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ボリンジャーの『寛容な社会』を素材として一一
池 端 忠 司
はじめに 第一章 「寛容の一般理論Jの内容 第一節 イン}ロダ、クション 第二節 自由に囚われていないか (以上第63巻第4号) 第三節 「古典モデル」とその限界 第四節 「要塞そlデ、ノレjとその限界 (以上本号) 第五節寛容なマインドを求めて 第六節寛容行動が引き起こす精神作用の弁証 第七節線引き,そして,あいまいさの美点 第 八 節 正 し い 意 見 の 探 求 第九節 「寛容の一般理論」のアジェンダ 第 十 節 小 括 第二章 合衆国における「寛容の一般理論」の評価 第一節他の「寛容モデル」との相違 第二節 ブラッシィの立場 第三節 ローゼンフzルドの立場 第四節ネーゲ、ルの立場 第五節 オークスの立場 第六節 小括ーーボリンジャーの反論 第三章 「寛容の一般理論」の検討 第一節 ボリンジャー理論の理解のために 第二節 言論の自由の価値と裁判所の役割 第 三 節 小 括 おわりに-220- 香川大学:経済論叢 912 第一章 「寛容の一般理論」の内容 第三節 「古典モデル」とそ2の限界 すでに見た第一章においてボリンジャーは過激な言論をなぜ保護しなければ ならないのかとし、う具体的な問題を提起し,この問題の検討が今日の言論の自 由の原理論を手に入れる方法であると理解した。そこで彼は過激派の言論に関 する先行する議論を検討し,さらに, Skokie事件の事実関係や法廷意見を轍密 に観察することによってアメリカ合衆国の裁判所が提示した言論の自由の法理 の限界を指摘した。 それに対
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て,ここで紹介する第二章のi
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古典モデル』とその限界」と第三 章のi
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要塞モデノレ』とその限界J
はアメリカの言論の自由に関する議論を把握 する方法として,言論の自由のレトリックがそのまわりに自然に集まる命題や 原理に注目する。この命題や原理は言い換えれば議論合成り立たせている基本 的な構造を意味する。したがってここでは議論の基本的な構造を捉えるという 目的を達成する限度で偉大な先人たちの主張が引用されるが,特定の誰かの理 論の全体を姐上にあげているわけではない。その結果,最近の原理論を検討す るときに一般的に採用される,個々の学者の学説の整理とは趣を異にし,それ と対比されるならば評価や批判の具体的な対象が定まらないような印象を読者 に与えるかもしれない。しかしここで行われる類型化は個々の学者の具体的な 主張の座位を示すための議論全体を挑望する便利なマトリックスではなく,彼 の視点、を反映し,彼の理論を説明する観念であり,道具である。といってもこ の類型化は当然その対象である言論の自由に関する議論によって規定される。 議論自体は彼の実践的な視点によってどうにでも見えるものではない。この意 味で彼の類型化は彼の完全な創作なのではなく,アメリカ社会が歩んできた時 代毎の歴史的な課題を反映するものにならざるを得ず,それだからこそ彼の視 点・理論の評価を離れてその類型化自体を評価することもできるのではないか と思われる。-221-言論の自由の価値と裁判所の役割(2) 913 彼は議論の基本的な構造を大きく二つのモデルに分類した。第一章の中です でにその二つのモデルが予告されていたのでここでもその言葉を借りることに しよう。「前者の自由な言論へのアプローチは,私が古典モデルと呼ぶもので あり,我々が自由な言論の原理を擁護するうえで公的な議論の場で一般的に話 し考えることのよくあるものの要約である。もう一つのアプローチは,私が要 塞モデルと呼んでいるものであり,我々の公的な討論において,比較的潜行的 な役割を演じ,比較的近年になってから登場した理由を扱っている。それは自 由な言論の問題についての基本的な論理の道筋として確認することが比較的難 しいものであるが,そうであるにもかかわらず,古典モデルと連携したこのア プローチは,古典モデルと同じ重要性を持つ。
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(41頁〉 古典モデノレの概要 ボリンジャーは過激派の言論をなぜ保護するのかとし寸前章の問題を継承し その問題をさらに追求するという形をとりながら,これまでの言論の自由の議 論の基本構造の検討に向かうことになる。その際まず古典モデ)レが検討される。 iSkokie事件のような事例は基本的なものに戻ることを要求する。たびたび主 張され,暗黙のうちに想定されているように, Skokie事件が修正第一条の極限 (margins)に位置する事例であったとするならば,そのときその周辺に沿った (1) どこかの地点で何をすべきかを決めようとするまえに,我々は,修正第一条の 『中核部 (core)~ とか,その基礎にある命題や前提とか,さらに我々が修正第 一条によって達成しようと望んでいるものについて,何らかのことを知る必要 がある。自由な言論についての我々が継承した論理の道筋 (ourinherited ways of thinking about free speech)ーーとの章で私が古典モデルと呼ぶもの がこれである一一ーのもとではこの中核部は我々が真に価値を認める言論である と考えられる。J
(43-44頁〉0) Bollinger, The Tolerant Society Freedom 0/Speech and Extremist Speech in America CNew York目OxfordUniversity Press, 1986) 以下本容を引用する場合には本文中に頁数の
みを記す。なお本稿の脚注はボリンジャー自身が本文中に引用したものの他に注の中で触れて いるものも載せた。〉 寸
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-222- 香川大学経済論叢 914 ボリンジャーによれば修正第一条についての古典的なヴィジョンのロジック はつぎのような形態をとる。自由な言論の原理のもとで我々が保護しているの は「言論 (speech)J なのだから,その言論保護の理由はある種の言論が我々に とって非常に重要であるという理由でなければならない。その当然の帰結とし て,修正第一条のどんな「理論 (theory)Jもまずもって話す自由を持つことが なぜ価値のあることなのかを探究することから生まれることになる。自由な言 論の今日の分析はこの理論上の方向に従っているが,理論家たちは確認できた 「価値 (values)J のどれを他の価値よりも優先すべきかについて一致していな い。
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またボリンジャーは古典モデ町ルの起源をつぎのように記述する。自由な言論 の古典的なヴィジョンは,時代をはるか昔に遡る先行例 (antecedents) を持 つ。その第一位に挙げられるものは啓蒙運動の時代とのつながりである。それ は18世紀のことである。人間の持つ理性の力へのインタレストと信頼 (the interest and faith in man' powers of reason)が全盛のときであり,国家と 個々の社会構成員の関係を思い描く方法という点であの非常に重要なー革命が起 きたときである。この思想上の改革(transformation) から社会編成 (social organizations)についての極めて重要な二つの前提が生じた。その一つは政府 がただ限定された政治権力を有ししかもその権力が市民に由来する。第二に人 民それ自体が究極的な主権者 (ultimatesovereign) として自らの運命を決定す る権限を持つ。これらの前提からあの重大な政治的な実験つまりアメリカ革命 が起こった。この革命は「政府に関する基本原理や政府と社会の関係に関する 基本原理を再び思い描い〔た JJものとし!て BernardBailynのような学者たちに よって記述される。(
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頁〉 このような歴史的な先行例を持つ古典モデルにボリンジャーはつぎのような (2) Fred S. Siebert.“The Libertarian Theory." inFour Theories 01 the Press(Urbana, llJ University ofllJinois Press, 1956), 39 (3) Bernard Bailyn.The !deological Origin.s 01the American Revolution(Cambridge Harvard University Press.1967), 230915 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -223ー 疑問を投げ掛ける。「それらの再び思い捕かれた考え (notions)が我々の現在 の現実にどのようにマッチするのか。その
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世紀前に遡るレトリックが言論の 自由の領域において今日生じているものをどれほどうまく記述するであろう か。J
(45頁〉 以上のように古典モデルは言論内容の価値に着目する表面に現われた議論を 形成させる命題や原理の構造を意味し,人間の理性の力に信を置く西欧自由主 義の啓蒙運動期にその先行例を持つ。ボリンジャーはこのような起源をもっ古 典モデルが現代社会における言論の自由の議論においていまでも有効なのかと いう疑問を提起した。 (2) 近年の議論における民主主義・自己統治とし、う価値の強調 ボリンジャーはいずれのコンテクストにしろ真理や最良の決定に至るプロセ スにおいて言論が果たす役割を強調する真理探求アプローチが古典モデルを代 表すると理解する。(
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古典モデルを代表する真理探求アプローチ ボリンジャーは真理探求アプローチをつぎように説明する。自由な言論に関 する今日のディスコース (discourse)において言論から連想する支配的な価値 は真理の獲得 (gettingat the truth)または知識の増進 (theadvancement of know]edge)において言論の果たすその役割である。言論は人民が情報や思想 を伝達する手段であり,そのことによって人々は観点や命題や仮説をコミュニ ケートL
,そのうえそれらが他者の言論と対決することによってテストされる。 我々はこの聞かれた討論 (discussion)の過程を通じて我々自身が考えている ものを理解し,そのうえ同じ争点に関して他者が考えているものと我々が考え ているものとを比較することができる。我々はこの過程の最終的な結果ができ るかぎり真理の近似値 (anapproximation)に最後に到達することを望む。 (45 頁〉 また真理探求アプローチがし、まなお健在であることがつぎのように説かれる。(4) Carl Becker, Freedom and Restonsibilitアinthe American WaァofLife(New York :
-224 香川大学経済論叢 916 「この考えは我々にとってあまりに見馴れたものなので我々はその意義を見過 ごしてしまうかもしれない。言論の持つ他のベネフィット (benefits)が推薦さ れ得るし,実際ときどき推薦される。言論は一一一自由な言論の持つ真理探求と いう概念と矛盾するときに主張されることがあるのだが一一ーとくに以下の理由 により保護されるべきである。すなわち言論は個々人が自己表現 (self-expres -sion)の行為をすることを通じて自己充実 (selfイulfiIlment)を達成するという 重大な役割を演じることを理由にあるいは我々の基礎的な社会道徳 (ourbasic social morality)が社会のすべての構成員を尊厳と尊敬 (dignityand respect) をもって平等に扱うべきことを命じているという理由で保護されるのであっ て,世界に関する真理を暴くという点で言論がもたらすプラクテイカルなベネ フ ィ ッ ト を 理 由 と し て で は な い 。 そ れ に も か か わ ら ず 真 理 形 成 過 程 (the truth-building process) のために情報や思想を収集することの持つプラクティ カルなベネフィットは依然として言論を当然の権利として要求させる主要な魅 力のままであり,それゆえ自由な言論の原理に関する今日の我々の理論の基礎 (the basis)であり続ける。
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(45頁〉 以上のようにボリンジャーは他の個人の価値や社会道徳によって言論の自由 が正当化されることを認めつつも真理探求アプローチがし、までも言論の自由の 基礎を提供していることを主張した。 (B) チェイフィーとミクルジョン ここでボリンジャーは真理探求アプローチのさらに詳しい説明や検討に直行 せず,言論の自由の近年の議論において優勢な一つの傾向に注意を向ける。そ の傾向は真理探求よりも民主主義や自己統治の価値を強調するものであり,そ れは学説と実務においてみられる。「しかしながら最近の数十年において真理 探求にとっての言論が持つ価値はより狭いコンテクストにおいてーーすなわち(5) Thomas Emerson, The Sys.tem 0/ Freedom 0/ Expre.ssion (New York Vintage Books, 1970), 6 -9 ; Tribe, American Cons.titutional Laω(Mineola, N Y Foundation Press,
1978), 576-79 ; Melville Nimmer, Freedom 0/Speech (New York : Matthew Bender, 198
-4), chap. 1 Frederick Schauer, Free Speech A Philos.ophical Enquiry (Cambridge Cambridge University Press, 1982)
917 活論の自由の価値と裁判所の役割(2) qfhM つL 戸 、 υ 民主主義的な自己統治という政治的なコンテクストにおいて思いめぐらされて きた。民主主義のもとでは一般につぎのようにいわれる。言論は市民が対面す る争点の解決策を共同で (collective)探求する際にその市民の手助けをすると いう欠くことのできない役割を演じる。修正第一条に関するアメリカ人の学者 として第一に挙げることのできるチェイフィー CZechariahChafee)教授はそ の著書『合衆国における自由な言論 (FreeSpeech in the United SUtesf〉の 中でつぎのように述べた。修正第一条は『二種類のインタレスト』を保護する。 その一つは『真理の獲得 (attainmentof truth)という点での社会的インタレス トであり,その結果この国は行為のこの最も賢明なコースを採用できるだけで はなくその行為をこの最も賢明な方法で実行できる。』そして,もう一つは『個 人的なインタレストであり,人生が生きるに値するとき多くの人々が自分に とって生死にかかわる問題について自らの意見を表現することの必要性』であ る。チェイフィーが明らかしたとの個人的なインタレストは彼の言う社会的イ ンタレストに次いで第二の役割を演じてきたし,この社会的インタレストは第 一義的には政治的なインタレストを意味することになった。
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(46頁〉 ボリンジャーはチェイフィーのこの主張と並んで政治的なインタレストを強 調するもう一人の論者の見解をつぎのように説明する。言論の自由が民主主義 的な柾会にとって持つ価値についての,発展の可能性を秘めた (seminaI)一つ の業績は哲学者であり教育者であるミクノレジョン (AlexanderMeiklejohn)が1
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年に著した論文である。『自由な言論,それと自己統治の関係 (Free Speech andI
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s Relation to Self-Government) ~とし、うシンフ。ルに題目が付けられたミクノレジョンの論文は多くの人々にとってすでに自明であったと思われ るが,それにもかかわらず非常に重要なテーゼをつぎのように展開した。すな (6) Zechariah Chafee.Free Speech in the United States(Cambridge Harvard University Press.1941 ; rpt New York : Atheneum.1969).33. (7) Id (8) Alexander Meiklejohn.“Free Speech and Its Relation to Self司Government."inPolitical
Freedom The Constitutional Powers.01 the People(New York : Harper& Row.1948 rpt New York : Oxford University Press.1965).3
-226- 香川大学経済論叢 918 わち自由な言論の原理は自己統治する社会のためにプラクテイカルな役割を果 たし,市民相互の討論を保護しその結果市民は意思決定をするために自分たち の前に持ち出した争点について何を為すべきかを最も適切に決定することがで きる。ミクルジョンはつぎのように主張した。かりに我々が自己統治する社会 で生きることを選択するならば当然コースの問題として政府は市民の主権的な 権能の実行に関係する市民のどんな言論にも干渉することが禁止されるし,禁 止されるべきであるということになる。ロバート式議事手続規則CRobert's Rules 01 Order)は必要かつ妥当であるかもしれないが,市民は自らの政治的 な対話にそれ以上の干渉を少しも許すことができない。
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頁) ロパート式議事手続規則とはアメリカ陸軍の技官であるロバート(
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年に刊行した会議の進め方に関する規則であり,1
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年 に改訂版が出され,現在でも多くの会議体で広く利用されているものである が,ミクルジョンにとって,自己統治という価値からすれば政治的なコンテク ストにおいて会議を進めるための規則以外の言論規制は認められないことにな る。 ボリンジャーはミクルジョンの主張をさらに詳しく説明する。 ミクノレジョン は自由な言論の機能を考えるために自分のパラダイムとして(他の多くの人々 と同様に〉伝統的なニz一・イングランドのタウン・ミィーティング(New
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を採用した。そこで市民は「政治的に平等なもの」と して定期的に対面する。議長(
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を課したが前述のよ うなどんな考え(
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も抑制されない。というのも市民は究極的な主権者と して彼ら自身にかかわる決定を行う必要があり,彼らが為し得る最善の決定を 行なう必要があるからであった。すなわち「ところで政治的な自己統治のこの 方法に関して」とミクルジョンは書いた,I
究極的なインタレストが置かれる ポイントは言論者の言葉ではなく,聞き手のマインドである。ミィーティング の最終的な目的は投票によって賢明な決定に至ることである。コミュニティの 福祉はある争点を決定する人々がその争点を理解すべきことを要求する。彼ら は投票によって自ら決定したことについて熟知していなければならない。そし919 百論の自由の価値と裁判所の役割(2) -227-てこのことは逆に言えば時間の許すかぎり当該問題にかかわるすべての事実と インタレストがミィーティングにおいて十分にかつ公正に提示されるべきこと を命ずる。」この場面において人々に聞き取られる機会がすべての観点 (view -points)に与えられなければならない。すなわち「し、ずれにせよ,ある争点につ いて決定しなければならない市民がその争点にかかわる情報,意見,疑問,不 信,批判についての心得があること (acquaintance)を否定されるかぎり,そ の行き着くところはそのかぎりで全体的な善 (thegeneral good)にとっての熟 慮を欠くアンバランスな計画策定になるにちがいない。まさにこのコミュニ ティの論理過程 (thethinking process.)における不完全性が連邦憲法修正第一 条が注意、を向け,用心した対象である。
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(46-47頁〕 ボリンジャーはこの二人の立場の特徴をつぎのように確認する。「それゆえ チェイフィーと同様にミクルジョンにとって言論と,それがもたらす結果また は討議 (deliberations)の所産との関連性が,言論を特別な保護に値する活動 にするように思われた。コミコニティのすべての市民は言論がたどり着いた結 果という点でインタレストを分け持っているため,チェイフィーが付け加えた ように言論を保護することは『共同の (collective)j]インタレストに仕え,自己 表現行為への単なる個人的なインタレストに仕えるわけではない。チェイ フィーの最終的な分析において『だれもが話すべきだではなく,しゃべるに値 することなら何でもしゃべるべきだということが,大切なのである。j]J
(47頁〉 このように政治的なコンテクストにおける言論の価値を強調するこ人の立場 は議論の過程自体にではなく,その結果のもつ価値に着目しその結果との関係 で言論の価値を評価するため,言論がもたらす価値は個々の話し手の個人的な インタレストというよりも,社会構成員全体のインタレストに関わるものとな る。 しかしミクルジョンの理論はその見かけほど融通のきかないものではなかっ た。ボリンジャーはそのことをつぎのように説明する。ミクルジョンは彼の理 (9) Id.at24-27 (10) Idat26-228- 香川大学経済論議ー 920 論のもとで修正第一条が与える保護の範囲を「政治的な
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(あるいは彼がそれ に言及するときは「公的なJ)表現に限定した。この限界は一見したほど完全に 厳格なものlでtまなかった。というのも(芸術的表現のような)価値のある言論 が彼の理論のもとでは保護されないことになるという反論が多かったときに, ミクノレジョンはそのような言論の重要性を認め,自らの理論がその言論の保護 を排除することを否定したからである。その言論は政治的な意思決定に「かか わる (relevant)J
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政治的な」言論のカテゴリーに入れることができ るであろう。シェークスピアの知識は,政治的であることが明快な表現と同様 に賢明な政治的決定に欠かせないという答弁をミクノレジョンは行なった。(
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-48頁〕 以上に述べた政治的なコンテクストに限定した言論の自由の価値を強調する 立場が今日の議論の基礎を形成していることをボリンジャーはつぎのように指 摘する。「言論の政治的な機能が言論の自由という観念 (concept)をどのよう に正当化し定義するかに関するミクルジョンの考えは修正第一条に関する現代 の慣用句 (modernidiom)の主要な部分となってきた。今日我々は言論が自己 統治する社会にとって欠かせない一つの道具であるという発言をよく耳にする。 民主主義へのコミットメント (commitmentto democracy)はすべての公的な 争点について公開で討論する機会を市民から奪う政府権力が厳格に抑制されな ければならないという一つの了解を論理的必然として含意するといわれる。開 かれた討論は決定の質を向上させる過程でのその役割を理由に褒めちぎられる。 プラクテイカルで具体的なベネフィットはこの過程から湧き出て政治的なコ ミュニティに流れつくと言われており,我々が修正第一条によって保護したい のはまさにこれらの共同の社会的なベネフィット (thesecollective social benefits)である。政治的な対話の優位 (theprimacy of political dialogue)の 承認は自由な言論の原理に関する論理や司法判決 (thethinking and judical decisions)のなかにその姿を見せた。J
(48頁〉 (11)Id at 37 (12) Meiklejohn 'The First Amendment as an Absolute,"1961 Sup. Ct Rev.245,263-229-言論の自由の価値と裁判所の役割(2) 921 以上が近年の議論において優勢な傾向を代表する論者たちの主張であった。 SulIivan判決とカルヴィン その傾向は実務にも反映されている。ボリンジャーによれば,前述のよろな 議 論 の 傾 向 を も っ と も よ く 具 現 し た 主 導 的 な 連 邦 最 高 裁 判 決 はNewYork
Times Co. v. SulIivan判決である。 SulIivan判決で争点になったのは,名誉殻損
(defama tion)を規定する州のコモン・ロー上の諸ルールの合憲性十であり,少 なくとも,公務員 (publicofficials)が自分について為された虚偽の陳述を理由 (c) にプレスに対して損害賠償を求めた訴訟にその諸ルールが適用されたときの合 これらのコモン・ロー上の訴訟に憲法上の制約を適用するかど うかを決定するうえで町連邦最高裁は‘マディソン(James Madison)の言葉を用 いて民主主義のもとでは「政府ではなく人民が絶対的な主権を持つ」という基 礎的な前提から徐々に説き起こした。この前提に立って連邦最高裁は市民が選 んだ議員に市民が公開で批判することを政府が干渉したり制限しようとしたり する権限を持たえまし、と判断した。したがって連邦最高裁はつぎのように言明し 「修正第←条の中心となる意味 (centralmeaning of the First Amendment)
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は,市民が政府を批判するというその主権的な権利を行使した ことを理由に処罰されてしまうような扇動的な名誉控損制度 (aregime of seditious libel)は違憲であるということでなければならない。当該州はその政 治的な特権 (prerogatives)の行使を市民に任せず,上述の制度のもとで自らの 憲性であった。 つまり た。i
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-ためにその権限を濫用した。(
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頁〉 ボリンジャーによれば,連邦最高裁は自由な言論の中核となる意味について コモン・ロー上の名誉段損の諸ルールが憲法上の刈り込み のこの考えに立ち,(13) Whitney v California, 274 U S. 357, 375(1927) Alexander Bicke,lThe Morality of Consent(New Haven, Conn : Yale University Press, 1975), 62 ; Bork, 'Neutral Principles and Some First Amendment Problems,"47 Ind L J 1, 26 (971)
(14) New York Times Co v. Sullivan, 376 U. S. 254 (964)
(5) 376 U S. at 274, quoting James Madison, Elliot's Debates on the Federal Consititution (876), vol 4, 568
-230ー 香川大学経済論議 922 (constitutional trimming)を許すほど十分に扇動的な名誉致損制度と類似して いるかどうかを問うことによってコモン・ロー上の名誉段損の諸ルーノレという 争点にアプローチすることができた。この問題に連邦最高裁は条件付きのイエ スで答えた。つまりその内容は市民がその主権的な統治上の権限を行使すると いう自らの正統なインタレストを守るためにはある限度をもって(つまり虚偽 であるという認識がなくまたは真実lであるかどうかについて無頓着な不注意 (reckless disregard)がないかぎり〉事実に関する名誉殻損的な陳述 (defamatory statements of fact)を保護しなければならないというものである。連邦最高裁 は言論が「抑制されず,活発で,広く開かれている」ような環境を創り上げる ことに価値 (virtue)を見い出した。 (49頁〉 このようにSullivan判決は公務員の名誉致損に関する事例であり,政治的な コンテクストにおける言論の自由の価値を強調するには好都合の判決であった。 ボリンジャーはこの判決を分析したある論者の見解に触れ, Sullivan判 決 の 意 義をさらに説明する。 ボリンジャーによれば, Sullivan判決は修正第一条にとって一つの画期的な ものであった。 Sullivan判決の法廷意見に関する同年に登場した有名な論文の 中でカノレヴィン (HarryKalven)教授は,連邦最高裁が「修正第一条の中心と なる意味」がどんな扇動的な名誉致損制度も認めないことであると判示し勺〉 きに,はじめて理論上の出発点を修正第一条にどのように与えたかを指摘した。 「明白かつ現在の危険 (clearand present danger)
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テストはーーたとえそれ が一つのテストとしてどのように考えられていようとも一一一,理論的に空虚 (e帥 tりであっ完)。したがってカノレウ寸ィンはつぎのように指摘した。 Sullivan判決が行ったことは自由な言論の原理のその意味と機能 (themeaning and f unction)を 政 治 的 な シ ス テ ム の 構 造 (thestructure of the political (17) 376 U S. at 270(18)Kalven,“The New Y ork Times Case目 A Note on 'The Central Meaning of the First
Amendment,'"1964Sup Ct Rev 191
923 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -231-system)と結びつけることであり,その結果民主主義的な統治システムに果た す自由な言論のウ、ァイタルな役割を明らかにした。もちろんこれを行ううえで 連邦最高裁はミクルジョンのアプローチを本質的に採用した。皮肉なことに連 邦最高裁の法廷意見はミクルジョンの名前をどこにもあげていないが,カノレ ヴィンの論文はその関連性 (theassociation)を裏づけたし,その関連性はそれ 以来自明の理となった。 (49頁〉 このようにSullivan判決は「明白かつ現在の危険」テストと比較するならば, 言論の自由のもつ実体的な価値を宣言するものとして理解でき,カリヴィンが 明らかにしたようにミクルジョンの立場に符合するものであった。ボリン ジャーはつぎにこのミクノレジョンとSullivan判決の立場を検討するが,そのま えにその立場の限界をつぎように示唆している。「ミクルジョンとSullivan判決 のこの向盟関係 (alliance)は民主主義にとっての言論の自由のプラクテイカル な重要性のその激しい強調を以てその後の多くの修正第一条にかかわる事件に よって踏襲される傾向がある。この同盟関係はそのまわりに修正第一条につい ての多くのディスコースや多くの意見が形成されるところの中核となる構造を 提供する。それは自由な言論の理論としてある種の優勢 (ascendancy)の域に 達しているため,我々はそれに細心の注意を払わなければならない。だがひと たび我々がそれに注意を払うならば,自由な言論の原理と自己統治する社会の 関係が一般に考えられている以上にまたは言われている以上に,あいまいであ ることをすぐに発見するであろう。ひとたび我々がこのあいまいさをえり分け (20)Id at 209
(21)Brennan, "The Supreme Court and the Meiklejohn Interpretation of the First Amendment" 79 Harv L Rev 1, 11-19 (1965)
(22)Time, Inc, v Hill, 385 U S 374, 387-88(1967) ; Red Lion Broadcasting Co, Inc, v F C C, 395 U S 367 390(1969) ; Rosenbloom v Metromedia, Inc, 403 U S. 29, 41
(1971) ; Columbia Broadcasting System, Inc,v Democratic Natl Comm ,412 U.S. 94, 102(1973) Pittsburgh Press Co v Pittsburgh Comm on Human Relations, 413 U S 376, 38ト82(1973) : Gertz v. Robert WeJch, Inc, 418 U S 323, 340(1974) ; Miami Herald Pubulishing Co v Tornillo, 418 U S 24,1257(1974) Cox Broadcasting Corp v Cohn,
420 U S 469 492 (1 975 ) Virginia State Board of Pharmacy v Virginia Citizens Consumer CounciL Inc, 425 U S. 748,765(1976)
-232- 香川大学経済論叢 924 る (sortedout)ならば,我々はそれを知ることになったときにその確認、されて いる言論の価値 (virtues)が自由な言論の原理をどの範囲まで正当化するかを 評価できるようになるであろう。
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頁〉 (3) ミクルジョン-Sullivan判決のパースペクティブへの批判 ボリンジャーは民主主義・自己統治の価値を強調するミクノレジョンー Sullivan判決のパースペクティブに対してつぎのように批判する。「ミクノレジョ ンとSullivan判決が主張したように,つぎのように主張することはまったく正 当である。つまり自己統治する社会は,政府が様々な思想や観点を市民が聞く 機会を否定することによって市民の主権的な意思決定の権限を濫用しようとす ることを許さない。しかしこのことはつぎのように主張することつまり我々市 民は自己統治する社会において『我々』がその社会内の言論活動を制限し規制 することを選択することができず,その結果自己統治するコミュニティを維持 することができないという点で同意しなければならないと主張することと同じ ではない。政府が課す扇動的な名誉致損制度は民主主義的な手続と無関係に運 用されるならば,カルヴィンが記述したように『民主主義のまさに核心に打撃 を与える。~w
政治的な自由は政府が自らの批判者を黙らせるためにその権限や その裁判所を利用するときに終荒する。』だが人民が十分でかつ開かれた討論 ののちに自発的に行動した結果,ある種の言論をもはや寛容に扱わないことを 民主主義的な手続に従って(
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決定 するならば,その場合『我々』市民から選択の自由を奪ったのは『政府』では なく,何をコミュニティ内の行動 (conduct)のノレールとするかを決定する市民 としての我々〈ωe)である。そのとき『民主主義』は作動していたのであり,そ うだとすればあの決定を市民が選べないということの方が『民主主義のまさに 核心に[打撃を与える J~ ことにならないかを尋ねてみてもよいであろう。」(50-51
頁〉 ここでボリンジャーは,市民の主権的な意志決定の権限を制限する政府を認、 (23) Kalven, supra n 17, at 205925 子言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -233-めないという点で同意するが,自己統治する社会は民主主義的な手続きを踏ん だ結果としてある種の言論を抑制する政府による決定までも否定するものでは ないと判断する。ボリンジャーにとって自己統治する市民にそのような決定の 権限を否定することこそ自己統治する社会自体の否定を意味することになる。 言い換えれば彼は自己統治・民主主義という価値にコミットすることのなかに 言論の自由への無条件のコミットメントを含ませていない。 (A) 民主的な社会の成立に不可欠な最小限の言論抑制に関する問題点 ボリンジャーは以上の批判に対して予想される反論のその正当性をつぎのよ うに確認Jずる。「何らかの現実的な意味において自己統治する市民としての 『我々』がその自己統治を行なう能力を自分自身(あるいはコミュニティの一 部〉から剥ぎ取ってしまうほどの,言論活動に対する規制の上限が存在すると いうのもおそらく正しいであろう弘。もしそうならば自己統治への我々のコミツ トメントがこのような政治的な自己奪取 (politicals詑elfシι-di叩spo凶ss詑es岱s幻的iわonω1)の行為 に関与する我々の自由について一つの制約を論理的必然として合意すると述ベ るここ}とは間違いではないであろう弘。 この点はたしカかミUにこ論理一貫している。あた かもある人が奴隷になるために自分を売る自由を行使したときに,我々がその 自由を妨げるならば我々はそこで自由を擁護しているのだと正当に主張できる ように,多数者が政府に公然の国家批判をすべて処罰する権限を与えることを 投票によって支持したとき,我々がそのような投票行為を禁止するならば我々 は民主主義を擁護しているのだと正当に主張することができるであろう。
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頁) このようにボリンジャーもし、くら民主主義の手続きに従った言論抑制でも民 主主義それ自体を破壊するほどに致命的なものまでも民主主義の価値を具現し ているとは考えない。しかしボリンジャーは民主主義の価値自体を守るために (24)J S. Mill, On Liberty, ed C V.Shields (New York : Bobbs-Merrill, 1956) 125 ; Ronald Dworkin,“Is the Press Losing the First Amendment?"Neω Y ork Review 01 Books, 4 December 1980,53-54, reprinted in Ronald Dworkin, A Matter 01 Principle (Cambridge : Harvard University Press, 1985) 381-234- 香川大学経済論議 926 市民による政府への権限付与の自己抑制という警告のその有効性の範囲をつぎ のように限定する。「この警告(caveat)はあまり遠くまで人を連れていかない しあるいは少なくとも自由な言論の旗のもとで今世紀に起こった多くのことを 説明するには不十分な遠さである。たとえ人がし、ままさに(一貫性があるか説 得力があるかのどちらにせよそのようなものとして〉提出された主張に本質的 な妥当性を認めるとしても,その主張は『民主主義的な』社会にとって欠かせ ない最小限の条件を守るためだけならば,言論活動にかかわる民主主義的な意 思決定に介入することCintervention)を正当化するであろう。もちろんこれは それだけでは非常にあいまいな準則 (ahighly ambiguous standard)である が,我々が過去
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年の聞に遭遇したたとえあったとしてのごく僅かな言論抑制 (the restriction)も現在我々の修正第一条の法理の基礎を形づくっているその 言 論 抑 制 の 否 認 (the rejection)も 民 主 主 義 の 基 本 的 な 構 造 (elemental structUl討を危険にさらしていると公正に述べることができるということは合 理的に見て明らかであり,あるいは別の言い方をするならばこれらの双方の規 制 (regulations)が存在しないことが民主主義的な政治システムにとって不可 欠なもの (thesine qua non)であることも合理的にみて明らかであろう。」 (51頁〉 以上のように民主主義的な社会の維持のための政府への権限付与の自己抑制 という考えには正しい主張が含まている。しかし言論の自由にかかわる問題を うまく説明するものではなかった。その考えは,民主主義的な社会の維持に必 要な最小限の条件を守るという目的を挙げることによって政府に言論抑制する 権限を認めないという政府の不介入を正当化するだけでなく言論の自由にかか わる民主主義的な意思決定への介入をも正当化することになる。なぜなら歴史 的な事実が示すように言論抑制が存在するときだけ民主主義の基礎が揺らぐの ではなく,言論抑制を認めないときも同様に民主主義の存立が危うくなるから である。民主主義的な政治システムの存立の条件とは,言論抑制のために民主 主義的意思決定過程が聞かれているが,それを利用する者が存在しないだけで なく,その言論抑制を認めない規制も存在しない状態ということになる。927 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -235-(B) 民主主義的に支援された言論抑制に関する問題点 前述した議論は民主主義を維持するのに必要な最小限の条件を整えるという 局面での言論の自由と自己統治,民主主義という価値の接点についてのもので あった。言論の自由と自己統治,民主主義の価値を結びつける主張を評価する ためにはもう一つの局面における議論を避けることができない。それは言論の 自由の領域における民主主義的に支援された言論抑制という局面である。ボリ ンジャーはその点をつぎように説明する。「ところで民主主義的な過程にコ ミットしている政治的なコミコニティの市民としての『我々は』その社会の中 の言論活動を規制する『我々の』権限の制約として選んだものが何であるかと 聞かれるとき,我々はたった今述べた最小限の制約を容認しなければならない であろう,そしてそれ以上の制約を容認することを選択するかもしれない。し かし我々は我々が多数者の投票 (majorityvote)という民主主義的な規範に 従って我々の間にある争点を解決することにすでにコミットしているという事 実によってであれ,そのような制約を容認することを自動的に強制されるとい うわけではもちろんないであろう。
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(51-52
頁〉 ここでボリンジャーは言論の自由の領域における民主主義的に支援された言 論抑制が前述した最小限の制約と異なり,民主主義としみ価値へのコミットメ ントから自動的に導きだされないと指摘した。その種の言論抑制の可能性はさ らに詳しくつぎのように説明される。ボリンジャーによれば内、ままでのとこ ろ我々は民主主義への我々のコミットメントがたかだかつぎのような自由な言 論の原理への我々のコミットメントであると結論してきた。つまりそのコミッ トメントは政府が市民の主権的な特権を濫用するために言論活動に干渉するこ とを企んだときに政府にこの干渉を縮小させるほど強く,自己統治がもはや合 理的に実現することができないところまで言論規制を政府に差し控えさせるほ ど強い。しかしこのことは我々がより活力のある徹底した自由な言論の原理 (a more vigorous and thoroughgoing free speech principle)を実現するよう な方法で我々の政治的・社会的システムを構成するという選択 (choose)を適 切に行うことができないということを意味するわけではない。我々は,実際に-236- 香川大学経済論叢 928 多くの人々がおそらくしきりにそうしたいと願っていると思われるが,我々の 「民主主義」がるらゆる問題に関して多数者の支配を広めるべしという剥き出 しの原理以上の何かを意味すると心に決めているであろう。しかしながらこの 選択は「自己統治」への我々のコミットメントや革命以前の英国君主が持って いた独裁的な政治的権限を国家が再び要求している実例に論及するだけでは足 らず,それ以上のことを用いて説明されなければならない。Sullivan判決のよう な法廷意見の中で偶然起こるようにそれは民主主義 (democracy) という用語 により多大な内容を与えるために,定まらない,はっきりしない意味 (unstat -ed and unclear meanings)をその用語に遺憾ながら積み過ぎてします。
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(52 頁〉 ここでボリンジャーは活力のある徹底した自由な言論の原理を実現するため の民主主義的な努力の可能性をその困難さとともに説いた。そしてこのような 努力をどんな根拠を用いて制約できるのかという問題こそが言論の自由の固有 の問題であることをつぎように説明する。「我々は自由な言論の原理のもとで つぎのような政府の抑制から言論が(しかも非常に過激な言論でさえも)~保 護』されるべきであるという点に同意し得る。その政府とはその言論に何をな すべきかを自ら決定する機会を政治的コミュニティから奪い取ろうと狙ってい る政府である。この同意は民主主義的な政治システムへの我々のコミットメン トから引き出される。我々は自己統治を行うための機会 (ottortunity)を守る ことにインタレストを持つが,しかしこれは我々が展開してきたあるいはいま 説明しようとしている自由な言論の原理の制約なのではない。修正第一条は言 論をコントロールしようとする非民主主義的な,逸脱した公務員の努力の成果 に制約を課すことに止まるものではなかった,むしろそのうえに民主主義的に 支援された努力の成果に対して制約を課してきた。まさにこのような (that) 制約が正当化されなければならないのだが,民主主義のための以前からある選 択肢に論及するだけでは正当化されない。J
(52ー53頁〉 こうしてボリンジャーは,より活力のある徹底した自由な言論の原理を実現 するための民主主義的に支援された言論抑制と民主主義の基本構造を破壊する929 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -237-言論抑制とを区別する。 ボリンジャーはさらに裁判所や言論の自由の論者たちが言論規制が民主主義 的に支援されたものであるかどうかを重要とは考えなかったことをつぎのよう に指摘している。「裁判所も書き手も,自由な言論の機能が『人民』の主権的な 権限への『政府』の干渉を阻止することであると宣言するところで彼らの分析 を終わらせるのが常である。そして読者は,裁判所によってチェックされる自 制のきかない政府権力 (unrestrainedgovemmental power being checking by the courts)というイメージとともにとり残される。このようなポートレート は通常現実を歪め,政治的なコミュニティそれ自体の内に潜むより根の深いあ る対立 (adeeper conflict)(しかもその対立の中から市民の多数者に支援され た問題となる規制が登場する〉を隠蔽してしまう。裁判所はその規制の民主主 義的な出 (thedemocratic pedigree)を審査することが自由な言論の事例に とって重要である (relevant)とは思わなかった川、
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(53頁) 以上のようにミクルジョン-Sullivan判決のパースペクティフは民主主義的 な政治システムの成立に必要な最小限の条件とは言論抑制の権限を政府に与え ないことであるという考えに基づき,言論の自由のあり方を説いたものであっ た。だが今日の言論の自由の問題は民主主義的な政治システムの成立に必要な 最小限の条件を整えるためであれあるいはより活力のある自由な言論の原理を 実現するためであれ民主主義的な意思決定過程を通った言論抑制をどのように 評価するかである。この問題に対して, ミクノレジョン-Su1
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ivan判決のノ屯ース ペクティブは最小限の言論抑制としみ政府の権限の問題として答えてしまい, 民主主義的に支援された言論抑制を制約するという自由な言論の現代的な問題 を公務員の濫用の結果としての非民主主義的な言論抑制を制約するという民主 主義的な社会へのコミットメントから生じる別次元の問題と同一視しているこ とになる。このボリンジャーの分析からすればミクルジョン-Sullivan判決の ノ号ースペクティブはその立場とは裏腹に民主主義的に支援された言論抑制を正 当に評価できず,今日の言論抑制が民主主義的な過程を通過して登場するとい う現実からすれば致命的な限界を持っていることになる。-238- 香川大学経済論議 930 性) 真理探求アプローチの検討 前述したように真理または賢明な決定とL、う価値と言論の自由を結びつける 真理探求アプローチが古典モデルを代表するものであった。つぎにボリン ジャーはこのアプローチの検討に向かう。彼はまず真理探求アプローチを説明 するために,ミノレ(JohnStuart Mill)が行なった分類に従い,言論が真である ときと偽であるときに分けてそれぞれ言論が真理探求過程に与えるベネフィッ トを抽出し,検討を加えている。 ( 刈 言論が真であることを仮定したときの主張 ボリンジャーは言論が真であるときに真理探求過程にもたらすべネフィット をつぎように説明する。「それではすでに明らかにされた自由な言論の原理的 な『価値』すなわち真理または賢明な決定に到達することへの我々のプラク ティカノレなインタレストに注意、を向けてみよう。(結局この同じ問題が自己充 実 (self-fulfillment)とL寸論拠の持つ説明する力についても生じ得るし生じ るであろう。〉真理探求という企ては広く定義しようと狭く(政治的なアリー ナに限定されたものとして)定義しようともこの企てに及ぼす自由な言論の利 点 (advantages)は言論活動に特別な保護を与えることを正当化すると言われ る。 これらのベネフィットはいつどのように実現される見込みがあるのだろう か。
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頁〉 ボリンジャーは真理探求過程に及ぼす自由な言論のベネフィットという一般 的な考えのその妥当性をつぎように認める。「聞かれた討論の過程が我々の認 識を促進し,我々がかつて不動の真理 (firmtruths)だと考えていた虚偽を捨 てるように我々合導くに足るだけの多くの実例に,個人的な経験からしても 我々はみな頼ることができる。我々はこれらの経験からだけでも,我々が決定 するように求める争点について可能なかぎりの最良の判断に達するとしう好機 を生かすために,少なくともある種の言論を寛容に扱うことが不可欠であると 認めたくなるはずであり,実際にそうしている。J
(53-54
頁〉 だがボリンジャーはこのよく聞く主張の説得力をつぎように限定する。 「我々はこの主張をあまり遠くまで無理に押しではならない。 もちろんミノレが931 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) 。 , u ?JV 03 したように我々はつぎのように主張することが可能である。つまり我々は自ら 信ずるものが真であると確実には決して知り得ないのだからあらゆるものに耳 を傾ける用意をすべきである,たとえ我々がその誤りをどんなに確信している としても。だが我々はこれを受け入ることができない。 Skokie事件のような事 例においてナチのメッセージが『真 (ture)j]であると分かるという見込みがそ のような言論を擁護できるだけの説得力のある理由となることはほとんどない。 そしてあのコンテクストにおいて自由な言論の支持者がこの程の主張に頼るこ とはあったとしてもほとんど稀である。我々が言論によって表現された思想の その不道徳性や誤りを信ずれば信ずるほど自由な言論の原理のための正当化理 由として主張される真理探求とし、う利点、は薄められることになる。我々にとっ てその『価値』はこれらの限界において(inthese terms)ほんのわずか存在す るところからまったくないところにまで移動する。名誉致損の領域において連 邦最高裁は事実
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じめに関する名誉致損的な虚偽の陳述に一切の『価値』が ないと認めることがあったように我々は同様に意見の分野の少なくともある部 分にそのことを適切に広げることができるかもしれない。J
(54頁〉 このようにボリンジャーは聞かれた討論が真理に至る道であることを一般論 としては認めながらも,具体的な事件とりわけ過激な言論にかかわる事例にお いてその種の言論が真であるとわかる可能性がそれを聞くことを正当化すると は理解しない。 (B) 言論が偽であることを仮定したときの主張 さらにボリンジャーはミノレの主張に沿って真理探求アプローチの論拠を検討 する。「寛容行為のメリットを決定するうえで話されている内容が真ではなく, むしろ偽であるとし、う仮定から始めたならばどうであろう。もしそうするなら ば真理探求のパースペクティブから[言論の]保護を支持する積極的なベネ フィットが生ずるであろうか。ここにおいて我々は言論の保護に賛成するこつ の根本的な主張に出会う。J(
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]内は引用者による加筆)(54頁) (25) Mill, On Liberty,21 (訳は,s
ミノレ著。早坂忠訳「自由論J~ベンサム J Sミノレ』世界の名 著49巻中央公論社 0979年)232頁(参照。〉-240- 香川大学経済論議 932 このこつの主張とは,虚偽との対決が真理のより鮮明な印象をもたらすとい う主張と虚偽が社会問題の対応策を知らせるといういわゆる言論=社会の安全 弁の主張である。ボリンジャーは前者の主張をつぎように説明している。「一 つは寛容行為に賛成するミルのもう一つの主要な主張である。 ミルはつぎのよ うに主張した。人民は虚偽との対決 Cconfrontation)を通じて,すでに獲得し たがし、ずれよどんで Cstagnant)しまうかもしれない真理の『より鮮明なClive -lieI)~ 感覚を維持する。すなわちミノレはつぎように断言した。我々は検問に よって
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真理と]ほとんど同様の重要さ念持つベネフィットであるものつま り真理と誤りの衝突 (collision)から生まれる真理のいっそう明確な感知と いっそう鮮明な印象をdL
』真理はいわば日頃の訓練を要求し,それなしで はドグマへとやせ衰える。J
(54-55
頁〉 さらにもう一つの主張もつぎように説明される。「虚偽または悪い言論の保 護に賛成するこつ目の主張はその言論との相互作用から生まれる我々にとって のベネフィットに焦点を当てるのではなく,むしろ表現された虚偽を単に開く ことによって我々が手に入れることのできる重要な情報上の利益 (gain)に焦 点、を当てる。 ミクノレジョンの論文は決して明示的ではないのだが,この種の主 張を行なっているものとして読むことができ(ぎ。それはチJ
イフィーの『合衆 国における自由な言論 (FreeSpeech in the United States)~の中により容易 にみつけることができる。いずれにせよその基礎的な考えは我々が過激な言論 に耳を澄ませるときこの種の不満や反対意見が社会に存在すると気づくように なるだけでも我々がベネフィットを得ているというものである。このような知 寸 識を持つことは我々が政策決定を行なうえで重要である。なぜなら我々はその 反対意見を生み出したと思われるその基礎をなす不平の種 (grievances)を和 らげるために(教育及び雇用の機会,住宅条件,その他を改善することによっ て)行動をとりたいと思うからである。そのうえ欲求不満と反抗という望まし (26) Id(前掲害問頁参照。〕(27) Meiklejohn“,Free Speech,"in Political Freedom, 26 (28) Chafee, Free Speech in the United State,s.33
933 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -241-くない雑草がそれに対する不注意によって比較的急速に成長するような,さら には増殖する虚偽がその誤りをそれほど容易には暴かれないような私的な領域 とは異なり,公的な領域においてとれらの潜在的に破壊的な個人及び集団が活 動していることは通常選好的である。限りなく完全に近い言論の開放状態とい う政策はこの意味において国家 (thebody politic)内の病んでいる部分 (dis -ease)の 存 在 と 急 ぎ の 治 療 を 施 す 最 善 の 機 会 を 表 示 す る 社 会 的 な 指 標 (a social thermometer)を我々に提供する。
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頁〉 以上,虚偽と言論との対決が真理の新鮮な感覚を蘇らせるという主張と社会 の安定またはスムーメな改良のためには虚偽の言論がもたらす情報の内容が重 要であるという主張に対してボリンジャーはつぎのように評価する。「先に述 べたと同じように,我々はそれらの主張の妥当性を一般的な命題 (general propositon)として認めないわけにはし、かない。これらの主張は一般的には妥 当であるが,特定の事例においてそのベネフィットが十分に生ずるかどうかは 少なくとも未解決の問題 (openquestion)である。たとえば真理に対するいっ そう豊鏡な信念が虚偽との聞かれた対決から生まれ,またはそれを欠くことが できないということがいつでも妥当するものなのかを我々は真剣に疑うことが できる。はたしてナチ党のようなグループが言うであろう事柄が不道徳で間違 いであるという強い信念を我々が維持するうえで,彼らのそのしたい放題の活 動は本当に重要なのだろうか。少なくともある種の思想についてはそれを口に するのもはばかると認めることがそれを拒否するもっともよい方法であるとい う説 (theorりも同じようにもっともであるように思われる。人間のあらゆる 活動と同様に,対話 (dialogue)がどんな条件のもとでも変わらず役に立つと いうわけではない。J
(55-56
頁〉 ここでボリンジャーは言論が真であることを仮定したときの真理探求アプ ローチの主張を批判したときと同じように,言論が偽であることを仮定したと きのこつの主張の妥当性を一般論として認めたが,具体的な事件とくに過激な 言論にかかわる事例においてそれらの主張が想定するベネフィットが生じなく なるのではないかとしづ疑問を提示した。つまり対話としみ行為は真理の発見-242ー 香川大学経済論叢 934 や社会的な問題を解決する手段として一般的に有効であると言えるとしても, それには限界があり,ある種の言論に対して適切な態度であるとはいえない場 合がある。
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対話がどんな状況でも役立つわけではない理由 そこでボリンジャーは対話がどんな状況でも役立つわけではない理由を説明 するために真理探求がし、まなお第一義的な目的である一つのコンテクストに注 目する。それは裁判過程である。裁判過程では真理探求の妨げとなる言論活動 を規制する諸規定が存在する。「その過程ではつまり真実 (turth)を突きとめ ることが基礎的な目標であるととろでは我々の諸ルール (rules)は言論がこの 第一義的な目的にとってどのように重要であるかとともに (and) 言論がこの 目的達成を妨げる可能性をどのように秘めているかの双方をよく理解している。 我々は判決がくだる争点について各々の主張を提示する両当事者の権利を確保 する。だが彼らは自分が望む仕方で話せない。我々は人民をありのままに捉え の で , こ の シ ス テ ム は 我 々 が 大 変 重 ん じ る そ の 推 論 過 程 (the process of rationality)が 言 論 そ れ 自 体 に よ っ て と り わ け 「 激 情 を 焚 き つ け る (in -flammatory)j言論または不適当な「感情に訴える (emotional)j答弁を引き出 してしまう言論によって台無しにされ得ることを仮定している。ある種の証拠 は,それが陪審員の判断に予見を与える可能性があることを理由にまた陪審員 がその証拠を実際の重要さ以上に重視する傾向があることを理由に排除される。 さらに我々は弁論を裁判所に申立てる仕方について種々の制限を課している。 なぜならその過程自体またはその過程にかかわる各個人に対する尊重が第一位 の価値であると理解されているからである。j(56頁〉 この言論が真理探求を妨害する可能性にも配慮した裁判過程を規律する諸 ノレールを念頭においてボリンジャーは真理探求アプローチの立場をとることが 言論保護だけでなく言論抑制の方向にも向かうことになるのではなし、かという(29) McCormick On Evidence, ed Edward W Cleary (St Pau,lMinn : West, 1984), 544-4 8 ; Richard0 Lempert and Stephen A Saltzburg, A Modern Approaζh to Evidence (St
935 弓論の自由の価値と裁判所の役割(2) -243-反論をつぎのように提起する。「刑事の陪審制の法廷 (forum)において言論を 律するためのそのような諸ルールは吉一論活動のどんな制約が存在すべきかを決 するうえで計算に入れるべき考慮事項の範囲を直接的ではないが示唆している。 このことは我々がそこで見てきた制約の問題に関する特有の解決策が修正第一 条の第一義的な対象である一般的な政治的なフォーラムについても繰り返され るべきであるという示唆ではない。しかしたしかに両者を比較することは真理 探求を求める単純な主張が提示する以上に言論保護の根拠をさらに広く説明す る必要性に我々の注意を引きつける。それどころか実際は自己統治を根拠とす る主張についてもそうなのだが,真理探求へのインタレストはたとえば言論が 真理探求の過程自体を破壊することを狙ったようなSkokie事件や他の過激派の 事例のような事件の中を言論の保護のためにというよりもむしろそれに反対す るために通り抜ける (cuts)と少なからぬ説得力を以て主張され得る。極端な ものに近づくほど『中核部 (core)jJの言論から連想される価値が比例して減ず ることになる。だがアイザyク・ニュートン(IssacNewton) ,トーマス・ペイ ン (ThomasPaine),ヘンリー・ムーア (HenryMoore)を心に思い浮べると き,我々はたしかに言論や討論が真理追求や民主主義の作用や個人の自己表現 にとってウ、、ァイタルであるという点に同意するし,それらの目標を非常に高く 評価する。しかし我々がここで検討する言論のその性質が表現のうちのこれら もっとも称賛すべき種類からはるか速くへと次第に移動するとき,言論から連 想するそれらの重要な諸価値はその力 (force)の大半を失い,それどころか言 論それ自体によって脅かされることさえあり得,その結果現在ではそれらの諸 価値に同意する (subscribe)ことが言論を保護させるのではなく,禁止させて しまうように思われる。
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(56-57
頁) ここでボリンジャーは真実を追求することを目的とする裁判過程の諸ルール が,言論行為がその目的にとって役立つととも妨げるものであるという考えに 基づいていることから多くの示唆を得ることができると理解するが,しかし裁 判過程の諸ソレールが言論の自由の領域における言論の制約とL、う問題に直接応 用できるとは考えず,むしろ真理探求のためには当然言論抑制を行なう裁判過-244- 香川大学経済論叢 936 程の諸ノレーノレと,真理探求を妨げる言論でも保護する自由な言論の原理とを比 較することが,真理探求アプローチ以上に広範囲に渡って言論を保護する理由 を説明する必要が言論の自由の領域にはあることを示唆していると主張した。 そしてさらに一歩進めてボリンジャーは過激派の言論のような具体的な事件に おいては真理探求という価値に賛同することは言論を保護する根拠でなく,そ れに反対する根拠となっていると指摘した。 以上が古典モデルを代表する真理探求アプローチに対するボリンジャーの分 析であったが,ボリンジャーはさらに過激派の言論としづ具体的な事例を念頭 において今度は古典モデル全体が辿る論理の道筋に注意を向ける。「さらに 我々は過激派の言論を扱った事例において,言論から連想するベネフィットが 減少するにもかかわらず,その言論自体から生じる可能性のある害悪のエスカ レーションが同時に生じ得ることを知っている。合理性 (rationality)や自己統 治や自己表現という一般的に受け入れている価値に訴えることはもはやうまく し、かない。それどころかそれらの価値に訴えることはその言論活動に対して寛 容をとるか不寛容をとるかという争点をめぐって鋭く両極に分岐する方向へと 突き進む。これらの考え方 (thoughts)は自由な言論にとっての古典的なパラ ドクスのヴァリエーションである(第一章で記述された〉。すなわち自由な言 論の原理へのコミットメントは自由な言論それ自体の廃棄を提唱しようとする 人々の保護へと我々を導き得る。そして民主主義的な手続以外の方法によって 民主主義的なシステムの正統な決定に干渉したりそれを覆したりするために計 画され意図された活動を民主主義のもとで許すべきであるという考え(idea) にウィグモアが抱いた不信(incredulity)の背後には,これらの考え方がおそ らく存在する。我々がし、ま見てきたように,その同じパラドクスは個人の自立 や真理探求からみての自由な言論の重要さが基礎づける自由な言論の擁護論に ついても見い出し得る。どんな目的へのコミットメントもそれらの諸価値の破 壊を狙う人々を保護するという結果に行きっかなければならないのか。
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頁〉 このように古典モデルは合理性,自己統治,自己表現,個人の自立,真理探937 言論の自由の価値と裁判所の役割(2) -245-求のような個人にとっての価値にしろ社会的な価値を挙げるにしろ,言論の保 護を支持するためにその言論が,我々がヴァイタノレであると考える価値にとっ てどれほど重要かという論理の道筋を通る。この論理の道筋は過激な言論のよ うな事例においてその価値を否定する言論にも保護を与えなければならないと いうパラドクスに突き当たることになる。しかしボリンジャーは最後に疑問を 投げ掛けているようにこのパラドクスに止まらず,過激な言論を保護するとい う考えに安住しない。彼は言論を保護するかどうかはその価値と害悪との利益 衡量によって決まるという立場に立ち,過激な言論を保護するためにそのパラ ドクスに止まる必要もなく,また我々が言論を保護するときに掲げた言論の 諸々の価値の旗を降ろす向必要もないと考える。彼はそのことをつぎように説明 する。「我々はいつの臼か説得力のある主張 (case)がこのような言論を保護す るためになされるであろうと思いたいがために,パラドクスだけに依拠する必 要もないし,あるいは言論活動から通常連想するベネフィットの各々の可能性 をすべて否定する必要もない。検討に値する真の問題は単にいくつかのベネ フィットが寛容行為によって実現し得るかどうかではなく,我々があの寛容の コースを選択した場合にそれらのベネフィットがそれらに対抗する我々が被る であろう害悪を補ってあまりあるほどに十分に大きいかどうかである。