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め 私 は 先 に 、 ﹁﹃公害から環境問題へ﹄はどう理解すべきか﹂ 換すべきことを意味するものと答え そ こ か ら 、 ﹁ 事 後 救 済 か ら 事 前 予 防 へ ﹂ ﹁予防原則の必要性﹂について論じた。そこでも論じたように、予 を 問 い 、 と基本政策を転 防原則は 一 九 七0
年代に西ドイツで環境法・環境政策の基本原理の一つとして提出された事前配慮原則(︿022・ 官 官 吉 弘 司 ) に 淵 源 し 、 官 m n E 同 町 内 話 回 弓 胃 百 円 仲 間 M Z と 英 語 で 表 現 さ れ て 種 々 の 国 際 条 約 に お い て も 用 い ら れ 、 一 九 九 二 年の地球サミットで採択された﹁リオ宣言﹂ の 第 一 五 原 則 に お い て 、 一つの頂点に達したものである。なるほどこの 第 一 五 原 則 で は 、 ( 同 V H 2 2 氏 。 ロ 同 門 司 同 M H E n -四 ) の 概 念 は 用 い ら れ て お ら ず 、 た だ ﹁ 予 防 的 方 策 ﹂ ( 日 M H m -﹁ 予 防 原 則 ﹂ ngtoS弓品目MHgnr)││現在は、外務省等によって﹁予防的取組方法﹂と訳されている││と言われているにすぎ ない。しかし私は、そこには少なくとも予防原則の核心部分が語られていると考える。すなわち、①﹁深刻な、ある いは不可逆的な被害のおそれがある場合﹂、②﹁環境悪化を防止するための費用対効果の大きな対策を延期する理由 として L 、③﹁科学的確実性の欠如﹂を持ち出してはならない、 ということである。 日本の水俣病事件において典型 的に見て取ることができるように、因果関係が科学的に判明していないということを理由として、採られるべき対策 予防(事前配慮、)の公共哲学(丸山) - 67ーが延期され、何もなされないまま、いたずらに被害を拡大してしまう経験が、繰り返されてきた。回復不可能な仕方 で環境を破壊してしまい、人命を失い、人の健康に重大な被害を与えてしまうことは避けなければならないと考える ならば、そうした危険性が推測されるとき、因果関係が科学的に確実な仕方で解明されるまで何もできない、と主張 することは許されない。とにかく危害をもたらす可能性のある行為を開始しない、あるいはすでに開始しているなら 中止する、という必要が声る。まずは中止して危害の発生を予防し、あるいは危害の拡大を防止し、そののちに原因 究明に努めるべきである。 ﹁科学的確実性の欠如﹂が環境悪化の防止を延期する理由として用いられてはならない、という﹁リオ宣言﹂の主 張は、予防原則の核心部分である。従来の環境政策は、重大な環境損害が生じているという科学的証拠がある場合に のみそれを生み出す行為の防止措置をとることができ、そうした証拠がない場合には防止措置をとることは要求され え な い 、 という前提になっていたが、そのような前提に立つことによって、結果的に、多大の危害を、もたらし、回復 不可能な仕方で環境を破壊してきた幾多の経験があった。そうした経験を通して、従来までの考え方の不十分さを学 び、科学の不完全性を改めて認識し、無知への謙虚さを学ぶことによって打ち立てられてきたのが﹁予防原則﹂であ る。すなわち、予防原則は、何よりもまず、過去の経験から学び、引き出した﹁教訓﹂として成立してきたものであ る こ の 点 で 、 ヨ ー ロ ッ パ 環 境 庁 ( 何 回 目 。 胃
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ろが、放射線、ベンゼン、 PCB ア ス ベ ス ト 、 など全部で一四の事例を取りあげて予防原則の観点から過去の経験を検討し、 れ可制。私自身は、リオ宣言を批准することによって日本国内で制定された一九九三年の環境基本法が、第四条で﹁環 ﹁教訓﹂を引き出しているのが注目さ 境の保全上の支障が未然に防がれる﹂ことを求めている点で、予防の重要性を述べていながら、 ﹁科学的知見の充実 の下に﹂という条件を付記することによって、予防原則の核心部分を完全にはぐらかしていることを批判し、 ﹁ こ れ - 68ー 龍谷大学論集では、公害対策基本法を廃止して成立した環境基本法は、かつての公害の経験、とりわけ水俣病の経験を無視し、そ こから何も学ばなかったことの証拠になってしまう﹂、と論じた。そしてまた、 防原則の観点から何を教訓として引き出しうるのかを、考察した。 とくに水俣病事件を取りあげて、ヱ了 日 本 の 環 境 基 本 法 は 、 はっきりと予防原則を打ち立てるべきである、というのが私の主張である。環境基本法にお いて予防原則を打ち立てることができず、 一般に予防原則の思想を日本の社会に根づかせることができな さ ら に は 、 い の は 、 いったいどうしてなのか。そのことを考えるとともに、予防原則の思想を豊かにし、 日本の社会に生かすの に何が必要なのかを考えること、それが本稿の意図である。こうした考察はまた、アジアの地域、とりわけ高度の経 済成長が甚大な環境被害を引き起こしている中固などに、日本の経験と教訓を伝達するためにも必要である。 なお、本稿のタイトルは﹁予防(事前配慮﹀の公共哲学﹂である。この場合、 ﹁ 予 防 ﹂ を 英 語 の ︼ 肖
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、 ﹁ 事 前配慮﹂をドイツ語の︿0
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を意味するものと考えている。 ︿O
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をはっきり提示す とりわけドイツ語の ることの必要性については、本論で明らかになるだろう。 同 ︾ ロr
-山 口 匂 V 巳 O 凹 O 問 ︼ } 岡 山 ﹃ の訳語のつも ﹁ 公 共 哲 学 ﹂ は りであるが、これは﹁公共性﹂について哲学するという意味と、哲学それ自身が﹁公共的﹂なものになるという意味 との両方を含んでいる、と私は理解している。 ま た 、 公 害 論 に お け る 公 共 性 論 と ﹁ 予 防 ﹂ の 必 要 性 の 議 論 │ │ 環 境 権 論 の 展 開 予防原則(官22
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弓 官 山 口 口 即 日 比 由 ) つの原則の一つとして登場した事前配慮原則(︿0
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官 官 山 口 氏 巴 ( 他 の 二 つ の 原 則 は 原 因 者 負 担 原 則 ︿258
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と 協 働 原 則 問 。 。 官 自 民 O ロ 回 官 同 日 目 切 で あ る ) 。 や が て ヨ ー ロ ッ パ で 海 洋 汚 染 防 止 の 国 際 条 約 な ど す で に 述 べ た よ う に 、 t主 一 九 七0
年 代 西 ド イ ツ で 環 境 法 ・ 環 境 政 策 の 一 一 一 に淵源する に活用され、さらに一九九二年の地球サミットで採択された﹁リオ宣雪ロ﹂は、その第一五原則において予防原則を明 予防(事前配慮)の公共哲学(丸山) - 69ー刀て し て L
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る。
(6) ﹁予防原則﹂については、その定義と実施手法を巡って、なお種々の議論があるが、 まずもって重要なことは、こ ﹁ 教 訓 ﹂ として成立してきたということである。 この意味におい れが従来までの様々な失敗の経験から獲得された て、日本においても、水俣病事件をはじめとする公害や薬害・食品汚染事件などの経験を検討することが何よりも重 要だと考える。また、予防原則の意味規定については、環境倫理学にコミットする哲学者たちも積極的に参加してい く 必 要 が あ る 。 私は、予防原則についてこれまで行われてきた国際会議などの議論を振り返るとき、米国ウィスコンシン州ウィン グスプレッドでの﹁予防原則に関するウィングスプレッド声明﹂が極めて重要だと見ている。そこには、四つの要点 が語られている。すなわち、①不確実性に直面して決定すること(因果関係が科学的に完全には判明でなくても、予 防措置がとられるべきこと﹀、②立証責任を転換すること、 の 四 つ で あ る 。 ③民主的な決定過程を保障すること、 ④十分に広範な代 替案を検討すること、 日本でも勿論、環境政策が事後救済・事後処置から事前予防へと転換すべきことは気づかれてきたし、論じられて きた。他ならぬ公害の経験こそが、予防の重要性を認識させてきたのである。その点で、 え る 場 合 、 日本において予防原則を考 一 九 七0
年代の初期、大阪弁護士会を中心にして展開された﹁環境権﹂論を振り返っておくことに意味が あると思う。この﹁環境権﹂論こそは、事後救済から事前予防への発想転換の必要性を早い時点で洞察し、要求した も の で あ り 、 しかもその後、必ずしも十分に展開されてこなかった議論だからである。 そもそも﹁公害対策﹂として地方自治体の主体的な取り組みとして始まった日本の戦後の環境政策は、 一 九 六 七 年 の公害対策基本法の制定によって、規制権限を中央集権化し、高度経済成長政策の枠内に押しとどめるべく経済調和 条項を盛り込んだ。 ﹁生活環境の保全については、 す な わ ち 、 経済の健全な発展との調和が図られるようにする﹂ -70ー 龍谷大名論集(公害対策基本法第一条二項﹀という経済調和の理念に基づいて、対処療法としての公害対策・公害処理がなされた の で あ る 。 一 九 七
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年二一月のいわゆる﹁公害国会﹂において、公害対策基本法の改正がなされ、経済調和条項は、 確かに、文言としては削除された。しかし、その基本路線は、今に至っても何ら変わっていない。 ちの努力にもかかわらず、今も環境権が明確に規定されていないのは、環境権が有していた法技術上の難点によるば かりではなくて、根本的には、経済成長主義とは異なった国家目標を掲げることができず、それに即した各種の制度 ﹁ 環 境 権 ﹂ 論 者 た 構築を果たすことができないからである。ここでもう一度、﹁環境権 L 論を振り返っておくことが最低限必要である。 一 九 七O
年三月二一日、国際社会科学評議会・環境破壊常置委員会主催の国際シンポジウムにおいて﹁東京宣言﹂ が出され、その中で環境権の確立が訴えられた。 ﹁人たるもの誰もが健康や福祉を侵す要因にわざわいされない環境 を享受する権利と将来の世代へ現在の世代が残すべき遺産であるところの自然美を含めた自然資源にあずかる権利と を基本的人権の一種としてもっという法原則を、法体系の中に確立する﹂ことが、要請されたのである。 そして﹁公害国会﹂ の 三 ヶ 丹 前 、 一 九 七O
年九月、第二水俣病の発生地・新潟で開催された日本弁護士連合会第一 公害としての危害の発生を防ぐため 一 回 人 権 擁 護 大 会 に お い て 、 ﹁ 環 境 権 ﹂ の 提 唱 が な さ れ た 。 こ こ で は 明 確 に 、 に、環境への事前配慮の必要性が論じられている。 われわれが今後の課題として公害問題を考える場合には、人の健康が直接に蝕まれるような事態にまで立ちいた った現象を公害問題として捉え、これに対する対策を考えようということでは、問題の本質的解決にはならな い。われわれは、どうしたら、そのような侵害を受けない環境をつくり出すことができるか、人たるもの誰もが 健康で快適な生活を侵す要因にわざわいされない環境を享受することができるかという観点から、広く人間の環 予防(事前配慮〉の公共哲学(丸山〉 -71ー境の保全という立場に立ってこの問題を考えてみなければならない。 ︹:::︺今日では右のような観点から、広く﹁全人類にかかわる環境悪化﹂の問題として把握せられ、これを 環 境 破 壊 ( 開 ロ ユ
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宮 山 O ロ)という概念で説明しようと試みられてい向。 われわれを取りまく自然は、もはやわれわれが自由にこれを使用しうる﹁自由財﹂ではなくなり、稀少価値をも つ﹁価値物﹂に変化したということができる。このことを法的に評価すれば、 ﹁それらは一つの権利保護の要件 を具えた﹂ということができるであろう。今われわれは、これを、 われわれを取りまく自然についてのみ観察し てきたが、長年にわたって築きあげてきた社会的環境、すなわち道路、港湾、橋などのような社会生活に不可欠 な要素、あるいは、長い間馴れ親しんできた景観、あるいは人間の歴史の上に築かれた文化的遺産といったもの も、広く人間生活を豊かにする価値のある資源という意味において、この﹁環境﹂の中に包含さるべきである。 ところで、これらの環境は、 われわれが健康で文化的な生活を営む上において、 必要不可欠なものであるから、 これを利用しうる機会は、当然万人に平等に保障されていなければならない。 そこで、これらの環境を破壊から守るために、われわれには、環境を支配し、良き環境を享受しうる権利があ り、みだりに環境を汚染し、 われわれの快適な生活を妨げ、あるいは妨げようとしている者に対しては、この権 利に基づいて、これが妨害の排除または予防を請求しうる権利があることを今日あらためて提言したいと考える の で あ る 。 右に述べられているように、 ﹁人たるもの誰もが健康で快適な生活を侵す要因にわ ﹁環境を支配し、良き環境を享受しうる権利﹂である。 ﹁ 環 境 権 ﹂ の 内 実 は 、 第 一 に 、 ざわいされない環境を享受することができる﹂権利であり、 -72ー 龍谷大学論集しかしさらに第二に、こうした権利の侵害に対して﹁妨害の排除または予防を請求しうる権利﹂である。 そもそも法的な﹁権利﹂の概念は二階建ての構造になっている、 と言ってよいだろう。私は﹁権利﹂を、 ﹁ 相 互 承 認された正当な(当然の﹀要求﹂ 英語のユ
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やドイツ語の M N m n r 丹 が 、 明治時代に と 定 義 す る 。 周 知 の よ う に 、 ﹁権理﹂とも訳されながら、結局は﹁権利﹂という訳語が日本において定着してきた。 同 日 間 宮 や 同 州 市 ロ 宮 が も っ て い る ﹁ 正 し さ ﹂ ﹁ 当 然 さ ﹂ と い っ た 意 味 を 、 ﹁権利﹂という訳語の内に読み取ることは困難である。それゆ ﹁ 正 当 性 ﹂ > え、
﹁相互承認された正当な・当然の要求﹂という私の定義は、実はそのままユm
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の説明的な訳語であ る、と私は考えている。そして私が、法的な﹁権利﹂概念は﹁二階建て﹂になっている、と主張するとき、私が言い た い の は 、 ﹁ 権 利 ﹂ は ま ず 第 一 に ( 一 階 に お い て ﹀ 、 ﹁相互承認された正当な・当然の 次のことである。 す な わ ち 、 要求﹂であるが、その要求が阻止・阻害され、相互承認が致損され、破棄されたときには、あるいはその危険性があ その﹁正当な・当然の要求﹂を再度相互に承認し、阻害・虫損を矯正する、 あるいは予防することを要求(請求﹀することを、また正当な・当然の要求として相互に承認しあっている、という る と き に は 、 第 二 に ( 二 階 に お い て ) 、 こ と で あ る 。 一階での正当な要求が破られたり、破られる危険があったとき、二階において、それを補償・ つ ま り 、 救済・矯正するか、もしくは予防することを要求しうるのが、 ﹁ 権 利 ﹂ の 二 階 構 造 で あ る 。 このような﹁権利﹂概念の理解からすれば、環境権論者たちが、環境権を第一に﹁人たるもの誰もが健康で快適な 生活を侵す要因にわざわいされない環境を享受することができる﹂権利であるとし、 さらに第二に、こうした権利の 侵害に対して﹁妨害の排除または予防を請求しうる権利﹂であるとするのは、まったく当然のことであろう。しかし ながら、環境権論者たちが伺よりも求めたのは、公害の事後処理ではなくて、事前予防であったから、事前予防とし て法的に実効性をもっ法構成が必要であった。もっと具体的に言えば、公害対策や処理にあたって当然視され、とり わけ差止訴訟において前提されていた受忍限度論を批判し、それを克服することが、環境権論者たちのまずもっての 予防(事前配慮〉の公共哲学〈丸山〉-73-課題だったのである。 もともと公害の法理は、権利濫用論から受忍限度論へと発展してきた。 ﹁加害行為の法的評価にあたって、加害者 の事業活動の原則的適法性を承認し、ただ加害者が権利行使の範囲を逸脱した場合にのみ例外的に違法性をおびると いう考え方﹂が権利濫用論である。これに対して、﹁社会生活上一般に受忍すべき限度を超え、他人の利益を侵害す
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るにいたった場合には違法性をおびるという考え方﹂が受忍限度論である。受忍限度論が前提にしているのは、企業 活動(または公共事業﹀の公共性(
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公益性﹀およびそれとの利益衡量である。 終局的な違法性(受忍限度﹀の判定は、住民の受けている被侵害利益の性質・程度と加害行為の態様(公共性・ 回避可能性など﹀との相関的衡量の結果判断するのだから、結局、住民の侵害されている生活環境の権利性が認 められないか、もしくは認められても弱いものである場合には、これと対比される加害行為の不法性が強い場合 でなければ、違法性は否定されることになる。 ︹:::︺住民は、大気や水に対して支配権を有していなかったから、少々の汚染が生じても文句をいうことがで きず、自己の心身に直接被害が発生する危険が現実化する段階になってはじめて、人格権とか物権の侵害を理由 として違法性を主張しうるにすぎなかったのである。 われわれは、このような違法性論(受忍限度論)は、かりに学説の努力によって、立証責任の転換がなされた としても、なおかつ不当なものであり、克服されるべきものであると考えるが、かりにこのような受忍限度論に 立つとしても、住民が大気や水に対して支配権をもつようになれば、事情は一変する。住民は、大気や水が汚染 された場合、これまでのように、単に事実上の利益が侵害されたものとして傍観している必要はなく、自己の権 利の侵害として加害者に強く対抗することができる。 - 74-龍谷大学論集"
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'-' まず、受忍限度の判定要素のうち、侵害行為の態様(加害者側の事情﹀に属するものとして、従来よく問題に されてきた加害行為の社会的価値(公共性﹀は、もはや重要視さるべきではない。これまで公害が野放しにされ てきた最も大きな原因は、何といっても加害行為の社会的価値、すなわち企業の果す公共的な役割を過大に評価 M W し た こ と に あ っ た 。 受忍限度論の思想的基盤は ﹁最大多数の最大幸福﹂を当然のこととして求める功利主義の倫理原則である。もし 企業活動もしくは公共事業の社会的価値(公共性・公益性﹀が無批判に過大評価されるならば、そしてそれとの利益 衡量がなされるならば、結局は﹁公共の福祉﹂のゆえに、すなわち多数者の利益のゆえに、ある程度の少数者が犠牲 に な る こ と は 、 いつでも当然のことと見なされてしまう。 したがって、生命・健康への正当な要求である人格権の侵害に至るよりも以前に、加害行為の差止めを求める可能 性がなければならない。そこで環境権論者たちは、環境権を日本国憲法第二五条および第二二条に基づく基本権とし て捉えながらも、それとは別に、﹁環境共有の法理﹂を基盤として、明確に、私権として規定されるべきことを主張 したのである。私権として環境権が規定されるならば、権利救済を裁判所に求めることが具体的に可能になるからで あ る 。 まず、環境は﹁一定の地域に住むすべての人に平等に分配され利用されるべきもの﹂であり、 し た が っ て 、 ﹁ 共 有 者の一人が、他の共有者全員の承諾を得ることなく、これを独占的に支配・利用して、これらを汚染・減耗させるこ ﹁環境共有の法理﹂である。こ とは、それ自体他の共有者の権利の侵害であり、すなわち違法である﹂とするのが、 うした﹁環境共有の法理﹂に基づいて、私権としての環境権は構想される。 予防(事前配慮、)の公共哲学(丸山〉 - 75ー実体的な私権としての環境権の特徴は、次の点にある。 ①﹁この権利は、一切の自然的・社会的環境に対して地域住民がもっ排他的な支配権である。 壊されれば、地域住民は、ただちにその差止を求めうる。公害は、 したがって、環境が破 やがて人の健康を阻害するにいたるが、環境の破 壊がこれに先行する。人格権説をも含めて、従来の見解においては、被害が人の健康阻害等が発生した段階で捉えら れていたため、早い段階で差止を求めることは困難であった。この点、環境権説においては、環境の破壊以外の被害 が発生しているかどうかは問題とならないから、きわめて早い段階で差止を求めることが可能となる。﹂ ②﹁物件的請求権説と対比してみた場合、 ︹環境権説では︺差止を求める者が物権者に限られないことはいうまでも ないが、問題にしうる環境の範囲が飛躍的に拡大されている︹:::︺。﹂ ③﹁環境権は排他的な権利であるから、差止の要件としては、加害者の故意・過失は全く問題にならない。︹:::︺現 胸 実に、環境破壊が行なわれていなくても、その危険性が存する場合には、予防請求が認められることは当然である。﹂ こ の よ う に 、 大阪弁護士会の環境権研究会の議論へと発展し、 とりわけ従来までの 日弁連での環境権の提唱は、 ﹁受忍限度論﹂を克服することが、環境権の意義として強調され、環境破壊・生活妨害の差止請求の根拠となる私法 上の権利として環境権が提唱されたのである。そこでは、 ﹁環境共有の法理﹂を基盤として、あくまでも私権として 良好な環境を享受する権利を確立することが求められた。 その後も、私法上の権利としての環境権は主に差止訴訟で主張されてきたが、実際の裁判において、環境権を私権 として認め、環境上の利益に対する侵害だけで差止めが認められたことはない。また、民法の学説においても、私権 としての環境権を認める説が多数を占めてはいない。その理由は、環境利益が民事訴訟の個別的利益とは考えられに くく、そのような利益を民事訴訟の対象にすることは困難だと見られているからであ旬。 - 76ー 龍谷大大論集
憲法上の権利(基本的人権﹀としての環境権については、 権﹀ないし二五条(生存権﹀を根拠として、環境権を認めることが支配的な学説(憲法学説)となっている。 私権としての環境権とは別に、 憲 法 一 一 一 一 条 ( 幸 福 追 求 しかし、これまでに環境権を根拠としてなされた裁判例では、判決はいずれも環境権そのものを認めるまでには至 っ て い な い 。 ﹁良好な環境を享受する権利﹂ということを環境権の内容だとしても、ここでも、 権利主体の範囲を画定することが困難であること、 ﹁良好な環境﹂とい う概念が殴昧であること、 などがその理由として指摘されてき た 。 こうした理由から、最近では、例えば、環境政策ネットワークという
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の 環 境 権 研 究 会 が 、 ﹁手続参加権﹂と しての環境権を提唱している。すなわち、 ﹁良好な環境を享受する権利﹂を実効的に保障するためには、 ﹁ 良 好 な 環 境﹂に関する合意形成の場を設けたうえで、 万人に対して﹁自ら利害・関心をもっ環境の改変に際して、良好な環境 とは何かについて意見を表明することができる権利﹂および﹁意見表明の前提となる十分な環境情報の開示および周 酬 明 知を受ける権利﹂を保障する必要があるが、こうした合意形成の手続参加権をもって環境権と規定するのである。 例えば水俣病事件の初期段階(一九五七年初頭)において、水俣漁業協同組合が、 を訴えるとともに、廃水の停止と浄化装置の設置を何度も要望したが、 チ ッ ソ t主 tま と ん チ ど ツ 何 ソ も に 誠 対 実 し に て 応 漁 え 業 な 被 か 害 つ の たω
惨 。 状 ﹂ の こ と は 、 一定環境を共有する者同士が対等に意見を表明することが保障されており、十分な情報の開示を受ける ことを保障されていることが、如何に重要であるかを如実に物語っている。水俣病被害は、法的に言えば、化学工場 としてのチッソの﹁高度の注意義務﹂違反による不法行為であり、過失致死傷の犯罪であり、人格権の侵害という事 件である。しかし、環境破壊に基づく人格権の侵害を防止し、人格権を保護するためには、人格権保護を超える何ら かの保護の手法が必要である。したがって、環境権は、それを憲法に新たに明記するかどうかとは別に、実質的な法 律に明記するとともに、少なくとも手続参加権として実体化する必要があるだろう。 予防(事前配慮)の公共哲学(丸山) - 77ーその意味でまずもって、現行の環境基本法の第三条は、環境権として明記され、書き改められるべきである。すな わ ち 、 現 行 で は 、 ︹:::︺現在及び将来の世代の人聞が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受すると ﹁ 環 境 の 保 全 は 、 ともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない﹂となってい るが、ここには例えば、﹁人間の健康で文化的な生活にとって欠くことのできない良好な環境を享受することは、す べての人の基本的な権利である﹂と明言する環境権の規定を設けるべきである。 ちなみにドイツ基本法は、 一九九四年の改正で二
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条 a を 付 加 し 、 立法・行 ﹁ 未 来 世 代 へ の 責 任 ﹂ の た め に も 、 政・司法の三権を通じて"
と明言している。これは環境権を明示するものではないと解されているが、このように国家の目標と基本指針を明確 ﹁ 自 然 的 生 命 基 盤 ﹂(
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ロ 門 出 回 想 ロ ) を 保 護 す る こ と が 国 家 の 目 標 で あ る にすることは、水俣病をはじめとする蟻烈な公害を経験してきた日本にとっても必要なことだと思われる。予防(事前配慮﹀
の た め の 公 共 性 論 宮 本 憲 一 は 、 一九七三年、大阪弁護士会環境権研究会の議論展開に期待を寄せて、次のように述べている。 良き大気や水などの物理的・自然的環境を享受する権利は、 いわば個人の生存の最低条件であるから、当然、個 人 の 私 権 で あ る 。 しかし、この私権の侵害行為は現代では企業のような社会的組織によって行なわれる場合が多 く、その侵害行為の深刻な点で、個人が自力でこれに対抗し、事前にチェックすることは、 る。そこで、環境を保護するために、個人の環境権は自治体や政府に信託されている。 ほとんど不可能であ 企業や政府に賠償や差止を求めることができる MW し、また公権の行使を求めそれが行なわれぬ時にはその責任を追及することもできると考える。 し た が っ て 、 環境が侵害された時には、 私 権 の 侵 害 と し て 、 - 78ー 飽谷学学論集その権利侵害は民法上の救済、地域環境権
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公権、その権利侵害は公法上の救済という法理 は、広域化し一帯化しつつある環境破壊の現実から目をそらし、環境容量によって汚染総量をへらそうとする規 住居環境権 H 私 権 、 制 方 法 に 反 す る 理 論 で あ る ︹ : : : ︺ 。 私 は こ れ ま で に も 、 どのような公害事件も私害であり公害であると主張し て き た 。 たとえば典型的私害といわれる熊本水俣病は、当然民法上の救済を受けるべきであり、企業の責任が追 及 さ れ ね ば な ら ぬ が 、 しかし、同時にこの事件は国土全体の環境侵害の一ケ l スとして、政府の公害行政が全面 的に発動しなければならぬ。その証拠に、無責任にも政府が国土の水銀汚染の現実を調査すらしなかったために、 ついに第二、第三の水俣病、 さらには連続するであろう水俣病の発生をみているのである。 環境権を公法学と私法学とでとりあいするような法学上の論争ぐらい、国民にとって無意味で、 しかも、現実 の対策をあやまらせることはない。環境権は私権であり、その総和としての公権なのである。この単純な事実を 法理論化して、国民の権利が私法上も公法上も保障されるように、法律学上の論争が発展して下さることを期待 h M V し た い 。 そもそも私権と公権との違いは、私法と公法との区別が必ずしも明確ではない以上、絶対的なものではないし、そ れぞれの内実も明瞭ではない。普通ごく一般的には、相互に対等・平等な権利主体間(私人相互)の権利であって、 財産と身分に関する権利が私権と見なされている。これに対して公権は、国家・公共団体が私人に対してもつ国家的 公権と、私人が国家・公共団体に対してもつ個人的公権に分けられるが、 いま環境権を﹁公権﹂として考えるときに は、まずもって個人的公権が念頭に置かれることになるだろう。個人的公権には一般に、参政権・受益権・自由権が ある、と見られているが、受益権とは国家に対して積極的な行為を要求する国務請求権のことであって、社会権と共 通するが、歴史的経緯の異なりゆえに社会権とは区別される。 予防(事前配慮〉の公共哲学(丸山〉 - 79ー公害・環境破壊の多くが、企業活動の自由が保障されることによって、私企業の行為の結果が個人の人格権や財産 権を侵害することにつながるものだとすると、環境権を私権として認めることは当然だとしても、企業と個人とが現 実的には決して﹁対等・平等﹂ではありえない以上、宮本憲一が論じるように、 ﹁個人の環境権は自治体や政府に信 託されている﹂と見て、行政権力に対して保護義務を当然要求することができなければならないだろう。この意味で は、そもそも環境権には社会権としての要素を含み持たせる必要がある。 社会権は、個人的公権としての受益権(国務請求権﹀が自由国家の思想の延長線上で基本権を確保する基本的な権 一九世紀後半から発生する資本主義の矛盾に対抗する社会国家の思想を基盤としてい る。社会国家
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-凹富三)とは、日本で言う福祉国家と基本的には同等であり、歴史的にはドイツのワイマ l ル 憲 利と見られているのに対して、 法にその思想的表現の源泉が見られるが、実は、先に一九九四年の改正にあたって a 項が付加されたと述べた、ドイ ツ基本法(現行ドイツ憲法に相当する﹀第二O
条そのものの第一項こそは、次のような文になっているのである。す ﹁ドイツ連邦共和国は民主主義的かつ社会的な連邦国家(即日ロ骨B
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巳 ) な わ ち 、 ﹁ 自 然 的 生 命 基 盤 ﹂ 伺 家であることに由来するのである。 の保護を国家目標として掲げる思想は、 で あ る ﹂ 、 と 。 つ ま り 、 ドイツ国が民主主義的な社会国 日本の環境権論者たちが関わなければならなかったのは、何よりも企業活動の公共性・公益性の過大評価であり、 それを前提とした受忍限度論だった。先にも述べたように、企業活動の公共性を過大評価し、受忍限度論を持ち出し てくる発想基盤には、﹁最大多数の最大幸福﹂を当然視する功利主義の倫理原則がある。したがって、環境権論者た ちの闘いを継承するためには、法・経済・政策における功利主義的発想を超克して、少数者の犠牲の上に成り立つ経 ( 山 口 ﹄ ロ 白 神 戸 口 ろ で あ る 、 す な わ ち ﹁ 正 義 ﹂ に 反 す る 、 と す る 正 義 の 理 念 を 明 確 に し な け れ ば な ら な 済的発展を﹁不正﹂ ぃ。それゆえ、個人の尊厳を絶対義務として保護する義務論的思想を社会正義として貫徹しなければならない。 - 80ー 龍谷大学論集宮本憲一は、一九九七年、かつての公害裁判を回顧しつつ、 公共性﹂の優先性を主張し、次のように述べている。 ﹁地域開発や企業活動の公共性﹂に対して、 ﹁ 人 権 の 高度成長時代には政府と大企業は一体となり、地域開発や企業活動の公共性を第一とし、住民の人権の公共性は 二 次 的 な も の と さ れ た か ら 、 ︹ 公 害 裁 判 の ︺ 原 告 勝 訴 の た め に は 、 こ の ﹁ 公 共 性 ﹂ 論 は 大 き な か ベ で あ っ た ︹ : : : ︺ 。 四大公害裁判以降、公共事業・サービスの公害が裁判でとりあげられると、公共性が中心的な争点となった。 これまでの日本では国家(中央政府・自治体、議会、司法機関﹀の行為は無条件に公共性があるものとされてき た。戦前の日本では、国民の生命や財産は国家の意志に服すべきものとされた。したがって、公共事業・サービ スなどの公共性は論ずるべくもなく、無条件に公共性があるものとされた。この考え方は、今日もなお牢固とし
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て政府当局者や保守政治家に残っている。 回大公害裁判は、いずれも企業が地域住民の存在を無視し、多大の被害を与えてきた結果、住民みずからが権利の 回復を訴えた裁判だった。ところが一九七0
年代以降になると、いわゆる公共事業が大規模化すると同時に企業化し、 公共施設の建設は大手企業の巨大収入源となることによって、 いっそう住民意思から離れて自立化し、環境破壊をも たらすケlスが増大していった。宮本が言うように、企業活動のみならず、 が、﹁公共性﹂を正当化の理由として、公然と﹁人権の公共性﹂を踏みにじる事態が頻出するようになったのである。 ﹁地域開発﹂という名による公共事業も 今後の公共性は国民の基本的人権を軸にしながらも、維持可能な社会9
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の保全が尺度とな ︹:::︺本来、公共性の価値基準や序列を決定するのは人民の意志の代議制機関としての国会であ る で あ ろ う 。 予防(事前配慮〉の公共哲学〈丸山〉 - 81ーる。そして、その意志を土台に日常の執務をおこなう行政機関が公共性の守護者でなければならな刊。 公害裁判は被害者を救済し、公害対策を前進させただけでなく、戦前以来の誤った公共性論を批判した。そして、 それにかわって、市民の基本的人権を軸にした公共性論を確立し、環境という最高の公共財を守ることを政治の 伺 最優先課題とする道をひらいたといってよい。 ﹁環境という最高の公共財を守ることを政治の 最優先課題とする﹂ということが既に実現したわけではない。ひらいた道を実現へとつなげるためには、やはり﹁市 民の基本的人権を軸にした公共性論﹂を確立することが何よりも必要である。その確立のために、以下では、 の基本的人権を軸にした公共性﹂のイメージを膨らませ、また、 公害裁判が﹁道をひらいた﹂と評価することはできるが、 し か し 、 ﹁ 市 民 ﹁基本的人権﹂の概念そのものを豊かなものにする 作 業 に 着 手 し た い 。 ま ず こ こ で 、 の 哲 学 ﹄
。
3 s n 同町宮帆 S R H 町、 M M V 帆 NSC 民 V訟 は h H S 河 内 町 、 V H h へ l ゲ ル の ﹃ 法 ︹ 権 利 ︺ い さ さ か 遠 回 り し て 、 に つ い て 見 て お き た い 。 ﹁欲求の体系﹂としての市民社会(ないし市場﹀が有するある種の欠陥を、福 へ l ゲ ル は 、 ( 同 M 内 法 N 冊 目 ) お よ び 職 能 団 体 ( 同0
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己目。ろによって補填する必要があると考えたのであり、 りわけ興味深いことには、福祉行政の仕事が司法活動と対比される﹁事前配慮﹂ 祉 行 政 ︹ 内 務 行 政 ︺ ︿ O B O H m刊にある、ということを指 摘したのである。勿論、公害・環境破壊に対する事前配慮の必要性が、へlゲルの時代に出現しているわけではない。 しかし、具体的には﹁貧困﹂の問題を考慮しながら、そもそも市場の欠陥が行政による事前配慮の必要性を引き起こ しているという構造そのものをへ l ゲルは洞察しているし、その事前配慮を行政の義務とする狼拠について、へ l ゲ ルは考察しているのである。これに連関したへ l ゲルの議論を私なりの表現を織り込みながらパラフレーズすると、 - 82ー 龍谷大学論集 とh u v およそ次の通りである。 市民社会(欲求の体系 H 市場﹀にあって、各個人はそれぞれどのように生計
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与をたて、 どのような幸 福を追求するかは自由だが、その現実性は、個々人が何を具体的に求め、どのように努力するかとか、どのような身 体的条件・能力・才能をもっているかといったことによって制約されるが、同時に、市民社会・市場の客観的な条件 によっても制約される。司法活動(
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伺)は人格権と物権︹所有権︺の侵害を償還するにすぎない。だから、 ( 円 古 田 町 ロ 門 ぽ 円 切 冊 目 。 ロ 仏 由 同 月 M m X 司 町E
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同 ) ﹁特殊性における現実的な権利﹂ t工 人格と所有の剥奪されること のない安全性3
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岳色。を要求するだけではなくて、個々人の生計と福祉の保障︹確保︺( ω
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ロ)を権利として取り扱い、実現することを要求する ( m N ω O )。 福祉行政(
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法 N冊 目 ) が 行 う 監 督 ( ﹀ 丘 回 目n E
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と事前配慮(︿2
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﹀ の 目 的 は 、 ①社会資本(橋や街路灯の設置 など﹀の整備、②日常生活必需品の価格規制、③健康(公衆衛生・医療﹀の保障などを配慮することによって、個々 人がそれぞれの目的を実現するための一般的な条件を整えることである。今日、 一 方 で 一切を監督管理すべきだと いう主張︹現代の用語を使えば﹁パタ l ナ リ ズ ム ﹂ ︺ と 、 他 方 で は 、 一切規制すべきではないという主張︹現代的な 用語で考えれば﹁リバタリアニズム﹂︺がある。 勿 論 、 個人には何によって生計を立てるかの自由権︹幸福追求権︺ があるが、他方、公衆にも、必要なものがしかるべき仕方で提供されることを要求する権利︹生存権︺がある。この 両 面 が か な え ら れ る 必 要 が あ り 、 営 業 の 自 由 ( の 叩 者 四 円 宮 町 同 冊 子 向 日 同 ) は 公 共 の 福 祉22
同 ロ 宮 白 色 ロ 四 回g
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全ての人に 共通な最善のもの)が危険に陥る性質のものであってはならないa
目 。 ) 。 このような議論の文脈において、 へ 1 ゲルは、﹁個体としての個人﹂H E
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とを区別し、後者を﹁公衆﹂ H M ロ ゲ ロ- g
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と﹁普遍的なもの ︹全ての人に共通なもの︺としての個人﹂ あるいは﹁大衆﹂ 冨88
と 呼 ん で い る 。 個体としての個人は、普遍的なものとしての個人の存立③ロZ
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与 を 予防(事前配慮、〉の公共哲学(丸山) -83-必 要 条 件 と し 、 その上に開花する。 ﹁福祉行政の行う事前配慮守
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呂 町 ) は 、 さ し ず め 、 市民社会 の特殊性の内に含まれている普遍的なもの︹全てに共通なもの︺を、諸々の特殊な目的と利害関心をもっている大衆 を保護し安全にするための一つの外的な秩序ならびに事業︹手はず︺(︿巾E
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ロ 巴 と し て 、 ( 冨 宮 田 町 ) 実 現 し 維持する。大衆の特殊的な目的と利益はこの普遍的なものにおいてこそ成り立つからである。﹂ (mNA 円。) へ l ゲルは明確に、公権力・公務職員の義務を導き出す﹁公衆﹂としての個人の権利(社会権としての生存権﹀を 認めていたし、個人の自由の発展に資するためにこそ行政には﹁事前配慮﹂の義務がある、ということを主張したの である。自由権と社会権(生存権﹀との﹁両面がかなえられる必要がある﹂と主張するへ l ゲ ル は 、 ﹁ 営 業 の 自 由 ﹂ が﹁公共の福祉﹂を危険に陥れる性質のものであってはならない、と論じているのである。近代における資本主義経 済・市場経済の発展がもたらす矛盾を、へ l ゲルは個人の自由権と社会権との両面を保障し、実現することによって 克服する必要性を指摘している、と考えることができるだろう。 何 の た め の 事 前 配 慮 か ? │ │ 権 利 論 の 再 構 築 改めて﹁環境権﹂追求の意義を、近代社会と近代法の発展のなかで考えるならば、次の宮本憲一の発言はまことに 要点をついたものである。 私人の経済活動の自由を強く保障することを建前とする近代法は、 企業にあらゆる技術を利用して生産活動を続 ける自由を与え、その利潤追求の自由を最大限に保障してきた。他方、これによる環境の破壊については、企業 の経済活動の外にあるものとして、その完全な防止を義務づけることなく、その結果である公害現象についても、 む し ろ 必 要 悪 と し て 、 一定の限度でこれを容認してきた。これに対応して、附近住民には、 一定の受忍義務があ - 84ー 龍谷大学論集り、その限度の判定にあたっては、経済活動の有用性と被害の程度とを比較衡量すべきものとされ、公害対策も、 経済の発展との調和の上に進められなければならないとされてきた。これに対して、環境権の主張は、まず環境 に対する国民の権利は、基本的人権として不可侵のものであり、経済活動の必要性によって、その侵害を許すべ きではなく、環境汚染の防止・保全、さらには良好な環境の形成は、経済の発展に優先すべき課題であるとする 同 判 も の で あ る 。 環境権は、自由権と社会権との両面を有する基本的人権として明確にし、 まずもって環境配慮をはっきりとした国 家目標として提起すべきである。 そしてまた、社会の進歩ないし﹁発展﹂ 円 四 四
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の意味を、経済成長主義と は異なった意味として捉え直し、 それを政策目標としなければならない。 かつて四大公害裁判が始まる時代、市井三郎は ﹃歴史の進歩とはなにか﹄を聞い ﹁人聞社会の規範倫理学は ﹁快﹂の総量をふやすことを指向するよりはむしろ、 怖 いう方向へ視座を転換すべき﹂だと述べ、 (痛﹀の量をへらす、と それぞれの時代に特有な典型的﹁苦﹂ ﹁不条理な苦痛﹂すなわち﹁各人の責任を問われる必要のないことから受 ける苦痛﹂の軽減を要求した。やがて、市井自身がその中心的存在でもあった近代化論再検討研究会を母体とし、色 川大吉を団長として結成された不知火海総合学術調査団のメンバーとなった市井が、水俣病患者と直面して一種の間 M 開 違いを犯したことについては、すでに論じたが、市井の思想がポパーから学んだ消極的功利主義(ロ叩官巴S
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己 F S H -山田巳回目)であって、﹁個人﹂とその尊厳に徹底的に定位するものではなかった点に、根本の間違いがあったと思われ る 。 市井とは異なって、(
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﹀ を 論 じ 、 アマルティア・センは、 の自由﹂を﹁社会目標として﹂掲げてい旬。 ﹁ 白 白 と し て の 発 展 ﹂ ﹁ 個 人 予防(事前配慮)の公共哲学(丸山) - 85ー開 発 ︹ 発 展 ︺ ( 仏 04 冊 目 。 目
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)
の基本的な目的を所得や富の最大化であると見ることは、 まったく間違っている。 アリストテレスが言ったように、所得や富は﹁何か別のもののために役立つに過ぎない﹂からである。同じ理由 で、経済成長それ自体を目的として扱うことは、賢明ではあり得ない。開発︹発展︺は、暮らしとわれわれが享 受する自由の向上にもっとも深くかかわるものでなければならない。われわれが大切にしたいという理由のある 自由の拡大は、暮らしをより豊かで束縛の少ないものにするだけではない。それは私たちが社会的により完全な 人間 Q ロ ロ 由 同 m o n F m L 匂28
ロろになることを可能にしてくれるのである。 世界と作用し合い、その世界に影響を与えるということである。 自分自身の意志の力を行使し、生きる 開発︹発展︺とは、人々が享受するさまざまの本質的自由を増大させるプロセスである︹:::︺。ω
開発︹発展︺とは相互に関連する本質的自由が一体となって拡大していくことである。 センが論じる﹁自由としての発展﹂および﹃ロ自国ロ骨2
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という理念とともに、 M W 論に加わって展開しているr
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の思想に注目する必要があると思うが、 近 年 、 センが国際的な議 セ ン と 共 闘 し な が ら 、 こ こ で は 、 より直裁に憲法的権利の基礎づけとしてg
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を採っているマ l サ・ヌスパウムの政治哲学・規範 理論を瞥見しておきたい。 ヌ ス パ ウ ム は 、 ﹃ 女 性 と 人 間 的 発 陶 ﹄ に お い て 、 明 確 に 、 ﹁ひとりひとりを目的とする原理﹂ 件 目 M m H M 円 山 口 口 日 間 M - m。 同
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岡 田 u m 同 曲 O ロ 曲 師 四 ロ 仏 を 打 ち 立 て て い る 。 - 86ー 龍谷大学論集私たちは経済成長について考える前に、 まずひとりひとりの人間のために政治は何を追求すべきかを問う必要が ある。経済成長に対してどのような制約を課すべきなのか、経済は人々のために何ができるのか、すべての人々 は人間らしく生きるためにはどのような権利を与えられるべきかを私たちは問う必要がある。︹:::︺十分な機会 と自由をもって生きることができること、従って、人間としての尊厳に値するような生活ができること、この政 治目的はすべての経済的選択に制約を課すものである。正義は社会について考えるときに優先されるべきであ
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政 治 は 、 ひとりひとりの人聞を、目的とし扱うべきであり、各自自身の権利における行為と価値の源泉とし、自 分自身の計画を持ち、自分自身の生活を生き、従って、そのような機会が平等に与えられるために必要なあらゆ M 判 る支援を受けるに値する存在として、扱うべきである。 ﹁究極の政治目標は常にひとりひとりのケイパビリティの促進(岳町田v
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ろでなければならない﹂。ヌスパウムはこれを、 そ れ ゆ え 、 ﹁ひとりひとりの潜在能力の原理﹂ ( -u ユ ロ ロ 山 間 ︾ -m O 同 町 回 口 } 同 MM 四円凹 O ロ ィ ロ 曲 目 M曲 巴 伊 丹 可 ) と 呼 ん で い る 。 人 間 の 尊 厳 と は 、 目的としての個人の尊厳であり、 ﹁公共の福祉﹂の名にょっ て簡単に否定されるような﹁個人の尊重﹂ であってはならない。 し か も こ の 場 合 、 ネオリベラ 尊 厳 あ る 個 人 と は 、 リズムないしリパタリアニズムが前提するようなアトミスティックな個人ではなく、 政治的社会的な生き物 ( N O O ロ ﹁他の人々と協力しあい互いに助け合いながら自分自身の生活を築いていく、 厳を持った自由な存在としての人間﹂のことである。唱 。 ロ
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W O ロ ) としての人間であり、﹁人間の尊厳に値する生活とは何かについての直観に基づいて﹂、人間の諸潜在能力守口-g
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官 玄 口 氏2
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、すなわち﹁人は実際に何ができるのか、どのような状態になりうるのか﹂についての積極的可能 こうしてヌスパウムは、 尊 予防(事前配慮〕の公共哲学(丸山〉 - 87ー性を明らかにし、それを一
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項目の﹁人間の中心的な機能的潜在能力﹂のリストとして提案している。このリストはあ くまでも暫定的な提案であるが、﹁中心的な憲法上の保障の道徳的基礎公Z
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凹)として政治目的のために合意しうるリスト﹂として考えられている。そのリストは、以下の通りである。 ① 生 命 ( 口 同 町 ) 正常な長さの人生を最後まで全うできること。 人生が生きるに値しなくなる前に早死にしない こ ル ﹂ 0 ② 身 体 的 健 康 ( 目 。 岳q
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健康であること(リプロダクティブ・ヘルスを含む)。 適切な栄養を摂取でき ること。適切な住居に住めること。 ③身体的保全︹統合性・完全性︺9
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自由に移動できること。 主権者として扱われる身体的境 界 を 持 つ こ と 。 つまり性的暴力、子どもに対する性的虐待、家庭内暴力を含む暴力の恐れがないこと。性的満足 の機会および生殖に関する事項の選択の機会を持つこと。 ④感覚・想像力・思考3
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これらの感覚を使えること。想像し、考え、そし て判断が下せること。読み書きや基礎的な数学的科学的訓練を含む︿もちろん、これだけに限定されるわけでは ないが﹀適切な教育によって養われた﹁真に人間的な﹂方法でこれらのことができること。自己の選択や宗教・ 文学・音楽などの自己表現の作品や活動を行うに際して想像力と思考力を働かせること。政治や芸術の分野での 表現の自由と信仰の自由の保障により護られた形で想像力を用いることができること。自分自身のやり方で人生 の究極の意味を追求できること。楽しい経験をし、不必要な痛みを避けられること。 ⑤ 感 情 ( 何 百 三 円 。 ロ 田 ) 自分自身の回りの物や人に対して愛情を持てること。私たちを愛し世話してくれる人々を 愛せること。そのような人がいなくなることを嘆くことができること。 一般に、愛せること、嘆けること、切望 - 88ー 調谷大学論集や感謝や正当な怒りを経験できること。極度の恐怖や不安によって、あるいは虐待や無視がトラウマとなって人 の感情的発達が妨げられることがないこと(このケイパビリティを擁護することは、その発達にとって決定的に 重要である人と人との様々な交わりを擁護することを意味している)。 ⑥実践理性
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ロ ) 良き生活の構想を形作り、 人生計画について批判的に熟考することができる こと(これは、良心の自由に対する擁護を伴う)。 ⑦連帯︹協力関係︺(﹀出口邑g )
A 他 の 人 々 と 一 緒 に 、 そしてそれらの人々のために生きることができること。他の人々を受け入れ、関心を示 すことができること。様々な形の社会的な交わりに参加できること。他の人々の立場を想像でき、その立場に同 情できること。正義と友情の双方に対するケイパビリティを持てること(このケイパピリティを擁護することは、 様々な形の協力関係を形成し育てていく制度を擁護することであり、集会と政治的発言の自由を擁護することを 意 味 す る ) 。 自尊心を持ち屈厚を受けることのない社会的基盤を持つこと。他の人々と等しい価値を持つ尊厳のある存在 として扱われること。このことは、人種、性別、性的傾向、宗教、ヵ l スト、民族、あるいは出身固に基づく差 別から護られることを最低限合意する。労働については、人間らしく働くことができること、実践理性を行使し、 B 他の労働者と相互に認め合う意味のある関係を結ぶことができること。 ③自然との共生︹他の生物種︺(
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唱四円山何回) 自然界に関心を持ち、 それらと関わって生きる 動 物 、 植 物 、 加 ﹂ L ι。
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笑 い 、 遊 び 、 レクリェーション活動を楽しめること。 予防〈事前配慮〉の公共哲学(丸山〉 - 89ーA 政治的 ( H M O E W 曲 目 ﹀ 自分の生活を左右する政治的選択に効果的に参加できること。政治的参加の権利を持 つこと。言論と結社の自由が護られること。
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物 質 的 ( 呂 田 同 町 司 王 ) 形式的のみならず真の機会という意味でも、(土地と動産の双方の﹀資産を持つこと。 他の人々と対等の財産権を持つこと。他者と同じ基礎に立って、雇用を求める権利を持つこと。不当な捜索や押ω
収から自由であること。 ヌスパウムによれば、右のリストは﹁結合的ケイパピリティ﹂( n
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のリストである。すなわ ち、すべての人聞は、個々人の生来の素質であり、より高度の潜在能力を達成するための必要条件となる﹁基礎的ケ イ パ ピ リ テ ィ ﹂( v
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を、様々な外的条件が満たされることによって発達させ、必要な働きを実践さ せるための十分条件となる個人の﹁内的ケイパピリティ﹂(
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宮宮ロ民何回)を獲得するが、基礎的ケイパピ リティの生長・発達の過程に影響を与え、内的ケイパピリティの働き︹機能︺を発揮するための適切な外的条件が存 在している状態、つまり、潜在能力が実現可能性に現実に結びつく可能性が﹁結合的ケイパピリティ﹂である。ヌス パウムは、﹁内的ケイパピリティが、その機能を発揮するための適切な外的条件が存在している状態﹂として﹁結合 的ケイパピリティ﹂を定義し、良心に従って考え発言する内的ケイパピリティを有していても、抑圧的な非民主主義 体制の下では、結合的ケイパピリティは持っていない、と例をあげて説明してい加。 ヌ ス パ ウ ム は 、n
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か﹁権利﹂論とどのような関係にあり、それぞれの言説にどのような利点 ひとりひとりの人闘が現実に何ができるのか、どのような状態になることができるの があるのかを分析してもいる。 か、といった潜在能力(ケイパピリティ﹀を明らかにすることは、人間的に生きることの意味を明確にし、人間的に 生きることを相互に尊重しあい、人間的に生きることを実現できる社会を形成しようとすることであるから、基本的 - 90ー 龍谷大学論集人権と同様に、基礎的な憲法的原理の哲学的支えとなる。 ﹁人権﹂の言説がややもするとその存在の自明性 し か し 、 に依拠するだけの強圧的な主張に転落する危険性があるのに対して、 ヌスパウムの
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円 。 同 n y は、人権 の内実を肉付けし、人権を保障するということの実質的な意味を明らかにする試みとして、有効なものである。私は であると定義するのが最も正しい、 と述べたが、﹁権ω
ヌスパウムが試みるような人間的生の可能性についての普遍主義的規定によって、よ りいっそう明確にコミュニケーションを通して 先 に 、 ﹁相互承認された正当な・当然の要求﹂ ﹁ 権 利 ﹂ と t土 利﹂が有する要求の正当性は、 ﹁ 相 互 承 認 ﹂ にもたらすことが容易になるだろう。相互承認の実現 は、立法に結実しなければならず、そのためには、繰り返し、人間的に生きることの意味を、市民としての私たちが 考え、明らかにしなければならない。 ヌスパウムの提案は、そのための一助となるだろう。 事前配慮への正当な要求を合意しているはずの﹁環境権﹂を打ち立てることも、人間的に生きることができるとい うことのための条件であると同時に、人間的に生きるという目的そのものでもある。国内総生産(
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)
や国民総 生産(
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﹀といった尺度で見られる経済成長によって﹁発展﹂を捉えるのではなくて、個々の人聞が人間らしく 自由に生きることの可能性の発展に、 つまり﹁人間の発展﹂に、人類共通の﹁歴史の進歩﹂を認めなければならい。 註ω
丸 山 徳 次 ﹁ ﹃ 公 害 か ら 環 境 問 題 へ ﹄ は ど う 理 解 す べ き か ? │ 予 防 原 則 の 必 要 性 │ ﹂ 、 三 月 、 二 二t
六 一 頁 。ω
欧 州 環 境 庁 編 ﹃ レ イ ト ・ レ ッ ス ン ズl
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の事例から学ぶ予防原則﹄松崎早苗監訳、七つ森書館、二OO
五 年 。 本 書 は 、 開 ロ ﹃ O 宮S
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言 、 句 、 . 宮 内 惨 な s a l M 。 。 。 ・N O
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と し て 出 版 さ れ 、 ま た 同 じ 内 容 で 次 の 本 と し て も 出 さ れ て い る 。 同 M O z -由RB
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ミ な 言 、 句 、 三 平 弘 、 同 町 立H r
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前 掲 、 丸 山 、 四 三 頁 。 ﹁ 龍 谷 大 学 論 集 ﹄ 第 四 六 七 号 、 二OO
六 年 予防(事前配慮〉の公共哲学〈丸山) - 91ーω
前掲、丸山、五一 J 五回頁、および次の拙編著を参照願いたい。丸山徳次編﹃岩波応用倫理学講義00
四 年 。ω
公共哲学の規定については次を参照すべきだが、必ずしも哲学そのものが﹁公共的﹂になることという意味が自覚化されては い な い よ う に 思 う 。 山 脇 直 司 ﹃ 公 共 哲 学 と は 何 か ﹄ 筑 摩 書 一 房 一 、 二OO
四年、および桂木隆夫﹃公共哲学とはなんだろう﹄動車書 房 、 二OO
五 年 。 帥予防原則の歴史的展開については、次を参照。↓E
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・水上千之﹁予防原則﹂、水上千之・西山正弘・臼杵知史編﹁国際環境法﹄有 信堂、二OO
一年、および大竹千代子・東賢一﹃予防原則﹄合同出版、二OO
五 年 。 例予防原則の観点から公害・環境問題を振り返る試みとしては、前掲、丸山徳次編耳石波応用倫理学講義2環境﹄中の拙稿 および次のものがある。ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議・予防原則プロジェクト編著﹃公害はなぜ止められなかった か?│予防原則の適用を求めて│﹄ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議(国民会議。フックレット4、二OO
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ロ 内 山 F H ﹀・﹁ウィングスプレッド声明﹂の邦訳については、次を見よ。前掲、大竹千代子・東賢一司予防原則﹄、八一頁、 および前掲、丸山徳次﹁﹁公害から環境問題へ﹄はどう理解すべきか?﹂、四四 J 四 五 頁 。 助淡路剛久訳﹁東京宣言 L 、淡路剛久・川本隆史・植田和弘・長谷川公一一編﹃リ l ディングス環境﹄第2巻﹁権利と価値﹂有斐 閥 、 二OO
六 年 、 一OO
頁 。 帥大阪弁護士会環境権研究会守環境権﹄日本評論社、一九七三年、四八頁。 帥 同 右 、 五OJ
五 一 一 良 。 M W 同 右 、 一OO
頁 。 帥同右、一O
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一 一 良 。 帥同右、七八頁。 帥同右、一O
九 頁 。 帥大塚直﹃環境法﹄︹第二判︺有斐閣、二OO
六 年 、 五 四 頁 。 2 環境﹄岩波書底、二 - 92ー 龍谷大学論集帥環境権研究会最終報告書﹁環境権に関する提言│手続参加権としての環境権の確立を目指して L 二