六一 はじめに
七十年に垂んとする人生において出会った人の多くが、すでに鬼籍に入っている。この歳になれば致し方のないことではある。「鬼籍」とは、点鬼簿、過去帳のことで、死者の法名・俗名・死亡年月日などを記す帳簿だ。白川静によれば、「人は死んで人鬼になると考えられた」 (1)。死んだ人を鬼扱いするのなら、ずいぶん失礼な話だが、字源的には「鬼」は「帰」に通じ、帰去=死去で、もとの場所・状態にもどることを意味するのだそうだ。宇野邦一は、留学先で論文執筆の指導を受けることになったジル・ドゥルーズの「哲学者は、死者たちのもとから帰ってきて、またそこにもどっていく」ということばを紹介し、ドゥルーズのことばを受け止めるならば、この哲学者が生者のもとにあった、ほんの短い間に出会いはあったことになるが、「出会いとは、そのとき
『高丘親王航海記』を読む ―澁澤龍彥の最後の旅を追って―
小 倉 斉
キーワード:夢・再生・旅
だけのものではなく、生きているときには達成されないのではないか。現に、死者たちの間にもどった人と、何べんでも出会っている。出会いの不思議に出会う。それは時間の不思議でもある。いま同時に、何人ものやさしい「鬼」たちの顔が浮かんでくる」と述べている (2)。
二〇二〇(令和
一九七七(昭和 伺い、三十分ほど話したのが面と向かって言葉を交わす最後となった。 年の十二月に入院されたことを奥様から知らされ、妻と共に見舞いに 2)年六月二十日、都築久義さんが亡くなった。前 るんだから発表してみんかね」としつこく誘われた。その後、大学・ 気力もない」と断っても、「中央線で三十分もすりゃあ名古屋に来られ 丸出しで掛けてきたのが都築さんだった。「研究する意欲も論文を書く (現在の日本近代文学会東海支部)の例会で発表せよとの電話を三河弁 て生きようと岐阜県の恵那高等学校に着任した私に、東海近代文学会 52)年四月、東京での生活に疲れ果て、田舎教師とし
愛知淑徳大学論集―文学部篇― 第四十六号別冊 二〇二一・三 六一
― 九四
愛知淑徳大学論集―文学部篇― 第四十六号
別冊
六二
大学院時代の恩師の一人、紅野敏郎さんが名古屋に来られたときには、森田草平記念館や平野謙の実家の寺・法蔵寺(旧岐阜県稲葉郡那加村・現各務原市)に案内するようお膳立てをしてくれたり、国語教育の研究会に入会するよう勧めてくれたり、お節介にもほどがあると厭になるくらい、文学研究の片隅に留まるように仕向けてくださったのであった。退院されたとのことで五月の連休に入る前に電話をしたところ、「連休後に入院することになっとる。多分これがあんたと話す最後になるわ。色々世話になったねえ。ありがとね」と、いつもと同じように一方的に言いたいことだけ話して、電話は切られた。それきり、奥様に電話を掛けても出られなくなり、音信は途絶えた。亡くなったとの知らせは、都築さんのゼミ生だった本学総務課の安江さんからもたらされた。さびしがり屋で、おしゃべりが好きで、退職後しばしば「お昼食べよまい」と誘われたにもかかわらず、二度しか応えられなかったことが、悔やまれた。今は、自費で出版を続けられていた『士郎研究』を読み返し、「ツヅキセンセイ、またいつか会いましょう」と呼びかける毎日である。
澁澤龍彥もまた、亡くなってずいぶん経ってから、死者たちの間にもどった人として「出会いの不思議」を味わわせてくれた文学者の一人である。最近、澁澤龍彥の最晩年に編集者として謦咳に接した磯崎純一が、未公開資料とこれまで知られることのなかった逸話を交えながら、その生涯をたどり、初めての伝記を編んでくれた。名づけて『龍彥親王航海記―澁澤龍彥伝』 (3)。その最終章末尾に、澁澤の死に際して詠まれた多田智満子の詩「蝶のかたち」が紹介されている。 うつせみがうつせみを脱ぐようにあの人はこの岸に影を脱ぎすてほんとうにけむりよりかるくなってしまった犬をして残された影をくわえて去らしめよ風に微笑のしわのあるこの朝
一九八七(昭和
九三(平成 没後三十年以上を過ぎた今なお、明確になったとは言いがたい。一九 澁澤は死んだ。享年五十九。澁澤龍彥の近代文学史上における評価は、 62)年八月五日午後三時十五分、頸動脈瘤破裂のため、
成 5)年から『澁澤龍彥全集』全二十四巻が、一九九六(平
し続け、生き続けているのだ。 ちの間に「出会いの不思議」をもたらす作家として、その本領を発揮 を持たれ続けている。澁澤は、死者たちの間に戻ってから、若い人た されるとともに、さらに多くの読者を獲得し、より若い人びとに関心 読者に囲まれた作家であったが、その死後、ほとんどの著作が文庫化 た資料類も豊富に出揃っている。生前の澁澤は、少なからぬ熱烈な愛 行され、澁澤の遺した文業はほぼ纏められた。回想記などを中心とし 8)年からは『澁澤龍彥翻訳全集』全十六巻が河出書房新社から刊 澁澤龍彥が遺した小説の数は決して多くはないが、そのどれもが不思議な魅力を持っており、今なお読者の心を捉えて放さない。夢と幻想と現実が渾然一体となっており、一篇の物語はまるでラビリントスのようである。
澁澤の物語は、一つ、あるいは複数のプレテクストを基にして、そ
六三『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
れに手を加えていくことで成立する。澁澤好みのプレテクストの集合体に様々な仕掛けが加えられ、その結果として独自の世界が立ち顕れてくる。
澁澤は、『犬狼都市』を除き、五十二歳までは専らエッセイを書いており、そこで扱われている題材は、悪魔学、紋章学、自分の気に入っている説話など、珍奇なものばかりだ。特に重要だと思われるものは『夢の宇宙誌』『胡桃の中の世界』『思考の紋章学』で、アンドロギュヌス(両性具有)、円環構造、夢、球形に代表される、無限に収縮し拡張する世界などについて語られている。この三作品には、澁澤が生涯にわたって関心を持ち続けたテーマが取り上げられている。
五十代に入ると、それまではほとんど触れられなかった自分自身のことについて語るエッセイが書かれ始める。自分の幼少期や学生時代の思い出を語ったり、住んでいる鎌倉の歳時記のようなものを書いたりと、叙情的で、ときには哀愁さえ漂う文章も登場する。文体は、硬質で、乾いた印象を与える場合が多い。それは、小説『唐草物語』に至るまで一貫している。『唐草物語』は、まさに物語の体を成しているが、作品のなかに作者が登場することが多く、物語とエッセイが混在したものとなっている。「鳥と少女」、「空飛ぶ大納言」などの冒頭部分は、エッセイとしか言いようがない書きぶりである。そして、途中から「次のような話がある」のことばをきっかけにして、〈再話〉としての物語が始まるのである。「金色堂異聞」のように、「昭和五十年五月、私は思い立って奥州の平泉にあそんだ」と筆者自身の経験談として語り始められたものであるはずなのに、やがて非現実的な出来事が入っ てきて、いつの間にか物語となっているものもある。 『
唐草物語』に次いで書かれた小説は『ねむり姫』である。この短編小説集では、文体はいくらか柔らかくなるものの、『唐草物語』のテーマが発展的に引き継がれていく。「女体消滅」、「三つの髑髏」に見られた消滅への志向は、「ねむり姫」で水と化したつむじ丸と姫との合一、「ぼろんじ」で湯となったお馨と智雄との合一という形で、消滅に合一のモティーフが付加され、統一もしくは一体化に向かう物語へと展開していく。
死んでいるのも気になるところである。 いくイメージに覆われている。さらに、「髪切り」以外、重要人物が皆 はさみでバラバラに切り落とすところなど、存在の不明確さや崩れて ころや、「ダイダロス」における人が蟹に変身し、その蟹が布の美人を る。内容的には、「護法」における人の体を切ったりつないだりすると 『うつろ舟』では、文体は再び硬質な感じに戻ったような印象を与え 以上の如く、『唐草物語』『ねむり姫』『うつろ舟』と続き、最後に『高丘親王航海記』が発表されるわけであるが、この物語は澁澤文学の集大成的性格を帯びている。古今東西の名著に読み耽り、書物を通して見聞した事物・事象について、多くの随筆を書き残した江戸時代の文人のような姿勢で澁澤は、エッセイを書きつらねていた。一連のエッセイで紹介してきた珍奇な物、奇談の類いが随所に組みこまれ、蓄積してきた知識が遺憾なく発揮されたのが小説作品であり、遺作となる『高丘親王航海記』であった。サドを中心とした翻訳、多くのエッセイ、三つの小説集を経て、最後に澁澤は何を語りたかったのか。どんな世
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界を構築しようとしたのか。ひらがなの多い柔らかな文章で綴られた物語を読み、海の上の旅から旅へとあてどなく流れる無限の時間に身を任せ、多くの夢や幻想譚を追体験しながら、儒艮や光る石によって表される消滅から再生への志向が急速に強くなっていく理由は一体何だったのかを考えることとしよう。
すでに一九六三(昭和
十年余りの時を経た一九八七(昭和 ピア物語」を作ろうという抱負を手帳に書き留めていた。それから二 (4) 38)年初頭の時点で、澁澤は「一種のユート
において、より具体性を帯びてくる。 とえば、「鏡湖」では漠然としていた親王の死に対する思いは、「真珠」 澁澤自身の死に対する思いとでも言うべきものが投影されている。た 作となることを察して」完成されていった『高丘親王航海記』には、 (5) の闘いの中で……。喉の異常を感じ、病院を転々とする中で、「畢生の 完成されることとなる。澁澤に「死」をもたらすことになる喉の病と 62)年四月、『高丘親王航海記』は
舟からおりる前に、親王はふと何の気なしに、舟ばたに首をのばして、鏡のように澄んだ湖水のおもてをのぞいてみた。すると、自分の顔がうつっていない。ほかのひとの顔ははっきりうつっているのに、自分の顔だけがうつっていない。何度のぞいても同じことである。蒙のいうところによれば、湖水の顔のうつらぬものは、一年以内に死ぬという。迷信だとは思いながら、親王はどきりとした。(「鏡湖」) あたかも植物の気根が壁の隙間にもぐりこんで亀裂を入らせるように、親王のこころに死の意識がじわじわとしのびこみはじめたのは、あの鏡のような、洱海の水面を舟からのぞきこんで、そこに自分の顔がうつっていないのを確認したときからのことだった。(中略) 「
どうも近き将来、わたしは死ぬのではないかという予感がしてね。」 (「真珠」)
ここには、自分の死が近いという予感をはっきりと従者に伝える親王がいる。また、悪化する病状の投影が見られる場面も次第に多くなる。
長い昏睡状態からさめて、ふたたび明瞭な意識をとりもどしたとき、親王はまず、のどにかすかな痛みをおぼえた。痛みというか異物感というか、なにとも知れず、のどにつかえて、そのあたりにとどまっているものがあり、吐き出そうとしても吐き出せず、呑みこもうとしても呑みこめない。(「真珠」) ただし、病状の悪化や死期が近いことの自覚が、澁澤の執筆への最後の執念に結び付いた、というわけでは決してない。松山俊太郎が述べている (6)ように、「実は、平常心に支えられた、理性的意志の所為」として『高丘親王航海記』の完成は果たされたのである。
六五『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
Ⅰ 契機としての『思考の紋章学』
澁澤は、アンケート「わが著書を語る『思考の紋章学』」 (7)で、次のように述べる。
私は文芸評論家ではなく、自分ではエッセイストのつもりでおり、この『思考の紋章学』もエッセーのつもりで書いた。また私は学者でもないので、自分の仕事を堅苦しい文学研究の一種だとは思われたくない。そういう誤解はぜひとも訂正しておきたいと思う。つまり、私はエッセイストとして、読者に楽しい読書体験を味わってもらえればそれで十分なのである。
澁澤のエッセイには聞き慣れない名が頻出する。しかし、読み進めるにしたがって、それほど気にならなくなる。それは、澁澤自身が強調しているように、「堅苦しい文学研究の一種だとは思われたくない」し、「読者に楽しい読書体験を味わってもらえれば十分」だと考え、読者を選別することがないからである。たとえば『思考の紋章学』の第一話「ランプの廻転」を見てみよう。澁澤はまず、三島由紀夫が『小説とは何か』で柳田國男の『遠野物語』の一節を引用した部分を取り上げ、三島への共感を示す。しかし、澁澤にとって「そんなことはどうでもよい」ことであり、この冒頭は単なる導入でしかない。話題は、『遠野物語』のなかで取り上げられた「くるくると廻る炭取」から連想される、泉鏡花『草迷宮』における化け物屋敷でランプが廻り出すシー ンに移っていく。 ここで重要なのは、三島由紀夫や泉鏡花という作家名やその作品に馴染みがない読者であっても、そのエッセイを十分に楽しめるという点である。まず澁澤は、『遠野物語』の該当箇所を引用し、三島がそこからどのように論旨を展開したかを簡潔に説明する。ただしこれは、読者に最低限の知識を与えておこうという意図ゆえの説明ではなく、こういった背景的な知識は、実際にはほとんど必要がないということを伝えるためのものなのだ。やがて話題は『遠野物語』の廻転する炭取から『草迷宮』の廻転するランプへと移り、さらに化け物屋敷という迷宮を中心に三重もの時間が同心円上に積み重なっている『草迷宮』の、それ自体迷宮的な構造が解き明かされていく。ここでも、読者に『草迷宮』や鏡花についての知識を要求するわけではない。次いで、『稲生物怪録』、ギリシャ神話のテーセウスやマルセル・ブリヨンの迷宮論、カフカの『巣』、エリアーデの中心のシンボリズムなど、「廻転する迷宮とイニシュエーション」の数々がペダンティックなまでに繰り出され、『草迷宮』と比較され、最後に泉鏡花の母胎回帰についての指摘が示される。 このように見てくると、「ランプの廻転」は泉鏡花の作品研究のごとく読めるかも知れないが、澁澤の本意がそこにないことは言うまでもない。ふたたび、「わが著書を語る『思考の紋章学』」から引用しよう。
目に見えないものを見えるようにすること、それこそが文学だと私は考えているのである。
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六六
私は視覚的な人間で、観念には形があると思っている。たとえば泉鏡花の作品に、迷宮の構造を透視することが可能なのも、観念に形があればこそであろう。時間の腐蝕作用に抵抗する物質としての石は、私にとって、ユートピア願望の結晶したものにほかならない。それはユートピアという空間を一点に凝集した物体なのである。ヨーロッパの文学作品のみならず、日本の古典や近代文学にも、そうした相似た観念の形を発見することができる。だから『思考の紋章学』は、いわば精神の探検の記録だと言ってもよい。
澁澤いうところの「形」とは、類似のエピソードやイメージの連鎖によって見えてくる原型とでもいうべきものを、反復によって読者の目に焼き付けることで表現されるものなのだ。描写だけでは伝えられない「観念の形」のリアリティは、澁澤が繰り出すエピソードやイメージによって形作られていく。
澁澤は、それぞれのものから自分の好みにあったものをオブジェとしてもぎとり、一つの世界を創りあげていく。「真実性」は澁澤にとって、二次的なものでしかない。より肝心なことは、「嗜好と選択眼」という形をとる澁澤龍彥の個性が、美術的完成品としていかに見事に結晶するかである。澁澤のエッセイは、「たとえ聞きなれないラテン語やラテン詩人の名前などが出て」きたとしても、「義務教育を終えた人ならば、だれにでも容易に理解でき」て「おもしろが」ることができる。澁澤は、読者の側に立ち、読者を博物館としての宇宙の奥深くへと案 内する先導者なのだ。 翻訳やエッセイを書いてきた澁澤は、すでにこのころから自分の物語を紡いでいた。澁澤の力点がエッセイから短編小説へと移っていく過渡期の文章ともいえる『思考の紋章学』について言及した彼自身のことばを挙げておこう (8)。
一九九七年に刊行された本書『思考の紋章学』は、それより三年前に刊行された『胡桃の中の世界』と、それより四年後に刊行された『唐草物語』との、中間に位置する私の作品である。つまり、博物誌ふうのエッセーから短編小説ふうのフィクションに移行してゆく、過渡的な作品と考えることができる。(中略)
この『思考の紋章学』は、私が初めて日本古典を題材にして書き出したエッセーだということもできるだろう。それまでもっぱらヨーロッパに向けられていた私の目が、この作品とともに日本にも向けられるようになった。
澁澤は『思考の紋章学』刊行を契機にして、「博物誌ふうのエッセーから短編小説ふうのフィクション」、すなわち物語へと執筆の力点を移行させ、「それまでもっぱらヨーロッパに向けられていた」目を日本の古典にも向けるようになる。
一九八二(昭和
るようになる。日本と東洋の古典に関する研究はますます本格化し、 ともらすようになった澁澤は、意識的に外出を減らし、執筆に専念す 57)年頃から龍子夫人に「もう持ち時間が少ない」
六七『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
翌年からは『唐草物語』の連載を開始する。五十歳を境にして、小説(物語)に取り組むことに本腰を入れ始めたのである。
Ⅱ 幻想物語
以下は、『唐草物語』に関するインタヴュー記事の一節である。
――『唐草物語』では、これまでになく日本や中国への言及が目立つように感じたのですが、こうした傾向は『思考の紋章学』あたりから……
澁澤 そうね、『思考の紋章学』でも日本のことは少し入っているね。でも、むしろそれよりも形式的な面で、『唐草物語 00』と書いたみたいに、今までの書き方をちょっと変えて物語というか、反物語といいますか……まあ大体ぼくの書くものはエッセイというか評論というか(笑)そういうところから、少し物語性を加えてみたいと思ったんです。それでも普通の物語を書くのはどうも面白くない。なにか物語の枠みたいなものがあって、それを出たり入ったりするようなところが面白くてこういう形になっちゃったわけです。(中略)
澁澤 それともう一つは、ぼくは和歌なんかあまり興味はないですね。やっぱり中世の説話ですね、面白いのは。平安末期の院政期から中世にかけての時がいちばん面白いんじゃないかしら、その辺はまた、そういう題材がごろごろ転がっているしね。 ――そのわりに、まだ誰も本格的には手をつけていないようですが。澁澤 ええ、未開拓なところが多いですね。だから芥川龍之介みたいに、そういう説話を物語にするにしても……あれは心理主義でしょ。そういうのじゃなくて、結局は綺譚をつくること。それが面白いんだろうと思います。そういうところを衝きたいんです。(「『唐草物語』――オブジェに彩られた幻想譚」 (9))
また、入院後の一九八六(昭和
げておこう。 声帯を失っていた澁澤が筆談で応答えたインタヴュー記事を以下に挙 頭癌の手術(十一月十一日)の二週間前に、すでに気管支切開により 61)年十月二十九日、すなわち下咽
『うつろ舟』などの小説集について〈日本古典や歴史の中にいろんな材料があるんですね。まあ芥川なんか心理主義でやってるわけだけど、私としては一種のコント・ファンタスティック(幻想物語)として書いている。だいたい十九世紀フランスのコント・ファンタスティックが好きでホフマンの影響からポーへつながるわけですけど。十九世紀にはマルセル・シュオップなんてのがいますが、そういうのが好きなんですね。それをやはり、ちょっと新しくというか……〉〈物語なんです、小説というより。いま物語批判が大はやりですけど、私としては一種のアンチ物語、もしくは反反物語のつもり
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別冊
六八
なんです。いまの思想を踏まえてるつもりですけど、ナマの形では出さず、ひねってありますから、だから批評家の中には、深読みして、〈器官なき肉体〉なんていったり。でも自分でも意識はしてるんです。深読みじゃなくて正解かも知れない〉〈本来、小説はリアリズムに局限されないと思うんです〉〈十八世紀フランスの哲学小説とか、そんなのも好きだし、……だから自分ではリアリズム小説じゃなくて、物語だっていってるわけ〉最近の題材がとくに日本の中世・近世にわたっていることについて、〈興味が移ったこともあり、ヨーロッパ的方法で、日本古典を見るということかな。いままでの解釈とはちがったおもしろいもの、あえていえばSF的なものも、日本古典の中にたくさんある〉(中略)語り口、文体に軽みが生まれ、自在の境地に入ってきたことについて、〈それは自分でも意識してますね。若いころは突っぱてた。その凍結がだんだん溶けてきた。案外、三島さんが死んでからかもしれない。やっぱり自由さを求めたんでしょう〉〈ぼくの小説には、いろんな仕掛けがあるから、それを見抜いてくれる読者が最高なんですけど。ほんとかうそか、考証かフィクションか、パラドックスとか、エッシャーの絵のような〈だまし絵〉のイメージとか、そういうものを使いますから〉 そしていちばん力をそそいでおり、だが入院によって一時中断されている『高丘親王航海記』について、〈みんな、まだ何ともいってくれないけど、これ、まとまると、おもしろいはずなんです〉(「幻想物語 澁澤龍彥氏」
)(1
()
らの分身の高丘親王に、以下のように語らせる。 と呼ばれる。澁澤は、遺作となった『高丘親王航海記』のなかで、自 てくる。現実の異国と夢の国との誤差。それは普通エクゾティシズム や学術的言説によって「もう一つの世界」は堅牢なリアリティを帯び る「もう一つの世界」である。全てが架空のお伽の国ではなく、史実 チ物語、もしくは反反物語」とは現実世界の枠から出たり入ったりす 「コント・ファンタスティック(幻想物語)」あるいは「一種のアン ここで親王がぐっと返答につまったのは、自分でも思いがけないことだった。目的はただ一つ、仏法を求めるために決まっているではないか。そのためにこそ、二十歳そこそこで落飾してから四十有余年、ひたすらあこがれつづけてきた天竺へ、いのちにかけてまで渡航しようと思いつめたのではなかったか。しかし、このあまりにも自明な大前提を口にするのが、親王には何となく恥ずかしいような気がしてならなかった。それに、はたして自分は本当に求法のために渡天をくわだてたのだろうかと、いくらか疑いたくなるような気持もないわけではなかった。そんな大それた気持はもともと自分にはなくて、ただ子どものころから養い育て
六九『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
てきた、未知の国への好奇心のためだけに、渡天をくわだてたのだと考えたほうが分相応のような気がしないでもなかった。(「獏園」)
歴史上の高丘親王は、空海の高弟として知られた大徳であり、この小説もそれを踏まえている。しかし、重要なのは史実が事実であったかどうかではない。現実の世界と「もう一つの世界」とをどのように往き来させるかということが重要なのである。澁澤にとっての幻想物語とは、ただ「単に非合理的な事象と言うだけでは十分ではなく、私たちが認めている現実の否定、私たちが認めている事物の秩序の攪乱でなければならないのである」
)((
(。
夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じこんでいるひとが多いようだ。もっと幾何学的精神を! と私はいいたい。明確な線や輪郭で、細部をくっきりと描かなければ幻想にはならないのだということを知ってほしい。(「もっと幾何学的精神を(第一回幻想文学新人賞選評)」 )(1()
ダリの絵でもいい、あるいは「幻想文学」の表紙を描いている建石修志さんの絵でもいい、すぐれた幻想絵画を見ていただきたい。必ず明確な線や輪郭で、細部がくっきりと描写されていることに気がつくだろう。それと同じことで、幻想文学にも幾何学的精神が必要だということを私はいいたかったのである。幾何学的精神 は、また論理と構築性といいかえてもよい。(「ふたたび幾何学的精神を(第二回幻想文学新人賞選評)」 )(1()
幻想文学を書き、読む際のキイワードとして「幾何学的精神」を挙げる澁澤は、読者に対して「いろんな仕掛けがあるから、それを見拔いて」ほしいという。それを見抜くことによって、読者は現実世界と「もう一つの世界」を往き来することが可能となる。澁澤は読者にとっての「もう一つの世界」への案内人たり得ることを目指していた。そして、「いちばん力をそそいでおり、だが入院によって一時中断されている『高丘親王航海記』について、/〈みんな、まだ何ともいってくれないけど、これ、まとまると、おもしろいはずなんです〉」と筆談で述べた。「部分と全体が有機的に支え合っ」た幾何学的作品『高丘親王航海記』は、読者を「もう一つの世界」に案内する自信作であった。
Ⅲ プレテクストをめぐって
『高丘親王航海記』は一九八五(昭和
60)年から一九八七(昭和
62)
年にかけて『文學界』に連載された物語で、それまでに澁澤が書いてきた物語同様、さまざまな書物からの引用によって成り立っている。最も重要だと思われるプレテクストは、『高丘親王航海記』を書くきっかけとなった『類推の山』
)(1
(、高丘親王に関する情報源となった『真如親王伝研究―高丘親王伝考』
)(1
(、薬子に関する情報源『毒の文化史―新しきユマニテを求めて―』
)(1
(である。
愛知淑徳大学論集―文学部篇― 第四十六号
別冊
七〇
の大筋を澁澤は、この書から得た。前述のごとく、一九六三(昭和 アを求めて旅をするが辿り着かずに終わるという『高丘親王航海記』 澁澤はこれを評して、「終わらないのがよい」と述べている。ユートピ 西へと航海をする物語で、作者ドマールの死により未完に終わった。 るが地理的には実在しているユートピア「類推の山」を求めて東から 『類推の山』は澁澤お気に入りの作品である。人々が、不可視ではあ
38)
年の手帳に澁澤は、「Mont analogue[類推の山]/Roi de Posor/[ポーゾール王の冒険]マンディアルグ植物誌/一種のユートピア」とメモを残しており、かなり早い時期から『高丘親王航海記』の構想が固まっていたことを物語っている
)(1
(。実に二十年余りの時を経て『高丘親王航海記』は澁澤の中で熟成され、最晩年になって物語としての実を結んだのである。
な会話がある。 の関係もまた、アンチポデスになっている。『高丘親王航海記』にこん 西へと旅する『類推の山』と西から東へと旅する『高丘親王航海記』 『高丘親王航海記』において天竺はアンチポデスとされるが、東から
「天竺へ近づくには山を越さねばならないそうですが、みこ、その山はまだ見えないのでしょうか。」親王は笑って、「そう簡単に天竺へ近づけると思ったら大きに間違いだ。山はまだまだ北にすすまなければ見えないだろうよ。まず水だ。わたしたちは水の世界をくぐり抜けて、それから山にはいる。それが定 法というものさ。」 (「蘭房」)
「水の世界をくぐり抜けて山にはいる」という「定法」は『類推の山』と全く同じである。『類推の山』の航海者たちは、山への入口を求めて航海を続け、ある日突然開いた空間に入り、「類推の山」を求めて山に入るのである。
ている。これは、一体化に対する澁澤の特別な意識が作用した結果で 内に取り込んだ二重の空間構造、あるいは入れ子型構造の存在となっ ホーはモーとホーが横に並んだ状態なのに対し、春丸は完全に秋丸を めて、生まれる前の記憶としてぼんやりと思いだすぐらいである。モー 対して、秋丸が合体した春丸は秋丸の記憶を持たない。言われてはじ 思いついた」のだろう。ただし、モーホーは二人分の記憶を持つのに )(1( から〈春〉を連想して、〈秋丸と春丸〉の架空の一対に仕立てることを ころへ、高丘親王の実在の従者〈秋丸〉の名を知り、たちまち〈秋〉 「おそらく、澁澤にとって〈モーとホー〉の印象が強烈に残っていたと 春丸は澁澤が創り出した人物である。松山俊太郎が述べているように、 春丸の原型となっている。丈部秋丸は実在した親王の従者であるが、 ホーはモーとホー双方の記憶を持ち、これが『高丘親王航海記』の秋丸、 子が出てきて、二人は合体し、モーホーという一つの存在となる。モー 推の山』には、見分けがつかないほどそっくりなモーとホーという双 み込ませる原因となった影の男たちのモデルとなっている。また『類 てくるが、これは『高丘親王航海記』で親王に死の珠である真珠を呑 『類推の山』には、「うつろびと」という死者(=空虚な存在)が出
七一『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
ある。モーホーは身体が一つになっても精神は二つであった。澁澤は心身ともに一つになった存在を求めていたのである。
はこの世のアンチポデスであるということを強調することになった。 男になるかもしれないではないか」と言う。この台詞によって、天竺 初は男だった。それがここへきて女になった。天竺へ近づけば、また 女だとわかった時に騒ぎ立てた円覚、安展を諭して親王が、「秋丸は最 としての少女に設定しなければならなかった。また物語中で、秋丸が そして何よりも、秋丸・春丸に迦陵頻伽の役割を与えるために「鳥女」 によってアンドロギュヌス的存在に近づけたかった結果に外ならない。 に並々ならぬ関心を抱いていた澁澤が、秋丸を男装の少女にすること して、女の子とすり替えている。これは、アンドロギュヌス(両性具有) うとしているのを、『高丘親王航海記』では秋丸は早くに死んだことに 親王伝考』で従者の円覚、安展、秋丸は親王の没後も生きていただろ なものはほとんどこれに従っている。ただし、『真如親王伝研究―高丘 要な情報源となっている。出航、入唐年次、親王の年齢など、数字的 『真如親王伝研究―高丘親王伝考』は高丘親王の人物造型に関わる重
最も重要なのは、入唐の理由である。 『高丘親王航海記』と『真如親王伝研究―高丘親王伝考』の相違点で
どうやら最初から親王の真の目標は天竺にあり、諸国行脚も入唐も、洛陽も長安も、そこに到達するための単なる布石にすぎなかったのではないかという気がしてくる。(「儒艮」) 目的はただ一つ、仏法を求めるためにきまっているではないか。そのためにこそ、二十歳そこそこで落飾してから四十有余年、ひたすらあこがれつづけてきた天竺へ、いのちにかけてまで渡航しようと思いつめたのではなかったか。しかし、このあまりにも自明な大前提を口にするのが、親王には何となく恥ずかしいような気がしてならなかった。それに、はたして自分は本当に求法のために渡天をくわだてたのだろうかと、いくらか疑いたくなる気持もないわけではなかった。そんな大それた気持はもともと自分にはなくて、ただ子どものころから養い育ててきた、未知の国への好奇心のためだけに、渡天をくわだてたのだと考えたほうが分相応のような気がしないでもなかった。(「獏園」)
されど渡天の決意は入唐された結果であって、師錬のいうがごとくさいしょから、「彼ノ地、此ノ土ノ若クナラバ、遠ク葱嶺ヲ踰エン焉」と決意されていたのではない。そうした証拠はどこにも残っていないのである。
(中略)
親王は真言宗を介して、仏教の奥義を究めようとされた、その目的達成のための入唐であり、渡天であったということになろう。(『真如親王伝研究―高丘親王伝考』) あり、その理由はあくまでも求法のためとしているのに対して、『高丘 『真如親王伝研究―高丘親王伝考』においては、渡天は入唐の結果で
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七二
親王航海記』では、渡天こそが当初からの目的であり、それは未知の国への好奇心、すなわちエクゾティシズムによるものだとしている。澁澤は、物語の根源であり、基底をなす航海の理由を大きく改変した。『高丘親王航海記』において天竺は、薬子が鳥になって生まれ変わってくる場所であり、「なにもかもがわたしたちの世界とは正反対」であるが故に好奇心に駆られる場所であったのだ。
最後に、薬子に関する情報の典拠となった『毒の文化史―新しきユマニテを求めて―』について触れておこう。この書物からは「日本毒物史の一局面」という章が使われている。「薬子」という名前が毒味役を指す一般名詞であったことや、その時代においてすこぶる象徴的な名前であったこと、さらに薬子の死因に関する情報などが引用され、物語の設定に活かされている。この書では、薬子は毒に関して相当な知識を有しており、性格面においても強い個性の持ち主であったとされている。そして、「たんなる女性でなく、ある意味をもった女性ということで歴史のうえに語られる存在になった」と結論づけられた。これらの記述がヒントとなり、平城帝の寵姫であった悪女というイメージから、『高丘親王航海記』における妖艶で神秘的な、一個の人間としての範囲を超越した薬子という存在が創り出されたのである。
以上の三つのプレテクスト以外にも『高丘親王航海記』には多くの引用が見られる。それらプレテクストとでもいうべきものは、澁澤のエッセイの中に見出すことが出来る。以下、対応関係にあるものをいくつか例示しておく。 「天竺では、なにもかもがわたしたちの世界とは正反対なの。わたしたちの昼は天竺の夜。わたしたちの夏は天竺の冬。わたしたちの上は天竺の下。わたしたちの男は天竺の女。天竺の河は水源に向ってながれ、天竺の山は大きな穴みたいにへこんでいるの。まあ、どうでしょう、みこ、そんなおかしな世界が御想像になれまして。」 (「儒艮」)「北アジアのひとびとは他界をこの世が逆映しになったものとして受けとっている。他界のすべてのものは、この世に在るものとまったく同様に存在するが、その関係は逆転しているのである。この世の昼は彼の国の夜である。この世の夏は死者の国では冬である。……冥界では河川の流れが逆で、水源へ向かって流れる。」(「アンティポデス」『マルジナリア』 )(1(のエリアーデ『シャーマニズム』からの引用部分)「つまり、おれたちは新大陸の大蟻食にとってのアンチポデスなのだ。」「なに、アンチポデスだと。」「いかにも。地球の裏側には、ちょうど物のかげが倒立して水にうつるように、おれたちの足の裏にぴったり対応して、おれたちとそっくりな生きものがさかさまに存在している。それがアンチポデスだ。(後略)。」(「儒艮」)
ここで、北アジアのひとびとが考えている他界なるものは、中世のヨーロッパ人が考えたアンティポデスもしくはアンティクト
七三『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
ネスの世界とそっくりである。私たちの世界とは絶対に交流することがない地球の裏側の世界、すなわちアンティポデスの世界では、なにからなにまで私たちの世界とは正反対のことが行われ、どこからどこまで私たちとは正反対の生きものが棲息していると考えられていた。ちょうど物の影が倒立して水に映るように、私たちの足の裏にぴったり対応して、逆立ちしたアンティポデス人の足の裏がシンメトリックに接しているのだとさえ考えられた。そもそもアンティポデスというのは、足が逆向きをしているものという意味なのである。(「アンティポデス」『マルジナリア』)
「蜜人」で股間に鈴をつけた犬頭人に会う。この犬頭人は人間の女と犬の間に出来たものであり、鈴はそれを犬頭人だと知らしめて女と交わらせないようにするための標しである。(「蜜人」犬頭人についての叙述要約)
ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの大叙事詩『ウズ・ルジアダス』第十歌に歌われている「女と犬のみにくい交合から生まれた怪物」を「古くマルコ・ポーロの旅行記以来、ベンガル湾のアンガマン島(アンダマン島)に住んでいるとされてきた、犬の頭をした種族」のこととし、「この国の住民たちが「隠し所に鈴をつけ」ることによって、いまわしき人獣交合の過ちを排した点」がよく分からない、とした。(「鈴をつけた男たち」『マルジナリア』要約) 夢の中で、親王はまだ三十代の半ばであり、どういうわけか、ひとりで高い杉の樹のてっぺんにのぼっていた。(中略)どうやらここは高野山らしいと思いあたった。空海和上が開創して、つい近ごろ、そこに住むようになったばかりの高野山である。(中略)「高いところもお好きですし、遠いところもお好きですね。あなたが杉の樹のてっぺんへおのぼりになったのは、きっとそこから天竺を望見なさろうというお気持があったからでしょう。」
そんなつもりはなかったが、空海和上にいわれてみると、そう考えてもいいような気がしてきて、「なるほど、そうかもしれませぬ。」「あなたのようなお方には、わたし、ついぞお目にかかったことがない。拝察するところ、おこころざしはつねに遠くの遠くの、海外絶域にあらせられるようですね。わたしも若いころ唐土まではまいりましたが、それよりかなたの天竺へは足をのばしかねました。あなたはいずれ天竺へいらっしゃるおつもりなのでしょう。」「さあ、将来のことは。」「いや、きっとそうにちがいありませぬ。はばかりながら、わたしの活眼をもって見ぬくところ、あなたは天竺に至ろうとして至りえず、しばらく南海諸国を歴訪なさらなければならないという、思いがけない幸運にさえめぐまれますぞ。わたしもこんなに病みほうけて、いくばくもない余命を生きている身でさえなければ、あなたの将来の渡天の旅にぜひ御同道をねがいたいと思っている
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くらいですよ。」 (「蜜人」)
親王入唐の理由の一つとして、空海が親王の「念、他郷ニ有リ」と言ったことを挙げている。(『真如親王伝研究―高丘親王伝考』要約)
その日も笛を吹きつつ馬をすすめていたが、ようやく陽も落ちかかって、山なみの果ての西の空があかあかと染まるころ、やや気落ちしたような感じをおぼえて、親王は笛を腰の帯にさしたのだった。笛をやめると、あたりが急に森閑として、めったにないことだが、いやにさびしさが身にしみるように感じられる。これは風景そのもののさびしさなのか、それとも自分のこころから出てきたさびしさなのかと、あやしみながらぼんやり考えていると、向うから二頭の馬に乗ったふたりの旅人が近づいてくるのが見えた。
夕日を浴びた逆光線だから、そのふたりの旅人の顔やすがたまではよく見えない。よく見えないままに、だんだんこちらへ近づいてくる。とうとう路上ですれちがうことになったが、すれちがう瞬間、そのふたりを見るともなしに見やると、顔かたちはもちろん、着ているものから所持しているものまで、親王と春丸にそっくりそのままで、寸分もちがわない。こちらのふたりづれと向うのふたりづれとは、まさに瓜ふたつのカップルであった。親王はどきりとしたが、何食わぬ顔でふたりを行きすぎさせた。そして時をうつさず、馬上から首をめぐらしてみると、もはやふたりの すがたは馬とともに、けむりのように路上から消えうせていた。(「鏡湖」)
まるで鏡にでも映したように、自分自身のすがたが目の前に現れたら、大抵のひとは恐怖のあまり、声も出なくなってしまうのではないだろうか。正常なひとには信じられないかもしれないが、こうした現象は昔から知られており、精神医学上の用語ではオートスコピー(自己像幻視)という。
(中略)
以上が『奥州波奈志』に出ている「影の病」というエピソードである。
このエピソードにも出ているように、古くから、自己像幻視は死の前兆だと言われていたらしい。(中略)
ところで、ヨーロッパに目を移すと、この現象は芸術家の作品のなかに、かなり多く記録されているのだ。たとえばゲーテの『詩と真実』第三部に、次のようなゲーテ自身の体験が語られている。
ゲーテは二十一歳でシュトラスブルク大学にはいるが、その大学の在校時代、近くの村で、フリーデリケという牧師の娘と知り合い、恋をするようになる。やがて卒業が近づき、娘と別れなければならなくなるが、ちょうどそのころ、悶々の思いで彼女と会ってから、馬に乗って田舎道を進んでゆくと、同じ道の向こうから、やはり馬に乗って近づいてくる自分自身のすがたに気がついたのである。
おかしなことに、その自分にそっくりな男は、これまで自分が
七五『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
着たこともない、金色の混じった薄ネズミ色の服を着ていた。夢でもみているのではないか、と思って、ゲーテが強く頭をふると、その幻はすぐに消えてしまった。しかし、それから八年後、ふたたびフリーデリケに会いにゆくために、その同じ道を通ったとき、ゲーテはまったく偶然に、その幻の男が着ていた服とそっくりの服を着ていたのである。つまり、ゲーテは未来の自分のすがたを見たわけだったのである。(「
9 自己像幻視のこと」
『東西不思議物語』
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かくの如く、『高丘親王航海記』には、澁澤の興味・関心のありようを示す引用が随所にちりばめられている。いずれも、物語の深部に関わるほどのものではないが、アンチポデスとしての天竺を発想するきっかけになったり、物語結末におとずれる親王の死の予兆の働きをしたりと、物語の読みの方向を指示するコードの役割を果たしている。
澁澤は、『類推の山』を読んだことをきっかけにして、ユートピアを求めて旅をする物語を創ろうと目論み、その主人公にふさわしい人物、高丘親王と出会った。『類推の山』を「終わらないのが良い」と評した澁澤には、親王が天竺に辿り着くことなく死んでしまうのも都合の好いことであった。到達させるのではなく旅をさせることが澁澤の目的であり、旅の途中で「智」
)1(
(の帙を紐解いて、披露していくことこそが澁澤の愉悦を覚えるところであった。
『高丘親王航海記』の世界
Ⅳ
1航路 前述のごとく、『高丘親王航海記』の根本資料となったのは、杉本直次郎の『真如親王伝研究―高丘親王伝考』である。親王の入唐前後からの事跡を伝える資料としては、一五〇字足らずの『真如親王入唐略記』と、これに附載された二〇〇〇字ほどの『頭陀親王入唐略記』しかなく、史実としての親王入唐はあまり知られていない。
澁澤龍彥の『高丘親王航海記』では、「唐の咸通六年、日本の暦でいえば貞観七年乙酉の正月二十七日、高丘親王は広州から船で天竺へ向った」とあり、辿った道のりとしては、広州から船で占 チヤンパ城(ベトナム)に行き、メコン川をさかのぼって淡洋(トンレサップ湖)から真 しんろう臘(カンボジャ)の王都へ、つづいてマライ半島中部の盤盤国へ行く。そこから偏西風に乗ってビルマ西岸のアラカン国に辿り着く。ところが、そこからイラワジ河をさかのぼり、雲南南詔国まで行き、ふたたびアラカン国よりアラビア船に乗って獅子国(セイロン島)を目ざすも、風のためにスマトラ島に漂着。そこからマライ半島南端(シンガポール付近)の羅越国に行って、高丘親王は虎に自分を食わせて天竺へ行くということになっている。
はっきりわかっているわけではなく、虎害説についてもあくまでも伝 へ向かうための道程は明確ではない。また、高丘親王の遷化についても、 『真如親王伝研究―高丘親王伝考』によると、高丘親王が唐から天竺
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説であろうとしている。それならばなぜ澁澤は、『高丘親王航海記』のような航路を親王に取らせたのか。
まず第一に、高丘親王は唐から天竺へ渡ろうとするが、天竺へは辿り着くことができず途中で遷化する。年号などはさておき、史実としてわかっていることはこれだけであり、どのように天竺に渡ろうとしたのかは全くわかっていない。とすると、史実としてわかっている最初と最後は別にして、明確ではない途中は澁澤にとって、想像力を働かせ、物語化するのに最適な部分であったといえよう。『高丘親王航海記』における親王の出発は次のようになっている。
おおよその計画としては、親王の一行は小さな船に身を託して、この港から広州通海夷道と称する航路を南西に向ってすすみ、安南都護府のある交州で上陸して、安南通天竺道と称する陸路から天竺入りする予定だった。(中略)しかし実際のところ、海であれ陸であれ、どんな不測の危険が待伏せしているかもしれぬ未知の領域であってみれば、そんな計画的な旅はとても望めそうになく、さしあたっては運を風にまかせて、とにかく行けるところまで船を南にすすめることよりほかには考える必要もなさそうであった。(「儒艮」)
「運を風にまかせて」とあるように、親王一行の旅ははじめから成り行きまかせのようなところがある。ところが『真如親王伝研究―高丘親王伝考』によると、可能性としては「天竺への到着を急がれていたよ うなので、親王は、できうれば、天竺へ直航する船を選ばれたと思われる」「親王は貞観七年(
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画的に船に乗ったのではないかと思われる。 目的はあくまでも天竺へ渡ることであり、急いでいたこともあり、計 最終の婆羅門船に便乗されたのではなかろうか」と推測されている。 うとされたのであるから、おそらく天竺へ帰ろうとする、その季節の 5)正月廿七日、広州から天竺にわたろ それに比して、『高丘親王航海記』の親王は、風にまかせて船旅を楽しむといった風情だ。しかし、ただふらふらと親王をあちこちに行かせたわけではなく、何らかの計算が働いていたことも確かである。
澁澤はこの小説のために地図を作製していた。この地図にしたがって先ほどの航路をたどると、トンレサップ湖の少し上に位置するアンコールを中心とすれば、広州・シンガポール、スマトラ北部・アラカン・雲南はほぼ等距離にあることがわかる。アンコールを中心にした同心円の中を親王は漂泊するというわけだ。それでは中心となったアンコールには何があったのか。
ヒンズー教のシヴァ神に捧げる寺院アンコール・ワットは一一二二年の着工であり、高丘親王の時代にはまだ建設されていない。九世紀にはアンコール・トムと呼ばれるものが建てられており、『高丘親王航海記』の「蘭房」で親王が訪れた後宮はこうした寺院だったのではないかと想像される。
アジアの宗教の曙といえば、まずインダス文明があげられる。インダス川に沿ったハラッパーとモヘンジョ・ダロを中心とした東西一〇〇〇マイルの地に、人間中心的な自然崇拝・多神教的な生活をベース
七七『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
に一大文明が築き上げられた。そのインダス川のパンジャブ地方に、やがてアーリア人が侵入してくる。彼らは土着のドラヴィダ人を征服しながらガンジス川流域に定着し、バラモンと称する世襲の僧侶を中心に、聖典ヴェーダに基づく宗教生活を営む。これがバラモン教である。
前五〇〇年頃になると、インドではバラモン教団の堕落が始まり、ジャイナ教をはじめとして、多くの自由思想家群が改革を唱えはじめる。なかでも後世に大きな影響をもたらしたのが仏教である。釈迦族の皇太子シッタルダは、宇宙・人生の真理を悟って仏陀となり、仏教を唱導した。仏教の隆盛に目覚めさせられたバラモン教は、前一八〇年頃から土着の信仰習俗を吸収、混合融和させることで新宗教とでもいうべきヒンズー教を誕生させる。この仏教・ヒンズー教がアジア各地に展開され、アジアにおける宗教交流の第一波として拡散した。
その第一歩は、前二四〇年頃、インドのアショカ王の子マヒンダがスリランカに仏教を伝えたことにより始まる。その後約二世紀の間に仏教はほぼ全島に広がり、五世紀にはパーリ語によって分別上座部が大成されるに至った。これが『南伝大蔵経』である。
二世紀から七世紀にかけて、仏教はさらにミャンマーからタイ、インドネシア、カンボジア、南ベトナムへと伝播されていく。これを「南伝仏教」と呼ぶ。ミャンマーもタイも、歴代の王朝が手厚く保護したこともあり、仏教は民衆の間に定着していった。さらに、カンボジア、南ベトナム、インドネシアでは、仏教とヒンズー教の混淆の上に成り立つインド文化が広まっていった。東南アジアでは、仏教のみならず、仏教との混合体であるヒンズー教が信仰されていたのである。
え方である。 認識する世界は、実体的、実質的なものではなく、幻であるという考 はマーヤーの創造遊戯の業によって生み出されたものであり、我々が れに対する我々の認識が虚無であるという。つまり、外的な現象世界 である。ただし、世界そのものが幻影であるというわけではなく、そ ブラフマーは創造神であり、夢によって宇宙を作り出す偉大な魔術師 神の夢、すなわちマーヤー(虚妄)にすぎないという考え方がある。 ンズーの思想の根底には、人間が現実と認識しているものはブラフマー との背景には、このヒンズーの思想との関わりがあると思われる。ヒ 『高丘親王航海記』においてアンコールが漂泊の中心となっているこ これは、『高丘親王航海記』の構造そのものではないか。史実としての高岳親王は存在する。しかし、高岳親王の渡天の記録はほとんどなく、実態は分かっていない。澁澤龍彥は、夢によって宇宙を作り出す創造神ブラフマーの如く、親王の天竺に渡るための航海を夢か幻の世界として創り上げていった。
2薬子について 薬子は、物語中の登場回数が少ないにもかかわらず、圧倒的な存在感を誇る。史実通り薬子は、親王が幼いころに死んだことになっており、親王の回想と夢の中にのみ登場する存在だ。ただし薬子は、「獏園」「頻伽」に登場するパタリヤ・パタタ姫と双性をなしており、両者の関係は重要な意味をもつ。薬子と親王との関係を裏付ける歴史的資料は皆
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無である。澁澤は親王を主人公と定めた際にその周辺の人物関係を見て、薬子に目を留めたものと推察される。『世界悪女物語』の「あとがき(文庫版)」に、「本文にも書いておいたが、世界悪女物語と銘うった以上、ヨーロッパの悪女だけでなく、ぜひ日本の悪女をも登場させたいと私は考えた。しかし残念ながら、日本には適当な代表選手を見つけることができなかった。現在の私ならば、できるかもしれない」 )11(
とあり、前々から薬子に目をつけていた可能性もある。物語中の薬子は、『毒の文化史』に基づいて創られた澁澤オリジナルの薬子なのであった。
薬子は、親王の天竺への好奇心を育てた人物である。しかも、その天竺への憧れは、薬子が「その手をゆっくり親王の股間にのばして、子どもの小さな二つの玉を掌につつみこみ、掌のなかで鈴のようにころころと動かしたりする」ことによってもたらされる性の快感とも結びついている。薬子は、自分には未来のことが見えると言い、「みこはいまに大きくなったら、お船に乗って天竺へいらっしゃるのね」と、陰嚢の天竺行きを予言する。そして、光るものを投げて、天竺の森の中で五十年ばかり月の光にあたためられると、その中から鳥になって生まれてくるとする。その光る石は、「儒艮」における占城の森の蟻塚で、中に鳥がいて月の光を吸いこんで成長している石として発見される。その石の前で親王は、次のように迷い、躊躇う。
もしこの鳥が石の殻をやぶる前に、自分が思いきって、この石を日本に向けて力いっぱいほうり投げるとすれば、みるみる時間が逆行して、ふたたび過去が目の前に再現するということもありう るのではないか。そんな途方もない考えだった。むろん、そういう考えがあたまに沸いてくるためには、そのとき親王のこころに、あの何とも知れぬ光るものを暗い庭に向って投げた、影絵の中の女のような、六十年前の薬子のすがたが思い浮かんでいなければならないはずだった。 (
中略)いっぽうでは、鳥が石の中から飛び立つのを見たいという気持もないわけではなかった。しかし他方では、鳥を石の中に封じこめたまま、ふたたび甘美な過去の時間にひたってみたいという気持も強くあった。すなわち石を日本へ投げて時間を逆行させれば、なつかしい薬子に会えるのではないかという万が一の期待である。(「儒艮」)
天竺は、仏教というエクゾティシズムの中心核にあるもので、それに対する好奇心を親王に抱かしめたのは、薬子その人であった。一方で薬子は、親王のノスタルジーの象徴でもある。未来志向的といえるエクゾティシズムと過去志向的なノスタルジーという相対するもの双方への誘導性が、薬子の中で重なるのである。
薬子は、親王の夢に四度現れる。一度目は、「蘭房」において、男装した薬子と親王が竹生島に行き、迦陵頻伽を見る場面。二度目は、「獏園」において、獏によって夢を食われている親王が悪夢を見る場面である。悪夢の中で薬子の目は残忍な光をたたえていた。「獏園」で親王は、もう一つの夢、パタリヤ・パタタ姫が獏とたわむれる夢を見るのだが、その姫を親王は「そのおもだちが薬子にそっくり」だと思い、「そ
七九『高丘親王航海記』を読む (小倉斉)
れまで思いもよらなかった薬子の残忍のいろが、いっそう強調され拡大されたかたちで、この少女の中にまざまざと再現されているかのように見えた」と感じる。外見的なものと「残忍のいろ」という共通点をもって薬子とパタリヤ・パタタ姫は双性をなしていくのである。三度目は、「蜜人」における空海と会う夢である。その中で薬子は、孔雀の像になっている。四度目の夢では、「頻伽」においてパタリヤ・パタタ姫として現れ、いつの間にか薬子に変化して、親王の命の象徴である光る石を投げて再生を約束するのである。
薬子は、親王に性の快感を与え、天竺への好奇心を植え付けた。そして、親王の天竺行きを予言し、親王を天竺へと誘導する。あるいは、パタリヤ・パタタ姫として親王の死に方を示唆し、親王が人生の最後に至るまで水先案内人を務める。さらに、親王の夢の中で光る石を投げることによって、親王の現生のみならず後生までをも掌るのである。『唐草物語』の「三つの髑髏」の安倍晴明が、「予兆はどこまで行っても予兆で、ついに出来事そのものとは一致せず、出来事そのものには到達しない」人物で、「いつも出来事のあとを追いかけているにすぎない」存在であるなら、薬子は晴明を越えて、出来事そのものに到達することのできる存在であった。薬子は、『思考の紋章学』で澁澤が書いた以下の記述と重なる。
さて、十六世紀後半の反プレイヤッド派ともいうべきフランスの群小詩人たちであるが、この派の詩人たちは、(中略)女性に対して独特のエロティックな教説を奉じていた。いわば女性を、 宇宙の秘儀に参入するための欠くべからざる導き手と見なしていたのである。(中略)精神性と官能性とが正比例していて、大宇宙と小宇宙の関係のようにパラレルだったのである。女性は世界のミニアチュールであり、女性の肉体は、彼らが飽くなき渇望の眼とともに探索しなければならない、一個の隠された楽園に似た風景だったのである。(「姉の力」『思考の紋章学』
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薬子はまさに、「宇宙の秘儀に参入するための欠くべからざる導き手」としての「女性」であった。そもそも『高丘親王航海記』には薬子の外に女性はほとんど登場しない。パタリヤ・パタタ姫は薬子の転化したものであるし、秋丸、春丸もしかりである。単孔の女は、人間というより鳥としてのイメージを強く感じさせる。薬子こそが、群を抜いて官能性を発揮する「女性」であった。
薬子は「世界のミニアチュール」的存在であり、親王はその中で旅をしていたのである。実在の天竺ではなく、薬子によって示されたアンチポデスの天竺を求め、さらにその旅の最中に薬子の夢を見る。薬子の中に天竺があり、その中に親王がおり、さらにその夢の中に薬子がいる。そのような幾重にも重なった空間が出来上がっているのだ。薬子は、伸縮自在の空間であり、ノスタルジーもエクゾティシズムも性の快感も、すべてを内包したひとつの小宇宙なのであった。
3鳥へのこだわり
愛知淑徳大学論集―文学部篇― 第四十六号
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く。 なす春丸は卵生で、物語終末では迦陵頻伽となり親王の後を追ってい 一世の後宮で下半身が鳥である単孔の女を見る。また、秋丸と双性を で親王が薬子と見紛うたのは迦陵頻伽であったし、ジャヤヴァルマン おける親王の夢の中では鳥へと変身する。「蘭房」においても、夢の中 見られる。薬子は天竺で鳥に生まれ変わる予定であったし、「蜜人」に 『高丘親王航海記』には鳥へのこだわりとでもいうべきものが随所に
た薬子の魂を託すのに相応しいアイテムであった。 一つのコスモスなのである」とあるように、一つの小宇宙を成してい あろう。『胡桃の中の世界』に「卵とは、混沌を包含しているところの 連想により、薬子が自分の未生の卵を投げる行動が生み出されたので わってくるからである。鳥―卵生―卵―命(魂)の容れもの、という が適切かもしれない。鳥について語るときには卵生という点で卵も関 ただし、「画美人」の場合は、鳥というよりは卵へのこだわりという方 は美女でも、あれな卵から生まれる一種の鳥類だからさ」と言われる。 伽には臍がないとな。なるほど、お手まえのおっしゃる通りじゃ。顔 て臍はありやしない」と言って慰める。さらにその男は夢で、「迦陵頻 臍がないと分かってしまった女に「臍がないといえば、迦陵頻伽にだっ 丘親王航海記』にも出てくる竹生島の眷属である。「画美人」では男が、 狗は、それぞれの霊山からやってくるのだが、そのうちの一党は『高 式において鳥の一種ともいうべき天狗を登場させている。これらの天 の「夢ちがえ」では、主人公の姓を「鳥養」としたり、夢ちがえの儀 『高丘親王航海記』以外でも鳥へのこだわりは見られる。『ねむり姫』 ついてのエッセイから引用しよう。 て、鳥と薬子の関連を明確に認めている。鳥と女を結合させた鳥女に れまでにも何度か鳥のすがたをして親王の夢にあらわれている」とし ろうか。「蜜人」では、「死んだ薬子はどうも鳥に縁があるようで、こ では、迦陵頻伽(鳥)と薬子とは、どうして結びつけられたのであ
セイレーン(英語ではサイレン)は一般的に「人魚」と訳されるが、上半身が女で下半身が魚のかたちをしたセイレーンは、じつは中世以後のものにすぎず、古代においては、上半身が女で下半身が鳥の形をしたセイレーンが普通であった。いわば「鳥女」である。
この鳥女としてのセイレーンは、やはり海の怪物であって、絶海の孤島の岩の上に棲み、美しい声で歌を歌って船乗りをまどわすと信じられた。それが鳥のかたちをしていることには、特別の意味があると思われる。日本の神話や伝説でも、空を飛ぶ鳥は、しばしば肉体を離れた死者の魂だと考えられたが、このセイレーンも、天国と地獄のあいだを迷っている、罪深い死者の魂なのであって、生者の国からも死者の国からも隔てられているので、それで絶海の孤島に棲んでいる、と考えられたのだ。(「人魚の進化」『幻想博物誌』
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薬子は鳥として再生するはずだったが、それは親王の手によって阻止される。その結果、薬子の魂は、「肉体を離れた死者の魂」として彷