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古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承―膳氏の歴史と『高橋氏文』―

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古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承︱膳氏の歴史と﹃高橋氏文﹄︱

板垣俊一

A Legend of Ritual Cooking in Japanese Ancient Kingship

Shun'ichi Itagaki

 日本の古代王権は︑天皇を中心に多くの氏族によって構成されていた︒

氏族とは︑共同体の支配層のみが形成した政治組織であり︑かつ族組織で

うな氏族は王権内部における自氏の存在根拠としてそれぞれ氏族伝承︵神

話︶を持っていたと思われる︒その氏族伝承には︑大三輪氏の三輪山神話の

例に見られるように始祖の神と王権との関連を語るものや︑また諸氏族を

超越する皇室という聖なる中心と始祖との関連を語るものなどがあった︒ 王権の書である古事記や日本書紀に氏族の始祖を多く記載するのは︑それ

が各氏族にとって重要な事柄だったからにほかならない︒古代の氏族と言

う観念は︑その始祖を以て不可欠の条件とすると言えるだろう︒その氏族 をその氏族たらしめているのは始祖と系譜を置いてほかに無い︒始祖伝承

が大きな意味を持つ所以である︒

 大化前代に︑朝廷における氏の地位を決定したものは︑むろん観念的な

神話や伝承ではなく︑その時々の実質的な権勢や財力だったと思われるが︑ それを王権秩序の内に維持し子孫に伝えて行くためには︑始祖・系譜の観

念が重要な働きをするだろう︒そして逆に劣勢となった氏族は︑この観念 に拠って朝廷における自氏の利権を主張しようとする場合もあり得るだろ

う︒これから取り上げる膳氏︵膳臣および高橋朝臣︶は後者の例である︒

今日われわれの知り得るかぎり︑膳氏の伝承が王権の中で実質的な意味を 持った事例は︑氏姓制度の時代を遥かにくだり︑律令制度の蒔代の特殊な 例として︑負名氏伴部の旧制度が見直された平安時代初期のことであるが︑ 膳臣の枝流高橋氏が王権祭祀新嘗祭等の神事供奉の行立の先後をめぐって 安曇氏と争ったとき︑朝廷の裁定を大きく左右したのは両氏の始祖伝承の 内容であったと考えられる︒  本稿は︑律令制度の時代に︿氏文﹀という形で再生した膳氏の氏族伝承 が持っていた意味を︑古代王権とのかかわりにおいて考察したものである︒

一、

坙{書紀に記された膳氏の歴史

      かしわで  古代の宮廷において天皇および祭祀の食膳に仕えた人々を膳夫と言う︒

膳臣はこの膳夫たちを統轄した氏族であり︑﹃日本書紀﹂からは︑この氏に

関する記事を次のように拾うことができる︒

      あ へ     あ へ ▽孝元紀七年 孝元天皇の第一皇子大彦命は︑膳臣のほか阿倍臣・阿閉臣

    等七族の始祖︵古事記の孝元記では︑﹁大毘古命の子︑建沼河別命

    阿部臣等の祖︑次に比古伊那許士別命膳臣の祖﹂︶とある︒

▽景行紀五十三年十月 天皇の東国巡狩に﹁淡水門﹂で得た白蛤を︑膳臣          いはかむつかり     の遠祖名は磐鹿六雁︑胞に作り︑その功によって膳大伴部たちの

    管掌者となる︒負名氏の起源︒        あれし ▽履中紀三年十一月 磐余の市磯池での両枝船の遊宴で︑膳臣余磯が献呈

    した酒に時ならぬ桜花が浮ぶ︒これによって余磯︑稚桜部臣の姓

 1

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古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承

    を賜る︒

▽雄略紀二年+月諜作りを得意とする膳臣長野最初奥鐸となる︒

   宍人部の起源︒

▽雄略紀八年二月膳臣斑鳩︑朝鮮半島で高句麗軍と戦い新羅を救う︒       いじみ

▽安閑紀元年四月 内膳卿膳臣大麻呂︑勅命によって上総国の伊甚に真珠

    を求めしむ︒伊甚屯倉の設置︒        は す ひ ▽欽明紀六年︵五四五︶十一月膳臣巴提便︑百済で息子を殺した虎を退治

    する︒       かたここ ▽欽明紀三十一年︵五七〇︶五月膳臣傾子︑越の国に派遣されて日本へ漂    着した高句麗の使者をもてなす︒        か た ぷ ▽崇峻即位前紀︵五八七︶七月 膳臣賀柁夫︑蘇我馬子の軍事行動に参加し

    て物部守屋を討つ︒︵賀柁夫は前出の傾子と同人︒︶       はつみ ▽斉明紀二年︵六五六︶九月膳臣葉積︑大使として高句麗へ派遣される︒

▽天武紀十一年︵六八二︶ 天武天皇︑壬申の乱の功臣膳臣摩漏の病に草壁.    高市両皇子を遣わして見舞う︒また︑その死を悔やむ︒

▽天武紀十三年︵六八四︶十一月 膳臣︑大三輪君以下五十二氏とともに朝    臣の姓を賜る︒

▽持統紀五年︵六九蝉︶八月大三輪氏以下十八氏とともに祖先の墓記を上    進する︒

 最後の持統紀五年八月の条は︑大三輪氏以下︑膳部・阿曇氏等十八氏に         つざみみ ﹁其の祖等の墓記︵纂記︶﹂を上進せしめたとある記事であり︑これは日本

書紀編纂の史料となったものと考えられている︒このとき膳臣も何らかの

私記を提出したと思われ︑日本書紀にあらわれる右のような条文のいくつ かは︑膳臣の家伝に依拠するものであることが史家によって想定されてい

る︒ω  ﹃日本書紀﹄に見られる右の記事については︑欽明紀六年以前は︑史実で

なく神話的︒伝説的な記慕と見るぺきもののようであり︑古く遡るほど始

祖諏および起源諏であることが知れる︒とりわけ孝元紀・景行紀・履中紀・       あへ 雄略紀二年の四つの記事は︑饗に関する阿倍臣・阿閉臣との同族関係︑負

名氏膳臣の起源︑皇室の遊宴における献酒の役︑鳥獣の宍胸の調理に関わ       なおい  び る宍人部の起源など︑古代王権を支えた膳臣の負名氏的な職掌を裏付ける 記事と言えよう︒これらはそもそも神話的・伝説的に語られるのがふさわ しい内容である︒祖先の墓記を上進した持統紀五年︵六九一︶以前の︑六.七 世紀における大和朝廷を中心とする氏族社会での膳臣の存在根拠と利権の 保証はここにあったと思おれる︒  また右の記事を全体的に見ると︑天皇の食膳への奉仕・軍事上の功績. 外交上の活躍などが特色となっていて︑これにより古代の膳氏は軍事や外 交に活躍した大和朝廷の有力氏族であったことが知れる︒しかし︑軍事と 天皇の食膳への奉仕︑いわば武勇と調理との結びつきは意外に思︑見る︒こ れは古代的な観念の上で何かかかわりを持つ事柄だったのだろうか︒膳臣        かしわで にかぎらず一般に膳夫と称された人々の神話的・伝説的事実にはこのよう な性格が見られるからである︒  古代の遠征神話に登場する膳夫は単なる後方支援の食糧班ではなかっ た︒たとえば神武記の例に︑土蜘蛛八十建を討つための計略として︑﹁八十        ま 建に充てて︑八十膳夫を設け︑人毎に刀を侃けて﹂と︑土蜘蛛に饗宴を施 し︑敵をだまし討ちにする話があるし︑また景行記には倭建命の遠征に︑ 久米直の祖︑名は七拳脛がつねに膳夫として付き従ったとある︒神武記の ﹁八十膳夫﹂も歌謡に﹁久米の子﹂とあって久米氏あるいは大伴氏に統率 された武人久米部のものたちであり︑これらの話に軍事と天皇の食膳との 密接なかかわりが読み取れる︒ただし︑言うまでもなくこれらの物語はき わめて神話的な内容であり︑その意味もそのことを考えて理解する必要が あろう︒神武天皇の土蜘蛛退治︑倭建命の東国遠征︑これらは王権に服属 しないものたちを征服するなんらかの祭式と関係する観念を表わしたもの と推定されるからである︒  同じく刃物を使っても調理と武勇とは結びつきにくい︒﹃新撰姓氏録﹄の        ゆさおい ﹁檸多治比宿禰﹂の条には︑﹁其心勇健﹂であったことから弟を靱負に︑ま       かしわで た﹁其心如女﹂であったことから兄を膳部にしたという記事があるが︑そ うした伝承は膳氏にはなく︑むしろ逆に大伴氏の武人的性格に共通する要       は す 素がこの氏にはある︒欽明紀六年十一月条の︑百済に派遣された膳臣巴提

便が息子を喰った虎を殺してその革を持ち帰ったとあるなどは︑膳氏の武

勇を語る特徴的な伝承の例だろう︒膳臣の統轄する集団﹁膳大伴部﹂につ いては︑これを大伴連が管掌した膳部をさすとの説もあるが︑恐らく大伴

氏とは無関係で︑﹁オホキミ︵天皇︶の食膳に奉仕するトモ︵伴︶の意﹂︵日野

一2

   (83)

(3)

昭﹃臼本古代氏族伝承の研究﹄︶という説が正しい︒このことは後述の﹃高

橋氏文﹄にも見られるところで︑若湯坐連等の始祖物部の意富売布連を膳

    いわかむつかりのみこと

臣の始祖磐鹿六猫命の配下に属せしめたとある部分に︑﹁侃きたる太刀を

脱ぎ置かせて﹂とあるのは︑武人物部の武装を解いて膳夫とした︑という

意味であろう︒

 ﹃薮撰姓氏録﹄の﹁裸多治比宿禰﹂の条にいう靱負と膳部とは︑共に朝廷 に対する服属の証の意味をこめて東国・九州等の辺境の国造一族から中央

に貢進された者たちのことであり︑その貢進のされ方の一致が王権の側の

遠征と地方の服属の神話的表現の中に吸収されて︑神武記にみられるよう

な膳夫の武勇兼備となったものと思われる︒そしてまた︑地方豪族から貢

がれる膳夫と︑これを申央で管轄する膳臣とはもともと異なり︑そもそも

軍事にも長けた朝廷の有力氏族として︑天皇や祭祀の食膳に奉仕する集団

︵膳大伴部︶を統轄する利権を得ていたところに︑この氏の武勇と調理との

結び付きがあった︒

二︑日本書紀と﹃高橋氏文﹄︵第一の逸文︶との関係

       なます  日本書紀における膳臣の伝説的記事に見られる白蛤や鳥獣の宍胸は︑・日 常ふだんの食物というよりは騨種特別の食物と思われるが︑さりとて﹃延

喜式一を見ても︑例えば大嘗祭における祭祀用の食物として取り扱われて

いるわけではない︒このことをどう考えたらよいのだろうか︒

 気になるのは雄略紀二年十月の記事で︑これは﹃文選﹄﹁西京賦﹂に拠っ ていることが指摘されている︒働雄略天皇が遊猟で獲た鳥獣を野外で調理

させ群臣と共食することを望んだという箇所に︑﹁今日遊猟︑大獲昌禽獣一︒

欲下与二群臣糧割レ鮮野饗上﹂とある﹁割レ鮮野饗﹂の句が﹃文選﹄﹁西京賦﹂に

拠っているし︑﹁膳夫﹂の語もそこにはある︒これは元からあった口承の雄

略伝承を文字に改めたというよりは︑中国の古典に通じた識者が大きく関        ししひとぺ わって成立した﹁宍人部﹂設置の起源説話であると考えるべきだろう︒話        ここのナくね       あ の中にも膳臣長野および大倭国造悟子籠宿禰は海外と交流の深い氏族の者       ゐらくに たちである︒吾子籠は︑仁徳紀に韓国に派遣されたとあり︑宍胸作りの巧

みな人物として登楊する膳臣長野の出身氏族膳臣も︑斉明紀二年︵六丑六︶ 九月の条など歴史時代の記審に見られるように朝廷の外交に活躍していた 氏族であった︒          むます  このように獣肉の宍謄が古来伝承されてきた祭祀的饗宴の食物としては 取り扱われていないこと︑また獣肉を宍胸にする調理の起源が中国の古典 である﹃文選﹄によって書かれていること︑そしてその話に登場する人物 が海外の文化と接触してきた氏族の者であることなどはそれぞれ密接に関 連したことであり︑これらが自然に結び付くのは膳臣の伝承なればこそで あると思われる︒  膳臣の歴史を氏の側から記した文書︑持統紀五年︵六九一︶八月の条に記 す﹁祖先の墓記﹂は今B知るよしもないが︑さいわい奈良時代後半から平       うじぶみ 安時代の初期あたりに成立したと思われるこの氏の氏文が逸文として知ら れている︒膳臣の枝流高橋氏の﹃高橋氏文﹄である︒  論述の都合上︑三箇所残されている﹃高橋氏文﹄の逸文のうち第一の逸 文︵伴信友﹁高橋氏文考註﹄の第一章︶﹃本朝月令b六月の﹁朔日内繕司供二 忌火御飯一事﹂の条に引用されているおもな内容を次に掲げる︒

 高橋氏文云︒掛畏巻向日代宮御宇︑大足彦忍代別天皇五十三年癸亥

八月︑詔二群卿一日︑朕顧二愛子一︑何日止乎︑欲レ巡﹃狩小碓王︵又名倭

武王︶所レ平之国一︒是月︑行司幸於伊勢一︑.転入二東国㌔冬十月︑到二子

上総国安房浮島宮一︒⁝⁝原文冒頭はこう書き出され︑景行天皇五十三

年の冬十月︑天皇の東国行幸に従っていた膳臣の祖磐鹿六猫命は︑天

  かつしかの

皇が葛飾野に狩に出かけたとき︑大后八坂媛とともに仮宮で留守を

守っていた︒すると︑仮宮の海浜でガクガクと鳴く異鳥の声が聞こえ

た︒これを聞いた大后が︑その形を見たく思ったので︑磐鹿六猫命に

命じて捕らえさせようとした︒

 磐鹿六猫命が船でその鳥の近くに行くと︑鳥は驚いて他の浦へ飛ん で行った︒なおも追い掛けたが︑遂に捕らえることができなかったの

で︑彼は鳥に向かって︑﹁今後お前は陸に上がるな︒海だけを住処とせ

よ﹂と呪って帰ることにした︒        つのにザ  帰路︑船尾に多くの焦が付いてぎたので︑磐鹿六猿命は角彊の弓を       かたうゐ 使ってたちまち数匹の魚を獲た︒これを名付けて﹁頑魚﹂と言った︒

今︑堅魚︵鰹︶と呼ばれる魚である︒︵角を鉤の柄にして堅魚を釣る漁法

は.﹂こに始まる⁝割注︒︶また船が干潮に遭って渚に上がったので砂

一3−

   (82)

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古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承

         しろうむざ を掘ったところ大きな白蛤を得た︒  帰還の後これらの物を献上すると︑大后はたいへん喜んで︑これを

天皇のお膳に供えようと仰った︒それを受けた磐鹿六猫命は︑武蔵の

国造の祖鵡歩毛地︑秩父の国造の祖天上腹天下腹人等を呼んで︑謄に

作ったり︑煮たり焼いたりして盛り付けた︒そのときの様子は次のよ

うなものであった︒

  河曲の山の櫓の萎見て︑難八枚に刺し作り︑真木の藩漫

鱗誰㈱熱夢鵠舞働騒窃笥謎鎚藻罐

      ゐ   幾ぐび物を供へ結ひ飾りて︑乗輿御猫より還御り入り坐す時に供へ

  奉らむとす︒

 天皇はこれをたいへん喜び磐鹿六狛命を誉めて︑﹁これは天つ神の行

なったことでもあろう︒大倭の国は行なう事喀似て名遊負わせる国で        あま   ヨ ロ 解畷議鎌線欝孫鱗畿驕棚蕩飛講蝶麟

鹿六猫命の配下に属せしめた︒  また︑諸国から集めた人々を大伴部に編成して磐鹿六狛命に賜り︑       まくらこ 諸氏および東方諸国造十二氏の枕子を一人つつ上進させ︑これら多く

の人々が立ち並んで食膳の事にあたるよう仰った︒︵このあと続いて

原文では次のように書かれている︒︶        かへら       たにぐく   山野海河なるものは︑谷蜷のさわたる極み︑擢のかよふきはみ︑

  鰍の広物・鰭の霧・毛の荒物︑毛の霧︑讐のものどもを供

  へ︑兼摂ね取り持ちて︑仕へ奉ると依さしたまふ︒かく依さし給

  ふ事は︑朕が独りの心にあらず︑こは天に坐す神の大命ぞ︒朕が       もろとも   王子磐鹿六猫命︑諸伴諸人等を催し率ゐて慎まり勤み仕へまつれ       よ   と︑仰せたまひ誓ひたまひて︑依さし賜ひき︒㈲        み け つ        カみ  この時から︑上総国の安房の大神を御食都神と奉斎し︑若湯坐連等       とよひのむらじ が始祖意富売布連の子豊日連に忌火を鐵らせ︑つつしんで御食に供        やおとこ やむとめ え︑大八洲にかたどって八乎止古・八乎止畔を定め︑神嘗.大嘗に仕

え始めたのである︒︵以下省く︶

書き出しは日本書紀の景行紀五十三年十月の条に拠っていること明白で        ︷ あり︑朝廷の国史によった権威づけである︒しかしそのあとは日本書紀よ りも記述が詳細であり︑また独自の伝承も見られる︒そして日本書紀の記 事と比較してみると︑氏文の方がかえって古伝を伝えているのではないか と思われる内容さえある︒日本露紀の当該部分は次のとおり︒   五十三年秋八月丁卯朔︑天皇詔二群卿脚日︑朕顧一一愛子一︑何日止乎︒翼   欲レ巡司狩小碓王所平之国㌔◎是月︑乗輿幸二伊勢一︑転入二東海一︒○冬   十月︑至二上総国一︑従二海路一渡二淡水門一︒是時︑聞一一覚賀鳥之声・︒欲・   見二其鳥形一︑尋而出二海中一︒傍得二白蛤一︒於是︑膳臣遠祖名磐鹿六雁︑   以レ蒲為二手綴︑白蛤為レ胸而進之︒故美二六雁臣之功一︑而賜二膳大伴   部一︒       ︵岩波日本古典文学大系本︶  日本書紀では︑冬十月の磐鹿六庸の話はきわめて簡単に記述されていて︑ 覚賀鳥とはどんな鳥か︑また覚賀鳥の声を聞いてなぜその形を見ようと海 中に出たのか︑また白蛤をどの様にして海中で得たのかなどよく分らない ところがある︒これはおそらく︑より詳細な文献が他にあって︑日本書紀 編纂の際にその繁を削り過ぎた為と考えられる︒具体的には日本書紀編者 が︑﹃高橋氏文﹄もそれに拠ったであろう膳臣の旧記にもとついて︑景行天 皇東国行幸の記事の中に磐鹿六雁命の事績の大筋を盛り込んだ為であろ う︒ω  ところで︑雄略紀二年十月の条には︑雄略天皇が狩りで獲た鳥獣を臆に 作る者がいなかったことから暴虐をふるったとあり︑その怒りを鎮めたの は︑狩場からの帰りを待って︑胞作りの得意な膳臣長野という人物を最初 の宍人部として天皇に献上した皇太后だったとある︒このように︿天皇の 遊猟﹀︿謄﹀︿皇太后または皇后﹀の取り合せで語られる︿膳氏の話﹀は︑︑ そのまま右に引いた膳臣側の伝承﹃高橋氏文﹄の逸文に見ることができる のではないか︒すなわち景行天皇の東国巡行のとき︑狩りから帰った天皇 に行宮で留守を守る皇后が膳臣の祖︑磐鹿六雁命に調理させた白蛤や鰹を 献じたとあった︒この話は景行紀五十三年十月の条の記事に相当する伝承 であるが︑景行紀の簡略なのに比べて﹃高橋氏文﹄逸文では一層詳しく記 されている︒その事実としては景行紀五十三年十月の条に︑また内容面で は雄略紀二年十月の条に相当する話である︒﹃高橋氏文﹄が日本書紀より ずっと後世の書であり︑かつ右の逸文の冒頭や年号のある記事は正史であ

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る日本書紀にもとついて書かれていることを思えば︑逸文は景行紀と雄略

紀の記事を合わせて作為されたとも考えられるだろう︒しかし︑雄略紀の

具体的な内容が反映していないこと︑また﹃文選﹄の詞句もふまえられて いないことなどから︑雄略紀とは直接の関係が見当たらない︒従来考えら

れてきたように︑もともと景行紀の記事は持統紀五年の条に記す﹁祖等の

墓記﹂など氏の伝承によって書かれたものであったが︑後世赦めて氏文淋 作成されたとき︑今度は逆に正史である日本書紀の景行紀に従ってその文

章が整︑κられたものであろう︒その上さらに氏文の内容には景行天皇の譲

勅などヨ本書紀の記載に洩れた氏独自の伝承も見られるから︑雄略紀の驚

事はむしろ膳臣氏の伝承をもとに中国古典の知識を利用して作為されたも

のではないだろうか︒

 先に引用した氏文の逸文で語られる磐鹿六雁命の話は膳氏の始祖譲であ る︒膳臣が朝廷で﹁膳臣﹂という名を負う所以はこの始祖課にあった︒し かも以下に見るように始祖課の内容は朝廷における最も︿現在的﹀な特権

や利益に結びついているのである︒これは氏族伝承における始祖謬の一般

的な性格であり︑時間的に最も古いものとして語られる話が逆に現在の民

の在り方を主張しているのである︒その点では日本轡紀に記載される雄略

紀以前の記事の年代的前後関係はさして意味を持たない︒膳臣長野淋登場 する雄略紀二年十月の記事は膳臣の伝承に基づくものであろうし︑雄略天

皇の狩場からの帰りを待って皇太后が胸作りの得意な膳臣長野という入物

を献上して天皇の怒りをなだめたという話の︑膳臣の伝承に見られる上述 のような類話性は︑始祖謬に集約されて朝延における氏の現在を語るもの

となるのであ為︒伝説的な話の場合︑祖先の活躍が始祖の職掌を緑ウ返す

ように語られるめは不自然曹なことではない︒

    三︑﹃高橋民文﹄第二の逸文をあぐうて

 よに引朋し滝南高橘馬文﹄黎一の逸文には︑・て⁝にを璽及寮活用語星を灘 簗侮名で義舘するという顕署な特徴塑見られ墨︒これは﹃高権鶏文﹄勇華

者顔言語聾覚であう︐できるだけ口髄的蓉語⁝によ唾て薦・の古儀を蕾えよき とL彦.㎏左緯よる毒思おれる︒そゐ筆藩ほすなわち高橘民む馨で毒摯繕蓮 の覆潅雪ある︒大化前代から頭遡廷韓事け惹謄髭む倭統葡磯撃を暫う︑受 け継いでいったの轍本疏なら鍛鞍読む轟暴巽で毒ウ嚢惑難逸実馨翼き轟毒 言語感覚は︑こうし丸高誘氏の採穿魏数建彗婁と轄謬つ駆て駆蚤モ款嚢嚢 鶏する蕎橋氏茎の葵二の逸文霧濡衷蓋黍糞支妻.莚轟妻二慧舞 拡︑鉛粗磐鹿六雁命の琵と︑.こ轟を韓き支皇む譲嚢暴識参︑毒奪韓義魏嚢 嘉紀ようて氏の古転を積えようとす惹軽整慧さも範蚕著と素着警こ奪難蕪﹂ 捻教のまうなものであ摯︑む塾し謡誼む器轟範まやて霧ら数嚢§糞奪垂婁

毒勢蓮を嘉す.§命書きとなぞいる翻量母葦葉蓑毒慧費馨峯嘉難・

濁点を坤擁っ義β       一   大舞命七孟董二年款八寿︑受を塞翼邦轟毯看警貰皇郵嚢轟重慧舞馬難二義   王弐唱顯謡セ葬毯心熱琵宣奪菱遣二藤藏選毒︑置葵毒毒藩忘喪轟二轟奄﹁.蓑   皇藩大轟言ちまと宣橡く︑王予貞獲毒ヤ革慧羅さぎ蚤聲悲享土糞養乏   鐙嚢椿も︑蛮豊鑓慈悉績瀞つつま童雪書翼童魯霧豊毒灘逡︑撃奪もて︑   霧琵そ訟慧さ善と憩蕪す麹麺鍵麟韓拳む熱轟・悪糞愛護逡︑重一糞尋懇   磐毒祭竜譜職噂魂磁魯楽竜︑六藻萄毒糞織戴毒藪毒華や難慧武.擁蕪奪         も  モ  ヒ   舞魂を譜磁紀撃鼓琵華て︑春款毒象壁毒魯選乏義華も罎妻毛多孫馨蓬   賦︑蓑薩母建職母長とも土羅選脅蔓と亀談麺憩蓑墨灘塞蔑蘇糞慧難

  む も ま せ   を

        さ あ た ま   論煮癒蓑で事蕪女式轟綜訟看馨も講蓑等薄挙二遜書一︑裁麺望 ま薙蓬訟        も き さ   て穂糞愚λ等聖報交て慧裁毒も毒導ぞ舞蕪義毒羅慧.訳鋳毒馨︑素く   子孫等藩︑還嚢母馨蒙と轟と建穿も餐蓉舞てき亡義事慧戴量範訟遜拳逢   慧菰塾燕志を強え苔ズ書く霧識穆義亀聾亀謹⁝寒拳嚢撃ミ.蒙華毒寒導   亀薫く書も毒結紀べ乏毒養懇嚢と竃豊壼甚.ま叢毒弐霧毒弩象董嚢う   霧魂亀灘尭べと寧と置ミ嚢毒ご  竃毒鉢で選執轟義翼蟄書羨⁝・鍵嚢逡︑嚢羅轟護蓮農叢・巽蕪乏袴せ義尋蟄 拠老鍛る最竜武蟄な嚢護奪糞慈藍・噂義乏慧き轟毒や  選糞壺垂轟で訳鞄韓糞灘衰攣薄無畿藝蚤嚢選悉ま暮嚢麗毒嚢誰奪嚢毒更 き轟害我義鍛畿蒙曇義薬ぎ㌔︑轟叢義こ馨叢藝霧糞鑑異3㍉無毒藝誕華羅 毒華鷺遡慧糞を遺童葛.難嚢董轟摯蓮も糞蕪.轟義嚢罫蒙嚢嚢垂選蓉重藝難 莚嚢や艶邉譲塾ξ滝髭迄ζ奪曇慧馨糞簿爵奉噂糞ミζ奪ま事範諜慧禽義譲糞 無ぬ穣毒寮喜撫 羅嚢韮妻毒圭庵︑遙豊︑毫範蓑襲乳講ご撃難裏量義轟・譲難匙 奄蚤こ毒⁝羅講毎魏嚢豫︸羅く寒苺華灘褻魯義嚢範轟嘉喜

葬落嚢毒﹃叢錘巽糞肇盤;.﹂逡も塞=蓼二 韓轟奪毒轟轟一逡㍉轟義三婆

一,磐一   薫§簿}

(6)

古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承

曇両氏の争いを裁定した延暦十一年三月の太政官符を第三の逸文としてあ げているが︑今日残る膳氏の古伝は第一と第二の逸文に過ぎず︑信友のあ

げる第三の逸文は︑﹁高橋氏文﹂が書かれたその時点での氏の情況にかかわ

る文書である︒㈲つまり﹁高橋氏文一の逸文は︑最も古く遡った始祖課とそ

の氏族の最も新しい情況という両極端しか残されていないわけである︒思

うにこれはたまたまその部分だけが偶然伝わったものではなく︑残喝バく して残ったものであろう︒なぜならば︑上述のように始祖謳は氏の現在の

ためにあるからである︒平安時代初期︑氏姓の乱れをただそうと各氏に﹁本

系帳﹂を上進せしめたときの詔勅︵﹃日本後紀﹄巻八︑延暦十八年︵七九九︶

十二月条︶に︑始祖或いは別祖のみを記載し︑系譜の部分はこれを省けと

ある︒賀茂の丹塗矢神話を始祖の伝承として伝える﹃秦氏本系帳﹂の逸文 はその具体的な例であり︑これによっても氏の現在に関わる本質はすぺて

始祖諏に含まれるという認識がうかがえるだろう︒氏族の有力者の歴史上

の活躍は・その套では朝廷における職掌とは無関係なのである︒  ところで﹃高橋氏文﹂の第二の逸文にも日本書紀の記事との類似が指摘

できる︒右に引いた第二の逸文には︑磐鹿六雁命の死に景行天皇が﹁親王

の式﹂に準じて葬礼を取り行なわせたとあるが︑史実と思われる天武紀十

一年の条にも壬申の乱の功臣膳臣摩漏の病に︑天皇が草壁皇子と高市皇子 とを見舞いに遣わし︑またその死をひどく哀しんだとある点である︒さき

には歴史以前の伝説的な祖先の活躍が︑始祖の職掌をおおむね繰り返すよ

うに語られると述ぺたが︑この場合は祖先の歴史的な活躍が始祖課に重ね

られることで︑始祖課の心情的な裏付け゜を得ていると言・昆ないだろうか︒

氏族の有力者の歴史上の活躍が朝廷におけるその氏の職掌を保証する神話 に吸収された例と考えられる︒国語史の点からも第一の逸文に比ぺ︑第二

の逸文が時代的に新しい成立であり︑九世紀中頃まで下る可能性のあるこ

とが指摘されている︒ω  壬申の乱で天武方についた膳臣摩漏の活躍という史実が︑朝廷における

膳臣の利権を語る神話に結びついたと考える理由は他にもある︒  ﹃宇治拾遺物語﹄︵十三世紀頃成立︶の﹁清見原天皇︑与昌大友皇子一合戦

事﹂に︑高階氏の子孫が志摩の国守に専任されるようになったのは︑近江

朝方の追手を逃れて志摩国に来た大海人皇子︵天武︶が喉の渇きを訴えた        とき︑水を与えた恩寵によってであるという話がある︒ここに高階氏とあ       ︑ るが︑﹃国司補任﹄︵宮崎康充編︑一九八九︶によれば平安時代の史実では志 摩の国守はほとんど高橋氏の専任であるから︑﹁高階﹂の表記はタカシナで はなくタカハシと読むべきもののようだ︒㈹この高階氏を膳氏の枝流の高 橋氏とすれば︑膳氏が朝廷における自氏の利権の根拠を天武天皇と壬申の 乱に置いている例となるだろう︒志摩国守専任のことは先に引用した第二 の逸文にはなく︑そこに載るのは膳職の長︑上総国の長野淡国の長専任の こと・および若狭国のことであるが︑このうち﹁膳職の長﹂は﹃高橋氏文﹄ 成立のきっかけとなる安曇氏を退けた事件以後は︑﹃詠百寮和歌﹄︵室町時 代︶に﹁云ぜん奉膳﹂として︑﹁高橋の氏に備るつかさをは狼りにたれか望わたら ん﹂︵群書類従第五輯︶と詠まれるように︑史実として高橋氏の独占すると ころであった︒ 内膳司の長官﹁奉膳﹂は古くから膳臣の専任で赫%︑わけではなく︑例 えば天武の死に︑その積宮において膳職のことを諌したのは奉膳の職に あった紀朝臣真人であり︑供物を献じたのもこの人だっス胱閥そ勃後一偶﹁続日 麟碑騨諜壁礁蹴鮫龍雲鶴働期験禦建藤蒐物傭 為興

h卜﹂とあって︑﹁奉膳﹂を名乗る氏族が膳職に関係の深い高橋.安曇二

氏に限られてゆく︒しかもさらにこの職を高橋氏が独占してゆくのは平安

時代以降のことであり︑天武天皇の時代より遥かに後のことである︒その

ような時代の隔たりがまた氏の根拠となる伝承を生み出すには必要なので

ある︒

四︑知識としての言葉と規範︵原拠︶としての言葉

 膳臣は︑日本書紀の天武紀十三年︵六八四︶十一月︑大三輪君以下他の五十

二氏とともに﹁あそん朝臣﹂の姓を賜ぞいる︒しかしその後︑朝臣姓の膳氏は

史書に見えず︑出てくるのは高橋朝臣だけである︒﹃新撰姓氏録﹄︵左京皇

      

別︶の記事によれば膳臣に高橋朝臣の氏姓を賜ったのが前年の天武十二年

とあるが︑これは日本書紀に見えない︒膳臣は天武朝以降枝流を名乗った

高橋氏に本流の地位を奪われて行った︒前述のように天武の積宮に奉膳と

して膳職の事を諌したのが紀氏であるのも膳臣の衰微を語っていよう︒奈

良時代に入ってこの氏はかくも急速に没落していった︒そしてこの没落と

6−

(79)

(7)

膳臣が律令制国家の下級官僚を勤める儒学の家として続くこととは一体の

ことと思われる︒

 ﹃続日本紀﹄神護景雲二年︵七六八︶七月の条に︑大学の助教︑正六位上膳 臣大丘が朝廷に次のような進言をして勅許を得ている︒すなわち︑天平勝

宝四年︵七五二︶︑遣唐使に従って入唐したとき︑中国の教育施設国子監に祀

る孔子の廟に﹁文宣王の廟﹂という文字が刻まれていたので︑学生に質問 したところ︑唐王朝が孔子に与えた追詮であるという︒儒学を修める身で

これを知らずにいたことは崇徳の情に背くことだから︑日本でもこの追設

をおくるべきではなかろうか︑と︒この大丘の行動に見られる膳臣氏の性

格はこの氏が古来有する一つの側面であり︑古代宮廷の神事に密接に関わ る氏族に不似合いだと感じるのは我々の近代的な観念であろう︒古代の王

権を支・托た有力氏族ほど対外的な関係を強く有していて︑おそらくは渡来

人の文化とつながることで︑現実的な財力と政治力とを蓄えたのである︒

その一方で古代国家の中での氏の政治的地位を精神的に固める必要から宮

廷の神祭りに職分を求めたものと考えられる︒神話の世界︑王権祭祀の世

界における各氏族の祖神の活躍は︑ある時期における各氏族の現実的な財 力と政治力とを背景としていることは言うまでもない︒ただ︑そうした現

実的な背景は歴史的に盛衰をともなうため︑時代が下ると神話や神祭りの

内容と氏族の勢力との間に細擁を生み出すのである︒

 渡唐して新しい知識をもたらした右の膳臣大丘の例から見ると︑奈良時 代の膳氏は︑古い伝統的な職掌を分流の高橋氏に渡し︑高橋氏と反対に律

令制国家の中に新たな活路を見出そうとしたもののようである︒

 このほか﹃三代実録﹄巻八に載る高橋遡臣文室麻呂の卒伝︵貞観六年二 月卒︶に︑その父を﹁五経を読み︑嵯峨院に侍る﹂と記すのも膳臣が儒学

の家となっていたことを示し︑天長五年︵八二八︶︑文室麻呂の父の代に当時

名乗っていた錦部から祖先の姓に復姓を申請したとき︑本姓膳臣を願わず

高橋朝臣を求めているのは︑高橋氏のほうが羽振りが良かったためである︒

朝廷は︑高橋朝臣が膳臣と同祖であるという理由でこれを許し︑彼は高橋

朝臣を名乗って左京に本貫を持つに至っている︒

 このように︑朝臣にも改姓しなかった膳臣の本流は儒学の方面でのみ歴 史に現われるようになるが︑これは先に指摘した日本魯紀に見られるこの

氏の性格のひとつであった外交上の活躍に結び付いている︒つまり膳臣の 本流が引き継いだのは負名氏の伝統ではなく︑文字を中心とする中国文化

への関心という︑外交を通じて培われた氏の伝統であったと言えよう︒そ して儒学は漢文という文字言語にその基盤を置く精神文化だから︑膳臣の

本流は︑高橋氏が氏の根源として拠り所とした言語とはまったく異なった

言語に依拠して行くこととなる︒高橋氏が拠り所としたのは詔勅・宣命の

音声言語であった︒古来膳臣が持っていた特色のうち︿天皇および神事の

食膳への奉仕﹀︿外交上の活躍﹀の二つを別々に継承した高橋氏と膳臣と は︑音声言語と文字言語という両氏の拠り所の違いのうちにその性格を区

別することも可能である︒

 ごく大雑把な言い方として︑律令社会が文字言語の社会であり︑大化前 代の氏姓制度の社会が音声言語︵氏族伝承︶の社会であったとは言えるの

ではないか︒そのう茎尚橋氏の楊合は朝廷における利権を︑氏族社会の頂

点に存在した天皇の発したことばに置くわけであり︑そうした特殊な音声

言語に根拠を求めているのである︒これは︑天皇に関わることを天皇の発 した音声言語によって根拠づけるという︑それ自体で完結する特殊な例で

あるとも言・瓦るが︑時はすでに律令という規範としての文字によって政治

が行なわれた時代のことである︒その点でば︑たとい特殊な例としても︑

高橋氏の主張は律令髄度のものではなく︑大化前代の氏姓制・度に効力を

持った言語の在り方であると言えよう︒大王の時代であるならば︑大王の 発したことばがそのまま社会的効力を持つことは自然である︒律令制度の

時代に︑なおかつそうしたことが認められたとすれば︑それは天皇に関わ

ることに律令制度を越えた部分があるからである︒膳臣との関連では︑次

節の焚の問題などがそれに当たるだろう︒

五︑古代の王権祭祀における︵饗Vと︑︵費﹀の貢進

       あへ  次に︑膳臣の始祖の系譜が饗に関わる阿借臣・阿朗臣と同族麗係にある ことから︑古代の王権祭祀における食膳の意味について考えてみたい︒

 孝元紀には︑﹁大彦命は是れ阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々誠山君・筑紫国 造.越国造.伊賀臣︑凡て七族の始祖なり﹂とあって︑膳臣は擁倍臣を筆

頭とする七氏と同族関係にあった︒﹁阿部﹂の名の由来については︑阿部氏 が朝廷における新嘗.服属儀礼と密接に結び付いていることから︑そうし

一7−

  (78)

(8)

古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承

た儀礼の食物供献とも関琴る﹁あへ饗﹂であろう≧一ヨ・われている︒働多ハデ や・文字どおりアへ︵阿閉臣︶と称する氏と同族関係にあることから︑阿

倍氏のこのような性格はいっそう確かなことのように思われる︒00  ﹁あへ饗﹂とは客人を饗応することであるが︑たと︑託ば前出欽明紀三十一年の

膳臣傾子が越の国に派遣されて目本へ漂着した高句麗の使者をもてなした

箇所に︑﹁商麗の使に磐たまふ﹂とあり︑また古蛮記の神武記に︑﹁天つ神

の御子の命以ちて︑八十建に盤を賜ひき︒是に八十建に宛てて︑八十膳夫 を設けて﹂とあるなど︑おもに異族と見られていた者との友好のために行

なわれる点が目立つ︒これは相手が神である場合にも通ずることだろう︒

この語の意味については︑﹁神とか主とか位の高い者を饗応する﹂意だとす

る説︵﹃時代別国語大辞典︒上代編﹄︶もあるが︑畢寛︿神﹀は荒ぶるもの

として人間と敵対する可能性を持つ存在であり︑﹁饗﹂の対象となる︿主﹀

も支配と服従の関係のなかにある場合の主君である︒完全に隷属してし

まった者に﹁饗﹂はない︒  ﹁饗﹂に関することで見逃せないのは古代王権祭祀の新嘗祭であろう︒        にひ  あへ ﹁新嘗﹂の古語ニヒナへは﹁新の饗﹂の約とされるが︑天皇即泣後に初め

て行なわれる大がかりな新嘗祭が大嘗祭であり︑古語ではナホニへ︵大蟄︶        にへ  あへ の祭りであることを考えれば︑﹁新嘗﹂も﹁賛の饗﹂の約とするほうが古義 にかなっていると思う︒この祭式は天皇が神を饗応するとともに自らも饗

応を受けるという二重化された﹁饗﹂であるが︑ここでは饗応を受ける天

皇の方を問題としたい︒       お姥へ  大嘗祭の祝詞に﹁天つ御食の長御食の遠御食と︑皇御孫命の大嘗聞し食

さむ﹂云々とあるように︑この祭式の申心は大賛を食することにあった︒        まつりごと        を 古代天皇の統治を表わす古語に﹁食す国の政﹂︵応神記︶︑あるいは﹁食す

国天の下の政﹂︵宣命︶ということばがあり︑﹁食国の語は天皇の統治にかか

わる場合にのみ用いられ︑即位の宣命には必ず﹁食国天下之政﹂などと用

いられ︑万葉でもほとんど儀礼的な歌にしか用いられない﹂㈲という特撒 を持つ︒そのことから古語﹁食す国の政﹂がなんらかの祭式.儀礼を背景

として生まれた詞だとすれば︑それは新嘗祭や大嘗祭を置いてほかにはな

いだろう︒新嘗祭・大嘗祭は即位した天皇の受ける﹁饗﹂であり︑﹁饗﹂は

支配服属の関係を肉体的な次元に於いて確認する古代的な手段であったと

        ロ      の   ロ  リ       ロ   の   り      ロ  の       の 思われる︒そしてこの﹁饗﹂に供されるのが﹁賛﹂である︒﹃肥前国風土記﹄       ︵ 松浦郡轡騨郷の条に︑阿曇連百足に捕えられた島の土蜘蛛無も熱︑﹁奉﹄遣二

御蟄琶貢二御膳こことで諌罰を免れたとある︒こ藍安曇象義蟄馨

食膳の事に係わることとなった伝承の一つでもあウ︑また海産物襲慧と 服属の関係をあらわす例としてあげることができよう︒薮嘗象に葉難詳 不可欠だったが︑﹁蟄﹂には海産物なども参かっ髭︒膳臣の伝無も食物一離 ではなく海産物に係わっている点が特徴である︒景行紀の磐鹿六雁の話⁝は 自蛤の胞のみを語る︒しかし蕎橋氏文﹄では﹁堅魚﹂の調理を語ぞお り︑﹁堅魚︵鰹︶﹂は延喜式によれば大嘗祭で用いられる神への毯物であり︑ 大膳職が備うぺき食物として鉋や鮭などとともにしっか摯と説載されてい る︒このことは膳臣の伝承が王権祭祀と密接な関わりを持うている﹂﹂とを 示すものであろう︒       かしわで  カシハデという古語は︑膳夫の語義として︑食膳を整え供する人︑料羅 人の意味である︒また︑カシバは柏の葉でもあり︑古事記の仁徳記に門豊 駕ゆりをするために紀伊国へ﹁みつながしは﹂を採りに行ったとあると.﹂ろ の﹁豊磐㎞︒は神事・儀礼後の饗宴であり︑柏の葉は祭祀の盃や食盤として          かしわで 使用された︒そして膳夫もまた祭祀の食膳に奉仕する者たちの呼称でも        かしわでのムみ ありた︒古代の膳臣が宮廷祭祀の食膳に仕えてきたことの背景は﹂﹂のよ うなところに見られる︒  また︑支配と服属の問題についても︑伴信友が︑﹃高橋氏文㎞に﹁諸氏人︑ 東方諸国造十二氏の枕子﹂を磐鹿六雁命にあずけたとある点を取り上げて︑  ﹁国造等の背奉らざらむ御こムうしらひにて︑おのつからの質のごとくに

て︑進らせたまひたりしにもやありけむ﹂︵﹃高橋氏文考註﹄︶と言ったよう

に︑東国の国造をはじめ諸氏は服属の意思表示として蟄の貢進とさらに天

皇の食膳に仕えること︑すなわち﹁饗﹂に通ずる行為を要求されたことが

膳臣の伝承から知れるのである︒  膳臣氏は安曇氏と並んで大化前代の大王の時代から︑天皇の食料を調達

し︑それを調理し︑供膳してきた氏族だった︒厳密に言えばそのような食        かしわで 膳にかかわる事︑すなわち諸国の蟄の貢納や膳部の管理をしてきた氏族

だった︒働  膳臣が律令政治の時代になってもなお古代的な性格を保っていたのは︑

いわぽ﹁食す国の政﹂という大化前代からの古い祭祀の世界に氏の存在根

…一 W

 (77)

(9)

拠を得ようとしてきたからである︒﹁食す国の政﹂に関わる蟄については︑

これが一切律令に規定されていないこと︵鬼頭清明﹁律令制と木擁−支配の

ための道具11文字﹂︶が特徴としてあげられ︑まさしく律令制度に組み込ま

れなかった古い伝統的な制度であった︒

 なおまた︑膳氏と安曇氏が大和朝廷で二氏同じ職掌にあったことにも古

代的な意味があるだろう︒﹃高橋氏文﹄に見られるように膳氏は上総・安房

の東国と深い関係を持つが︑これと対臆的に安曇氏は九州・瀬戸内海など

西国を勢力範囲とする︒さらにまた高橋氏が国司を世襲した志摩国は大和         み け の東方にあって﹁御食つ国﹂と呼ばれ︑古来朝廷に蟄の貢納を行なってき

た代表的な±地であったが︑これとまた対蹄的に大和の西方に位置する﹁御

食つ国﹂は淡路であり︑淡路島はまた安曇氏と密接な関係にあった︵狩野

久﹁御食国と膳氏﹂︑角州書店﹃古代の日本﹄5︑一九七〇年︶︒東西の代

表的な﹁御食つ国﹂志摩・淡路それぞれに密接な氏族が祭麗と天皇の食膳 に仕えたわけだが︑とりわけ神事である新嘗祭に両氏が関わることは︑大

嘗祭に用いる新穀を出す悠紀・主基二国のト定が東国・西国に分かって行

なわれたことと同様の神話的意味があったと考えられるのである︒志摩も

淡路も︑貢納する賛は海人たちの海産物である︒海産物は日本人にとって

重要な食物だったから︑朝廷の大祭にその代表的な生産地が何らかの関わ

りを持つことは当然考えられよう︒

︹注︺

 ω 坂本太郎﹁纂記と臼本書紀﹂︵﹁臼本古代史の基礎的研究﹂所収︶︒

 ② 日本古典文学大系﹁日本繊紀﹂上︵喘九六七年︑岩波魯店刊︶頭注︒

 ㈲景行天皇が磐鹿六猫命の料理を誉めた部分からここまで来ると︑会話で

  進んできた文が次第に祝詞式の文に変わる︒ここは御食都神としての安房

  の大神を祀るときに唱えられた祝詞ではなかったか︒そして︑その祝詞の

  前の部分が︑B本書紀の記事からの連続のために︑膳氏の古伝がそれに合

  うように魯き改められたものとも考えられる︒﹃高橋氏文﹂が自玩のわずか

  な伝承をもとに全体を捏造したものとは考えにくい︒逸文にうかがわれる

  祝詞の如きものや︑蟹注に﹁大膳職祭神﹂とある神祭りのときに唱えられ

  た詞の如きものが膳臣に伝えられており︑それをもとにしたと思われる︒        や を と ニ や を と       め   また︑氏文の下文に出る﹁八乎止古八乎止嘩﹂の牽仕は︑その八の意味︑  また宮内式の記寮︵八男八女︶・大嘗祭式の﹁御膳入神﹂などの由来を語る  貴重な文献であり︵﹁薪撰臼本古典文琿四﹂三七二頁参照︶︑これによって  も内容釣な古さを確認できる︒   なお︑﹃高橋氏文﹄のテキストは﹁校註日本文学大系・第一巻﹂︵一九二  七年刊︶所収のものを参照した︒ ω 岩波日本古典文学大系﹁日本書紀﹂補注︒ ㈲ この件︑拙稿﹁高橋氏文﹂︵勉誠社近刊予定﹁古代文学講座第十一巻﹂灰  収︶で既述︒ ㈲ 勝田勝年﹁高橋氏文に関する一考察﹂︵﹁立命館文学﹄2−1︑一九三五年  一月︶は︑延暦十九年の﹁丹生祝氏文﹂と比較して︑今日知られている逸  文のほかに始祖磐鹿六雁命と当時の氏人を結ぶ系譜があるぺきだと考えて  いる︒朝廷における利権の正統性をめぐる対他氏︵安曇氏︶との争いの他に︑  もうひとつの問題として氏族内部の族長権の継承の問題があり︑それは始  祖以来の系譜として解決されるものであるからもっともな意見であるが︑  ﹁氏文﹂とは覇廷における自氏の伝統的職裳を根拠付けるための文魯であ  り︑そのためには強いて系譜を必要としない︒ ω 小谷博泰﹁高橋氏文の筆録年代にっいて﹂﹃甲南大学紀要︒文学編﹂17︑  一九七四年︒ ㈲ これについて吉村茂樹﹁国司制度に於ける志摩守の特殊性﹂︵﹁歴史地理﹂  一九三三年七月︶は︑﹁宇治拾遺物語に伝へてゐる商橋玩が志摩守を世襲す  るに至つた話は︑高橋氏が天武天皇の頃︑この地方の豪族であつた事をう  か蟹ひ得ると共に︑また商橋氏と志摩守との関係を無理なく説明したもの  と見る築が出来やう﹂と述べている◎ 紛 志田諄一﹁古代氏族の性絡と缶承﹄一九七二年︑一二八頁︒

ΩΦ @阿倍氏は︑斉明朝に船師一百八十艘を率いて蝦夷㊤を討ち︑同七年に百

 済救援軍の将軍になっているから︑翼本海の海人たちを支醗したと思われ

 る︒

紅分 @日本思想大系本﹃古壌記﹄一九八二年︑岩波轡店刊︑補注︒詞書補淺江

 また︑﹁律令以前の地方豪族の大王への従属は御賛︵ミニへ︶の貢進を媒介と

 するもので︑毎冬霞造級首長によって食物の獄上を象徴する胆属儀礼淡宮

 廷においてくりかえされたと推定できる︒食国の語は右の鶴礼を背景に戒

 立したと考えられる﹂とある︒

一9−

  (76)

(10)

ω なお︑津田左右吉︵﹁B本上代史の研究﹂一二頁︶説に︑本来は膳臣氏は  大膳の調理者であり︑安曇氏は食物の供給者であったどもいう︒また︑膳

 臣と阿閉臣との役割分担については︑﹁膳臣が供膳によって天皇の側近に奉

 仕したと考えられるのに対していえば︑阿閉臣は古く神をまつる饗宴の察

 をもって牽仕したのではないか﹂︵日野昭﹃日本古代氏族伝承の研究﹂三六

 二頁︶との説もある︒

古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承

︹付記︺

本稿は︑拙稿﹁高橋氏文﹂︵勉誠社近刊予定﹃古代文学講座第十一

巻﹄所収︶を受けて︑前稿では紙面に限りがあったため考察しきれ

ない部分をとりあげ︑その不足を補う意味で忠いた拙文である︒

       ︵国際教養学科︶

一10

  (75)

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