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高橋虫麻呂の「菟原処女が墓を見る歌」

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(1)

歌」は、 菟原処女伝説を基にした歌である。 "i うなひをとめ 井せて短歌 菟原処女が墓を見る歌一首 あしのや うな0をと" やとせ•) かた“ t"な 葦屋の菟原処女の 八年子の片生ひの時ゆ 小放りに髪たくまで つゆふ ・』し ぴ居る家にも見えず 虚木綿の隠りて居れば 見てしかとい ぶせむ時の 垣ほなす人の問ふ時茅淳壮士菟原壮士の 伏屈焚 負` U さたら しら さすすし競ひ 相よばひしける時は 焼大刀の手かみ押しねり 2 ゆみ

"8

さは 真弓収取り負ひて 水に入り火にも入らむと 立ち向ひ競ひし時に ゎぎも•) *ゑ あらそ 我妹子が母に語らく しつたまきいやしき我 が故 ますらをの争 よみ ふ見れば 生けりとも逢ふぺくあれや ししくしろ黄泉に待たむと らの をとこ こし しku しも 屈り沼の下廷へ霞きて うち咲き妹が去ぬれば 茅淳壮士その夜 つつ “( うなひをと・』 あのあふ 天仰 いめ 夢に見 とり続き追ひ行きければ 後れたる菟原壮士い つら ぎ叫ぴおらぴ 地を踏みきかみたけぴて もころ男に負けてはあら t"i 懸け侃きの小大刀取り侃き ところづら

e

め行 きけれ じと 痰葉集巻九挽歌の最終歌、 高橋虫麻呂の「菟原処女が墓を見る

高橋虫麻呂の

(一八 i-) この歌にうたわれてい る菟原処女伝説は、 次のような骨子を もっている。昔、 摂津国菟原地方に一人の娘が美しく生い育った。 多くの男が求婚したが、 中で、 和泉国の茅浮壮士と地元の菟原壮 士が最後まで激しく競い合った。 その要争いの渦中、 処女は自殺 し、 二人の男も後を追った。後日身内の者たちが、 三つの墓を並 ペ造った(この骨子は「大和物話」一四七 段の菟 原処女伝説においても 同じ。 ただし細部においては述いがあ る。 このこと後述する)。 いわゆる要争い伝説の型を踏むこの悲しい話 は、 当時広く知ら Uか うへ .』 えなび らぬをと・ 墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅浮壮士にし寄りにけらしも うがら っピ るし 親族どちい行き集ひ 長き代に標にせむと をとわはかなか をと・』はか 女墓中に造り盤き 墓このもか のもに 0も 緑聞きて 知らねども新喪のごとも 哭泣きつるかも 遠き代に括り継がむ e4 造り但ける故 (一八0九) 反歌 あしのや うなひをとめ “くつき ( h 葦屋の菟原処 女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ

「菟原処女が墓を見る歌」

(一八一0)

(2)

・れ ていたらしい。同じ伝説を姐材にした歌が集中ほかに二首ある。 田辺福麻呂集歌(9-八011 三)、 大伴家持作歌(19四ニ―― ー三)がそれだが、 いずれも伝説そのものの叙述は少なく、 右の 筋立てを周知のものとしそれを前提にしてうたわれているように 見受けられる。 それに比べると、 虫麻呂の長歌は、 いっそう豊かに伝説の内容 をうたっていると言っていい。冒頭初句から事件の描写が始まり、 それが、「故縁開きて知らねども新喪のごとも哭泣きつるかも」 と結ばれる直前まで、 実に六九句も続くのである。 しかもその六 九句は時を追い筋を追って、 処女、 二人の男たち、 さらには身内 の行為をも、 まことに躍動的に活き活きと描き出している。 かと言ってしかし、 長歌反歌を連院する―つの作品として読む 限り、 一首をうたう虫麻呂の究極のねらいが、 登場人物のそれぞ れの行為、事件そのものを語る点 にあ った(通説)とは考えにく いように思われる。 長歌末尾の「故縁開きて知らねども新喪のご とも哭泣きつるかも」、 第一反歌の「菟原処女の奥城を行き来と 見れば哭のみし泣かゆ」の表現によって明らかなよう に、 この作 品において虫麻呂は、 募造りの縁起を開き、 処女墓を見てもよお した悲しみの情をうたおうとしたのであり、 その悲しみの根幹は、 反歌二首の表現のとおり、 伝説 の主人公菟原処女に置かれている と見るべきではあるまいか。すなわち、 虫麻呂は、 処女に対する あわれみを表出すぺ く、 伝説の骨子を かりて、 この長歌をうたっ はじめに長歌を見る。 長歌は全体一文でなっているけれども、 処女生前のことをうたう部分(日頭から「うち嘆き妹が去ぬれば」ま で)と、 処女 死後のことをう たう部分(「茅沖壮士その夜夢に見」以 下)とに大別できる。 論の便宜上、 前者を長歌前半部、 後者を長 歌後半部と呼ぶ。 長歌前半部において虫麻呂は、 冒頭に伝説の主人公「茉屋の菟 原処女」の名を提示し、 彼女が人目にふれずひそやかに生い育っ たこと、 多くの男たちが要問いし、 中で茅浮壮士と菟原壮士が激 しく競い合ったことをうたい、 そういう「時」のこととして、 女が死に行く場面をしみじみとうたいあげている。 我妹子が母に語らく しったまきいやしき我が故 見れば 厖り沼の下延へ殿きて うち嘆き妹が去ぬれば 首うまでもなく、 これ が長歌前半部のもっとも大切な部分である。 菟原処女は母にこう語っている。 「取るに足りない私のために、 立派な男子が争っているのを見ると、 たとえ生きていたって結婚できそうにありません。 だから、 黄泉の 生けりとも逢ふぺくあれや ししくしろ黄泉に待たむと

黄泉に待つ処女

ている のではなかろうか。 本稿は、 こうした視点 から、 虫麻呂の「菟 原処 女が蕩を見る 歌」がもつ意味を捉えようとする ものである。 ますらをの争ふ

2

(3)

国でお待ちしたいと思います」 .この雪業によって、 処女 が死に行く理由がわかる。処女は誰かに 恋をしていたのである。 けれど、 要争いのすさまじさを見て、 の世では結婚できないと判断し、 黄泉の国でその人を待とうと決 意した。 処女の死は、 単なる現実からの逃避ではない。「黄泉に待たむ」 という稜極的な側面をもち、 黄泉の国でその人と逢 えるかもしれ ないという期待と願望とを含んでいる。 このことは、 つづく長歌 後半部を読む上でまことに煎要な意味をもつものと思われる。 歌前半部をもって、 処女はこの世という舞台から去っていくわけ だけれども、 恋する人に逢えるかもしれない期 待と願望を抱いた まま、 黄泉の国なる別の空間で、 彼女は依然として待機している からである。 そしてもう一っ、 見落としてはなら ないことがある。処女は心 のうちを母に語っているけれ ど、 もっともJlf心のはずの、 黄泉の 国で待とうとする男の名を口にしてはいないということ だ。 この こともまた、 長歌後半部を展開させるための布石になっているに 違いない。 以上のことを踏まえた上で長歌後半部を見る。 虫麻呂は、 まず ①茅洛壮士その夜夢に見 とり絞き追ひ行きければ とうたう。うたっているのは茅浮壮士のことなのだが、 諸注釈宙 が指摘しているとおり、「茅浮壮士その夜夢に 見」とうたうこと ら尋め行きければ 「後れたる菟原壮士い」という一句によって、 一方の菟原壮士は、 茅浮壮士とは違い、 処女の思いを夢に見ることができなかったこ とがわかる。 と同時にそれは、 処女の恋心が茅浮壮士だけに寄っ ており、 菟原壮士には寄っていなかったということを無理なく連 想させる。 もころ男に負けてはあらじと 懸け侃きの小大刀取り侃き ②後れたる菟原壮士い 天仰ぎ叫ぴおらぴ ところづ 地を踏みきかみたけぴて (15三六四七) というように、 相手が自分のことを思っているときにその相手をI) 夢に見る、 と考えていたからである。 そうした上で虫麻呂は、「とり按き追ひ行きければ」とうたい、 黄泉の国で待っ処女の願いが、 その夜のうちにかなったというこ とをほのめかしてい るように思われる。 つづけて虫麻呂は、 要争いを演じたもう一人の人物、 菟原壮士 のことをうたう。 わざしこ ひとよ n 我妹子がいかに思へかぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる 4六三九) によって、処女が恋していたのは、 茅浮壮士であったということ を、 聞き手・餃み手にそれとなくさとそうとしたのではないかと 考えられる。腐薬びとは一般に、 いめ 我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ森ねらえずけれ

(4)

碑葉ぴとがもつ夢の発想方法 からすると、「後れたる菟原壮士 い」とうたわれた段階で、 菟原壮士はすでにみじめな恋の脇役に 成り下がっているのではなかろうか。けれども彼は、 それを許さ ない。 そしてそのとおりの役どこ ろを見事に演じてしまうのであ 後れをとった菟原壮士は、 天を仰ぎ、 叫ぴ、 地団駄を踏んで、 歯ぎしりをしてくやしがり、 茅淳壮士なんかに負けてはいられな いと用意周到自慢の太刀を腰につけ、 宿敵に向う戦眺態勢を整え て、 黄泉の国を昂ねていった。 この 菟原壮士の黄泉国訪問は、 でに茅淳壮士と共にいる菟原処女にとっ て、不仕合わせなことこ の上ない。要争いを逃れて黄泉の国で待機していた処女 は、 これ によって再び、「ますらをの争ふ見れぱ」「逢ふぺくあれや」とい う状況の中に身を霞くことになるはずだからである。黄泉の国に いる処女に、 そうした不幸がふりかかるであろうという想像を、 虫麻呂は②を通じてうながしているのではなかろうか。 このように虫麻呂歌においては、 この世で繰り広げられた要争 いが、 黄泉の国 にもちこされるようにうたわれており、 そしてそ れが、 話の展開をいっそう豊かにし、 かつ処女の恋の悲劇性を高 めているのではないかと考えられる。一 方、 こうした巧みな伝説 の語り口が、 虫麻呂が聞いた口頭伝承においてすでに行われてい たかというと、 その可能性は低いように思われる。 ちなみに「大 和物語」一四七段の該当部分を掲げてみると、 (女の親〉 …「申さむと息ふ給ふるやうは、こ の川に浮きて侍る水烏を射たま へ。それをいあてた まへらむ人にたてまつらむ」といふ時に、 二人の男) 「いとよきことなり」といひて、射るほどに、一人は頭のかたを射 つ。今一人は尾の方を射つ。 当時いづれといふぺくもあらぬに、女 思ひわづらひて、 い(た すみわぴぬわが夕投げてむ津の国の 生田の川は名のみなりけり ひら"り とよみて、この平張はかはにのぞきてしたりければ、づぶりとおち いりぬ。親あはてさはぎの、しるほどに、このよばふ男二人やがて おなじ所におちいりぬ。一人は足をとらへ、いま一人は手をとらへ て死にけり。

...

のようであり、 黄泉にまつわる表現は―つも見られない。 この世 で繰り広げられた要争いが、 黄泉の国にもちこされるというよう な話の展開は、 虫麻呂の創作によって生み出されたものなのでは あるまいか この ように考える 本稿にとっ て、 小烏憲之「 伝説歌の表現」 (「上代日本文学と中国文学 j 中)の考察は興味深い。『玉台新詠」 巻一に「為二焦仲釘要一作井序 」と題する無名人の作がある。小 吏焦仲卿の要

oo

芝が姑によって家を追い出され、 実家で再婚を迫 られたので入水し、 熊仲卿もこれを聞いて綬れて死ぬ、 という悲 話に基づく詠だが、 小島説によれば、 虫麻呂は、 この無名人作の 表現を思い浮かぺつつ一首をうたっているのではないかという。 虫麻呂歌における黄泉国の鐸台設定は、 菟原処女が言った「黄

(5)

泉に待たむ」という言葉を通してなされているわけだが、 小島説 .がその論拠のーつに挙げているとおり、 処女が言った「黄泉に待 たむ」と同想の 表現が、 無名人作の中にあ る。妾蘭芝が夫に向 かって言った「黄泉下相見 J がそれである。 虫麻呂はこの言葉に 箔想を得、 菟原処女の言業の中に「黄泉に待たむ」という一句を 取り入れたのではなかったか。 そして、 その一句を取り入れたこ とが、 すなわち長 歌後半部をうたう虫麻呂の確固たる足場となり、 茅浮壮士、 菟原壮士が死に行く様子を、 彼独自の語り口でうたう ことを可能にしたのではないかと考える。 とえば、 茅淳壮士が死に行く 様を、 虫麻呂はこのよ うに たっていた。 茅沖壮士その夜夢に見 とり絞き追ひ行きければ 茅浮壮士の死を表現する部分であるにもかかわら ず、 この描写に は、 一人の男が命を絶ってしまったという重い印象がない。茅浮 壮士の死を、 虫麻呂がかように端的に、 軽やかにうたうことがで きたのは 当然のこ とながら、「 黄泉 に待たむ 」という一句に よって、 その死の行く先に菟原処女が待っているという設定がな されているからである。 この想定なくして茅浮壮士が死に行く様 子を語ろうとすれば、 おのずとそれは、 何かしらの悲協感をとも なった語り口になるに違いない。 そしてまた、 虫麻呂は、 菟原壮士が死に行く様子を次のように うたっていた。 天仰ぎ叫びお らぴ づら尋め行さければ この描写によって、 この世で繰り広げられた要争いが黄泉の国に もちこされるのではないかという想像が喚起されるわけだけれど も、 そもそも黄泉の国に菟原処女と茅浮壮士がいるという明確な 前提がなければ、 あるいはまた、 死んだ 後にもなお戦うことがで きるだけのはっきりとした鐸台が設定されていなければ、 菟原壮 士の死に行く様子が、 かような形で語られることはなかっただろ うと思われる。 だとすれば、 菟原処女の言葉の中に「黄泉に待たむ」という一 句が取り入れられたことは、 虫麻呂歌にとってまことに大きな意 味をもっていたことになる。その一句が、 茅淳壮士・菟原壮士が 死に行く様を独自な語り口でうたうことを可能にし、 さらには、 この世で繰り広げられた要争いが黄泉の国にもちこされるという 話の展開をも、 招来したのではないかと考えられるからである。 虫麻呂歌に見られる話の劇的な展開が、 こうした道筋を経て果た されたのだとすれば、 それはまさしく、 虫麻呂の創作によって生 み出されたものと言うことができるであろう。 いずれにせよ、 長歌後半部②の部分をもって、 伝説の主要な登 場人物は、 すべて、 この世という鐸台から姿を消し、 黄泉の国へ と移行する。 そして最後に虫麻呂は、 この世に残された身内の者 もころ男に負けてはあらじと 懸け侃きの小大刀取り侃き ところ 後れたる菟原壮士い 地を踏みきかみたけぴて

(6)

この点について見れば、

たとえば福麻呂集歌では、

いにしへのますら壮士の

相競ひ妻どひしけむ

茨歴の菟原処女の

“くつさ

奥城を我が立ち見れば

処女墓中に造り個き

長き世の開りにしつつ

後人の偲ひにせむ

並ぶ一__つの募

この世に残された身内の者たちは、

三つの墓を並ぺて造った。

それを虫麻呂は、

次のようにうたう。

③親族どちい行き集ひ

壮士慕このもかのもに

造IJ罷ける

この部分は従来あまり注目されることがなかった。

けれども、

の墓造りがもつ意味は、

歌の文脈にそくして今一度考えてみる必

要があるように思う。

というのは、

虫麻呂は、

親族たちが処女墓

を中心に男たちの墓を左右に分けて造ったと、

その過程をことさ

らていねいにうたい、

結果、

三つの墓が妾

争いの形そのままに並

ぴ造られたということを

ことに印象深く表現しているからで

ある。

長き代に標にせむと

遠き代に語り継がむと

ちが、

三つの墓を並べ造ったことをうたう。

もちろんこの塙造

りの様相は、本来の伝承においても同様に語られていたことであ

り、

事実三つの墓はそのように並んで存在するのであり、

虫麻呂

の創作というわけではない。

しかし、

述ぺてきたような話の展開

の上に立って見るならば、

その墓造りの様相も、

一種独特な意味

をもたせてうたわれているように思われるのである。

9-八0

I}

玉枠の道の辺近く

岩構へ造れる塚を・・・

というように、

家持作歌では、’

"くつA

・・・奥城をここと定めて

後の世の間き継ぐ人も

いや遠に偲ひにせ

つげ をぐし

よと

黄栂小梢しか刺しけらし

生ひて靡けり

(19四ニ―-)

というようにうたわれており、

三つの硲が並ぴ造られたと

いう事

実についての描写がない。

三つの幕の並ぴ方に触れることなく、

福麻呂は塚の位箇と構築方法に箔

目し、

家持は宵空の上に刺された

黄楊小櫛を取り上げて、

伝説上の墓造りをうたっているのである。

一方虫麻呂は、

三つの墓の並ぴ方を正面きってう

たっている。

すれば、

虫麻呂歌においては、

三つの幕が並ぴ造られたというそ

の事実こそが直要な意味をもってい

る、

と考えるべきではなかろ

ならば、

その事実は、

虫麻呂歌においていかなる意味をもって

うたわれているのか。

長歌前半部からの展開を踏まえて見るなら

ば、

三つの墓が並ぴ造られたことは、

悲恋のヒロイン菟原処女に

とって、

またしても不幸なことなのではあるまいか。

処女はひそ

かな恋心を抱きつつ、

この世でも、

黄泉の国でも、

要争いの渦中

から逃れること

ができなかった。そしてつい

に、

袋の中にこもる

ときにも、

要争いということから逃れられず、

恋する人と一緒に

まつられることがなかったからである。

③を通じて虫麻呂が表現しようとしたことは、

つまり、

三つの

墓が並ぴ造られたことによっ

て、

処女の悲恋が、

その宵年の中に永

(7)

遠に封じ込められたということではなかったか。 だとすると、 .. 歌の末尾で虫麻呂が、 、 、、、、、 故緑聞きて 知らねども新喪のごとも 哭泣きつるかも とうたう理由が、 さらに第一反歌で、 、、 、、、、 来困の菟原処女の奥城を行き来と見れば 哭のみし泣かゆ -2) とうたう理由が、 よくわかるように思われる。 虫麻呂歌における三つの墓造りがもつ意味を以上のように捉え るとき、 注目さ れるの 三つの墓を 並ぺて造るその理由 が、 「長き代に標にせむと遠き代に語り継がむと」というように明瞭 にうたわれていることである。 親族たちは、 末長く一連の事件の 証拠を残そう、 遠い将来まで この出来事を語り 継いで いこうと考 えた。 三つの墓を並ぺて造る、 これはまったき理由である。 一方、 作者虫麻呂の側に 立つならば、 三つの墓を 並ぺて造る理由は、 承段階でそう語られていたにしろ、 そうでなかったにしろ、 いず れこのように明際にうたっておく必要があったのではないかと考 えられる。 この理由が明瞭でなけれ ば、 要争いという処女にとっ 、、、、、 ての悲劇と彼女の恋心とを知っている虫麻呂歌の開き手・読み手 は、 三つの蕩を並ぺて造る親族たちの行為を納得しないと思われ るからである。 いったい古代に限ったことではないが、 人の心の奥には、 死し た後、 愛しい人と同じ所に籠りたいという願望、 ある いは そうさ せてあげた いという思いがひそんでいるのではなかろうか。 「日本苔紀」神功皇后元年二月の条に こういう記事がある。 あた すで 1 是の時に適りて、 昼の暗きこと夜の如くして、 已に多の日を経た り。時人の日く、「常夜行くなり」といふ。皇后、 紀直が祖豊耳 のた 9 しる 9 に問ひて日はく、「是の 何の由ぞ」とのたまふ。時に、 g あづなひ 老父有りて曰さく、「伝へ圃かく、 如き怪は、 阿豆那比の罪と いひ 而ふといへり」とまをす。問ひたまはく、「何の開ぞ」ととひたまふ。 -』た 1 U ふり あわせはぷ 対へて日さく、「二社の祝者を` 共に合葬れるか」とまをす。 lを しの Uふ n しらさと りて巷里に惟問はしめた まふに、 一人布りて曰さく、.「小 竹の 9C 2 と天野の祝と、 共に菩友たりしに、 小竹の祝` 病に逢ひて 死りぬ。 いさ 天野の祝血泣ちて日く、「吾はも、 生けりしときに交友たりき。何ぞ 1 ばね Uとり 死りて穴を同じくすぺきこと燕けむや』といひて、 即ち屍の側 あわせはぶ に伏して、 自ら死りぬ。仇りて合葬りつ。 近し是か」とまをす。 2` }と かれ 2 たひとさ hのb“"b 及ち墓を開きて視れば尖なり。 故、 更棺攘を改めて、 ぅづ ひかりかかヤ ひるよる 異にして埋む。則ち日の騨柄煤きて 日夜別有り。 この場合は男同志の間柄だけれ ど、 天野の祝は、 はっきりと友人 小竹の祝との合葬を望んだのであり 囲の人々はその望みのと おり、 二人を合葬していたのである。 こういう記事もある。 天且、 許したまはずして、 火を縦けて宅を燐きたまふ。 是に、 大臣 とも 、』ら と、 黒彦皇子と眉輪王と、 供に燐き死さ れぬ。 時に坂合部連 ・ーヘのす(わ かば h . 』ら 贄宿祢、 品子の屍を捻きて燐き死されぬ。 其の舎人等、 焼けた とり“さ ひとつひつさ るを収取め て、 遂に骨を択ること難し。 に盛れて、

(8)

い9さのあぐ つ8もと あわせはぷ の擬本の内の丘に合葬る。 (雄略即位蔀紀) 骨の選別ができなくて、舎人等は黒彦皇子と坂合部連贄宿祢とを 合葬した、という事実を伝える一方、贄宿祢があたかもそうされ ることを望んで死んだかのような記述になっている。 合葬にはまたこういう場合もある。 しがり 五月に、皇孫建王、年八歳にして苑せましぬ。今城谷の上に、 歿 を起てて収む。天旦、本より出孫の布順なる を以て、 若重めたま かれ あからしび いた 1 ふ。故、不忍哀したまひ、傷み慟ひたまふこと極めて甚し。群臣 のた` かなら あはせ u に詔して日はく、「祖歳千秋の後に、 要ず朕が陵に合葬れ」と のたまふ。 夫婦を合葬した例もある。 ふるいちたか々のをか 是の月に、天旦を河内の旧市窃歴丘陵に葬りまつる。旦后春日山 かしささ あ“せUぶ 田良女及び天皇の妹神前皇女を以て、是の陵に合葬れり。 (安閑紀二年十二月条) しさのつさ さかのうへ 冬十一月の庚戌の朔丙寅に、天皇を大倭国の身狭桃花烏坂上陵に ゎ()』 あはせはよ 葬りまつる。皇后橘良女及ぴ其の酒子を以て、是の陵に合葬せる。 (宜化紀四年十一月十七B条) “ubさ&b たしひめ 二月の辛亥の朔庚午に、呈太夫人緊塩綬(注・欽明天良妃)を檜隈 大陵(注・欽明天旦陵)に改め葬る。 (推古紀二十年二月二十日条) さらに「絞日本紀』大宝三年十二月二十六日条に は、 ぁはせuぶ 壬午、大内山陵に合葬りまつる。 (斉明紀四年五月条) という、持統天皇を天武天皇陵に合葬したことを示す有名な記事 があ る。 夫婦を同じ墓に合葬するという風習は、中国や朝鮮の方式に学 んだもので 、日本においては六世紀になってから行われるように なった、 いう のが考古学上の事実らしいが(小林行雄「古墳の j) 、いずれこうした記事、事実は、庖葉時代の人々が一般に、 愛しい人との合葬願望を心の奥底に抱いていたことを物語ってい る。虫麻呂は、その心根で、茅淳壮士と合葬されなかった菟原処 女の不幸を思いやり、そして、聞き手・読み手が同じ思いを抱く であろうという想定の もとに、③の部分をうたい、「故縁聞きて 知らねども新喪のごとも哭泣きつるかも」とうたったのではない かと思われ紅゜ そして虫麻呂は、 つづく反歌において、菟原処女の幕を実見し た時の感懐をうたいあげる。以上考えてきたところを踏まえた上 で、その反歌二首の表現を見たい。 第一反歌 葦屋の菟原処女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ は、従来一般に評価が低い。たとえば、 反歌として形式的な作で平凡の域を出ない。長歌が非前に生彩を帯 ぴてゐるだけに対照してご咽平板の感が張い。(『茂葉集総釈 J) 長歌の熱意は失せた作である。(「萬葉集評釈』) のようにであるが、どうか。

(9)

この 歌は、 明らかに、 長歌後半部③の部分を承けてうたわれて いる(村田正博 f 「おくつき j 考」山辺遼第二十五号参照)。 だからここ でうたわれている「菟原処女の奥城」 は、 要争いから逃れること しるし ができなかった処女の悲劇をその まま現在に伝える「標」(証 拠)としての意味をもつ。その「 標」を現実に見たということを、 虫麻呂はうたおうとしているわけである。 、、、、、、、 このことは、「 菟原処女 の奥城を行き来と見れば」の表現に よって、 いっそう明 瞭になる 。「行き来と見れば」は、 処女墓だ けを見たというのではなく、 妾争いの形そのままに並ぶ三つの墓 の有様を、 行ったり来たり しながら 見た、 ということを意味する と考えられるからである。 だとすれば、 虫麻呂が「哭のみし泣か ゅ」とうたっているのは、 必ずしも「形式的」なものではない。 その表現こそが、 処女の悲割を目のあたりにした虫 麻呂の実感で あり、「熱意 J であろう。 第二反歌 墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅浮壮士にし寄りにけらしも は、 処女の恋心(本心)を全面的にとりあげた歌であ る。 この意 味で、 処女のひそかな恋心を表現していた長歌前半部に深くかか わる歌であると酋っていい。下句「聞きしごと茅浮壮士にし寄り にけら しも 」によって、 処女が恋していたのは茅浮壮士だったと いうことがはっきりとわかるからである れども二目は、 処女 の恋の対象を明かすことだけを目的としてうたわれた歌なのでは してみると一首 は、 長歌 と反歌 が連続するまことに雄大な、

ない。 この歌のいのちは、 むしろ、 上二句「墓の上の木の枝靡け り」の表現にあると思われる。 「墓の上の木の枝靡けり」という状景が、 実景なのか、 虚構な

(ヽ)

のか、 いずれとも断定しがたいけれど、 その姦の上の木の枝の靡 き方を虫麻呂が、 処女の心そのものとして捉え、 うたっているこ とは確実である。 並ぶ三つの 墓を見た上で(第一反歌)、 虫麻呂 はさらに、 処女墓の上に彼女のひたむきな恋心を見 た、 というこ とをうたおうとしたのではなかろうか。すなわち、 第二反歌は、 墓の並び方に抗うかのように、 処女墓の木の枝が、 茅浮壮士墓の方 にひたむきに靡いている。聞いていたとおり、 処女の恋心は、 茅浮 壮士のほうに寄っていたのであるらしい。 というような意味 をもってうたわれているのではないかと考える。 以上述ぺ来ったところをまとめると次のようになる。長歌にお いて虫麻呂は、 菟原処女のひそかな恋心 と、 その恋が要争いのた めに結実しないという処女にとっての悲劇とをうたっている。そ して反歌において虫麻呂が最終的にうたいあげようとしたことは、 「菟原処女の奥城」を見て、 そこに処女の悲劇と恋心をまさに たという思い、 すなわち処女に対する深いあわれみではなかった -s)

o

(10)

つ見事な構成をもつ作品であると言うことができる。

こうした作

品は、作者のうちに用意されたところの完成した構想なくしては

なしえないであろう。

この場合、

一首をうたう虫麻呂のうちに用

意されていた構想とは、

菟原処女は茅浮壮士に恋していたという

伝間に基づいて、

満たされることがない処女の悲しい恋心を、

りあわれ深くうたうことであったろうと推察される。

そしてその

構想にしたがって、

虫麻呂は、

処女の恋がことごとく結実しない

という事情を、巧みにうたったのではないかと考えられる。

こうした構想が一首に特有なものであることは、

福麻呂集歌、

家持作歌と比較すれば明らかである。

さらにまた、

一首がこうし

た独自な構想にしたがってう

たわれているならば、「故繰聞きて」

とあるものの、

虫麻呂が開いた伝承と歌との間にも、

その語り口

にかなりの相述が生じていると思われる。長歌後半部の考察を通

じて、

その

一端(黄泉国の餅台設定など)はすでに述べたけれども、

それ以外に、こういうこと

も考えられる。

本来の伝承においては、

菟原処女がこの世で茅浮壮士と結婚で

なかったのは、

当時の婚姻が基本的に

「村内婚」であり、「村

外婚」が

一般に認められていなかったこと、

つまり、

菟原処女

(摂津国の女)にとって、

茅浮壮士(和泉国の男)が他国の男

だったということが、その最大の理由として捉えられていた、

(6)

・見る説がある。

この説に私も賛成だが、

しかし、

虫麻呂歌におい

て、「村外婚」のタプーということは直接にはうたわれていない。

らむと

焼大刀の手かみ押しねり

茅浮壮士菟原処女の

白兵弓靱取り負ひて

立ち向ひ競ひし時に

というように、

二人の男の要争いが強間され、これを承けて、

「ますらをの争ふ見れば生けりとも逢ふべくあれや」と処女が判

断し、黄泉の国へと旅立つようにうたわれている。

この世とは別に、

黄泉の国

という舞台を用意している虫麻呂歌

においては、

処女と茅淳壮士とが結

ばれない決定的な理由として、

要争いということを強調して

おく必要があったのではなかろうか。

黄泉の国においては、「村内婚」「村外婚」といった結婚のとりき

めなどは、もはや無緑のことだからである。黄泉においても、

らには墓の中でも、処女は恋する人と結ばれない、

という想像を

うながすために、

虫麻呂は、

この世における要争いをかように強

調し誇張してうたったのではあるまいか。

本来の伝承とも違う虫麻呂歌に独自な梧り口は、

このほかにも

指摘し得ると思うが、

つまり、

虫麻呂歌に見られる活き活

きとし

た伝説の語り口は、

おおむね、

菟原

処女の恋心をよりあわ

れ深く

うたおうとする虫麻呂独自の構想にしたがってなされていると考

えられるわけである。

結論を言えば、

虫麻呂の「菟原処女が墓を見る歌」

は、

伝説の

骨子をかりてうたわれた菟原処女のためのまさしく挽歌である、

ということにつきる。一般にこの歌は「伝説歌」と呼ばれている

水に入り火にも入

伏困焚きすすし競ひ

相よばひしける時は

10

(11)

-けれど、伊藉博「伝説歌の形成」(「衣菜集の歌人と作品 j 下)が指 .摘しているとおり、 一口に伝説歌と言っても、 伝説歌としての質 はそれぞれの歌で違う。虫麻呂の「菟原処女が墓を見る歌」は、 以上述ぺてきたとおり、挽歌としての意味をその内部に大いに含 みもっている。 だから一首は、珠名娘子の伝説歌・浦島子の伝説 歌(ともに巻九雑歌の虫麻呂集歌)などから雄されて 、 巻 九挽歌の 最終部に収められたのだと思われる。 (一九九四・九・ニ八)

(し) 「茅浮壮士その夜夢に兄」という表現は、 長歌前半部の 「はり沼 の下廷へ唇き てうち吹き妹が去ぬれば」と見事に対応している。 「屈り沼の下廷へ霞きて」は、「をとめのかたより、男をしのびに 恩ひ唇てといふ意也」([伐葉集略州」所引宜長説)と理解されるか らである。 この対応について、 たとえば立田空穂『蕊葉集評釈 j は、 虫麻呂の手法の一っとして捉えている。 なお、 虫麻呂の時代には、 処女は茅浮壮士に恋をしていたという言い伝えがあったらしい。そ のことを虫麻呂は、第二反歌においてうたっている。 (2) 以上のことは、もちろん、 虫麻呂歌に限ってのことである。歌を はなれて客観的に見るならば、 親族たちが三つの迄を並ぺて造った ことは、 三人の男女をまつる方法として適切である。 というより、 たとえば三人をーつの墓にまつると か、 処女をいずれかの男と合葬 するとかして招く事態を想像してみれば、それが最苦の処琶である ことが知られよう。 しかし虫麻呂は、それを承知の上で、なおかつ 処女の恋`心を郎菰する立場をとる。だから最後に、「故柑附きて知 、、、、 らねども」とうたっているのではないか。すなわちこの「知らねど も」は、”自分の知ら ないこと だけれど、その処女のことを息うと“ という惹味を含みつつ、下の「新喪のごとも哭泣きつるかも」にか かっていくのではないかと思う。ちなみに新潮古典集成「松業集 j は、「故緑聞きて知らねども新喪のごとも哭泣きつるかも」を、「廷 の様起を附いて、 遠い背のゆかりもない人のことではあ るが、 悲し さのあまり、 今亡くなった身内の表のように、”を挫げて泣いてし まった」と訳している。 . (3) 小屈憲之前掲論文の説に拠って、虫麻呂が「王台新詠』撫名人の ・ 作 を知ってぃたとすれば、その特のおわりに「田家求云品竺、 合' ニ葬邪山傍こと あるこ とが、本税には意義深く恩われる。I玉台新 詠の蘭芝は、 菟原処女とは述い、身内の者によって夫焦仲"と合 葬されている。 この違いを比較することによって虫麻呂が、処女伝 説の結末に いっそう心を傷めたということも、考えられなくはない からである。 (4) 「茎の上の木の枝靡けり」と類想の表現が「玉台新詠」撫名人作 ...の中にあることを、前掲小島論文が指摘している。「東西植二松栢「 左右種二栢桐―°枝枝相覆盃、 葉葉相交通」がそれである。ただし、 甚の在り方が違っていること、 注(3)参照。したがって 、 木 の枝 の状況もおのずと異な る。その意味で は、 契沖「松菜代匠記 j が出 典故事としてあげた「捜神記」「韓憑殺」の状況により近い。これ

(12)

らとの関連も含め、「墓の上の木の枝靡けり」の表現については、 内田賢徳「巻十六桜児・綬児の歌ー主題と方法ー」(淡葉集研究第 二十集)に群しい考察がある。 (5) 神野宮一「菟原処女伝説 の形成」 (日本のことばと文芸第五集) は、 菟原処女伝説が形成されたもともとの過程を、「すでにできあ がっていた妾争い伝説が古墳と結びついたの ではなく、 逆に実在す る三基の古墳のうえに痰争いの観念が働いた結果、 このような変型 の衰争い伝説が生まれたのではないかと思われる」と推察している。 本税の考察とかかわって興味深い。 この説によれば、 虫麻呂は、 説が形成された過程とちょうど反対の順序で、 一首をうたいきって いることになる。 なお、 現在も神戸市の旧菟原郡内に、 伝説の主人 もとめ 公たちの茎として、「処女塚」(御影塚町)、「求女塚」(住吉宮町・ 都通町) と呼 ばれて伝えられている三基の古墳墓が存在する(五世 紀頃の築造)。神野氏はこれら三基の古墳 墓を、 八世紀に虫麻呂ら が見開した古項墓と同一のものと見なしてよいという(「菟原処女 伝説の伝承—塚をめぐってー」甲附国文整 1 一十五号)。 (6) 金子元臣『淡葉集評釈 j · 窃野正美〒る葉集作者未詳歌の研 究』 ・難波喜造「処 女入水伝説の意味」(国文研究と教育第三 号) •新潮古典集成「桜葉集』などの 説。 またこれらとは観点が述 うけれども、 桜井演「窃橋虫麻呂 J (r 万葉の歌人・和歌文学講座 5』は、 菟原処女は本来「その名からして、 ウナヒヲトnに妓すべ き宿命にあった」と述ぺている。 付記 本桜を成す過程において、 凄葉編集委貝の各位、 岡山大学言研国話 国文学会の各位から貴重な御意見を賜った れらを生かせていない ところもあるが、 このこと記して謝意を表したい. (にしこおり ひろふみ 集英社・ 『浅紫集釈注』専属研究貝) 研究室受朧図書攘誌目録

H

単行本 異郷における森闊外、 その自己像獲得への試み(林正子) 輝愁と憧憬の人生と文学 1日本近代現代文学小論集ー(林正子) 源氏物語国際会議録(輔仁大學外語学院8本語文学系) 西鶴ー没後一,二百年|(国文学研究資料館) 高岡市万葉歴史館所蔵文献目録 研究論文篇(高岡市万葉歴史館編)

繕誌•紀璽

愛知県立大学説林(愛知県立大学国文 学会) 42 愛文(愛媛大学法文学部国胚国文学会) 第二十九号 肯山語文(青山学院大学日本文学会) 第24号 旭川国文(北海道教育大学旭川校国語国文学会) 第十号 跡見学園女子大学国文学科報(跡見学園女子大学国文学科) 岩大語文(岩手大学語文学会) 第二号 魚津シンポジウム(洗足学図魚津短期大学)

9

宇大国語論究(宇都宮大学国語教育学会)

6

歌子(実践女子短期大学国文学科) 創刊号•第二号 愛媛国文研究(愛媛国語国文学会) 第伐号

22

(平成六年一月1十二月)

参照

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