日本の資本主義はどこからきたのか 渋沢栄一とサン・シモン主義/CEL【大阪ガス株式会社 エネルギー・文化研究所】
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(2) 分差別のない新しい社会を築く方法を. 引き受けた。ひろく、世界を知り、身. かわらず、渋沢はこの話を二つ返事で. かつては尊王攘夷の闘士だったにもか. リ万博派遣団に加わるという話だった。. 川慶喜の弟・徳川昭武を名代とするパ. そんなときに降って湧いたのが、徳. 画は頓挫する。. し立て雄藩連合を作ろうということだ. するので、そのときには一橋慶喜を押. 渋沢の目論見は、早晩、幕府は瓦解. る。. 反政府勢力の期待も集めていたのであ. 橋慶喜は徳川幕府の一員でありながら. た水戸藩主・徳川斉昭の七男である一. る。尊王攘夷運動の一方の旗頭であっ. 手を逃れるために一橋慶喜の家臣とな. すんでのところで挫折し、官憲の追っ. 焼き討ちまで計画するが、この企ては. 弟たちと結社をつくり、横浜居留地の. のめりこんでいく。そのあげく、従兄. 渋沢は、これを機に尊王攘夷運動に. からである﹂ ︵ ﹃青淵回顧録﹄ ︶. るといふのは、お上の政治向きが悪い. になったもの、いいかえると、ナポレ. ポレオン3世治下において初めて可能. フリュリ エ =ラールを介して摂取した 社会・経済システムとは、本当に、ナ. 第一の問題は、渋沢が1867年に. っている。. 沢伝に書いてあるし、渋沢も自伝で語. と、ここまでのことはほとんどの渋. をすべて伝授したようである。. するのに驚き、自分の知っていること. フリュリ エ = ラ ー ル も、東 洋 か ら 来 た 一青年があらゆることに好奇心を発揮. 金融システムについて学ぶことになる。. リ エ = ラ ー ル を 先 生 に し て、株 式 会 社 の仕組みから始まってありとあらゆる. を出迎えた名誉総領事の銀行家フリュ. かくして、渋沢はマルセイユで一行. 激しく興味をいだいたのである。. ったというそのシステム自体に渋沢は. 面前に見るような巨大工事が可能にな. が株式というかたちで集められた結果、. ある。すなわち、個人個人の小さな金. て施工されていることに驚愕したので. ズ運河株式会社という﹁法人﹂によっ. ップスという個人の発案に基づくスエ. その大工事が国家的事業ではなくレセ. ている様を船上から眺めているうちに、. とは自由主義経済に移行した後の旧共. いても成立するものではない。そのこ. である。資本主義というのは放ってお. 開花したかは大いに疑問の残るところ. リス流のレセ・フェールの資本主義で. ン・シモン主義でなく、たとえばイギ. だからもし、渋沢が出会ったのがサ. である。. ちに完全に開花させたということなの. 壌のない日本に持ち帰り、短期間のう. とは意識しないまま、資本主義的な土. い た 特 殊 な サ ン・シ モ ン 主 義 的 な 社. まさに、1867年にほぼ完成を見て. 第二帝政になって初めて実現した特異. 以 前 に は 存 在 し て い な か っ た も の で、. 1年のルイ・ナポレオンのクーデター. とした社会・経済システムは、185. な ぜ な ら、渋 沢 が フ リ ュ リ エ =ラール から学び取り、後に日本改造のモデル. ば、すぐに答えは出る。不可能だったと。. 済システムを学ぼうとしたと仮定すれ. 48年に渡仏し、フランスで社会・経. もし渋沢が1867年ではなく、18. いればすぐに明らかになる。すなわち、. この点については、歴史のイフを用. たのかということである。. 知りたいと思っていたからだ。 オン3世のブレーンとなった銀行家の 産 圏 の 実 態 を 見 れ ば よ く わ か る。何 も. 地中海を結ぶ大工事が着々と進められ. 果たせるかな、1年半に及ぶ海外体 ペレール兄弟や経済学者のミシェル・ せずに自然に放置すれば、ブラック・. るが、斯様な人物が良民を軽蔑嘲弄す. 験は渋沢に大きな衝撃と変化をもたら シュヴァリエなどのサン・シモン主義 マーケット型の社会になってしまうの. なってしまったため、この日本改造計. 銀行は同時に小口の預金銀行でもあり、. 設立することが奨励される。産業投資. 政府の信用貸与でこの手の銀行を多く. あったなら、日本の資本主義がうまく. 会・経済システムを、そのようなもの. な も の で あ っ た か ら で あ る。渋 沢 は、. すことになる。その最初の衝撃は、開 者たちがシステマティックに、しかも である。. 代将軍に. 削途中だったスエズ運河を途中まで船 短期間のうちに実行に移したそれだっ. ったのだが、一橋慶喜が第. で航行していたときに訪れた。紅海と. サン・シモン主 義 とは何か. 投資のための資金は民間から細流主義. うと帝政だろうと共和政だろうと、カ. 治体制を変える必要はない。王政だろ. であると説く。しかし、そのために政. ようなシステムをつくることが不可欠. し、この三つの要素を流通・循環する. で一カ所に停留していることにあると. カネ、モノ、ヒトが流通・循環しない. 社会が貧困状態に止まっている原因は、. は富の﹁流通・循環﹂にある。すなわち、. とする思想である。そのキー・ワード. きで、産業人優先の社会を築くべきだ. 社会に不要であるから、極力排除すべ. 軍人などの生産にかかわらない人間は. の根源は生産にあり、王侯貴族・官吏・. る︶が唱導した社会理論で、社会の富. の作者サン・シモン公爵の遠縁に当た. 爵︵有 名 な﹃サ ン・シ モ ン の 回 想 録﹄. ごとく、アンリ・ド・サン・シモン伯. サン・シモン主義とはその名の示す. 経済思想であったのか?. でも銀行はサン・シモン主義の中核と. れをフル稼働させることである。なか. ような法律をつくり、政治によってこ. す銀行と株式会社を設立しやすくする. 重要なのは、まず第一にカネを動か. 案していった。. を発行して社会改良の方法を次々に提. ︵編 集 長・ミ シ ェ ル・シ ュヴァ リ エ︶. ﹃産業人﹄を、ついで機関紙﹃グローブ﹄. になり、理論の精緻化のために機関誌. ﹁ペ ー ル﹂で 組 織 を 運 営 し て ゆ く こ と. ファンタンとバザールが二頭体制の. ︵メール︶ ﹂に人材を得ないため、アン. 戴くことにするが、差し当たり﹁教母. 父︵ペール︶﹂と﹁教母︵メール︶﹂を. ン 教 会︵ Église Saint-Simonienne ︶﹂と 命 名 し、 ﹁教 会﹂の 指 導 者 と し て﹁教. た師にならって運動体を﹁サン・シモ. て﹃新キリスト教﹄という著作を著し. ことになる。彼らは晩年に宗教がかっ. ン・シモン主義者たちに受け継がれる. サン タ =マン・バザールとプロスペル・ アンファンタンらの高弟、すなわちサ. 題を巡ってサン・シモン主義者は二つ. ところが、このレギュレーターの問. になる。. ギュレーター︵調節者︶の存在が必要. で、調整のために専門的知識を持つレ. 利害関係が起こることが予想されるの. ならない。しかし、労使対立のような. ニシャティブのもとに行われなければ. 整備は官営ではなくあくまで民間のイ. ただし、これらのシステムの確立・. 争を加速させる。. り良く、より安く、より大量に﹂の競. 作に金・銀・銅のメダルを授与し、 ﹁よ. それぞれの展示コーナーにおいて優秀. 通 を 促 す た め に 万 国 博 覧 会 を 開 催 し、. むようにする。第三はアイディアの流. 備して大衆からの小口の投資を呼び込. が不可欠である。よって、これらの証. けではなく株式や社債による直接金融. が必要だから、銀行による間接融資だ. これらのインフラ整備には莫大な資金. 速する鉄道と港湾・船舶の整備である。. によってこれを集める。. ネ、モノ、ヒトの流通・循環を保障す. して位置付けられる。富裕階級から預. の党派に分裂することとなる。すなわ. いなければならないとするアンファン. 券の流通を促すための証券取引所を整. 第二はモノとヒトの流通・循環を加. るような制度を整備すればそれでよい. かった金を国債と外債で運用するロス. ち、レギュレーターはキリスト教の神. ではいったい、サン・シモン主義と. のである、云々。. チャイルド銀行のような旧来型の銀行. 父のような宗教的カリスマ性を帯びて. いうのは、そもそもどのような社会・. しかしながら、サン・シモン伯爵は、. ではなく、未来を見据えた産業投資型 のベンチャー・キャピタルが重視され、. おのれの思想が実践に移される前に死 去したので、運動は師の意思を次いだ. 1867年、 パリ万国博覧会に 派遣された徳川昭武一行。 後列左端が渋沢栄一。 ︵所蔵/渋沢史料館︶. 第2回パリ万国博覧会の会場風景。 サン・シモン主義者たちによって 統括されたこの万博は、 第二帝政の象徴とも言われた。. 28 CEL March 2017 CEL March 2017. 29. 15.
(3) の危機に瀕するのである。そして、1. からんだことから、二つの党派は分裂. 由恋愛の可否を巡るジェンダー問題も. 主流派の間で対立が起こり、これに自. 常に早く、わずか数年のうちにフラン. てゆくのである。成果が上がるのは非. 主義的な社会改造を矢継ぎ早に実施し. オンのブレーンとなってサン・シモン. オン3世として即位したルイ・ナポレ. いずれにしろ、ナポレオン3世の強. カと並ぶ工業国へと変身する。. 国だったフランスはイギリスやアメリ. 産 業 構 造 の 劇 的 変 容 を も た ら し、農 業. 1855年に開催された万国博覧会は. ミシェル・シュヴァリエの唱導により. バブルを招き寄せることになる。また. しかし、やんぬるかな、困難な探索. は頓挫することになる。. いいが、もし、そうでないなら、仮説. 列ならば私の仮説にはまことに都合が. ら で あ る。 ﹁ク レ デ ィ・モ ビ リ エ﹂系. たのかについては不明のままだったか. ﹁ク レ デ ィ・モ ビ リ エ﹂型 の 銀 行 だ っ. な銀行、いいかえるとペレール兄弟の. たしてその銀行はサン・シモン主義的. 83 2 年に風俗壊乱の疑いで官憲が介 ス経済は劇的な成長を見せ、一気にイ 権のもとに実施されたサン・シモン主 のすえにフリュリ エ =ラールの子孫を. で行われたパリ改造は、空前の不動産. 入したこともあり、組織体としてのサ ギリスを抜き去ることになる。ペレー 義的社会改造プランは、格差拡大とい. 学 者 ミ シ ェ ル・シ ュヴァ リ エ で あ る。. ン・シモン教会は解体し、運動員たち ル銀行はロスチャイルド系の銀行と鉄 う痛みを伴いつつも短期間のうちにフ 捜しだし、フリュリ エ = ラ ー ル の 銀 行、 すなわち﹁バンク・フリュリ・エラール﹂. タンの主流派と、宗教的感情よりも理. はバラバラにそれぞれの専門分野で思 道への融資合戦から金融戦争を開始し、 ランスを先進国のレベルに引き上げる はどのような系列の銀行であったかを. 月に皇帝ナポレ. 想を展開してゆくことになる。 やがてそれは巨大なバブルへと発展す ことに成功したのである。. 彼らは1851年の. 主 流 派 の ア ン フ ァ ン タ ン の 党 派 は、 る。ナポレオン3世によって登用され. 性を優先すべしとするバザールらの反. 不 在 の﹁メ ー ル︵教 母︶ ﹂を 求 め て エ 調べ上げたところ、結果はサン・シモ. た剛腕のセーヌ県知事オスマンの主導 ン主義のペレール系の銀行ではないこ と が 判 明 し た の で あ る。﹁バ ン ク・フ リュリ・エラール﹂は主に外務省の海 外送金を担当していた銀行で、金融の. 社会改造を目標に掲げるルイ・ナポレ. き に、サ ン・シ モ ン の 著 作 に 親 し み、. 建設は遅々として進まない。そんなと. では運動に共鳴する人は少なく、鉄道. 建設の運動を開始するが、七月王政下. 銀行家のペレール兄弟を軸にして鉄道. いっぽう、バザールらの反主流派は. プランは、第二帝政崩壊でサン・シモ. よって果敢に実行に移されたこうした. ンとなったサン・シモン主義者たちに. 第二帝政期にナポレオン3世のブレー. と思うにちがいない。それもそのはず、. 社 会 イ ン フ ラ 投 資 理 論 で は な い か?﹂. 者 は、な ん だ、﹁い ま で は 当 た り 前 の. ﹁社 会 改 造 プ ラ ン﹂を 読 ん だ 現 代 の 読. さて、以上のサン・シモン主義的な. 私が解いてみたかったのは、まさに. を教えたフリュリ エ =ラールもまた﹁匿 名﹂の伝授者であったのだろうか?. あったわけである。では、渋沢にそれ. の一人がほかならぬ我らが渋沢栄一で. の、﹁そ う と は 知 ら ぬ﹂最 初 の 伝 播 者. なくなっているのだ。こうした﹁匿名﹂. 中的に実践されたということに気づか. ン主義者たちによって第二帝政期に集. である。そのため、後にはサン・シモ. ール銀行はサン・シモン主義銀行では. テ・ジェネラル系統のフリュリ・エラ. で あ る と い う 点 に お い て は、ソ シ エ. ー・キャピタルであり、預金銀行であ. に対抗するために作り出したベンチャ. ー ル 勢 力 が、﹁ク レ デ ィ・モ ビ リ エ﹂. たロスチャイルドを中心とする反ペレ. レディ・モビリエ﹂の成功に刺激され. テ・ジェネラル﹂とは、ペレールの﹁ク. の 系 列 に 属 す る。と こ ろ で、﹁ソ シ エ. 系統樹では、﹁ソシエテ・ジェネラル﹂. オ ン・ボ ナ パ ル ト が 大 統 領 に 当 選 し、 ン主義者たちが権力の座から遠ざけら この問題である。というのも、渋沢が. なかったということになるのである。. 師フリュリ エ=ラールの謎. ジプトに旅立ち、紅海と地中海を結ぶ スエズ運河の構想を太守︵パシャ、高 官︶に働きかけようとするが不調に終 わり、フランスに引き揚げる。この構 想が後にエジプト大使だったレセップ スによって実現したことは既に見た通. 1851年にはクーデターを起こして れた後も、ある意味、﹁匿名﹂で実施され、 サン・シモン型の経済システムを学ん. りである。. 全権を把握したため、元サン・シモン フランスを繁栄に導く。それと同時に、. ソシエテ・ジェネラルの設立メンバー. タラボなどが加わっていることが判明. リヨン地中海鉄道︶のバルトロニーや. ル レ ス・デ ュ フ ー ル やPLM︵パ リ・. 人、具体的にいえばリヨンの銀行家ア. ァンタンの系譜に属する銀行家や産業. ン教会の元代表者プロスペル・アンフ. のような離党派ではなく、サン・シモ. レールやミシェル・シュヴァリエなど. には、同じサン・シモン主義者でもペ. 遇を受けたのは、ペレール兄弟と経済. とに馳せ参じるが、なかでも一番の厚. 間違ってはいなかったことがわかった. ではないかという私の仮説は大筋では. ムを学び、それを日本で開花させたの. リ エ = ラ ー ル を 介 し て、外 部 注 入 型 の サン・シモン主義的社会・経済システ. というわけで、渋沢栄一は、フリュ. いうことになる。. ン・シモン主義の流れに属する銀行と. わりはなく、さらにいえば、本家のサ. ン・シモン主義の銀行であることに変. 輸出され、世界中に拡散していったの. いたサン・シモン主義的社会改造の仕. 文字通り、唸りをあげながら稼働して. 随員として参加した渋沢栄一は、当時、. れた万国博覧会に、偶然、徳川昭武の. 産業社会の基礎造りのために開催さ. ファンタン︶であるべきか、理性的合. ギュレーターが宗教的カリスマ︵アン. フ ラ ン ス の サ ン・シ モ ン 主 義 運 動 は レ. ーター︵調節者︶にあったことによる。. 主義システムの成功のカギがレギュレ. 渋沢はそのテコとなるべき原理をサ. 会をつくることだったが、フランスで、. 実力によって出世できる機会均等の社. その原点にあったのは、身分によらず. う ち に 産 業 化 さ せ る こ と に 成 功 し た。. 実化することにより、日本を短期間の. 次に国立第一銀行頭取としてこれを現. 帰 国 後 に、最 初 は 大 蔵 省 官 吏 と し て、. 組みを﹁そうとは知らず﹂に学び取り、. 日 本 に お け る 父︵ペ ー ル︶ ﹂で も あ っ. ン・シモン主義的社会・経済システムの、. と呼ばれる渋沢は、より正確には﹁サ. こ の 意 味 で、 ﹁日 本 資 本 主 義 の 父﹂. いしたのである。. ったという幸運に見舞われたことが幸. ギュレーターが同時に合理主義者であ. 渋沢という儒教的実践を内在化したレ. 決 着 が つ か ず 分 裂 し た が、日 本 で は、. 理主義者︵バザール︶であるべきかで. 日 本に資 本 主 義 を 移 植 する. ところが、さらによく調べてみると、. した。換言すれば、ペレール兄弟と異 のである。. ったのだ。いいかえると、反ペレール. 主義者たちは、ルイ・ナポレオンのも システムはこれまた﹁匿名﹂で外国に だフリュリ エ =ラールが銀行家だった ということまでは判明していたが、果. なる流れではあるものの、こちらもサ. ン・シモン主義的な銀行と株式会社の. たのである。. 1949年横 浜 市 生まれ。仏 文学 者 。東京 大学 大学院人文科学研究科博士課程修了。現在、 明 治大学国際日本学部教授。専門は 世紀フラン ス文学。著書に、﹃ 馬車が買いたい!﹄︵サントリー 学芸賞受賞︶ 、﹃ 職業別 パリ風俗 ﹄︵読売文学賞 評 論・伝 記 賞 受 賞、 いずれも 白水 社 ︶、﹃ 渋 沢 栄一 ︵ 上・下 ︶﹄︵ 文 春 文 庫 ︶、﹃フランス文 学は役に立 つ! ﹄ ︵NHK 出 版 ︶、﹃ ドーダの人 、小 林 秀 雄 ﹄ ﹃ ドーダの人、 森鷗外 ﹄︵いずれも朝日新聞出版︶ など多数。. Kashima Shigeru. 中に見出したと信じ、それを日本で適 用しようと思いたったのである。 では、なぜ渋沢は見事、成功を収め ることができたのか? 思うに、成功の原因の第一は、社会 改造のノウハウがサン・シモン主義的 システムとして﹁パッケージ化﹂され ていたことにある。だから渋沢が﹁そ うとは知らずに﹂システムを日本にア ダプトしても、ノウハウが確立されて いたため、ただカスタマイズするだけ でよかったのだ。 成功の第二の原因は、サン・シモン. 19. 30 CEL March 2017 CEL March 2017. 31. 12 当時のサン・シモン主義者たちを表す 風刺画(1830年頃)。 産業人たちの相互扶助に基づく 共同生活や平等思想が体現されている。.
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