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ここでボリンジャーは不寛容の衝動の強さを前提とするとき,前章において 社会の価値を表明する場として位置づけた法律制定過程が,結局聞かれた討論 の自由を単に侵害するためだけに使われるのではなし、かという疑問を引き出 す。しかしボリンジャーはすぐにつぎように答える。「それは程度の問題であ る。『我々~ (少なくとも,我々のうちのあるもの)は言論の潜在的なベネ フィットと他の基礎的な価値の保全の妥当かつ適切なパランスに達することが できるかもしれない。その結果失策が行われる可能性もあるが,大方それはと るに足らないということがわかるであろう。あれ[我々の社会が持つ信念への コミットメントの表明]は社会一般に委ねることのできるものではない。そこ では不寛容への衝動があまりに深く浸透しているので,かりにその衝動にあま りに自由な支配を認めるならば,自由な言論と他のインタレストの間で達成さ れるどんな理に適ったパランスも崩壊するおそれが生じるであろう。

J( [   ] 

内は引用者による加筆)

( 8 7 頁 〉

他方ボリンジャーは話しをもどし,同じ公衆の不寛容に対するリアルな認、識 から要塞モデルが限定的な要塞モデルとは異なる戦略を言論の自由の議論に導 き入れ,その結果それに応じた戦略的な原則やレトリ yクを用意することにな

991  言論の自由の価値と裁判所の役割

( 2 )

‑299

ると指摘する。「言論活動について人間的な判断

( t h ehuman judgment)

を行 ううえでこの歪める特性

( d i s t o r t i n gc h a r a c t e r i s t i c )

が存在することは,自由な 言論の原理についてどのように話し考えるかという点で我々のマインドに強力 でかつ決定的な影響を及ぼす。場制的統治が有すると一般に想定されている永 久の脅威の場合と同様に,公衆の持つ過度の不寛蒋という力説された現実は,

自由な言論としみ理念の構想

( d e s i g n )

と実行(i

m p l e m e n t a t i o n )

に戦略とい う要素を導入する。しかしながらその戦略はここでは我々が先に見たものを越 えて行く。言論の両極端なものの保護はいままで通り一種の緩衝地帯

( ak i n d   o f  b u f f e r  z o n e )

を提供するが,ここではより広範閤に基礎づけられた脅威に拡 抗するのである。言論はそれに未来備わっている価値を理由にではなく,その 保護が本来価値のある何かをより良く隔離する(i

n s u l a t e s )

という理由で保護 される。しかしながらこれとともに,原則及びレトリックの鎧・兜一揃い

( p ‑ a n o p l y )

が付いてくる。

J ( 8 7

頁〉

ここでボリンジャーは人民こそ脅威であるという前提から引き出される別の そデゾレの存在を確認した。これが要塞モデノレである。彼はこの前提が言論の自 由の現実の議論にどのように影響を与えており,その議論の意味を真に理解す るうえでいかに役立つかをつぎに説明している。

( A )  

カテゴリー・アプローチの意義

ボリンジャーによれば,この公衆の不寛容とし、う次元から見たとき言論の自 由に関するある種の議論の真の意味を理解できるようになる。たとえば言論の 自由の議論において他の非言論行為の自由の問題を扱うときとは異なり,比較 衡量の手法がとられず,言論の自由の原理の一定の準則を作成したり,カテゴ リカノレな基準を作ることの理由はつぎのように説明される。「公衆の不寛容の 持つ脅威は,自由な言論を一つの『原理』として取り扱うことの根拠であり,

そしてさらには,政治的,営利的等のような,主題の『カテゴリ-~という観 点から言論の事例を分析することの根拠である。したがって,特定の論争を通 過する推論方法

(Themethod o f  r e a s o n i n g )

は,ある言論が自由な言論の目的 にとっての利益の増加(i

n c r e m e n t a lg a i n s )

を産むのはどの範囲までかの決定

‑300‑ 香川大学経済論議 992 

や,その利益とそれに対抗するその言論の保護がもたらす社会的害悪との比較 検討を内容とするわけではなく,その言論がある主題に関するものかそれとも 他の主題に関するものかの決定を内容とする。裁判官は個々の事例において (つまり裁判官の解決する能力を越え,いずれにせよ思案する正統性を欠くと 言われる審査において〉問題となった言論のその『値打ち (worth)~ あるいは

『価値 (value)~ に目を閉じるように命じられる。このアプローチは,よく知ら れている名誉致損の判決で『修正第一条のもとで虚偽の思想 (afalse idea)の

ようなものは存在しない。』とパウエル (LewisPowell)裁判官がなぜ判示する ことができたかの理由を説明するのに役立ち,またそのアプローチは,

Skokie事件での裁判官がその保護しようとした言論に価値がまったくないとい う自らの信念を宣言しながらも,すくやそのあとで『イデオロギー上の専制は,

たとえその動機がし、かに価値のあるものであっても,選挙で選出された議員と 同じように任命された裁判官にも禁止されている』という理由から,裁判官が 自らの個人的な見解を本件とは関連性のないものとしてなぜ、無視することがで きたかを説明するときの助けとなる。このアプローチを採用することは,訴訟 の機会を減じ(先に記したように訴訟自体言論のインタレストにとって有害で あることがあり,訴訟を終わらせるスピードを速め),さらに裁判官が公衆の不 寛容からの圧力のもとで自由な言論と社会的なインタレストとを不注意にまた は故意に誤って比較検討するリスクを少なくする,と主張されぷ

(87‑88

頁〉

このようにボリンジャーによれば,言論の自由の諸理論のうちのカテゴリー .アプローチはある言論を保護するかどうかを判断するうえでその言論の具体

的な内容を考慮しないことを意味す机その意図は人民の不寛容の圧力のも とで裁判官に恋意、的な判断を行なわせないことであった。

(91) FCC v Pacifica Foundation, 438 U S 726, 761. (1978)  (92)  Gertz v. Robert Welch, Inc, 418 U S. 323, 339 (1974)  (93)  578 F 2d  at  1200 

(94)  FCC v Pacifica Foundation, 438  U S. 726742‑48 (1978) ;Young v Arnerican Mini  Theatres, Inc, 427 U S. 50, 70 (1976) 

993  言論の自由の価値と裁判所の役割

( 2 )

‑301‑

( B )

絶対的な自由」の主張

さらに,自由な言論の原理の形 (shape)に及ぼすこの公衆の不寛容という想 定された脅威の持つインパクトは学説的なものを超えて根本的にはその原理が 世界 (theworId)に差し出すまさにその演出 (presentation)を変貌させる。そ れは自由な言論に関する我々のディスコースの諸側面のうちの,他の領域では 不可解な,ときにとっぴでさえある幾っかを説明する。自由な言論について述 べられていることの多くは,人民が不寛容の衝動に加担して自由な言論の原理 を捨て去ろうとするその性向を制限しまたは阻止するような仕方でその原理に ついて考えさせるように作られている一一それがときに巧妙であったりそうで はなかったりするが。したがって我々はブラック (Hugo Black) とダクラス (William Douglas)の両裁判官のような人々のかけひき(legerdemain)に出会 う。彼らはあれほどの自信を以てさらに熱情さえ以て,修正第一条の文言から すれば,その条文が政府干渉の「絶対的な」禁止を意味し,一切例外を認めてい ないと力説する。このような断言を支持する証拠がほとんどあるいはまったく なく,そのうえ幾つかの事実の中にはその反対の証拠さえ存在するとき,我々 は自由な言論とし、う理念のオリジナノレな歴史的な意味についての根拠のない断 言を聞かされる。我々は,先例がどのようにして言論規制を求める主張の審査 を締め出すかについて同様に支持できない諸主張を聞く。また我々は作り出さ れた政府の外観にその実体が見劣するとき,我々のすべての自由に対する継続

(97) 

的な脅威という政府のイメージを作り出そうとしてきたのを知っている。この ような誇張したりおおげさに言ったりするのは,少なくともその一部は自由な

(95)  Roth V United States, 354 U S 476,511‑12 (l957):Time, Inc, v Hill, 385 U S.374,  400 (1967) : Barenblatt  v United  States, 360  U S 109, 140 (1959) : Dennis  v United  States, 341  U S 494, 590 (1951): Black,The Bill  of  Rights,"  35 N Y U.  L Rev  865,  874‑75 (1960) 

(96)  New York Times Co v Sullivan, 376 U S.  254, 273 (1964) : Kalven, supra n 60, at  206‑7  (97)  Miami Herald v Tornillo, 418 U S.  241, 258 (1974)  : Red Lion Broadcasting Co v.  FCC, 395 

U S 367,392,390 (1969) : Bollinger,Freedom of  the  Press and Public  Access  Toward a  Theory of Partial Regulation of Mass Media" ,75 Mich L Rev 1 (1976); Bollinger,On the Legal  Relationship  between Old and New Technologies of  Communication"  26 German Yearbook of  International Law, 269 (1983) 

‑302‑ 香川大学経済論叢 994 

言論の範囲に関する選択の余地がない外観を作り出したいという意思から生じ ているのである。

( 8 8 ‑ 8 9

頁〉

ここではボリンジャーは「絶対的な自由」の主張のように他の領域では理解 しがたい誇張が言論の自由の領域において存在し,その理由を少なくとも一部 説明した。それはその演出が,人民の不寛容への衝動に対抗し人民を寛容へと 導くレトリックとして理解できるというものであった。

( c )  

権利アプローチ対共通善アプローチの議論

さらに,ボリンジャーによれば,自由な言論を思い描く道筋を構成すること によって要塞の壁を強化するというこの基礎的な目標は,古典的な理論の内部 における幾つかの論議(そのうちの幾つかは第二章で遠回しに言及された)の 真の性質と激しさをたとえ単に部分的でも説明するのに役立つ。彼は自由な言 論を共通善

C t h e  g e n e r a l  g o o d )

を促進するとL、う観点から思い描かれるべき か,それとも,より大きなコミュニティに言論の自由がもたらすべネフィット

とはかかわりなく存在する(おそらくそれにもかかわらず存在するといっても いいくらいであるが)

I

それ自体目的

C e n di n   i t s e l f ) J

あるいは言論者の「権利

( r i g h t ) J

であるとしろ観点から思い描くべきかについての論議を取り上げる。

「もしある特定の言論活動が保護を受けるべきであるかどうかという論争とし てこの論議を考えるならば,この論議を理解することは難しいであろう。なぜ、

ならば,

w

共通善

( g e n e r a lg o o d )  

~や『個人の権利(individual

r i g h t s )  

~という 概念は幅広い解釈の余地があるので,大方の言論の保護は両者の理論のもとで 理に適った方法で行われ得るからであ(ぎ。しかしながら特定の事例を処理する ことにではなく,自由な言論に関するある論理の道筋へと我々を誘導しようと する点に目を向けるならば,その論争により大きな意義を見いだすことができ る。その集団的なインタレストのアプローチについて反対すべき点,問題とす べき点は,言論保護が実際には社会にどのようにベネフィットをもたらすかの 説明や正当化(これはもっとも困難な仕事である)を含みあるいは要求するよ

(98)  Bollinger,Free Speech and Intellectual Values ,"92 Yale L 

438,439‑44 (1983); Bollinger,  The Press and the Public Interest : An Essay on the Relationship between Social Behavior and  the Language of  First  Amendment Theory" 82 Mich  L Rev 1447(1984) 

995  言論の自由の価値と裁判所の役割

( 2 )

‑303‑

うな自由な言論に関するある論理の道筋を育成する傾向があることであり,ま たそのアプローチが,まわりの状況が変り得るという印象を創り出し,その結 果自由な言論の原理の間断のない再吟味を引き起こすことであり,さらにその アプローチが,自由な言論が他の目的のための単なる手段であるとし、う見解を 助長し,したがってそれらの目的が別のルートを通ってよりいっそう達成され 得るというそれだけの決定によって自由な言論が比較的簡単になくて済むと思 わせてしまうことである。言い換えれば,その懸念の基礎にあるものは,合理 的な思考のプロセスに関する疑いであり,自らの必要を合理化する(またはそ れほどだますつもりではなくとも人民の持つ最善のインタレストを誤解する〉

人民の傾向に関する疑いであり,そしておそらくそれらの真のインタレストを 把握し伝達する言語及び言論の能力に対する疑いである。この世界観を前提と するならば,自由な言論を擁護する場面においては本質的にはどんな思想も容 認されないという一つの立場を採ることが賢明であるとともに必須であるよう に思われる。つまり自由な言論は各個人がより大きな社会に対抗して持つとこ ろの完全に一つの『権利』であり,しかもその他の根拠に基づき擁護される必 要のない権利である。それは根本原理であり,議論の余地がなく,ア・プリオ

リなものである。

J (89‑90

頁〉

このように,ボリンジャーの考えに従えば,権利アプローチ対共通善アプ ローチの議論の対立点は,どちらが特定の言論をより保護することになるかと いう対立だけではなく,言論の自由について考える道筋としてどちらが人民の 不寛容な衝動により対応でき,言論の自由に対する人民の態度を寛容へと導く かという点であった。そして権利アプローチの立場からすれば,共通善アプ

ローチは常に状況に応じた自由な言論の正当化を要求するという考えを促進 し,言論の自由が別の目的の手段にすぎないという見解をも奨励するという点 で好ましくなく,正当化の必要を排除する,言論の自由それ自体目的であると いう立場が好ましいということになる。この立場の基礎には,合理的な思考の プロセス,共通善についての人民の判断,それを表現する言語の能力に対する 不信がある。

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