• 検索結果がありません。

近世の近江における村落共同体の原型(上) : 江州浅井郡菅浦村

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "近世の近江における村落共同体の原型(上) : 江州浅井郡菅浦村"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

8

近世の近江における村落共同体の原型 ︵上︶

一江州浅井音痴浦村i

嗣 は し  が  き  近年我国に於ては近世村落の祉会構造や経済構造の研究が多くの、人女によって著しく推し進められた。然しその多くは 地域や年代によって甚だしくその成立事情を異にし、従って未だ多分に画集批判の余地を残している谷地帳・名寄帳及び 宗門人別改帳等の分析・を基本として農民層の統一と分解、叉はそこに作用している経済的な諸条件等を主として論じてい る。然し乍ら近世の村落を問題にする場合、我女は先ず研究の対象としては個汝の農民の農業経営についてのみ論ずべき ではなくして、彼等農民の生活の揚である所の村落共同体の具体的実態とその本質とを問題にしなければならない。その 為には前記諸帳の分析によつで得た数字の平面的・機械的理解を以てしては不充分であって、更に深く村落の内部に立入 り、単なる個汝の農業経営の総和ではない有機的な構成体である所の村落の実態と本質とを探らねばならない。 一例をあ げれば当該村落の意志が如何なる機構によって決定され、動かされているかというようなことをも村落生活の本質的な一 つの問題として取上げなければならないのである。      近世の近江における村落共同.体の原型      四一

(2)

     近世の近江における村落共同体の原型      四二  次に研究の方法としては第一に、上述の如き村落の実態とその本質とは、例えば槍地帳や名寄帳の如く行政上の必要に よって作製された諸帳面のようには、直接且つ屡汝記録に留められるという事はない。村落の生活に最も密接な関係があ り、疑うべからざる事柄は村落生活の本質的なものに係わるものであるが、然しこのような事柄はあまりにも日常的なも のであるが故に記録の必要が感じられなかった。故にこれらの吏料の欠除を補うためには現在生きている民俗や慣行等を 史学的批判を経た上で充分に活用すべきである。       5       ,  第二に瓢探上げるべき村落の特殊性を考慮しなけれぽならない。ここで採上げんとする近江地方の村落は﹁般に中世に 於ては自治的結合がかなり早く癸達した地方であったが、近世に入るとその大部分殊に湖北地方は寧ろ停滞的であった。 村落の生活に変化を与える諸種の祉会経済的条件の影響を蒙る事比較的少く、従ってこの地方は近世を通じて中世末期又 は近世初期の村落構造を維持し続けている場合が多い。従ってここで見られる村落構造は単にこの地域にのみ特有なもの としてだけ理解すべきではなく、 ︸般に近世村落共同体の発展せる形態の出発点として考えられる。この点に特に三浦村 をここで問題にせんとする所以がある。  註 菅野村︵現伊香郡永原村穴字菅浦︶に関しては中世及び近世の多数の史料が区有交書として今日にまで伝えられており、これらは   すべて本学部史料館に保管を委託されている。以下に引用した史料は凡てこの菅浦丈書に寄する屯のである。 二 菅浦村の経済的環境  元来菅浦は平安時代叉はそれ以前に大浦庄から分れて成立したと思われる村落であっ,て、菅浦逸書によれば寺門円満院 領たりし大浦庄との対抗上平安末期には村をあげて竹生嶋へ寄進しており、建長四年には山門檀那血煙となっていた。鎌 倉時代には禁裡供御人としても活躍し、南北朝時代以後は更に守護代伊香郡奉行目賀田左衛門入道浮西の難掌の支配に属 、

(3)

した。これらの支配関係は甚だしく重複錯綜しているが、大永・享豫年代には京極氏、天文・永豫年代には浅井氏の支配 下にもあった。その後近世に入って膳所藩領となり、明治維新に至った。       ゆ  村落は戸山湖に迫る間にあっ、て耕地に乏しく、従って中世から既に農業の外漁業。廻船に相・当依存していた如くである。 かかる経済的事情は近世に出ても同様であった。r寛保三年九月の﹁ロ上書﹂によると﹁当村百姓書夜之働き如何﹂との藩       マ こ からの尋問に、対して﹁此儀男書ハ山峠柴木田畑等之働き仕夜雨草履鮭を作縄をない重窓女品書一家内事二野夜ハ書野物を 極洋砿﹂と答えている。また天明二年十二月の﹁近江国浅井郡延勝寺村と菅浦村井伊香郡片山村山論御裁許書﹂には三浦 村について﹁年ζ百姓登山いたし畑作仕付山稼第一渡世いたし砿﹂とか﹁山中之畑作井山稼渡世いたし砿﹂とあり、また ﹁菅浦村者田地縄のミニては無之山畑を作柴樹木伐探売携右稼を以渡世仕来砿﹂とある。これらの状況は次の如き嘉永三 年七月の増助郷辞退願の文面に﹁層よく表わされている。      . 此度東海道水口宿墨私共村方を指口いたし増助郷御願被申二業由二海瀬糺被成下協趣Uπ然ル処当村方之義は湖水縁北浜二而瞼眠 之磯山雑肥住居堅粕前は切崖片開平地は聯蔑無御座村高四百七拾三石写絵六拾石余ほ先年山崩二而永荒二相成残四百拾三石之内田高は 六拾石ず無御座余は山坂之油木﹁畑二御高を受居年ζ深雪相続 .一 地二而冬春は農作□相成其上猛鹿霧敷協而作物相統早縄成惣取上□ 而は村中之飯米凡三分通リ茂引足不閣筆七分余は他所汐麦穀物等買入食料二仕協領主表御年貢之義も毛付高二業ッ五分之御取箇二御座        ︵壱斗二付︶ 砺糧米納ハ難事成二付牧納米之内三分通りは前ζ〃油二骨相納申旧里は米一    一,油実三升此正油照合□宛粗積を以来納来り相残怖 分野銀納仕妬右御年貢米鉾飯米買入料稼方塔義も山稼而巳二而誠二難渋至極仕舞尤後P左右三方瞼山骨而取廻し諸方通路も無之村方二. 付御国御巡見御座妬節も船二而御拙越三川脚本隣.早寒船.路士生り半,6二り余も有之藷開方往来川船二而⋮照門里子へ士ハ浦・四壁恥御座峰二一付耐他姓荷物⋮撮二 運送難仕魚漁等之稼方も一切無御座実ζ貧村二御座砧︵下略︶ これらの史料によると当国は田畑が少くて、村内で消費する米の三割も自給出来ず、あとの七割以上の自己消費用の麦穀      近世の近江における村落共同体の原型      四三

(4)

     近世の近江における村落共同体の原型    、     ・      四四         を他地方より購入した。従って年貢も米で以て納めるわけには行かず、その中三分通りを山畑に生ずる油実で以て納入し た。 ﹁厘附置﹂によると宝暦五年迄は総年貢額の二十∼三十%、特に二十一、四%を油実で.上納する場合が多かったが、 宝暦七年以後油実上納率は殆んど三十%に固定した。そして残りは銀納であったが、この為の貨幣や自己飯米の購入子等 は專ら山稼即ち柴や抜呈した樹木を売佛ってこれに当て、これらの稼ぎで渡世していたわけである。かくして当為は徳川 時代に慌て既にかなり商品貨幣経済に依存していたのであるが、然しその事によって得た貨幣牧入は主として滞納の為の 費用と自己消費用の麦畠購入費に当てられたのであって、後述する如く村内に特に富裕な階層を分化させるべく充分役立 ちはしなかった。  前皇孫助郷寸退願には以上の稼の外には運逡志紀等一切稼方がないと申立てているが、これは願書という文書の性質と        か して困窮を事実以上に述べるが故であって、村内には爾若干の稼があった。その一は前掲増助郷辞退願に於てはその存在 を否定されている廻船業である。天保三年三月目船下改員数書上帳﹂には、        覚   一丸  船   拾六艘   一小綿麟    拾壷艘   一田地養船    四艘    船合 三拾壷艘        此度御改之分         と記されている。この中小艦船や田地養船等は日差。諸川等遠隔の地にあり、地上交通の不便な田畑への通い船として使 われていたものであるが、丸船の中少くともその一部はかなり大きなものであって湖上運逡に使われていた。天明六年九 丹の日付を有する丸運の売券によると武拾五石積の丸環が菅浦村彦太郎から同村忠次郎宛に売渡されている。また文政七

(5)

、 年の次の如き丈書は三浦村民の三拾石積の舶が実際に運逡に使用されていた事を示している。        乍恐以書付御届ケ奉申上怖 一菅浦村助四郎舟三拾石積高嶋郡貫川村小次郎方ず坂田郡磯村五郎左衛門と申商入荷物少よ積送り砧処当月九日七ッ時磯村へ着舟仕右 荷物は無滞租渡し帰村之湖難舟仕同十一日四ッ時浅井郡南浜浦北川尻と申所へ流れ寄御極印御墨付共無難御座砧得共瘍主助四郎義ハ 水死仕段ζと吟味仕怖て茂死骸一向相知れ不申妬荷物之義は積元送り先吟味仕砺処小豆式拾俵炭八拾俵燧二五郎左衛門方へ相渡し有 之妬二付役人共応対仕請取書取小次郎方へ遣し協闘荷物之義二付申分無御座妬故何卒御慈悲之上右之最御聞済被成下妬様奉願上協以

上浅井郡菅浦村

文政七年申+月 庄 屋 六  右  衛  門  ㊥ 船年寄     半  右  衛  門  ㊥ 同 市  右  衛  門  ⑳   大 津御 役 所 これによると菅浦村の助四郎はそ.の持船を以て、菅浦村とは全く関係のない小豆とか炭等の他村商人の貨物運邊に従事し ていた事が分る。更にまた取扱晶目も上記のものばかりでなく、そして菅浦自身からも積出す場合もあつた事は次の如き 丈書によつて知られる。        乍恐以書付奉御願申上協 一当浦之義は往古汐丸船有之数度御用船相勤偽而丸船拾八艘干今有之協て村方出来之品は御年貢油実は不申二及其外油樽木柴石等迄何  二不限諸浦江積送り渡世二仕協然ル処七ヶ年以前ガ為稼当村山ず肥石灰焼出し砺処其湖彼是故障二相成砺而三ヶ浦廻船場之様二相成     近世の近江における村落共同体の原型       四五

(6)

   近世の近江における村落共同体の原型       .      四六 無雑右石灰限り三ケ浦江津銀差出し諸事江積送り脆得とも下地極意村二御座脆上右石灰も不引合二相成追k焼出し相減協而甚以困窮 仕協問何卒御憐懲之上何二不限所出来之品は積送り協様奉願上竪 以上 天保十五年辰十月 浅井郡菅浦村   庄 屋 船年寄 同 市  右  衛  門 左  近  次  郎 清 三 郎

大 津御役所

即ち天保十五年頃は丸船が十八艘もあり、年貢写実の外曲・樽木・柴・石等金品を積出して渡世していたが、天保八年頃 からは当無の山から肥石灰を焼出して積出していた、然しこれも続かなくなったので、術その他の諸産物の謹言りを許可 されたいというのである。  更に油屋の如き稼をなす者も現われた。前述の如く当直の年貢の約三十%は油実によって上納されたが、これらの油実 は多くの場合絞って油にして貢納されたので・年貢油を賃輪りする油屋が村内にいた書記化+二年の磐屋一締之留L 及びその他の証文等によって知り得る。ところがこの種の油屋は年貢油に限って油実の取扱が許されていたのであって、 その外には各村民の自家消費用の燈油の賃絞りが認められているに過ぎず、油は勿論油粕ですら]般に売買する事は許さ れなかった。然し乍らこれとは別に、 一札之事

(7)

  一私義渡世二難儀仕協故油屋家職二仕度奉存協節所頭株□油屋仕砺種差麦湯二付則浅井三二明麗御座協故相求家職出仕施以来右以株ヲ   村方御年貢油〆薫習は仕問敷盗難ル上は上納油井村方燈油供先撰録□来通村方二而〆先様被仰付妬筈何方□砧ても違背申問敷砺為後   証妨而一札如件       浅井郡菅浦村    文化拾三年亥三月       油 屋       四 郎 右 衛 門  ㊥   村方御役人申様 右の如き文書によると、浅井郡の油屋株を買求めて、上納油や燈油以外の一般商品としての油を取扱う油屋も寒詣十三年 には生じていた事が分る。  かくて菅浦村の枇会経済的滑革を概観すると、地理的条件によって可耕田畑が制限され、その結果一方では後述の如き 比較的小規模な農業経営が成立し、他方では村民をして前述の如く山稼叉は運途業等の非農稼業にかなりの程度依存せし めた事が知られる。これらを通じて村内産物の商品化の契機を多分に持つたが、然しこれらの非農稼業は主として年貢銀 納と自己消費用の麦穀購入費調達の為のものであって、自由な商贔生産を発展せしめる事によって村落内部の秩序を変改 するという程には至らなかった。この事は後述する如き農民層の分解の不充分さや、過剰人口の他領への流出従って村内 人口の停滞性等の事実によって推測される。村民の他領への流出については例えば菅浦村でも字赤崎の佳民は大浦本照寺 の檀家であったが、寛政四年二月本照寺より菅浦村役人衆宛、在所相続の為として次の如く願出ている。  在所之者共近年みたり二御伯領江奉公廻者日やく働キニ参リ品等砿不三富引戻し被成御百姓相勤砿様被仰付可被下怪事 このように過剰入口を村外へ排出して村内の停滞的人口を維持し、近世初期における村落共同体の体勢をそのまま存続し たという事が近世における当場の満会史的特質であり、この事はまた近江の他の多くの村落についても程度の多少こそあ      近世の近江における村落共同体の原型    、       四七

(8)

     近世の近江における村落共同体の原型       四八 れかなり普遍的に見られる特色であると思われる。  ① 菅浦村の耕作反別は近世を通じて六十三町余であるが、その中水田は約惣町四反余であった。また村民の平均耕作反別は同じく約昌    五反六畝乃至六反田畝であった︵第五表参照︶。地形の関係で村落周辺に田畑は殆んど得られず、殊に水田の大部分は大浦との境    に近い肩差・諸川と呼ばれる西斜面にあり、村・艮は舟で耕作に通った。

@@

④ ⑤ これらの歌況については林屋辰三郎氏﹃中世文化の基調﹄八三f一〇九頁三生。 棚田七年の﹁酒樹畑風損御見分裂﹂に当村の油樹霜はすべ・て﹁三拾四町五牲歩﹂と記されており、徳川時代には山畑が殆んど油実 の栽培にあてられたらしく、その山畑の耕作の爲に今日殆んど存在しない牛がかなり多数飼育されていたと伝えている。菅浦丈書 によると、慶応四年︵明治元年︶の﹁戸口御改帳﹂末尾に﹁牛拾五疋﹂と記され、また明治四年の﹁牛員数取調書上帳﹂には村内 牝牛拾四疋の各持主が列記されていて、留目の菅浦を知る者に奇異の感を砲かしめる。 後掲天保十五年の願書に﹁当浦廻義は・⋮,.丸船拾八艘干今有之﹂とあり、また明治四年の﹁明細帳﹂には﹁丸船拾六艘、締船武拾 四艘﹂とある。 絞り賃については丈化十二年二月﹁油屋二許之留﹂に﹁実壼斗二日米戴合銀戴匁宛之賃﹂とある。 三 土地関係諸帳の吟味  そこで先ず徳川時代の土地関係諸帳を吟味し乍ら近世における菅浦村の村落構成について考察する。 する徳川時代及び明治初年の土地関係諸帳としては左の如きものがある。  慶長七年︵一六〇二年︶江州浅井郡弗嘗浦村御検一帳  細凹暦二年︵一山ハ五六年︶内論∵之写  寛延三年︵一七五〇年︶内検之写帳  寛政七年︵一七九五年︶田畑反別名寄入別帳 菅浦丈書中に現存

(9)

 天保四年︵一八三三.年︶田畑名寄八別帳  文久四年︵一八六四年︶内検之写帳  全  年︵一八六四年︶田畑名寄人別帳  明治六年︵一八七三年︶地所下取調帳 これらの諸帳について槍黙して見ると、この村ではこれら諸帳の登録名の世襲が比較的嚴重に行われていて、平均百数戸 の中野その半数たる五十一戸については近世を通じて、その他の戸については徳川中期以降の持地の変遽をたどることが 出来る。従って以下右の諸帳の分析によって得た結果を屡々利用しなければならないが、然しこれらの諸帳を無批判に濫 用することは出来ない。そこで右に列記した中慶長七年の﹁菅浦村御要帳﹂︵以下略して検地帳と称す︶と明治六年の﹁地所 下取調帳﹂は一先ず別として、 ﹁内槍之写帳﹂ ︵以下略して内検帳と称す︶と﹁田畑名寄帳﹂ ︵以下略して名寄帳と称す︶との 性質を吟味して見なければならない。.この吟味の為に今交久四年の両腰を比較して見ると、この両氏の帳付形式は何れも 名寄の形態をとっているが、登録人名は必らずしも同じくない。即ち登録人名を比較対照して表示すれば第一表の如くで ある。 ︹第一表︺ 内検 帳

  o

衛恵市一

郎署内庵

文久二年内検帳及び名寄帳登録入名対照表  名 寄 帳 ○安 相寺 ○市右衛門

oo

北紙花

曲師藏

近庵笏

 o

西桂

源香

三庵

近世の近江における村落共同体の原型

。 oo

桂久北砥

香典左堅

塁衛近庵

 源三右衛門  源 三 郎

 源次郎

 わか源治郎  源 重 郎 ○源   内 ○源左右衛門 ○源 治 郎 ○源 内 ○小 三 郎 .小次.郎兵衛 五郎左近 四九

oooo

五1小小小

三 四 次 兵 衛 郎 郎 郎 〇五 郎 作

(10)

近世の近江における村落共同体の原型 五郎太夫  左近五郎 ○左近四郎  西ノ左近治郎 左藤 五 四 三    郎    治 位 郎 郎 五 郎 四郎三良 次郎九良 〇五 郎吉

○興徳坊

○左右衛門 ○左近九郎 ○善 五 郎 ○左近四郎 ○作右衛門

○左平治

 姓   吉 ○佐次兵衛

○作次郎

〇三郎右衛門

 兵九郎

○新右衛門 〇四郎右衛門 ○半 三 郎 次郎五良

次郎太郎  次郎太郎

      △次郎兵衛

○真藏坊

○新九郎

 浜ノ薪五郎 新五郎太夫 浜ノ新三郎 新次郎太夫 栖 徳庵 助右衛門 助 三 郎

助太夫

A OOA

河薪新真甚

太 郎

藏坊

九郎

五 郎 新五郎

  AO

新新新新新

兵 治

六衛藏助郎

○助   六 〇清右衛門

清清清清

 郎 九

 検

助校五郎

○助 太郎 ○助   六 〇清右衛門 ○清  吉 ○清左衛門 ○清 三 郎        ○清 △清太郎 .△清 清藤 五 清

専清

  別 八 ○清 太 郎 藏 内

  ○清兵衛

当  ○清重郎‘ 仏        ○善

○善徳寺 ○善

○善応寺 ○善

応 徳 監 寺 寺 郎 五〇 そ   へ 宗徳かこ 田 井 助 太郎膚衛門 丹  後 千代松、 ○忠 五郎 都 響 ○藤 四郎

○藤次郎

○新 三 郎

O太右衛門

 太郎右衛門 忠右衛門、 ○忠 五郎

忠次郎

 忠 太夫  忠   六 〇長左右衛門

○長兵衛

○藤右衛門 ○藤 四 郎

○藤次郎

○藤重郎

(11)

藤 助 一助後家

藤太郎

○徳兵衛

○平三郎

平次郎太夫  ○平 治 郎 平 ○平 七 助 ○平 ○仁右衛門. 平 太 郎 ○八右衛門 ○八左衛門 ○半右衛門

○半次郎

○半 山

A

彦次 郎  ○次郎右衛門 兵衛九郎 兵衛五郎. 兵衛四郎 兵衛六郎 兵右衛門

兵四郎

○兵治郎 ○兵次郎

兵 太 郎  ○久 兵 衛

平細工

平 山 /x ○平 平 助 八 山 /x

○宝光坊

○宝 殊 坊  ○宝 殊 湿 れんげ孫 上孫四郎 孫孫衛下

 門

太綴孫

 下四

郎郎入郎

○孫四郎

○孫 平 治  ○孫 平 次

○又五郎 ○叉五郎

○又治郎 ○又次郎

○叉. 助 ○又 助

○彌源次 ○彌源次

近世の近江における村落共同体の原型 伊吹彌三郎  ○禰⋮ 平 治 ○彌右衛門 ○浜 彌三郎  ○浜 彌三郎

彌四郎

○彌 与 六 〇彌 山

A

市 ○善右衛門

○与五郎

○与四郎

与太郎

養徳庵

権四郎

屋 ○左近次郎 利右衛門 ○利 八

六三郎

〇六次郎

〇六 助 山ハY左即興離目   ○山ハ 丘ハ・押衛 六け六 郎に郎 次も三 郎 良

六太夫

○重右衛門 六と 郎か   ね 次 郎 山ハ Y治郎   ∩︶⊥ハ右衛嗣門 備考 五一 .、

惣作分

.①両帳の問に於て異なる名前を対  置しているのは主として﹁内検  帳名寄口取﹂という記録に緩つ  た。尚一部は持地の比較によつ  て同一人である事を確かめたも.  のもある。 ②○印は文久二・三年﹁耶蕪宗門  御改帳﹂︵以下略して宗門改帳と  称す︶に記載された戸主、△印  は同じく家鳴を示す︵ここに文  久二・三年とせるは文久年間の  宗門改丁が散逸の爲、西本願寺  宗安相寺分のみ文久三年.他は.  二年のものを相互補完せしめて  ようやく菅浦一村に亘るが故で  あって、以下同じ︶。

(12)

     近世の近江における村落共同体の原型      五二 右の表によって内定帳と名寄帳との間には共通の名超人とそうでない名請人とが見られる。そして共通の名請人に於ても その請高は両帳に於て異なっている︵第二表参照︶。これらの事実は両帳が全く異なる性質を持つものである事を示してい る。然らば如何に異なるか、という点については次の二つの事が考慮されねばならぬ。その第一は両帳の記載様式の相違 である。内事帳に於ては同一人の所持する各筆の中に字名・反別。田畑別・石高のみ記載されている筆と、以上の外に例 えば﹁藤次郎入﹂と記されている筆とがある。他方名寄帳に於ては同じく字名。反別。田畑別。石高の外に﹁持地﹂と記 されている筆と、例えば﹁叉助内﹂と記されている筆とがある。而してこれら両帳の記載様式の間には原則として次のよ うな関係がある。即ち内槍帳に於て字名。反別・田畑別。石高のみが記されている筆の持主は必らず名寄帳上にもその名 を現わし、その同じ筆について﹁持地﹂と註記されている。また内房帳に於て叉助の項に記された筆に﹁藤次導入﹂とな っていた場合、名寄帳の藤次郎の項に同筆が現われ、 ﹁又助内﹂と註記されている。第二に文久四年一槍帳はそれ以前の 明暦二年及び寛延三年の内槍帳とその登録人名及びその持高に於て殆んど変らないが、名寄帳は同じ点に経て次第に変化 している。今この相違を明らかにする爲に前記諸帳に記載された各戸の持地反別による戸数表を作製すると第二表の如く なる。この表によって知られる如く内翠帳に而ては殆んど変化がない。この事は同表に現われている誓事のみならず、各 戸別の持地を一瞬点槍して見ても内楡三帳の間には殆んど変化がないのである。これに対し名寄.帳は寛政から丈久までの 間に相.当な変化を示しており、大高持の増加と一反未満の持・王の漸増、即ち土地所持に関して農民層の分化の傾向を僅か 乍らはっきり示している。       、  以上によって内検帳は一定の時期の持地関係が固定したものであり、これに対し名寄帳は常に作製された当時の現実の 土地関係を示しているという事が分る。この事は更に文久年間の宗門改帳との対照によって確認出来る。というのは前揚

(13)

近世の近江における村落共同体の原型 五  〔第ご表〕

持地規模別’戸数

\瑚史料一年

     \1(強地)持地反別       反

32エ09

2222ユ

87654

工 工 ユ ﹂ −

32ユ0

ユ 一 = ユ 9

87654

32エユ

24 . 23 22 21 20 i9 j

8765

﹂1 1 ︼ 14

4幽32

一 ユ エ 1i i 10

98765

432

反未満

11

︼工

2640

   1

ユrO310

一   ユ  一  ユ

2︼89

ユ 一   ユ 明暦2年 (内 粒) 1 ユ

22255

ユ903ユ

ユ   一 ユ 一

−︵454

ユ コ 寛延3年 (内 赦) 1 1

22255

19950

1254

1轟 − 年︶ 4寄 保名 天︵ 年︶ 7司 政名 覧t エ

33

11573 88

4ユ0

 てよ 一

803R︶

 ︼  一  エ 1

11

34”658

56778

ユ627

1   1  1 文久4年炭久4年 (内 粧) 1 1

22363

28023

エ   ユ  一  −

025

ユ  コ 4 (名寄)

 1

 1

1112

5ユ413

96581

97ユ4

  ユ2

126「1・・い・4

1ユ1

副瑠い12

備考 惣作分及び院内分は便宜上すべて除いた。

(14)

     近世の近江における村落共同体の原型       五四 第一表に見る如く文久二・三年の宗門改帳に記されている戸主名は二・三の例外を除けば殆んど名寄帳の登録人名に符合 する。即ち名寄帳の登録入名こそが当時現存する入汝の名前であった。他方内野帳の登録人名はすべて慶長の沃地帳の中 にその名を現わしているが、名寄帳の登録人名の中内槍帳のそれと合致しない名前は慶長の槍地帳にも見当らない。かく して内検帳とは慶長から明暦までの閤のある時期の持地関係を踏襲して記載しており、以後現実の土地所持関係を示す名 寄帳に対して各筆の土地の旧持主を示すという役割を持つに過ぎなかった。以下これらの諸帳を墨摺引用するが、‘以上の 如きものとして使用されねばならない。

四 村落構 成員 ω

 一般に近世村落の佳民構成を考える揚合、主として宗門改帳や槍地帳。名寄帳等に表われた個汝の家族人数や持地反別 高等の数字的表現を以てするのが常である。そこで先ず菅浦村の総戸数及び人数等について宗門改帳。明細帳その他書上 等の慰書により知り得る限りを表示すれば第三表の如くである。これによると家数・人数汲び一戸当り平均人数等は殆ん ど変化がない。叉慶応四年︵明治元年︶の﹁戸口御亭帳﹂には各戸の入別と同時に持高が記載されているが、それによる と無高の戸は無痛の興徳坊や、持地が除地となっている阿彌陀寺を除いては僅か一戸︵与五郎︶に過ぎない。 従って慶長 以降の土地関係諸帳に出てくる登録人の数は佳民戸数にぼぼ等しいものと考えてよい。これを表示すると第四表の如くな る。即ち徳川時代を通じて菅浦村の人口構成には殆んど著しい変化が認められないのである。        ご  次に持地反別若くは持高については前掲第二表に表わされているように樹影帳によれば幕末に近づくに随って次第に分 化の傾向が見られるが、これもさほど急激なものではない。かえって村全体として見た揚合これらの点でも変らない傾向

(15)

〔第三表〕 近世雲斗村の入口動態

近世の近江における村落共同体の原型

寛ik 4年 文化2年 天保8年 文久  2・3年 慶応4年 明治4年 明治5年

家数

102 104 100 9ユ 95 104 98

寺壕剥同居

  1’. 一,.i 蘭Ψ0 向いエ 10 10 工0 IO エ1 6 5 5

記数[入数

112 114 JIO 107 ユ10 114 114 477 515* 4ユ4 428 430 439 一戸当り.1 平均人数} 4.3 1 3.9 3.9 3.8 3.9 備考①寛政4年,文化2年及び天保8年は各年書上覚,文久2・3年は宗門改帳,慶応4年は戸口改    帳,明治4年は明細帳,同5年は戸籍に夫々拠った。   ②いんない(赤崎)分は便宜上除いた。但し*印の項のみいんない分を含んでいる。   ③括弧内は推定した数字である。 〔第四表〕  土地麗係諸帳に表われた戸口 五五

賑卸

慶長7年検地 明暦2年内検 寛延3年内検 寛政7年名寄 .天保4年名寄 文久4年内検 全  名寄 屋敷持 ユO1 94 94 96 95 95

在所

1 1 1 5 下 入 1 1 1

計 屋敷なし1総計

ユ0ユ 95 96 97 97 ・IOO 25 9 8 」4 7 ユ2 126 104 104 jl1 108 ユQ4 112 備考 惣作分及び院内分は便宜上すべて除いた。

(16)

菅浦村田畑反別及び村高

〔第五表〕 近世の近江における村落共同体の原型

斗升合三才

4ユ550

石  石 470

88773

0 3 4 7 6 3 472

53879

4

00408

471

52888

7 4 s 0 9 4 472 2 2 0 9 6 1 6 4 1 4 3 7 1 8 9 4 472 4 1 2 4 4 3

539 65

7 2 1 4 9 1 9 3 9 4 472 4 469 4

畑 反 別

反畝歩厘毛

7020 OO

田 町70

髭藩1∴

58i3 OO

8 1 6 7 5 63

6ユ1073

7J18 85

63

61796

98770

63

5738e

2ユ16?5

63

581598

52795

63 6 1 2 3 8

5エユ705

562ユ31

63 年代及史料\ 慶長7年検地    (平 均) 明暦2年内検    (平 均) 寛延3年内検    (平 均) 寛政7年名寄    (平 均) 天保4年名寄    (平 均) 文久4年内検    (平 均) 全   名寄    (平 均) 備考 表示した数字は各帳面に記されたものではなくして,筆者の計算によるものである。        五六 が強い。第二に村高は慶長七年一山帳で四七 三石とされて以来若干の出入はあったが、明 治四年の﹁明細帳﹂でもやはり同じ四七三石 とされている。この村高は土地関係諸帳に記 載されている各戸の持高の合計と必らずしも 合致しないので、これら諸帳について筆者の 計算による村の田畑反別とその高及びそれら の一戸当り平均を表示すると第五表のように なる。ここに示され,ている所でも田畑は六十 三町から六十四町の問を上下しており、高は 四百七十二石を上下して殆んど変りがない。 而もその闇に出目高は殆んどなかったらし く、明治四年の﹁明細帳﹂には薪田高僅かに ﹁転石八斗三升﹂が記されているにすぎない。 第二に村民の平均持高についても第五表に示 されている如く五・六反又は三・四六を上下 していて、殆んど﹁定の方向への変化は認め

(17)

本役・半役・無役戸数 〔第六表〕

逮ゆ年無漸・元聯・年

本塁 半役 無役 69 i  63   1

22;ユ6

    エ31(33カ) 59 24 19 60 」4 20 94

p ㎜

102 104 計 備考①天明2年は「当八月風雨潰家浪荒頂戴割入帳」,    寛政4年は書上覚,文化元年は「文化元子六月被    仰出uT・御請書」,明治4年は「明細帳」に拠った。   ②明治4年は外に寺10。   ③庄屋・肝煎。大組頭・組頭も便宣上本役として集    計した。 り、半役にも一反未満の者が四戸もあって、本役・半役及び無役の持地の大きさは必らずしも戴然とは分れていない。 しこれは恐らく主として文化元年と寛政七年との間の九年という年代差が然らしむるものであろう。 役・無役の区別が各戸に固定した身分的なものではなく、各戸の経済状態の変化に即応して変更される可変的なものであ        ゆ ったからである。  そこで同]戸についての右の区別が天明二年と文化元年との聞に如何に変更されているかを表示すれぽ第八表の如くで ある。この表中山組項の如く役付けが上る場合には持高も増大している傾向がはっきり見られる。これに対して第璽項の      近世の近江における村落共同体の原型       五七 られないのである。  而して近世の菅浦村の住民は第六表に示されている如き本山・半役及 び無役という区別がなされており、夫汝に属する人々の名前が]汝明ら かなのは天明二年と文化元年についてである。この区分が如何なる意味 を持ち如何にして決定されるかについては菅十干上申にその直接の規定 を見出す事は出来ない。そこで試みに文化元年のこの区別に属する各戸 について最も近い年代、たる寛政七年の名寄帳により持地別戸数を示せば 第七表の如くである。これによると後述の如く庄屋以下組頭に至る村役 入達は多くの揚合本役の者がこれについたと考えられるから、一般に本 綴・脇役及び無役の区別は持地従って年貢負担能力の大小による区分で あると言える。 ところがこの場合本役にも五反以下の者が+八戸もあ        然        というのは本役・半

(18)

〔第七表〕 三二持地規模別戸数

∴二二…庄屋樋

    反

19 一 20 18 一一 119 17 ’v  エ8 16 ∼  ユ7 15 ∼  エ6 14 一一 15 13 一 14 12 r”一 13 11 ∼  ユ2 10 一.」 11 g t一一 IO 8 t一 9 7 一一 8 6 一一 7 5 一v 6 4 一v 5 3  −  4 2  N  3 1 一一 2

1反末満

計 大組頭 組頭 1 1 ユ 1 2 1 ユ∩﹂ コ 1

本目[鞍

1 ユー幽46

15一bユ6

35442

1 2 1

エーr3

225

エ 4 1 l 1 2 9 43 1 23 無役 欠. μ二 ム

3122

21ーユエ

3  

78

1 3

31157

388

近世の近江における村落共同体の原型

41

11 ユ0 8 ユ。

ユ3

P

ユ5..

19口3・・

備考 外に文化元年の組頭2及び半役2計4は寛政7年目名寄帳に登録されていない。更にその外惣’  作分1。

(19)

役の変更と持高の増減(単位戸) 〔第八表〕 寛政7年と天保4年とにおける 持高比較 増 同 減 無 計 文化元年 天明2年 20

24r722

1 15

?[6

39

W428

役役役

本夕無

役役役

本半無

欠 1 4の 5  2  1 1 5  3  6  2 9  9  8  3 役役  役

  欠

半島  無 役 本 〃 〃 役 半 兀 1  1  1凸  3     1 7  4^ 3  2  3  2 8  5  4槽 5  3  3 役  役役役役  〃 本  二本半無 役役 三無 〃欠〃〃 皿 20 54 2 60 136 計 近世の近江における村落共同体の原型 備考 使用文書については前掲第六表備考①及び48−9頁参照。 如く役付けが下る一合にははっきりした傾向 が読みとれず、また第−項の如く役付けが変 らない揚合にかえって持高減少の傾向が強い という事は持高が減少してもすぐ様役付けが 下るというわけではなく、暫くは従前の役付 けを維持する事を示している。このように若 干の惰性は認められるが持高の増減にぼぼ相 応じて変更されるのであるから、天保四年十 一月置﹁倫⋮約主法.定書﹂に﹁近年二二困窮簡 略定之事﹂の一箇条として、   一着用物一切木綿切無拠古着斗之もの     本役半役無役身分二可僧事 と記されているが、この揚合の﹁身分﹂とは 単に経済的な意味をのみ持つものであって、 ﹁身代﹂という言葉に近いものと思われる。  かくてこれらの本役・半島・無役の区別は家 格叉は所謂身分として同一の家に固定するわ けではない事は以上を以て明らかであるが、         五九

(20)

     近世の近江における村落共同体の原型      六〇 かかる区別が村の生活体系に於て果してどの程度の意味を持っていたであろうか。この点を探る爲の一つの指標として、 粛粛文書によって知り得る限りの徳川時代の村役入を列挙し、特に庄屋を勤めた事のある家について天明。文化両度にお ける右の区分を表示して見ると第九表の如くなる。元来この村では庄屋役が特定の家に世襲的に固定しているわけではな かった事は、文化元年六月の﹁被仰出畝御請書﹂に﹁庄屋肝煎三年代二相勤向様二被仰渡云女﹂と記されているのによっ て察せられるが、この表によってこのことが更に確認される。 この表によると本心が庄屋になる盛合の多い事は否定出 来ないが、然し庄屋役を勤めた当時、又は当時より程遠からぬ時期に半役又は無役であった家や、或は全然その区別の 不明なものすらある。 この傾向は庄屋以外の村役人例えば肝煎・年寄・組頭等に於ても同様か叉は更に一層・強く表われ る事はいうまでもない。 即ち村役人たる者が常に必らずしも本影百姓でなければならなかったわけではなかったのであ る。  かくの如く本役・半役・無役の区分が所謂身分として各家に固定していないという事は村内における縁組の関係につい ても見られる。 一般に身分的な区別は縁組の関係に反映するものであるが、本役。此前・無役の区別についてもこの点を 確かめる爲に、文久二・三年の宗門改帳によって知り得る婚姻・養子等の縁組.関係についてその縁家先と実家との関係を 文化元年の役付けによって表示すれぽ第十表の如くである。役付けは文化元年のものであるのに対し、縁組関係は文久二 ・三年の宗門改帳によって知られるものであって、その間に相当な年代差があるが、然し宗門改帳によって気られる縁組 の事実が行われたのはその皮料の成立年代以前に遡る。そして少汝の年代的ずれがあったにしても若しこの両者の闇に一, 定の関係がありとせば、今少し同じ役付同士の縁組が多く出・てくる筈である。然るに第十表はそのような事実を示さない ので、本役は必らず本役同士縁組をするというわけではない事が知られる。

(21)

〔第九表〕  庄 屋 と 役 の 闘 係 名 前

衛 右

郎.郎

熊次

衛源

郎 三 小 衛 兵 五   吉 郎

夫 太 郎 五

  朗

   二

  新  ︵

 功夫

    郎

 刀 太

 砒五郎太

 ノ 次

左浜新新助

近世の近江における村落共同体の原型 庄 屋 役 勤 務 年 代  i天明2年「文化元年 六 明禾06,天保7,8,9,13,15,弘イヒ2, 元文3, 文化5・13,弘化4,嘉永ユ・3, 延享1, 寛延2,宝暦2, 寛1く3,4,5,7,

障閑

      宝暦7,9,

清五山

A一

暑青≡三良区検校 (清 三 良区)   ;交ニイヒコ10,12, 多左衛門(太右衛門) 明和6・7・

     f

  本役

  /

  .無役

i  i

l軍役1組頭

  1

   

、本役1組頭

.1  旨

惨役1組頭

半兵衛(半右衛門):文政10, 11,12,天保3,安政6,丈久ユ,本役1三役

1三・蔽・兵九郎・瞬・   …本役:無役,

}兵蜥・(兵右嗣天・・・・・…3・・N化15…C”S2,3,呼・…j、        平次郎太夫(平治郎)[(戸長)明治6,7,   :  無役1

陶画爵一一一幽役唾l

k’u郎陶郎堰撤化敏卿・一…翻[綱

1六郎治郎(六右衛門) 宝暦13,寛政7,文政6,7,天保4,5, ・本 役,:大組頭

i六三,, 螺1鷺灘:隻,_」本役1庄屋i

… 膿二三蝿巨i

;       1      旨

i本役:肝煎

l   i

l本役1本役

{本役…本役

g    l i 備考 名前欄括弧内は同一家につき徳川時代に変夏された新しい名寄帳登録名を示す。  かくの如 く村内に身 分的特化が 存しない事 は更に村落 生活の精神 的紐帯であ る所の氏神 祭祀に関す る組織にあ らわれる。 文化+三年 二月の﹁主 法書﹂には 直接大祭の 仕法につい ての記載は ないが、三

(22)

近世の近江における村落共同体の原型

役柄縁組関係(単位戸)

〔第十表〕 計 欠 役 無

考役1半役

57@15 8 4 15  99 ∩ソ   一   − 3  14 8   2   2  1 13 10

@3 1

3  17

役役役

30

@9 4 3 9  55

欠 純 計 備考肝煎・大組頭。組頭は便宜上本役に算入した。        六二 月七日の湯.花神事に際して﹁神主組九人庄屋肝煎﹂等が相寄って行事を        司る旨規定しているね即ち﹁神主組九人﹂が氏神祭祀の中心的役割を果 すのであるが、この神主は少くとも一一の中、東西一一の氏神に関する 限り村入たる者必らずなり得た。明治四年九月膳所県へ指出された﹁明 細帳﹂によると惣氏神たる赤崎大明神の神主は﹁村中本役廻持﹂で勤め たが、氏神保良大明神の神主は﹁東村人廻持﹂であり、氏神小林大明神 の神主は﹁西村人廻持﹂であった。村民の生活に最も密接な関係を有す る東西殺害の氏神祭祀については本役以外の者も同様に参加出来たので ある。而もこれらの神主が年番であった事は﹁赤崎大明神様神田之事﹂ に関する宝暦七年の文書に﹁毎年之神主﹂と見え、明和七年の記載に﹁ 其年≧神主﹂と見えているのによって窺う事が出来る。 ︵以下次号︶ ① ②

  本半無   他

実 現在でも村内佳民は本役・半役及び無役に分たれている。亀とより徳川蒔代のそれとは余程その意義が変って煮ているが、やは0 財産の程度、從って村雇入の給料や御経布施等の諸分捲能・刀の大小によって匿分している点は変っていない。これらの匿分は今目 でも毎年変更され得るものであって、年一回二月晦貝に﹁役のフセオコシ﹂を行うo Aマ貝幽側神主組は元中末各三人計九入宛年令順を以て苺猛−交替してこれに当るo

参照

関連したドキュメント

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

︵4︶両ずの冒邑Pの.﹄四m 西ドイツ協約自治の限界論︵一︶ ﹀領域﹂に属するに至る︒ ︵名古︶

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

[r]

の後︑患者は理事から要請には同意できるが︑ それは遺体処理法一 0

[r]