 外来の思想の『日本化』であ る。」日本化とは、 しかし、 何だろうか。 それは「抽象的・ 理論的な面. の切り捨て、. 包括的な体系の 解体とその実際的な 特殊な領域への 還元、 超越的な原理の. がってまた彼岸的な 体系の此岸的な 再解釈、 体系の排他性の 緩和」であ. 本稿も、 この日本におけるカント て、. 宇. 永遠平和論. 加藤が指摘するような「日本化」が 起こり. コ. 排除、. した. る '。. ,受容史の コンテクストの 中に置かれる 試論とし. ぅる 可能性を承認する。. そればかりでなく、. 「包括的. な体系の解体とその 実際的な特殊な 領域への還元」ということにかんしては、 カント哲学の 体系的 全体でなく、 一 特殊面であ. る. ぽ. 平和論コを取り 上げて注目し 論ずること自体が、 この加藤のい. う. 「日. 本化」の現れとも 言えるだろうことを、 自覚している。 この 1795 年に発表されたカント 71 歳の著作 P 永遠平和のために. コ. を、 私は、 数年来、 カントの思想への 入門として、 また、 日本の思想風土の. 申で育った私たちが 自明の前提としている 世界観を相対化する 教材として、 学生演習の題材に. 取り. 上げてきた。 「平和」というテーマは、 今なお、 抽象的でっかみどころのない、 実用的に何の 役に立 っのか判然としない 哲学論議には 興味を示さない、 なり、 その意味で実に「土着日本的」 う気にさせる 普遍的な喚起 力 る. あ るい ほ 、. な 学生諸君にも、. その名に怖じ 気づいて近づこ うとし. こんな小さな 本なら開いてみようか、. を持っている。 それはまた、 昨秋来、. とい. 世界的な論議を 巻き起こしてい. 「テロリズム」ないし「 対 テロ戦争」の 背後にも、 低く、 しかし 執渤に 鳴り続けているテーマで. もあ るだろう。 私はここで、 私自身が「包括的な 体系の解体とその 実際的な特殊な 領域への還元」 という意味での「日本化」を 行っていることを 自覚しながら、 可能な限り「超越的な 原理の排除」 という意味での「日本化」については、 拒絶してみたい。. 「平和」という. 理念をカントがどのように. 「超越」「彼岸」として 把握しているか。 戦争を否定するカントの「排他性」の 意味をくみ取り、. 加藤周一 F 日本文学史序説』 1975 年 加藤 前掲上巻 2 7 頁。. 筑摩書房. こ. 上巻 26 頁。. Kant,ImmanueI; "ZumewigenFrieden.EinphilosophischerEntwurf,, 1795. WerkeinzehnB nden, Bd.g. 邦訳は以下の 3 種類を参照し、 引用はすべて 私 訳を用いた。 高坂 正額訳 T 永遠平和の尖に (岩波文 庫 1947年 ) 。 宇都宮芳明 訳圧 永遠平和のために (岩波文庫 1985年 ) 。 遠山義孝 訳 「永遠平和のために」 ( カ ント全集 14 歴史哲学論集 (2000年岩波書店 247∼ 315 頁 ) 。 凄. コ. コ. 刀. 「.

(3) カント『平和論. れを「緩和」することを. コ. 91. におけるレトリカル な 表現について. 自らに禁じておきたい。. なにより「平和」を「普遍的価値」として 受容し. たいと考えるからであ る。 しかし、 「超越性」「彼岸性」に 注目するとともに、 私は、 カントにおけるその 表現に惹かれる。. 「表現」とは、 つねに、. る。 どんなに「超越的」「彼岸的」「理想 的 」「形而上的」 な 理念であ っても、 表現されるとき、 それは、 形而下的な世界との 交渉に入る。 そ れは、 実際的・現実主義的な 読者を相手にする。 そこに、 理想主義者の 発言の逆説があ る。 理念を 超越化させるアイデアリストが、 その理念が実現することを 願い、 それを広く一般に 理解させよう 「現実世界」の 中で起こることであ. と努めるとき、 彼は非哲学者のリアリズムを 無視することはできない。 カントの時代に 自明であ っ た 具体的な現実は. であ ろう。. 、 多くの場合、 今日では自明なままではないし、 また重要であ るかどうかも 疑問 な 理念としての. 「超越的」. 平和は、 実現されていない、 此岸においては 永遠の課題であ. る. という意味では、 古びることがない。 また、 アイデアリズムとリアリズムの 緊張関係としての 表現 の問題は、 おそらく、 やはり古くて 新しい、 そして「平和論」よりもいっそ. う. 普遍的な、 しかし. 目. 立たない日常的な、 困難な課題であ る。. 2) 観念への純化 カントにとって、 そしておそらくわれわれにとっても、 特別な言葉があ る。. あ. らゆる経験の 垢 や. 汚れから清め、 理想、として、 理念として純化したいと 思。 ぅ ような大切な 言葉であ る。 老 カントは 、. この小著において、. 「平和」という. 理念を取り上げる。 その第一章冒頭から、 カントの、. 「現実への. 顧慮」を排斥し 理想へ 純ィヒ させようとする 徹底的な理想主義的・ 観念論的傾向を 見ることができる。. 「. い かなる平和条約も. 、 密かに、 あ らたな戦争の 原因となる要素を 留保したまま 結ばれるなら、. それはおよそ 平和の名に値しない」 というのは、 もしこれが許されるなら、 そんな講和はたんなる 停戦にすぎず、 敵対行為の延期 であ って、 平和とはいえないからであ る。 平和という語は、. あ. らゆる敵意に 終止符が打たれる. という意味であ り、 これに「永遠の」などという 形容を冠するのは 屋上屋を重ねるものであ っ て、 かえってあ らぬ疑念をまねきかれない。 あ らたな戦争につながる 原因があ るならば、 たと. えいま和を結ほうとする 当事者たち自身さえ 見過ごしているようなものにいたるまで、. ことご. とく、 この平和の成立によって 根絶されているはずであ る。 もっとも、 記録された公文書の 中 から、 畑 々たる詮索 眼は 、 それでも何かをほじくり 出してくることだろうが。. 「平和」という 語が. 、 日に日に、 「安全」ないし「安全保障」「国民の 生命財産を守ること」「防衛」. 等の語に置き 換えられてゆく た 理想主義に対して、. もあ りえよ. う. 8. よう. に見える現在の 状況からすれば、 ここで主張されている 並はずれ. 笑うべき「現実 は なれ」ないし「空論」という 語をもって応える 現実主義者. 。 。 カントは、 「平和」という 言葉を、 極端なまでに 純粋に、 「実現可能性を 顧慮しない」. ㎏ nt,a.a.o 。 S.196 。 たとえば、 「昭和 17 年 11 月 24 日」に行われ、 1943 年に中央公論社刊『世界史的立場と 日本』に収録された 名 高い座談会において、 出席者の一人は 、 「とにかく戦事といふものは 歴史と共に無限に 績 くものとしか 考へら れない。 戦争は歴史のディナミーク (動力 鼻 ) だ 、 戦争のなくなる 時なんてものは 賈誼的立場では 絶対考へら れない。 " だから戦争がなくなる 状態と ぃふ ものは考へられない。 のみならず 戦 寧は必要なものだ。 戦事は永 遠のものだ」と 発言している (鈴木威高 ) 。 これは、 「永遠平和論」に 対する「永久戦争論」と 言えるだろう。 8 K.

(4) 92. ll@ 水 素生. で 「理俳」へと. 超越化させてゆく。 それは私たちが 抱いていた「平和」の 観念が、. の 旨い換えに過ぎず、 精々のところ「安全」「安全保障」と 「平和」ではなかった 、. ここで、. 「珪ム上ユ. と. 「停戦」「休戦」. 呼ぶことができたとしても、 ほしとうは. 主張しているのであ る。. 旦Ⅰというところを 強調したのは、 観念論の基本的な 特徴を取り出すためであ. る。 観念論にとって「ほしと. う. 」. = 実在性 ( リ ア リティ ) は、 現実に存在する really-cxisting なも. のではない。 「休戦状態」ではない。 そのような現実に 実現できる程度の「平和」が、 ほしと 和ではない。. 「あ らゆる敵意に 終止符が打たれ」. た 状態、. 「あ らたな戦争にっながる. う. の平. 原因があ るなら. ば 、 たとえいま和を 結ほうとする 当事者たち自身さえ 見過ごしているようなものにいたるまで、. とごとく、 この平和条約の 成立によって 根絶されている」状態、 あ えてこれに「口永速. めコ. こ. などとい. 形容を冠するのは 屋上屋を軍ねるものであ って、 かえってあ らぬ疑念をまねきかれない」ような. う. 状態。 それは、 かつて - 度も実際に実現ずることはなかったし、 も. またこれから 実現が 吋能 であ ると. 考えにくい、 極端な理想状態、 すなわち叡知的な 意味での「平和」であ る。. な円から見れば、 「ほんとうに」実在するのは、. あ たりまえの常識的. 「休戦状態」しかない。 逆に、 実在するものだけが. 真であ り、 形而上的議論は 空論であ り、 理念というものは 空虚でしかないなら ぱ 、 この「休戦状態」 こそが「貫の」 平 相と呼ばれるべ きだ 、 ということになる。 リアリストは 言 はこのように 使. う. べきだ " カントのい. う. 「ほしと. う. 」. =. リ. う. 、 「真の」という 言葉. ア リティは、 空想に過ぎない. ---. しがし、 このように』 い 切ったあ と、 私たちは思わず 口 をつぐむだろう。 --- 瞬の沈黙のあ と、 は 「. うか ?. ・たしてそ. 」. という反響がこだましてくるだろう。 もし、 われわれが、 現実お義者の 言. に、 こうした「 -, 特約休戦」のできるだけ 長い持続を願うことしか 許されないなら. う. よ. う. ( なぜなら実証. ビ義 的にはこれこそが「真の 平和」なのだか 功 、 われわれ t,また、 「現実的」になり、 犠牲となる 他人. (. ! ) の運命を無視できる 損益として 計 L し 、 自分の懐に 入 る「国益」の 余沢を計算する 冷笑. 的 常識人にならざるを 得ないだろう。 それが い わゆる「健全なる 人間悟性」 Menschenverstand). (gesunder. であ る。. それは、 現実認識としては、 「自然状態はむしろ 戦争状態であ る」としたカントその 人にも、 共通するとも 言 え " 。 共" っ" 。 く. 。 i. しかし対論は、 この現実が理想と 同愛であ る (いわゆる「現実郎当為」 ) という主張につながって ゆ 、 平和のためにやるんだと 何時でも言はれてきた。 ・‥とにかくさ ういふ 風にいつの戦守で. -般に戦 寧は. t,、 戦 常にあ たってはこれは 平和㈹ための 戦争 だ 、 といふスローガンを 掲げる。 職 犠の理由を平和の 中に見出 さねばな rJぬ のが 従火 の 戦寧 理念だった。 一 侠 はそれをどうも 物足りないと 思ふ。 寧ろそれが従来の 戦守 理 念 の 弱鮎 ではなかったか。 そ ㈲意味で戦下そのものに 即自的な根 技 を見Ⅲ す 。 そして永遠の 戦 壌 … (笑 )J (296 こおいては、 理想、と 現実 こ 厳格で排他的な 区別を立て、 理想をあ ぐまでも超越的な 北極 から 硯実 世界を眺めド 々 、 論のパースペクティヴは、 その排他性を 緩和され、 完全に此岸 イヒさォⅠ -亡しまうだろう (万日 れ轄 ㈹享年 3 この議論に対して、 P 永遠平和論 コの 邦訳者高坂 正 額は 、 よ リ スマートな調停案を 提出している " 戟 午を永遠化するといふことは、 もしそれがただそれだけのことに 春 きるな r, 、 無論すぐ否定されなくてはならない 思想のや ぅ まれる。 永遠平和論が 空虚な理念であ るや う に 、 永遠 戦壌輪 t,人間㈹自然の 要求に対して 無理があ る。 だ ; といふ概念それ 自身を、 鈴木君の言はれた やぅ な 意味に 堪 へてしまうて、 そび)h で㈹…、 つまり従来の 職下形態、 車ろ戟 宇の観念を永遠化するのでなくして、 さう じやなくして、 戦守と平和といふ 用 ひに 封 枕したものを 止揚 し 、 いはば 創造的、 建設的 戦午 といふ新しい 理念を捉Ⅲしてみればど う だら ぅか。 少なくともその 方が今後の戦下の 形態を理解し 易くするわけだし、 過去 の戦 寧の歴山の考へ 方 として i,許されるのではないだら ぅか" 」高坂 「創造的、 建設的 戟牛 といふ新しい 理 念 l は 、 今日㈹「 対 テロリズム戦や」のような 終着点のない「今後の 寧の形態を理解し 易くする」よ う にも 読が ) るぴ) で、決して簡単にアクチュアリティを 失った過去の 亡霊だとして 片づけるわけにはいかない。 ともか く、 戦やと平和び ) 村力㈹排他性を 弱め、 両者を弁証法的に 止揚 し 、 「永遠平和論」を 平然と「空虚な 理念」 (!) と呼ぶことのできたこ㈲ 邦訳者の哲学的立場は 、 確かに、 原著者のそれと 原理的に対立していた。 これは、 加 藤㈲・Ⅱ本化 J 仮説を果 苦 きする実例の 一つといってよいだろう。 座談会「総力戦の 哲学」 高坂 正額 ・西谷 啓治 自 l@ 力・鈴木威高「世覚史的立場と 日本山 1943 年 中火公論社、 295 頁 以ド 、 298 頁 以ド 。 「. 「. ・.

(5) カント『平和論』におけるレトリカルな. 現実的な・地上的な. 存在としてのわれわれは、. 93. 表現について. 「休戦」「安全保障」を. 求める以外にない、. と言い. きる断言が、 しばしば不自然なほど 居丈高に、 威圧するように、 声高に発言されることには、 理由 があ る。 それは、. あ の「はたしてそ うか ?. ちがいない。 われわれの中には、. 」というかすかな 疑問の反響を. う. ち消そうとするからに. カントの理想主義に「ついてゆけない」と 感じる現実主義者が 住. んでい るだけでなく、 理想主義を虚妄と 決めっける現実主義者にもになりきれない 部分が、 やはり 存在している。 それが、 カントとともに 声をあ げる、 るはずがな い. ! 」と. 「ちが ぅ. 、 そんなものが、 ほんと. う. の平和であ. l0。 口に見える、 形而下的現実だけが 現実であ り、 それ以外のものは 一切虚妄. だと思いこんでいるわれわれの 常識に、 ほころびが生まれる。. 議論が、 今日、 ときに「無邪気すぎる」よ に聞こえる 200 年の経験が、 われわれの内なる 理想主義者の 息の根を止. このようなカントのあ まりにも理想的な. とすれば、 それは、 彼の死後に経過した. う. めるほど苛酷なものであ ったことの証拠なのかもしれない。 アウシュヴィッツとヒロシマを 含む二 世紀の後に、 なお、 彼を読み、 彼の理想主義を 継承するためには、 われわれは、 この間の経験によ って頑なになった 私たちの常識. (健全な人間悟性 ). その「健全さ」に 疑問をさしはさみ、. 「ほころび」を. に相応しい権 利を認めながら、 それでもなお、 発見する必要があ る。 むしろ、 その「ほころび」. を手がかりしなければ、 有意味な継承は 不 "f能 なのではないだろうか。 カントの. T 平和論』は、. 上述のように、 なによりも「平和」という 理念について、 徹底して理想、. 主義化を押し 進め、 通俗的国益主義、 現実主義、 実証主義の冷笑を. う. ち破ろ. ものは、 「敵対関係の 根絶」ではなく、 「敵の根絶」でしかないのだから。. ない。 この また「 法. T 平和論』において. う. とする。 後者の望む. しかし、 そればかりでは. 強調的に用いられる 理念は、 「平和」だけにはとどまらない。. ( ないし正義 ) 」「 法 概念」をやはり. 彼は、. 徹底的に形而上的に 強調する。. あ らゆる国家がこの 法 (正義 ) という概念に (少なくとも言葉の 上では ) 払っているこの 敬意は 、 やはり、 人間の内には、 たとえ今は眠っているにしても、 より大きな道徳的素質がたしかに 存. 在することを 物語っている。それは人間の 中の邪悪の原理を (人はこれの存在を 否定することは できない ) 、 いっのⅡにかは 克服するようになるだろう、 また他の人々にも 同じことを望むよう になるだろう。 なぜなら、 もしそうでなかったら、 この 法 a正義 ) という語が 、 たがいに子犬を 交えんとする 国家の口にのぼるはずがないではないか. 一. もしそれがあ のガリアの王が「 法. とは、 自然が強者に 与えた特権 であ る、 強者は弱者に 勝ち、 弱者は強者にしたが と. ぅ. ものなのだ」. うそぶい たよさに、 た だ法 というものを 瑚 弄するための 言葉でない、 とするなら ぱ " 。. この点において、 日本語と. いぅ. 言語は、 カントの意図を 十分に表現するためには 制約が多いとい. わなければならない。 Recht は、 法 」であ るとともに「権 利」であ り、 「正義、 道義、 正しさ」であ 「. Ⅱ. 「カントとともに」というのは、 少々書きすぎであ る。 このような箇所が 文字通り本文にあ るわけではない。 しかし、 カントの理俳に 対する対し方の 要約としては 間違っていないだろう。 たとえば、 有名なⅠ純粋理性 批 判コ 冒頭の文章であ る。 「人間の理性は、 あ る種の認敵にかんして 独特な運命をもっている。 そこで理性を 悩 ませている問いを、 理性は斥けることができない、 それらは理性自身の 本性によって 理性に課せられた 問いな のだから。 しかしそれらの 問いに、 答えることもできない、 問いが人間理性のあ らゆる能力を 超えた問いなの だから」カントは、 この「斥けることもできず 一答えることもできない」という 二つの椅子の 間で、 その「 ほ ころびⅠの部分で、 立ち往生している。 ここでは、 「理俳を斥けることができないⅡという 部分を敷桁してみ たっもりであ る。 I㎏ nt,ImmanueI; "KritikderreinenVernunft" ,WerkeinzehnBanden,Bd.3, S.l1. K t, "Zum e ㎡ gen Fheden.E 而 pl田 o ㏄p ㎡㏄her Ent Ⅱ㍗, 甘億 1795. Werke 田 zehn B狂釦 den, Bd.g, S.210. 荻 ㎝.

(6) 94. 山本. 表生. るが、 この含意を簡潔かっ 十分に反映することのできる 日本語の語彙は 存在しない。 法 概念」は 、 「. ヵント の議論の中で ヵギ となる重要な 概念であ るが、 日本語としては、 実に喚起力 め 乏しい言葉で あ る (学生演習の中で、. この語の意味の 広がりについて 想像できた学生はほとんどいなかった. )。. カ. ントの意図からすれば、 それは、 ① 実 定的 = 実証的な、 経験的 = 具体的な諸々の「法律」を 思い浮 かべた後に抽出される. 共通した性質、 であ るとともに、 ②実定法を超越した、. 「理俳」でもあ る。 難点は、. いう. 「概俳」という. 日本語にもあ る。. 絶対的な「正義」と. 「概俳」という. 語は、 加藤周一の. いわゆる「非超越的な 土着的世界観」の 文脈では「超越的理俳」を 意味することがほとんどないた. めに、 どうしても現実主義的に 、 上の①に当たる「実例に 共通する性質」の 意味に受け取られるの. が普通だろう。. 日本語の常識的な 理解からすれば、 法 概念」は、 現実に存在する really-existing 実 「. 定法の実例から 抽出された、 その意味では 非超越的な法律の. 律という概念」には、. 「権力者によって. 制定されるもの」「権. 的に含まれるに 違いない。 しかし、 カントが上のように 言. う. 最大公約数となるだろう。 そこで、 「法 力支配の道具」という ,性質が、不可避 とき、 法概念」は、 実際に実現された 「. ことはなく、 実現される条件が 整っているわけではなくとも、 実現される「べき」当為 Sollenとし ての、 「道義」ないし「正義」と 解しなければなるまい。 ここでは、 法 概念」は、 むしろ「正義の 「. 理念」と訳すべきだろう。 「正義」という. 言葉は、 しかし、 歴史上あ まりにも頻繁に 懇意的な使われ 方をし、. あ まりにも. 悲. 的な事態を引き 起こしてきた。 それはまた現在も 疑念を抱かせる 使用例を生み 続けており、 その 意味で非常に 問題的な概念であ る。 しかし、 日本語の「 法 」があ まりにも非超越的に 形而下的な実 定法だけしか 指さず、 Recht の超越的な側面を 意識していなければ、 カントの理想主義的な 議論を 追 う ことができなくなり、 カントを「日本化」してしまう 危険性があ る以上、. 「正義」という. 避けるべきではない。 法 」とは、 理想主義者に 言わせれば、 実現されるべき. ( ということはこれま. 「. で 実際に実現したことはない ) 「正義」であ. る。 そうした「正義」という. 訳語は. 概念に対して、 どんな現実. 主義者も 、 実は相当な敬意を 払っているのだ、 とカントは指摘する。 こんなふ. う. に不道徳な才知の 手管が蛇のように. 曲折するのも、. 自然状態における 戦争状態を脱. して人間たちの 間に平和状態をもたらすためだ、 というのであ るが、 これらすべてを 眺めてみ れば、 少なくとも分かることがあ る。 すな む ち、 人間たちは、 私的な関係においても、 公的な 関係においても、 法という概念から 逃れきることはできない。 そして政治というものをあ から さまに才知の 術策のみにもとづかせ、 公共の法という 概念にいかなる 形でも服することを 拒否. する. ( この拒否はとくに. 国際法の概念に 対して目立っが ) ことができるほど、 大胆にもなりき. れない。 むしろ人間は 、 法という概念そのものに、 ふさわしいあ らゆる尊敬を 払っているのだ、 ということであ る。 たとえ彼らが、 どんなに文を 舞わせ筆を曲げて、 実践の場面で 法から身を かわし、 猿滑な権 力に、 「一切の法の 源泉にして紐帯」であ るかのような 権 威をまと れ せてや る ぅ. としたとしても。 12. 「権力」が う. ( 「猿滑」であ. るか否かは措くとしても. ). 「一切の法. (実定法 ). の源泉」であ. る、. とい. 理解は 、 私たちが日常的に 用いている日本語の「 法 概念」から結果する 当然の理解であ ろう。 法 「. 律 」や「 捉 」「校則」等々は、 畢寛 、 制定する権 力をもっ人間が、 自分を含まない 集団に強制する 規.

(7) 95. カント『平和論』におけるレトリカル な 表現について. 別 にほかならない. 一. こうい. う. 理解が、 われわれに広く 共有されている。 ただ、 法 とはしょせん 「. そういうものだ」と 言い切ったあ と、 われわれは一瞬沈黙し、 その後、 やはりあ のこだまを聞くの ではないだろうか. 一. 「. い や、 そんなはずはな い. !. 」と. ( この「はず」はドイツ. 語の Sollen に 当. たるだろう ) 。 カントの「 法 概念」は、 このような反響を 分節化したものだ。 それは、 どんな人間で もこの「 法 概念」からは 逃れきることができない。 権 力の意を迎える 才人が実定国際法の 裏 を掻こ とし、 そして実際に 裏 を掻いたとしても、 彼らは、 やはり「正しさ」の 外観を装お. ぅ. う. とする。 彼. らもまた、 自らの行為が「正しい」ことを、 ないし「正しく 見える」ことを、 もとめている。 自己 の行為が「正しくな い 」と判断されることを 恐れている。 そこに見るべきなのは、 経験的・実証的・ 実 定的な「法律」に 違反することへの 恐れのなさ ( 二法 概念への侮蔑 ). ではなく、. 実際にそうした. 「法律」を平然と 破っていながら、 しかも「 (主観的には ) より高次の正義」を 実現しているかのよ な外観を装. う. ことに腐心する 曲学阿世の徒の 中にさえ潜んでいる「正義という 理念」への「尊敬」. う. であ る。 実現されるべき 当為としての「 法 」「正義」「権 利」は、 実現可能性という 条件を度覚視 (無 制約的に ). て. 妥当する、 あ の「ほんと. う. し. のリアリティ」をもっイデアなのであ る。 また、 次の、. 革命後のフランスを 念頭においた 介入批判の根底にも、 これら二つの「 法 」の概俳があ る。 またかりに、 悪しき国制が 革命を招き、 その激動の中から、 非合法なやり 方ではあ っても、 り. よ. 法に適った体制がかち 得られたというようなことがあ るとすれば、 そのとき、 その国民をふ. たた ぴ 旧体制にひき 戻すことは、 もはや許されぬことと 考えるべきであ ろう. 一. たとえ、 こ. の 革命の期間に 暴力ないし陰謀をもってこれに 関与した者は 内乱罪をもって 処罰するのが 至当 であ るとしても、 であ る。 ". 「非合法なやり. 方で」. (ungerechtm邦 ieWeise) というとき、 そこで理解されている「 法 」の概. 念には「実定法」が 含まれている も. ( 同時に、. 非暴力などの 超越的・「道義」的な「 法 」に対する違反. 含むが ) 。 しかし「非合法」なやり 方によって実現された「より 法に適った体制」. gesetzm. 荏伍 gereVerEassung)というとき、. (eine. そこで理解されている「 法 」は、 やはり少しく 異なって. いる。 それは、 これまでの体制において 実定的であ ったことのない、 実現されたことのない「正義」 に適う体制、 という意味であ る。 だからこそ、 この体制を破壊し、 旧体制に引き 戻すことは許され な い ( 二 不法 ) る。. と考えられるのであ る。 「暴力」や「陰謀」は、 しかし、 やはりこの「正義」に 反す. ゆえに、 これを犯した 者は、 やはり裁かれるのが「至当」. (mitRecht. 正義 ) だ 、 ということに. なる。 暴力をもって 革命を成功させた 者は、 いま、 権 力を持っているだろう。 この箇所は、 明確に、 法は権 力の恐意の表現ではなく、 その上に立つものであ ることを主張している。. 「平和」を、 カントは. ( ホップ ス. に倣って ) 「法的状態」とも 呼んでいる。 「法的状態」に 対比さ. れる「自然状態」は 、 「むしろ戦争状態であ る」と言われる。 すな む ちいわゆる「一治一部」であ 自然状態に現れる「停戦」. る。. 二 「一治」とは 質的に異なる「平和」は、 それゆえ、 自然状態から 質的. に 断絶した形で「 づ くり出さなければならない」。. 人間たちが隣り 合せに生活するとき、 平和な状態は 決して自然な 状態 (statusnaturalis)ではな Kant,a.a.o., S.237f. S.233f.. 血nt,a.a.o,,.

(8) 96. 山本. 恭生. い 。 自然な状態はむしろ、 戦争状態であ る。 す な れ ち 、 たとえっねに 敵対行為が発生している. わけではなくとも、 敵対行為の影に 不断に脅かされている 状態であ る。 す な れ ち 平和とは、 づ くり出さなければならないものなのであ る " 。. 「平和」は. 、 人がつくり出すべき 作為的状態であ る。 作為であ るという意味で、 それは、 政治的. であ る。 それが政治的であ るかぎり、 カントは、 地上のいかなる 者にもまして 現実主義者であ. ると. ころの 権 プ J との関係の中に 入って ゆ かざるを得ない。. 3) 現実への降下 カントといえども、 天空の叡知界で 議論しているわけではない。 彼ももちろんこの 地上の住人で あ り、 地上の読者に 向かって語っている。 たとえカントが 、 図らずも告白したよ. う. に、 現実の地上. には友をもたず、 「わが頭上なる 星辰の天」と「わが 内なる道徳の 法」のみを 友 とする孤独な 人であ っ たとしても " 、 なお読者を説得しようとしているのであ. の ) 学者だけではなく、 まずは、 現実的な国王・. る。 彼の相手は、 理想論の通じる. ( はず. 大臣・政治家たちであ る。 ここに、 論理が論理と. して、 理想が理想、としてストレートに 表出されてよい 抽象的議論とは 異なる政治的議論の 生臭さが あ る。. この生臭い現実に 踏み込み、 具体化の作業に 踏み出すとき、 カントは「行為の 結果を顧慮し. ない」ただの 理想家ではなく、 発言が結果を 生むことを望む「理論的な 政治家」 16 r道徳的政治家」 , 7 として振る舞わねばならない。 理想主義の論敵は、 現実論者であ るが、 その背後には、 権 力があ る 。 そして、 そこにカントのジレンマもあ る。. まず第一にあ る社会の成員が はあ らゆる成員が と づき、. (人間として ). ( 臣民として ). 自由であ るという自由の 原理にのっとり、 第二に. ただ一つの、 また共同の立法に 服するという 従属の原理にも. さらに第 - には、 すべての成員が. にもとづ い て立てられる 法体制、 一. ( 国家の公民として ). 平等であ るという平等の 原理. かかる体制こそ、 かの根源的な 契約の理念から 発現し、. 一国のあ らゆる法的立法行為が 基づかなければならない 唯一の法体制であ ろう、 一. それはす. が ねち、 共和制であ る 18。. このように、 戦 さの絶えることのない「自然状態」を 脱して「 づ くり出そ 」とする「平和」、 す な れ ち 「法的状態」は、 (理想主義的な ) 「自由」と「平等」だけでは 成立しない。 法には、 「共同の立法に 服する」という「従属の 原理」が必要なのであ る。 そしてこの「服従」が 成立するためには、 「強制 力」としての「権 力」が、 現実の場では、 必要になるⅣ。 平和を論じて 読者を説得しょうとする 以 う. l4 Kant,a.a.o.,. ". S.203.. 繁くまた長くなるに つ れ 、 つねに新たな、 いよいよ高まる 感嘆と畏敬とをもって 心を満た 二 つ あ る。 すな む ち、 わが頭上なる 星辰の天と、 わが内なる道徳の 法であ る。 Kant, Immanuel; "Kritikderpraktischen Vernunft" ,Werke in zehn B 牡 nden,Bd.6, S.300. 16K㎏ nt,Immanuel; "Zum ewigen Frieden.Ein phil08ophischer Entwtlr㍗, 1795. Werke in zehn B 荻 nden, 「思いを致すこと. してくれるものが、. 」. Bd.g, S. 195. l7 Kant,a.a.o.,S.233 は lGnt 田. 月は・0 。S.204. 「服従原理」と「自由原理」とが. 調停している。. 衝突するこの 難点を、 理想主義者としてのカントは 、 二つの方法によって. すな ね ち、 まず、 前述のように①服従が 生じるための 条件を「権 力による強制」に 求めず、 法 (義 「私が同 務 ) に対する純粋な 尊敬こそが法への 服従の動機であ る、 とする方法。 そして、 ・②自由を定義して、.

(9) カント F 平和論. 97. におけるレトリカル な 表現について. 団. 態 状. 法的. は、. カ. 権. も. て つ. ⅠⅠ. と. ト. ン カ. Ⅴ @. な き. で は. と. こ る. 虹、 、、,. す 視. 要あ ぅで. 力る. は実 トを ン行 力移. たしかに、 すべての個々人が 自由の原理に 基づいた法的体制の 下に暮したいと 願っていたとし ても. ( 万人の個々別々の. この状態にいたろ. 意志の一致 ) 、 それだけではまだ 不十分であ って、 万人が共にこぞって. うと 望むようにならなければならない. (意志を合一させた. 協同的 統 Ⅱ。 この. 困難な課題を 解くことが、 市民社会を一つのまとまりあ る全体として 成立させるためには 必要 であ る。 そして、 要するに、 なお万人が個々バラバラに 抱いている願望の 違いをのりこえて、 一つの協同的意志を 生み出すためには ひが. 一. それは万人のうちの 誰も一人でできることではな. 一 、 そこに、 さらにこれを 合一させる要因が 一枚加わってこなければならない。. して、 かの理念を実行に 移そうとするときには. る仕方として、 権 力に. よ. (す なむち実践の. かく. 場では ) 、 法的状態を開始させ. る外には期待することができない。 つまり権 力の強制力を 背景にして、. 事後的に公共の 法を確立させるという 形であ る 2。。. しかし、 しかしこの容認には、 もっとも、 そうなると、. ただちにその 弊害の指摘が 続いている。. ( 立法者の高潔なモラルに. 期待して、 彼は必ずや、 野人の群れを 一個の. 国民にまとめ 終えた後は、 この国民の側に、 その共同の意志を 通じて法的体制をつくってゆく. 作業を任せるだろう、 と仮定することはできないから. ). 現実の経験の 場で、 かの理念. ち理論 ) から大きく逸脱してゆくであ ろうことは、 すでに予測できるといえよ. う. (す なむ. "。. 法 における従属の 原理から、 必要悪としての 権 力を認めたとしても、 権 力に よ る自由原理と 平等. 原理の侵害はゆるされない。 秩序構築のための 権 力は容認しても、 その権 力が秩序破壊. (戦争 ). を. 起こすのをどうやって 防ぐか。 カントの平和論の 中心的論点は、 権 力の問題であ る。 しかし、 権 力は、 批判するものの 生殺与奪の権 を握る権 力でもあ る。 権 力の下で権 力に抵抗し、. 批判する場合、 問題は「何を」表現するかであ ると同時に、 「いかに」表現するか、. ということにな. らざるを得ない。 ここで、 純粋な論理 家 、 徹底した理想家は、 修辞を駆使する 文学者になる。 カン トはブ一 テルヴェク. (Bouterwek)の「膝を焼むるに 力 過ぎれば即ち 破る。 徒 らに大を望む 者は、 得. るを望まざる 者なり」という 言葉を引用している 22。 ヵント はここで「 徒 らに大を望む」理想主義. 一時、 中止する。 平和の実現を、 「得るを望む」からであ を挙げて論じてゆこう。. 者であ ることを、. る。 以下にその著しい 例. a) 風刺 彼はまず、 言論の自由を 確保しなければならない。 シェークスピアの 史劇が証言するように、 か つては宮廷に 阿呆がいて、 権 力者に、 無害な軽口を 装った 辛 らつな批評を 浴びせていたよ. a.a.o.,S.204f. 意を与えることのできた 血 lmerkung. 外的法律以外には、 いかなる法律にも. 20 I㎏ nt,a.a.o 。 S.230f. 21@ ebenda. 22 Kant,a,a.o.,. S.224. 従わない権 限」と解する 方法であ. う. に、 カ. る。 l㎏ nt,.

(10) 98. 山本. ント. 表土. は冒頭で、 自らを道化になぞらえる。. (ZumewigenFrieden). 永遠平和のために. この皮肉な題辞. ( 「永遠平和のために」. ). は、 オランダのさる 旗亭主人がその 看板に掲げ、. あわ. せて墓場の絵を 配したというものだが、 これはそもそも 人類のすべてに 向けたことはなのか、 あ るいは、. およそ 敬 さをし飽きるということのない 国家元首の方々をとくに 目しているのか、. はたまた、 ただただ甘 い 夢に. 点は、 ひとまず措こ. う. つ つ を抜かす哲学者連中だけを 課したものなのだろうか。 この. 。 しかし一点だけ、 本稿の筆者としては 留保しておきたりことがあ る。. う. 実際に国事に 当たる政治家諸公は、 理論をもっぱらとする 政論家に対して、. 自ら 侍 むところ大. なるあ まり、 ややもすればこれを 書生にすぎぬと 軽んじ、 空漠たる理念以外の 武器を持たぬ 書 生輩 にはしょせん、 現実の経験則を 何より重んずる 国家を危うくするようなマネはできめ、 柱 戯の ピンを一度に 十一本ふっ飛ばそ. う. 丸. が何をしょうが 勝手にやらせておけばよい、 現実を熟. 知 する政治家たる 者は超然として い てよ い のだ、 と考えておられる。 だとすれば賢明なる 諸公 はまた、 万一かの書生 輩 と意見を異にする 場合でも、 むろん首尾一貫節を 曲げることなく、 無 邪気に分けにされた 相手の意見の 背後に国家を 危うくする脅威をかぎとるようなふるまいはけ っしてなさるまい. 一. かくの如きクラクスラ ,サルヴァトリア. (. Clausu 肱 salvato「 ia 留保. 条款 ) を付することにより、 本稿の筆者は、 最上の形で、 いかなる悪意の 解釈に対しても、. 明. 文をもってわが 身が守られていることを 確認したいと 思うのであ る " 。. この序言で、 彼は自らを「ただただ 甘い夢に. う. つつを抜かす 哲学者」と呼び、 「理論をもっぱら. と. する政論家」「書生」と 呼んで、 自分が実際の 政治の実務から 遠 い 素人であ り、 いわば「宮廷阿呆」 であ ることを宣言する。 しかし、 これは、 実際の政治実務への 野心の断俳であ るという 山 真男が「在家仏教」に. よ. りは、 丸. 楡 えた、 「素人」が関与する 政治の在り方、 すか わち 民主主義の 、 一つの重. 要な柱であ る「言論の自由」を 確保しょうとしている、 と考えるべきだろう。 彼は、 この「クラウ スラ 。 サルヴァトリア」を 付した上で「政論家」として 政治に関与することを 宣言する。 彼は 、 何. より、 現実主義を標 傍 する権 力者から見れば「丸柱 戯の ピンを一度に 十一本ふっ飛ばす」ような 議 論 を行. う. ための自由を 求める。. この風刺的文体をもちいて、 鰯め 手から、. 「空漠たる理俳」を 語る者. を権 力者の弾圧から「あ らかじめ守る」ことを 目指すのであ る。. 23㎏ K nt,a.a.o.,S,195,. 語とは異なり、. この「皮肉」には、 いささか注釈がいるかもしれない。. 「平安」という 意味をあ. わせもっこと、 また、. まず「平和」. Fniedenが日本. 「永遠」 ewig が「にの世での ) 永続」を意味す. るだけでなく、 ( この世の 、 移ろいゆく ) 時間」と対立する「 (あ の世の 、 変わらない ) 永遠」を意味すると ころから、 Zume ㎡ genFniedenは、 「永遠平和のために」であ ると同時に、 「安らかに眠りたまえ」という 意 味にもなり、 墓碑銘にもふさわしい 言葉であ ることを知っている 必要があ る。 また、 前置詞 zu は、 ふつ ぅ 英 「. 語のぬと同様に「方向」を 表すが、 古い用法で、 屋号に多く残っていること も、. 「所在・位置」を. 表すことがあ. り、 これが転じて 旅館などの. (Gasthaus"zumrotenochsen"料理店「 赤 牛車」など [小学館独和大辞典. このユーモアを 理解する前提になるだろう。. ここで「転じて」というのは、. 料亭・旅館の 屋号の場合、. コ こ. の「所在・位置」の 前置詞のあ とに実在の地名が 措かれることの 方がむしろまれで、 T 独和大辞典 コめ 用例の よ に、 動物等が措かれることのほうが 多いようであ る。 その意味で「平和 軒 」という屋号も「山猫 軒 」のよ うにさほど突飛なものではなかったと 考えられる。 しかし、 この屋号を、 墓地を描いた 看板に掲げたところに、 う. 「オランダのさる 旗亭主人」の 辛辣なユーモアがあ る。 カントはまずその 風刺の矛先がどこに 向けられている. のかを問い、 人類全体への 警告という解釈と、 自分を含む「哲学者」の 甘さへの批判だとする 解釈の間に挟む 形で、 政治権 力者への批判であ る可能性をさりげなく 指摘し、 政治権 力者への擬装された 直言であ る本文への 導入としている。.

(11) 99. カント F 平和論』におけるレトリカル な 表現について. b) 構成. 著作の構成にも、 権 力への配慮は 働く。 い. う. 「永遠の平和条約」に 付された「秘密条項」. う. と. のは、 奇怪に響くし、 小著とはいえ、 決して読みやすくはないこの 作品口を辛抱しながら 読み進. んだ読者には、 この末尾に現れる「秘密条項」は、 ぃ。. (補説二 ). あ るいは印象薄いものになっているかもしれな. しかし、 この条項が主張するのは、 「哲学者に耳を 傾けよ」ということであ り、 今日の言葉でい 「言論の自由」の 保証を求めたものであ ることは、 心して読むなら ぱ 、 明白であ る。 この意味で、. この「補説 二 」は、 巻頭の「 序 」に対応する。. 国内の、 国際の、 世界市民の法を 自由に議論するこ とが許されない 状況では、 自然状態からの 脱却は、 平和の実現は、 端的に不可能であ る。 「要するに 国家は哲学者たちに、 暗黙のうちに (つまり国家としてはそこを 秘密にするわけであ る ) 助言する よ 促せばよい。 言い換えると、 国家が彼らに、 自由にかっ公然と、 戦争遂行や平和の 樹立のため う. の 普遍的な格率について、. 議論することを 許すのであ. ( けだし彼らは、. る. 禁じられることさえなけ. れば、 自発的にそれを 議論するであ ろうから ) 。 」,。 。. この条項を、. 秘密条項としてたてた. 配慮は、. 然がしからしめた 構成であ るというよりは、 中身を詰め込む 構成をとることによって、. 「. おそらく論理 家 としてのカントではない。 事理の必. 序 」と「補説 二 」とを挟み合わせ、 その中に言がたい. 修辞表カントは、 「最上の形で、 いかなる悪意の 解釈に対. しても、 明文をもってわが 身が守られていることを 確認したい」と 考えたのであ ろう。. c) 妥協 権 力との関係において、 もっともあ りふれた現象は、 妥協であ り、 転向であ る。 自らの原則を 曲. げ 、 権 力の意を迎える。 しかし「舷を 焼 か るに 力 過ぎれば即ち 破る。 徒 らに大を望む 者は、 得るを 望まざる者なり」を 掲げた以上、 ヵント は理想主義に 徹底できない。 徒 らに大を望む」ことより、 「. 何らかの結果を 得たい、 実現の足がかりを 得たい、. と思. う. とき、 力 を入れ過ぎない」ための 妥協が 「. 生まれる可能性があ る。 私は、 以下の例が妥協であ り、 ヵ ント自身の原則に 対する裏 切りであ ると 糾弾するものではない。 しかし、 妥協を含む権 力への対し方の 間 題 として考えたとき、 ここでこう した事柄が論じられたこと、 こうい. う. 論じられ方をした 理由が、 より理解しやすくなるのではない. かと考える。 以上に述べた 諸条項. ( 二 永遠平和に関する. 6 つの予備条項引用者 注 ) は、 客観的に見れば、. すか わち 権 力者の意図を 規制するものとしては、 すべて禁止法 (legesprohibitivae) であ る。. ただ、. そのうちのあ るものは、 情状の如何にかかわらず 適用される厳格な 法 (legeBstrictae). であ り、 ただちに停止廃絶することを 要求するものであ る 対しその他の 条項は も、. (第. (第 1. 、 第 5 、 第 6 項 ) が、 これに. 2 、 第 3 、 第 4 項 ) 、 決して法規則の 例外だというわけではないけれど. その執行にかんするかぎり、 主観の側から 見れば、 個々の事情に 応じて裁量権 を拡げるも. の (legeslatae寛容な法 ) であ り、 また実行を延期することを 許すものとなっている。 しかし. むろん許すといっても、 決して本来の 目的を見失ってはならないのであ って、 すな ね ちたとえ ば第 2 項にしたがい、 奪われた自由をあ る国にふたたび 回復させようとするとき、 その実行の 延期が許されるのは、 決してそれを 永遠の無期延期にするため 束に adcalendas. めではなく、. あ. 穿 aecas. と言い足したよ. う. ( アウグストク. ス がしばしば約. に ) 、 すなむち回復させずに 済ますことを 許すた. くまでもただ 実行を急ぐあ まり本来の意図を 損なうことがないように 猶予する.

(12) 100. 山本. 恭生. のが目的なのであ る。なぜならこの 第 2 項の場合、 禁じているのは 国家取得の方法にとどまり、. るが、 所有の現状まではこの 禁止はおよばないからであ る。 現 在の所有関係は、 たしかに今後は 要求される法的正当性をもってはいないが、 しかし (取得し ると誤り考えられた ) その時点では、 当時一般的であ った見解にのっとって、 すべての国々 これを今後は 無効とするのであ. ぅ. から適法であ ると見なされていたのであ. る 25。. 予備条項の第二 (継承。交換・買収。贈与による国家併合の 禁止 ) 、 第三 (常備軍の廃止 ) 第四 (戦 争目的の国債発行の 禁止 ) にかんして、 カントはこれを「厳格な 法」から覚し、 「寛容な法」に 分類. する。. 「権力者の意図を. 規制」しょうとしながら、. 「猶予」しょうとするのであ. る。. これは「妥協」. ではないか、 という疑問を、 理想主義者が 投げかけるのは 自然であ る。 法 」とは、 「せよ」と命令 「. するか、. あ. るいは「するな」と 禁止するか、 いずれかであ って、 「猶予」「許可」などという 中途半. 端なものではないはずだ。 これは読者の 疑問であ る前に、 カント自身が 弁解の必要を 感じた部分で あ. る。 彼は、 このあ とに、 長大な注記を 施している。 この注記の存在とその 量が、 カント本人の 不. 徹底を暴露しているのではないだろうか。 彼はここで徹底した 理想主義者ではなく、 徒 らに大を望 「. む 」ことを断俳した 現実主義者として 語っている。 この難問を、 カントは、 時間の契機を 導入する ことによって 切り抜けようとする。 法 というものを 観念的に「永遠の 相の下に」捉えるのではなく、 歴史の中で形成され、 そのほんと ここでい. 得 方法. ものは、. う. う. の概念が実現されてゆく 過程にあ るものとして 捉えるのであ る。. 許容の法を見てみると、 まず前提となる 禁止は、 ただ将来に向けて、. ( たとえば相続 ). あ る権 利の取. だけを禁じているのであ り、 また禁止から 解放、 すなわち許容される. 所有の現状だけに. 限定されている。. よってこの現在の 所有関係は、 自然の状態を 脱し. て市民の状態へ 移り行こうとする 段階にあ っては、 たしかに不法ではあ るけれども、 なお 是と される所有. (す な れ ち. possessioputativa 誤想による占有 ) であ り、 自然法にそなわる 許容の. 法 により、 さらに将来も 継続することが 可能なのであ る。 ただしこの誤想占有も、 それがひと たび誤った考えによる 不法な所有だということが 認識されたなら ぱ 、 自然状態にあ っても、 様の取得方法が 将来の市民状態で. (す な む ちあ. の移り行きが 実現したのちには. ). 同. 禁じられるよ. さに、 ただちに禁じられる。 かかる誤想による 取得行為が、 もし市民状態において 起こるよ. う. なことがあ れば、 占有継続を正当化するいかなる 権 限も認められることはあ るまい。 もし継続 するとすれば、 それは侵害行為にほかならず、 その不法性が 明らかになった 時点で、 占有は即 刻 停止されなければならないだろう 26。. ここで、 不法な占有. 一. たとえば侵略や 植民地化. 一. の現状が容認法れていることに 不満を. 抱くのは、 今日の眼からすれば、 たやすい。 しかし、 カントの認識は. ( そしてわれわれの. 認識も ) 、. 現状が「自然の 状態を脱して 市民の状態へ 移り行こうとする」 転形期 であ る、 というものであ った。 これまでの「自然状態」ないし「無法状態」から「法的状態」. へ 移行しようとするさいに、 断絶が. あ るのは、 当然のことであ ると考えられる。 問題なのはむしろ、 カントの求めている 原状の回復や. 24 Kant,a.a.o 25 Kant,a. 5.227.. 患 0. 26 Kant,a.a.o. ・. S.201. S.20lf.

(13) カント. T 平和論. におけるレトリカル な 表現について. コ. 101. 「占有の即刻停止」等が「謝罪」や「処罰」を 含んでいない 点ではないだろうか。 す な れ ち 、 これ が権 力者に向けられた 要求であ るという条件によって、 不当に「寛容」なものになっているのでは. ないか、 という疑いであ る。 さきに引いたよ. う. に、 革命を暴力や 陰謀をもって 実現した者. 後の権 力者、 すなわちカントの 住むドイッにはまだ 存在しない ). に対して、 カントが、. ( 三革命. その暴力・. 陰謀にかんして 裁かれ、 処罰されなければならない、 と断じていた 主張に比べたとき、 ここでは、 あ る種の自己規制が 働いている、. と推測してもよいと 思われる。. また私は、 現代の読者を 困惑させる、 カントの「民主主義」に 対する非難中傷もまた、 この「 妥 協 」という観点で 理解するべきだろうと. 考えている。 本文を見る限り、. カントの「デモクラシー」. の評価は一義的で、 暖味 なところがない。. 三つの国家形態のうちデモクラシーは、. この語を本来的に 解するならば、 必然的に専制主義と. なる。 なぜならそれが 設置するのはただ 一つ、 執行権 力であ り、 そこでは全員が、 あ る一人. (す. なむち他に同調しない 人 ) にかんする決定を、 場合によってはその 意に反してさえも 下すわけ であ り、 要するに決して 全員ではないところの 全員が決定を 下すことになる。 これでは普遍意 志はそれ自身に 矛盾し、 自由に背馳することになるからであ. ここから「民主主義の. 敵対者カント・」を. る". 。. 想定することは、 短絡であ る。 しかし、 おそらく日本語. 訳だけにゆるされる 方法であ ろうが、 「民出利」などという、 国語辞典にも 存在しない訳語を 造語す るのも、 字面から「民主主義排撃」の 言葉を除去し、 読者に、 カントが執筆した 当時の歴史状況に おいて「デモクラシー」という 言葉が持っていたであ ろう危険かつ 過激な響きを 伝えないのは、. 問. 題ではないだろうか。 ここでカントは 、 「デモクラシⅠという 語を「本来的に 解するならば」とい う. 限定によって、 意図的に狭く 理解している。 この操作を施した 上で「デモクラシー」を 誹膀 する. ことによって、 実際に彼が望んでいるのは、 権 力が「ただ一つ、 執行権 力」だけになる 事態を 、 す なむち「専制主義」を 批判することであ る。 彼が実現を望んでいるのは、 権 力が分割され、 規制さ れることなのであ る。 彼は「法を立てる 者が 、 一にして同じその 人格において 同時に彼の意志の 執. 行者であ ることも可能になってしまう」事態を 批判しているのであ って、 今日の民主主義を 否定す る. ファシズム・ 全体主義等を 望んでいるのではない。 彼は、 時代状況の中で 受け入れられにくい「デ. モクラシー」の 語を避け、 「共和的体制」を「永遠平和へ 可 欠だ、. と言う。 われわれは、. 導く唯一の体制」と 呼び、 「代表制」が 不. カントの議論のあ まりの現代性に 慣れて忘れがちになるが、 考えて. みれば、 彼の時代は、 議会すらいまだ 自明のことではなかったのだ。 彼が求めたのは、 むしろ議会 の 開設であ って 、 「デモクラシー」の 排撃ではない。 しかし、 「デモクラシー」に 賛成するような 外. 見を呈することは、 その当時、 おそらく、 摩擦を不可避にしたであ ろう。 「デモクラシー」の 語を非 難 する面では、 カントは権 力に妥協している。 しかし、 それによって「代表制」と「権 力分割」を. 求めた面では、 彼はなお、 非妥協的な「デモクラット」であ. るといえるだろう。. d) 輯晦 上に述べたすべての 例も、 輔晦 といえば 輔海 であ る。 ここに別に一項を 立てるのは、 上のいずれ かの項に組み 入れるには、 その性格が独特であ ると考えるからであ る。 まず、 該当する本文を 見よう。 カントは「 法 」における「平等の 原理」について 次のように言う。.

(14) Ⅰ. 02. 山本. 恭生. 人 が生まれながらに 持っこうした 権 利、 人間が人間であ るための不可欠な 一部であ り、 譲り渡 すことのできないこれらの 権 利が空しいものではないことは、 人間が自分 ち (人間がそんなものを 考えた場合には ). よ. り高次の存在者た. に対してさえ、 やほり 法的な関係に 立つという原理. によって確かめられ、 高められる。 すな む ちその場合も、 人間は 、 同じこれらの 原則から、 生 死を超えた世界でも 自分はその世界の 一市民だと考えるものだからであ る。 一. というのは、. 私の自由にかんして 言 う なら ぱ、 私は、 たとえ 神 的な 、 私にはただ純粋な 理性を通じて 知るほ かにないような 法であ っても、 決してこれに 従 らの同意を与えることができないかぎりは が 備わっているからこそ、. う. いわれはないからであ る、 もし私がそれに 自. ( なぜなら、. 私としてもこれをもとに. ただこの私自身の 理性にも自由の 原理. (神の意志 ). という理念も 考えることがで. きるのだからであ る。) 神をべつとしてこの 世における最高の 存在 ( たとえば大いなるアイオン のような ) を考えてみた 場合、 平等という原理はどうなるであ ろうか。 このとき、 私が私の場 で、. あ のアイオンの 方は彼の場でそれぞれの. 義務を果たしているとき、 なぜこの私には 服従の. 義務だけが、 そして彼には 命令の権 利だけが与えられるとしなければならないのだろうか、. そ. この平等の原理は ( 自由の原理と 同じようには ) 神との関係に 適合し. んな理由はあ るま い 。 一. ない。 その理由は、 この 榊. という ] 存在こそ、. 義務という概念が 停止する唯一の 存在だからで. あ る 280. アイオンとは 何であ ろう 29。 カントが、 このグノーシス 派の神性をどのように 理解し、 また彼の. 読者がこれをどのように 受け取ったか。そういう問いは、おそらく、 カントの意図を 裏 切っている。 カントが 、 「デモクラシー」の 語を「権 力を分割することのない 体制」と読み 替えた上で排撃するこ とによって 、 彼の本来の主張、. 「権力の分割」「代議制の. 導入」を唱道したよ. ン 」という、 当時の知識階級にすら 共通したイメージが 浮かんだかどうか. う. に、 ここで、 「アイオ. 怪ロ 、 と思われる突飛な. 概念を持ち出したやり 方は、 カントの 、 白らの意図を 輔 晦 しょうとするレトリックを 予感させる。 おそらく、 ここには、 権 力者が「国家を 危うくする」と 考えかれないような「十一本目のピン」が. 隠れ. ている。 おそらく、 アイオンの概念をもとめて 各種の文献を 渉猟する必要はなく、 デモクラシー. と. 同様、 このアイオンもまた、 仮の名であ る。 重要なのは、 「神をべっとしてこの 世における最高の 存 在 」という、 カント自身によるアイオンの 性格規定のほうであ ろう。 「この世における 最高の存在」、 ". Ⅰこ兄. nt,. 旦 荻 ・. ・. 0.,S.207.. 28 Kant,. 荻 ゑ. 29 ㎡ on. (ギリシア語、. ・. ・. 0,,S.205. 曲lm. ラテン語は aevum) は、 ギリシアでは chron08と対比され、 後者の「動かされる 時制 に 対して、 これを動かす (= 支配する自らは 動かない ) 「永遠」と考えられてきた (へ う クレイトス B52, プラ トンⅢ maios37d)。 ペルシ ャ ・ゾロアスター 教の悲観的二元論の 世界観にも、 類似した区別があ った。 ヘレ. ニズム期には、 この両者が混交する。 またユダヤ教にも、 黙示文学の終末論的世界観の 形成に影響を り、 「世界」ないし「時間」を 意味するアイオンは、. 与えてお. ここでは、 終末を迎えるべき「悪しき 代 」であ るが、 ユ. ダヤの終末論は、 悪しき代の終わりと、 終末の後に始まる「新たな 代 」を約束する 希望でもあ る。 ヘレニズム この世は、 人間の意欲や 努力で変革できる 自由の世界ではなく、 動かされる世界であ. の 運命・星辰信仰では、. り、 「動かす永遠」は、 午. ・. 月. 。 週 。 日の形で時間を 支配している「 星 」であ ると考えられた。 またのちに、 グ. ノーシスや執プラトン 主義にもこの 概念は受け継がれ、 原始キリスト 教 (パウロ、 ヨハネ ) でも「この世の 支 配者 (1 コリント 2,6) 「この世の神」 ( Ⅱコリント 4,4) 「この世を支配する 者」 ( ヨハネ、12,31) などの表現 にこのアイオン 神話の影響が 流れ込んでいる。 こうした新約の 用例は、 終末後の新たな 世を治める原始キリス ト 教の神に敵対する、 終末以前の現在のこの 世に絶対的に 君臨する者 (神性ないし権 力者 ) を意味しているよ ぅ であ る。 今日でも、 アイオンを独立した 神格と見ることができるかについては 議論が分かれる。 参照 」. RGGBd.l,. S,193ぽ ・. 268 頁, 346 頁, 384 頁。. R. ブルトマン「原始キリスト 教」,『ブルトマン著作集』 6. 1992年新教出版社,.

(15) カントア平和論. コ. 103. におけるレトリカル な 表現について. 「私には服従の 義務だけが、 そして彼には 命令の権 利だけが与えられる」ような. ノーシス派の 思想の中に探し 求めるまでもなく、 カントを取り. 存在、 それは、. 巻く現実世界に、. グ. 明白な形で実在し. ていたに違いない。 すな む ち、 当時にあ っては、 国王であ る。 ここは国王という「この 世における 最高の権 力者」と「私」とが、 法の前に平等であ ることを主張している、 と読むべきであ ろう。. ア. イオンのイメージの 不透明さは、 この主張の大胆さを 思えば、 不可欠のものだったと 考えられる 30。. その傍証となる 記述が、 補説 二 にあ る。 王者が哲学し、 あ るいは哲学者が 王となる、 というようなことは、 期待できることではなく、 また望むべきことでもない。 権 力を持ってしまえば、 理性の自由な 判断は、 どうしても損なわ れずにはすまないからであ る。 しかし王者が、. ( 自らを平等の 法則によって. あ るいは. 律する. ). 王者らしい諸国民が、 哲学者階級を 消滅させず、 また沈黙を強いることなく、 かえってこれに 公然と議論させる、 ということは、 両者にとって 、 自らの務めの 行く手を照らす 灯りとして、 欠くことのできないものであ る 310. ここで注目するべきなのは、. 「王者」ないし「王者らしい. 諸国民」というところであ. が王を作るのではない。 植民地を支配しているから「王者らしい」「文明. る。 世襲の身分. 国 」なのではない。 王にはあ. る 資格が必要であ る。それが、 この「平等の 法則」に自ら 服することができるか、 という課題であ る。 あ のアイオンに 対して突きつけられた「平等原理」が、. ここに再登場することによって、 謎のような. 神名が意味するものが、 間接的に、 この場所で、 明らかにされている。 そしてここでも、. 「公然と議. 論できる」権 利が主張される。 今日、 カントの『永遠平和論団を 読み継ぐ者の 課題は 、 私たちにとって「神をべつとしてこの 世 における最高の 存在」とはなにか、 と自問することであ る るぅ 。 「平等の原理」を 蔑して省みない「 こ の世の支配者」とは、 2002 年の現在、 誰か。 そしてそのものに 向かって、 カントのように 決然と「な ぜこの私には 服従の義務だけが、 そして彼には 命令の権 利だけが与えられるとしなければならない の だろうか、 そんな理由はあ るまい」と言. う. 勇気が、 また言. う. ためのレトリックが 、 備わっている. か 。 もしそれがないなら、 私たちにカントの 理想主義の「無邪気さ」「空想」を ・. 笑. う. ことはできない。. 4) 結び 理念が、 現実の中で実現されることを 望むとき、 理想は純粋なままでいられず、 論理は、 むき出しの真理のままではいられない。 理想主義者は、 星空を見つめ、 良心だけを相手に 理想主義の掲げる. していては、 平和を「 づ くり出す」ことはできない。 彼は読者を獲得しなければならない。 そこに 「絶えず人と. 人との関係を 予想する」レトリックの 領域が広がる。 カントは、 哲学の専門家には 分. かるだろう、 という文章ではなく、 誰にでも分かるように、 書く。 そして同時に、 あ る人には分か. '。. 「. 神 」にかんする 補足的発言の 意図には、 神の概念が、 カントにとって 自由や不死性とならぶ 最重要の理俳. ったこととならんで、 (自由の原理と 教会との摩擦がなお 同じようには絶対に回避すべきものであ )神との関係に 適合しない。 ったことが潜んでいると その理由は、 [神という 考えられる。 ]存在. であ 「この平等の 原理は. 皿正 ㎏ nt,a.a.o.,S.228.. この. 強調は引用者。.

(16) 104. 山本 麦生. るが、 あ る人にはほとんど 分からないように、 書かねばならない。 その状況は、 現代も、 理想がい まだ現実化していない、 「永遠の平和」が 実現していない「 転形期 」であ る以上、 なお、続いている。 その意味で、 幸か不幸か、 カントはなおアクチュアルであ り続けている。.

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参照

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