明治二十年代後半の黄檗宗と河口慧海 : 『明教新
誌』の記事を中心に
著者名(日)
奥山 直司
雑誌名
井上円了センター年報
号
8
ページ
101-127
発行年
1999-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002694/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja明治二十年代後半の黄葉宗と河口慧海
﹃明教新誌﹄の記事を中心に奥山直司
品ミ亀ミ金ミミ はじめに 今日の黄壁宗にとって河口慧海︵一八六六∼一九四五︶とは、どのような存在であろうか。 明治のチベット探検僧としての慧海の名声は、近年、確実に高まっている。いわく﹁偉大な明治という時代の 生みおとした精華﹂︵川喜田、一九八 、二六九頁︶、いわく﹁時代の生んだ行動力のある偉人﹂︵山口、一九八七、 一〇七頁︶、いわく﹁敬度な冒険者﹂︵×言ぴq①ξ①口⇔O 賠⇔︶。こうした評価は、主として彼の第一回チベット旅行 ︵より正確には、インド.ネパール・チベット旅行︶の記録である﹃西蔵旅行記﹄︵博文館、一九〇四年︶、およびその 英語版、昌さ恥寄⇔δざ∋㌻×︵呂註日白・二“⊃O㊤︶を通して得られたものである。また高山龍三氏らによる地道な 調査と顕彰の努力も見逃すことはできない。 しかし慧海の出身教団である黄壁宗では、いささか事情が異なるように見受けられる。大正十年二九二一︶ 二月、彼は僧籍返上を届け出、最終的に黄壁宗を離脱した。黄粟宗の人々がこの一事をもって、慧海とは一線を 画すべきだと考えるならば、多少の偏狭さを感じこそすれ、その判断は一応理解できる。しかし明治二十年代後 半に発生した黄壁宗の内紛に関連して、慧海を、宗門の恥を満天下に晒し、その名誉を傷つけた﹁大罪人﹂とと 101 明治二十年代後半の黄壁宗とPlr1慧海らえるならば、そのようなイメージは訂正されなければならない。確かに彼の行動は黄葉宗内外で物議を醸し た。しかしそれも一途な﹁愛宗﹂の想いから発した、止むに止まれぬ志士的な行動だったのである。 実際、後年の慧海は、自分が関与した黄壁宗の紛争については言明を避けていた節がある→︶。紛争の経過と あきら 慧海の関与とを詳しく述べたのは、むしろ彼の甥河口正氏による﹃河口慧海−日本最初のチベット入国者﹄ ︵春秋社、一九六一年、以下﹃慧海伝﹄と略す︶であった。本書は、近親者でなければ到底知り得ないような貴重な 情報に満ちた、河口慧海伝の基準とすべき労作であるが、反面、事実誤認や慧海の側に偏りすぎた︵近親者とし ては無理からぬ︶記述も少なくない。にもかかわらず、黄壁宗の内紛については、本書の記述が一人歩きし、無 批判に踏襲される傾向が見られる。そしてそのことがまた、黄壁宗が慧海をタブー視するのを助長するという悪 循環を生んできたように思われる。 明治二十年代後半の黄壁宗の内紛に際して、慧海は実際、どのような行動を取ったのか。これを検証すること は、近代黄壁宗史の中に慧海を正当に位置付けるために必要不可欠な作業であると筆者は考える。小論は、この ような観点から試みられた試論の一つである。 以下において筆者が拠り所にする主な資料は、明治二十五年三月から明治二十九年一月までのおよそ四年間に ﹃明教新誌﹄に掲載された慧海の八つの寄書︵投書︶である。﹃明教新誌﹄は、明治仏教界のリーダーの一人、 おおうちせいらん 大内青轡二八四五∼一九一八︶が主宰した隔日発行の仏教新聞である。大内はこの新聞を通して仏教内外への 啓蒙運動を展開し、大きな影響を与えた。﹃明教新誌﹄の様々な記事は、明治仏教研究のための貴重資料として 注目されている︵池田、一九九四、七八頁︶。 さて﹃明教新誌﹄に掲載された慧海の八つの寄書とは次のものである。 102
ω ﹁黄壁宗の前途﹂︵﹃明教新誌﹄第三〇四二号、明治二十五年三月三十日︶ ② ﹁黄壁宗の活機﹂︵﹃明教新誌﹄第三一八四号、明治二十六年一月二十二口︶ ③ ﹁目志↓君の黄壁宗に係る寄書を読む﹂︵﹃明教新誌﹄第三一九〇号、明治二十六年二月六日︶ ω ﹁黄壁宗務院旧執事の執拗並に宗制の誤解﹂︵﹃明教新誌﹄第三二〇九号、明治二十六年三月十六日︶ ⑤ ﹁黄壁宗管長の交替に就て﹂︵﹃明教新誌﹄第三六七七号、明治二十八年十]月十四日︶ ⑥ ﹁黄壁宗徒に傲告す﹂︵﹃明教新誌﹄第三六八八号、明治二十八年十二月六日、同第三六八九号、明治二十八年十二 月八日︶ の ﹁謹んで宗内損斥を返上す﹂︵﹃明教新誌﹄第三六九五号、明治二十八年十二月二十日︶ ⑧ ﹁謹読堀木氏教語﹂︵﹃明教新誌﹄第三七〇三号、明治二十九年一月十日︶ これらはすべて黄壁宗の内紛に関わるものである。以下では、これらに﹃明教新誌﹄に見える他の黄壁宗関連 記事を加えて論述を進めてゆく︵旦。 なお、本論は黄粟宗の未公開資料は 切使用していない。すべて刊行・公表されたものに基づいて立論する。 これによって当面の課題は果たせるものと筆者は考えているが、今後資料公開が進めば、以下の所論にも加筆・ 訂正が必要になることが予想される。筆者は、河口慧海研究の進展を願う立場から、むしろそれを望んでいる。 一 河ロ慧海の経歴 まず、黄壁宗の内紛に関わる以前の慧海の経歴を、黄壁宗との関係を中心に簡単に振り返ってみよう。 かわぐらさだじろう えかいじんこう 河口定治郎、後の慧海仁広は、慶応二年二八六六︶陰暦正月十二日、和泉国堺︵現大阪府堺市︶に樽桶職人の 103 明治 十年代後半の黄壁宗と河口慧海
長男として生まれた。彼は、明治十三年二八八〇︶十月、数え年十五歳で釈尊伝を読んで発心し、出家を志 さえきほうざん す。その後、詳しい経緯は分からないが、黄壁宗の佐伯蓬山二八二〇∼一九〇四︶に師事するようになる。し かし両親が彼の出家に反対したため、定治郎は、在俗のままでこの師に就き、大阪の瑞龍寺・正徳寺で修行を重 ねた。明治十八年、佐伯と疎隔して堺に戻り、二十一年春、井上円了の哲学館︵現東洋大学︶に入学するために 上京した。 おかだとくえい しんどうたんどう 東京で最初に訪ねたのは深川の黄壁宗海福寺である。住職の岡田徳栄は定治郎を同じ黄壁宗の進藤端堂に紹介 そげん した。進藤は、仏教復興運動の中心的存在であった大内青轡に親爽し、自らも瀕源教会という仏教教会を組織し て、月刊の機関誌﹃瀕源教会雑誌﹄を発行していた。湖源教会は明治十八年十月二十九日に海福寺で旗揚げされ た︵﹃湖源教会雑誌﹄第一号、一八八六年、二一二頁︶。この教会は会長を置かず、進藤が幹事と雑誌の編輯長とを兼 おおたにもくりょう ね、規約で二名と定められたもう一人の幹事を芝白金台町にある黄葉宗瑞聖寺の住職大谷黙了が務めていた。 たかつ はくじゅ また訓盲院で盲唖教育に携わる高津柏樹︵一八三六∼一九二五︶も、教会の活動を支える重要なメンバーの一人 だった。 その事務所は、翌十九年五月から本所区緑町四丁目三十一番地に置かれた。この同じ番地に明治二十年、本所 五つ目大島村から、廃寺寸前の状態にあった黄壁宗羅漢寺︵通称五百羅漢︶が移された。ここには瀕源教会の寄 宿舎のようなものもあり、定治郎が転がり込んだのはそこであった。 やがて定治郎は進藤に文章力を認められて、﹃湖源教会雑誌﹄の編輯係となる。この雑誌はまもなく廃刊にな るが、彼はその後も進藤の代作をすることがあったらしい︵﹃慧海伝﹄一九頁︶。また彼は、進藤との関係を通じ そんこう て、大内青轡を中心とする人間ネットワークに参入し、明治二十二年一月に大内を幹事長として結成された尊皇 104
ほうぶつ 奉仏大同団の運動にも加わっている。 後年の慧海は、進藤とのこのような関係には触れたがらなかったように見える。それは彼が、黄壁宗の内紛に 際して、進藤と敵味方に分かれて激しく対立したことに理由があるだろう。 うんの きぜん 僧侶になりたいという定治郎の志を知り、羅漢寺の住職海野希禅への弟子入りを勧めたのは、同寺の信徒総代 吉田親安であったとされる︵﹃慧海伝﹄二一頁︶。当時、海野は茨城県西茨城郡の済雲寺、宇都宮の真福寺、東京 の羅漢寺という三つの寺院の住職を兼務して多忙を極めていた。海野こそ安心して法務を任せられる有能な弟子 を必要としていたのである。定治郎は堺に戻って両親の許可を得、明治二十三年二八九〇︶三月十五日、羅漢 寺において得度を受けて慧海仁広となる。この時、彼は数え年で二十五歳だった。 ﹃慧海伝﹄︵二一頁︶によれば、彼は、出家した翌月に羅漢寺の住職に就任したという。いかにも慧海らしい型 破りなエピソードである。だがこれは事実ではない。彼が羅漢寺の住職に任命されたのは、﹁僧籍簿﹂から明治 二十四年七月九日付であることが知られる。それまでの慧海は、激務のために体調を崩した海野の代理として羅 漢寺の法務を任せられていたのである︵正満、一九九八、五四頁︶。 二 壁門の滅亡近きにあらんー﹁黄壁宗の前途﹂ 明治二十五年二八九二︶三月二十二日付の﹃明教新誌﹄︵第三〇三八号︶は、雑報欄に﹁黄壁宗﹂と題する記 事を掲載した。その内容は、黄壁宗本山の執事たちが、東京府下の有名寺院の現住職たちを罷免して自分たちが そこに入る計画を立て、目下、﹁南葛飾郡の某寺﹂の住職に辞職を強要しており、驚いた住職が事の次第を内務 省に訴えている、ということを風聞の形で伝えたものである。また同じ号の時事欄には、﹁寺取主義﹂と題する 105 明治,十年代後半の黄壁宗と河[慧海
次のような文章が載せられた。 ﹁所謂主義なる者亦鮮しとせず。自由主義なるものあり、保守主義なるものあり、其の他何々主義、某々主 義等に至りては、実に枚挙に違あらざらんとす。唯だ寺取・王義なる者、極めて最近の新発見に係る、而して 之を何宗に於て発見せしか、曰く知らず唯だ道塗の風説に聞く而己﹂ 先の﹁黄壁宗﹂の記事と併せ読めば、これが黄壁宗務院の執事たちに対する当て擦りであることは明白であ る。以上が、いわゆる弘福寺事件を﹃明教新誌﹄が取り上げた最初であった。 これに対して黄壁宗側も黙ってはいなかった。四月二日付の﹃明教新誌﹄︵第三〇四三号︶時事欄の﹁黄築宗不 穏の模様なり﹂を読むと、黄壁宗側が、﹃明教新誌﹄を発行する明教社に対して法的な措置をも辞さないとする 強い抗議を行なったことが推察される。 ﹁黄壁宗の近事何ぞ其の予輩を愁殺するの多きや。︵中略︶夫れ新聞条令の死せざる限りは、如何なる新聞記 載の事項をも儀式を履みて取消すことを得べく、誹殿罪の廃せられざる限りは、如何なる言論行為をも法廷 に訴へて刑罰に処することを得べし、而かも此の二者に依りて人の思想を取消し又は刑罰に処せんこと、断 じて得べからざるなり。果して然らば執事が末山の沸騰を防ぐ、夫れ唯至誠徳政を布くに在る而已、彼の冷 かなる法文に訴ゆるが如き、洵に一宗を統御する所以に暗き者といふべし﹂︵傍点引用者︶ 当時、自由な報道と言論に対する最大の脅威は、この記事にも述べられている新聞紙条令と誹殿罪︵もとの議 諸律︶の存在であった。先の﹁寺取主義﹂がきわめて椀曲な表現を取っているのもそのためである。記事に関す る抗議や要請への対応も、現在の新聞とは比較にならないほど早かった。 おくだぼくじゅう 四月四日、﹃明教新誌﹄︵第三〇四四号︶は、東京府下南葛飾郡弘福寺の住職奥田墨汁が本山の退職命令に不服 106
申し立てを行なったこと、それにもかかわらず、三月三十日に瑞聖寺で弘福寺の後住選挙が行なわれ、進藤端堂 が当選したことを報じた。ここではじめて本山から辞職を命令されている住職が、弘福寺の奥田墨汁であること が明らかにされる。これに対して、黄壁宗務東京支局は、僅かな言葉尻を捉えて明教社に記事の取り消しを要求 し、﹃明教新誌﹄は二日後の第三〇四五号でこれに応じている。 問題のもみ消しに躍起という印象であるが、黄葉宗当局にはそうするだけの理由があった。すでに激しい突き 上げが宗内から起こっていたのである。それが三月三十日付の﹃明教新誌﹄︵第三〇四二号︶の寄書欄に掲載され た﹁黄壁宗の前途﹂である。寄書の主は﹁在東京 河口慧海﹂。 ﹃慧海伝﹄︵二三頁︶は、この寄書の内容を﹁黄壁宗本山の役僧が一流の大寺の住職を追い出し、彼等自身その 後釜に坐るという暴行を敢てしているのに、宗教監督局に当たる内務大臣が放っておくのは無責任である。事実 を調査して適当な処置をとるべきである。自分としては、このような腐敗した宗派に止まることができないか ら、僧籍を返上することにした﹂と要約している。だがこの要約は不正確である。慧海は、内務省が調査に乗り 出すべきだなどとは一言も言っていない。また﹁このような腐敗した宗派に止まることができないから⋮⋮﹂な どとも書いていない︵3︶。にもかかわらず、これが慧海自身の言葉と受け取られる傾向がある。そこで以下に、 この寄書の内容を紹介しよう。 彼は緒言において、黄葉宗の現状を観察してその前途を論定する、とその趣旨を述べる。そのためには醜い部 分も明らかにせざるを得ないが、壁門︵黄壁宗︶の前途を思い、その命脈如何を考える時には黙っていることが できない。内事の暴露など宗教者の為すべきことではないと言われるかもしれない。だがこれを隠蔽すればます ます弊害が深まるばかりであり、内に救う策がなければ、外に向かってこれを求める他はない。これが﹁社会公 107 明治_1一年代後半の黄壁宗と河1コ慧海
衆の輿論に訴へて粟門今日の危急を救はんと欲する所以﹂である、とする。 続いて本論に入り、まず彼は﹁黄壁宗の前途は倒れて已むの一あるのみ﹂と論断する。その理由は、本山も末 寺も自己の計を為すに急で、一宗の消長を顧みないからである。今こそ本山の弊風を一洗して正義のために働 き、宗門の頽廃を挽回する者が必要なのに、そのような人物が出てこないのは、﹁本山無限の権力﹂、すなわち僧 籍剥奪の強制執行を極度に恐れているからである。僧籍・住職の剥奪は僧侶にとっては死刑も同じであるのに、 本山役員はこれを軽率に行なおうとしている。﹁昨の瑞聖寺事件今の弘福寺事件﹂がその好例である。彼らはさ らにその欲望を逞しくし、奇怪な事件を引き起こしている。例えば﹁府下某大寺﹂では無縁墓の墓石が石屋に売 却されている。 次に慧海は、宗内に﹁虚飾塗抹﹂が横行していることを指摘する。﹁本山の直轄に属する府下の某大寺﹂は、 本山の資金で屋根替えをすると説明して檀信徒を喜ばせたが、実はそれはこの寺の地所の売却代金であった。ま た﹁有るとも無いとも知れぬ程なる大なる学校﹂︵宗学本校︶では、あたかも八歳の童子に代数幾何を教え、壮 年者に加減乗除を教えるような転倒したカリキュラムが行なわれており、部外の者から﹁イヨー壁門大本山大学 校の大教師は御目出度かな﹂と嘲笑されている。さらに彼は、内乱つづきの黄壁宗政はまさに宗戦であり、﹁其 疲弊極まつて本山の大伽藍に肉落大骨露れて仏祖が風雨に苦しまれ玉ふなるに本山寺院中には臭籍不確かなる媚 妖の猫子が出入す﹂るような醜状を呈していると指摘する。猫は芸妓の隠語である。 以上のことから慧海は、壁門は倒れると結論する。それを救う唯一の道は、﹁本山の腐敗を一洗して本末父子 の如くに調和し自己一身の事を後にして宗門全体の事を先に﹂することであるが、これは非常に難しい注文であ る。しかし、これが実現できない場合には﹁壁門の滅亡近きに在らん﹂と彼は警告し、﹁慨歎痛恨の至りに勝ゆ 108
べけんや余は愛宗の士の願起奮去するを待つ﹂ る。 と結んでいる。さらにその後に次のような広告が載せられてい 広 告 拙僧義黄壁宗の時事に感ずる所あり表面的僧籍を返上致し候 最も精神的黄桀宗僧侶として自ら任ずる所なれば此段辱知諸 君に広告す 東京本所羅漢寺住職
河 口 慧海
彼はすでに三月二十五日付で僧籍返上を届け出ていた︵﹁僧籍簿﹂︶。 この寄書から、慧海が日頃から本山のやり方、黄壁宗のあり方に様々な不満を抱いていたことが分かる。それ が弘福寺事件をきっかけに爆発したのである。この寄書と広告を黄壁宗への絶縁状と見ることはできない。これ は、形式的には黄壁僧を辞めるが、これからは真の黄壁僧として取るべき行動を取る、すなわち改革に立ち上が るという、本山の役員たちに叩きつけられた挑戦状なのである。僧籍返上は、宗務院による僧籍剥奪を予期し、 その機先を制するために取った行動と見ることができる。要するに、辞めさせられる前に辞めたのである。 ﹃慧海伝﹄︵二二ー二一二頁︶は、慧海はこの頃、住職の仕事に追われて学問に専念できないことにつくづく嫌気 がさしており、たまたま起こった弘福寺事件を住職を辞める口実にしたとの見方を取っている。確かにそれも事 10g 明治_f年代後半の黄粟宗と河日慧海実の一面であろう。ただこの点を強調しすぎると、彼は個人的な理由でこれだけの騒ぎを起こしたということに なりかねない。だが私はそうは思わない。少なくとも僧籍の返上と﹃明教新誌﹄への投書は、彼なりに正義を貫 くための行動であった。勉強がしたくて住職を辞めたというのは、半分は自己輻晦かもしれない。ともあれ、彼 の一連の行動には、失うものがない者の恐さが感じられる。 いきおい黄壁宗当局の対抗措置も厳しいものとならざるを得なかった。まず黄壁宗務東京支局と瑞聖寺執事 は、四月八日と十日の二度に亘って﹃明教新誌﹄︵第三〇四六、三〇四七号︶に広告を出し、慧海の寄書は事実無 根の議諸であると訴えた。またこれとは別に四月六日、八日付の同紙︵第三〇四五、三〇四六号︶には、羅漢寺檀 信徒総代の名で、次のような広告も出されている。 黄壁宗羅漢寺住職河口慧海 右の者僧籍返上の旨広告致候処当時住職中大に不都合之義之 あり退寺致し候間以後同人の身上に関し当寺に繋累無之候間 此段広告候也 この﹁不都合之義﹂が何を指すかは明らかにされない。要するに在職中に不始末をしでかしたというニュアン スである。 このあたりの﹃明教新誌﹄の報道ぶりは、どう見ても慧海の側に立っている。一応、双方の言い分を載せて公 平を装ってはいるものの、黄壁宗側がクレームや広告を出せば出すほど、逆にその﹁暴挙﹂が一般読者に印象づ けられるような紙面作りが感じられる。 110
慧海は、尊皇奉仏大同団の活動を通じて大内青轡につながりを持っている。大内の新聞である﹃明教新誌﹄に 知り合いの記者ぐらいいて当然である。しかしそれより何より、一介の僧侶、否、元僧侶が一宗一派を相手に ﹁たった一人の反乱﹂を起こしたのである。絶好の新聞種であることは確かだ。慧海もそのあたりの呼吸はよく 心得ていたようで、その後も﹃明教新誌﹄というマスコミを使って相手を叩く戦術をしばしば用いている。敵に 回せば、なるほど厄介な男である。 黄壁宗務院は、四月十一日付で全国の末寺に次のような通知を送った。それはまもなく﹃明教新誌﹄︵第三〇 五〇号、四月十六日︶に転載されて全国の購読者に知れ渡る。 ●黄壁宗務院報告 宗内寺院中 東京府東京市本所区緑町四丁目 羅漢寺前住職 河 口 慧 海 右之者這回僧籍返上候に付已後本宗僧侶にあらず猶宗安妨害 之廉あるを以て宗内寺院俳徊せしむ可らず 明治廿五年四月十一日 黄壁宗務総裁権少教正吉井虎林 これは慧海の追放令である。この時から彼は黄壁宗の安寧秩序を脅かす﹁謀反人﹂となったのである。だが当 の慧海は、この通知が出るか出ないかのうちに次の行動に移っていた。﹁黄壁宗の本山に向て充分攻撃を試みん との覚悟﹂で、関西地方の黄壁寺院遊歴に向かったのである︵﹃明教新誌﹄第三〇四七号、四月十日︶。 111 明治二十年代後半の黄壁宗と河口慧海
その月のうちに彼は大阪上福島の妙徳寺に入った。住職は旧知の岡田徳栄である。岡田は宗務院の会計兼執事 を務めていた。つまり慧海を処分した側の人間である。にもかかわらず、慧海が妙徳寺に留まることは簡単に許 している。 た た らかんりん おりしも妙徳寺には、現管長︵黄壁第四十代住持︶の多々羅観輪二八二六∼一八九六︶がきていた︵﹃明教新誌﹄ 第三〇五二号︶。明治二十年から、妙徳寺を中心に大阪の篤志家牧周左衛門、水沢太郎らによって黄壁山保存講と いうものが組織されていた。これは資金を積み立てて、財政難に陥っている本山の維持と負債償却に当てること を目的とした講社で、担当者としてこれに深く関わっていたのが岡田である。多々羅管長はたびたび保存講に招 かれて妙徳寺で法話を行なっていた。 管長は、慧海の処分については関知しないという態度を取ったらしい︵﹃慧海伝﹄二四頁︶。おそらくこの時す でに、この年の末から再燃する﹁多々羅派対林派﹂という積年の対立の構図が再び頭をもたげはじめていたもの と思われる。慧海は弁も立てば筆も立ち、そして何より捨身の行動力がある。味方に付ければ、これほど頼もし い者はいない。 さて、弘福寺事件の当事者奥田墨汁は、四月に代言人を連れて本山に交渉にきたが、何の成果もないまま東京 に引き上げていた︵﹃明教新誌﹄第三〇五一号︶。ところがこの問題は、五月に入って玉虫色の決着を見る。東京府 下の黄壁寺院の住職たちがこの問題について協議を重ねた結果、弘福寺住職は三年毎の輪番制と決したが、当分 の間は奥田がその任に当たることが承認されたのである︵﹃明教新誌﹄第三〇六〇号︶。 六月、慧海は管長に宗政改革のための建白書を提出︵﹃明教新誌﹄第三〇七四号、﹃年譜﹄三頁︶。以後、十月頃ま での彼の動向ははっきりしない。﹃年譜﹄︵三頁︶に沿って考えれば、別峯院で黄壁版を読んでいたということに 112
なろう。だが﹁お尋ね者﹂の彼が、宗務院とは目と鼻の先にある塔頭に長く留まることができたとはとても思え ない。十月、多々羅管長が突然辞意を表明した︵﹃黄粟辞典﹄七四頁︶。これが本格的な紛争の始まりであった。 ﹂二 以来頼まれ文章を苫することを謹まるべし 紙上論争と二つの宗務院の対立 明けて明治二十六年二八九三︶一月二十二日、慧海は﹃明教新誌﹄ ︵第三一八四号︶に﹁黄壁宗の活機﹂と題 する書を寄せた。その要旨は次のようである。 ①一月九日の宗務院号外達を以て現管長の留職が決まったことは、黄壁宗の前途にとって非常に喜ばしい。管 長は、林道永と一部の執事たちが本山の負債を引き受ける布達と同時に辞職を言い出されたが、有志家たちが 奮起して本山に上り、管長に留職を嘆願したのである。これを一時の活機に終わらせてはならない。今日壁門 の急務は、この活機を利用して宗政を改革し教学を興隆させ、本山維持法を強固にし、末寺の拠り所とするこ とである。 ②黄桀山保存講は、現役員が在職するかぎりは、本山維持と負債償却に協力しないと言っている。これは現執 事たちの失政にほかならないが、彼らは自らの過誤を認めて辞職するものが多く、宗務総裁吉井虎林も辞表を 提出して今は故山にいる。志ある者は本山にきて信徒の渇望を満たせ。 ③とはいえ積弊が除かれたわけではなく、壁門の将来はどのような結果に陥らないともかぎらない。宗門を愛 する者は本山に上って改革に力を尽くせ。黄壁宗は本末共有の一団体だから、末寺が誠実に尽力してこの一大 好活機を空過させないことを切望する。 だがこうした慧海の言葉とは裏腹に、宗内の派閥抗争は、まさにこの時最高潮に達しようとしていた。紛争の 113 明治一十年代後半の黄藥宗と河[慧海
背景には本山の財政難があった。﹁七千余円﹂︵﹃明教新誌﹄第三二五五号︶という負債を抱え、伽藍の修繕も思う に任せない状態だったのである。これを奇貨として、管長職への返り咲きを図ったのが元管長︵黄彙第三十八代 はやしどうえい 住持︶の林道永二八三六∼一九一一︶である。林は雄弁をもって鳴り、説教家として定評があった。管長退任 後、彼は不正経理の疑いで現管長に告訴され、大審院で無罪になっている。またこの裁判中の明治二十三年、第 一回衆議院議員総選挙に還俗して立候補したが落選。翌年二月に復籍し、宗内での復権を目指していた。黄壁宗 の紛擾は、今なお宗内に隠然たる勢力を持つこの人物の動向を軸に展開してゆく。 多々羅管長が辞意を表明したのは、林派との取引に応じた結果であった。その取引とは、林派が本山の負債を 肩代わりするのと引き替えに、管長が辞任するというものである。それまでの管長は、岡田徳栄を窓口に黄壁山 保存講との提携を強めることによって財政問題の解決を目指していた。ところがここにきて、林派の強硬な姿勢 に押し切られた形である。 保存講はこの動きに猛反発した。彼らは林道永が管長になる見通しが強まると、黄壁宗への協力を停止する動 きにでた。多々羅管長の辞任はすでに発令されている。ここで慧海が動いた。岡田と共に管長の説得に当たり、 ついにその辞意を翻させたのである。管長は発令ずみの自らの辞職を宗令によって取り消した。 ﹁黄壁宗の活 機﹂はここまでの動きを踏まえたものであり、慧海はここで管長派及び保存講のスポークスマンの役割を演じて いる。 僧籍を返上し宗内俳徊を禁じられている慧海が管長派の代弁者として活躍するというのも、考えてみれば奇異 もく な話である。はたして、この寄書には批判が集中した。まず東京の目志一という人物が﹃明教新誌﹄︵第三一八 七号、]月二十八日︶に投書し、慧海の書いたことは荒唐無稽で少しも信ずるに足らないと攻撃した。慧海は早 114
速﹁目志一君の黄壁宗に係る寄書を読む﹂︵﹃明教新誌﹄第三一九〇号、二月六日︶を書いて反論、﹁以来頼まれ文 章を書することを謹まるべし﹂と釘を刺している。目はこれに再反論した︵﹃明教新誌﹄第三一九七号、二月二十 旦。ほかにも二月十四日に慷慨子と名乗る人物が、また三月八日に岡田虎林が、﹃明教新誌﹄紙上︵第三一九四、 三二〇五号︶で意見を述べている。後者は、慧海を再信して臨時事務取扱に任じた管長を厳しく批判している が、これにはここ二ヵ月余りの情勢の変化が反映されている。その主な動きを挙げよう。 一月十六日、管長、執事全員に辞職すべき旨諭告。その理由には﹁明治二十五年一月中宗務総裁吉井虎林が天 聖院︵林道永︶及全信徒等に対し不正の契約をなしたるより﹂︵括弧内引用者︶という文言が見える︵﹃明教新誌﹄ よし い こ りん 第三 九八号︶。宗務総裁吉井虎林二八三五∼一九〇二︶は宗内抗争に辟易していたらしく、すでに前年から管 長に辞職を申し出ていた︵﹃明教新誌﹄第三一八四号︶。だがこのような不名誉な形で更迭されることを潔しとしな かったのだろう。俄然辞意を翻し、管長派と対決する姿勢を取った。 一月二十五日、管長、宗務総裁以下の宗務院執事を免職し、新たに臨時事務取扱を任命。進藤端堂が再びわれ われの視野に入ってくるのはこの時である。彼は現宗務院執事の一人であり、明らかに林道永支持の立場で動い ている。この日、進藤以下数名の執事は、管長の宗制違反・職権濫用を言い立ててこの辞職命令を拒絶︵﹃明教新 誌﹄第三一九二、三一九八号︶。翌二十六日には暴力事件が発生している︵﹃明教新誌﹄第三一九三号︶。 二月十八日、岡田徳栄、宗務院臨時事務取扱長兼会計に任命される。岡田は慧海の宗内俳徊停止を﹁事実相違 の廉有之と認め候に付﹂として取り消し、彼を即日、宗務院臨時事務取扱に任命した︵﹃明教新誌﹄第三↓九八、 ふじやまむがい 三二〇二号︶。そのために必要な措置であろう。慧海は同日、大阪仏日寺の藤山無外の徒弟として僧籍に復して いる︵﹃慧海伝﹄二六頁、正満、一九九八、五六頁︶。露骨といえば露骨な人事である。 115 明治二1年代後半の黄壁宗と河口慧海
この頃、﹃黄壁実事録﹄という文書が全国の末寺に送られた。これを書いたのは慧海だと言われている︵﹃慧海 伝﹄二六頁︶。今その内容を確かめることはできないが、保存講の立場から林派の﹁策動﹂を告発したものと推 測される。 吉井虎林以下十数名の執事は、管長の辞職命令を宗制濫用として拒否し、飽くまで宗務を執りつづける姿勢を 示した。そのため、一宗内に新旧二つの宗務院が並び立つという異常事態となった。 三月十六日、慧海は﹁黄壁宗務院旧執事の執拗並に宗制の誤解﹂︵﹃明教新誌﹄第三二〇九号︶を発表した。これ は、旧執事側の批判に応え、管長の命令の正当性を主張するものであった。 事ここに至って両派の調停に動いたのは、牧周左衛門︵保存講世話人︶、佐伯蓬山、木野拙堂であった。彼らの 奔走の結果、三月二十八日になって両派の和解が成立し、新旧役員の懇親会が開かれた︵﹃明教新誌﹄第三二一六 号︶。この﹁手打ち式﹂によって昨年末以来の紛擾は一応終息に向かい、本山の負債の償却は保存講に委嘱され ることになった。 これを機に慧海は宗務院を退いたとみられる。﹃慧海伝﹄︵二六ー二七頁︶は、岡田が林派の要求で慧海を外し たとする。確かに、管長派として目立ちすぎるほどの活躍をしていた彼は、林派の憎悪の的になっていたに違い ない。 ぺつぽういん 宗務院から離れた慧海は、塔頭別峯院で本格的に黄壁版大蔵経の読諦に取り組んでいった。解りやすく正確な 和訳経典を社会に供給したいとの考えからである。その過程でチベット行の決意も生まれる。なお、前後の事情 を勘案すれば、彼が別峯院で大蔵経を読んでいた期間は、明治二十六年四月頃から二十八年四月頃までの二年間 と考えられる。 116
四林道永は小僧なりll機文と宗内損斥
多々羅観輪は、明治二十六年七月から翌年十月まで、本山維持費勧募のため各地を巡回した。二十七年十一 月、彼は近江地方を巡錫中に野洲郡八幡で脳充血で倒れる︵﹃明教新誌﹄第三五〇九号︶。何とか小康を得て辞意を 漏らすが、管長には簡単には辞職できない理由があった。平安遷都千百年紀念祭と第三十二次黄粟三壇戒会︵大 授戒会︶を翌年四月に控えていたためである︵﹃黄葉辞典﹄七四頁︶。 この黄壁三壇戒会を前にして起きたのが、﹃慧海伝﹄︵二七−二九頁︶のいう﹁黄壁山清掃騒動﹂である。これ について慧海は、明治二十九年一月に次のように振り返っている。 ﹁廿八年四月本山授戒会の前に、余は同志者と共に、本山の各院に在住せる婦女子を退去せしめんとて、非 常の運動を為したるの結果として、本山僧侶は余を厭悪したるならん﹂︵﹃明教新誌﹄第三七〇三号︶ この運動に主導的役割を演じた慧海は山内退去を命ぜられる。彼はこれを機にチベット旅行の準備を進めるた しゃくうんしよう しやくこうねん めに上京し、まず目白僧園で釈雲照に師事。次いで神奈川鳥山の三会寺で釈興然からパーリ語とインド事情を 学びはじめた。 この間に本山では、多々羅管長の任期満了に伴い、明治二十八年六月に管長選挙が実施され、吉井虎林が当選 かくしんりょう した。しかし吉井が辞退したため、十月に林道永・谷神龍・佐伯蓬山の三人を候補者として再び選挙が行なわれ た。その結果、林道永が当選し、十一月七日付で内務大臣へ管長認可が出願された。林の当選によって、黄壁宗 政は再び迷走状態に入ってゆく。 岡田徳栄が三会寺に慧海を訪ねたのは、この頃のことであろう。慧海は宗内政治に関わることに懲りていた が、本山滅亡の危機と聞いて、末寺の反対署名を集めて内務大臣に対して林に管長認可を与えないよう嘆願する 117 明治_f年代後半の黄漿宗と河11慧海策を立てたという︵﹃慧海伝﹄二九ー三〇頁︶。 十一月十四日、﹃明教新誌﹄︵第三六七七号︶に﹁黄壁宗管長の交替に就て﹂という寄書が載った。その内容は、 林道永は俗物であり、復籍してまだ五年の小僧であり、徳望もなく、管長にはまったく相応しくない人物であ る、というものだった。投書者は﹁多聞﹂と名乗っているが、これは慧海である︵4︶。 それから一月も経たないうちに、彼は今度は実名で投書する。それが﹃明教新誌﹄︵第三六八八号、十二月六日、 第三六八九号、十二月八日︶に二回に分けて掲載された﹁黄壁宗徒に撤告す﹂である。後難を恐れた新聞社によっ て所々伏せ字にされたこの寄書の論旨は次のようである。 今回の黄桀宗の管長交替は奇怪千万である。多々羅管長が林道永を後任とする願書に調印して内務省に提出 したとは信じがたいことだ。十一月十日に林の入寺式があったと聞くが、内務省から認可が下りないうちに 入寺するのは軽率である。しかも信徒総代はその式に出席せず、内務省への願書にも調印していないと言わ れている。今回の管長選挙は、林派が林を当選させるため選挙慣例を無視して行なったものである。さら に、内務省への願書に捺印したのは管長本人ではなく、林の弁に乗せられた管長の弟子との話もある。俗事 に狂奔してきた林が管長になることは徳義上認めることができない。内務大臣はこのような管長交替を禁止 し、適任者を選出させてもらいたい。 慧海のこの行動に対して、宗務院は宗内濱斥という重罪をもって報いた。 118
告示 全国末派寺院中 大阪府仏日寺前住職故藤山無外徒弟 ママ 試補 河 口 恵 海 右の者別紙之通り僧侶の徳義に違反の廉有之候に付今般宗 内接斥相成候条此段依命為心得告示候也 ママ 明治廿八年十二月十日 黄藥宗務総裁武内又海 ︵別 紙︶大阪府仏日寺前住職故藤山徒弟 其方義黄壁宗僧侶たるの徳義に背き漫に本宗を中傷するが 如きの挙動あり甚だ不都合に付宗制別冊第九号第一条第五 項に照し自今宗内擦斥申付候事 明治廿八年十二月十日 黄壁宗管長大教正多々良観輪代理 黄壁宗務総裁権中教正武内又梅回 ︵﹃明教新誌﹄第三六九二号、明治二十八年十二月十四日︶ てっちょうあんどうまさずみ この処分に反撃の口火を切ったのは慧海ではなく、﹃明教新誌﹄記者の鉄腸安藤正純二八七六∼一九五五︶ だった。安藤は慧海の哲学館での後輩である。彼は﹃明教新誌﹄第三六九四号︵十二月十八日︶の論説欄に﹁黄 119 明治二f年代後Ψの黄壁宗と河口慧海
壁宗務院に質す﹂を載せ、慧海に対する宗内損斥の理由が、もしも﹁黄壁宗徒に撤告す﹂にあるならば、その処 分はまったく不当なものであり、黙過できないと論じ、宗務院の態度を厳しく批判した。 つづいて慧海自身が﹁謹んで宗内損斥を返上す﹂︵﹃明教新誌﹄第三六九五号、十二月二十日︶を書いた。その出 だしは﹁宗内損斥てふ事は、勲章授与の恩典にも非ざれば、謹んで之を返上する所由なきに似たれども、黄桀宗 制と云ふ事の為めには返上せねばならぬこととはなりぬ﹂となかなかユーモラスである。このような調子は、彼 の他の寄書にも共通する。彼は、自分には宗内損斥を受けるいわれはない、 ﹁漫に本宗を中傷するが如きの挙動 あり﹂などという曖昧な理由で﹁僧侶死刑﹂の最重罪を科するのは道理に合わないと論じる。さらに自分が書い た撒文の内容は事実だから、﹁不都合﹂があるとすれば、それはむしろ﹁林道永其一味の者﹂にこそある、黄壁 宗が﹁好悪の徒﹂のために滅亡に傾いている今日、これを確知した自分が何をおめおめと局外者になることがで む む む む む む む きようか、と述べる。そして林派が進めている事業を私利を謀るものと決めつけ、﹁嵯鳴彼の得意に事を為すの む む む む む む む む む む む む ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 時は、正さしく黄壁宗の次第に失頽に陥るの日なるを、是を知りつx彼の発せし最初の毒箭に倒れて已むの慧海 ならんや﹂と叫んでいる。 これに対して、堀木道隣という人物が﹁河口慧海に教ゆ﹂︵﹃明教新誌﹄第三六九九号、十二月二十八日︶を投じ て、彼を激しく非難した。堀木について﹃明教新誌﹄︵第三七〇一号︶は、﹁或は進藤一派の人ならんか﹂と推定 している。彼は﹁余は曾て慧海の性行を知悉したるものにはあらざれども﹂と言いながら、﹁目白律師︵釈雲照︶ を購する﹂﹁哲学館に一二年は槌かに通学した﹂など、慧海のことをなかなかよく知っている。 慧海の反論が出る前に、﹃明教新誌﹄は﹁黄葉宗の近状に就て﹂︵第三七〇一、三七〇二号︶において、公平に 判断して、林道永の当選は宗制には違反しないが、林一派の﹁私行醜徳﹂は誰の目にも明らかであり、林が謹慎 120
自省しなければ、黄壁宗は滅びると警告している。 慧海の反駁﹁謹読堀木氏教語﹂︵﹃明教新誌﹄第三七〇三号、明治二十九年]月十日︶は猛烈なものであった。彼 は﹁若し林氏自身が不名誉なりと思ふならば、議読律もある世の中なれば、遠慮なく法庭にて余を戒むべし、何 ぞ堀木氏の空言的弁護を事とせん﹂と、背後にいるであろう林をも撃ち、最後に次のような言葉で締め括ってい る。 む サ サ ロ ロ む む ﹁終りに臨んで一言せん、堀木氏よ教えんと云ひて教ゆこと既に非、駁せんとして論理既に非、事実の観察 む ロ ロ む む む む む 既に非なる事上述の如し、堀木氏にして漸塊を知るの人ならしめば、自己の発せし講詐議誘にて自殺をなし む 玉ふべし、南無﹂ さて、内務大臣による黄壁宗管長の認可はなぜか異常に遅延した。そして明治二十九年二八九六︶三月三 日、管長不認可の指令が下る︵﹃明教新誌﹄第三七七六号︶。 同年三月二十八日発行の﹃改新大同新報﹄はその消息を次のように伝えている。 ﹁黄粟宗管長多々羅観輪師は昨年其任期充ちたるを以て同年十月其後任を選挙せし処林道永師当選したるを けいじつしょめんねがいのおもむきせんぎ 以て内務大臣へ其裁可を出願せしに頃日書願之趣詮議に及ひ難しと指令ありたるよし氏は嘗て政界に入 らんとて還俗し又俗事に奔走せる事ありし為めなりとか﹂ 林道永の管長就任を阻止するという慧海の目的はここに達成された。だがこれによって紛擾の火種が消えたわ けではない。﹃明教新誌﹄︵第三七五〇号︶は次のように評している。 ﹁黄粟宗の紛擾も林道永師管長不認可を以て一頓挫をなせり、一派は歓喜し一派は激昂す、歓喜激昂共に久 し︵き︶ものにあらず、第二の争擾は再選挙の時に於て起こらんとす︵中略︶岡田徳栄河口慧海の一派は自 121 明治_1年代後wの黄壁};詑河口慧海
己の同意者たる谷神龍師を推さんとし進藤端堂等の一派は再び林道永師を挙げんとす 多々羅派と林派の対立は、岡田派対進藤派に形を変えて、引き継がれてゆく。 ︵後略︶﹂ 122 五 その後の情勢の推移 その後、﹃明教新誌﹄紙上に慧海自身の発言は見られなくなる。黄壁宗内では危機意識が高まり、多くの人々 が﹃明教新誌﹄に寄書して、宗門改革のための意見を述べた。その中には慧海に対する批判も見られる。 彼はどうしたかといえば、四月には神奈川の三会寺にいて、梵語専門道場の開設に携わっていた。四月十一 日、この道場の開場式が挙行され、あわせて行なわれた仏教大演説会では慧海が開会の主意を述べている︵﹃明 教新誌﹄第三七五〇号︶。しかしまもなく彼は本山に呼び戻されたらしい。 局外散人と名乗る人物が明治二十九年九月二日に﹃明教新誌﹄︵第三八一八号︶に寄せた書の中に次のような文 言がある。 む む む む む ﹁管長は、任期既に満て、絃に三年、︵中略︶今尚ほ甘露堂に横臥し︵中略︶職権を濫用して、昨明治廿八年 む む む む む む む む む む む む む む む む む む 本宗公会の次、末寺総代議員の公撰に依りて、任免したる、宗務総裁以下諸役員を解任し、大阪猫を以て有 む む む む む む む む む む む む む む 名なる、八百徳の幕下、河口慧海新津健三等を以て、知客兼事務取扱に任用し、放任︵、︶管長選挙に対し む む む む む む む む む む む む む ては、私意を慾にして、甲乙票数上に小言を吐き立て、曖昧の中に誤魔果しつ﹀あるなど、何たる暴状そ や﹂ 多々羅管長による宗務総裁以下諸役員の解任、慧海等の知客・事務取扱への任用が事実であるとすれば、明治 二十五、六年の紛擾と似た騒動が繰り返されていることになる。
たけうちゆうばい この年の四月、本山では佐伯蓬山、武内又梅、谷神龍の三人を候補者に管長選挙が行なわれた。その結果、佐 伯と武内の得票が同数高点となり、またも紛擾が激化した︵離圃生﹁壁門の両派分立の調停を望む﹂﹃明教新誌﹄第 三七七六号︶。 七月、警察の捜査の手が入る︵﹃明教新誌﹄第三七九四号︶。これは四月の管長選挙にからむ私文書偽造の疑いで あった︵﹃慧海伝﹄三二頁︶。この時進藤端堂が検挙され、進藤派は大打撃を受ける︵﹃明教新誌﹄第三九二四、三九 五三号︶。 九月一日、多々羅管長が遷化した。卦報を載せた九月十六日付の﹃明教新誌﹄︵第三八二五号︶は、ここに至る までの動きを次のように伝えている。 れうとう ﹁紛擾紛擾又紛擾終には裁判沙汰とまでなれる黄壁宗は種々調停する人ありて一旦裁判をも願下げ、両党の のりこ じうらい やくいん わこう けいかう あひ 人々相和合せむとの傾向を生じ来りぬこれよりさき河口慧海氏は宗務院に乗込みて従来の役員を免瓢し自ら り かくしつ ︵ママ︶ しうむそうさい せい 宗務を整理せむとせしも岡田徳栄師と確執を生じ其の極は兎に角河口恵海氏を退け、岡田徳栄師を宗務総裁 となし佐伯蓬山師を獣長.議者と定め近藤︵護の誤り︶端堂師は身を退き近藤︵進藤二漁と岡田派と両 どうすう 派より同数の役員を出し水乳和合の実を挙げむと相談整ひたるは去月︵八月︶末の事なりし﹂ しかし多々羅管長遷化という事態を受けて、 こうにんくわんちゃう コ旦解職せられたる武内又梅師を宗務総裁に復し後任管長定まるまでの事務を取扱はしむること、定ま りたり﹂︵括弧内引用者︶ おそらくは多々羅管長の命を受けて宗務院に乗り込んだ慧海は、それまで協力関係にあった岡田徳栄との間に 確執を生じる。岡田派と進藤派は、妥協による決着を目指し、強硬派の慧海を締め出しにかかったのだろう。し 123 明治一卜年代後半の黄壁宗と河[慧海
かし、慧海に争いの場から退くことを最終的に決意させたものは、多々羅管長の死であったと思われる。慧海は 明治二十五年四月に妙徳寺で管長について禅を修して以来、宗内抗争においては、一貫してこの人の側に立って 動いてきたのだから︹5︶。 明治二十五年三月から四年半にわたる慧海の黄壁宗内での奔走は、このような形で終りを告げた。宗内に紛擾 はなおも煉りつづけるが、これ以上それを追いかける必要はないだろう。三会寺へ戻った慧海は本格的にチベッ ト旅行の準備を進めた。彼が日本郵船の和泉丸に乗って神戸港から旅立ったのは、明治三十年六月二十六日のこ とである。 124 おわりに 慧海は、弘福寺事件をきっかけに反宗務院・反林派の立場で黄壁宗の紛擾に関与することになり、多々羅管長 派の主要メンバーの一人として積極的に活動した。その目的は宗門の改革にあり、林道永の復権を阻止すること にあった。彼の活動は黄壁宗内外で物議を醸し、宗門の一部からは激しい反発を受けた。﹃明教新誌﹄紙上を賑 わせた慧海の寄書の舌鋒の鋭さ、論難の激しさは、彼の動向を伝える他の記事と相侯って、それを読む人々に容 易ならない人物の印象を振り撒きつづけただろう。しかしそのような行動も、彼の﹁憂宗愛法の精神﹂︵安藤鉄 腸﹁黄葉宗務院に質す﹂﹃明教新誌﹄第三六九四号︶から出たものであることは間違いない。 チベット旅行という畢生の大事業を前にした、数え年二十七歳から三十一歳まで期間を、慧海は、以上に述べ たような激しい行動の中に過ごしたのである。そのため、黄壁宗との関係もまた目まぐるしく変化した。すなわ ち、僧籍︵羅漢寺徒弟︶返上←宗内俳徊停止←復籍︵仏日寺徒弟︶←宗内損斥、である。
付言すれば、﹁僧籍簿﹂には慧海について﹁明治三十二年ニハ仏日徒弟﹂という記載が見られる。慧海が言う ように、宗内濱斥が﹁僧侶死刑﹂の最重罪であるならば、当然、僧籍剥奪を伴っただろう。それがいつのまにか 再度復籍されていたのである。詳しい経緯は不明だが、明治二十九年に慧海が知客・事務取扱に任用されたこと が事実ならば、その前に宗内損斥の取り消しと復籍の﹁儀式﹂が必要だったはずである。 チベット旅行後の慧海と黄壁宗との関係は悪いものではない。大正十年の僧籍返上時も、本山に上って開山真 前に香資を献じて恩を謝し、管長に別れの挨拶をしており、円満な離脱の印象が強い。 ︻注︼ ︵1︶例えば、彼は﹃西蔵旅行記﹄の冒頭、次のように述べている。﹁明治二十四年の四月から宇治の黄壁山で一切蔵経 を読み始めて、二十七年の三月まで外の事はソンなにしないで専ら其事に許り従事して居りました﹂︵博文館版、上 巻、一頁、傍点筆者︶彼が黄壁山の別峯院で一切蔵経を読んだ期間は、後述のように、明治二十六年の四月頃から二 十八年の四月頃までの二年間と思われるが、いずれにせよ、彼はこの前後、紛争のさなかにいた。 ︵2︶ なお明治二十二年から二十九年にかけての彼の年譜︵﹃年譜﹄﹃慧海伝﹄︶にはずれがあり、多くの出来事が、実際 よりも一年か、あるいはそれ以上繰り上げられている。そのうちのいくつかは、黄壁文化研究所編﹃﹁河口慧海ネパ ール・チベット入国百周年記念ー1その初公開資料と黄粟山の名宝ー﹂展図録﹄︵黄壁山萬福寺文華殿、一九九八 年︶の﹁河口慧海年表﹂︵三三頁︶によって正された。しかし訂正すべき箇所はまだ残されている。これについては 別稿を期し、以下では筆者が正しいと考える年代に従って論を進める。 ︵3︶ また﹃慧海伝﹄︵二三頁︶が、慧海の寄書に次いで、 ﹃明教新誌﹄記者の鉄腸安藤正純が﹁黄粟宗の寺取主義﹂と 題して本山役僧を非難した、と書いているのも正しくない。この時期、安藤はまだ﹃明教新誌﹄の記者ではなく、 ﹁寺取主義﹂の記事が慧海の寄書より早いことは前述の通りである。 ︵4︶ その内容から、この寄書は、慧海が投じたとされる﹁林道永は小僧なり﹂︵﹃慧海伝﹄三〇頁︶と同一と判断され 125 明治二f’t#代後半の黄壁宗と河口慧海
る。 ︵5︶ ﹃黄粟辞典﹄の多々羅観輪の項︵七四頁︶に、恵海編﹃観輪大禅師略伝﹄の存在が記されている。恵海は慧海か。 ︻略号︼ ﹃慧海伝﹄ 河口正﹃河口慧海 日本最初のチベット入国者﹄春秋社、一九六 年。 ﹃黄壁辞典﹄ 大槻幹郎・加藤正俊・林雪光編﹃黄壁文化人名辞典﹄思文閣出版、一九八八年。 ﹁僧籍簿﹂ ﹁東京府武蔵僧籍﹂黄壁山萬福寺蔵。 ﹃年譜﹄ 宗川宗満・服部融泰編﹃河口慧海師略伝並年譜﹄河口慧海師後援会、一九二七年。 ︻参考文献︼ 池田 英俊 一九九四﹃明治仏教教会・結社史の研究﹄刀水書房。 川喜田二郎 一九八一﹁事実とロマン﹂、河口慧海﹃第二回チベット旅行記﹄講談社学術文庫、講談社、二六九ー二八二 頁。 正満 利英 一九九八﹁河口慧海についての一考察 得度の師希禅和尚の資料から ﹂﹃黄壁文華﹄第一一七号、五 〇ー五七頁。 山口 瑞鳳 一九八七﹃チベット﹄上、東京大学出版会。 ×冨鶴≦①こ8⑦菩忌﹂㊤㊤O苔ξ゜q9三国冨︷︰﹀勺合已ω︾ユく窪已苫﹁昌ユ自ぴ。[°甘[°同O°・け。日臼戸間シQ力古2ひ昌。。︵江ω゜γ ㌔ミ価ミ§切§白㌣ミミ○ミ×ミさ↑Φ忌゜。9巳団ユ忌コ呂⑳一一〇P目゜賠O−N・⊃ふ ︹付記︺ この論文は、平成十年度東京黄壁研究所論文募集において優秀賞を受けた﹁明治二〇年代後半の黄壁宗と河口慧海 ﹃明教新誌﹄の記事を中心にー﹂に加筆したものです。 執筆に当たり、東洋大学井上円了記念学術センター、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫、駒沢大学図書館、慶応義塾大 126
学斯道文庫のご協力を得ました。記して感謝の意を表します。