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慣習と既存の慣行からなるこの国際法の体系は、法の背後にある法を承認し、そこ から法的権威を引き出している。根本的規範あるいは自然の規範は確かに存在し

これら 3 つの学派は、「3 つの R」に「完全には対応していない」と認めつつも、ワ イトは国際法理論を自らの 3 つの伝統に引きつけて論述する。まず、合理主義に相当す

2. 慣習と既存の慣行からなるこの国際法の体系は、法の背後にある法を承認し、そこ から法的権威を引き出している。根本的規範あるいは自然の規範は確かに存在し

ている256

として説明している。

現実主義と革命主義における国際法の理論は、どちらも実定法主義の傾向が強いとさ れる。現実主義では、国際法学者ブライアリーの著作を引用する形で「同意理論」を用 いて短く説明がなされている257

また革命主義では、ソ連邦の国際法理論を紹介する中で解説されており、ワイトによ れば、ソヴィエト国際法の定義は性質において実定法主義だという。しかし、ソ連邦に とっての国際法とは、極めて実用的な「政治の道具」でしかなく、「革命国家による聖 戦遂行のためのイデオロギー的武器」である258。『国際理論』巻末のパラダイム表に従 ってまとめると、現実主義=実定法主義、合理主義=自然法、革命主義=自然権、とい うことになる259

ワイトはさらに議論を発展させ、ここまで述べてきた国際法概念を支えている国際的 義務についての考察を加える。まず合理主義については、ダントレーヴの『自然法』を 引用しつつ、ラテン語の格言「契約は遵守されるべきである(pacta sunt servanda)」

を挙げる。つまり合理主義にとって、国際的義務は神聖なものであり、条約は拘束力を

255 Ibid., p. 234 [同上書、319頁].

256 Ibid., p. 234 [同上書、319頁].

257 ワイトが文中で引用しているブライアリーの著作は、以下である。Brierly, J. L., The Law of Nations (London: Oxford University Press, 1938)[ブライアリー『国際法—平時国際法入門』一又正 雄訳(有斐閣、1955年)].

258 Wight, International Theory, pp. 235-238 [邦訳前掲書、321-323頁].

259 Ibid., p. 278 [同上書、393頁].

持つということが、最も重要な原理である260

現実主義にとって、条約は一時的なものでしかなく、国益にどれだけ有用かという観 点から判断される。従って、これに相当する格言は「状況が変わらない限り(rebus sic

stantibus)」となる。また革命主義には、国際的義務に関する特定の理論を見出すこと

は難しいという。ここでもソ連邦の外交が例として挙げられているが、同国の目標は国 際革命なのであって、その特徴は「柔軟性と日和見主義的な可能性」だとワイトは断じ ている。ラテン語格言は「異端者との約束は守らなくてもよい(cum haereticis fides non servanda)」とされる261

ここまで、ワイトの全体的な国際法史観を概観してきた。もとより、法学者もしくは 国際法専門家の目からすれば、ワイトの解釈や分類は、多少奇妙なものに映るかもしれ ない。しかし、それこそがワイトの独創性であると筆者は考えており、ワイトの国際関 係理論への貢献が、現在に至るまで多くの問題提起を行っていることを考えると、彼と 国際法史との関わりについての分析をさらに進める必要があるであろう。

それでは以下で、ワイトがそれぞれの国際法学者をどのように理解し、自分の国際理 論の中にどのように位置づけていたのかを、検討してゆきたいと思う。

260 Ibid., p. 238 [同上書、324頁].

261 Ibid., pp. 238-241 [同上書、324-328頁].

第2章 ワイトによる合理主義の国際法学者

第1節 フランシスコ・スアレス

グロティウス以前の国際法史において、フランシスコ・スアレスの名を落とすことは できない。1517 年にマルティン・ルターがおこした宗教改革に対して、カトリック教 会側からは

1534

年にイグナティウス・デ・ロヨラがイエズス会を結成し、これがいわ ゆる反宗教改革(対抗宗教改革)の始まりとなった。イエズス会は

1540

年にローマ教 皇から公認を受け、9年後にはイエズス会修道士のフランシスコ・ザビエルが布教のた め日本に上陸している。

スペインのグラナダの名家に

1584

年に生まれたスアレスは、長じてスペイン最古の 大学であるサマランカ大学に進み、ここで教会法とローマ法とを学んだ262。そして在学 中に信仰を深め、イエズス会に入会した。学問を修めたスアレスは、サラマンカをはじ めスペイン各地の大学で神学講義を行い、その名声を高めていった。彼が教会から俊秀 博士(Doctor eximius)の称号を贈られたことに、それは示されている。その後

1597

年にポルトガル最古の大学であるコインブラ大学の神学教授に就任し、以後ほぼ終生、

亡くなる

1617

年に至るまで、コインブラに居住した。当時のスペインは、国王フェリ ペ

2

世が統治する「日の沈まぬ帝国」であり、1580年にポルトガルがスペインに併合 されたため、スペイン領となっていたコインブラ大学に着任するよう、スアレスはフェ リペ

2

世から要請されたのであった。

スアレスは膨大な数の著作を残したが、その多くはカトリック神学とスコラ哲学に関 するものである。このうち国際法に関するものは、『法律と立法者たる神についての論

(Tractatus de legibus ac Deo legislatore)』の第

2

巻の第

17

章から

20

章にかけての 部分、いわゆる「万民法論(jus gentium)」(1601から

1603

年にかけての講義、1612 年に出版)と、『神学上の三つの徳、信仰と希望と愛とについての書(Opus de triplici virtute theologica fide, spe et charitate)』第

3

編「愛について(De charitate)」の論 考第

13「戦争について(De bello)」、いわゆる「戦争論」(1583

年と

1584

年の講義、

1621

年出版)の

2

つである263

262 スアレスの略歴概説については、伊藤不二男「スアレス」国際法学会『国際関係法辞典』第 2版(三省堂、2005年)505-506頁があるが、さらに詳しい生涯と業績については、伊藤不二男

『スアレスの国際法理論』(有斐閣、1957年)の第一部、第一章がある。本論では、主に同じ研 究者による上記の既述によっている。

263 以下のカーネギー叢書版に2編とも収められている。Suárez, Francisco, S. J, Selections from

伊藤不二男によれば、「万民法論」では万民法を「第

1

の意味の万民法」=「諸民族 の間の法(jus inter gentes)」と、「第

2

の意味の万民法」=「諸民族の内部の法(jus intra gentes)」とに分類され、前者こそが本来の意味の万民法であり、後者は厳格には市民 法(国内法)に当たる、と主張している264。また「戦争論」では、犯された不正に対す る刑罰権の行使が正当戦争なのだとして、刑罰戦争観を法理論として説明している265。 この

2

点が、スアレスが国際法史上において重要な位置を占めている理由とされる。

ではワイトは、スアレスをどのように見ていたのか。『国際理論』の第

1

章において、

合理主義の伝統の中で、彼はスアレスを「中世の自然法的伝統と近代国際思想の橋繋ぎ をした新スコラ主義者のイエズス会士」として紹介している266。さらに同じ章でワイト は、「合理主義者は形而上学的な問いをもとに国際関係について叙述する」ものだと述 べ、彼ら合理主義者の関心は「事態の本質的性格に向けられる」とする267。ワイトは、

国際関係についてのスアレスの描写は存在論的だとして、「いかに多くの国民や民族に 分かれていようとも、人類は確かな統一体である」で始まる一節を引用している268。こ の引用部分は、スアレスの「万民法論」第

19

章「万民法は、絶対的に実定的な人定法 として自然法から区別されるか」の第

9

節に相当する269。ただワイトは、原典からでは なく、ジョン・エプスタインが

1935

年に刊行した『国際法のカトリック的伝統』の引 用を使っている270

ワイトが国際社会論を構築する上で、スアレスに少なからぬ影響を受けたことも窺え る。先に触れた『国際理論』第

3

章「国際社会の理論」では、ワイトはスアレスのこと を、世界主体を「疑似政治的・道徳的社会(societas quasi politica et moralis)」とし て描いたのだと説き、国際理論のパラダイムとして巻末の表にこのラテン語を掲載して いるが、スアレスの構想するこの国際社会は、外交制度によって表されるとも記述して いる271。ワイトの『国際理論』第

3

章のまとめとして、彼はスアレスの「疑似政治的・

Three Works, ed. by James Brown Scott (New York: Oceana, 1964).

264 この万民法の詳しい分析については、伊藤、『スアレスの国際法理論』、第一部、第三章を参 照。

265 同様に正当戦争の詳細な分析については、伊藤、同上書、第一部、第四章を参照。

266 Wight, Interntional Theory, p. 15 [邦訳前掲書、18頁].

267 Ibid., p. 22 [同上書、27頁].

268 Ibid. [同上書].

269 伊藤、『スアレスの国際法理論』、139頁。

270 以下である。Eppstein, John, The Catholic Tradition of the Law of Nations (London: Burns Oates,

1935), p. 265. なお、ワイトは同書を特に、『国際理論』巻末の選定参考文献表の「グロティウス

主義的伝統への批判的分析」の中の一書として挙げており、重要視していたことが窺える。

271 Wight, International Theory, p. 275 [邦訳前掲書、391頁].

道徳的社会」をゴチックで強調して繰り返し、「国際社会とは何か」という問いに対し て合理主義の立場から端的に言うと「それは社会ではあるが、国家とは異なる」と結論 する272

さらに『国際理論』第

7

章「外交の理論」でも、ワイトはスアレスの思想を繰り返す。

「スアレスは、人類が国ごとに分かれていようともある種の政治的、道徳的な統一性を 持っていると言う」273。しかし、それ以上に興味深いのは、ワイトが「契約理論」の説 明の中で、ビトリア、スアレス、グロティウスを並列していることである。つまり、以 上に挙げた

3

人とも、国際社会を想定したのであり、3人の思想の中には

3

つの概念が 存在するという。すなわち、「〔第

1

に〕諸国民の集まったものが国際社会である。〔第

2

に〕おぼろげな社会契約が諸国民を結びつけうる。〔第

3

に〕そうは言いながらも、

国家は完全なコミュニティである」274。社会契約論を国際関係に適用することで、国際 社会の成立を説明しようとした思想の流れの中で、ビトリア、次いでスアレス、そして グロティウスはその契約理論を発展させてきたというのが、ワイトの考えである(さら にワイトは、スアレスと同様にカントも国際的な社会契約を想定していたと主張する

275)。

ラテン語で書かれたスアレスの原典にワイトが当たっていたのか、またはエプスタイ ンの著作から二次的に学んで引用していたのかは、確認できない。しかし、ワイトの分 類する合理主義の伝統の中で、スアレスが重要な位置を占めていたことは言明してよさ そうである。何より、スアレスはその後、グロティウスへとその伝統を引き継いでゆく ことになるからである。

2

節 フーゴー・グロティウス

(1)

ヴァン・ヴォレンホーヴェン

17

世紀のオランダで活躍したフーゴー・グロティウスは、改めて言うまでもなく「国 際法の父」と冠せられる最初期の国際法学者であり、その人物像、ヨーロッパ三十年戦 争の最中

1625

年に刊行された『戦争と平和の法(De Jure Belli ac Pacis)』276の意義

272 Ibid., p. 48 [同上書、61頁].

273 Ibid., p. 138 [同上書、185頁].

274 Ibid. [同上書].

275 Ibid., p. 216 [同上書、293頁].

276 Grotius, Hugo, De jure belli ac pacis libri tres, ed. by James Brown Scott (Oxford: Clarendon Press,

1925), 3 Vols. このカーネギー叢書版は、20世紀におけるグロティウス研究に大きな影響を与え、

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