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藤原仲麻呂の乱前後の高橋氏の動向―高橋・安曇両 氏対立の背景―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

藤原仲麻呂の乱前後の高橋氏の動向―高橋・安曇両 氏対立の背景―

著者 浅野 真一郎

雑誌名 高円史学

巻 13

ページ 80‑94

発行年 1997‑11‑01

その他のタイトル The Takahashi Clan Before and After the Riot of‑Fujiwara‑no‑Nakamaro (藤原仲麻呂)

URL http://hdl.handle.net/10105/8736

(2)

藤原仲麻呂の乱前後の高橋氏の動向

−  高橋・安曇両氏対立の背景−−

は じ め に

浅     野     真 一 郎

奈良時代の若狭国にはひとつの転機が存在した︒それは︑高橋氏出身者の補任の目立っていた若狭守に安曇氏が任じられ

たことである︒この高橋氏から安曇氏への改哲が注目される理由は︑後藤四郎氏が﹃内膳奉膳について〜高橋安曇両氏の関

︵ 1

係を中心として〜﹄の中で触れられているように︑両氏の間には以前より内膳司長官である﹁内膳奉膳﹂職をめぐる対立が

生じていたからである︒つまり︑その中央での勢力争いが御贅の員進を通じて内膳司との関わりの深い御食︵みけつ︶国・

若狭の国司補任に反映したもの︑との理解が可能だからである︒

また︑﹃小浜市史﹄はこの国司改哲について︑奈良時代後期の政界実力者・道鏡の意向が若狭国に影響を及ぼしていた可

能性を指摘されている︒その根拠として︑第一に若狭国での高橋氏から安曇氏への国司改哲の時期が道鏡の政界進出時期と

年代的にほぼ舎致している点︑第二に小浜市内にある神宮寺における考古学的成果と道鏡の神仏習合的施策に関連性が認め

られる点︑を挙げている︒しかし︑その内容は﹃市史﹄という性格上︑若狭国内で兄い出せる個々の事象の解説に力点が置

80

(3)

かれているため︑若狭国と中央政界との直接的な結び付きを示す根拠に乏しい︑と言わざるを得ない︒また︑神宮寺の例を

挙げて︑道鏡の影響を指摘し︑解釈することには若干の飛躍が感じられ︑説得力を持つものとはなっていない︒

本論文では︑まず高橋・安曇両氏の対立問題の中心である内膳司での両者の関係を整理した後︑藤原仲麻呂政権下での活

動が顕著な高橋氏の動向を越前・若狭両国で考案したい︒また︑一時期︑若狭守に葛井氏が任じられた意味にも触れ︑藤原

仲麻呂の乱前後の政局の急激な変化を視野に入れつつ︑高橋・安曇両氏の勢力推移の政治的背景を検討したい︒

一藤原仲麻呂乱前後の内膳司

内膳司長官職である内膳奉膳・内膳正の相当位は正六位上とあまり高位ではないため︑﹃続日本紀﹄中から検出される記 81

事も少なく︑すべての補任例を網羅することは難しいが︑ほぼ慣例的に高橋・安曇両氏が補任されていた︑と言って良い︒一

︵ 2

高橋氏は朝廷において食膳を司っていた膳臣につながる氏族とされ︑大勝職膳部・内膳司の負名氏の一員となっていた︒一

P

方︑安曇氏については﹃日本書紀﹄応神紀に︑海人の騒ぎを鎮めた功により﹁海人之宰﹂と称されていた︑とある︒内膳司

は他の官司と異なり︑長官職の定員を二名と定めているが︑その理由として︑両氏の古来よりの職掌が令制の中に取り込ま

れたものと推定することができる︒

だが︑奈良時代の補任状況を見ると︑天平宝字年間︑高橋朝臣広道が内膳司次官職である内膳典膳︑その後︑高橋朝臣子

老・老麻呂が相次いで内膳奉膳に補任されているのに対し︑安曇氏の補任は一例も見えず︑内晴司での高橋氏優位が感じら

れる︒ところが︑一時期︑内膳奉膳の補任記事は全く見られなくなり︑この空白期問を経た神護景雲二︵七六八︶年︑内膳

(4)

︵4︶

奉膳から高橋氏は外され︑内膳正として新たに布勢王が任じられている︒以降︑内膳奉膳の地位は一転して皇親もしくは安

曇氏によって占められるところとなり︑高橋氏出身者からの補任は宝亀六︵七七五︶年の高橋朝臣波麻呂まで兄い出せない︒

後藤四郎氏は前掲論文の中で︑﹁律令制という新しい政治組織から生れる新しい立場﹂を主張する安曇氏と﹁古き伝統﹂を

重んじる高橋氏との対立が一連の補任動向の背景にあったことを指摘されている︒

だが︑ここで内膳奉膳の補任動向と中央政界の動きとを比較して眺めると︑興味深い関連性が浮かび上がってくる︒まず︑

内膳奉膳に高橋氏のみが任命されている天平宝字年間は︑橘諸兄が左大臣を辞任し︑藤原仲麻呂の政治主導権が確立した時

期と一致している︒次いで︑内膳司への補任記事が見えない約五年間は︑仲麻呂の乱勃発後︑道鏡が太政大臣禅師・法王に

就任するなど︑仲麻呂から道鏡への政権移行期に符合する︒そして︑内膳正として布勢王が任じられた同日︑道鏡の弟・弓

削御浄朝臣浄人が大納言に桶任され︑道鏡政権がまさに絶頂期を迎えている︒

このように︑内膳司における高橋・安曇両氏の勢力変化には︑中央政界の政治動向が敏感に反映されていた︒特に︑高橋

氏は仲麻呂政権下ではその名がたびたび挙がっていたものの︑道鏡政権下ではむしろ同氏が忌避される対象となっていたよ

うに思われる︒そこで︑仲麻呂政権下で内膳奉膳を務めた高橋朝臣子老を手掛かりに︑内膳司以外での高橋氏の活動を検証

し︑当時の政治的背景が高橋氏に与えた影響について考察を試みたい︒

82

二 仲麻呂政権下の越前国・若狭国

︵ 5

高橋朝臣子老は︑天平勝宝七︵七五五︶年に越前介として同国東大寺桑原荘券に自署しているのが初見で︑以後︑天平宝

(5)

字元︵七五七︶年に正六位上より従五位下に昇叙︑同三年内膳奉膳︑同四年大勝亮︑そして同七︵七六三︶年に若狭守となっ

ている︒そこで本節では子老が国守に補任された越前・若狭両国での高橋氏の活動状況︑同氏を取り巻く環境から仲麻呂政

権との関わりを探ってみたい︒

*越前国

︵ 5

同国については︑岸俊男氏が論文﹃越前国東大寺領庄園をめぐる政治的動向﹄ の中で指摘されているように藤原仲麻呂の

影響を色濃く受けていた︑と考えて良いと思われる︒その一端は︑橘諸兄の謀反の企てを密告した佐味朝臣宮守が橘奈良麻 ︵7︶       ︵8︶ 呂の乱後に越前介となっていること︑また仲麻呂の子である薩雄・辛加知が相次いで越前守に任じられていることなどによ

く表れている︒あるいは仲麻呂の乱の経過において︑仲麻呂一党が近江国から愛発関を越え︑越前国への逃亡を図ろうとし

ていた点からも仲麻呂が越前国を重要視し︑密接な関係を保っていたことが理解できる︒

さて︑高橋朝臣子老が越前介であった当時の越前国衝の構成員を︑先ほど紹介した天平勝宝七年三月九日越前国東大寺桑

原荘券から再現すると︑

越前 守

接 大目 従五位下 □六位上 従六位上

正七位上

少目 従七位下 粟田朝臣奈勢万呂 高橋朝臣子老 大伴宿禰潔足 田

遠 史

︵ 名

欠 ︶

阿 倍 朝 臣 ︵ 名 欠 ︶

︵9︶

となる︒また︑同年五月三日同荘券には︑

(6)

史生     安都宿禰雄足

の名も見えている︒これら高橋朝臣子老を取り囲んでいる人物を個々に採ってみると︑いずれも少なからず仲麻呂との接点

を有している人材であることが分かる︒

①越前守 粟田朝臣奈勢万呂

要由朝臣奈勢万呂は︑天平感宝元︵七四九︶年越前守に補任された後︑天平勝宝四︵七五二︶年にも同守に再任されてい

︵ 川︶

る︒その間︑同国東大寺墾田地を占定し︑大伴宿禰麻呂から買得した東大寺公験にも国判を加えている︒同国東大寺領の形

成に︑仲麻呂の影響下にあった造東大寺司が大きく関与していたことを岸氏は指摘されており︑東大寺領を通じた仲麻呂と

奈勢万呂との接点が想像される︒また︑奈勢万呂は天平宝字元︵七五七︶年越前守に左中弁を兼任し︑同三年には右京大夫︑一

同五年司門衛︵衛門府︶督のまま近江国保良京宅地班給使を務めるなど︑仲麻呂政権下での積極的な活動が碓認できる︒ま 糾

た︑同族の粟田朝臣諸姉が仲麻呂の長男・真従の妻となっている︒だが︑真従が早逝すると︑諸姉は︑後に淳仁天皇となる ︼

大炊王に嫁いでいる︒当時︑仲麻呂の自邸・田村第に迎えられていた大炊王と仲麻呂との問に擬制的な親子関係を構築する

1 2

媒体として︑諸姉の立場は非常に重要であったと言えるだろう︒

その他︑粟田朝臣人成は天平宝字八年に相模守となったが︑仲麻呂の乱に関わり失脚したらしく︑一時史料から姿を消し︑

︵ 1

3 ︶

宝亀二年に至って無位から本位従五位下に復されている︒

②越前按 大伴宿禰潔足

大伴宿禰潔足は︑粟田朝臣奈勢万呂と同様︑越前国東大寺領の設定に同国操として関与していた︒また︑天平宝字二︵七

五八︶年︑仲麻呂が八道への問民苦使発達を決めた際︑東海・東山道に仲麻呂の子・久須麻呂︵藤原朝臣浄弁︶が派遣され

(7)

︵14︶

たのに並んで︑山陰道問民苦使に潔足が任じられている︒本来︑大伴宿禰家持をはじめとする大伴氏主流は仲麻呂との問に

︵ 1

5 ︶

一定距離を置き︑あるいは反仲麻呂色を明らかにして橘奈良麻呂の乱に与同し罰せられた大伴宿禰古麻呂・慈斐のような人

物も出るなど︑仲麻呂政権には好意的ではなかった︒その一方︑﹃尊卑分泳﹄には︑仲麻呂の子・刷雄と徳一菩薩の母とし

て﹁従四下伴犬養女﹂=大伴宿禰犬養女が挙げられる︒

︵ 1

6 ︶

その他︑仲麻呂の乱後︑無位に落とされた大伴宿禰田麻呂︑謀反に参加し︑近江国で斬られた大伴宿禰小薩らが仲麻呂政

権への接近を図っていたようである︒ただし︑ここで触れた潔足は仲麻呂の乱には加わらなかったらしく︑乱後の神護景雲

元︵七六七︶年に刑部大判事︑さらに因幡介︑同国守へと昇任を果たしている︒

③大目 田通史︵名欠︶

先に挙げた越前国東大寺桑原荘券では人物を特定することはできないが︑同族と思われるものに︑天平勝宝元︵七四九︶ 85

年当時︑仲麻呂家の実務を執っていた家令・田連史広浜がいる︒田連史は︑大宝律令の選定に田通史百枝・首名が加わってー

︵17︶       ︵18︶ いるなど︑文筆的才能に秀でた氏族であった︒同氏は︑後に﹁上毛野君﹂が賜姓されたため︑史料では田通史・上毛野君の

両姓で表われる︒さて︑この広浜は東大寺慮舎那仏建立に際して銭一千貿文を寄進︑また仲麻呂の乱勃発時に近江介を務め

︵ 1

9 ︶

   

   

   

   

   

   

   

︵ 2

0 ︶

ているなど︑公私両面において仲麻呂との強固な結び付きを有した人物であった︒渡辺直彦氏は論文﹃家令について﹄の中

で︑仲麻呂が自家の家司やその同族を越前・近江・美濃の国々に配置し︑勢力維持を図っていたことを指摘されており︑広

浜はその好例と言える︒

その他︑上毛野君牛蓑は美濃介・紫微少疏を歴任︑田通史難波は中衛員外少将を務め︑いずれも仲麻呂との関係を想定さ

︵ 2

1 ︶

せられる︒また︑造東大寺司において十五年の間判官の地位にあり︑仲麻呂の乱後︑無位となった上毛野君真人がいる︒

(8)

④少目 阿倍朝臣

この人物についても田遠氏同様に詳細は明確になっていない︒ただ︑阿倍氏と仲麻呂の関係を考える上で触れる必要があ

るのが︑仲麻呂の母が阿倍氏出身とされている必要である︒﹃尊卑文泳﹄によると︑仲麻呂の兄・藤原朝臣豊成と同母で安

︵阿︶倍朝臣真虎女と見えている︒

その他︑明らかに仲麻呂と近い関係にあった同族としては︑仲麻呂が国守を独占していた近江国で二年間近江介を務め︑

︵ 2

2 ︶

仲麻呂の乱後︑逆賊一党として斬殺された阿倍朝臣小路︑また先に述べた大伴宿禰潔足と同様に問民苦使として南海道使に

2 3

任じられた阿倍朝臣広大がいる︒

⑤史生 安部宿禰雄足

安部宿禰雄足については︑岸氏が緻密な論証をされているので︑ここでは詳細は述べない︒雄足の経歴は︑天平年間末よ

り天平勝宝五︵七五三︶年ごろまでは造東大寺司舎人︑その後︑越前国史生として同国東大寺桑原荘などの経営に携わった︒

しかし︑再び天平宝字二︵七五八︶年ごろには造東大寺司に戻り︑主典の地位に就いている︒このように︑雄足は造東大寺

司と越前国︑そして仲麻呂と越前国との緊密な関係を築く鍵となった人物としても過言ではない︒また︑岸氏が指摘されて

おられるように︑仲麻呂の乱前後に史料からその名が消えている点も雄足と仲麻呂との結び付きの深さを証明している︒

以上のように︑当時の越前国には仲麻呂と何らかのつながりを持つ人物ばかりが揃えられていたことに驚かされる︒これ

は単なる偶然の結果ではなく︑東大寺造営事業に対する仲麻呂の決意︑加えて仲麻呂自身の勢力基盤を固めるための意図的

な活動によるものであったと見るべきだろう︒そして︑これらの人物に固められた越前国街の中に身を置いていた高橋朝臣

子老もまた︑仲麻呂台頭の息吹を大いに感じていたと想像される︒

86

(9)

*若狭国

一方の若狭国は︑越前国に比べると仲麻呂政権の影響はさほど感じられないのだが︑一点だけ注目したい施策がある︒そ

2 4

れは︑天平宝字五年正月に美濃・飛騨・信濃按察使が設けられたことである︒これらの国は︑いずれも畿内近国︑特に大和・

越前両国を結ぶ地域を取り囲む位置にある︒しかも︑両職に任じられたのが︑それぞれ仲麻呂の子で鎮国境騎将軍︵中衛少

将︶であった藤原恵美朝臣真先︑仲麻呂の娘婿で藤原北家・藤原朝臣房前の子︑参議・授刀督の御楯であり︑按察使の設置

が仲麻呂政権の安定・維持を目的とした施策であることは明白である︒

実は︑この按察使が置かれた同日︑新たな若狭守として高橋朝臣人足が補任されている︒仲麻呂政権の意向として若狭国

に按察使が設置されたのだから︑直接国務を執る同国守となった人足もまた親仲麻呂的な人物であったと考えるのが自然で

あ る

このように︑天平宝字年間︑若狭守には高橋朝臣人足︑次いで子老が任じられていた︒同国守に高橋氏が任じられた理由 ︒

として︑これまでは前節で述べた内膳司における高橋・安曇両氏の対立が︑御費の貢進を通じて内膳司と強いつながりを持

つ御食国・若狭に反映したものであると説明されてきた︒しかし見方を変えると︑越前・若狭両国で勢力の維持・拡大を図

ろうとしていた仲麻呂の思惑に同調する形で︑高橋氏が越前介・若狭守を務めていた側面もあった︒こうした仲麻呂政権へ

の越前・若狭両国を通じた高橋氏の協力の結果︑同氏が内膳司において安曇氏に比して優位に立ち︑内膳奉膳の地位を保持

して得ていた︑と理解すべきであると考える︒

(10)

三 ﹃続日本紀﹄神護景雲二年二月芙巳条の意味

さて︑先に内膳司への補任記事には約五年間の空白があることを指摘したが︑実は仲麻呂の乱勃発後の同時期︑次の表に

示す通り︑若狭守補任記事も同様に全く見ることができない︒乱直前︑内膳奉膳には高橋朝臣老麻呂︑若狭守には高橋朝臣

子老がその地位にあり︑仲麻呂政権下での高橋氏の積極的な活動が確認できる︒しかし︑神護景雲二︵七六八︶年に両職と

も他氏に改替されている︒本節では﹃続日本紀﹄神護景雲二年二月契巳条に焦点を当て︑政治情勢の変化が高橋氏に及ぼし

た影響を考えてみたい︒

本条冒頭には道鏡の弟・弓削御浄朝臣浄人の大納言補任が記され︑法王である道鏡による政権が名実ともに確立したこと一

が窺える︒そして同日︑内膳司長官職・若狭守が高橋氏以外の人物に改替されたことは前節に触れた︒ここで注目したいの 鱒

は︑同条末に付け加えられた勅である︒

是 日

︒  

勅 ︒

准 レ

令 以

一 高

橋 安

曇 二

氏 l

任 一

内 膳

司 l

一 者

為 一

奉 膳

一 ︒

其 以

∵ 他

氏 一

任 レ

之 者

︒ 宜

名 為

レ 正

この勅は︑内膳司長官職に高橋・安曇両氏を任じる場合︑他氏を任じる場合において︑その呼称を﹁内膳奉膳﹂﹁内膳正﹂

と区別するという内容である︒それは︑呼称という形式的な面を変更したに過ぎず︑これ自体︑両氏に対する今後の取り扱

いについて特別に触れたものではない︒しかし︑実際︑この勅以後︑これまで高橋氏が関与してきた内膳奉膳から同氏が外

され︑若狭守からもその名が消え︑道鏡政権下における高橋氏の勢力後退が明らかに感じられる︒同条の高橋氏への補任記

事は︑唯一﹁従五位下高橋朝臣廣人為散位助﹂と見えるのみである︒

一方︑高橋氏と対立関係にあった安曇氏は︑宝亀元年内膳奉膳に安曇宿禰諸継が内膳典膳から昇任し︑先に挙げた内膳正・

(11)

宝     神     天                     天 年 護     平                     平 亀     景     神                     宝 雲     護                     字 七   六五二元   二元二   元八七六   五四三二元 七   七七七七   七七七   七七七七   七七七七七

時 七   七七七 七   六六六   六六六六   六六五五五 六   五四一〇   八七六   五四三二   一〇九八七 年

安高安山   安安布               高大     尚南 膳 内 奉 膳 曇橋曇     曇曇                 桶野     橋橋 浄憲広辺   諸石勢   《   孟広   子広 成 呂吉王   継成王     補       呂立     老道   任                     ( 典 記           墜

内 晴 正 事

宍雀伊   葛     空     高阿   高 姦部勢   井   白   橋 倍   橋 若 雪葉栗 蓮   期   言霊   金

百       》 守

    )

道   法道道道仲             藤   藤橘 中 央 鏡   壬鏡鏡鏡麻             原   原奈

、  官 、、 、呂             仲   仲良 下   職法太大 の             麻   麻麻 野   ・王政臣乱             呂   呂呂 に   内に大                   、   、の 政

界 の 動 向 配   竪就臣師               太   右乱 流   省任 に就               政   大

の    ′

設   任                   臣   に 置                       に   就 就   任 任

後藤四郎氏前掲論文・国司補任参照

布勢王と並んで内膳司長官職を務めることとなり︑若狭守にも安曇宿禰石成が補任されるなど︑高橋氏が慣例的に任じられ

ていた地位に抜擢されている︒このように神護景雲二年二月突巳条を期して︑内膳司・若狭国を舞台とする高橋・安曇両氏

(12)

の対立問題は大きな転機を迎えることとなったのである︒

ただし注意したいのは︑高橋氏に代わりすぐに若狭守として安曇宿禰石成が補任されたのではなく︑本節で取り上げてい

る同年二月突巳条では葛井連立足となっている点である︒やや長くなるが︑葛井氏の動向について述べておきたい︒

仲麻呂政権下の葛井氏は︑造東大寺司における活動が顕著で︑葛井連根道が主典・判官を約十五年間にわたり務めていた︒

2 5

だが︑天平宝字七年十二月︑礼部少輔中臣朝臣伊加麻呂と飲酒した際︑言語時の忌詩に捗ったとして隠岐へ配流され︑造東

大寺司を去っている︒岸氏は﹁明らかに仲麻呂の叛乱を前にして造東大寺司は全面的に改造され︑仲麻呂派から反仲麻呂派

2 5

の手中に陥って行ったようである﹂と述べられ︑道鏡・反仲麻呂派勢力による政界工作の一端であると指摘されている︒事

実︑天平宝字七年ごろ道鏡は当時造東大寺司判官・東大寺奉写経所別当の任にあった根道に対し︑たびたび写経を命じてお

短造東大寺司への関与を強めている様子が窺える︒

ところが一転して︑葛井氏は仲麻呂の乱前後から道鏡政権への接近を図るようになっている︒元来︑葛井氏は河内国志紀

2 8

郡長野郷を本拠地とする渡来人系氏族で︑この地は道鏡・弓削氏の本拠地である同国若江郡弓削郷とは地理的に非常に近い︒

そこで︑道鏡は葛井氏に対し︑地縁的関係を背景として実務能力に優れた葛井氏に積極的な協力要請をしていたものと考え

られる︒実際︑仲麻呂の乱発生の翌日には葛井連立足は反乱鎮圧の功により従五位下に叙されるとともに播磨介に任じられ︑

︵ 罰

同族葛井連根主も阿波守となっている︒

さらに︑道鏡が自らの政治権限の強化のため独自に整備した機関でも葛井氏は重職を得ている︒ひとつは︑道鏡の法王位

就任に伴い設置された法王官職において︑法王宮大進に葛井速達依が任じられている︒道依は︑当時︑称徳天皇の私的機関

とも言える勅旨大丞も兼任していた︒もうひとつは︑朝廷内の武力を総括するために設けられた内竪省である︒内竪卿に道

90

(13)

鏡の弟・弓削御浄朝臣浄人が就任している点︑道鏡失脚後︑同省が廃されている点から分かるように︑これも道鏡色の強い

機関であったと言える︒この内竪大丞には葛井連根主が任じられた︒しかも︑浄人と根主の両名は内竪省だけでなく衛門府

においてもそれぞれ衛門督・衛門大尉という同一宮司職との兼任であり︑道鏡政権が葛井氏を信頼し︑重用していたかが推

測 さ

れ る

ここで論点が外れないように整理しておきたい︒神護景雲二年二月突巳条において︑若狭守に補任されたのは葛井連立足

であった︒内膳司を通じたつながりを持つ高橋・安曇両氏ではなく︑今述べたように道鏡から一目置かれている葛井氏がわ

ざわざ若狭守に補任されたのは︑若狭国が近江・越前両国に準じて仲麻呂の影響下にあったという認識がなされていたため

と推定される︒従って立足が約四ケ月間の在任ですぐに安曇宿禰石成に改替された経緯についても︑若狭回内の情勢を見極

めた上で︑反仲麻呂の立場を採っていた安曇氏が改めて補任されたのだと理解ができる︒

このように︑神護景雲二年二月突巳条に見える内膳司に関する勅︑若狭守補任の背景には仲麻呂政権の影を消し去りたい

とする道鏡政権の意図が込められていた︒その結果︑高橋氏は内膳司からも若狭国からも職を失うこととなったのである︒

お  

わ 日

ソ  

奈良時代の越前国の情勢については︑造東大寺司と藤原仲麻呂政権の動向が深く関わっていたことが先学の研究により明

らかにされている︒一方︑若狭国での高橋氏から安曇氏への国司改菅については︑内膳司での両者の対立が波及したもので

あると説明され︑その背景として中央政界の動きまで考慮されることはあまりなかった︒

(14)

本論文では︑まず内膳司長官職・内膳奉膳の補任動向が仲麻呂政権から道鏡政権への移行と年代的に合致することを指摘

し︑越前国と似た状況が若狭国においても作り出されていたことを推定した︒そこで︑内膳司・若狭国両方で名前の挙がっ

ている高橋朝臣子老を軸に︑越前・若狭両国での高橋氏の周辺を考察︑同氏が親仲麻呂的空気の中でその任に就いていたこ

とを確認した︒さらに︑葛井氏の若狭守補任を踏まえて︑若狭国が鉱前国同様に仲麻呂政権の影響を受けていたことを証明︑

高橋・安曇両氏の内膳司での対立︑若狭国の状況変化の転機が︑神護景雲二年二月発巳条に集約されていることを結論付け

た︒

︵ 測

なお︑最後に触れた葛井連根道について︑岸氏は仲麻呂派の人物とされているが︑写経事業を通じての道鏡との接触︑道

︵ 3 1

︶ 鏡政権下での葛井氏の活発な活動などを考慮すると︑まだ検討の余地が残されているように思われる︒今後の課題としたい︒

﹇ 註

︵ ﹈

1 ︶

  ﹃

書 陵

部 紀

要 ﹄

十 一

︑ 所

収 ︒

︵2︶狩野久氏﹁御全国と膳氏−志摩と若狭−﹂︵﹃日本の古代 五 近畿﹄坪井清足・岸俊男篇︑角川書店︑所収︶︒

︵ 3

︶  

﹃ 日

本 書

紀 ﹄

応 神

紀 三

年 十

一 月

条 ︒

︵ 4

︶  

﹃ 続

日 本

紀 ﹄

神 護

景 雲

二 年

二 月

奨 巳

条 ︒

︵ 5

︶ ﹃

寧 楽

遺 文

﹄ 六

九 〇

︵ 6

︶ ﹃

日 本

古 代

政 治

史 研

究 ﹄

︑ 塙

書 房

︑ 所

収 ︒

︵ 7

︶ ﹃

大 日

本 古

文 書

﹄ 二

五 ノ

二 二

八 ︒

︵8︶薩雄・辛加知それぞれ﹃続日本紀﹄天平宝字三年十一月丁卯条︑同八年正月乙未条︒

92

(15)

︵ 9

︶ ﹃

寧 楽

遺 文

﹄ 六

九 三

︵ 1 0 ︶ 前 掲 ︵ 7 ︶ に 同 じ ︒

︵11︶﹃続日本紀﹄天平宝字二年廃帝条︒

︵12︶高島正人氏﹃奈良時代諸氏族の研究﹄︑吉川弘文館︑薗田香融氏﹁恵美家子女伝考﹂︵﹃日本古代の貴族と地方豪族﹄塙書房︑所収︶

参 照

︵13︶﹃続日本紀﹄宝亀年十一月庚成条︒

︵14︶﹃続日本紀﹄天平宝字二年正月成寅条︒

︵15︶﹃続日本紀﹄天平宝字元年七月庚戌条︒

︵16︶田麻呂・小薩それぞれ﹃続日本紀﹄宝亀二年十一月丙午条︑天平宝字八年九月奨亥条︒

︵17︶﹃続日本紀﹄文武天皇四年六月甲午条︒

︵ l

︒ 0

︶ ﹃

続 日

本 紀

﹄ 天

平 勝

宝 二

年 三

月 戊

成 条

︵19︶岸俊男氏﹃人物叢書 藤原仲麻呂︵吉川弘文館︶﹄参照︒

︵ 2 0 ︶ ﹃ 日 本 歴 史 ﹄ 二 〇 一 号 ︑ 所 収 ︒

︵21︶岸俊男氏﹁東大寺をめぐる政治的情勢−藤原仲麻呂と造東大寺司を中心に−﹂︵﹃ヒストリア﹄十五号︑所収︶参照︒

︵22︶前掲︵16︶大伴宿禰中産に同じ︒

︵ 2

3 ︶

前 掲

︵ 1

4 ︶

  に

同 じ

︵24︶﹃続日本紀﹄天平宝字五年正月壬寅条︒

(16)

︵25︶﹃続日本紀﹄天平宝字七年十二月丁酉条︒

︵ 2

6 ︶

前 掲

︵ 2

1 ︶

に 同

じ ︒

︵27︶﹃大日本古文書﹄五ノ四〇二︑五ノ四五〇︒

︵28︶佐伯清有氏﹃新撰姓氏録の研究 考詩篇五﹄︑吉川弘文館︑参照︒

︵29︶河合ミツ氏は﹁仲麻呂の乱後における国司異動﹂︵﹃続日本紀研究﹄一九九号︑所収︶の中で︑この時期の国司異動が仲麻呂一族の

任国・三関国・謀反人の配流地に重点を置いて実施されている点を指摘され︑淳仁天皇配流地・淡路国︑池田親王配流地・土佐国

周辺に位置する播磨・阿波両国への葛井氏の国司補任もこれに伴う措置であった︑と結論付けられている︒

︵30︶藤本昌子氏﹁藤原仲麻呂と道鏡−写経事業をめぐってー﹂︵﹃学習院史学﹄八︶参殿︒

︵31︶角田文衛氏は﹃人物叢書 佐伯今毛人︵吉川弘文館︶﹄の中で︑葛井連根道は疑問の残る人物で︑仲麻呂に対しどのような態度を

採っていたか不明であるとされている︒ここで参考になるのが︑葛井氏同様に渡来人系氏族である高丘連比良麻呂の動向である︒

この人物も天平宝字八年正月までに越前介を務め︑仲麻呂派に属していたが︑孝謙上皇に仲麻呂の謀反を密告し保身を図り ︵﹃続日

本紀﹄天平宝字八年九月王子条︶︑その後も道鏡政権で法王宮亮として同大進・葛井遠道依とともに活躍している︒なお︑葛井連根

道が造東大寺司判官を外された後︑同族より葛井連荒海が程無く同主典に任じられている︒

︵日生学園第;同等学校教諭︶

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