だが権力が常に言論の自由にとって脅威であるということは単に保護すべき さらにその現実 というのも統治構
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E m e r s o n .
The System 0/ Freedom 0/ E.xpression.10 ; Z e c h a r i a h C h a f e e .
Government and Mass Comminications(Hamdem. Conn A r c h o n B o o k s .
1965).4 7 7
(59)
B l a s i . The C h e c k i n g V a l u e i n F i r s t Amendment T h e o r y . "
1977Am B F o u n d R e s e a r c h
J
521‑284‑ 香川大学経済論叢 976 言論のまわりに司法の守りを置くだけでは足りない。監視されなければならな いその危険は明白
C o b v i o u s )
であると同時に知らぬ聞に作用する( s u b t l e )
。政 府は自らが嫌悪するもの(とりわけ政府批判をするもの)を黙らせるためには 利用できるどんな機会も利用するであろうと思うならば,その問題は価値のあ る表現行為という核となる領域に守りを立てるだけではすまない。このことは つぎの三つのことを理由にそうである。第一に違憲な行動が矯正されるまえに 多大な損害がすでに生じている。訴訟は弁護のために時間と費用がかかり,ス ローであり,裁判官が動きだすまでには個人又は社会にとってその言論の重要 性が減じるかもしれない。第二に法律はそれ自体の限界を計算に入れなければ ならない。そしてその中でもっとも重要なことは実際の論争において事実を追 求できる能力が法律には限られていることである。司法制度はとりわけ過去の 事実を再構成しようとするときに誤りを犯すかもしれな( r
。さらに言論活動は圧政の兆しによって簡単に怖じ気づいてしまう。このことをすべて認めるなら ば,以上のような疑いがもたらすベネフィットに言論が浴するようなあるルー ルを採用するととが望ましいと理解するのは自然なことである。第三に法制度 それ自体の限界を再びよく考えるならば我々は,裁判官つまり人聞が誤りを犯 すだけではなく,許されるべきでない抑制を裁判所に認めさせるために政府が 行使した圧力に屈服するときもあるということを認めなければならない。これ らの可能性を監視するために我々は裁判官が策動する
(maneuver)
余地を可 能なかぎり与えないようにしなければならず,さらに司法による誤算ゃあるま じき行為( j u d i c i a lm i s c a 1 c u l a t i o n and m i s d e e d s )
から生じ得る害悪を最小にす るために言論が保護される領域の境界線を言論の奥地( h i n t e r l a n d s )
にまで拡 張しなければならない。( 7 8 頁 〉
さらにボリンジャーは権力の脅威が言論者に与えるいわゆる萎縮効果の指摘 もこの限定的な要塞モデノレの立場から引き出されることをつぎように説明する。
「これらの制度内的な保護なしには法律はそれ自体で言論の自由を保護すると
(60) Kalven,The New Y ork Times Case A Note on 'the Central Meaning of the First Amendment,''' 1964 Sup Ct Rev 191, 213
9 7 7
言論の自由の価値と裁判所の役割( 2 )
‑285いう基本的な任務を達成することはできないであろう。その非常に起こりがち な失敗の見込みはそれ自体で表現に抑制的な効果を持つ。というのも人聞の自 然=本性
(humann a t u r e )
を前提とするとき,多くの人は,国家が自由の行使に 対して生得的に非常に敵対的であるような環境のもとでそれらのシステム上の 失敗の犠牲者になるかもしれないとL、う恐怖から自らの自由を行使しないとい う選択をするからである。NewYork Times C o . . v S u l l i v a n
事件における連邦 最高裁は名誉致損の判断の見込みについてつぎのように述べた。『公務員の行 動を批判する者に対して,事実に関する自己の主張のすべてが真実であること を保証させるルールは「自己検閲」と大差のないものへと導く。 ~J(78‑79 頁 〉
以上のような法律や司法制度の持つ機能上の限界や危険の可能t性を考慮、して 言論の自由論を構成するとき限定的な要塞モデルとなる。それは言論に与える 権力の脅威を第一義的に計算に入れるものである。(3) 限定的な要塞モデルに対する批判
この限定的な要塞モデ〉レに対してボリンジャーは自己の立場をつぎのように 明らかにする。「政府による権力濫用の脅威に気づく必要性や,個々の事例に おいて言論のベネフィットと害悪にあまりに合わせすぎた法ルールに関する 討論への阻止効果に気づく必要性についてこの一般的な主張の中にたしかに ある真理が含まれている。しかしそれは
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世紀の生活においてあまりに強調さ れすぎた主張である。その主張が一般に持ち出されるときの問題は民主主義的 な由来からの政府の逸脱や離反についてである。しかしながらこの考え( n o ‑ t i o n )
が支持されるときの深刻さやそれが修正第一条の解釈のための根拠とし て提示されるときの真剣さは実際問題として現実と釣り合っていないように!
思われる。たしかに我々は今世紀においてそして先の十年の聞にもその考え( t h e i d e a )
に仮説された信癒d性( c r e d i b i l i t y )
以上のものを与える実例を経験し(62)
た。おそらく
PentagonPapers
事件は民主主義的なインタレストを促進すると(61) 376
u .
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279 (1964)(62)
New
YorkT i m e s
Co v.U n i t e d S t a t e s .
403U S
713 (1971)‑286‑ 香川大学経済論叢 978
いうよりも妨げるために政府が活動した実例であると理解することは理に適っ ているであろう。だがこのような事例は言論を抑制することが多数者の意思に 違背するというよりも促進した実例の数と比べると見劣りする。これは第二章 で強調された点である。しかしながらこのように述べることはもう一つの可能 性を生起させる。すなわちその可能性とは価値のある言論活動が守られるよう な社会システムを構築するうえで政府だけでなく人民それ自体もこの目標に とって脅威であるとし、う現実を我々が計算に入れなければならないということ である。かりに言論活動を過度に不寛容に扱う傾向とし、う問題があるとするな らば,それは『政府』だけにかかわる問題ではなく,む
L
ろ自らの政府によっ て行動する『人民』にかかわる問題であるように思われる。J ( 7 9 頁)
ボリンジャーは,権力を言論の自由の脅威と捉える限定的な要塞モデ、ルが提 示する警告に一面の真理を認めながらも,権力が脅威であるという主張に誇張 が含まれていることを指摘
L
,それに代わる選択肢として権力の背後にいる人 民を言論の自由の脅威と捉える要塞モデルの可能J性を提示した。そして彼は新たに提示した選択肢を擁護するためにその歴史的な根拠をつぎ のように論じている。過度の言論抑圧があった時代の記録はこの判断を支持す る。言論規制はそれがうまくいっていなかったところではまず第一に多数者支 配のシステム (thesystem of majority rule)を経由して生起
L
た。第一次世界 大戦から第三次世界大戦までに生じた過度の不寛容についてのチェイフィーの 有名な研究において彼はこの結論に到達した。まさに人民が政府に行動するよ うに!駆り立てるのであって,他から独立して自らの意思で行動する政府ではな い。同様の現象は1 9 5 0
年代初頭のMcCarthy時代を通じて生じた。そして1960
年代及びヴェトナム戦争期の緊張は市民ク、ループの聞に存在し,単にあるいは(65) 第一義的でさえも市民と政府の聞に存在したわけではない。
( 8 0 頁 〉
(63) Chafee, F陀eSpeech in the United Stat e,s.63‑64, 69
(64) David Cauter, The Great Fear (New York: Simon & Schuster, 1978), 215,
(65) Blasi,The Pathological Perspective and the First Amendment," 85 Colum L Rev 449 1985)
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言論の自由の価値と裁判所の役割( 2 )
‑287‑ボリンジャーは以上のような歴史的な根拠を述べたのちに,人民こそ言論の 自由の脅威であるという前提に立つことが新たな言論の自由論の可能性を切り 開くことになると指摘する。「しかし公衆の不寛容という現象を記述し考慮に 入れることは,我々の自由な言論についての論理の言葉づかし、
( t h et e r m s )
に 重大な転換を迫ることを意味する。新たなパースペクティブが浮上する。つまりそのパースベクティブは,自由な言論の中心となる目的が価値のある言論を 保護することであるという古典モデゾレの原理的な前提(この前提は真理探求過 程における情報及び思想のコミュニケーションという言葉によって第一義的に 定義される。〉を維持しながらも,少なくとも言論を規制するという決定が行 われるかぎり,人民自体が信頼できるとL、う前提から逸脱する。我々の論理に おけるこの転換は自由な言論の原理のあらゆる側面に,つまり求められる保護 範囲だけでなく執行のために選択された手段にまで放射状に広がる影響を及ぼ
す o J ( 8 0
頁〉ここにおいてボリンジャーは要塞モデルの立場を明確に提示した。そのパー スベクティブは古典モデルの立場を原理的に維持しながらも,言論規制の決定 にかぎり人民を信用しないというものであった。
( 4 )
人民の脅威についての自由主義者による説明ところで人民自身が人民の自由にとっての脅威であるという主張は目新しい ものではない。その主張はアメリカの建国者たちゃトックヴィルやミルによっ てすでに繰り返されている。ボリンジャーはここでしばらく先人によってすで に気づかれていた人民の持つ脅威の内容に立ち入ることになる。ここで行なう ボリンジャーの分析は要塞モデ)レの前提をさらに根拠づけると同時に,先人に よってすでになされたその認識の特徴を明らかにする試みでもある。
ボリンジャーによれば,言論の自由に対する現実的な脅威は官界