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一 橋 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 提 出 博 士 学 位 論 文 マーティン ワイトの 国 際 理 論 英 国 学 派 における 国 際 法 史 の 伝 統 一 橋 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 博 士 後 期 課 程 法 学 国 際 関 係 専 攻 JD 大 中

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(1)

Title

マーティン・ワイトの国際理論-英国学派における国際法

史の伝統-Author(s)

大中, 真

Citation

Issue Date

2013-07-31

Type

Thesis or Dissertation

Text Version ETD

URL

http://hdl.handle.net/10086/25912

(2)

一橋大学大学院法学研究科提出博士学位論文

「マーティン・ワイトの国際理論

—英国学派における国際法史の伝統—」

一橋大学大学院法学研究科博士後期課程

法学・国際関係専攻

JD070002

大中真

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目次 はじめに 1 第1部 英国学派の成立過程 第1章 英国学派の定義と源流 第1節 英国学派とは何か 4 第2節 イギリス国際関係論の誕生と先駆者たち (1) デイヴィッド・デイヴィス 9 (2) アルフレッド・ジマーン 12 (3) チャールズ・ウェブスター 15 (4) フィリップ・ノエル=ベイカー 16 第2章 チャールズ・マニングによる国際関係論の成立 第1節 英国学派における位置づけ 20 第2節 マニングの生涯と業績 (1) 誕生から大戦期まで 22 (2) 戦後の活動 26 第3節 『国際社会の本質』 28 第4節 『アベリストウィス論文集』の刊行 31 第5節 マニングの評価 35 第2部 マーティン・ワイトの思想と国際理論 第1章 英国学派の確立者としてのワイト 第1節 日本における先行研究 38 第2節 イギリスにおける先行研究 41 第3節 青年期とチャタムハウス時代〜職業の模索 46 第4節 LSE における「国際理論」の完成〜壮年期の活躍 52 第5節 サセックス大学での教育と研究〜中年期の業績 55 第6節 ワイトの遺産 60 第7節 国際法史の「3 つの伝統」 62 第2章 ワイトによる合理主義の国際法学者 第1節 フランシスコ・スアレス 69

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第2節 フーゴー・グロティウス (1) ヴァン・ヴォレンホーヴェン 71 (2) グロティウスの国際社会論 76 第3章 ワイトによる革命主義の国際法学者 第1節 フランシスコ・ビトリア (1) 『神学特別講義』 81 (2) 人間の理論「未開人」 83 第2節 アルベリコ・ジェンティーリ 87 第3節 クリスティアン・ヴォルフ 89 第4章 ワイトによる現実主義の国際法学者 第1節 ザームエル・プーフェンドルフ 93 第2節 エメール・ド・ヴァッテル 95 おわりに 100 参考文献 103

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はじめに 国際関係論(本論文では国際政治学と同義で用いる)が、1919 年に初めて大学の講 座として設置されてから間もなく 100 年が経つ。世界大戦という、人類が直面した未 曾有の経験を経て、平和を追求する学問として誕生したのである。その経緯から、生ま れたばかりのこの若い学問は、平和を維持するための機関として期待された国際連盟と 密接に結びついており、国際連盟の仕組みや働きの解説、連盟規約の条文の解釈が、初 期の国際関係論研究および大学講義にとって重要な要素であった。人類が長年積み上げ てきた国際法の歴史の上に、史上初の超国家組織が誕生したと見なされ、ビトリアやグ ロティウスに代表される過去の国際法学者たちの名が、その著作とともに20 世紀に蘇 ることとなった。 1920 年代には、ヨーロッパの集団的安全保障を明文化したロカルノ条約、そして戦 争の違法化を高らかに謳い揚げた不戦条約などが結ばれ、「法による平和」が国際社会 の次元で実現したかに見えた。しかし30 年代に入ると、侵略行為に対する連盟の機能 不全が明白となり、また国際条約が紙くずのように次々と破棄され、国際法の発達によ って世界に平和をもたらす、という夢は絶たれた。国際関係の厳しい現実に直面して、 第二次世界大戦後の国際関係論は、大国の軍事力に焦点をあてて説明しようとする現実 主義が支配的となり、20 年代の思潮は、幾分か軽蔑期な意味合いを含めて理想主義と 一括りされるようになった。国際関係論の学問的中心は、ヨーロッパから超大国アメリ カに移り、さらに現実主義から行動主義、ゲーム理論、数量分析など、自然科学の成果 を取り入れたものへと発達していった。「法に対する政治の優位」とも呼ぶべき傾向が、 国際関係論全般に見られた。 しかし、国際関係理論があまりに精緻化された結果、この学問が持つ本来の意図、つ まり国際社会に平和を実現させるためにはどうすべきか、という論点が抜け落ちてしま ったように筆者には思える。例えば、2001 年アメリカ同時多発テロ事件後に見られた ように、国際関係理論が戦争擁護に援用される事態は、果たして正しいといえるのだろ うか。対テロ戦争の開戦理由もしくは正当原因として、中世以来の「正戦論」が劇的に 復活したことも、筆者にその思いを強くさせた。学問誕生から 100 周年を迎えるにあ たり、世界大戦直後の原点に戻るべきではないか。そのための一つの接近方法として、 筆者が注目したのが国際法史である。 そもそも誕生の経緯からして、国際法は、外交史や国際機構論(国際連盟論)と並ん で、国際関係論の重要な柱であった。だが、一般的な大学のカリキュラムでは、国際法

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は法学部の科目に、外交史や国際機構論は政治学部の科目に所属することが多く、両学 部がそれぞれ、第二次大戦後ますます専門化、精緻化するなかで、乖離する弊害をもた らした。日本においては、特にこの傾向が強かったように、筆者には思える。それゆえ、 国際法を国際関係論の中に再び呼び戻すことは、単なる過去への回帰、もしくは先祖帰 りと見なされる可能性もなくはない。しかし、冷戦終結によって、冷戦時代の国際関係 理論が根本から見直される事態となり、国際関係論の文脈において思想史研究が再び注 目されている。日本の国際政治学界においても、この傾向は顕著である。 加えて、従来は国際法概論の序論か、政治思想史の一部、もしくは法制史の一部とし

て言及されてきた過去の国際法学者たちが、「国際法史(history of international law)」

という学問分野が確立されてゆく中で、体系的に再構築されるようになった。グロティ

ウスの生誕400 年を記念する国際シンポジウムが 1983 年にハーグで開催され、ウェ

ストファリア条約締結350 年にあたる 1998 年には多くの論考が出版され、また『国際

法史雑誌(Journal of the History of International Law)』の刊行も 1999 年から始ま った。 以上に述べてきたような問題意識に基づき、国際関係論の学者でありながら国際法史 を重視した、20 世紀イギリスの研究者マーティン・ワイトに、本論文では注目する。 ワイトは1950 年代、ロンドン大学(LSE)において伝説の講義を行ったことで、知る 人ぞ知る存在であったが、その知名度の範囲は限られていた。しかし彼の早すぎる死後、 1970 年代後半になってから、再評価が高まり、1991 年に遺稿をもとに刊行された『国 際理論』によって、その名声は決定的となった。しかもイギリス一国を超えて、アメリ カを始め、世界的規模で彼の著作が読まれることとなった。加えて、ワイトを代表者と する、イギリス独自の学風、国際関係の英国学派が近年大いに注目され、英国学派との 関連でも、ワイトが参照されることが多くなった。 本論文では、ワイトの『国際理論』を手がかりに、彼が国際関係論の枠内で国際法史 をどのように理解していたのか、その詳細を明らかにする。ただし筆者の関心は、英国 学派そのものではない。英国学派は国際法を重視する、というのが一般的理解であるが、 国際法史がイギリスの知的伝統の中にどのように位置付けられるのかを再確認するこ とも、本論文の重要な課題である。そこで、本論文は次のような構成を取る。 まず第一部では、ワイト以前、イギリスにおいてどのように独自の国際関係論が発展 を遂げてきたのか、そして国際法史の要素がどのように見出せるのかを検証する。第一 章では、イギリスにおける、そして世界における初めての国際関係論講座の誕生を振り 返り、4人の重要人物に焦点を当てる。デイヴィッド・デイヴィス、アルフレッド・ジ マーン、チャールズ・ウェブスター、フィリップ・ノエル=ベイカーがその人である。

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次いで第二章では、イギリス国際関係論の第二世代ともいえる、チャールズ・マニング を取り上げる。マニングは、ワイトの同僚かつ先輩にあたり、ワイトの理論形成に少な からぬ影響を与えたと言われている。マニングを抜きにしてワイトの思想を考察するこ とはできないと、筆者は考える。また、ワイトに至る、以上の学問的系譜を辿ることは、 彼独特の『国際理論』を検証する上で必要不可欠だとも、考えている。 第二部では、その第一章において、ワイトの人生と業績とを概観する。彼は様々な職 業経験を積み、また宗教的体験を経て、思索を深めていった。続けて、彼がいわゆる「3 つのR」と名付けた思想的伝統、すなわち合理主義、革命主義、現実主義を概観し、彼 自身の分類による国際法学者の検証をそれぞれ行う。第二章では、合理主義の国際法学 者であるフランシスコ・スアレスとフーゴー・グロティウスを、第三章では革命主義の 国際法学者であるフランシスコ・ビトリア、アルベリコ・ジェンティーリ、クリスティ アン・ヴォルフを、最後に第四章では現実主義の国際法学者、ザームエル・プーフェン ドルフ、エメール・ド・ヴァッテルを取り上げる。以上7人の思想家を、ワイトがどの ように理解し認識していたのか、『国際理論』を中心に分析する。 こうした二部構成によって、イギリスの草創期国際関係論において国際法史が受容さ れた背景や経緯を確認した上で、これを受け継いだワイトが展開した独自の国際関係理 論を分析し、その中の国際法史の要素を検証することで、ともすれば20 世紀後半以降 軽視されがちであった思想的傾向を再構築することが本論文の目的である。すなわち、 国際関係論と国際法との再邂逅、もしくは両者の絆の復権である。

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第1部 英国学派の成立過程 第1章 英国学派の定義と発展 第1節 英国学派とは何か

日本でも社会科学の分野で「英国学派」という名称が知られるようになって久しい。 より正確には、「国際関係論の英国学派(the English School of international relations)」 と表記するが、その名称が示すように、イギリス(言語としての概念を厳密にするなら ば、イギリスではなくイングランドであるが、このことについては後述する1)におい て独自の展開をみせる国際関係論の理論を指した用語である。英国学派の特徴について は、スタンリー・ホフマンが簡潔にこう説明している。「国際関係を、たんなる『国家 から成るシステム』であるばかりではなく、国家間の複雑な関係のまとまりであるとと もに、一個の『国際社会』を形成していると見る点にある」2 実は、日本に英国学派が伝えられたのは比較的早く、ヒデミ・スガナミ(菅波英美) により1979 年、「国際社会論」として紹介されている3。スガナミは1989 年に英語に よる著作『国内類推と世界秩序構想』をイギリスで刊行したが、その日本語訳『国際社 会論』が1994 年に日本国内で出版された際、スガナミ自身が「邦訳に寄せて」の一文 を載せ、その中で「英国学派」という用語が用いられている4。さらに1998 年に細谷雄 一が発表した論文により、「英国学派」という名称が定着し5、これ以降、日本でも国際 関係論および国際政治学において言及されることが多くなったように見受けられる。 2000 年には英国学派の巨人ともいえるヘドリー・ブルの代表作『国際社会論』が日

1 本論では、特に断りのない限り、「英国学派」を用いる場合のみ「英国」を使い、それ以外で は「イギリス」という一般的用語を使用する。「英国学派」という名称が既に慣用となっている からである。

2 Hoffmann, Stanley, “Foreword to the Second Edition: Revisiting The Anarchical Society” in Bull,

Hedley, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics, 2nd ed. (Hampshire: Macmillan Press,

1995) [ヘドリー・ブル『国際社会論−−アナーキカル・ソサイエティ』臼杵英一訳(岩波書店、 2000 年)vii]. ホフマンが、ブルの『アナーキカル・ソサイエティ』第 2 版に寄せた序文。な お、2002 年には、これにさらにアンドリュー・ハレル(Andrew Hurrell)が序文を寄せた第 3 版 が、さらに2012 年に出版 35 周年を記念した第 4 版が、刊行されている。 3 菅波英美「英国における国際社会論の展開」『国際法外交雑誌』第 78 巻、第 5 号(1979 年) 47-77 頁。 4 H. スガナミ『国際社会論−−国内類推と世界秩序構想』臼杵英一訳(信山社、1994 年)ix。原

書は、Suganami, Hidemi, The Domestic Analogy and World Order Proposals (Cambridge: Cambridge University Press, 1989)。因みに、日本語版に序文を寄せた内田久司も、訳者の臼杵英一も、とも に同書の中で「イギリス学派」という用語を使用している。「英国学派」という用語が定着する 過渡期であったことが窺える。

5 細谷雄一「英国学派の国際政治理論−−国際社会・国際法・外交」『法学政治学論究』第37 号(1998

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本語で翻訳刊行され6、続いて2007 年にはブルに学問的に大きな影響を与えたマーティ ン・ワイトの著作『国際理論』も日本語訳されたことで7、同学派をめぐる議論が活発 化している。ワイトとブルが同学派の両巨頭であることに異論は出ていない。英国学派 はこれまで、国際関係理論において必ずしも主流とは言えなかったが、近年では日本で も、諸外国でも、しばしば取り上げられるようになった8。注目を浴びつつある概念で あることは間違いない。 しかし、そもそも英国学派とは何であるのか、誰がこの学派に属するのか、学派とい うくらいなら共通項や世代を超えた継続性は確かに存在するのか、といった質問に答え るのはそう簡単ではない。実際、英国学派と目される研究者たちの間でも、見解には大 分ばらつきがあるように見える。そこで本章では、ワイトやブルに影響を与えた研究者 たちと、学問としての国際関係論の起源を射程に入れることで、英国学派の源流を探る こととしたい。まず、用語としての英国学派を検証しつつ、密接な関係を持つイギリス 国際関係学会(BISA)にも触れる。続いて、イギリスにおける(と同時に世界で初の) 国際関係論/国際政治学の講座開設9と、初期の研究者たちを概観し、ワイトやブルに 至る英国学派の知的系譜の源流を明らかにしたい。以上が本章の目的である。 現在我々が国際関係論を研究するにあたって、絶対的なただ1 つの方法論があるわけ ではない。研究者の学問専攻分野はそれぞれ異なり、同じ専攻分野においても研究手法

6 Bull, op. cit.[ブル、前掲書].

7 Wight, Martin, International Theory: The Three Traditions (Leicester: Leicester University Press,

1991) [マーティン・ワイト『国際理論—三つの伝統』佐藤誠、安藤次男、龍澤邦彦、大中真、 佐藤千鶴子訳(日本経済評論社、2007 年)].

8 例えば、ラウトリッジ社から出版されている一連の学術入門書の 1 つ、『国際関係論の主要思

想家50 人』では、2009 年に刊行された第 2 版において初めて、リアリズムやリベラリズムと並

んで英国学派が、独立した項目として導入された。因みに同書では、英国学派に属する思想家 として、ブル、バリー・ブザン(Barry Buzan)、ティモシー・ダン(Timothy Dunne)、ジョン・ ヴィンセント(John Vincent)、そしてワイトの 5 人が取り上げられている。Griffiths, Martin, Steven C. Roach, and M. Scott Solomon, Fifty Key Thinkers in International Relations, 2nd ed. (London:

Routledge, 2009).

9 国際関係論(International Relations)と国際政治学(International Politics)とは、もちろん本来

は学問的に別の定義づけが必要である。たとえ、両者の違いはそれほどないという意見が今で も研究者の間であるとしても。しかし、本章で対象とする国際関係論の草創期には、学として の両者の相違がどの程度意識されていたのか、定かではない。筆者が参考にした文献において も、両者はほぼ同等の意味で用いられている。Northedge, F. S., “The Department of International Relations at LSE: A Brief History, 1924-1971”, in Bauer, Harry and Elisabetta Brighi, eds., International

Relations at LSE: A History of 75 Years (London: Millennium Publishing Group, 2003), p. 7. そこで本

論文では、国際関係論と国際政治学はほぼ同義として扱っていることをあらかじめお断りして おきたい。

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は異なるのであるから、各国ごとに特徴のある国際関係論が生まれることも不思議では ない。日本の国際関係論には独特な傾向があり10、イギリスにもまた独自の傾向が見ら れる、と範疇化することは可能である。 イギリスには独自の国際関係理論が存在する、と認識され、また主張され始めたのは、 1960 年代であるといわれる。この経緯については、スガナミも細谷もその論文の中で 紹介している11。まず 1954 年、ロックフェラー財団の援助により、国際関係の理論に ついての研究委員会が立ち上げられたが、その中心人物はディーン・ラスクとケネス・ W・トンプソンであった。国際法学者や大学教授などが参加したこの委員会は、主にコ ロンビア大学で研究会を重ね、その成果は1959 年に『国際関係の理論動向』という名 称の出版物となった12。この成功を受けてトンプソンは、同様の研究委員会をイギリス にも設けることを提案し、こうして1958 年、ロックフェラー財団の資金を受けて準備

が進められ、「国際政治理論に関する英国委員会(The British Committee on the Theory of International Politics)」が設立されることとなった。この委員会を設立する にあたり中心となったのが、ケンブリッジ大学の現代史の欽定講座担当教授サー・ハー バート・バターフィールドと、LSE(London School of Economics)で国際関係論を講

義していたロバート・ジェイムズ・マーティン・ワイトの2 人であった。 委員会は、バターフィールド教授の所属するケンブリッジ大学ピーターハウス・コレ ッジで始められた。多くの専門家が委員会に参加し、その成果が1966 年に『外交の研 究』として出版された13。まさにこの本こそが、後の英国学派の出発点となったのであ る。編者であるバターフィールドとワイトの他に、ロンドン大学国際関係論準教授のヘ ドリー・ブル、同じくロンドン大学戦争学教授のマイケル・ハワード、オクスフォード 大学セントアントニーズ・コレッジのフェローのG. F. ハドソン、それにケンブリッジ 大学ノリス=フルセ神学教授のドナルド・マッキノンが、それぞれ各章を担当した。各 論文の中味にまで本章では立ち入らないが、委員会活動を続ける中で、参加者はアメリ

10 例えば、以下の論考を参照。猪口孝『国際関係論の系譜―シリーズ国際関係論5』(東京大学 出版会、2007年)第6章。田中明彦「日本の国際政治学—−『棲み分け』を超えて」日本国際政 治学会編『日本の国際政治学』第1巻「学としての国際政治」(有斐閣、2009年)。 11 菅波、前掲論文、47 頁。および細谷、前掲論文、246-247 頁。

12 Fox, W. T. R. ed., Theoretical Aspects of International Relations (University of Notre Dame Press,

1959).

13 Butterfield, Herbert and Martin Wight, eds., Diplomatic Investigations: Essays in the Theory of

International Politics (London: George Allen & Unwin, 1966)[ H・バターフィールド、M・ワイト編

『国際関係理論の探究―英国学派のパラダイム』佐藤誠、安藤次男、龍澤邦彦、大中真、佐藤 千鶴子、齋藤洋ほか訳(日本経済評論社、2010 年)].

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カ委員会との違いを意識せざるを得なくなった。その様子は、『外交の研究』の序文に 記されているが、資金提供をアメリカの巨大慈善団体から受けていたことも、その意識 に拍車をかけたかもしれない。すなわち、「わが国において、『国際政治理論』という名 称は広く通用していないし、明解な意味もない」。英国委員会はアメリカ委員会に比べ 「現代よりも歴史、科学よりも規範、方法論よりも哲学、政策よりも原則」を関心の対 象としている14。この表現には、これから検討してゆく英国学派の特徴が、感覚的に表 れているように思われる15 イギリス独自の国際関係論の発展に大きく寄与したのが、1975 年 1 月に創立された イギリス国際関係学会(The British International Studies Association, 以下本論では

BISA と略記)16であったように筆者には思える。その学会誌(The British Journal of

International Studies 以下 BJIS と略記)創刊号には、「政治学、法学、歴史学、経済 学、経済史学、応用科学

テ ク ノ ロ ジ ー

」といった分化された学問分野のみならず、国際関係論への関

心を切り開く「その他社会科学の諸分野に関係する研究者の必要に応えるために創刊さ

れた」と冒頭に宣言されていることからも、BISA 創立への関係者の思いが窺える17

やがてBJIS(同誌は 1981 年に Review of International Studies と改名して現在に

至る。以下 RIS と略記)において、英国学派について活発な議論が展開されることに なる。 ところで、イギリス独自の国際関係理論研究の有力な中心地は、ロンドンのLSE 国 際関係学部と目されている。同学部で主に、後述するチャールズ・マニングとワイトか ら講義を受けた学生が、その知的影響の下に次世代の研究者集団を形成しつつあった。 しかし、この集団に特定の呼び名がつけられていた訳ではない。英国学派という名称を 最初に名付けたのは、カーディフのユニバーシティ・コレッジ政治学教授のロイ・ジョ

14 Ibid., pp. 11-12[邦訳前掲書、iii-iv]. 15 英国学派の中でこの委員会をどのように位置づけるかについて、優れた分析を行っている研

究として、以下の文献を参照。Dunne, Tim, Inventing International Society: A History of the English

School (Basingstoke, Hampshire: Palgrave, 1998), chap. 5 and 6.

16 BISA は直訳すると、「イギリス国際学会」となる。しかし英米の学術界においては、国際関

係論(IR: International Relations)が多くの学問分野に跨がる性質を持っていることを指し示すた

めに、敢えてIR という用語を学会名に付けることを避ける傾向があるといい、その例が BISA

だという。つまり、学会員の大多数が実際には政治学研究から出発していることから、IR の研

究領域が「国際政治学」だと見なされている実態が原因のようである。そこで筆者もBISA を、

その本来の性質を表す訳語である「イギリス国際関係学会」という名称で表記することとした い。“International Relations (IR),” in Evans, Graham and Jeffrey Newnham, The Penguin Dictionary of

International Relations (London: Penguin Books, 1998), p. 275.

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ーンズであった。彼は1981 年、改名されたRIS に「国際関係の英国学派」と題する、 極めて挑発的な論文を発表した18 ジョーンズはその冒頭で、「1 つの際立った学派」の存在を示し、その学派に強い影 響力を与えた人物として今は2 人とも亡きマニングとワイトの名を挙げ、1981 年当時 の中心的研究者としてブル、マイケル・ドネラン、ノースエッジ、ロバート・パーネル の4 人を列挙している。ジョーンズによれば、同学派の特徴は、世界を「全体として」 捉えることにあり、「主権を持つ国民国家」間の関係が基礎に置かれているという。ま た同学派の流儀には、統計学も、幾何学も、代数学もない。世界の貧困、物価、通貨改 革のような「一般民衆の苦悶」も取り上げない。国際政治学の用語や著作を批判的に分 析することすらほとんどしない。そして何より彼らは、LSE 国際関係学部という共通 の学問的起源を持っているのだ、という19 続けてジョーンズは、この学問集団の名称に相当するものとして2 つの語法を提示す る。1 つは「 古 典クラシカル学派」もしくは「 伝 統 トラディショナル 学派」であり、もう1 つが「 英 国ブリティッシュ学 派(British School)」である。しかし彼はまず、「古典」という名称は相応しくないと 主張する。なぜなら、LSE を母体とするこの学問集団の著者たちは、政治学の古典(プ ラトン、アリストテレス、マキアヴェッリ)に対する根本的関心から自らを切り離して いるからだという。さらに続けてジョーンズは、「 英 国 ブリティッシュ (British)」という用語も拒 絶する。その理由は、18 世紀に基盤が据えられた、経済や政治研究の 英 国ブリティッシュの自由 主義的伝統に対して、LSE の学派はほとんど言及していないからだとする。「多くの傑 出したスコットランド人」や「著名なウェールズ人」が無視されている、と。おそらく 彼の頭には、アダム・スミスやデイヴィッド・ヒュームがあったと思われる。最後にジ ョーンズはこう宣言する。「それゆえ私は、『 英 国 イングリッシュ (English)』という形容辞に[名 称を]決着させたい。ただしこれは、イングランド嫌い(anglophobia)だからという意

18 Jones, Roy E., “The English School of International Relations: A Case for Closure,” Review of

International Studies(以下、RIS と略), vol. 7 (1981), pp. 1-13. 論文の副題に「終焉の一例」とい

う言葉を用いていることが、象徴的である。

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味ではなく、 英 国 イングリッシュ 学派それ自身が誤解を招いていることから選んだのである」20 このように見てくると、「英国学派」の名称は、ジョーンズ本来の意図を汲み取って 日本語に翻訳するならば、むしろ「イングランド学派」と訳すべきではなかったか、と いうのが筆者の考えである。しかし、「英国学派」という語句が既に日本でも定着して いることから、本論でも、この表現で統一する。 いずれにせよ、ジョーンズがわざわざ命名に際して用いた「形容辞(epithet)」とい う単語には、悪口、軽蔑語という意味もあるように、彼はあくまで批判的観点から「英 国学派」と名付けた。だがこの言葉は、国際関係理論の中でも独自の特徴を供えた思想 潮流として認知され、逆に存在を広める結果となったことは興味深い21。あたかも、絵 画における「印象派」の由来を彷彿とさせる。用語の来歴が明らかになったところで、 次章では国際関係論の起源について検討したい。 第2節 イギリス国際関係論の誕生と先駆者たち 人類が初めて体験した世界大戦の悲惨さを振り返り、その再発防止のために、平和の ために誕生した新しい学問が国際関係論である。このことは、概説書の冒頭に必ず書か れている。そして、史上初めて、国際政治学の講座が開設されたのは、ウェールズ大学 アベリストウィス校であったことも、専門書にはしばしば記されている22。しかし、講 座誕生の経緯となると、それほど知られているわけではない。多くの人物や事柄が錯綜 しつつ、国際関係論の誕生と発展があったのはもちろんであるが、英国学派の特徴を見 る上で、歴史的経緯を振り返ることは極めて重要であるように思われる。本章では、数 名の人物に焦点をあてることで、誕生と発展を振り返ることにしたい。

(1) デイヴィッド・デイヴィス(David Davies, 1st Baron Davies of Llandinam, 1880-1944) 最初に取り上げるデイヴィスの名前は、研究者というよりも、史上初の国際政治学講 座開設に多額の寄付をした点で、政治家としてまた慈善事業家として、歴史に残されて

20 Ibid., pp.1-2. 21 ジョーンズのこの 1981 年論文を、英国学派の歴史の中でどのように理解すべきかについては、

以下を参照。Linklater, Andrew and Hidemi Suganami, The English School of International Relations: A

Contemporary Reassessment (Cambridge: Cambridge University Press, 2006), chap. 1.

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いる。彼の人となりについては、ブライアン・ポーターがRIS に 1989 年に発表した論 文が多くの示唆を与えてくれる23。デイヴィスの祖父は、一代で財をなしたウェールズ 産業資本家であり、彼は祖父の名声と莫大な財産を引き継いだ24。モンゴメリーシャー のリャンディナムで生まれたデイヴィスは、ケンブリッジ大学キングス・コレッジで学 んだ。1906 年から 1929 年までは地元モンゴメリーシャー選出の自由党国会議員とし て活躍し、第一次世界大戦中は志願兵部隊を指揮、次いでロイド=ジョージ首相の私設 秘書を務めた。世界大戦への従軍経験とその心的外傷が、その後死ぬまで、デイヴィス を徹底した国際平和運動に身を投じる契機となったようである。 第一次大戦終結後ほどなく、デイヴィスと彼の2 人の姉妹は、ウェールズ大学アベリ ストウィス校に、2 万ポンドの寄付をもって新たな講座の開設を申し出た。これにより、 1919 年に世界で最初に大学で国際政治学の講座が誕生することとなった。講座創設の 理由は、第一に世界大戦で命を落とした学生の記憶として、第二にアメリカ大統領ウィ ルソンに敬意を表して、そして第三に、国際的義務と世界平和のために国際連盟を最大 限擁護するためとされた25。つまり、学としての国際関係論の誕生と、実践の装置とし ての国際連盟との表裏一体性が見えてくる。アメリカでも同じく世界大戦期に国際関係 論が誕生しているが、連盟に最終的に参加しなかったアメリカと、連盟運営の要として イギリスが占めていた地位を考えると、そもそも出発点からして両国の学問の性格に相 違を生み出していたように思われる。 アベリストウィス校の初代国際政治学講座担当者は、後述するアルフレッド・ジマー

ンであるが、1922 年からは「ウッドロー・ウィルソン講座(Woodrow Wilson Chair)」

23 Porter, Brian, “David Davies: A Hunter After Peace,” RIS, vol.15 (1989), pp.27-36. なお同論文は、

その後加筆修正されて、Porter, Brian, “David Davies and the Enforcement of Peace,” in Long, David and Peter Wilson, eds., Thinkers of the Twenty Year’s Crisis: Inter-War Idealism Reassessed (Oxford: Oxford University Press, 1995) [ブライアン・ポーター「デーヴィッド・デーヴィスと平和の強制」 デーヴィッド・ロング、ピーター・ウィルソン編著『危機の20年と思想家たち−−戦間期理想主 義の再評価』宮本盛太郎、関静雄監訳(ミネルヴァ書房、2002年)所収]に再収録されている。 ここでは1989年版と1995年版と双方を参照するが、最初の論文の副題「平和の狩人」の方が、 デイヴィスの性格と人生を非常によく表しているように思える。

24 デイヴィスの祖父の名もまた、デイヴィッド・デイヴィス(David Davies, 1818-1890)である。

“Davies, David, First Baron Davies (1880-1944),” Oxford Dictionary of National Biography, vol. 15 (Oxford: Oxford University Press, 2004), pp. 348-350.

25 John, Ieuan, Moorhead Wright, and John Garnett, “International Politics at Aberystwyth”, in Porter,

Brian, ed., The Aberystwyth Papers: International Politics, 1919-1969 (London: Oxford University Press, 1972), p. 87.

(15)

と呼ばれるようになった26。デイヴィスがわざわざ講座をこのように命名したこと自体、 彼が国際関係論をどのように理解していたのかが窺える。国際連盟の提唱者であるアメ リカ大統領ウィルソンを尊敬し、連盟の活動を擁護することで世界平和を実現しようと するデイヴィスの姿勢を表していたといえよう。 彼は、自分と理想を共有し、その実現に協力してくれる人物を講座教授に望んだが、 その破綻が1936 年にきた。第 4 代ウィルソン講座教授の公募に際して、デイヴィスが 強力に推した人物が破れ、イギリス外務省に勤務していたE.・H・ カーが、就任した からである。デイヴィスが、カーの就任に徹底的に反対し、激昂のあまり学長まで辞任 し、両者の関係はその後もずっと険悪だったことは語り草となっている27。しかし、デ イヴィスにとってはこの上ない皮肉にも、アベリストウィスに着任したカーが3 年後に 書き上げた書物『危機の二十年』は、国際政治学の古典として現在まで燦然と輝いてい る。カーは同書の中で、国際連盟の問題点と限界を仮借なく指摘することとなる28 デイヴィスは、戦間期を通じて自分の理想を実現すべく精力的な活動を続け、自分の 着想を1930 年に刊行した『20 世紀の問題』で披瀝した29。同書は800 頁にも及ぶ大著 で、古代以来の国際的安全保障の試みを述べた後、国際警察軍の構想を詳しく説明して いる。因みに彼は、警察軍の一翼を担うものとして、わざわざ日本の役割に1 章を割い ている。彼はさらに、新 連 邦 コモンウェルス 協会の結成や国際義勇空軍構想の実現へと突き進んで ゆく。 だが、時代は2 度目の世界大戦へと突き進み、彼の試みは全て失敗に終わる。デイヴ ィスは最晩年、自分がウィルソン講座を寄付したことさえ後悔していたようである30 彼は失意のうちに第二次大戦末期の1944 年に亡くなった。しかし、彼が残したウィル ソン講座は、間違いなく、国際関係論誕生と発展のために決定的に重要であった。大戦 後の1951 年には、彼の名を冠したデイヴィッド・デイヴィス記念協会がロンドンに設

26 今日に至るまで、この名誉ある称号は保持されている。現在のウッドロー・ウィルソン講座

国際政治学教授(Woodrow Wilson Professor of International Politics)は、2000 年以来アンドリュ ー・リンクレイター(Andrew Linklater)である。

27 Porter, “David Davies: A Hunter After Peace,” p. 32; Haslam, Jonathan, The Vices of Integrity: E. H.

Carr, 1892-1982 (London: Verso, 1999), pp. 57-58 [ジョナサン・ハスラム『誠実という悪徳−−E. H.

カー、1892−1982』角田史幸、川口良、中島理暁訳(現代思潮新社、2007 年)89−91 頁] .

28 Carr, E. H., The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International

Relations, 2nd ed. (London: Macmillan, 1946), Part Two, “The International Crisis” [E. H. カー『危機の 二十年』井上茂訳(岩波文庫、1996 年)第二部「国際的危機」] .

29 Davies, David, The Problem of the Twentieth Century: A Study in International Relationships

(London: Ernest Benn, 1930).

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立され、国際関係論の発展に寄与した。同協会は、2002 年にアベリストウィス校に移 転し(本来あるべき場所に帰還した、と言った方がよいかもしれない)、その活発な研

究活動を続けている31。彼の遺産は今に受け継がれている。

(2) アルフレッド・ジマーン(Sir Alfred Eckhard Zimmern, 1879-1957)

BJIS 創刊号の巻頭論文は、ランカスター大学政治学教授の P・A.・レイノルズによ る「国際関係論—回顧と展望」と題する包括的なものであるが、その中でイギリスにお ける国際関係論の祖として、以下の 3 名を挙げている32。本節で取り上げるジマーン、 チャールズ・ウェブスター、フィリップ・ノエル=ベイカーである。この3 名にデイヴ ィスを加えた4 名とも、1879 年から 1889 年までの 10 年間に生誕しており、20 代か ら30 代の壮年期に第一次大戦を直接体験したという点で、ほぼ同時代に生きたと言っ てよいだろう。 ジマーンは、歴史上初めて、大学において国際政治学の講座を受け持った研究者であ る。彼の代表作は、1936 年に出版された『国際連盟と法の支配』であり、1939 年に第 2 版が出され、第二次大戦後も何度か出版社を変えて刊行された33。ジマーンの評伝を 書いたポール・リッチが指摘するように、後年ブルは、『国際連盟と法の支配』を戦間 期理想主義の1 つとして評価している34。しかし今日、彼の名前は国際関係論/国際政 治学研究者の間でも、ほとんど忘れ去られているように思われる。なぜなのか。 おそらく理由の1 つは、カーの古典『危機の二十年』の中で、ジマーンはユートピア ンの代表の1 人として、名を挙げられて批判されているからであろう35。リアリズムを 提唱したカーの古典が国際関係論の中で絶対的な地位を築いてゆく中で、ジマーンはユ ートピアンという烙印と共に、次第に顧みられなくなった。 本項では、ジマーンの国際関係の捉え方を考察してみたい36。ジマーンはイングラン

31 The David Davies Memorial Institute of International Studies (DDMI)

<http://www.aber.ac.uk/interpol/en/research/DDMI/DavidDavies.htm> (Accessed 2 March 2010).

32 Reynolds, P. A., “International Studies: Retrospect and Prospect,” BJIS, Vol. 1, No. 1 (1975), pp. 1-19. 33 Zimmern, Alfred, The League of Nations and the Rule of Law, 1918-1935 (London: Macmillan, 1936). 34 Rich, Paul, “Alfred Zimmern’s Cautious Idealism: The League of Nations, International Education,

and the Commonwealth,” in Long, David and Peter Wilson, eds., op. cit., p. 79 [ポール・リッチ「アル フレッド・ジマーンの慎重な理想主義−−国際連盟、国際教育、連邦」デーヴィッド・ロング、 ピーター・ウィルソン編著、邦訳前掲書、87 頁] .

35 Carr, op. cit., p. 39-40, 43 [カー、前掲書、83−86 頁、および 94 頁] . カーはこの箇所で、ジマ

ーン、ノーマン・エンジェル、アーノルド・トインビーを同列に並べ論じている。

36 ジマーンに評伝にはもう一編、マークウェルによる優れたものがある。Markwell, D. J., “Sir

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ド南部、ロンドン近郊のサリーに 1879 年に生まれた37。名前から推察できるが、父方 はユダヤ系ドイツ人の家系だったが、1848 年の革命を逃れてイギリスに移住してきた。 ウィンチェスター・コレッジからオクスフォードのニュー・コレッジで古典を学び、卒 業後はLSE で短期間、社会学を講義し、後に教育委員会査察官に就職し、最初の代表 作『ギリシャ 世 界 コモンウェルス 』を 1911 年に刊行した38。またアメリカの雑誌『ニュー・リパ ブリック』で国際関係についての執筆活動を行った。世界大戦が始まると、国際連盟協 会の設立に尽力し、大戦末期に外務省の国際連盟関係課に勤務したが、連盟の基本構想 に関する覚え書きを作成するなど、連盟そのものの創設に関与することとなる。ジマー ンの構想は、「連盟組織は国家間の定期的会合の上に基礎づけられるべき」であり、「主 権国家の国際的組織のために列強によって運営される一種の執行委員会」という位置づ けだった。彼は連盟を、19 世紀のヨーロッパ協調の制度化と見ていたようであって、 必ずしも連盟を無条件に信頼するといった態度ではなかったとリッチは分析している 39。こうしたジマーンの活躍が、1919 年に、アベリストウィスでの国際政治学教授採 用となったのであろう。 彼の教授職は、しかし2 年で終わりを告げ、ジマーンはアベリストウィスを去ること となる。学内での人間関係や対立が原因だったようであるが、彼はその後パリの国際連 盟知的協力国際委員会(現在のユネスコ、すなわち国際連合教育科学文化機関の前身) の副理事となり、1920 年代を通じて世界中の若者の国際交流と教育に非常に力を注い だ。とりわけジュネーヴで毎夏開いたサマー・スクールは好評だったようである。その 成功と名声の高まりもあって、1930 年、オクスフォード大学に新しく創設されたモン タギュー・バートン講座国際関係論の初代教授に任命された40。ジマーンは、今度は第

37 Markwell, D. J., “Zimmern, Sir Alfred Eckhard (1879-1957),” Oxford Dictionary of National

Biography, Vol. 60 (Oxford: Oxford University Press, 2004), pp. 993-995.

38 Zimmern, Alfred, The Greek Commonwealth: Politics and Economics in Fifth-Century Athens, 5th ed.

(New York: The Modern Library, 1931). 紀元前 5 世紀のアテネの政治と経済について詳しく考察 した本書は、1931 年に第 5 版を重ねたことからも推察できるように、第一次大戦前から後にか けて広く読まれた。この本の成功によりジマーンは、古代ギリシアの専門家として世に知られ るようになった。

39 Rich, op. cit., p. 84 [リッチ、邦訳前掲論文、92−93 頁] .

40 モンタギュー・バートン講座(Montague Burton Professor of International Relations)は、イギリ

スの衣料品業界の大立て者モンタギュー・バートン(Sir Montague Maurice Burton, 1885-1952)の 寄付によって誕生した。バートンは、元はリトアニア生まれのユダヤ人だが、10 代でイギリス

に移住して仕立て屋としての事業に成功し、1930 年にはオクスフォード大学に、1936 年には LSE

に、それぞれ国際関係論講座を寄付したのである。因みにブルは1977 年から亡くなる 1985 年

まで、オクスフォードでモンタギュー・バートン講座教授を務めた。現在のオクスフォードの 同講座教授は、2007 年以来、アンドリュー・ハレルである。

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二次大戦中の1943 年まで、同講座教授を長く務めることとなる。こうして、彼がオク スフォードのニュー・コレッジのフェローである時に出版したのが、先述の『国際連盟 と法の支配』であった。 ジマーンがその序文で述べているように、「法による支配」こそが「国際関係の分野 で打ち立てられるべきである」との信念から書かれた本といえる41。内容は三部構成で あり、第一部が戦前のシステム、第二部が連盟規約の要素、第三部が連盟の運営を扱っ ている。第一部は外交、外務省、国際会議、ヨーロッパ協調、国際法などの章が立てら れ、国際関係論の概説書のような趣きである。第二部ではどのようにして連盟が発足し たかが詳細に記述されており、彼自身が創設に携わった想いが伝わる。 冒頭でジマーンは、国際連盟を指す“League of Nations”という英語表現がそもそも 定義不明瞭だと指摘する。英語の“League”は「慈善団体(philanthropic association)」 や「博愛協会(humanitarian association)」を意味する言葉であって、フランス語の 国際連盟名“Société des Nations”の方が明瞭である。また“League”の構成員は“Nations”

ではなく“States”である、と42。このように見てくると、彼が理想と考えていた連盟は、 “Society of States”つまり「諸国家からなる社会」ということになるが、まさにこれは、 その後の英国学派の国際社会観につながるものである。しかし、これが単なる偶然かあ るいは必然かは、ここからだけでは判断できない。 彼によれば、国際関係においては「諸国家間」の(協力)関係はごく小さな分野でし かない。国際関係を理解するためには、諸国家間の関係のみならず、「人 民 ピープル 」の間の関 係の知識が要る。さらには、「人民『の間』の」関係についての知識でも足りず、「それ ぞれの各人民自身の」知識が必要だと説く43。ジュネーヴでの経験が、ジマーンにこう 書かしめたと言えるかもしれない。しかし皮肉にも、『国際連盟と法の支配』が刊行さ れた時には、世界は大きく変化していた。ヒトラーによるラインラント進駐や、ムソリ ーニのアビシニア侵略に対する連盟の無力さは、ちょうど1935 年から 36 年にかけて の国際的事件だったからである。 第二次大戦が勃発するとジマーンは、オクスフォードに疎開していた王立国際問題研 究所で外務省のために働いた。戦後誕生したユネスコの、初代事務局長に任命されたが、 短期間で交替させられた後、アメリカへ移住した。彼はアメリカに、自分の理想に近い

41 Zimmern, op. cit., vii. 42 Ibid., pp. 2-3. 43 Ibid., p. 5.

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国際関係実現の可能性を考えたようである44。コネチカット州ハートフォードのトリニ

ティ・カレッジで客員教授を務めるなどして、そのままアメリカで亡くなった。彼の国 際関係論への貢献は、何よりも、国際関係論を学問として確立させた点にあるといって よいだろう。

(3) チャールズ・ウェブスター(Sir Charles Kingsley Webster, 1886-1961)

ウェブスターはランカシャーに生まれ、ケンブリッジ大学キングス・コレッジで歴史 学を学んだ45。やがてリヴァプール大学現代史教授を務め、戦時中は軍務(陸軍省参謀 部)に就いたが、大戦終結期に外務省へ戦後処理の提言として、『ウィーン会議』を1918 年に執筆し、これは広く読まれた46。もちろんこれは、来るべき講和会議に向けて、イ ギリスはどのような準備をすべきかを意図したものであり、ウィーン会議時の外交史を 専門に研究していたウェブスターにとっては、格好の研究対象であった。 戦後はパリ講和会議に、イギリス代表団の書記官として参加している。1922 年、ア ベリストウィスの講座にジマーンの後任として呼ばれたが、デイヴィスは彼の友人であ った。ウェブスターはその地位を活かして積極的に研究活動を行い、またさかんに海外 訪問を行った。今やウッドロー・ウィルソン講座教授と名を変えたウェブスターの職位 は、潤沢な研究資金と限りなく講座担当義務の少ないものであり、担当教授は相当な活 動の自由度を約束されていた。この時期に書いた彼の生涯の代表作が、『カッスルレー の外交政策』である47。ウィルソン講座を10 年間務めた後、1932 年、彼は新設された LSE スティーヴンソン講座国際関係論教授に就任する(1953 年の退職まで務めた)48 第二次大戦では外務省で活躍し、新たな国際組織である国際連合の創設に関わることと なる。戦後は再び学究生活に戻り、大作『パーマストンの外交政策』を著し49、また

44 Rich, op. cit., pp. 92-95 [リッチ、邦訳前掲論文、100−103 頁] .

45 Clark, G. N., rev. by Muriel E. Chamberlain, “Webster, Sir Charles Kingsley (1886-1961),” Oxford

Dictionary of National Biography, vol. 57 (Oxford: Oxford University Press, 2004), pp. 882-883.

46 Webster, Charles, The Congress of Vienna, 1814-1815 (London: H. M. Stationary Office, 1919). 47 Webster, C. K., The Foreign Policy of Castlereagh, 1812-1815: Britain and the Reconstruction of

Europe (London: G. Bell and Sons, 1931). ヨーロッパ諸国の公文書館資料を渉猟し、未公刊文書や

外交文書を駆使した、外交史研究の1 つの金字塔ともいえる文献である。

48 Stevenson Chair of International Relations. 地方行政に携わった慈善事業家スティーヴンソン

(Sir Daniel Macaulay Stevenson, Baronet, 1851-1944)の寄付による。

49 Webster, Charles, Sir, The Foreign Policy of Palmerston, 1830-1841: Britain, the Liberal Movement

and the Eastern Question (London: G. Bell & Sons, 1951), 2 vols. 本書は当初 4 巻構成であったよう

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1950−1954 年までは英国学士院(British Academy)の院長(President)を務め、世 界各国の歴史家の交流に尽力した。亡くなるまで生涯、研究活動に生きた学究肌の人物 だったといえよう。 ウェブスターは外交史家として、すでにアベリストウィスに着任した時点で高い評価 を得ていたが、彼がウェールズを去るにあたり、国際連盟に関する著作も刊行していた ことは触れられるべきであろう。1933 年に出された『国際連盟の理論と実践』である50 アベリストウィスの同僚シドニー・ハーバート(Sydney Herbert)との事実上の共著 であるこの作品は、ウィルソン講座で10 年間、国際政治を教えたことが本の完成とな ったと書かれており、ウィーン会議外交から現実の国際政治に目を開かれたことに対す る、ウェブスターの思考が垣間みられるようだ。因みに献辞は、「リャンディナムのデ イヴィス男爵、平和の闘士へ」となっている。 書物の構成は、第一部が「連盟の設立」、第二部「連盟機構の発展」、第三部「世界平 和の組織」、第四部「国際的協力の成長」となっており、この3 年後に出版されるジマ ーンの国際連盟論に比べても、より実践が重視されている(しかし、後半の実践を扱っ た章は、ハーバートが分担執筆していることは指摘したい)。結論では、連盟への期待 が窺えるが、特に国際関係における小国の指導者、例えば名前を挙げているチェコスロ ヴァキア外相ベネシュなどの活躍に言及していることは興味深い51。本書の執筆時期は、 ヒトラーによる政権奪取のまさに前夜だった。また、国際平和を維持する上での教育の 重要性を特に説いていることは、ジマーンとの共通項である。

(4) フィリップ・ノエル=ベイカー(Philip John Noel-Baker, Baron Noel-Baker, 1889-1982) レイノルズがイギリス国際学の祖として挙げた最後の1 人が、ノエル=ベイカーであ る52。彼は 1959 年にノーベル平和賞を受賞した、世界的に著名な軍縮運動家として、 また若い頃にはイギリス代表としてたびたびオリンピック大会に陸上競技選手として 出場したことでも知られる、多彩な経歴を持った人物である。さらに長年労働党議員と して活動し、何度か労働党内閣にも閣僚として参加した政治家でもあった。彼は長寿を 全うたが、特に日本では、たびたび訪日経験があったこともあり、軍縮平和運動の担い 手として人々の記憶に残っている。彼の代表作で1958 年に出版された『軍備競争』は、

50 Webster, C. K., The League of Nations in Theory and Practice (London: George Allen & Unwin,

1933).

51 Ibid., chap. 20.

52 Howell, David, “Baker, Philip John Noel-, Baron Noel-Baker (1889-1982),” Oxford Dictionary of

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日本語訳も刊行されている53。このように、ノエル=ベイカーに関しては多くの資料や 文献があり、様々な角度からの考察が可能だが、本論文では英国学派の源流としての、 国際関係論草創期に彼が果たした役割に焦点をあてたい54 ノエル=ベイカーの父は、カナダからイギリスに移住してきたが、絶対平和主義を唱 えるクエーカー教徒の家庭に生まれ育ったことと父の生き方は、彼の人生に大きな影響 を与えたようである。彼はロンドンで生まれたが、アメリカのペンシルヴァニア州にあ るハヴァフォード・カレッジに留学した後に、ケンブリッジ大学キングス・コレッジで 学んだことも、つまりこの時代にイギリスで高等教育を受けた若者としては珍しい渡米 経験も、彼の人格形成に影響を与えたといわれている。第一次大戦では、前線で救護活 動に携わったが、その戦争経験もまた、彼のその後の人生にもたらしたものは大きかっ たようである。 大戦終結後、彼はパリ講和会議にイギリス代表団の一員として参加し、その後は国際 連盟の事務局で、さらに連盟のイギリス代表団書記官として1924 年まで活躍した。同 年、LSE にカッセル講座国際関係論が開設されると55、ノエル=ベイカーはその初代教 授に招聘された。アベリストウィスに遅れること5 年、ここにロンドンにも、国際関係 論の講座が大学に設けられたのである。彼はLSE で 1924 年以降、「国際関係論」およ び「国際政治学」の2 つの講座をそれぞれ持った。当時の大学要覧には、「世界中のあ らゆる地域が相互依存を増していること、共通の政治的経済的利益を促進するためには 国際組織が必要であることを科目で論じる」と書かれているほか、推薦文献として筆頭 にレナード・ウルフの『国際政府』を挙げており、当時の雰囲気が窺える56 講座就任後、彼は『軍縮』を1926 年に出版し、生涯の代表作の 1 つとなった57。全 17 章からなる著作では、調印されたばかりのロカルノ条約の話題から始まり、陸上、 海上、空中における軍縮への動き、軍縮条約における兵器制限の比率の問題、今日でい

53 Noel-Baker, Philip, The Arms Race: A Programme for World Disarmament (London: Atlantic Books,

1958) [ノエル=ベーカー『軍備競争−−世界軍縮のプログラム』前芝確三、山手治之訳(岩波書 店、1963 年)] .

54 Lloyd, Lorna, “Philip Noel-Baker and Peace Through Law,” in Long, David and Peter Wilson, eds., op.

cit. [ローナ・ロイド「フィリップ・ノエル=ベーカーと法による平和」デーヴィッド・ロング、

ピーター・ウィルソン編著、邦訳前掲書、所収].

55 Cassel Professor of International Relations. サー・アーネスト・カッセル財団から、最初の 5 年

間だけという条件で寄付された講座である。カッセル(Sir Ernest Joseph Cassel, 1852-1921)はマ

ーチャントバンクの経営家・金融業者で、大戦終結後の1919 年に、LSE に多額の寄付をしてい

た。

56 当時のシラバスが、LSE 国際関係学部のウェブサイト上で見ることができる。<

http://www2.lse.ac.uk/internationalRelations/aboutthedepartment/historyofdept.aspx> (Accessed 8 March 2010).

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うところの相互査察や軍事情報の交換など、幅広い事項を、具体例を交えながら展開し ている。ノエル=ベイカーによれば、軍縮の目的は単純に2 つ、戦争準備のために世界 中の人々に過度に強いている経済的重荷を減らすことと、結果として戦争をもたらすこ とになる軍備競争を防ぐことである58 戦間期のノエル=ベイカーは、彼の生涯の事業となる軍縮の研究とともに、常設国際 司法裁判所の選択条項をイギリスが受諾するよう、中心的に活動していた。選択条項を 受諾することは、イギリス国家が、常設国際司法裁判所の強制的管轄権を受諾すること を意味する。それは、彼が、軍事力によらない、「法による平和」を追求したことの証 左であると、ローナ・ロイドは論じている59。結局、彼は学究肌として教授職に留まる ことはせず、1929 年には政治の世界に踏み出し、労働党下院議員に当選して、以後は 大学生活に戻ることはなかった。しかし、戦間期は国際連盟、第二次大戦後は国際連合 を積極的に支持し、実際に活動をし、また死の直前まで精力的に世界平和と軍縮運動に 生涯を捧げたノエル=ベイカーの人生は、国際関係論における理論と実践を同時に実行 した人物として、特記されるべきかもしれない。 本節では、英国学派を理解する前提として、その源流たる最初期のイギリスの国際関 係論研究者を概観してきた。ここで取り上げた4 名とも、それぞれ個人としては非常に 魅力的な人物であり、それだけで評伝が書けると思わせる人々である。もちろん、国際 関係論の誕生にあたっての重要人物は他にも多くいるであろうが、文中に述べた理由に より、敢えて4 名のみとした。彼らは、アベリストウィス、ロンドン、オクスフォード でそれぞれ、最初の国際関係論/国際政治学の担当教授もしくはその設立者であるので、 この人選はあながち不適切ではないと筆者は考える。 実は、偶然にもこの4 名のうち実に 3 名までが、ロングとウィルソンが編者となって 1995 年に刊行された研究書『危機の 20 年と思想家たち』に収められている。もともと 同書には、冷戦終結という国際関係激変の中で、従来カーにより「ユートピアン」とし て「レッテル」を張られたかつての研究者たちを再検討する、という意図がある60。本 論文ではカーを正面から論じておらず、ただ行間に見え隠れするだけであるが、彼がア

58 Ibid., p. 7.

59 Lloyd, op. cit., p. 25 [ロイド、邦訳前掲論文、31 頁] . ロイドの論文は、この選択条項問題をめ

ぐるノエル=ベイカーの思想と行動を綿密に研究している。

60 Wilson, Peter, “Introduction: The Twenty Years’ Crisis and the Category of ‘Idealism’ in International

Relations,” in Long, David and Peter Wilson, eds., op. cit. [ピーター・ウィルソン「序論−−危機の二〇 年と国際関係における『理想主義』の範疇」デーヴィッド・ロング、ピーター・ウィルソン編 著、邦訳前掲書、所収].

(23)

ベリストウィスのウィルソン講座教授を担当したことの意味は、非常に大きい。また、 そもそもカーを英国学派とどう位置づけるかについても、重要な問題提起であって、現 時点での筆者には即答できない問題である。もちろん、このことは逆説的に、それだけ カーの存在が巨大であることを物語っているといえよう。 さて、ここで取り上げた4 名に共通することは、全員が何らかの形で国際連盟に関わ っていたことである。また、その誕生の契機となったパリ講和会議に、公的な地位で参 加していた者も多い。ジマーンのように、その創設に直接関係した者もいれば、デイヴ ィスのように、いわば側面援護の形で関係した場合もあるが、いずれも連盟を評価し、 その成功に期待し、積極的に関与した点が共通項である。彼らは皆、国際機構や軍縮条 約など、国際法の整備と発展により、この世界はよりよいものとなると信じていたが、 この素朴さこそが、カーが「ユートピアニズム」として厳しく批判するものであった。 だが、英国学派において、国際法の伝統が重視されていることを思うと、この観点こそ、 重要な研究課題ではないかと筆者は考える。 ジマーン、ウェブスター、ノエル=ベイカーが草創期の開拓者だとすれば、その次の 世代としてイギリス独自の国際関係論を大きく発展させるのが、次に述べるマニングで ある。そして、マニングの下で、ワイト、ブルといった研究者が育つこととなる。

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第2章 チャールズ・マニングによる国際関係論の確立 第1節 英国学派における位置づけ 前章で述べたように1919 年、ウェールズ大学アベリストウィス校において、世界で 初めて国際政治学の講座が開設された。続いて1924 年にはロンドンの LSE(ロンドン・ スクール・オブ・エコノミクス)で、1930 年にはオクスフォードで、それぞれ国際関 係論講座が開かれ、イギリスでの発展の基盤が築かれた。第一世代の研究者たちは、本 来別の専門分野の持ち主であったが、新しい学問を担当し開拓していった。例えば、ア ルフレッド・ジマーンは古代ギリシアのアテネが専門であったし、チャールズ・ウェブ スターはウィーン会議時代のイギリス外交を専門とする外交史家、フィリップ・ノエル =ベイカーは国際連盟と軍備縮小を追求する平和運動家であった。 これに対して、国際関係論そのものを新しい学問領域として大学教育の中に確立しよ うとする、いわば第二世代ともいえる研究者が登場する。1936 年から 47 年までアベリ ストウィスでウッドロー・ウィルソン講座国際政治学教授を担当したE・H・カーは、 その代表人物といってよいであろう61。カーがその在任中の 1939 年に著した『危機の 二十年』は、いまや古典中の古典となっている。学としての国際関係論/国際政治学の 確立にカーが果たした役割は、いくら強調してもし過ぎることはない。しかし本論文で は、国際関係論の英国学派に焦点を当てるという理由から62、カーと重なる戦間期から 戦後の時期にロンドンで国際関係論講座を担当したもう1 人の人物、チャールズ・マニ ングに焦点をあてたい。 今日、国際関係論においては、カーの名声と業績は圧倒的で揺るぎないのに比べて、 マニングは名前さえ忘れ去られている、とまで言えば言い過ぎであろうか。少なくとも

61 カーについては、最近日本でも優れた研究が発表されている。例えば、以下を参照。遠藤誠 治「『危機の二〇年』から国際秩序の再建へ―E・H・カーの国際政治理論の再検討」『思想』第 945 号(2003年)所収。山中仁美「『新しいヨーロッパ』の歴史的地平—E・H・カーの戦後構 想の再検討」『国際政治』第148号(2007年)所収。山中仁美「国際政治をめぐる『理論』と『歴 史』—E・H・カーを手がかりとして」『国際法外交雑誌』第108巻、第1号(2009年)所収。三 牧聖子「『危機の二十年』(1939)の国際政治観―パシフィズムとの共鳴」『年報政治学2008-I』 (2008年)所収。

62 カーを英国学派に含める見方も、除外する見方もある。Linklater and Suganami, The English

参照

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