ジョン・デューイのデモクラシー論に
ついての一考察
一The Ethics of Democracy(1888)の検討一
小 西 中 和
まえおき デューイ(Dewey, John)のデモクラシー論はいわゆる「現実主義」のデモク ラシー論への対抗ないし反論という性格を持っていたということができる。こ こで「現実主義」とはデモクラシーを統治機構のひとつとして理解し,その効 率性を問題にすることによって民衆の政治参加の意義を消極的にあるいは限定 1) 的に考えようとする立場である。デューイが検討の対象としたことのあるメイ ン(Maine, H.)やリップマン(Lippmann, W.)などはその立場に属するといっ てよいが,それはまたシステムの安定に力点をおく「民主主義の現代理論」に 2) もつながっていると考えられる。 さて,デューイによる「現実主義」への反論の仕方にはひとつの特徴が見い だされる。それは,デューイが統治機構としてのデモクラシーのあり方に即し て反論を試みるというよりも,道徳的理想としてのデモクラシーの観念を強調 するという一見迂回的な方法を採っているということである。この点に関して, ウェストブルック(Westbrook, R. B.)は,デューイの議論が「政治機構」の問 題について語ること余りにも少ないが故に「現実主義的デモクラシー論」に対 する有効な反論としては不十分なままであると指摘し,さらにその理由として, 「それ以外の問題について他の人々が何も語ろうとしないと考えたからであろ う」と述べている。そして,そのような態度は「国家以外の社会制度一一特に 1) Westbrook, R. B., lohn Deway and Amen’can Democraqy (1991), pp. 318L320. 2)C.ペイトマソ著,寄本勝美訳『参加と民主主義理論』(原著1970年)216 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 学校と工場一の民主化にたいするデューイの関心のみならず,現実主義の勝 利が政治形式としてのデモクラシーだけではなくてその倫理的な実質をも脅か 3) すという彼の恐れを反映するものだ」と理解されている。 筆者はかねてよりデューイのデモクラシー論の理解において,彼が政治機構 としてのデモクラシーの観念とは区別して道徳的理念としてのデモクラシーと いう観念を強調することの意味をどのように把握するかがきわめて重要な問題 になると考えてきた。彼は例えば1908年の『倫理学』において二つの観念につ いての定式化を次のように行っている。 「外面的にみれば,デモクラシーはひとつの機構であり,他のあらゆる機構と同じ ように,その経済性と作用の効率性に基づいて,保持されたり,破棄されたりされ るべきものである。道徳的にみれば,それは善の道徳的理想の実質的な具体化であ り,その善は社会のすべての構成員のあらゆる社会的能力の発展の中にあるもので 4) ある」。 デモクラシーについてのこのような見方はデューイの思想形成期の1888年の 『デモクラシーの倫理学』(The Ethics of Democracy)においてすでに中心的 テーマとして登場しており,さらに,実験主義的と称される彼に固有の哲学思 想の確立以降においても,1916年の『民主主義と教育』,1927年の『公衆とその 諸問題』,1932年の『倫理学』,1939年の『自由と文化』,1940年の「デモクラシ ーの創造一我々の課題」などデモクラシー論にかかわる主要な著作にくりか えし現れている。換言すれば,それはデューイの思想的生涯を貫く基本的モチ ーフにかかわるものであるとも予想され,したがって,その意味を,とりわけ 二つの観念の区別と関連の意味を究明することは重要なことと考えられるので ある。それは現実主義的なデモクラシー論への反論に際して彼が制度論に向か わずに,デモクラシーの理念的な意味をさぐるという迂回的な方法を採ったこ との理由をさぐることでもある。かかる問題を検討するためには,やはりデュ ーイがデモクラシーについての二つの観念を初めて提起した『デモクラシーの 3) Westbrook, op. cit, 4) Dewey, The Middle Works, Vol. 5, p, 424.
倫理学』での議論をまず手がかりにするのが適当であろう。この著作はメイン の『人民統治論』(1885年)でのデモクラシー批判を検討したものであるが,小 稿はそこにおいて示されるデューイによるメイン批判の筋道をたどることによ って,道徳的理念としてのデモクラシー観念の提起の意味を理解する手がかり 5) を得ようとするものである。 1 デューイが『デモクラシーの倫理学』において検討の対象にしたメインの『人 民統治論』はイギリスにおける1884年目第三次選挙法改正(男子普通選挙制の 実現)にみられるデモクラシーの拡大という現実の傾向を背景にして,デモク ラシー体制の脆弱性を指摘し,その将来についてのペシミスティックな展望を 示そうとするものであった。デューイにとって,それは政治的デモクラシーの 実際的な進展にもかかわらず,知識人の間での低い理論的評価が目立つという 一見矛盾した事態を示すものとうけとられた。そこで,彼はメインの議論を手 がかりにしながら「デモクラシーの根本的観念,つまり,その理想についての 吟味」を試みたのである。 メインの『人民統治論』がデモクラシーをもっぱら統治機構の形態を意味す るものとして捉え,その効率性の観点から他の統治機構と比較しながらその脆 弱性を指摘しようとしていることは彼自身の次のような言明から明らかである。 「デモクラシーが本質的に君主制とは異なるという印象ほど大きな誤りはありえ ず,また不毛な思い違いはない。デモクラシーは………君主制と同じ充すべき条件 を持っており,遂行すべき同じ機能を持っている。統治の必要かつ当然の義務の達 6) 成の成功のテストは両者の場合においてまったく同一である」。 統治が果たすべき義務として,メインは「国家の存続」,「国家の偉大さと尊厳 5)デューイのデモクラシー論に言及した拙稿として,「ジョン・デュウイの政治思想につい ての一考察」(『東海女子大学紀要』創刊号,1982年),「1930年代におけるジョン・デュウイ の政治論についての一考察(2)」(同紀要,第4号,1985年〉がある。 6) Maine, PoPular Government(1890),p, 61,
218 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) の確立」,「法秩序の維持」などをあげているが,デモクラシーにたいするこの ような問題観点は,例えば,リップマンにも受け継がれており,「現実主義的デ 7) モクラシー論」の系譜の特徴を示すものといえよう。デューイがメインのデモ クラシー論の特徴をそのことに見いだしていたことは次の指摘から窺われる。 「デモクラシーとアリストクラシーが一定の法律上の目的を達成し,一定の警察権 力を行使し,服従を強制するための手段であるという考え方,そして,唯一の問題 はどの機構がそれを最も効率的に,かつ最大の安定性と経済性をもって達成しうる かに関してであるという考えは,抽象的な理論の外部では何らの正当性も持たない 8) ものである」。 そこで,問題はそのような特徴を持つメインのデモクラシー論をデューイがど のようにして批判していくのかを理解することである。 メインは,デモクラシーが「統治形態の中で最も脆弱で不安定で」あり,ま た,その将来は当てにならず,「過去の経験からみれば,常に君主制と貴族制の 途方もなく陰欝な形態を産み出すことで終わる」などというきわめてネガティ ヴな判断を示している。だが,デューイはその判断自体を直接に問題にするの ではなくて,そのような判断の「理論的,哲学的基礎」に検討の焦点を合わせ ようとする。つまり,デモクラシーについての否定的な評価を産み出すメイン の思考方法を問題にしてみようというのである。したがって,デューイ自身の 主張もデモクラシーの可能性を理論的に弁証するという傾向を含み,議論がき わめて観念的であるという印象は否めない。当時の彼の思想がまだドイツ観念 論哲学の影響を脱しきれていなかったということが大いに関連していることは 9) 明らかであろう。リップマンの『世論』,『幻の公衆』といった著作の影響を受 けて,人間:存在へのリアルな一一例えばその非合理的側面への一認識を前提 7)Ibid., pp. 61−63,リップマン著,矢部貞治訳『公共の哲学』(原著1955年)。 8)Dewey, The Ethics(∼f l)emocracy, in 71肋Eα吻Works, Vol.1, p. 240,以下,「デモク ラシーの倫理学』からの引用は,E. D.240という形式でThe Eα吻罪∂娩s, Vo1.1のペー ジ数を示すことにする。 9)デューイの思想形成過程については,拙著『デューイ政:治哲学研究序説』(1991年)で検 討を試みている。
にしてデモクラシー論を展開するという後年見られるような問題視角はほとん ど見いだされないのである。 さて,デューイはメインの議論における基本的な論点として,「デモクラシー は統治の一形態にすぎない」,「デモクラシーは多数者の,大衆の,支配であ る」,「デモクラシーは諸単位の数量的な集合,集積以外の何ものでもない」,と 10) いった主張を引き出してくる。そして,それは「最:も困難な統治形態」として メインによって次のような特徴づけがなされていると言う。「すべての統治は意 志の行使に基づくものであるにもかかわらず,多数者が共通の意志を持ってい るとは言えない」,だから「党派や腐敗行為」という手段によって「うわべだけ の統一」を作り出さなければならない。また,デモクラシーが数量的な集合で あることから,主権は分割されて各人が持つものとされ,その結果,「デモクラ シーの発展は『政治権力の小断片への分割の過程』である」ということになる が,このことは「デモクラシーの不安定性や非進歩的な性格」を示すものであ 11) る。そして更に,多数者は,支配者であるにもかかわらず,その権力を統治者 に委ねざるをえない。「デモクラシーにおいては,要するに,統治は委任の過程 によって形成される外的な権力である」というわけである。 メインによるデモクラシー理解の要点を以上のように把握した上で,デュー イはそれに対するポレミークを展開するのであるが,その論点は大きく二つに 分けられる。ひとつは,統治機構の形態としてのデモクラシーの可能性をめぐ っての問題であり,もうひとつは,道徳的理想としてのデモクラシーの観念の 提起にかかわるものである。デューイの言葉を借りれば,まず,前者の問題は 「デモクラシーが多数者の支配として語られることは適切かどうか,デモクラ シーの数量的な属性は一次的かつ原因的なものであるのかそれとも二次的でか 12) つ派生的なものであるのか」ということであり,主としてメインの社会観が問 われる。デューイはこの問題を検:回した後で,普通選挙制や多数決の意味,主 10) E. D. 229. 11) E.D.230. 12) lbid.
220 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 権の本性,政府と国家の関係,あるいは委任理論の適切さといった統治形態と してのデモクラシーにかかわる個別的な問題を取り上げている。そして,次に, 「デモクラシーが統治の形態としてのみ語られるのは適切かどうか」というこ とが第二の問題として取り上げられ,メインのデモクラシー理解の根本的立場 が問われるのである。小論では,紙幅の関係もあるので,デューイによるメイ ンの社会観の検討の仕方と,道徳的理想としてのデモクラシー観念の提起の仕 方に論点をしぼって論述を進めることにしたい。 II デモクラシーの可能性に対するメインのネガティヴな評価を導き出す理論的 な基礎としてデューイが見いだすのはメインの社会観である。そこでまず,デ ューCはなぜ社会観に注目するのだろうかという問題から考えてみよう。その 理由はアリストテレスについての彼の次のような言及から窺われるように思わ れる。メインはデモクラシーを多数者の支配として規定する際にアリストテレ スの権威を背負っているのであるが,デューイによれば,メインがアリストテ レスの中で見逃しているきわめて重要なことがある。それは,アリストテレス においては,「国家を支配するものは法であり,人間は,小数であれ,多数であ れ,その法の道具にすぎない」,また,「結局のところ,各国家の基本的な特質 は憲法や基本法の中に見いだされる1という理解が前提になっているというこ 13) とである。デューイがここで言わんとするのは,アリストテレスにおいて統治 形態としてのデモクラシーは有機体論的的社会観を前提にしていたということ である。だから,メインがアリストテレス的なデモクラシー理解を引照するの であれば,それが前提にしていた社会観にも十分留意すべきであるとデューイ は考える。かくしてメインの社会観が問われるわけである。 デューイの見るところでは,端的に言って,メインのデモクラシー批判の根 底にあるのはいわゆる原子論的な社会観である。彼は法制史家として社会契約 論の徹底的な批判者であったにもかかわらず,その前提としてあった「単なる 13) lbid.
量的集まりとしての人亭亭という考え方」,つまり原子論的社会観をデモクラシ ー論においてはそのまま保持していると言ってよい。人間は「孤立した,非社 14) 会的な原子」として存在しているというわけである。その結果,メインは「単 なるアナーキーの説明」としてデモクラシー像を描くのであるが,それは循環 論法を含んでいる。なぜなら,彼はデモクラシーにおける解体的で,不安定な 秩序像を導くに際して,アナーキーな原子論的社会像を前提にすえているから である。だから,それをもってデモクラシーの可能性がすべて語られたとする わけにはいかないと言うのである。なぜなら,もし原子論的社会観に代えて, 有機体論的社会観を思考の前提にすえるならば,メインの指摘とは異なって, デモクラシーが安定的な秩序像と結びつきうることを示すことは可能であると 考えられるからである。紙幅の関係もあるので,以下では,デモクラシーにお ける主権の問題についてのデューイの考え方に即してそれを見ておくことにし よう。 メインは原子論的社会観に基づくことによって,「あらゆる市民が主権者であ る」という主張は主権の細分化をもたらすと理解した。つまり,主権の行使に おいて,「個人は究極的単位として政治権力のn一百万分の一になる」と考え る。かくして,彼は国家の解体傾向とそれを防止するための人為的手段として 15)の「党派と腐敗行為」を強調したのである。 だが,有機体論的社会観にたてば,「市民主権」論についてこれとまったく異 なる解釈が可能である,とデューイは言う。その社会観によれば,社会を「孤 立した諸単位の集まり」として見ることは否定され,「人間は本質的に社会的存 在」として理解される。換言すれば,個人は「社会が集約されたもの」であり, 「その生活の局所化された現れ」である。そして,「社会を有機体とするのは意 志の統一であるから」,「社会は共通の意志を持つだけではなくて,それを持た なければならない」と,考えられるのである。このような考え方によれば,す べての市民が主権者であるということは次のように解釈されるであろう。すな 14) E. D. 231. 15) E D. 236.
222 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号〉 わち,「現実に起きているように,たとえ社会がいまだひとつの意志を持つので はなく,部分的にひとつであり,他の部分では多数の断片的で相争うような意 志を持っているとしても,社会が共通の目的や精神を持つ限りにおいて,その 16) 生き生きとした体現である」というのである。だとすれば,メインと違って, デモクラシーにおける市民主権のあり方が統治の解体ないし不安定を導くと考 える必要はない。むしろ,デモクラシー以外の統治形態こそが不安定なものに なると考えられ.るであろう。なぜなら,それにおいては,「共通の意志の器官で はなく,政治社会の外にたち,その結果彼ら自身の共同のものたるべきものに 疎遠であるような諸個人が存在する」,換言すれば,「そこには二つの意志があ 17) り,治者と被治者は二つの別々の階級である」と考えられるからである。デュ ーイによれば,社会における諸個人がその共通の意志を自らの内に体現するた めには,「それの形成や表出に参加する」ことが必要であり,したがって,それ を可能とする「市民主権」論を含むデモクラシーが最も安定した統治形態とし 18) て考えられるのである。 統治形態としてのデモクラシーの可能性についてのメインのネガティヴな理 解にたいするデューイの批判的検討の紹介は,個人選挙権,多数決,政府など の意味をめぐってなおいくつかの論点があるが,ひとまず以上にとどめておき たい。デューイの検討の仕方は,メインによるデモクラシー批判がその前提に 原子論的社会観をすえていることの妥当性を問うというものであり,議論は経 験的事実にかかわるのではなくて,「理論的,哲学的基礎」の問題に限定されて いた。デューイによれば,有機体論的社会観を前提にすれば,メインとは異な るデモクラシー像を描くことができる。だから,デモクラシーに対する批判を 試みようとするのであれば,それが他の統治形態よりも社会の解体を促進する 傾向を持っているということを経験的事実に即して示すという手続きをとるべ きであり,原子論的社会観に基づいての多数者支配というデモクラシーの「恣 16) E D, 237. 17) E.D.239. 18) E.D.237.
意的な定義や分析」に依拠しても役にたたないとデューイは指摘するのである。 私見によれば,メインの議論は現実の動向と無関係に展開されていたわけでは 19) ない。ただ,それは社会的現実そのものがマス・デモクラシーの成立にともな う社会の解体傾向という問題性を露呈するにまだ至らない段階で,それを理論 的に予想しようとするものであった,と考えられるのである。デューイの議論 もまたメインの予想に対して理論的に反論を試みたのであって,現実の動向に ついての認識に基づいているわけではない。その意味では,彼によるデモクラ シー擁護論も観念的なものにとどまっている。しかし,彼は1920年代のリップ マンの仕事などからマス・デモクラシーの現実的動向そのものがデモクラシー の可能性にとっての問題性を示していることを学び,改めてデモクラシー論の 20) 検討に向かうことになるのである。だが,1920年代以降に示される彼のデモク ラシー論の基本的な観点は,『デモクラシーの倫理学』においてすでに現れてい たといってよい。それはデモクラシーを統治機構としてだけではなくて,道徳 的理想を意味する観念としても考えるという観点である。 III ここではまず,デューイが道徳的理想としてのデモクラシーの観念をどのよ うにして導き出してくるのかをさぐってみよう。メインは統治機構としてのデ モクラシーをその効率性や安定性の観点から問題にしょうとしたのであるが, デューイによれば,これを果たそうとするには,問題を統治機構に限定するメ インの立場では不十分である。なぜなら,統治の実際のあり方を規定している のは,統治機構それ自体というよりも,人々の「膨大な,多くは曖昧で,いく らかは明確な,感情,衝動,抱負,希望や恐怖,目的」であり,「この基礎なく 21) しては,それは何らの価値もない」からである。デューイはここでデモクラシ ーの統治がそれを担い,支える主体としての人間のありようの問題を抜きにし 19) CE,Maine, op. cit., pp. 14−19, 45−50. 20)デューイ著,阿部斉訳『公衆とその諸問題』,第4章。 21) E. D. 240.
224 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) ては考えられないことを示している。だから,「デモクラシーは統治の形態でし かないと言うことは家庭が多かれ少なかれブロックとモルタルの幾何学的配置 であると言うのと同じだ」と批判するのである。だが,彼によれば,「デモクラ シーは,あらゆる他の政治体と同じように,歴史的過去の記憶,生きてある現 在の意識来るべき未来の理想,に対して名づけられてきた」のであり,「要す るに,デモクラシーは社会的な,つまり,倫理的な観念である」と考えられる。 だから,「統治としてのデモクラシーの意義はその倫理的な意義に依存する」こ とが指摘される。換言すれば,「デモクラシーが統治の形態であるのはそれが道 徳的また精神的結合の形態であるが故にのみである」というのである。 道徳的理想としてのデモクラシーの観念を提示するに際してのデューイの説 明はおおよそ以上のごとくであるが,そこに見いだされる彼の思考の特徴をい くらか検討してみよう。デューイは統治機構としてのデモクラシーと倫理的な 理想としてのデモクラシーという二つの観念を想定しているが,では,両者の 関連をどのように理解しているのであろうか。この点について彼は明示的に語 っていないのであるが,おそらく手段一目的の関連において考えているように 思われる。統治機構としてのデモクラシーが手段のレヴェルにおいて理解され ていることは,それが効率性や経済性の観点によって評価されることから,明 らかである。とすれば,そこには何のための効率かという目的のレヴェルの問 題が当然に生じていることになる。それを示すのが道徳的理想としてのデモク ラシー観念であると理解されよう。そして,道徳的理想としてのデモクラシー (目的)の観点から,統治機構としてのデモクラシー(手段)の必要性を導き 出すことがデューイの狙いであったと考えられるのである。「統治としてのデモ クラシーの意義がその倫理的な意義に依存している」というデューイの言明は そのことを物語るといえようが,この点を彼の議論に即して検討しよう。 デューイはプラトンの『国家』によりながら,アリストクラシーと対比しつ つ,統治機構としてのデモクラシーの正当化を試みている。まず,デューイに よれば,両者は各々手段として実現に奉仕する倫理的な社会像において共通の ものを持っている。つまり,それらは共に「個人が社会において自分に最:も適
した位置を見いだしかつその位置にふさわしい機能を果たすとき,彼はその完 全な発展を達成する」,そこに個と全体の調和的統一が現れる,という理想的な 22) 社会像を持っている,というのである。だが,このような理想的目的をどのよ うに実現するのかという手段としてみる場合,つまり,統治機構のレヴェルに まで下りて比較する時,アリストクラシーとデモクラシーの間に決定的な違い が現れてくる。そして,デューイにとっては,デモクラシーが目的実現にふさ わしい手段,つまり妥当な統治機構として正当化されるのである。 両者の違いは結局のところ「人格的な責任性,個人の主意性」,つまり「人格 性」の原理を認めるかどうかにかかっているといってよい。プラトンに見られ るように,アリストクラシーの考え方によれば,大衆は理想的な社会を成りた たしめる原理を把握する能力を持っていない。だから,彼らはその能力を持つ 「一人の,ないし小数の賢者」の導きに頼らざるをえない。つまり,この賢者 たちが統治者として「国家において各個人を他の人々との調和にもたらすと同 時に,彼に最も適したことを遂行せしめ,かくして生の目標を実現させるよう 23) な位置につかせることを配慮する」というのである。換言すれば,「大衆は知恵 によって,あるいは必要な場合には,強制力によって社会有機体における彼ら 24)にふさわしい位置に挿入されるべきである」というわけである。 かかるアリストクラシーの考え方に対して,デューイはまず,それが歴史の 現実に合わないことを指摘する。というのも,賢明で善良な少数者が権力を与 えられ,統治者になった場合,実際には彼らが「賢明で善良であることをやめ ること」,すなわち,彼らの直接的な視界の外で苦境や零落の状態に陥っている 者たちを無視したり,あるいは,与えられた権力を社会全体のためだけではな く,彼ら自身の特権や地位のために使用することが容易に見いだされるからで ある。 しかし,デューイによれば,アリストクラシーについては,かかる歴史的な 22) E. D. 243. 23) E. D. 242. 24) E. D. 243.
226 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 批判にもまして原理的なそれ故に致命的な批判がありうる。そしてここでデモ クラシーとの違いが現れてくるのである。デモクラシーにおいては,「個人は社 会における位置と仕事を自ら見いださなければならない」,したがって,「外か ら人に与えられるべきではない」と考えられる。つまり,「人格的な責任性,個 人の主意性がデモクラシーの特徴である」。換言すれば,「アリストクラシーに 25) はない個人主義がデモクラシーにはある」というわけである。このような個人 主義の根底にあるのは,「人格性の精神がすべての個人に宿っており,それを発 展させるという選択はその個人から発する」という考え方である。デューイに とって,統治機構としてのデモクラシーがアリストクラシーに優i位するのは, かかる個人主義と結びついているからにほかならない。それこそが理想的な社 会像を実現する手段としてふさわしい統治形態だと考えられる。逆にいえば, アリストクラシーは理想的社会の実現において個人の人格性の否定を結果する 26) が故に拒否されるのである。 さて,デモクラシーが個人主義の原理と結びつくと考える時,注意すべき問 題が生じてくる。例えば,プラトンがデモクラシーにおける自由について語っ た次のようなようなネガティヴな見方がそれである。すなわち,自由とは人が 好きなようにすること,したいように生活すること,思うがままに行為するこ とであり,そこには何らの限界もない。したがって,その結果は畏敬と秩序の 喪失であり,節度の,そして制限の原理の拒否である。換言すれば,それは秩 序や法をまったく持たず,アナーキーを結果するような極端な個人主義の主張 27) でしかない,ということである。このような議論は現在に至るまでたえず存在 しているのであるが,デューイはこれに対して次のように反論する。デモクラ シーにおける個人主義は「数量的」性格においてではなく,「人格性」に裏打ち されたものとして理解されなければならない。そうすれば,個人は個人以上の ものであり,彼の自由は単なる自己主張でもないし,また規制されることのな 25) E. D. 244, 26)デューイ著,松野安男訳『民主主義と教育』(上〉,第8章。 27) E. D. 244,
い欲求でもないことが理解されるであろう。法が「人格性の客観的表現」とし てあるかぎり,自由は法と「相関的」であり,だから,そのような法によって 基礎づけられる秩序を無視するものではないのである。デモクラシーと自由の 観念の結びつきについて,デューイは次のように語っている。 「デモクラシーの理想が自由を含むのは,内発的な始まりがなければ,また内発的 に選択されかつ内発的に自由に追求される理想がなければ,デモクラシーは無だか 28) らである」。 デューイは別のところで,「ヘーゲルによれば,近代を古代から区別する転換点 29) となっているのは主体的自由の原理である」と語っている。彼がプラトン的な アリストクラシーを排してデモクラシーを採用するのは明らかにこの近代的な 自由の原理をふまえているからである。 次に,デモクラシーにおける平等についてみてみよう。アリストクラシーの 立場からは,それが原子論的な個人主義の観念と結びつけられ,「数量的等しさ」 を意味するものと考えられる。したがって,デモクラシーは平等の名のもとに, 「知恵,徳,勤勉における人々の差異」を無視し,「進歩への動機づけ」を失う というのである。しかし,デューイによれば,平等についてのこのような見方 はその根底にある「人格性」の原理への無理解に基づいている。その原理は「あ らゆる個人の中に無限の普遍的な可能性が存在している」ことを意味し,それ 故に,デモクラシーにおける平等とは「あらゆる人が機会を持っておりかつそ 30) れを持っていることを知っている」ということである。この意味で,平等もま た「数量的ではなくて倫理的な観念」として理解されるべきなのである。 ところで,デューイによれば,以上のような意味での平等を内包するデモク ラシーは,市民的また政治的領域においてと同様に産業の領域においても実現 されるのでなければ,実際には名目的なものにとどまる。そして,後者での不 28) E D. 245. 29) Dewey, Outlines of a Critical Theo7y of Ethics (1891), in The Early VVorles, Vol. 3, p. 357. 30) E. D. 246.
228 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 十分さはその「反射的影響」として前者のデモクラシーの不完全さを結果する と考えられるのである。では,産業上のデモクラシーとは何を意味するのであ ろうか。産業的デモクラシーを「あたかもすべての富を数量的に平等に分割す ること,またその数量門弟配分を意味するかのように」考えることは誤りであ る。繰り返し強調しているように,デモクラシーは「数量的な観念以外の何物 か」だからである。「一般的に言って,それはすべての産業関係が人間的な関係 に,人格性の法則に,従属するものとしてみなされなければならないというこ 31) とを意味しまた意味するべきである」というのがデューイの考えである。彼の 言わんとするところをくみ取って言い換えれば,それは産業的関係の倫理化を 意味するものと理解されよう。だが,デューイによれば,このことを考える時 に,社会において倫理的領域とそれ以外の領域を区別するという考え方は排さ れなければならない。つまり,産業的関係が「あたかも倫理的領域の外に,そ してまったく自然的な領域に属しているかのごとくに考え」,「倫理的規則がそ の産業的領域に適用されるべきである」と主張するのは,それが「外面的な適 32) 用」として考えられているが故に,間違いだというのである。産業的関係の倫 理化とはそのようなことを意味しているのではない。それは,「経済的また産業 的生活がそれ自体において倫理的であること,あるいは,それが人々の問での より高次のまたより完全な統合の形成を通して人格性の実現に貢献させられる べきである」ことを意味している。そして,それは産業的関係に属している人 々がその共通の目的の形成に参加し,関心を共有することによって達成される のである。
IV
さて,以上において,デューイが『デモクラシーの倫理学』で展開した議論 の大筋を見てきたわけであるが,そこにどのような特徴が見いだされるであろ うか。すでにふれたように,彼の議論はきわめて観念的な性格を帯びていたと 31) E. D. 247. 32)ED.248.傍点原文イタ1」ック。いえよう。だが,そこで示されたデモクラシーについての根本的な思考態度は 終生変わることはなかったと考えられるのである。ここでは二つの問題を取り 上げてそのことを検討してみよう まず,デューイは道徳的理想としてのデモクラシーの観念を強調したことに ついてその著作の末尾でローウェル(Lowell, James Russell)を引用しつつ次 のように語っていた。 「『それはたしかに理想主義である,しかし,真の意志はそれが理想に依拠するまで は決してその不動の基礎を見いだすことはないと信じる者のひとりである』, ………いかなる社会形態であってもその最良の評価基準となるのはそれが約束す 33) る生活形式の理想であり,またそれがこの理想を実現する程度である」。 いかなる事態に直面しても揺らぐことのない意志を持続するには一定の価値的 理想へのコミットが必要であり,またそれが行動決定の究極的な基礎となると いう考え方は彼のデモクラシー論においてくりかえし表明されるものであるが, 1932年の『倫理学』からその例を引いておこう。 「デモクラシーは空想的とかユートピア的という意味での『理想』ではない。なぜ ならそれは人間性に内在しかつそれにおいてすでにある程度まで具体化されてい る諸力をその論理的かつ実践的限界にまで投企することにほかならないからであ る。デモクラシーはしたがって,既存の諸制度の批判の基礎としてもまたその改革 計画の批判の基礎としても役立つのである。・・……・ デモクラシーは実現されるべき要求という意味でのひとつの要請(postulate)を意 味する。………すべての真の理想がそうであるように,それはすでに与えられた何 ものか,既成の何ものかよりはむしろ実現されるべき何ものかを意味するのであ 34) る」。 メインが注目した統治機構としてのデモクラシーの効率の問題も道徳的理想と してのデモクラシーの観点から,つまり,人間的な意味の観点から捉え直され るべきであるが,そのことにかかわって,上掲の『倫理学』は次のように語っ 33) E. D, 249. 34)デューイ著,久野収訳『社会倫理学』,330頁。
230 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) ている。 「公共問題の複雑と錯綜が増大するとともに,能率への要求がいっそう大きくなり ながち,それと同じくして代議政治の能率の程度についての疑念もまた増大してく る。人間の心的習慣は,日常の環境の中で何にならされるかによって形成される部 分が,たいへん大きいのであるから,人間の能率の精神的モデルも,何によって大 きく決定されるかといえば,機械類の非人格的過程によってである。現在の社会 35) は,機械的標準と方法に慣らされ,ほとんどその上に打ちたてられている」。 デューイのかかる理解は例えばハーバーマスの言うシステム統合の論理を想起 させるのであるが,もちろんデューイにとっては,効率の問題は「機械類の非 人格的過程」によってではなくて,人格性の原理によって考えられるべきもの である。そこで,彼は産業的関係におけるデモクラシーの実現,つまりその倫 理化の必要を提起するが,それについてのデューイの考え方もまた生涯を通じ て変わらなかったといってよい。これが次に取り上げる第二の問題である。 デューイは産業的関係におけるデモクラシーの実現がそれへの倫理的規則の 外からの適用であってはならず,それ自体においてひとつの倫理的共同体でな ければならないと主張した。換言すれば,産業的関係はそれ自体としては倫理 的性格を持たないとする見方を否定したのである。そして,このような考え方 は彼の最晩年においても次のような主張として再出するのである。 「経済的なものをすべて『物質的な』事物にのみかかわるが故に単なる手段として の地位を持つにすぎないとみなし,したがって,それは,何としてもするなら,外 から道徳化されなければならないと考えることほど慣習的になっている態度はお そらくないであろう。……… ………(そのような)教義を表現し,そしてそれによって正当化されるような実践 36> が現在の危機の永続的部分を構成しているのである」。 『デモクラシーの倫理学』において,デューイは社会についての倫理的領域と 非倫理的領域の二元論的想定を批判したが,産業的関係の倫理化のあり方につ 35)同書,333:頁。 36) Dewey, The Crisis in Human History(1946), in The Later Worles, Vol. 15, p. 217.
いて具体的な見解を示すには至らなかった。したがって,その問題についての 彼なりの検討は後の著作によって行われることになった。筆者としても,その ことの追求は稿を改めて果たすべき課題として残すことにしたい。ただ,人間 社会のあらゆる領域においてデモクラシーの実現を,つまり倫理的共同体の創 出を志向するデューイの立場は,「システムと生活世界」の二元論的対抗を説く ハーバーマス流の考え方とは異なるところがあることは予想できるように思わ 37) れるのである。 37)ハーバーマス著,丸山高司・他訳『コミュニケーション的行為の理論』(下),第6章, 山之内靖「システム社会の現代的位相」(上),(下),『思想』1991年,6,7月号。