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霍公鳥を詠む歌の構成――高橋虫麻呂の”家”と”旅”――

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Academic year: 2021

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(1)

ー高橋虫麻呂の

ほととぎすは、 うぐいすやみそさざいの巣 に卵を産み育てても らう習性、 託卵本能をもっている。 この託卵本能に滸目してほと とぎすをうたった歌が万策集にある。 布極述虫麻呂の手になる、 霰公鳥を詠む歌がそれである。 11ととざす あほ 筏公烏を詠む一首 井せて短歌, かUご うぐひすの 中に ほととぎすひとり生れて 己が父に 似ては嗚かず 己が母に似ては⑱かず」 卯の花の咲きたる C とよ たしばな 野辺ゆ 飛ぴ翔り来嗚き 和?9 花を居散らし ねもすに嗚けど間きよし」 賄はせむ返くな行きそ 我がや どの花橘に 住みわたれ鳥(9 -七五五) 反歌 9 ょ かき霧らし雨の降る夜をほととぎす嗚きて行くなりあはれそ の烏〈 一七五六) 犬簑孝「虫麻呂の心ー孤愁のひと ー」(国語と国文学三三殊J l II

II

雹公鳥を詠む歌の構成

二号)は、 かつて一首を次のように読み解いた(犬迷氏は長歌を 三段に分けて述ぺている。 歌中にその段落の区切りを示しておい た)。 IIた化

II 時は初夏。所は珍しい鴬の巣、 主人公は径公烏。霰公烏は 親なしの天涯孤独、 生まれおちた異常の場所は克明に描かれ、 その克明さの律動の中に荏公烏へのいとしさが注がれてゆく。 かくてこそ、「汝が父に・・・」「汝が母に・・・」の対句となって、 迎命の孤独の鳥によせるいとしみの詠歎は律勁化され、 しか も鳥自身に孤独の自党なきあは れさにおい て描か れる。(第 一段) 所はかはつて、 卵の花ざかりの野原から花橘の庭へ。 主人 公はわが世の夏と叩きちらす。 色彩豊かな美化された舞台。 ・◆・・・・さうした表現のされ方の中 に、 島によせるいとしみの心 梢は逆に、 発展に沿うて、 移動に沿うて、 花橘の枝の中の徽 細描写に沿うてたゆたひ深められる。(第二段) 終鼎。 このいとしさ、 あはれな美しさを、 刹那にくひ止め

含白

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ようとする作者の吐息の結品は、 烏をひ きとめようとし、 かせないやうにし、 もう 一度美的背原を描いて、 ここに居つ づけよ と、 三段の波動でうちあげる。(第三段) 反歌では突如転換の妙を示して 時は夜、 ぽうつとけぶつ て雨のしよぽしよぽ降るわぴしい.背飛。 天涯孤独の径 公烏は、 いとしみをもふりきるかのやうに、 また嗚きながら旅立つて ゆく、 深泊の旅へ°・・・・・・上の二句づつの感動は結句に融合結 品して、 いとしみとあはれ さの叫ぴに終 る。 結句はしみじみ とした感動でこそあれ、「ああ おも しろ い」などではあり得 ない。(反歌) と。 そして、 一首全体について、 あらはすところ、 花公烏ではあるが、 自己の孤独感へのあ はれさではなくて 何であらう。或は孤独感への省察なくして、 この造型をなし得ようか。 伝説をうたふのではなくて、 習性ないし伝承をかりきたっ て、 霰公鳥、 実は自己の宿命を描く。一見、 島の歌であって、 そこに は人間がゐる。旅の歌ではなくして、 却つて虫麻呂の 「旅」がある。 あらはにしない中に、「孤愁のひと」がゐる。 と述べた。 これ以後の解釈 は、 たとえば、 虫麻呂は、 霰公烏の親烏がほかの烏の巣に自分の卵を産ん で、かえさせ育てさ せるということに対して、 その無情さや 狡さにはなんにも触れず、 ただ そう した親烏に産まれてー" それは捨てられて、 とも 言えよヽ?ー全く他人である蓑い親に よってかえされ脊てられる子烏の身の上だけを 孤独だと思 い、「あはれ」と言っ て同梢を寄せているよ うである。 そこ に流れている孤独感と哀愁とは、 虫麻呂の多くの歌に通じて いるものである。(金子武雄「窃橘虫麻呂」) 生まれながらにして孤独な生命を自然界とひぴかせながら、 死界との往遥の中に生きる 生ー、 それを具体的にいえば暗黒 の雨夜を鳴きながら飛ぶ、 ということにな る。 そうなれば、 もはや一個の烏の生態ではない。 人間をふくめて生における 孤独とい ったものを、 作者は考えていたのである。(中西進 「旅に棲む」) というように、 犬蓑氏が結治として述べ たところの「孤独感」 (「孤愁」)ということをとくに支持した立場からなされている。 だが本秘は、 その「孤独感」ということについて、 犬狡氏があ る明確な一点を述ぺていることを尊重したい。「旅」がそれであ 先に引用したとおり、 犬妥氏は 反歌において、 ほととぎすの 「旅」が強く表現されていると捉えている(ただしその論拠はと くに示されてい ない)。本稲は 犬尭氏のこ の見方をさらに広げ 、、 、、 て、 一首全体がほととぎすの「旅」にかかわってうたわれている ということを 歌の内部構成を考えることによって述 ぺようと恩

(3)

本稿はま はじめに、 一首の中でうたわれているほととぎすの 嗚き声が、 どのような声であるのかを考えようと思う。 長歌第三 段を除いて、 全体で計五回も「嗚く」という言葉が繰り返し用い られている という事実によって明らかなように 、.一首の主たる迅 材はほととぎすの⑭き声にほかならないからである。 ①うぐひすの卵の中にほととぎすひとり生れて己が父に似ては 叫洲ず己が母に似ては

11

この第一段でわかることは、 当然のことながら ほととぎすは 生まれつき、 うぐいすの嗚き声とは述う声を発するということで ある。うぐいす の巣に「ひとり」生れおちたとき から、 ほととぎ 、、、、 すはそれ特有の嗚き声を発する。 そして、 うぐいすの巣を飛ぴ立ったほととぎすは、 ②卯の花の咲きたる野辺ゆ飛ぴ翔り来邸剥閤もし橘の 花を居散 らしひねもす に嗚けど聞きよし というよ うに、「卯の花」を経由し「橘 の花」を散ら して、 一日 中、 生まれつきのほととぎす特有の 声で 嗚きつづける。 ここで虫麻呂が、 その声に対して「喝けど間きよし」とうたっ

首の題材

う。 そして、 犬養氏のいう の歌ではなくして、 却つ て虫麻呂の「旅」がある。 ということを、 別途に論じようと思う。 ていることが注目される。 これによって、 第二段でうたわれてい るようなほととぎすの喝き声は、 時によって人によって、 必ずし もいい声とはさ れていなかったことがわかるからである。 そのほととぎすの鳴き声を「よし」として、 虫麻呂はつづけて、 ③賄はせむ遠くな行きそ我がやどの花橘に住みわたれ烏 とうたう。先に述ぺたとおり の第三段には「嗚く」という言 葉がない。 このことは、 第一段•第二段でうたわれてきた ほとと ぎすの嗚き声が、 虫麻呂をして卯三段のようにうたわしめる要因 をす でに含みもっていることを物栢る。 このように考えるとき、 虫麻呂がうたっ た「住みわたれ烏」と いう一句が注目されてくる。「住む」という言栞は、 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(6九五 五) み立たしの島 をも家と住む 烏も荒ぴ な行きそ年かはるまで2-八0) 、 、 、 、、、 などの歌からわかるように、 ある場所を家として住むことを意味 るからである。 つま り第一段 •第二段でうたわれているほとと ぎすの戸は、 虫麻呂をして「わがやどの花橘」を家としてずっと 住めよとうた わせるよ うな嗚き声なのである。 その声の主ほととぎすは、 しかし 、「住みわたれ島」という虫 麻呂の希望に反して、 ®か き霧らし雨の降る夜をほととぎす嗚きて行くな りあはれそ

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の烏 というように、それ特有の芦で嗚きながら飛んで行ってしまうの である。その嗚き戸は、虫麻呂をしてついに「あはれその烏」と うたわしめるような声な のであった。 一首の中でうたわれているほととぎすの嗚き戸を以上のように 考えたとき、万菜びとが間いていた、ほととぎすの次 のような 声 が想起される。 鳥を詠む ふるさと ますらをの出で立ち向ふ 故郷の神なぴ山に さと ut 里人の間き恋ふるまで 即のさ枝に 夕されば小松が末に つlごひ ほととぎす要恋すらし ぁひとよ 山彦の相愕むまで (10-九三七) (一九三八) 恋」の声として、 .がわ か る 。 明けくれば さ夜中に嗚< ょム 反歌 旅しいで変姻がかい ほととぎす 神なぴ山にさ夜更けて閲< 巻十夏雑歌の冒頭に据えられたこの古歌によって、万禁ぴとが、 ほととぎすを「旅」をつづける烏として捉え、その嗚き声を「要 いわば”家“を求める声として間いていたこと 万菜集中には、ほととぎすの鳴き声をこのように開いてうたわ れた歌が少なくない。たとえば、 岱磁 の 元叩な るに ほととぎすいづくを家と嗚き渡るらむ (10-九四八) さみ 沙弥が霰公届の歌一首

.‘

けば家なる妹し常に偲はゆ “3 あ し ひきの山ほととぎす汝が喝 (8-四六九) 太宰帥大伴卿が和ふる歌一首 しつつ嗚くし日ぞ多き(8 かた •JII 橘の花散る里のほととぎす片恋 一四七三) などの歌のよ うにである。 一首の中でうたわれているほととぎすの嗚き声がこのような声 であるならば、長歌第三段において虫麻呂が「住みわたれ島」と うたった理由はもちろん のこと、長歌第二段において虫麻呂が 「嗚けど聞きよし」とうたう理由がよくわかる。 中臣朝臣宅守が、越前に配流されるという苦しい旅にあって、 とよ 恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物思ふ時に来喝き抑め る(15三七八0) ぁ 旅にして物思ふ時にほととぎすもとなな嗚きそ我が恋まさる (三七八一) 照翫り物恩ふ時に ほととぎ す我が住む里に来悌き饗もす (三七八二) 旅にして船に恋ふればほととぎす我が住む里にこよ嗚き渡る (三七八三) 心なき烏にぞありけるほ ととぎす物思ふ時に嗚くぺきものか

(5)

(三七八四) 今UL “ ぁ ほととぎ す間ししまし憐け汝が鳴けば我が思ふ心いたもす べなさ(三七八五) . とうたったように、 また、 坂上郎女が、 何しかもここだく恋ふるほととぎす嗚く声間けば恋こそまさ れ(8-四七五) . a ゐ ほととぎすいたくな 喝きそひとり居て麻の寝らえぬに開けば ・ 苦 しも(8-四八四) とうたったように、 旅にある者・思う相手と離れている者には、 家を求め要恋をす るほととぎすの鳴き声はむしろ好ましい声では ない。 その声は、 彼らの家(要) を思う心・離れている相手を恩 う心を、 よりいっそう強めるからである。 現代のわれわれは、 ほととぎすが、 夏の季節だけを日本で過ご す典型的な渡り鳥であることを、 その間、 昼も夜も鋭い声で嗚き つづけることを 知っ ている 。 万薬の人ぴ とは、 ほと とぎすを 「旅」をつづける烏として捉え、 その声を「要恋」をする 声、 「家」を求める声 として間いていた。 これがすなわち、 一首の中 でうたわれているところのほととぎすの嗚き声ではないかと考え られるのである。

一首の構成

ご・におけるほととぎすの閲き声は、「要恋」をする芦、「家」 を求める声としてうたわれている。 とすれば、 一首の構成が鮮明 に見えてくるように思われる。 ①うぐひすの卵の中にほととぎすひとり生れて己が父に似ては 嗚かず己が母に似ては嗚かず この第一段において表現されていることは、 ほととぎすは生来焔 るぺき家をもたない という ことではないか。 そして、 生まれたと きから、 "旅. する鳥として .“家” を求めて嗚き始めるとい う こ とではなかったか。 すで に説かれているように、 “家” と "旅“ とは万菜ぴとの中 で一対となって存在した観念である(伊藤博「古代和歌と異郷」 「万業のいのち」)。すなわち、 本来 “旅“ は、 ”家” を離れたと きに始まるものなのである。 しかしこのほととぎす は、 生まれた ときにすでに帰るべき家がない。 生まれたときから ”旅" の中に ある。 そしてあ われなことに、 その鳥がもつ本性として ”家“ を 求めて嗚き始めるのである。 生まれたときか ら ”旅“ の中にあるほととぎすが、 その “旅“ を終わらせるためには、 新たに住むぺきよ冬“ を探し出すこと、 つまりその要を得ること以外にはない。 とすれば、 虫麻呂がここ 、 、 、 で「ほととぎすひとり生れて」 とうたって いる意味は大きい。万 菜集中「ひとり」は、 妹・背(二人)に対して用いられることが 圧倒的であ り(稲岡耕二「憶良梅花歌と七ク歌の背飛」武蔵野文 学17•伊藤博「図梅の賦」 I 万菜集の歌人と作品 j 下など)、 これ

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によって、ほととぎすは生まれたときに、将来その姿となるぺき •ものもないことがわかるからである。 畑るべき家 ではないうぐいすの巣を 飛ぴ立ったほととぎすは、 あたかもそ の“旅”が終わることを顧うかのように、痰恋をし ”怠を求めて嗚き わたる。 扉の花の咲きたる野辺ゆ飛ぴ翔り来嗚き魯もし橘の花を居散 らしひねもすに嗚けど聞きよし この第二段で、虫麻呂は、「卯の花」・「橘の花」をもち出し ている。中西進「旅に棲む j は、 ほととぎす 嗚く声聞くや卯の 花の咲き散る岡に葛引く娘子 (10-九四二) 朝霧の応厨越えてほととぎす卯の花辺から嗚きて越え如ぬ (一九四五) 配か叫JJn 如炉記 ほと とぎす 聞けど も飽かずまた嗚か ぬか 一九五三) かくばかり雨の降らくにほととぎす卯の花山になほか嗚くら む(一九六三) などのほと とぎすと卯の花とを取り合せた歌をあげ、また、 る と よ ほととぎす 花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ(10 -九五0) つら

ほととぎ す来居も嗚かぬか我がやどの花橘の地に裕ちむ見む (一九五四) 橘の林を梢ゑむほととぎす常に冬まで住みわたるがね(一 五八) などのほとと ぎすと橘の花とを取り合せた 歌をあげ、集中、「卯 の花」はほととぎす の「原郷」として、「根の花」はほととぎす の「現郷」としてうたわれている、と捉えた。 本税の見方は、基本的に中西氏の捉え方と同じなのだが、本稿 なりの首い方をすれば、「卯の花」 も「橘の花」もともにほとと ぎすの要となる資格をもち、ほととぎすの住むぺき家となっても おか しくはないという ことになる。だが、第二段でうたわれてい るとおり、ほととぎすは、そのいずれにも家として定住すること がない。依然として”旅をつづけ、一日中”家“を求めて嗚き つづける。 先に述ぺた ように、その声は 、旅にある者・思う相手と離れて いる者にとっては、必ずしも好 ましい声ではない 。しかし虫麻呂 は、ここであえて「叫けど闘きよし」とうたう。このように断じ ておくことが、第三段への展開を可能にしている と言ってよい。 そして虫麻呂は、”旅“をつづけ”家“を求めて嗚きつづける ほととぎすに対し、 ③賄はせむ遠くな行きそ我がやどの花橘に住みわたれ烏 とうたいかけるのである。 しかし ほととぎすは、この「我がやどの花橘」にも家として定 住することがな い。虫麻呂の呼びかけにしたがうことなく、

(7)

. の鳥 .というように、永遠に”旅"をつづけ、そして”家“を求めて賜 きつづけるのであ った。 反歌の上二句「かき霧らし雨の降る夜を」といううたい方は、 虫麻呂がそのほととぎすに 対して 「あはれその鳥」と感咲する、 決定的な条件になってい ることを表わしている。 ・ 当 然のことながら、「夜」は万 葉ぴとにとって 要と共寝をする (あるい は共寝を欲する)時間 常である。しか もここでは雨が 降っている。 こるもで はるさ" 衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち涸ると家思ふらむか (9-六九六) さ" 苦しくも降り来る雨か 1 二輪の的狭野の渡りに家もあら なくに (3 二六五) などの歌からわかるように、旅にあって雨に油れるのは、非常に 苦しいこととされた。なぜなら、 9ぬ e あぶり干す人もあれやも涵れ衣を家には逍ら な旅のしるしに ( 9-六八八) い11 秋田刈る旅の脱りにしぐれ降り我が袖沿れぬ 干す人 なしに (9 二二三五) などの歌からわかるように、旅 にあって は涸れた衣を乾かしてく れる要がいないからである。 ®かき霧らし雨の降る夜をほととぎす鳴きて行くなりあはれそ 雨の降る夜に旅をつづけることなど、万葉ぴとは到底考えない はずである。しかしこのほととぎすは違っていた。反歌において 虫麻呂がうたおうとしたことは 、たとえ雨が降ってもたとえ夜で あっても、いかなる状況であっても、ほととぎすは宿命的とも言 える”旅“をつづけ、”{秀を求め嗚きつづけるということでは なかったか。 一首の構成を以上のように捉えるならば、虫麻呂がほととぎす のどういう側面を捉えうたい、感動していているのかがよくわか る。生来”旅“の中にいる ほととぎすが、生涯かけて いか なる状 況でも”旅"をしつづけ、生涯かけて“家"を求めて嗚きつづけ るというこ とを捉えうたい、彼はその烏に 対して「 あはれその 烏」とうたったのだと考えら れる。 一首の構成ということを中心に考えてきた。 すの“家"と”旅"とを対比させ ながらうたわれている。とすれ ば、本稿には、虫麻呂の手になる別の一首が想起されてくる。捕 島伝説歌がそ れである。 みづ?^ うらし2の・) 9“ 水江の涌島子を詠む一首 井せて短歌 かす すみのえ C 春の日の霞める時に 住吉の岸に出で居て ふ見れば かつ七 U 鰹釣り鯛釣りほこり

一首は、ほととぎ つりぷわ 釣舟のとをら いにしへのことぞ思ほゆる なわか 七日まで家にも来ずて 水江の浦島子が 齢 印 を 過 ぎ

(8)

反歌 ひに 死にける ぬ •l-て消ぎ行くに •-» 相とぷらひ首成り しかば たへ との 内のへの妙なる殿に 家は あらむと わたつみ をとめ 海神 の神の娘子に たまさかにい 消ぎ向ひ とこよ かき結ぴ営泄に至り 宮の いもせず死に もせずして の愚か人の 我妹子に告りて叩叩らく らり U 父母に事も栢らひ明日のごと我れ は来なむと ・し と・』よへ ば妹が口へらく常枇辺にまた帰り来て くしげ ならば この栖笥開くなゆめと ―― 吉に帰り来りて 長き世に ありける ものを 海神の神の たづさはりふたり入り居て 老 ょn なか 世間 ねて あ や し み とそこに 思はく 珈 9 う 垣もなく家失せめやと しま しくは家に帰りて 言ひけれ 今のごと逢はむと かた こと そこらく に堅めし言を 家見れど家も見かねて 里見れど里も見か 人とせ あ U だ 家ゆ出でて三年の間に ゆなゆなは息さへ絶えて この箱を開きてみてば もとのごと しらく� 玉櫛笥少し開くに 白裳の 箱よ り出でて 常世辺にたな ぴきゆけば 立ち走り叫ぴ袖振り 臥いまろぴ II C 足す りしつ つ たちまち に心梢失せぬ若くあ りし 肌も敷み のら 馬くあり し嬰も白けぬ 後つ 水江の浦島子が 家ところ見ゆ(一七四0) . っるr たらな 常世辺に住むぺ き も のを剣太刀己が心からおそ やこの君 . . ( 一七四一 ) 本稿に は年来、浦島伝説歌における”家 " と”旅.について考 えていることがある(詳細については別稿を予定している)。本 .稿の考えをかいつ ま んでいえば、一首もまた“家.と.旅“との 対比をもちこんで同じ 構成 をとり つ つうたわれているということ である。 一首の中で、捕局子は、 「住 吉」の 「家」を雌れて"旅”をし、 「常批」の「海神の神の宮」に至る。そして「常世」の「海神の 神の宮」を離れて“旅“を続け、その "旅"の途次で老い死んだ、 とい うようにうたわれる。そしてその浦島子に対して、虫麻呂は 「おそやこの君」とうたうのである。 花公烏の歌と涌底伝説歌との間に通うところがあることは、そ れぞれの反歌を 並ぺ てみるだけ でわか る。 かき霧らし雨の降る夜を ほととぎす嗚きて行くなり れそ の烏 常泄辺に住む ぺき ものを 剣太刀己が心から おそや この君 虫麻呂は、筏公烏の歌では 、住むぺき"{承"を求めながら”旅. をつづける烏に対して「あはれ その烏 j とうたい、一方補島伝説 歌では、住むぺき”家“があるにもかかわらず 、自ら “旅”に出 て、その途次で老い死んでしまった男 に対して「おそゃこの店」 とうたったわけであ る。 虫麻呂が、住む ぺき ”家 “を求めながら”旅“をつづけるほと とぎすに対して より同情的であり 、住 むぺき”家“を離れて、 ”旅”の途次で老い死んだ浦島子に対してより批判的であること を思え ば、彼の実人生は、やはり”旅とは切り雌せない 人生で あっ たと考えるほかはな い で あ ろう。虫麻呂は、“旅"というこ あは

(9)

とに対して多感であり、 以上述ぺて きたとおり、 基本的に “家“ いうものを希求してやまないからである。 だし、 歌人としての彼の生き方を考えるならば 麻呂がこ うした歌をうたう要因として、 藷原宇合の存在ということをも考 慮しておく必要がある。忘根虫麻呂は、 字合のもとでうたいつづ F2) けた歌人だからである。 藤原宇合は、「懐風藻』. に次のよう な淡詩を残している。 さいかい“,«っピし 琶。 西海這節度使を奉ずる作。 一首。 いにしとし とうざ人 L9 -二のとし さいかい eu 往歳は東山の役、 今年は西海の行。 かうじ人いつしゃう 9 くたび へ人ぺい 行人一生の裏、 幾度か邊兵に倦まむ。 この一首を読めばわかるように、 字合は、 自分自身の人生に強く ”旅" ということを感じていた人であった。 霰公烏の歌にしても、 捕烏伝説歌にしても、 虫麻呂は、 宇合の "旅” ということを弛く意識して うたわなけれ ばな らなかったの ではなかろうか。 とすると、 ほととぎすに対しては同梢的に、 島子に対しては批判的に、 虫麻呂がうたっている当然の理由がわ かるように思われる。 こうした宇合と虫麻呂の歌とのかかわりに ついては、 別に論ずる機会をもちたいと思う。 (一九九0年九月三十B稿) (])中西氏の解釈は、 ほととぎすが平安以粋「死Illの

m

長」と呼ばれる ことに芍目した上でなされている。 したがって反歌の捉え方は、 西氏独自なものになっている。中西氏の解釈と本裟の解釈とは、 呆的にみて大いに違うが、 その迅程において一致する部分もある。 あとで引用する。 なお、 中根誠「窃拉虫麻呂 j は、 別途に「定めな く夜を飛び去る祝公店に、 異岱な生れ方をした花^ム烏に、 虫麻呂は 自分自身「旅のうれい」をまさにみたのであろう J と捉えていて、 本栢にとって閃味深い。 (2)このこと、 大久保正「窃枡虫麻呂」(国文学昭和四三年一月号) ・金 井情一「窃憤虫麻呂と版屈字合」(国文学昭利五三年四月号) ・桜井 沿「窃橋虫麻呂」(「和歌文学銹庄 j 五) ・伊藉博「歌群の配列ー虫 麻呂集歌をめぐって1」(文芸首語研究文芸詞11)などによる。 なお、 藉原字合は、 焚老三年(七一九)窃腔OO守、 神凡三年(七二六)知 造難波も事、 天平四年(七三二)西海近節度使に任ぜられている。 (岡山大学大学院研究生)

参照

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