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米国のおとり捜査における違法性の実質 利用統計を見る

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米国のおとり捜査における違法性の実質

著者名(日)

宮木 康博

雑誌名

東洋法学

53

1

ページ

93-135

発行年

2009-07-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00000696/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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︽論 説︾

米国のおとり捜査における違法性の実質

  ω 主観的テストの判断基準   働 主観的テストの理論的根拠   ω 客観的テストの判断基準   ㈲ 客観的テストの理論的根拠  4 客観的テストに対する批判的見解  3 主観的テストに対する批判的見解  2 客観的テストの概要  1 主観的テストの概要 二 おとり捜査に関する従来の中核的関心事項 一 は じ め に

宮 木

康 博

   有責性説    国家コントロール説︵準憲法論議説︶    効率性説    市民的権利説   自律性説    刑罰賦課根拠説 四 お わ り に  6  5  4  3  2  1 三 おとり捜査の違法性の実質−罠の抗弁の正当化事由1  5 両テスト間の差異の誇張と収束傾向 93

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は じ め  に  わが国において、おとり捜査は、薬物・銃器事犯のように、直接的な犯罪被害者がおらず、当事者間で秘密裡に       ︵1︶ 実行されるなど、犯人の検挙や証拠の収集が困難な犯罪類型への対処方法として実施されてきた。  同手法に対しては、必要性や有効性が肯定される一方で、﹁騙す﹂﹁トリック﹂﹁罠﹂という言葉のイメージも手 伝ってか、無制限に許容されるものではないことが意識的あるいは無意識的︵直観的︶に念頭に置かれてきた。そ れゆえ、法的関心が、いかにしておとり捜査を適否の二つのカテゴリーに分類するかに集中してきたことは自然の 流れであったといえる。  周知のように、その際に参考とされたのが、米国の﹁罠の教義︵罠の抗弁︶﹂であった。学説では、米国の判例          ︵2︶ 理論である﹁罠の抗弁﹂の影響を受けたアプローチが有力に主張され、裁判例においても影響を受けてきたことが      ︵3︶ うかがわれる。すなわち、あらかじめ犯意を有している者におとりが働きかけて犯罪を実行させる場合︵機会提供 型︶と犯意を有していない者におとりが働きかけて犯意を生じさせ、犯罪を実行させる場合︵犯意誘発型︶に分け て検討し、前者は一般的に許され、後者は違法とする、﹁二分説﹂によっておとり捜査の適否を判断しようとする 見解である。  しかし、二分説に対しては、近時、同見解が果たしてきた機能については一定の評価をしつつも、おとり捜査の ﹁違法性の実質﹂を問い直し、犯意誘発型か機会提供型かにかかわらず、﹁捜査機関による働き掛けがなければ当該 犯行はなかった﹂との条件関係を否定できない以上、対象者の犯意の有無にかかわらず、おとり捜査は常に犯罪の 創出を伴うのであるから、十分な理論的根拠は見い出し難いとして、二分説を疑問視する見解が有力に主張される 94

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     ︵4︶ に至っている。こうした視点は、広く定着しつつあった二分説的なおとり捜査の適否の判断基準に対し、そもそも おとり捜査にはどこに違法視される法的問題があるのかを再検討し、二分説の本来的趣旨などの理論を再構築する        ︵5︶ 気運が高まる一つの契機になったように思われる。  また、この違法性の実質を再検討する際には、単に﹁さもなければ抵抗するかもしれない無実の人を騙して過ち       ︵6︶ に陥れるために政府の権力を使うことに対する自然発生的な道徳的な嫌悪﹂というような直観的な感覚を理論的に 説明するだけではなく、捜査機関などの公的機関による罠と私人の罠との法的帰結の違いについても説得性を有す るものとすることが必要不可欠となろう。すなわち、私人AがXに対し、犯罪を犯すように繰り返し高額の対価を 提示したところ、Xが遂に折れて犯罪を行なえばXは有罪となるが、Aがたまたま警察の情報提供者であった場 合、Xは、犯罪行為を故意に、自ら進んで行ったという事実にもかかわらず、有罪とはならない可能性があること についての説明である。  そこで、本稿では、おとり捜査特有の法的問題性、適否の判断基準および法的帰結を再検討する足掛かりとし て、罠の抗弁の発祥の地であり、わが国に当初から影響を与えてきた米国を対象として、﹁なぜおとり捜査は違法        ︵7︶ とされる場合があるのか﹂という違法性の実質論を中心に議論状況について整理し、若干の検討を加えることに したい。 二 おとり捜査に関する従来の中核的関心事項  米国において、おとり捜査、とりわけ罠の抗弁に関する法的議論が開始されるのは、二〇世紀初頭である。契機 となったのは、検閲法、禁酒法、マン法、麻薬規制、移民法などのように、売主と買主など双方の当事者が自発的 95

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       ︵8︶ な参加者である、いわゆる﹁被害者なき犯罪﹂であった。こうした犯罪類型は、グループ化する傾向があり、ひい ては大規模な組織的集団が犯罪事業に参画する事態を招いた。また、これらの犯罪は、もっぱら自発的な参加者に よることから、犯罪行為を警察に通報する﹁被害者﹂はいない。こうした犯罪事情の下で、おとり︵ω旨閃︶は適       ︵9︶ 切な法執行のために投入されてきたのである。  このように、おとりを用いる捜査手法は、いわゆる﹁通常の方法﹂では解明困難な犯罪行為に対して、有効な捜 査手法としての有効性や必要性が認められてきたが、他方で、同手法は無制限に許容されるものではないとされ、 法的関心は、おとり捜査の適否の判断基準に集中していった。換言すれば、いかなる場合にターゲットとされた被       ︵10︶ 告人に罠の抗弁が認められるかである。ただし、この罠の抗弁の現状は、錯綜状態にあるといえる。その理由の一 つとして、罠の抗弁が、憲法上の問題としては取り扱われなかったために、全五〇州で独立の採用となったことが 考えられる。  そこで、以下では、おとり捜査の違法性の実質論を検討する前段階として、罠に関する伝統的な議論状況を概観 すべく、中核的関心事項として展開してきた連邦最高裁の裁判例に示された﹁主観的テスト﹂と﹁客観的テスト﹂ という二つの判断基準について整理・検討しておきたい。  1 主観的テストの概要       ︵11︶  ω主観的テストの判断基準  ﹁主観的テスト﹂は、連邦裁判所および州のおよそ三分の二によって採用され、       ︵1 2︶ 別名﹁連邦アプローチ﹂あるいは﹁シャーマン・ソレルス理論﹂とも呼ばれている。このテストは、罠の抗弁を認 めるか否かを判断するに際し、犯罪を行う被告人に焦点をあてて、二段階のテストを実施する。まず、犯罪が捜査 96

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官などの政府の法執行官によって引き起こされたか否かが尋ねられ、次に、訴追されている犯罪類型を行う被告人 の傾向の有無が質問される。元最高裁判所長官のウォーレンは、シャーマン事件判決において、罠の抗弁は、﹁不        ︵13︶ 注意な無実の者を陥れる陥穽と不注意な犯罪者を陥れる陥穽の間の線﹂を引くために存在するとした。それゆえ、 検察官は当該おとり捜査が後者であり、被告人が犯罪者であることを証明しなければならないことになる。すなわ ち、一旦被告人が証拠の優越によって政府の法執行官に犯罪を犯すよう誘引されたことを示せば、被告人が犯罪を      ︵U︶       ︵15︶ 犯す事前傾向があったことについての挙証貢任が訴追側へ移されるのである。  ただし、一見すると明快そうな主観的テストの判断要素である﹁事前傾向﹂は、明確な法的定義によって支えら れているわけではない。この点につき、連邦裁判所は、事前傾向の判断に際して、警察に接触されるときに、被告       ︵16︶ 人が﹁準備ができており、犯罪を犯す気持ちがあったか﹂否かを尋ねる。これによれば、主観的テストの下では、 被告人は、機会さえあれば訴追された犯罪を行う用意があり、かつ意欲がある場合には事前傾向があるとみなさ        ︵η︶ れ、罠の抗弁は成功しないことになる。  こうしてみると、主観的テストの力点は、捜査官などの政府の法執行官の︵違法︶行為ではなく、犯罪を行う被 告人の傾向にあることが確認できる。  吻主観的テストの理論的根拠  では、主観的テストの理論的根拠は何に求められているのだろうか。主観的テ ストを採用したソレルス事件判決やシャーマン事件判決では、主として﹁立法者の意思﹂という実体刑法に根拠を 求めた。たとえば、ソレルス事件判決の多数意見では、﹁さもなければ無実のはずの者を犯罪に陥れてこれを処罰 することを目的に政府の職員が犯罪へと唆すことによって、その捜査と施行手続が濫用されることをこの法を制定 する際の議会が意図していたとはいえない﹂とし、政府によって引き起こされた行為は、法的規制の範囲から除外 97

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      ︵18︶ されることを立法府は意図しているから、被告人の行為は犯罪ではないと説明する。このほか、学説からは、罠に よる﹁悪事︵①註︶﹂は警察による犯罪の製造物であることを理由に、最も関係のある質問は、実際に警察が当該 事案の犯罪を製造したかどうか、あるいは、いずれにせよ、もつとも上手く探知できるような形で、起こるはずで        ︵19︶ あった犯罪の機会を単に提供しただけかどうかにあると説くものもある。加えて、主観的テストによれば、被告人 の実際の事前傾向を調べる際に、免責に関する実体刑法の教義を補強する有責性を重視することを主張しやすくな        ︵20︶ るとも指摘される。  2 客観的テストの概要       ︵21︶  ω客観的テストの判断基準  ﹁客観的テスト﹂は、州の三分の一で採用されているにとどまるが、学説の多数        ︵22︶      ︵23︶ に支持されており、模範刑法典によっても採用された。別名﹁仮定的人物手法﹂または﹁ロバーツ・フランク       ︵24︶ ファーター手法﹂とも呼ばれている。客観的手法は、主観的テストが、被告人に焦点をあてて、彼が﹁さもなけれ ば無罪である﹂か否かを判断するのとは対照的に、政府の法執行官によって実施される誘引に焦点を当てる。これ は、﹁当該犯罪が、犯罪を行う用意のある者以外によって行われる多大な危険を作り出す説得などの手段を用いる      ︵25︶      ︵26︶ ことによって﹂誘引または奨励された場合には、罠が成立することを意味する。すなわち、当該誘引が仮定的人物 を唆して犯罪をさせたか否かである。このテストには、特定の犯罪行為が通常実行される方法に関する周囲の状況 を考慮することが必要とされる。同情や友情への訴え、法外な収入の提示、躊躇を乗り越えるための絶え間ない申 し入れなどが疑わしい行為とされるが、客観的テストを採用している裁判所は、絶対的なものを定めることには躊 躇している。 98

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 吻客観的テストの理論的根拠  では、客観的テストによることの理論的根拠は何に求められているのだろう か。ソレルス事件判決やシャーマン事件判決の同意意見では、公共政策︵冨9。2一一身︶が根拠としてあげられて いる。このテストの支持者は、主観説による立法者意思論を拒絶し、裁判所は、被告人の行為が法の射程範囲を外 れる、換言すれば、彼らを罰することが刑法の伝統的な抑止や応報といった目的を遂行できないからではなく、む       ︵27︶ しろ、有罪が立証されたとしても、実施された犯罪を引き起こす手法を﹁支持できない﹂から、罠にあった被告人        ︵28︶ に対して有罪判決を下すことを拒絶しなければならないとする。これは、裁判所は、法執行官の不正を許すことに よって汚されるべきではなく、その不正行為を阻止して、﹁裁判所の廉潔性﹂を保つべきであるという考えを反映    ︵29︶ している。もし政府の法執行官が犯罪を引き起こしたのであれば、裁判所は、誘引された個人が有罪判決を受ける        ︵30V ことを許すことによって、事実上、その﹁嫌悪すべき行為﹂を容認すべきではないとするのである。また、犯罪行 為を引き起こすような警察の行き過ぎた行為を管理する積極的な義務は裁判所にあり、この義務は、被告人がさも なければ﹁無罪﹂であった状況に制限されるべきではないと指摘する。こうした点からすれば、罠の抗弁は、修正 第四条や五条の排除法則に類似性があり、市民生活への望ましくない政府の介入を阻止する手続的な手段といえ  ︵3 1︶ よ・つ。  3 主観的テストに対する批判 主観的テストに対しては、主に客観的テストの支持者から、およそ三点の批判がなされている。第一に、シャー マン事件判決の同意意見中でフランクファーター判事が指摘したように、﹁立法者意思﹂論は、﹁全くのフィクショ       ︵3 2︶ ン﹂であるとする。すなわち、私人による罠を引き合いに出し、誘惑者が政府の法執行官ではなく私人であれば、 99

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その行為は疑問の余地なく犯罪とされるという事実に反映されているように、議会または州立法府などのいわゆる ﹁立法者﹂は、まさに被告人が関与した行為を禁止することを意図していると指摘する。それゆえ、被告人の事前 の無実によっては罠の抗弁を正当化することはできないため、不法な警察行為を阻止し、裁判所の廉潔性を維持す る公共政策によらねばならず、これらの政策は、被告人の事前傾向を見ることによって達成されるわけではないと 説く。そして、こうした誘惑者の政府的地位が重要であるという事実が、罠の中心が政府であることを証明してお       ︵33︶ り、そうであるならば、そこに批判的な視点をフィックスしなければならないとする。  第二に、過去の有罪判決または他の何らかの事情によって犯罪行為に関与する事前傾向があったことを示すこと ができる者であれば、おとりの投入に際し、﹁何でもあり﹂ルールを事実上作り出すと批判する。すなわち、もし        ︵3 4︶ 被告人が﹁事前傾向がある﹂とみなされれば、警察は、犯罪を犯すよう説得するための﹁自由裁量権﹂を与えられ      ︵35︶ ることになる。事実関係の判断者である陪審員が、被告人が起訴された類型の犯罪を行う事前傾向があったと判断 すれば、いかなる警察の偽り、執拗な質問、あるいは他の不快な行為も許されないとは判断されないという帰結 は、﹁被告人の過去の犯罪と全体的な傾向がどうであれ、過度な誘引にあわない限り、被告人がこの特定の犯罪を       ︵36︶ 行っていないかもしれないという可能性﹂を無視するため、不合理であると主張される。また、許容できる警察の       ︵37︶ 行為が被告人によって異なりうることは、法の下の平等︵公平性︶と矛盾するとも指摘される。  第三に、主観的テストによれば、被告人の性格と事前傾向を徹底して調べることになるが、このことは、警察行 為の質を判断するという重要な職務を曖昧にするだけでなく、また、被告人に対してより一般的な意味で偏見を持 たせることになると批判される。これは、ひとたび罠の抗弁が主張されれば、通常の証拠法が無視され、被告人は        ︵38︶ ﹁事案に影響するとして彼自身の行為および事前傾向に関する適切かつ綿密な審理﹂の対象となるからである。こ 100

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れは、以前の犯罪履歴、評判に関する証拠、以前の不祥事、および他の一般的には伝聞証拠または偏見を持たせる        ︵39︶ として除外されている情報に関する証拠を検察官が使用する可能性を意味する。  4 客観的テストに対する批判  客観的テストに対しては、主に主観的テストの支持者から、およそ四点の批判がなされている。第一に、少なく とも問題とされる捜査が行われた際に警察が被告人の事前傾向を知っていたとすれば、警察などの法執行官の行為 が適切であったか否かという問題に重要な影響を与えるはずであるとする。たとえば、ターゲットが過去に麻薬を 販売したと知られていれば、その者に対しては、事前傾向について当局が何も知らない者に対して許されるよりも 説得力のある誘引を実施するのは適切である。同様に、対象者が風俗犯罪に弱いが現在は自制しているという知識 は、法執行官の行為を評価する上で検討に値する事実ともなる。したがって、客観的手法は、犯罪的な事前傾向を 検討する必要性を完全に排除するため、誘引レベルの妥当性がしばしばターゲットの個人的な特性に依存している        ︵40︶ という事実を説明できず、内在的に欠陥があると批判されるのである。  第二に、もし、危険で常習的な犯罪者が、仮定上法律に従う人を誘惑したかもしれないような誘引を与えられた に過ぎなかった場合、﹁間違った﹂人々が刑務所に入ることになるというものである。これは、たとえば、ある事 案におけるターゲットが、過去に、そして現在も継続して麻薬組織の狡猜で活動的な言貝であるという事実は、客 観的テストにおいては使用された誘引の適切さについて判断する上で無関係になるからである。したがって、慎重 な犯罪者を逃すことを避けるため、裁判所は、許容できる誘引の限度を判断する際に法執行官に多大な行動の自由 を許す可能性が高いことになる。裁判所は、この危険について自認していながら、罠の抗弁を骨抜きにするほど、 101

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抗弁の成立に高い制限をかけることによって、事実上、法執行官のテクニックに﹁包括的承認﹂を与えることにな     ︵41︶ るのである。その結果、この自由自体が、警察に﹁不注意な無実の者﹂に道を踏み外させることを許すことになる と批判する。また、逆の見方をすれば、単に裁判所が彼らに対する誘引が演繹的に不適当だったと決定した理由を       ︵42︶ もって、実は犯罪者である者が無罪になるかもしれないと危惧される。  第三に、事実認定手続の不正確性を助長するというものである。秘密裏に提示された誘引の性質は、事前傾向の 問題に比べると、信頼性のある証拠の影響を受けにくい事実問題であると主張されている。これは、被告人が誘引 が不適切であったと主張すれば、法執行官は証人台に立って反論することができ、宣誓合戦になってしまうからで       ︵43︶ ある。このことは、罠の抗弁は有罪の自白を前提とするため、事実関係を判断する陪審員は、犯罪歴を有し、金銭 を支払われていることが多い情報提供者の証言と、明らかに犯罪行為を行った被告人の証言との間で﹁評価不可能       ︵4 4V な選択﹂をしなければならないことを意味する。  第四に、客観的アプローチの公共政策による正当化に関連する疑問である。すなわち、①裁判所の﹁廉潔性﹂は それ自身で十分な正当化事由といえるか、②客観的テストが意昧のある形で警察の違法行為を抑止する目的を果た すことができるかが疑問視されている。なぜなら、裁判所は、何が許容できない警察行為かについてのルールを採 用することに抵抗感があるため、つまり、単に当該事案において正義を実現しようと試みる方が適切であると考え   ︵45︶ ており、警察が使用することのできる誘引の種類に対して実際に有意義な制限が生じるか疑問が示されているので ある。また、仮にそのような制限がもたらされたとしても、警察には、依然として誘引行為の内容または対象者に ついての裁量が残されるほか、警察の偽証によって問題性が回避されるおそれが否定できないとされる。 102

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 5 両テスト間の差異の誇張と収束傾向  主観的テストと客観的テスト論議は、ソレルス事件判決やシャーマン事件判決における連邦最高裁の多数意見と 同意意見の対立に始まる。また、おとり事案の罠に関する連邦最高裁の最も新しいジェイコブソン事件判決に対し        ︵46V ては、﹁いずれの判事も罠の﹃客観的﹄理論に言及しなかった罠に関する最初の最高裁の意見である。﹂と評される        ︵47︶ ように、相対立するものとして、あるいは、両立が困難なものとして扱われてきた感がある。  確かに、先にみたように、二つのテストは、まったく違った言い表し方をしているが、近時では、これらには構        ︵48︶ 造的な類似性が認められると指摘されている。まず、両見解とも最初の質問は、﹁警察は犯罪を行うように被告人 を誘引したであろうか﹂という本質的に同一の事実的質問である。そして、次の質問は、主観的テストでは、﹁も しこの特定の被告人が警察によって奨励されなかったら犯罪は起こったであろうか否か﹂であり、客観的テストで は、﹁もし警察によって提供された特定の奨励が事前傾向を有さない人に提示されていたのであれば、犯罪が起        ︵49︶ こったであろうか否か﹂である。それゆえ、両テストはお互いのミラーイメージであると指摘されるのである。  また、これら二つのテストは両立困難なものであると説明されてきたが、実際には、二つのテストの対立は、収        ︵50︶ 束する傾向にあるとも指摘される。事実、判断に際して被告人と警察の行為の両方を調べる﹁ハイブリツド﹂テス       ︵51︶ トを採用する州があるほか、形式的には、いずれかの陣営の管轄であっても、ハイブリツドな法律の文言や裁判上 の解釈を展開している州も散見される。すなわち、客観的テストの管轄では個々の被告人について主観的判断を許        ︵5 2︶ 容する傾向にあり、他方、主観的テストの管轄は、犯罪を促す上での警察の役割を厳しく調べるのである。  さらに、形式的な判断基準でさえ、見た目ほど変わらないとも指摘される。たとえば、先にみた連邦の主観的テ          ︵53︶ ストの五つの要素のうち、二つの要素、つまり、②提案が政府によって行われたか否かと⑤誘引の性質は、いかな 103

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る客観的アプローチの下であっても、少なくとも何らかの関連性を有する。他方、主観的アプローチは、被告人だ けをみると主張しているが、教義上でも政府の行為の性質は事前傾向の証拠に関連性を有する。つまり、わずかな 誘引の成功は大きな事前傾向を示すのに対して、非常に強力な誘引に訴えることはより少ない事前傾向の判断に有    ︵5 4︶ 利に働く。したがって、二つのテストの間の違いは、﹁警察の行為自体が決定的な要素なのであろうか。それとも それは単に決定的な要素の証拠の主たるピースであるに過ぎないのであろうか﹂という一つの質問に帰着するとさ  ︵55︶ れる。  より具体的に検討すると、両テスト間の実質的な違いは一層解消されるとも指摘され、一方の理論体系では、有        ︵5 6︶ 罪となるが、他方では、無罪となるようなケースを想定できるのかが検証されている。たとえば、最小限の誘引に 反応するが事前傾向を有さない者は、客観的テストでは有罪になり、主観的テストでは無罪になるとされるが、本 当にそのような者が実在することを想像できるであろうかとの疑問が呈されている。すなわち、最小限の促しで違 法な行為を行うチャンスにとびつくが、事前傾向を有さないという者である。また、いずれにせよ、人々はそのよ        ︵57︶ うな者を本当に無罪としたいであろうかと疑問を投げ掛ける。対照的に非合理的な誘引を提示された事前傾向を有        ︵58︶ する者は、客観的テストでは、無罪とされるが、主観的テストでは、有罪とされる。主観的テスト論者が客観的テ        ︵59︶ ストについてもっとも嫌うものはこの﹁棚ぼた﹂である。しかし、事前傾向を有する誰かを奨励するために、警察 の執行官が極端な、あるいは不適切な誘引を用いなければならないことは、非常に可能性が低いだろうとする。客 観的に不適切な誘引の典型例の一つが、法執行官が報酬あるいは同情に訴えるために利害関係を増やしていく度重 なる要求である。もし、ターゲットがエスカレートしていく要求に適切に抵抗したのであれば、彼が本当に事前傾        ︵60︶ 向を有していたというのは困難であろうというのである。 104

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 このような観点からすれば、米国の罠に関する二つのテストの実質的な違いは事実上消滅するように思われる。 すなわち、これらはお互いのミラーイメージであるのみならず、同じ質問︵﹁警察は現に起きている、あるいは差 し迫った犯罪活動を探知していたのであろうか、それともそれらを作り出していたのであろうか。﹂︶を聞く二つの 方法でもあるといえよう。  このように、両テストは、構造的な類似性を有するが、他方で、手続的な意味合いには差異があることに注意し なければならない。すなわち、①証拠法上の問題として、より一般的な性格の証拠の採用が認められるべきか否 か、②手続的問題として、罠の存否を裁判官と陪審員のいずれが判断するかである。形式的には、主観的テストで        ︵6 1︶ は前者を認め、後者は陪審員ということになるのに対し、客観的テストでは、前者を認めず、後者は裁判官という      ︵6 2︶ ことになろう。        ︵63︶  ただし、この証拠法および手続的問題もまた解決不能ではないとされる。たとえば、主観的テストの管轄では、 彼が単に罠を主張したからといって被告人に対する幅広い性格に関する証拠を認めることを自動的には許さないと       ︵64︶ するものがあり、事前傾向の証拠のもつ潜在的に偏見的な性質を理由に、主観的テストを支持しつつも裁判官の判       ︵65︶ 断事項とすることを提唱する見解もある。それゆえ、主観的テストの証拠的および手続的コロラリーの﹁棘﹂が取        ︵66︶ り除かれると、両テスト間の実際的な違いは完全に消えるように思われると指摘されている。

三 おとり捜査の違法性の実質−罠の抗弁の正当化事由1

わが国と同様に、母国といえる米国においても、おとりを用いた捜査手法について、法文上、判例法上のいずれ 105

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においても明確な法的定義があるわけではない。しかしながら、そうした不明確性を持ちながらも、共通している のは、ベッカi事件判決のハンド判事の言葉にもあるように、﹁さもなければ抵抗するかもしれない無実の人を騙        ︵6 7︶ して過ちに陥れるために政府の権力を使うことに対する自然発生的な道徳的な嫌悪﹂の感覚である。すなわち、お とりを用いる捜査手法に対しては、不正義なケースがあるという直観的感覚が共有されているのである。  他方で、前述したように、おとりに関する法的問題の中核的関心事項はその判断基準にあったのであり、なぜ主 観的テストを採用するのか、またなぜ客観的テストを採用するのかという理由づけは積極的に検討されてきたもの の、そもそも、なぜ罠の抗弁が認められる場合があるのかについては、必ずしも明示的に十分議論されてきたとは 言えないように思われる。このことは、法執行官によるおとり捜査は、罠の抗弁が認められる可能性があるのに対 し、私人の罠は認められる余地がないことの説明に依然として窮している現状をみても明らかであろう。罠の教義 が錯綜した理由の一つには、先の判断基準の不統一性に加え、その根源にあるはずの罠が悪いという直感のもとに 何があるのかといった違法性の実質︵罠の抗弁の正当化理由︶の議論が決着をみていないことにもあるように思わ れる。逆にいえば、そこにおとり捜査に関する法的問題を解決する一つの糸口があるように思われる。そこで、以 下では、米国におけるおとり捜査の違法性の実質︵罠の抗弁の正当化事由︶に関する議論を整理し、若干の検討を 加えることにしたい。 106  1 有責性説  有責性説は、主に主観説の立場から主張され、 して説明する見解である。この見解に対しては、 罠を強迫や無能力と同様に﹁免責事由﹂と解し、有貢性の問題と そもそも主観説における﹁事前傾向﹂は、伝統的に理解されてき

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       ︵68︶ た﹁有貢性﹂とは無関係であると指摘される。すなわち、現在の刑罰論は、﹁犯罪者である﹂ということで人々を 罰するわけではなく、犯罪を犯したことを理由に罰するのであり、犯罪行為以外は、すべて﹁さもなければ無罪﹂      ︵69V であるとする。それゆえ、﹁罠にかける﹂おとりは、﹁無実の者﹂を犯罪者に変えてしまう。事前傾向と有貢性の同       ︵70︶ 一視は行為ではなく、性格に対して人々を罰することを暗示するとする。       ︵71︶  また、有責性説は、私的な罠の問題の説明に窮すると指摘される。すなわち、なぜ警察によって誘惑された者は 私人によって誘惑された者よりも有責性を有さないのであろうかという疑問である。この点について、たとえば、 パーク教授は、私的な罠の被害者は、警察の罠にあった者と同じように無罪であるが、主に共謀︵通謀詐害︶と虚        ︵72︶ 偽の主張︵偽証︶の可能性という証拠的・手続的な理由で、一方を許し、他方を許さないと主張する。彼は、法律 の錯誤の抗弁にアナロジーを示している。すなわち、法律の錯誤の抗弁の一つの理論体系の下では、公的な司法当 局の誤った説明に依拠した人は無罪となるが、民問の弁護士の熱心なアドバイスに合理的に依拠した他の者は有罪        ︵73︶ となるからである。しかし、これに対しては、﹁法の不知は許されず︵一磐巽き鼠一①讐ωp9霞o房琶﹂の下での 誤った公的説明による免責は、単にご都合主義によるものではないと指摘される。すなわち、一般的に、公的な説 明に依拠すること自体が、民間の弁護士に依拠することよりもより合理的であると知っている限りにおいて、公的        ︵盟︶ な説明に依拠した個人は、主観的に民間の弁護士に依拠した者よりもより有責性が低いと説くのである。しかしな がら、この説明に対しては、罠にかけられた被告人は、この事案とは対照的に、捜査官と協力して行動しているこ         ︵75︶ とをまったく知らない。さらに言えば、この主張は、共謀が免責事由ではなく、犯罪であるという事実と一致しな       ︵76︶ いとも批判される。また、前者については、当該問題を証拠上の利便性に希釈するしてしまうことは、簡単にあき       ︵77︶ らめすぎていると批判される。さらに、完壁な知識をもっていたとしても、エデンの園で︵推定上は完壁な知識を 107

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与えられている︶神がイブを免責しなかったのと同じように、おなじみの子供時代の﹁これは彼の考えであったん        ︵78︶ だ﹂という弁解が犯罪的な状況を無罪にするとは決して判断しないと指摘される。  他方で、対照的に、無罪の証明の中心を犯罪の主観的要件︵日窪ωお蝉︶から悪しき行為︵8εω話器︶へ移して        ︵79︶ 説明する見解もある。すなわち、警察等の公的な罠と私的な罠の違いは起こるかもしれない害悪であると主張する。 多くのおとり捜査は、刑罰を正当化する害悪が実際に起こる本当の危険性がないように注意深く管理されている。 たとえば、麻薬は消費者には決して販売されず、議員は彼が贈賄を受けた法案に対して決して投票することはない     ︵80︶ などである。それゆえ、損害が引き起こされなかった、あるいはその危険性さえなかったために、刑罰を正当化す         ︵8 1︶ るものはないと説く。  このような﹁客観的な応報主義﹂の問題点は、﹁損害ある行為︵3﹃ヨ巨8ぎロ︶﹂と﹁不法行為︵≦8⇒臓巨8−        ︵82︶ ぎp︶﹂との違いを無視するということにあると指摘される。すなわち、誰の過失によるものでもない事故のよう にすべての損害が不法なわけではなく、被害者が気付かなかった殺人未遂のようにすべての不法が損害ではないか    ︵83︶      ︵84︶ らである。換言すれば、刑法は不法を対象とし、不法行為法は、損害を対象とするのであり、犯罪の有責性に関す るほぼすべての理論の下では、行為者の犯意︵故意︶と対応する行為が結合されることによって彼を刑罰に値する       ︵85︶ ものにすると批判される。 108  2 国家コントロール説︵準憲法論議説︶  国家コントロール説︵準憲法論議説︶は、主に客観説の立場から主張される。前述したように、客観的テストは その詳細な調査を政府に集中させる。これは、当該事案における警察の行為を許すことができないため、裁判所の

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廉潔性を保護し、将来の違法行為を阻止するために、被告人を無罪にしなければならないという信念に基づいて  ( 86 ) いる。この見解によれば、罠は、実体刑法上の抗弁というよりは行政的あるいは準憲法的な政府権力への制限と  (87 ) なる。そこで、本見解には﹁さもなければ法を守る者に犯罪を行うよう誘引する危険を政府が犯すことの何がいけ ないのか﹂についての説明が求められることになろう。       ︵88V  この点、客観的テストの擁護者は、罠と証拠の排除法則との間にアナロジーを引き出すが、そこには重要な違い       ︵89︶ が存在すると指摘される。すなわち、修正四条あるいは五条のもとで証拠を排除するときには、たとえば、プライ       ︵90︶ バシー、平等、デュー・プロセスの価値を保護している。同様に、出訴期限︵法︶や外交官の免貢特権のような他 の抗弁は、他人の権利を侵害する行為︵犯罪︶をしたにもかかわらず、ある者に無罪の権利を与える﹁手段﹂で  ︵91︶ ある。これらの抗弁は、﹁裁判や有罪判決および刑罰を放棄することによって有貢性のある違反者を有罪にする以       ︵9 2︶ 外の重要な公共政策﹂を保護している。このような抗弁に対するあらゆる正当化事由は、当該被告人を本当は罰し        ︵93︶ たかったということを認めるとしても、より大きな公共政策に言及することによって正当化されなければならない。        ︵94︶ ところが、罠の抗弁は、単に罠にかけられないという権利を保護するだけであると指摘される。しかし、他方で、 個々のケースにおいて、罠にかかった被告人を罰することは間違っている、あるいは不公平であるという感覚があ るのも事実であり、この限られた意味において、この抗弁は伝統的な免責事由に確かに似ているとも指摘される。        ︵95︶ つまり、罰することは﹁本質的に不適切﹂とするのである。換言すれば、犯罪者を自由にすることの個々の不正義 を後悔しつつも、罠にかかった者に同情するのであり、二重の危険の却下の必要性を認識するかもしれず、被告人 を有罪にすること自体が不正義を構成するとも説明される。  排除法則や出訴期限法などの抗弁は、有責性のある者を有罪にすることの利益を上回ると考えられている識別可 109

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能な利益を保護する。それゆえ、有効であるためには、罠の﹁政府を抑止する﹂という正当化事由は、いかなる価 値を罠の抗弁が保護しているのか特定しなければならない。それに失敗するということは、必然的に﹁罠の何がい けないのか﹂というトートロジーに戻すことになろう。  なお、類似した議論として、こうした活動は、警察と刑事司法制度への公衆の幻滅と法へのリスペクトの減少に        ︵96︶ つながるだけであるため、警察は人を罠にかけてはいけないというものがある。確かに、たとえば、ソレルス事件       ︵9 7︶ 判決において、明らかに嫌悪感が示されているように、罠によって感情的なレベルで不快にされている点は否定で   ︵98︶      ︵99︶ きない。しかし、この嫌悪感はなぜ人々は罠を受け入れ難く思うのであろうかという質問に答えない。すなわち、 人々は罠にかかった者が政府の行為にかかわらず、同情の対象とならないケースがあることを発見するのであり、 その事実が罠を実行する担い手を汚れた状態にするほど、当該行為の何がそれ程までに許されないのかについては 教えてくれない。  3 効率性説  効率性説は、罠の実施は被告人に対する悪というよりは資源の浪費であるとする見解であり、とりわけ、警察は       ︵㎜︶ 税金を使ってそれらを作り出さなければならないほど、本物の犯罪がないのであろうかと指摘する。本質的に、被 告人︵客観的テストでは仮定的なターゲット︶は、警察の誘引がなければ、犯罪を行わなかったであろうから、国 家はいずれにせよ起こるであろう阻止および刑罰を科すように国家が委託されていた犯罪を阻止するために使うこ とができた資源を無駄に別のことに費やしたとする。この議論は、主に客観的テストの支持者によって提案されて いるが、リチャード・ポスナー判事のような主観的テストの管轄の裁判官によっても功利主義の観点から支持され 110

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ている。  ポスナー判事は次のように判示している。﹁もし、警察が彼らの甘言なくてはそうしなかったであろう人に犯罪 を行うよう誘惑して逮捕し、訴追の後に有罪判決を受けて罰せられたのであれば、次の意味において法執行の資源 は浪費されたことになる。すなわち、国家の許容できないほど高い犯罪率を減少させる試みに使うことができ、使 うべきであった資源は代わりにまず犯罪を誘発し、そしてそれを罰するという完全に不毛な活動に使われたのであ る。しかし、もし警察がいずれ犯罪を行ったであろう誰かにより早い段階で、逮捕と有罪判決の刑事司法制度のコ ストが最小限化されている管理された状況で行うのであれば、警察は資源を節約していることになる⋮⋮。した       ︵皿︶ がって、⋮⋮﹃罠﹄とは、制度が適切に禁止している特に非生産的な法執行資源の使用に与える名前に過ぎない﹂。  功利主義からの議論の趣旨は、不適切な政府の誘引に反応した者は抑止、無害化あるいは社会からの隔離を通し て、更生させる真の必要性を示していないということにある。経済学を取り入れたアプローチによれば、すべてで       ︵鵬︶ はないにせよ、おそらく多くの人々は法定犯を犯す価格を有しているとされ、次のように説明する。警察のおとり は、既に犯罪行為に関与している人々を見つけるよう狙っている。なぜなら彼らの価格は市場価格あるいはそれ以 下だからである。また、価格が市場価格以上である人々はコストに見合わないため通常犯罪を行わない。したがっ て、提示する誘引が市場価格以上である場合、後者のグループ、すなわち、インフレ価格でなければ犯罪を行わな        ︵鵬︶ い者たちを捕まえる危険を冒すのであり、おとりはその価値を失う。すなわち、ある者が市場価格以上の価格に 反応するということは、彼が市場価格に対してどのように反応するかについての情報価値はなく、したがって、無 害化または社会から隔離されることを正当化するための情報価値がないのであって、﹁この者は更生の必要がある          ︵鵬︶ という証拠を提供しない。﹂とされる。 111

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 しかし、他方では、おとり捜査の実施は、確かに高くつくが、おとりが利益を作り出すとの主張も可能であると し、次のように捉える見解もある。罠は後に犯罪を行うかもしれない者を暴き出す有益な方法かもしれない。罠 は、現在のマーケットの状況においては、刑罰を正当化するのに十分に事前傾向を有していないとしても、他の者 よりもやる気がある、あるいは捜査しやすい人々を特定し、無害化または社会から隔離するのに役立つのかもしれ ない。もし、罠が、市場価格以上の価格を有しているために現在のマーケットでは犯罪を行う可能性が低い人たち を捕えるのであれば、少なくともわずかな事案においては市場価格の上昇に対する予防柵として、作用するかもし れない。すなわち、もし麻薬の取り引きがより魅力的になったとしても、あたらしい価格に反応してその活動を変       ︵鵬︶ える可能性が高い人々はすでに刑務所にいるため、住民は安全であるとするのである。  また、罠の実施は、一般予防に役立つかもしれないと指摘される。すなわち、他の犯罪者予備軍に対する注意と       ︵鵬︶ して人を罰することである。広範囲にわたる警察の情報提供者の使用はアンダーグラウンド・マーケットの者たち に対し、取引相手が情報提供者でないことを確認すべく詳細に調べるために、資源を浪費することを強いることに なる。その結果として生じる増大したコストは、逮捕される確率の増大と同様、犯罪者にその活動をやめさせるか       ︵瑠︶ もしれないし、合法的な仕事を選ぶよう強制するかもしれない。最もアグレッシブな違法行為の提唱者自身が情報       ︵鵬︶ 提供者かもしれないという知識は確かにより大きな抑制剤となるであろうとする。  このことは、罠が必ずしも費用対効果がよいというわけではなく、ただ、その可能性がもしかしたらあるかもし れないというだけであり、他方で、おとり捜査が司法的に排除を必要とするほど本質的に無駄であるということも        ︵鵬︶ まったく明らかになってはいない。また、過度なおとり捜査を禁止することによって節約された資源が、客観的な テストの管轄における警察の戦略の適切さ、あるいは主観的テストの管轄における被告人自身の行為および事前傾 112

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      ︵㎜︶ 向への適切で綿密な調査に関して生じる訴訟コストの増大よりも必ずしも大きいということも明らかではない。加 えて、確かに効率性は人を罠にかけないためのよい理由かもしれないが、それは、なぜ罠一般に対して司法手続に       ︵m︶ よって強制されるアプリオリなルールを創出する必要があるのかを説明しないとも指摘される。  さらに、効率性からの議論は、おそらく罠にかけるテクニックに対する最も説得性のあるもっぱら功利主義的な ケースであるが、これは罠の抗弁を説明しないとし、理由として、個々の事案における資源の浪費に対する正しい       ︵皿V 治療方法がなぜ無罪であるかを説明しない点をあげる。もちろん、証拠の排除と同じように無罪は警察の違法行為 の抑止とみられるかもしれないが、犯罪者を解放することになる帰結は、単なる浪費に対しては極端な措置であろ う。たった三人で十分だった事案に一〇人の警察官が割り当てられていたからといって、あるいは他のより深刻な        ︵昭︶ 訴追を放棄することによって彼女の訴追を求めたとしても我々は誰かを自由にすることはないと説く。加えて、無 駄あるいは能力の欠如によって、当該管轄において高い犯罪率を許してしまった警察署は、捕まえることができた 者たちの正式起訴が却下されることを彼らが止めることができなかったすべての犯罪の﹁罰﹂とは考えない。排除 法則や出訴期間法などの抗弁は、プライバシーや平等のような自由社会に住むことがどういうことを意味するかと       ︵皿︶ いう中心にある価値を保護する。もし罠の抗弁が効率性の価値を保護するとしても、刑事司法制度の支配的な懸念       ︵%︶ にはならないのであって、なぜ極端な救済策である無罪がそのような事案で与えられているのかについての説明は なされていないと批判する。こうした指摘を考慮すると、効率性を超える何かが危機に瀕していることが必要とさ   ︵耶︶ れよう。 113

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 4 市民的権利説  市民的権利説は、罠の抗弁は罠が本来的に不法だからではなく、むしろ曖昧な法律のように罠の戦略がターゲッ        ︵m︶ トを決める上で許容できない差別的な方法を許す裁量を警察に与えるために存在すると説く見解である。警察は、 政敵または人種的・民族的なマイノリティーをターゲットとすることができることに加え、他にもターゲットを決 める際に、不適切な判断をすることができる。評判のよくない、あるいは反体制グループに対するおとりの使用は 長らく権威主義的な体制の戦術であった。したがって、これらの濫用を阻止するための予防方法として罠は違法と       ︵㎜︶ されるべきであるとする。  しかし、この見解に対しては、罠にかけるテクニックが選択的に使用可能であるという事実は、それらが直ちに 禁止されるべきであることを意味するわけではない。周知のように、法の執行は一般的に人種差別的な形で適用さ       ︵nの︶ れうるが、だからといってまったく執行を許さないことには必ずしもつながらないと批判される。また、前述した 効率性の議論と同じように、罠が濫用の影響を受けやすいことはその行為を禁止する包括的な行政政策あるいは法 令の指示・命令に合理的につながるかもしれないが、濫用が実際に起こったという証拠なくして危険性のみで無罪 という極端な治療法に値するか否かは明らかではない。罠にかけるテクニックの何がいけないかを説明するのに予        ︵伽︶ 防の議論は充分かもしれないが、これもまた完全な抗弁の存在を説明することはできないとされる。        ︵捌︶  さらに、本見解からは、罠の何が悪いのかを説明することができないと指摘される。仮に、罠にかけるテクニッ クが濫用の可能性を生み出すことを認めたとしても、我々の直感は証拠の偽造のようにそれ自体が濫用であると感 じているのであり、その意味では、罠は、警察の残虐行為に例えられるかもしれないとする。すなわち、それは常 に悪いと考えられており、特定の人種的なマイノリティヘの残虐行為の禁止から、平等な機会の基準における残虐 114

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       ︵麗︶ 行為が許容できることにはならないからである。同様に、罠は、ターゲットが電話帳とダーツで選ばれていたとし ても許されず、おとりを用いる方法は、裁量の使用や所得税の会計検査と同様に一定のランダム性さえ認めるが、 許容できない根拠に基づく選択は許さない。それゆえ、罠は、法の執行よりは、証拠の改ざん︵富B冨二畠︶ある いは残虐行為のようであり、特定の個人あるいはグループに対してのみならず、まったく起こってはならないもの        ︵鵬︶ であると指摘される。  5 自律性説  自律性説は、罠は、法律に従うことを選ぶ自由を有するべきである個人の自律性に不必要に干渉すると説く見解   ︵必V である。ただし、そもそも、これらの見解では、程度の差こそあれ、﹁自律性﹂を明確には定義しておらず、いわ ば﹁半神秘的な形﹂で定義しており、議論を困難にしている感がある。もっとも、本見解に立ったとしても、国家 は、法律に従うことと破ることについての個人の判断に対して完全に中立的でなければならないことを意昧するこ とはなく、応報主義を徹底したとしても、刑罰および警察の捜査などが犯罪を抑止する効果が認められうることに は異論がない。  いずれにせよ、不適切な誘引が実際にどのようにターゲットの自律性を減少させるかを見るのは困難であるとし       ︵必︶ て以下のような指摘がなされている。強迫された者とは異なり、罠にかけられた個人には、依然として法律に従う        ︵鵬︶ 選択の自由があるのであり、彼らは、単に法律を破るより大きなインセンティブを有するだけである。すなわち、        ︵朔︶ 罠は違法な選択肢を加えることによってであるが、彼の選択の余地を実際に増大させるのであるとされる。  他方で、実際には、罠にかける誘引は、真に選択肢を減らす強迫には至らない厳しい脅しからなることもある。 115

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たとえば、友情あるいは性的関係への情緒的なアピールは、少なくとも暗黙のうちに、対応しないことは関係を危       ︵鵬︶ うくするという脅しをおそらく含むことになろう。同じように、ターゲットによっては﹁強制的な提案﹂と称され るものに影響を受けやすくなるほどに、医学的、金銭的、精神的に窮地に陥っているかもしれない。しかし、ジェ       ︵鵬︶ イコブソン事件における郵便による児童ポルノの度重なる提示のように、どれだけ多くの他の種類の誘引が、ター ゲットの自律権を減少させるかを判断することは困難であろう。  しかし、たとえ提案が強制的になり得ることを認めるとしても、私的な誘引とどこが異なるのかは明らかではな い。結局は、警察ではない友人はその友情に悲しげにアピールし、あるいは切羽詰った者に増額した金銭を繰り返 し提示するといった公的立場であれば罠に相当するような行為をすることができるのである。  自律性の論者からは、警察の罠の場合には、誘引を提供しているのが国家であり、いかなる私的市民が行うこと のできる干渉とはまったく異なるとの説明がありえよう。しかし、当然、被告人はそのことを知らない。すなわ ち、ターゲットの視点からは、彼に働きかけている力は、捜査官ではない友人のそれと区別することはできないの である。仮に誘引が国家のみが行使することができるような影響のある種類のものであれば、ターゲットは強迫の       ︵㎜︶ 主張や法律の錯誤の抗弁を有効に主張しうるであろうし、そもそも策略に決して引っかからないだろうとされる。  さらに、自律性説の論者からは、実際には、前者︵警察の罠︶は被告人を追跡している﹁熱追跡ミサイル﹂とい       ︵皿︶ う点で、私的な罠とは違うとも指摘される。もし被告人が最初の誘惑を拒絶すれば、国家は、結果を得るまで、          ︵麗︶ 次々に別の方法を試す。国家は、被告人が架空のいくつかの異なる企業および個人から繰り返し郵便を送られた        ︵鵬︶ ジェイコブソン事件のように、怪しさをオブラートで包むことができる。少なくとも理論的には、国家は、ター ゲットが犯罪に関与すると事前に決め、それ以外の効果的な選択を彼に与えることなくその目的を成し遂げるまで 116

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      ︵悩︶ 誘惑し続けることが可能である。これに対して、一私人は、他人に犯罪を行うよう説得するためにそのような長期 的なプロセスに関与することは稀である。すなわち、堪りかねていずれは諦め、他の誰かを探しに行く。逆に、明 らかに犯罪に関与したくない誰かに懇願すること自体が途方もないリスクともなる。それゆえ、国家は適正価格を 見つけるまで誘惑する違った方法を試し続けるため、客観的に、ターゲットは選択肢を有しないという点が警察と        ︵燭︶ 私的な罠の違いを区別することを可能にすると主張する。  これに対しては、たしかに、国家による誘引は私人よりはるかに強力であるが、警察の予算や警察官の辛抱は無       ︵鵬︶ 限ではないのであって、実際には、法執行官もいずれは諦めると反論されている。また、理論上の﹁追跡﹂の可能 性は、罠の唯一のシナリオではないのであって、すべてのおとりが、ジェイコブソン事件における複数年にわたる オペレーションのように巧妙に仕立てられたものではなく、多くは警察からのわずかな追加的な援助をもって、比        ︵㎜︶ 較的独立して動いている警察の情報提供者として活動している一私人を伴うのが実情であるとも指摘される。な お、この見解の論者は、﹁追跡﹂のような行動に従事する一私人もまた、ターゲットに無罪放免の権利を与えると       ︵選 明確に譲歩するのであり、ここにきてある種のトートロジーをもたらすことには注意が必要である。  他方で、この自律性の見解に対しては、誘引の誘惑自体は自律性の不公平な制限を構成しないかもしれないが、 一個人に対して、配置されているのが強大な国家権力であるという直感には確かに何かがあるとする指摘もみら  ︵㎜V れる。ただし、そこでは、罠にかけられた個人の自律性は間違いなく危険に冒されているとするが、それは誘惑の 瞬間には起きず、もっと後である国家が罠にかけられた個人に対し、犯すよう誘惑された犯罪について彼に責任を        ︵蜘︶ とらせようと試みる時に起きるとする。 117

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 6 刑罰賦課根拠説  刑罰賦課根拠説は、罠の問題性は、過度に積極的なおとりにあるのではなく、人が犯罪を犯す前にその者を罰す       ︵囲︶ るという決断にあるとする刑罰賦課を中心に据えた見解である。       ︵㍑︶  本見解は、刑罰の理論的根拠の一つである応報をあげ、刑罰は﹁報い﹂の存在によって正当化され、報いは、悪       ︵圏︶ 事を行った結果として生じるとする。それゆえ、悪事と刑罰との繋がりは、刑罰を科すための報いを生じさせる悪       ︵幽︶ 事の瞬間から存在するのであり、その行為自身が応報を一緒に連れてくると説く。また、﹁刑罰﹂が、悪事を前提        ︵幽︶ とすることは、その定義からもうかがうことができるとする。  罠の実施は、この順序を逆転させる。すなわち、罠のケースは、少なくとも罠にかける法執行官の構想における 意図としては、刑罰が悪事に先行する。そこでは、刑罰はすでに作り出され、刑罰を科せられる何者かとその理由 を必要としているだけである。換言すれば、刑罰が目的自体になり、罰せられた人はその目的の手段なのであると 説く。罠の実施に関する懸念は、ソレルス事件判決で﹁刑法の目的の甚だしい逸脱﹂﹁刑法の堕落﹂と称されたこ         ︵燭︶       ︵翅︶ の﹁倒錯行為﹂にあり、応報主義の観点からは不当なものになるとする。  また、捜査の前に刑罰が検討されている他の状況として、次のような事案を想定して罠のケースとの区別を試み   ︵閥︶ ている。ある検察官が、近時の企業の経理スキャンダルに対して怒りを覚えており、︵彼女の有権者のそれらに対 する嘆きをなだめたいとやっきになって︶彼女の管轄︵および彼女のオフィス︶がこれらの犯罪を真剣に捉えてい ることを示すために、ホワイトカラー犯罪の訴追に関与することを決めたという事案である。確かに、検察官は最 初に誰かを罰することを検討し、そして罰する誰かを探しにいくが、検察官と罠にかける法執行官との間の本質的 な違いは、彼らの個人的な動機はお互いに似ているかもしれないが、彼らの行動の根底にある意図は完全に異なる 118

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東洋法学第53巻第1号(2009年7月)   ︵圏︶ とする。すなわち、検察官は刑罰を検討するが、すでに存在する犯罪に対してのみであって、検察官は犯罪と分離 した刑罰は検討しない。これに対して、上司を喜ばせようというプレッシャーはあるが、簡単に証明可能なホワイ トカラー犯罪を発見することができない副検事が、所属するオフィスが犯罪を重要視していることを示すために誰 かを罠にかけることを検討する場合、副検事は重要な一線を超える。すなわち、副検事は存在する悪事を正すこと        ︵励︶ から、﹁正す﹂ことができる悪事を作り出すようになったのであるとする。  続けて、罠の問題性は、①実際のおとりが行われているときには生じず、むしろ、犯罪が起こる前、つまり刑罰        ︵m︶ が対応する犯罪もなく考えられているときと②犯罪の後、つまり、その同じ刑罰が科せられるときにあるとする。 彼を騙す行為というよりはむしろ被告人を罰する行為が、いわば罠の抗弁が避けようとしている悪しき行為︵零       ︵励V 9ωお5︶である。無罪という法的帰結は、行われた悪事からの裁判所の廉潔性の保護でも、修正四条および修正 五条の排除と同様の将来そのような戦略から警察を思いとどまらせようとする試みでもない。むしろ、それは実際       ︵鵬︶ には悪事の実現の防止である。すなわち、犯罪の前に考えられた刑罰の実現のことであると説く。  さらに、警察の罠は被告人を無罪に導き、他方、私的な罠ではそうしないのは、私的な罠は悪事なしに罰すると       ︵耐︶ いう﹁正道からの逸脱﹂から生じていないからであるとする。他人に仲問になるように誘う犯罪者は、かなりの誘 引を提示したとしても、犯罪を刑罰ではなく目的と考えている。犯罪が行われると、今や共犯者である誘われた当        ︵価︶ 事者は、その後に報いが生じて刑罰を受ける。これは、まさに、犯罪と刑罰が起こるべき順番であるとする。        ︵鵬︶  こうした応報主義の考え方は、それ自体を目的として刑罰を重んじているわけではなく、﹁刑罰﹂が報いの実現        ︵齪︶ としてのその本来の意味を維持しているときに﹁痛みあるいは他の通常不快と考えられている結果﹂を与えること は正しいと考えている。すなわち、﹁応報主義は、有罪の者が正当な報いを受けるのは本質的に良いことであると 119

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   ︵雌︶      ︵珊︶ みており﹂、報いがなければ、刑罰は、その罰を与える地位を失うとする。刑罰の定義から、犯罪への言及を全て 剥ぐと、残るのは、一人の人間から他の人間へ痛みを与えることだけであり、それは応報主義ではなく﹁サディズ       ︵㎜︶ ム﹂であるとする。  ただし、注意しなければならないのは、このことは、罠に関与する個々の法執行官が、何らかの悪意ある動機の みによることを暗示するわけではないということである。多くの場合、法執行官は、ターゲットに対する執念深さ から行動しているわけではなく、むしろ、彼らにやる気を起こさせるために提示されたインセンティブに単に反応 しているだけである。警察の情報提供者は、金銭を稼ぐことや司法取引を得ることを、警察官は自分の検挙率を上 げることを、そして検察官は次の選挙の前に彼女が﹁何かをしている﹂ように見えることを望んでいるのであっ て、これらのインセンテイブによる動機設定は必ずしも悪いわけではないと説明する。  罠の教義が体現する恐怖は、これらのインセンティブと動機が短絡したシステムに関するものであり、自制心を 失い、刑罰を科す権力によって、報いとは無関係に、刑罰を科すこと自体を目的とするいわば﹁刑罰マシーン﹂化       ︵皿︶      ︵瑚︶ した﹁サディスティックな国家﹂の出現であるとする。潜在的な犯罪を嫌疑のかけられた犯罪と置き換えることは        ︵騰︶ 許されないと説く。  とはいえ、本見解の論者は、仮に意図されている刑罰が、罠の計画が作られている時には本質的に不当であった としても、最終的に刑罰が科されたときには、必ずしも刑罰が不当であることを意味するわけではないとし、理由 として、報いなき刑罰の遂行はサディスティックであり、不当であると認めたとしても、刑罰を意図し、刑罰を遂 行する間の時間に被告人は実際に犯罪を行い、そのことによって報いを生じさせている点をあげる。それゆえ、本 見解では、国家が報いにしたがって刑罰を与えることの何が問題なのかを説明することが必要となろう。 120

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 この点について本見解では、明確には述べられていないが、何が国家に刑罰を科す権限を与えるかを検討するこ とで説明にかえている。そして、少なくとも部分的には、答えは市民の間の中立的な仲裁人としての国家の役割に あるとし、少なくともその司法的な役割においては、正義を行うために国家はあるとの理由から、国家は刑罰を科        ︵悩︶ す権限を与えられているとする。すなわち、﹁それに値する犯罪者の刑罰は、国家がより厳密に正義の理想に接近        ︵燭︶ し、よって実際に罰することによって世の中に価値を追加するのであれば、正当化される。﹂と表現されるよう       ︵騰︶ に、それ自体に正義の原理を体現すると理論づけるのである。これに対して、﹁サディスティックな国家﹂は、不 正を体現することで、国家が有していた値する罰でさえ、科す権利をも失うことになるとする。  そして、この種の刑罰を禁止する原則は、﹁禁反言の原則﹂であるとする。これは、すでに判断された事項を訴 訟から排斥するという狭い教義上の意味を指すわけではなく、特定の犯罪的行為が実際合法であるという政府の捜 査官による説明に対する被告人の客観的に合理的な信頼は、被告人による犯罪の実行を許すことができるというい        ︵研︶ わゆる﹁禁反言による罠﹂の教義である。また、ここでいう禁反言は、﹁より広い道徳的な考えであり、ある者に よる他者への以前の行為は、さもなければ合法的な要求であったものを行うその者の権利を無効にすることがで  ︵㎜︶        ︵㎜︶ きる﹂と提案される。  結論として、国家は、罰したいという不公正な欲求の中で、正義の原理を体現することをやめたのであり、それ ゆえ、金銭、あるいは同情あるいは誘導された犯罪を行うよう動機付けさせた何かによって動機付けられている被 告人よりも、それ自体を目的として痛みを与えようとする欲求をもつ国家はより卑劣である。したがって、国家は        ︵孫℃︶ 実質的には、被告人を訴追する﹁当事者適格﹂を欠き、訴追する権利を失うとする。 121

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四 お わ り に  本稿では、わが国におけるおとり捜査に関する法的問題を再検討する足掛かりとして、わが国の議論に当初から 影響を与えてきた米国のおとり捜査の議論状況について、従来の中心的関心事項である主観説と客観説という判断 基準の議論と違法性の実質論︵罠の抗弁の正当化事由︶に焦点をあてて整理・検討してきた。  判断基準については、連邦最高裁のソレルス・シャーマン両事件判決で提示された主観説と客観説の対立構造が 議論の中心に置かれてきたが、現在では、こうした見解の対立も理論面でミラーイメージであると指摘される  ︵m︶      ︵麗V ほか、学説上、ハイブリツドな見解が主張されるに至っている。また、実際の裁判における判断枠組においても、 たとえば、J・デロレアン︵冒σ∪①8おき︶が連邦裁判所に麻薬犯罪について訴追された事案では、裁判官が陪 審に対し、主観的なテストに従って罠の主張を検討するように教示したが、無罪判決後の陪審員のコメントを聞く 限りにおいては、彼の性格ではなく、捜査の不適切さを強調していることから、陪審員は客観的アプローチに従っ        ︵瑠︶ たように思われるとの分析もみられるなど、実質的に当該議論が収束傾向にあるとの指摘には一定の理由があるよ      ︵皿︶ うに思われる。        ︵恥︶  こうした米国における判断基準の現状分析については、依然として評価の分かれるところであろうが、そもそ も、両説は、何に対して判断することを意図してきたのだろうか。両説が主張された背景には、﹁ターゲットが罪 に問われるべきではないケースが存在する﹂という罠に対する共通の懸念が動機付けとしてある。すなわち、いず れの見解も、被告人に罠の抗弁が認められれば、広い意味で﹁罪に問われない﹂という法的帰結に関してはコンセ ンサスがあるのであり、それが﹁罠の抗弁﹂という形に結実したのである。それゆえ、判断基準をめぐる議論は、 122

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