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カントにおける義務と目的論

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カントにおける義務と目的論

著者

八木 緑

雑誌名

人文論究

67

2

ページ

81-97

発行年

2017-09-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/00026034

(2)

カントにおける義務と目的論

八 木

0.序

「義務(Pflicht)」は,言わずと知れたカント倫理学の中心概念である。『人 倫の形而上学の基礎づけ』(以下,『基礎づけ』と略記)の第一章で述べられて いるように,「義務に基づく行為だけが道徳的価値をもつ」というのは,明文 化はされていないものの事実上の「第一命題」として挙げられるカント倫理学 の主要原則のひとつである(vgl. GMS : IV 397 ff.)(1)。カントが言及している 具体的な義務に「自殺すべきでない」,「嘘をつくべきでない」といったものが あることも既によく知られているが,カントの義務概念の基礎をなすのは「自! 分!の!格!率!が!普!遍!的!法!則!と!な!る!べ!き!こ!と!を!,自!分!で!も!意!欲!で!き!る!,という以外の 仕方で,私は決して振る舞うべきではない」という「たんなる合法則性」の原 理であり(GMS : IV 402),この基本原理こそがカント倫理学を最も根底で支 えているのである。 こうした主張を受けて,カント倫理学は一般に「義務論」として紹介される ことが多い。カント自身,『基礎づけ』の「実践的法則に対する純!粋!な!尊敬に 基づかねばならないという私の行為の必然性こそが,他のいかなる運動根拠も 屈服せざるをえない義務となるものである……。というのは,そのような義務 はそ!れ!自!体!が!善である意志の条件であって,この意志の価値がすべてにまさる からである」(GMS : IV 403)という主張をはじめ,義務に基づいて行為する ことは「一切の道徳的陶冶(Bildung)の真の目的」(KpV : V 117)であると する『実践理性批判』の記述など,さまざまな箇所において義務の重要性を強 調している。「義務よ!君の崇高にして偉大なる名よ(Pflicht! du erhabener 81

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großer Name)」(KpV : V 86)という有名な呼びかけには,義務というもの に対するカントの畏敬の念が端的に表れている。 しかし,義務は何によって与えられるのか。たとえば,「理性が人間に思い 描かせる義務の命令はすべて大いに尊敬するべきものである」(GMS : IV 405)という叙述にしたがえば,われわれに義務を与えるのはまさにわれわれ 自身の理性である。「道徳的概念はすべてその本拠と起源を全くアプリオリに 理性のうちにもつ」(GMS : IV 411)。カントが「道徳性の最高原理」(GMS : IV 440)と呼ぶ意志の自律,すなわち「お!の!お!の!の!理!性!的!存!在!者!の!意!志!は!普! 遍!的!に!法!則!を!立!法!す!る!意!志!で!あ!る!」(GMS : IV 431)という原理を踏まえるな ら,なおさらカントにとって義務はわれわれが自分に対して自分自身によって 課すものでなければならない。そうでなければ,たとえ意志への命令が道徳法 則を遵守することであったとしても,われわれは自分以外の何か別のものによ って意志を規定することになり,いわゆる「意志の他律」が生じてしまう。道 徳的行為を意志に課すために必要とされるのは,ただ理性のみである(GMS : IV 435)。 ところがカントの議論のうちには,義務がわれわれ人間の果たすべき「使 命」として自然によって与えられているとする主張がしばしば見られる。自然 によって与えられるというのは,つまりいわゆる「自然の意図」によって目的 論的にそのように定められている,ということである。もし,われわれの理性 が自然目的論によってある行為をなすように方向づけられているのだとすれ ば,それはある行為をあえて義務として,言い換えれば「……すべし」という 当為のかたちで命じるカントの議論と矛盾するのではないか。のみならず,わ れわれの行為の自由までも脅かされることになる。というのも,カントによれ ば自由とは上で触れた意志の自律に他ならないからである(GMS : IV 446 f.)。 本稿では,これまでのカント研究においてしばしば取り上げられてきた歴史 哲学と自由の問題を,義務の源泉と目的論との関連という観点から考察する。 カントの目的論は,哲学史において長らく主流だった独断的目的論とは異なる 82 カントにおける義務と目的論

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「批判的目的論」として知られるが,その主眼はまさに自然のうちに特定の目 的を前提する見方に対する批判にある。とすれば,カントが歴史哲学におい て,理性をはじめとする人間の諸能力について目的が定められているかのよう に語っている議論をわれわれはどのように理解すればよいのか。以下の考察で 主に扱うのは,カントの批判的目的論が確立された『判断力批判』(1790 年) 以前のテクスト,とりわけカント倫理学の主要著作である『人倫の形而上学の 基礎づけ』と『実践理性批判』,そして両著作と同時期に発表された歴史哲学 に関する諸論文である。

1.『基礎づけ』における目的論的議論

われわれに義務を果たすべきものとして命ずるのは,われわれ自身の理性で ある。しかし,もしこの理性がさらに何か別のものによって方向づけられてい るとすれば,はたしてわれわれは自らに対して自分自身のみによって義務を課 していると言えるだろうか。こうした疑問を引き起こす記述が『基礎づけ』の 第一章の冒頭にある。 「理性が,実践的能力として,すなわち意!志!に影響を与えるべき能力と して,私たちに配分されているからには,理性の真の使命が,よもや別の 意図のための手!段!と!し!て!善い意志を産み出すことにあるわけがなく,かえ ってそ!れ!自!体!み!ず!か!ら!が!善!い!意!志!を産み出すことにあるに違いない。自然 が自然の素質を分配するにあたって,あまねく合目的的に作業に着手した とするなら,まさにこうした意志を産み出すためにこそ,理性がどうして も必要だったのである。……理性は,自分の最高の実践的使命が善い意志 を根拠づけることだと認識しているので,……理性だけが決定する目的を 成就したがゆえに,満足できる……。たとえそのせいで,傾向性の諸目的 がかなり損害を受けねばならないとしてもである。」(GMS : IV 396) 83 カントにおける義務と目的論

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この主張によれば,理性が人間に与えられているのはそれ自体善い意志を生 じさせるためであり,このことは自然の合目的性によって定められている。 「傾向性の諸目的」のうち主たるものは幸福であるが,理性はこれを「制限」 し,「無以下にすら引き下げることさえありうる」(GMS : IV 396)。したがっ て自然の合目的性を鑑みれば,理性の目的は幸福とは違うもの,すなわち善意 志を生ぜしめることであり,これこそが「自然の意図」であるとカントは言う のである。このような考察の背景にあるのは,まずわれわれ人間が「有機的な 存在者」,つまり「生きるために合目的的に組織された存在者」であり,そし て「こうした存在者のうちに見いだされるどの器官(Werkzeug)も,何らか の目的のためにあるのであり,しかもそれぞれの目的に最もぴったり合ったも のでしかない」(GMS : IV 395)という目的論的な考え方である。 今見たような議論はわれわれに少なからず違和感を抱かせる。なぜなら,カ ントの目的論として一般に知られているのは「批判的目的論」であり,その最 大の特徴はまさに自然を何らかの特定の目的にしたがってはたらいているもの と見なす独断的目的論への批判にあるからである。哲学史を概観したとき,目 的論者として真っ先に挙げられるのはカントよりもむしろアリストテレスであ ろう。彼は目的論を学問的に組織立てた最初の哲学者であり,その目的論的な 自然観は中世を通じて近世初頭に至るまで多大な影響力をもち,因果的な説明 をほとんど不可能にさせるほどに自然科学を支配した(2)。そのようなアリス トテレス流の独断的目的論に批判的洞察を加えたカントの思想は,目的論の歴 史に大きな転換をもたらし,またその批判の眼差しゆえに現代においても評価 されているのである(3) しかし,『基礎づけ』において目的論を引き合いに出すときのカントはあま りに無批判的であると言わざるをえない。もっとも,『基礎づけ』においてカ ント倫理学の主張にとって重要なのは義務や定言命法,自由といった問題が取 り上げられる第一章後半以降の部分であり,上で見たような第一章冒頭の叙述 はさほど取り上げるに値しないと見ることもできるだろう(4)。一方で,この 目的論的議論と呼ばれる箇所を思想史的背景やカントの他のテクストとの関連 84 カントにおける義務と目的論

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から考察することで,そこに隠された言外の意味を汲み取ろうとする解釈もあ る(5)。だが,いずれにせよ,目的論的議論のみを独立に評価することはほと んどされてこなかったし,また仮に試みたとしてもきわめて困難であり,何か 有益な結論が見出されるようにも思われない。 とはいえ,『基礎づけ』の核心部分にも,カントが明らかに目的論的な着想 のもとで議論を進めている箇所がいくつか存在する事実を見逃すことはできな い。たとえば,定言命法の第一定式(6)を提示したあとに具体的な義務を列挙 する際,カントはわれわれが自殺すべきでない根拠として「感情の使命(Bes-timmung)は生命を刺激して促進することにある」ということを挙げている (GMS : IV 422)。また,自分の能力を開発する義務については,すべての能 力は「とにかく彼[=理性的存在者]が何を意図しようとも役に立ちうるので あり,そのために彼に与えられている」がゆえに開発されねばならないとされ る(GMS : IV 423)。第二定式(7)に付された同様の議論においては,目的論は

「自然の目的(Zwecke der Natur)」や「自然目的(Naturzweck)」といった 言葉とともに,より直接的なかたちで現れてくる。「人間性のうちには,もっ と完全になろうとする素質がある。そしてその素質は,私たち主体のうちに人 間性を自然本性として置いた自然の目的の,その一部を成している」,「すべて の人間が有している自然目的は,自分自身の幸福である」といった叙述がそれ である(GMS : IV 430)。 カント倫理学を理解しようとする際,特に重要とされる目的概念としては次 の三つが挙げられる。すなわち,「カントが道徳原理から排除するような,道 徳的価値を持たない目的概念」,「道徳的な価値を持つが,しかし道徳原理の根 拠としての位置づけを持たない目的概念」(z. B. 『人倫の形而上学』における 「同時に義務である目的」),そして「道徳的価値を持ち,しかも道徳原理の成 立のための根拠となるような目的概念」である(8)。最後のものについては,

具体的には「目的それ自体(Zweck an sich selbst)」がそれにあたる。この 概念は,われわれ人間を含む理性的存在者が物件(Sachen)とは違い,単な る手段としてではなく同時に目的として扱われるべきものとして存在している

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という,そのあり方を表している(vgl. GMS : IV 428 f.)。目的と名付けられ てはいるものの,「目的それ自体」は何らかの手段を通じて達成されるような 目的ではなく,小倉志祥の言葉を借りれば,通常の意味において目的というも のがもつ手段との「相関性を打破することを示すための概念」(9)である。 こうした目的概念の整理そのものは決して間違っていない。ただ,われわれ はここに,従来さほど問題とされることがなかったように思われるもうひとつ の目的概念,すなわち「自然の目的」(自然目的)を加えてみたいと思う。す でに見たように,カントはしばしば倫理学のコンテクストに目的論を持ち込ん でいる。一般的に,道徳的な行為は何かの目的のためではなく義務に基づいて なされねばならないと主張する『基礎づけ』の議論は,目的概念を排除してい ると見られがちである。「目的それ自体」をめぐる議論は一見すると目的概念 を積極的に論じているようにも見えるが,実際にその「目的」が意味するとこ ろは「単なる手段ではない」という消極的なものでしかない,という指摘もあ る(10)。こうした指摘には反論の余地がまったくないわけではないが,「目的そ れ自体」という概念の本質を鑑みればやはり頷かざるをえない。 しかし,自然目的論を下敷きとして語られる諸々の目的は明らかに行為を通 して実現されるべき目的である。『基礎づけ』の解釈において,カントの思索 の背景に自然目的論があることを指摘した古典的研究には H. J. ペイトンの著 作が挙げられるが,これは定言命法の第一定式を自然法則とのアナロジーにし たがって言い換えた「自!分!の!行!為!の!格!率!が!自!分!の!意!志!に!よ!っ!て!普!遍!的!自!然!法!則! に!な!る!べ!き!で!あ!る!か!の!よ!う!に!,行!為!せ!よ!」(GMS : IV 421)といういわゆる 「自然法則の定式」に目的論的自然観を認めるものである(11)。この解釈の妥当 性に関する詳しい検討はここでは省略するが,そうした解釈においてはしばし ば『判断力批判』の目的論が前提されてきた。ただ周知のように『判断力批 判』(1790 年)は時期は近いとはいえ『基礎づけ』(1785 年)よりも後に公刊 された著作であり,それゆえ『基礎づけ』が執筆された段階でカントが目的論 というものをどのように捉えていたかは,やはりまず『基礎づけ』の著述に基 づいて明らかにされるべきであろう。 86 カントにおける義務と目的論

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もっとも,『基礎づけ』においてカントが倫理学と目的論との関連を明確に 示している箇所はほぼ皆無と言ってよく,そうした状況は『実践理性批判』を 紐解いてみたところで同じである。『基礎づけ』に一度だけ「目的論(Tele-ologie)」という言葉が登場するところがあるが,そこでは「目的論は自然を 目的の国だと考え,道徳学はありうべき目的の国を自然の国だと考える」 (GMS : IV 436 Anm.)という説明がなされている。「自然を目的の国だと考え

る」とは,自然をひとつの「体系的結合(die systematische Verbindung)」, すなわち「すべての目的(目的自体としての理性的存在者たちも,それぞれの 理性的存在者が自分自身に設定するであろう独自の諸目的も)が体系的に結び ついた一全体」(GMS : IV 433)として見なすということである。この説明を 見る限り,ここでカントの念頭にある「目的論」とは,われわれがこれから取 り上げようとしている,自然を何らかの「意図」をもつものとしていわば擬人 化するような目的論ではない。カントの倫理学の根底に流れる目的論とはどの ようなものであり,また自然の意図ないし目的とは具体的に何を指すのか。 この問題を解く手がかりを,われわれは『基礎づけ』や『実践理性批判』と 同時期に発表された歴史哲学に関する三つの論文,すなわち『世界的市民的見 地における普遍史の理念』(1784 年,以下『普遍史の理念』と略記),『人間の 歴史の憶測的始元』(1786 年,以下『憶測的始元』と略記),そして『哲学に おける目的論的原理の使用について』(1788 年,以下『目的論的原理』と略 記)に求めたい。カントの歴史哲学は,しばしば批判哲学という彼の哲学体系 にとって周辺的なものとして位置づけられ,それどころかまったく無関係なも のとして軽視されることすらあった。とりわけ倫理学との関連については,カ ントの歴史哲学の著作群の中に実践や道徳に関する言及がきわめて少ないこと もあり,これまであまり積極的に論じられてこなかった向きがある。歴史哲学 の根底にカント倫理学がもつ当為的性格があることは疑いないとしても,たと えば前者が後者の一部をなすというような帰属関係を認めることは難しいだろ う(12) しかしその一方で,カントが歴史哲学を倫理学と密接に結びつけていたこと 87 カントにおける義務と目的論

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もまた否定しがたい事実である(13)。彼の歴史哲学は,全体を見れば確かに倫 理学との関係はきわめて薄いように見えるが,たとえば例外的に『憶測的始 元』では人間の自由や歴史における実践的立場が描かれているということはこ れまでにも指摘されてきたことであるし(14),またわれわれが後に見るように, 『目的論的原理』の最後には目的論と倫理学との分かちがたい関係が明確に示 されている。次章では,上記の三論文の検討を通して,カントの歴史哲学と倫 理学という異なる領域のうちにそれぞれ垣間見える目的論的思想の連関を探っ ていきたい。

2.歴史哲学の著作群に見る義務と目的論

『普遍史の理念』は,カントが歴史哲学について著した諸論文のうち最初の ものであり,また最重要のテクストとして位置づけられているが,その冒頭で 述べられている内容はきわめてコントロバーシャルである。 「人間の意志が自由に活動しているのを全!体!と!し!て!考察すると,歴史は ここに自由の規則正しい歩みを発見でき,また同じ仕方によって,個々の 主体には複雑で不規則なものと目に映るものが,人類全体としては,人間 の根元的素質が緩やかであっても常に継続して発展しているものとして認 識されうる,と期待できる。」(IG : VIII 17) 「意志の現象」として生じる人間の行為は「他のあらゆる自然の出来事とま ったく同じように,普遍的自然法則に従って規定されている」(ebd.)。しか し,意志そのものは自由であり,したがって個々人は自由に行為している。と すれば,個人の集合体としての人類もまた自由であると考えるのが自然だろ う。しかしここでカントは,人間の活動を全体として見た場合には,人類は絶 えず発展していると記している。この箇所を読む限り,カントは結局のところ 歴史における個人の自由を認めておらず,しかも人類はよりよい方向へと発展 88 カントにおける義務と目的論

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し続けるという楽観的な目的論を採用しているように見える。 ところで,「発展」とは具体的に何を意味しているのか。カントは人類の発 展的で継続的な歩みを「まだ知られていない自然の意図をいつのまにか導きの 糸として歩み続け」ることと言い換えている(ebd.)。『普遍史の理念』の本論 は 九 つ の 命 題 か ら 構 成 さ れ て い る が,第 一 命 題 に よ れ ば,「自 然 の 意 図 (Naturabsicht)」とは「被!造!物!の!自!然!素!質!(Naturanlagen)が!す!べ!て!,い!つ! か!完!全!か!つ!目!的!に!か!な!っ!て!解!き!ほ!ど!か!れ!る!よ!う!定!め!ら!れ!て!い!る!」ことを意味し ている(IG : VIII 18)。さしあたり,ここでの「自然素質」とは生物がもつ 諸々の器官というほどの意味であるが,直後の第二命題を読めば,カントが人 間における自然素質の展開を他の生物のそれと決定的に区別していることが分 かる。人間と他の生物とが異なるのは「理性」の有無である。「(地上で唯一理 性をもった被造物としての)人!間!に!お!い!て!,理!性!の!使!用!を!め!ざ!す!自!然!素!質!が!完! 全!に!展!開!し!う!る!の!は!,そ!の!類!に!お!い!て!だ!け!で!あ!っ!て!個!体!に!お!い!て!で!は!な!い!だ!ろ! う!」(ebd.)。 ここでも述べられているように,人間の発展は個においてではなく人類全体 という規模において認められる。そしてその発展とは,具体的には「理性の使 用」を目標とする発展である。ヘーゲルは『美学講義』の中で,「人間の共同 生活や国家についても,その究極目的はすべての人間的能力やすべての個人的 な力をあらゆる側面と方向に向かって展開し発現させることにある」とする考 え方を「形式的な見解」とし,その多様な展開を束ねる統一と究極目的が何で あるかが問われねばならないと主張している(15)。カントにとって,生物の発 展が自らに備わるすべての器官を完全なる展開へと向かわせることだとすれ ば,人間にあってはその展開を取りまとめるのは「理性の使用」を究極目的と する統一と考えることができるだろう。 しかしながら,「理性の使用」ということで,カントが何を言おうとしてい るのかは未だ曖昧である。というのも,ここでの理性がいわゆる道徳法則の命 令者としての純粋実践理性なのか,それとも何らかの目的のための手段を案出 する合理性の能力としての理性なのかが,これまでの論述からは明らかでない 89 カントにおける義務と目的論

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からである。さしあたって第二命題から分かることは,人間は理性でもって 「自然の意図に完全に合致する発展の段階」という,「少なくとも人間の理念に おいて自らの努力目標でなくてはならない」ような目的を目指すということで ある(IG : VIII 19)。第三命題では,理性は「人間がもっともひどい粗野な状 態から抜け出て,いつしかこの上ない熟練能力をもち,思惟様式は内面的な完 全性に至り,これによって(現世で可能な限り)幸福へと高まる」ために人間 に与えられたのだという説明がなされている(IG : VIII 20)。ただしここで重 要なのは,カントが自然の真の意図は人間が幸福になることではなく,むしろ 「自分の行動をとおして生きるに値し健康で幸せな生活にふさわしくなるよう にひたむきに努力すること(sich so weit hervorarbeite)」にあると考えてい ることである(ebd.)。

つまり,自然の合目的性に従えば,人間にとって理性は幸福そのものよりも 幸福な生活に値するよう努力するための能力である。「幸福であるに値する」 ということで想起されるのは『基礎づけ』第一章冒頭,そして『実践理性批 判』の最高善に関する議論である。もっとも,ここで「幸せな生活にふさわし くなる(des Wohlbefindens würdig)」という仕方で述べられている「幸福」 と,いわゆるカントのターミノロジーとしての「幸福(Glückseligkeit)」と を安易に重ねることはできないが,しかし後者に関してもしばしば伴う「値す る」という表現の意味をここで取りあげることはまったく筋違いというわけで もないだろう。『基礎づけ』の当該箇所において,カントは「善意志は,人間 が幸福であるに値することの不可欠な条件をなしている」と 述 べ て い る (GMS : IV 393)。そして『実践理性批判』では,幸福とともに最高善を構成 する徳ないし道徳性は「幸福であることに値すること」と言い換えられている (KpV : V 110)。 このように幸福と道徳とを一対に捉える考え方はすでに『純粋理性批判』に も現れていたが(vgl. A 814/B 842),いずれの場合においても「値する」と いう仕方で幸福の条件となっているのは道徳であるという点に注目したい。こ のことを踏まえれば,カントが『普遍史の理念』で述べている「理性の使用」 90 カントにおける義務と目的論

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およびそれを目指す自然素質の完全なる展開とは,畢竟,人間の道徳的完成の ことを指していると見なすことができる。第四命題にはこれを裏付けるような 記述が見られる。すなわち,「非社交的社交性(die ungesellige Gesellig-keit)」という人間の特殊な性向において,社会を作ろうとする傾向と孤独で いたいという傾向とのせめぎ合いを通してある「思考様式」が構築されるが, この思考様式は「道徳的善悪を見分けるのにまだがさつな自然素質をしだいに 明確な実践的原理へと変え,これによって社会との生!理!的!心!理!的!に!強制された 一致状態を最終的には道!徳!的!全体へと変えうる」(IG : VIII 20 f.)。つまり人 間は,社会の形成を通して段階的に道徳的全体へと向かう。「社会においての み,自然の最高の意図すなわちあらゆる自然素質の発展は人類として達成され うる」(第五命題,IG : VIII 22)。 これまでの議論をまとめると,カントが「自然の意図」という表現でもって 主張しようとしていた人間の発展は,具体的には人類全体という規模におい て,人間が理性によっていわば道徳的に成熟した状態,言い換えれば「普遍的 に法を司る市民社会」(ebd.)の実現へと向かって自然素質を完成させるプロ セスを意味していると言ってよいだろう。ただし問題は,本章の冒頭でも確認 したように,こうした展開が人間の自由によるものなのか,それとも「自然の 意図をいつのまにか導きの糸として」個々人の気づかないところで操作されて いるものなのか,ということである。忘れてはならないのは,カントが自然素 質の完全なる展開は幸福に値するような人間となるために「ひたむきに努力す ること」によって可能になると述べていたことである。「自然はまた,人類が この自然の最高目的[=あらゆる自然素質の発展]を自分で定めたあらゆる諸 目的とともに独力で達成することを欲している」(ebd., 下線筆者)。 こうした人間自身の「努力」や「独力」の必要性とともに,カントは社会に おける自由を強調する。「この[=普遍的に法を司る]社会には最大の自由が あり,それゆえこれはその成員がどこでも敵対関係にありながらも他人の自由 と共存しうるようにと,自由の限界をきわめて厳密に規定し保証する社会でな ければなら」ない(ebd.)。このことはつまり,人類全体で見れば,何かしら 91 カントにおける義務と目的論

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の規則正しく継続的な目的論的発展を歴史のうちに見出すことができるかもし れないが,その歩みを着実に進めていくのは自由な行為主体としてのわれわれ 個人に他ならない,ということだと解することができるだろう。理性が道徳的 完成という目的のために人間に与えられているのだとしても,その目的を自分 の目的として据えるのはわれわれ人間自身であり(16),そしてその実現に向け てわれわれの理性は「少しずつ段階的に理解を深める目的でいろいろな試み, 練習,教授を」重ねていくのである(第二命題,IG : VIII 19)。「人間が自由 に活動するときでさえも,自然は計画や最終目的なしに振る舞うことはないと 前提してもよいなら,この[=普遍的世界史]の理念はやはり有効なものとな りうるだろう」(第九命題,IG : VIII 29)。 カントが人類の「課題(Aufgabe)」(IG : VIII 22)だとする市民社会の実 現および自然素質の完全なる展開を「義務」と呼んでも差し支えないように思 われる。『普遍史の理念』において,そしてまた『憶測的始元』においても 『目的論的原理』においても,カントは義務という言葉を用いていない。すで に触れたようにこれらの歴史哲学の著作が『基礎づけ』と『実践理性批判』と 同時期に発表されたことを思えば,義務という言葉が一度も登場しないのは不 自然ですらある。ただ,カントにおける義務という概念の本来の意味を考えて みれば,まさに歴史において人間に課されているものは義務と呼ぶほかない。 というのも,『基礎づけ』で述べられているように,義務とは「責任に基づく 行為の客体的な必然性」であり,そしてこの「責任」とは「まったくもって善 いとはいいきれない意志が自律の原理に依存すること(道徳的強要)」であっ て,つまり必ずしも善い行為をするとは限らない存在者に課される道徳的命令 だからである(GMS : IV 439)。道徳的完成を目指す道程の半ばにいるわれわ れ人間には,人類の課題を果たすことが義務づけられているのである。 さて,『普遍史の理念』を中心として進めてきた以上の考察に,『憶測的始 元』と『目的論的原理』の二つのテクストから何を加えることができるだろう か。前者はその題名通り,人間の歴史の始まりを憶測的に考察することによっ て,直接に経験することのできない出来事に関する記述を補うという試みであ 92 カントにおける義務と目的論

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るが,そこでカントが人間の理性の役割について述べていることはわれわれの 目を引く。 「理性には,構想力の助力によって欲望を作り上げることができるとい う性質がある。しかも理性は,それに向かう自然の衝動がな!い!ところで欲 望を作り上げるというだけでなく,さらには自然の衝動に反!す!る!ような欲 望をも作り上げる。」(MA : VIII 111) 理性は,ときに自然の本能の声を遮り,人間が求めているところのものを自 由に設定する能力であり,カントの言い方にしたがえば「自分自身で生き方を 選び出し,他の動物たちと同じように一つの生き方だけに縛られたりしない能 力」(MA : VIII 112)である。『普遍史の理念』においては,理性は最終的に 人間が自らに備わる自然素質をすべて展開し,幸福に値する道徳的段階へと至 ることを義務として与えられていたが,『憶測的始元』は理性のより根源的な 性質としてその自由な活動性を挙げている。だが,理性が人間の自己展開を推 し進めるものであるということは両論文に共通した主張である。たとえば,カ ントは『憶測的始元』において次のように述べている。 「人間は将来,生活の苦労の多さから,しばしば楽園を期待するように なるだろう。……しかし,あのように構想された歓喜の場所と人間とのあ いだには理性が横たわっており,人間にそなわった諸能力の発展に向け て,あらがいがたくたゆまず駆り立てている。未開で素朴な状態から人間 を連れ出した理性は,人間がそこに戻ることを許さない。」(MA : VIII 114 f.) 『目的論的原理』においては,歴史の行き着くべき終着点としての人間の道 徳的完成は「最高善の理念(Idee des höchsten Guts)」という言葉とともに, より顕然と示される(TP : VIII 159)。この論文の大部分は人種論および種族

93 カントにおける義務と目的論

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概念の説明に費やされているが,われわれの関心にとって見過ごしがたいの は,その最後の箇所である。カントはおよそ目的には「自!然!の目的」と「自!由! の目的」という二種類の目的があるとする(TP : VIII 182)。前者は自然に対 して目的論的原理を使用する場合に,自然のうちに存在すると想定される(人 間はアプリオリに洞察することはできない)目的のことである。一方,後者 は,純粋な実践的原理がアプリオリに提示する理性の目的のことであり,カン トはこのような目的に基づく目的論を「純!粋!な!目!的!論!」ないし「自!由!の目的 論」と呼ぶ(ebd.)。次に引用する箇所は,カントが道徳と目的論とを密接な 連関のもとで捉えていたことをはっきりと示している。

「純粋な実践的目的論すなわち道徳(eine reine praktische Teleologie,

d. i. eine Moral)は,その目的を世!界!のうちで実現するように使命づけ られている。それゆえ道徳は,世界におけるその目的の可!能!性!をなおざり にしてはならない。そしてそれは,世界のうちで与えられた目!的!因!に関し ても,そしてまた最!高!の!世!界!原!因!が作用結果としてのあらゆる目的全体に たいして有する適合性に関しても,いえることである。つまり道徳は,自 然的な目!的!論!をなおざりにすることも,自然一般の可能性すなわち超越論 的哲学をなおざりにすることもなく,遂行における客観の可能性を意図 し,道徳が世界での実現を命じている目的の可能性を目指して,実践的で 純粋な目的論に(der praktischen reinen Zweckslehre)客観的実在性を 確保するように努めなければならない。」(TP : VIII 182 f., 下線筆者) 『普遍史の理念』の冒頭部分に関して,われわれが当初懸念していたのはカ ントが歴史哲学において認めている目的論的原理と,倫理学で主張される自由 の原理とは互いに相容れないのではないかということであった。人間の振る舞 いに関して目的論を適用することが,ただちに人間の行為が自然の意図のよう な何らかの目的によって規定されていると考えることだとすれば,『目的論的 原理』で語られる「自由の目的論」などはまさに形容矛盾と言うしかない。し 94 カントにおける義務と目的論

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かし,カントにとって倫理学のコンテクストで目的論的原理を適用すること は,人間は自らの理性が実践的原理(道徳法則と換言してよいだろう)にした がってアプリオリに設定する目的の実現に努めねばならない,という当為的で 自由な実践的命題を導き出すことを意味しているのである。

3.結

本稿を締めくくるにあたって,目的論と倫理学との関係に対するカントの態 度が簡潔に,かつ最も明確に述べられている箇所として『憶測的始元』の結論 部分を引用したい。すなわち,われわれ人類の歩みは「善に始まって悪に進み ゆくのではなく,むしろ悪しきものからより善きものへと,しだいに進展して いく。そして,各自の分に応じて力のおよぶかぎり,この進展に寄与するとい う使命を,誰もが自然から授かっているのである」(MA : VIII 123)。われわ れの多様な義務をまとめ上げる包括的な義務を挙げるならば,それはそうした 諸々の義務を遂行できるように自らの能力を練磨することだと言えるだろう。 道徳的完成の実現へと向かって努力を続けることは自然によって各人に課せら れている義務である。カントによれば,理性はそのような究極目的を果たすた めに合目的的に適した能力であるが,それは決して,人類が自ずからより善い 方向へと導かれるというような楽観的目的論を主張しているのではない。 もっとも,ある行為が義務である所以をカントが自然目的論によって説明し ている部分については依然として疑問が残る。最上の道徳原理を確立するべ く,われわれの義務を純粋な道徳法則の概念によって基礎づけようとしたカン トの試みは,無批判的な目的論を根拠として提示している限り,真の意味で倫 理学を基礎づけているとは言えないのかもしれない。しかし同時に,目的論と いう観点を導入することによって,カント倫理学をより豊かなかたちで再解釈 する可能性も開かれてくるように思われる。カントはその場その場の義務の履 行や個々人の道徳性でもって満足しない。歴史哲学のテクストを通して見えて きたのは,より善き社会や共同体といったさらにその先を追求する姿勢であ 95 カントにおける義務と目的論

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る。一般に,行為の目的に道徳的価値を見出さないカント倫理学は非目的論的 と見られがちであるが,カントはさまざまな箇所で人間の道徳に究極目的があ ることを示唆している。彼が具体的にどのようなものを思い描いていたのか, 今後さらに見定めていく必要がある。 注 ⑴ カントからの引用は文中の( )内に引用箇所を示した。慣例にしたがい,ア カデミー版の巻号とページ数を示すとともに,『純粋理性批判』以外については 著作名の略号(『人倫の形而上学の基礎づけ』=GMS,『実践理性批判』=KpV, 『世界市民的見地における普遍史の理念』=IG,『人間の歴史の憶測的始元』=MA, 『哲学における目的論的原理の使用について』=TP)を併記した。邦訳について は,岩波書店の『カント全集』を適宜参照した。引用文中の[ ]は筆者による 補足を表す。 ⑵ 宮本 和 吉「目 的 論」,『岩 波 講 座 哲 學 體 系 的 研 究:知 識 の 問 題』,岩 波 書 店, 1931-1933年,14 ページ。 ⑶ アリストテレスとカントは,目的論だけでなく倫理学に関しても対極に位置する 哲学者と見なされることがしばしばある。一方で O. ヘッフェは,いずれの立場 を取るかという二者択一的な視点からなされる昨今の論争に対し,道徳理論に関 するカントとアリストテレスの親和性を主張し,共通点のひとつとして両者の倫 理学のうちに目的論的契機があることを指摘している(O. Höffe, Ausblick : ‚Aristoteles oder Kant ― wider eine plane Alternative,’ Die Nikomatische

Ethik, Aristoteles(Klassiker Auslegen ; Bd.2);hrsg. von Otfried Höffe, Ber-lin, 1995, S.295 f.)。 ⑷ たとえば,杉田聡は,カントの批判的目的論が反省的判断力の統制的原理に基づ くものであるからこそ,それは『純粋理性批判』を通して確立されたような機械 論的自然観と両立し,また同時に「自然科学の及びえない計りがたさ,神秘性を 常に残」し,自然に対する畏敬の念を生みやすいとして,現代の環境問題に関し て有効な視点を与えてくれると述べている(杉田聡『カント哲学と現代 疎外・ 啓蒙・正義・環境・ジェンダー』,行路社,2012 年,230 ページ)。

⑸ D. Schönecker und A. W. Wood, Kants „Grundlegung zur Metaphysik der

Sit-ten”:Ein einführender Kommentar, 4. Auflage., Paderborn, S.54-56.

⑹ H. E. Allison, Kant’s Groundwork for the Metaphysics of Morals - A

Commen-tary, Oxford University Press, 2011, pp.80-86.

⑺ 「格!率!が!普!遍!的!法!則!と!な!る!こ!と!を!,当!の!格!率!を!通!じ!て!自!分!が!同!時!に!意!欲!で!き!る!よ! う!な!格!率!に!従!っ!て!の!み!,行!為!せ!よ!。」(GMS : IV 421)

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⑻ 「自!分!の!人!格!の!う!ち!に!も!他!の!誰!も!の!人!格!の!う!ち!に!も!あ!る!人!間!性!を!,自!分!が!い!つ!で! も!同!時!に!目!的!と!し!て!必!要!と!し!,決!し!て!た!だ!手!段!と!し!て!だ!け!必!要!と!し!な!い!よ!う!に!, 行!為!せ!よ!。」(GMS : IV 429) ⑼ 松本大理「カントの道徳哲学における目的概念について」,北海道大学哲学会 『哲学』38 号,2002 年,131-132 ページ。 ⑽ 小倉志祥『カントの倫理思想』,東京大学出版会,1972 年,386 ページ。 ⑾ C. D. Broad, Broad’s Critical Essays in Moral Philosophy, D. R. Cheney

(ed.), Routledge, 1971, pp.276 f.

⑿ H. J. Paton, The Categorical Imperative(Paperback edition), University of Chicago Press, 1971, pp.146-164. ⒀ 佐藤全弘『カント歴史哲学の研究』,晃洋書房,1990 年,74 ページ。 ⒁ 米田庄太郎『カント及び其の後の歴史哲学』,弘文堂書房,1924 年,3 ページ。 ⒂ 榎本庸男『カントとヘーゲルの歴史哲学−歴史の中での自由−』,関西学院大学 出版会,2000 年,34-41 ページ。 ⒃ G. W. F. ヘーゲル『美学』第一巻の上(ヘーゲル全集 18 a),竹内敏雄訳,岩波 書店,1956 年,52 ページ。 ⒄ 佐藤,前掲書,96 ページ。 ──大学院大学研究科博士課程後期課程── 97 カントにおける義務と目的論

参照

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