明星大学社会学研究紀要
<研究ノー5>
サン・シモンの社会組織論
松 本 和 良
はじめに サン・シモン(Claude−Henri de
Rouvroy, Comte de Saint−Simon,1760−1825)
の理論は、コント(A. Comte,1798−1857)のそ れとともに、パーソンズ(T.Parsons,1902−1979)
のいう原型社会学に属しており、とくに先駆的 な機能主義としての性格をもっていた。この先 駆的社会学は、巨視的であったが、総論に終始
し、社会学の概念形成や方法論において、無定 見で粗雑なところも見られた。しかし、それは 社会学の伝統となる実証主義と実証科学を繰り 返し主張し、分析と総合、帰納とともに演繹を 重視したもので、規範科学としてではなく、説 明科学として社会の全現象を、力の作用として 捉え、経験的科学的方法により追求する総合社
会学を目指すものであった。
コントの著名さによって背景に押しやられて しまったようなサン・シモンこそは社会組織論 を最初に展開した先駆的社会学者であった。彼 の父はフランス陸軍中将であり候爵であった が、彼は数奇な運命の人であった。彼は1777年 に軍隊にはいり、1779年にワシントンに味方し たラファイエット軍にくわわり、アメリカ独立
戦争をたたかった。
サン・シモンはフランス革命の真っ只中に生 きた。しかし、彼は革命を嫌ってそれについて
つぎのように述べている。「私はフランス革命に
参加しようとは思わなかった。なぜならば、一 方において、旧体制はながく続かないと確信し ていたからである。他方において、私は破壊に対して反感をもっていたからである。」(tZl)だが
彼はしばしば今日でも過激革命家つまりサンキュロットの一人と見なされやすい。
1790年にサン・シモンは爵位を正式に放棄し てボンノム(Bonhomme)と名乗った。1793年
には、フランスのためにアメリカ独立戦争に加 わったことなど、彼の愛国心と革命的見解は立 証された。しかしながら、彼はベルギーの銀行 家ヘンリー・シモン(Henry Simon)と間違え
られて逮捕され、1794年まで釈放されなかった。
1793−1794年の恐怖政治のなかの入獄経験とか ろうじてギロチンをのがれた彼の体験は、彼に 革命の暴力に対する生涯の恐れを生じさせたの
である。(注2)こういった彼の革命体験は、社会学
者としても貴重なものであって、それを基礎とした彼の社会組織論は、すでに暴力革命の経験
的一般化を行なうなど、マルクス(K.H. Marx,
1818−1883)への影響が看取され、今日の組織研 究にも神益するものを有するのである。
革命の絶頂期に、サン・シモンは、貴族や亡 命者の土地で国有化された土地に事業的投機を
行なうことにより、膨大な財産を手にいれた。
最初の支払いは購入費の12パーセントでよかっ たのである。そして、分割払いは、急激なイン フレーションによって支払者に非常に有利に作 用したのである。㈹
パリの大邸宅には20人の召使と有名なシェフ
がいた。そこには穏健派の政治家が集まった。
1798年はサン・シモンの転機の年であった。と
一 132一
いうのは、その時、彼は、財政家から哲学者な いし予言者にかわったのである。彼は、邸宅に とくに有名な芸術家や学者を招待して、彼らか ら科学をはじめ学問や芸術を学ぼうとした。し かし、金銭に対する貴族的な無頓着さは莫大な 浪費に結果して、1805年までに残る財産を使い
尽くした。(t「4)
しかし、ナポレオンの失脚とブルボン王朝の
復活はサン・シモンの運命に好転をもたらした。
1814年に、彼はティエリ (A.Thierry,1795−
1856,歴史学者)を秘書として、また、共同研 究者として見いだすことができた。こうして彼 を一躍有名にしたティエリとの共著『ヨーロッ
パ社会の再組織』(z)ela吻摺αタ応αガoηdu la societe ew oPe e7〃ne,1814)を出版し、政治評論
家として、世間の注目の的となるにいたっ
た。(注5)
革命後の産業ないし商業ブルジョアジーによ る旧土地貴族や亡命貴族の反動に対する政治権 力のためのたたかいにおいて、新時代の支配者
として資本家と製造業者の重要性を説くサン・
シモンの考え方は彼らの貴重な宣伝になること ができたのである。だがサン・シモンの態度に なお残る貴族趣味とエリート的思想による反自 由主義的で権威主義的な傾向は、やがて彼のも とからティエリを去らせる結果となった。ティ エリにかわってコントが秘書となった。有能な 秘書を得て、サン・シモンらは多くの雑誌を刊 行した。しかし、ブルボン王家に対する侮蔑的 言辞や不況などがたたって、1823年には財政難 に陥り、サン・シモンはピストル自殺をはかっ たが、彼は片目を失っただけで、あやうく命を
取りとめたのである。(注6)
その年、サン・シモンとコントは口論するこ
ととなって、やがてコントもまた別れていった。
サン・シモンは、コントが、自分の体系の科学 的部分だけを取り扱い、情動的部分や宗教的部
分を詳しく述べていないと非難した。他方、コ ントは、サン・シモンが、知的基礎を固める前 に、彼の原理を性急に当時の政治の動きに適用
しようとするとして非難した。(注7)
1825年にサン・シモンの最後の著書でもっと も影響力のあった『新キリスト教』(No卿ε顕
Ch77 stia is7ne)が出版された。彼には、科学と
エネルギー的条件づけだけで新社会秩序は達成できないという強い認識があった。彼の死後、
その感化をうけた金持ちで若いユダヤ人の弟子 であるロドリーグ(0.Rodringues)は、彼の実
証哲学をサン・シモン主義の宗教へと変換した。
サン・シモンの最期の言葉は「中世キリスト教 の体系はもはや実証科学と調和しないので、宗 教は消滅しないとしても、科学の進歩に順応し
なければならない」というものであった。(注8)こ
の『新キリスト教』のなかでカトリック教とプロテスタントの宗派は、異端として批判されて
いる。
サン・シモンといえば、多くの人たちは社会 主義思想の先駆者と考える。しかし実際に〈社 会主義的〉と呼びうる経済理論を発達させたの
は、むしろロドリーグ、バザール(A.Bazard)、
アンファンタン(B.P.Enfantin)といったサン・
シモン主義者たちであった。彼らはまたサン・
シモンを崇拝して、彼を新宗教の「救世主」と
みなしたのである。(注9)
サン・シモン主義者たちは、サン・シモンの 進化論的見解に、より一貫性を与えながら、そ の原理を保持し、危機の観念、計画の強調、平 和主義、労働倫理、社会統合復活の使命感など
の主張はそのまま受け継いだ。他方、彼らには、
のちのマルクス主義の主張に近い立場の変化も 見られた。封建主義ないし資本主義的搾取の非 難、相続財産制の廃止、財産の公有化、両性の
平等などがその例であった。
しかしながら、サン・シモンは宗教的なマニ
アとは考えられなかった。むしろ彼は一つの哲 学、すなわち、実証主義を基礎とした科学哲学
を提唱した者といえるが、マルクスとコントに 思想的影響を与えた利口でしかも独創力に富む
一 人の理論家であったと考えられるのである。
たしかに彼は、フランス革命時代の性格をもっ て社会改革を目指した先駆的機能主義者であ り、啓蒙主義者、ロマン主義者、そして、人道 主義者であった、と考えられる。しかし、彼に
とって宗教とは、機能主義的に把捉されており、
社会におけるもっとも重要な政治的制度であ り、人々にとって政治的にとくに必要と見なさ
れたのであって、啓蒙主義哲学からの立場とか、
純粋な信仰によるものとは異なっていた。倒o}
サン・シモンの社会組織論の目的は、端的に いえば、新キリスト教による情報制御を受けつ っ「科学と産業とを根底としてヨーロッパ諸社
会を再建するということにあった」(注11)といえ
る。彼の宗教への期待は、このヨーロッパ諸社 会の再組織とその秩序維持のために、いかに宗 教は重要な機能を果たすかという一種の功利主 義の認識にあった。彼は、ヨーロッパ社会に機
能主義的均衡をもたらそうと考えたのである。
こうして科学そしてエネルギー的条件づけ要因 としての産業のほかに、最後に宗教が彼の社会
組織論の基礎となった。
サン・シモンは、実践的な政治評論家として、
第三身分(彼が労働者階級と見なす科学者・芸 術家・産業家など)を中心に、改革を促し直接 行動に訴えた。彼の主張は多彩であり、内容的 に実証主義、産業主義、国際主義、そして、新 宗教の樹立を含んでいた。当時において自然界 に関する知識の経験主義哲学としての実証主義 の基礎は、すでにベーコン(F.Bacon,1561−
1626)やヒューム(D.Hume,1711−1776)によっ
て成し遂げられていた。サン・シモンの意図は 社会に関する力の作用を分析する自然主義的な科学の成立であった。
1.実証科学
一 133一
佐々木交賢氏によれば、「諸科学がますます専
門化し、その性格がますます実証化されている が、これらのものは統一をもたなくなって行く 傾向があったので、この反動として実証哲学が生まれた」(注12)とされる。実証哲学は、諸科学の
超越ではなく、諸科学の用いる実証的方法に よって諸科学を組織することである、と氏は考 えている。サン・シモンの意図した実証主義は
まさにこの実証哲学であった、といえる。
サン・シモンは、最初の時期(1803−1813年)
に哲学と科学の問題に関心をもち、当時の科学 的思考のもっとも成功した例と見なしたニュー
トン(1.Newton,1642−1727)の万有引力の法
則にもとついて、知識の統一の探求を試みた。『ジュネーヴの住民から同時代人に送られた手
紙』 (Letto es d 2{12 kabita32t de Ge寵ueαses co77 te17zPOI a17)2s,1803)、『19世紀の科学業績序 説』(bit7 oditction aZtX t7 avaiza scientiifiques dZt
xlxe,1808)、『人間の科学についての覚書と宇宙
引力の研究』(A4e 7noii e Sltl la scie71ce de l ho7n}ne et t? avail sur 1αgravitatioり?U7τive7 ・selle,1813)などの著作である。これらはすべて 実証哲学の主張に結びついている。
佐々木氏によれば、サン・シモンのいう「社 会生理学(コントによる社会学)は哲学に実証 的根拠を与えるものであり、後者は前者の延長
である」(注13}とされる。のちのコントによって用 いられた「実証哲学」(la philosophie positive)
という名称もサン・シモンによるとされる。サ ン・シモンは、実証哲学を、形而上学的哲学の 形式統一性と個別諸科学の特殊性とのあいだに
位置づけたとされる。(tt14)
サン・シモンにより、実証科学としての社会
生理学という呼称は、「社会現象」が「生命の自
一 134一
然の発達の一部」と見なされることを指し示す ものとして命名されたのである。彼は社会現象 を宇宙にはたらく力の作用である自然現象の一 部として捉えたといえ6。こうして万有引力の 法則のように、実証科学的に見て、ヨーロッパ の国々のあいだに共同体を成立させることは
まったく可能と考えられたに違いない。
サン・シモンによって、科学は、新しい権威 としてこれまでの宗教の機能を遂行すると見な された。実証主義とは、自然と人間経験のあら ゆる面に科学的方法を適用するというもので あった。彼によれば、根本の完全な形態におけ る科学の概念形成は、信念の安定した確実の本 体としてのこり、宗教に取って代わることがで
き、経験の完全な科学的説明は新しい宗教に当 たり、社会の安定条件を回復させることになる
だろう、とされた。(注15)しかし、こういった主張
には、第三期には、「新キリスト教」の成立を説
くことによって、さらにもう一つの情報制御要因が付加されてくるのである。
サン・シモンは、コントよりも早く、人間の 思想は、多神教の段階から一神教の段階に、そ
して、形而上学の段階に、さらに実証科学の段 階をつぎつぎに経過すると説いた。最初に科学 的で実証的になったのは、数学と物理学であっ た。そして、生物学、生理学、さらにサン・シ モンが「社会生理学」と呼んだ人間行動の科学 が、いま科学的で実証的に成らなければならな
い、とされた。(注16)しかし、彼の理論には、社会
生理学(社会学)独自の科学的方法論はまだ十全な形で成立することができなかった。
2.社会組織論
サン・シモンによる社会組織論の展開は、実 証科学によってヨーロッパ共同体を成立させよ
うとする壮大な構想とともに、現実要因を探求 し、産業化によって暴力と革命の時代に終止符
を打とうとする意図があった。彼のばあい、実 証的と産業的はいわば同義語であって、この第
二の時期(1814−1824年)を代表する著作が『ヨー
ロッパ社会の再組織』であった。それは産業社 会の到来を予言して、最初はフランスとイギリ
ス、っいでドイツを加えながら、ヨーロッパ共 同体を確立させることを機能主義的に提唱した
歴史的著作であった。
サン・シモンによれば、15世紀以来の中世の 秩序の崩れるなかで、産業と科学にもとつく新 しい産業社会の進展は、役立たない階級を消滅 させ、暴力を無くし、平和をもたらすと考えら れた。しかし、それには、国境をこえた産業家 や労働者同士の国際的糾合が行なわれ、ヨー ロッパ社会が国際的に一体化することが必要で あった。産業社会の繁栄をもたらすために、フ ランスやイギリスなどにおける同一の職業者の
団結が求められたのであった。(注17)
「ヨーロッパ社会の再組織』の序文において、
サン・シモンはつぎのように述べている。「18世
紀の哲学は革命的であったが、19世紀の哲学は建設的でなければならない。」(注18)しかしなが
ら、彼の期待とは異なって、人類の平和は遠い 夢で、1g世紀はそうならずに、ますますひどい 帝国主義的抗争の時代となり、20世紀はさらに ひどくもっとも血なまぐさい世紀と成ってし
まったのが事実である。
サン・シモンは、その序文のなかで、自由の
原理を掲げるイギリスとフランスが連合して、
ヨーロッパを再組織するための力をたくわえる ことを提案している。彼はそこにヨーロッパ共 同体の実現のためのエネルギーによる条件づけ
の要因を求めたのである。「この種の連合は可能
である。なぜならばフランスはいまやイギリスと同じくらい自由だからである」(t「19)と彼はい
う。ヨーロッパ統合への動きは、何世紀も前に 起こったが、その経過は、悲惨なくらいゆっくMarch 1996
りしたものである。しかし、それ以外にヨーロッ
パを救う道はない。もし国民と諸個人の連合と か、共通の制度と組織がないとするならば、あ らゆる事柄は[暴力的な]力によって決定され ることになる。このように彼はすでに考え抜いていた。(注20)
サン・シモンは、本書において、ヨーロッパ 社会の再組織のための実証哲学の方法を、独創 的に自信をもって説いている。「あらゆる科学
は、その種類を間わず、解決すべき一連の問題、
分析すべき一連の疑問以外の何物でもないので ある。そして、科学は、これら疑問の性質以外
に、お互いに異なるなにものもないといえる。
こうしていくつかの科学に適用可能な方法は、
すべての科学に適用可能となるだろう。という のは、その方法は、いくつかの科学に[共通し
て]適用可能だからである。また、この方法は、
それを適用する対象とはまったく独立した一種 の用具であり、対象の性質になんら変更を加え るものではないからである。そのうえ、あらゆ る科学は、その確実性をこの方法適用から引き 出す。すなわち、この方法によって、科学が実
証的なものになるのである。」(注21)
サン・シモンにより、科学と哲学は結びつい
たものとされているが、実証哲学の立場に立ち、
実証科学の方法によって、[実践的に]ヨーロッ
パ社会を再組織するのが、彼の真の意図であっ た。彼は、組織を、共通の目標を志向する社会秩序のなんらかのシステムと規定する。そして、
[実証科学の方法により]公共の利益のあらゆ
る問題が、もっとも十分に、そして、完壁な方 法で処理されるそういった仕方で、制度が組織され、権力が配分されることこそが最良の意志 である。こうしてそのいかなる種類の問題の解 決にも、実証科学は2方法を提供する、とされ
る。(注22)
すなわち、それは総合と分析、演繹的な検討
一 135一
と帰納的な精査の方法である。したがって、ヨー
ロッパの最良の組織とは、公共の利益の各問題 が、つねに演繹的に検討され、さらに帰納的に 精査される組織である。問題は、まず「共同の 利益」に照らして検討され、それから共同体の 成員の「個別的利益」に照らして精査されることになる。「実験科学の方法は政治学にも適用さ
れなければならない。一理性と経験がこの方法の原理となるのである。」このようにサン・シ
モンは述べている。(注23)統治の階統的封建的形態が[民主的な]議会 制度の形態により取って代わられたところでは
どこでも、この変化はそれ自体新しいより完全
な組織を生みだす、と彼は主張する。すなわち、
すでに当時の社会的歴史的情勢から判断される ヨーロッパ共同体の組織への期待である。サ ン・シモンは、そこにフランスとイギリスの国 家を中心にした共同の意思、ヨーロッパ的愛国 心とともに、ヨーロッパ議会制度の成立を予期 しており、この新しいヨーロッパ議会では、経 営者、科学者、行政官、そして、管理者が、中 心の唯一の階級となるべきであると強調し
た。(注24)
サン・シモンは、そこに国民的ないし個人的 倫理と同時に一般的規律と完全な良心と信仰の
自由を説いている。しかしながら、「あらゆる他
の人種よりも優れているヨーロッパ人によって 世界を植民地化すること、ヨーロッパのように 世界を接近可能にし、習慣化すること一これこそは、ヨーロッパ議会がたえずヨーロッパを 活動的に健康にしておくに違いない種類の事業
なのである」(tt・25)と断言している。そこにはアジ
ア人やアフリカ人を支配した当時のヨーロッパ 人のはなもちならないエスノセントリズムが露骨に示されていたのである。
サン・シモンは、社会進歩論者の立場から、
フランスとイギリスを中心とするヨーロッパ議
一
会を設立する時期が到来したと判断した。いま やフランス人はイギリス人の制度や組織を採用 するにいたったからである。というのは、自由 と自由の諸制度の観念、すなわち、いかなるか たちの専制政治も憎むということは、アメリカ 独立のために戦ったフランス人によって故国に もたらされたものであり、それらはやがて多く の国民のこころをとらえ、そこから[フランス に自由をもたらした]フランス革命の危機が始
まった、と彼は判断したのである。(注26)
サン・シモンは言う。フランス革命(1789−1799
年)のあらゆる感激、狂気、戦懐は、イギリス革命(1642−1649年)にも平行して見られる。人
間精神の進歩は不可避であり、時間と場所による変化はありえないということは真理である。
この二つの革命の共通要素をただちに見分ける
ことができるのである。彼はこのように断言し、
これまで誰もなし得なかった革命における力の 作用の実証主義的一般化を5期に分けて試みた
のである。
すなわち、第一期では、啓蒙が進んでくると、
旧社会秩序の異常性は顕在化し、新しい組織の 必要性を感じさせる。だれもがよりよい変化を 待ち望み、国王、貴族、人民すらそれに参加し たいと思うのである。唯一の目的は公共の福祉 で、人々はどんな代価を払ってもそれを達成し ようと決心して、個人的関心は、全員の関心を
前にして消滅するのである。
第二期は魔法の解かれる時期である。人々は 犠牲をまえにして蹟躇を感じ、その軽率な熱狂 を後悔するようになる。あの公共の福祉に対す る燃えるような、有頂天の、盲目的な愛は静ま り、より思慮深くなる。ある者は、旧秩序にあ こがれ、新秩序の進歩について点検を始め、そ の支持者に反対する。改革者は民衆の支持を求 め、一般民衆を奮起させる。こうして民衆の社
会が形成される。
第三期は、権力がもっとも無知な階級に引き
渡され、行政は破滅して、無政府状態が現れる。
その上、[政治の乱れによる]内乱と飢饅が惨め さをこのうえないものにする。
そして、第四期では、無秩序が最高点に達し、
人々は疲労し、秩序と規律への復帰をこころに 願うようになる。こうしてひとりの人間の専制 政治が出現しても、むしろ民衆の独裁よりはま だましなものとされる。そこで、一人の大胆で 野心的な人間、例えば、クロムウェル(1599−
1658)なり、ナポレオン(1769−1821)なりが、
民衆のなかから出てきて、強い意志で武装し、
公衆の要請を背景に、暴徒から権力を強奪し、
手中に収めるのである。しかし、軍事力のみが 民衆の力を破壊できるので、軍事独裁が民主主 義の無政府状態の廃嘘の上に打ち立てられるの
である。
最後の第五期において、このような大変動の のちにようやく平穏がもどる時に、最初、国民 の穏健な部分によって望まれていた変化が、苦
もなく実行されることになる。そして、国民は、
激動と無秩序なしに達成することを望んでいた あの社会秩序をついに見つけることができるの
である。(注27)
以上のように、サン・シモンは、二つの革命 の時系列的な歴史的事実を、経験的に、実証科 学的に一般化を行なっており、このように科学 は革命すらも一般化できるものと彼は考えてい た。この分析のあとで、革命を導く社会不安に
ついて、彼は、「利害関心の欲求不満と希望の挫
折により引き起こされた国民の全階級における不満は、きっぱりとして行為せず、あるいは、
率直に行為しない政府に対して結びつくのだ」
と警告した。また、「人々の国民的誇りが傷つけ
られるとき、全国民のいらだちは諸個人に作用March 1996
し、それぞれみずからの個別的に良くないとす る感情を悪化させる。もしこのような誇りが満 足されれば、個別的な不平不満は満足の一般的 感情のなかに[おのずと]埋没してしまうもの
である」とも述べている。(注28)
このように革命の一般化を行なうことは、平
和主義者として、また、自称自由主義者として、
実証科学の方法により非人間的な物理的暴力、
すなわち、戦争や革命によらずに社会を進歩さ せようとした彼の真の意図からでたものと判断
される。本書において、サン・シモンは、もし フランスとイギリスが政治的に結びつけば、フ ランスはヨーロッパで優れた役割を演じ、その 誇りを回復できるであろう、と述べ、また、イ ギリス人はフランス人の政治における教師であ る、とも述べているが、しかし、両者の結びつ きは紆余曲折のあるものと見なしていた。例え ば、イギリスがあらゆる台頭する力をつぶそう と試みるならば、他の国民を貧しくすることは みずから貧しくすることになり、他者を弱める
ことはみずからを弱めることになる、と説いた。
また、イギリスとフランスが連合すれば、不可 避的な破産から救われ、力強く幸福な関係が成 立して、他者の繁栄はもはやイギリスになんら
の損害をあたえない、とも説いている。(注29)
しかしながら、サン・シモンには、本書にお いて、ヨーロッパ共同体を形成するための政治 的なもう一つの支柱があった。それはドイツ国 民であった。ドイツはヨーロッパ諸国のなかの 普通の国であるといえるが、その道徳性の規準 の高さ、欺くことをあえてしない誠実さ、あら ゆる誘惑に対する公正さの証明とは、まさにド イツ国民のなかに見いだされるものである、と
賞賛している。しかし、これまで海上貿易をまっ
たく奪われていたドイツは、商業の精神なしで 済ましてきたのである。サン・シモンはこう述べて、つぎのように判断する。(注30)
一 137一 すなわち「・fギリス革命の記憶とつい最近の
フランス革命の記憶は、ドイツ国民にあること を警告している。ドイッ国民は、そんな悪に直 面することを信じようとせず、また、彼らの性 格により自己の保全はできることを期待する が、それはみずからを偽ることである。国民性 は事の成り行きの力に抗し得ないのがこのばあ
いにおける形勢である」 「この災難から[ドイ
ツ]国民を救うのは、新しい社会秩序の支持者に対する外部[国]からの保護だけである。」(注31)
そして、サン・シモンは「分割されたままの ドイツは、これまで全世界のなすがままになっ
ている」として、「ヨーロッパの中心にあって、
人口の半分を擁し、とくに高潔で高遣な性格を もつドイツ国民が、もし自由政府に加わること になれば、ただちにヨーロッパにおける卓越し
た役割を演ずることになるであろう」(ta32)と期 待している。
こうしてサン・シモンは、いまもし佛・英・
独3国によるヨーロッパ共同議会が確立された ならば、ヨーロッパの残余の再組織化はより早
く容易になるであろう。そして、ヨーロッパ共 同体こそは、ヨーロッパ人が着実に進みつつあ
る究極の方向である、と結論するのである。(注33)
サン・シモンは、このようなヨーロッパ共同 体の基礎は、とくに時代の寵児である産業家な
いし生産者階級によって支えられると判断し た。産業家というのは、科学者、芸術家、専門 職者、そして、技能者であった。国民的利害に かんする行政に参加しようとする科学者、芸術 家、そして[その他の]産業家の野心は、共同 体にとってけっして危険なものではなく、むし
ろ利益のあるもので、彼らはただしっかりした 業績をとおしてのみ、その野心を成功させるの である。他方、政治的地位[だけ]を目指すよ
うな野心家は共同体にとり有害である。という
のは、野心に焦燥し、それを満足させるために、
一
全社会秩序の転覆を求めて争うからである。ま た、個人の大多数が無知と浅慮の状態にとどま るかぎり、彼らは、彼らを暴動やあらゆる種類 の無政府状態に駆り立てる獣的な激情によって 動揺する。このように彼は、産業家を全面的に 支持し、単に政治的野心で行動することを批判
した。(注34)しかしながら、彼は、階級対立の事実
を正確に発見することはできなかったが、ヨー ロッパ共同体の組織化にかんする社会学理論は、まったく先駆的なものであった。
3.新キリスト教
サン・シモンの第3の時期は、『新キリスト教』
の刊行によって示される(1825年)。彼は、宗教
を道徳性のあるものと見なした。そして、キリ スト教の道義を人類がこれまで実際に評価して きたもっとも偉大な普遍性の原理、そして、千 8百年間につくられたもっとも高貴な概念形成として顧慮しなければならないものとみなし、
このような観念要因をヨーロッパ共同体の形成 のために役立てようとした。彼は、この普遍的 で唯一の宗教によってアジアもアフリカもやが て改宗されることになるであろう、と予想した
のである。(注35)
その点、彼の新キリスト教の提唱は、ファン ダメンタリズムの要素を含んでいた。この新キ リスト教の絶対原理を、ヨーロッパ共同体の組 織化のために、機能主義的な政治実践のための 情報制御要因とみなしたことは、おのずとファ
ンダメンタリズムに陥る危険を生んだ。のちに マルクスは、この絶対原理を社会主義の絶対原 理に構造主義的に変換させた、といえるのであ
る。
サン・シモンは、ヨーロッパ共同体の観点か ら宗教を機能的に把捉したのである。新キリス ト教をパーソンズのいう情報制御の見地から捉 えたのである。彼の考えるキリスト教の聖なる
基本的な唯一の原理とは、聖なる道徳性の基本 的原理であり、それはキリストが使徒に示した 使命である隣人愛ないし同胞愛であった。具体 的にはもっとも貧しい階級をこころから制度的 に救い上げようとすることであり、この絶対原 理から、カトリック教とプロテスタントの宗派
は批判される結果となった。そこには、やがて、
マルクス主義と連係する社会主義の観念の芽生
えがすでに見られたのである。(注36)
新キリスト教の組織は、あらゆる種類の制度 を最貧階級の福祉の改善に向かわせるものであ るとされた。それこそ本来のキリスト教の唯一 の目的であり、実践すべき神聖な道徳原理で
あった。その点、カトリック教は、聖職者に、
俗人階級を完全に一方的に依存させることを目
的にしている点で[間接的であり]異端的であっ
たのである。(t「37)
サン・シモンによると、カトリック教は15世 紀以来その実態を非常に変化させ異端的になっ
ていったとされた。それまでの多くの枢機卿や 教皇はもっとも下賎の家からの出身者によって 占められたが、国王と同じ素質をもつvオ10世
(Leo X,1475−1521)が教皇(1513−1521)にな
ることにより、事情は変わり、世俗的な国王の ように振る舞うにいたったのである。サン・シ モンはここに貧者を救おうとしない教会の堕落を見たのである。(注38)
他方,ルター(M.Luther,1483−1546)によ
る宗教改革は、過去のローマ教会のあり方から生じた。しかし、ノレターもまた、サン・シモン
によるとやはり異端的であった。たしかにル ターは非常にエネルギッシュに有能な批判を行 なったが、彼が優れた才能を示したのはこの点だけであるとされ、ルターは、皇帝の権力を、
すべての権力が派生する源泉として認めるにい たったのである。さらに、プロテスタントの道 徳は、当時の文明のレベルから見てもキリスト
教徒にふさわしくないかなり劣ったものであ り、芸術、科学、そして、産業の発達に即応し
ていないと見なした。(注39)
サン・シモンは、「自分を愛するようにあなた
の隣人を愛しなさい」と「人間はおたがいに兄 弟として振る舞うべし」の原理をその理論のな かに摂取した。そして、とくに後者こそ、唯一 の崇高な原理であり、神は一切のものをただこ の唯一の原理から導いたと強調して、自分も神 を信ずる者として、それを新キリスト教の本質 的な唯一の原理とし、そこから一切の道徳は派 生する、と考えた。彼のいう実践とは、この唯一
の原理の徹底した実現にほかならず、そのあらゆる種類の制度と活動を、社会の最大多数を 占める最貧階級の福祉の改善に向かわせること
である、とされた。(注40)
サン・シモンが、カトリック教とプロテスタ ントの宗派を異端として非難したのも、この観
点からであった。1)カトリック教の聖職者は、
キリスト教本来の教え(最貧階級の福祉)にし たがって世俗者を導いていないこと、2)教皇 と枢機卿は、最貧階級を正しく救済する知識が
ないこと、3)教皇国家における貧者に対して、
教皇は反キリスト教の行政を行なっているこ と、4)教皇と枢機卿は、キリスト教精神に明 らかに反する宗教裁判やイエズス会の制度を設
けていること、の4点であった。(注41)
それに対して、プロテスタントとくにルター 派の異端性とは、1)かつての神父たちと同じ
ものを人々に与えて、文明の現状にふさわしい 道徳を採用しないこと、2)社会の進歩ととも
に、安息日の集会は、公共の福祉の強い共感を 呼び起こすのに大切であるのに、芸術的にすべ ての美を払拭する冴えない間違った礼拝式を採 用すること、3)聖書にあまり深入りし過ぎ、
誤った信仰個条を採用すること、このような聖 書の研究は、実証的観念と現世的利害関心を消
一 139一 失させ、文明下で消滅した獣姦や近親相姦の悪
習を想起させ、精神的物質的生活改善を妨害し、
そして、文明の現段階におけるふさわしい教理
を生みだし説かないことなどである。(注42)
おわりにサン・シモンの説いた新キリスト 教とは、ヨーロッパ社会の再組織、すなわち、
ヨーロッパ共同体の形成にとり、それが人々の 精神形成に重要な機能を有するという認識にも とつくものであった。彼は『新キリスト教2の 結論部分の1節で、新キリスト教の原理の表現 方式は、彼の社会組織に関する概念形成全体に 及ぶと述べている。すなわち、彼の主張する社
会組織とは、「科学・芸術・産業に基礎づけられ
た哲学的論拠とともに、文明世界のもっとも普 遍的宗教の達成原理、すなわち、キリスト教に 基礎を置くシステムである」と明言してい
る。(注43)
このようにして彼の社会組織論は、パーソン ズのいう原型社会学の領域に入り、社会学の概 念整備、認識論や方法論の深化、要因決定にお ける推敲などの余地や未完成の部分は見られる ものの、そこにはパーソンズのサイバネティッ ク階統制の所説におけるエネルギー的条件づけ と情報制御についての基本的論述がすでに見い だされていた。そこではヨーロッパ共同体の成
立のため、エネルギー的条件づけ要因として、
自由の制度化を目指す政治権力の結束、ヨー
ロッパ共同議会制度、そして、科学者・芸術家・
産業家を中心とする産業社会の推進が主張され ていた。また、情報制御要因として、科学とな
らんで、最貧階級の福祉を唯一の目標とする新 キリスト教原理が主張されていたのである。し ばしば社会学は、産業革命とフランス革命の理 想と現実を把捉するために成立した近代市民社
会の科学的自己認識である、といわれる。サン・
シモンの社会生理学は、その社会組織論に見ら
一 140一
れるように、包括的で壮大な構図を示し、巨視 的であり総論的であって、人類ないしヨーロッ パ文明が一括して論述の対象とされるような総 合社会学的認識に支えられていた。それは社会 学的組織論のまさに先駆を成したものであった
といえる。
さらにサン・シモンの理論は、社会を歴史的 社会として捉えており、それは社会進歩の観念 に支配されていた。また、それは実践性を濃厚
に示すものとなっていた。まさに彼の理論は、
古典的社会学の諸特徴を典型的に示すもので
あったといえる。(注44)こうしてサン・シモンの理
論には、コントやマルクスといった著名の理論 家に影響を与えただけでなく、パーソンズの機 能主義に明確に形をとって現れた思考様式の基 礎がすでに存在していた。このように判断することができるのである。
〈脚注>
1 F.Markham, ed. and trans. with an Introduc・
tion, Hen,i de Sαint・Si?non:Social Organiza一 tio71, tke Sc{ence o∫Mαn and OtheγW惟飢gs,
Harper and Row,1964,pp.xi−xiii.
2 D.L. Sills,ed.,lnte7veational ERcyclopedia of
the Sociag Sciences,vol.13, The Macmillan
&the Free Press,1968,p.591.3 Markham, op. cit., p.xii.
4 1bid.,PP.xiii・xiv.
5 1bid.,PP.xv・xvi.
6 1bid.,PP.xvi・xvii.
7 1bid.,P.xxxiii.
8 1bid.,P.xvii.
9 Ditto.
10 1bid.,PP.xvii−xviii.
11佐々木交賢『フランス社会学の源流』杉山書店、
1980年、223ページ。
12 同書、226ページ。
13 同上。
14 同書、227ページ。
15 Markham, op.cit.pp.xxi−xxiii.パーソンズの AGIL図式によれば、サン・シモンのいう「科学」
は、ヨーロッパ共同体というシステムのL機能 部門に当たる、といえよう。
16 1bid.,P.xxi.
17 佐々木、前掲書、243−245ページ。
18 Markham, op.cit.,p.29.
191bid.,p.33.フランスがナポレオン戦争で大敗 北を喫したのは1814年と15年であった。サン・
シモンの『ヨーロッパ社会の再組織』は、戦乱 のなかで刊行されたことに注意したい。
20 1bid.,pp.33−35.
21 1bid.,pp.39−40.
22 1bid.,p.40.
23 1bid.,pp.40−45.
241bid.,pp.45−47.サン・シモンによる「ヨー・ロッ
ノ蟻会制度」の主張は、パーソンズのいう1機能 部門に相当することは明らかである。
25 ∫bid.,p.49.
26 1bid.,pp.50−55.
27 1bid.,pp.55−57.
28 1bid.,pp.59,62.
29乃i∂.,pp.62−63.最初に政治権力として・fギリ スとフランスが連合し、ついでドイツがそれに 加わるというのは、まさにパーソンズのいうG 機能部門についての論及であった。
30 1bid.,p.64.
31 1bid.,p.65.
32 1bid.,p.66.
33 1bid.,pp.66−68.
341bid.,pp.72−73,76,79.サン・シモンによる「産 業家」と「産業社会」の重視は、パーソンズの いうシステムのA機能部門の強調に当たる、と いえよう。
35 1bid.,pp.81−83,85.
March 1996
361bid.,pp.83−86.サン・シモンの説く「新キリス ト教の原理」は、パーソンズのいうテリック・
システムに結びつくL機能の原理であり、その 規範は「最貧階級の福祉の改善」とされていた。
37 1bid.,pp.85−87,90.
38 1bid.,pp.92−96.
39 1bid.,pp.102−103.
401bid。,pp.81,83,86−87.ここでは「宗教」のL機能
が明確に説かれている。
41 1bid.,pp.88−91.
42 1bid.,pp.96,103,105,107.
43 1bid.,p.109.
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