研究の基盤となるもの 〜教師おこし委員会より〜
私たちは、教師が子どもとの営みを自己との対話により見っめ直し、教師として人として自分自身 の内面を探り、自らの存在価値と可能性を模索する「自分探し」を行うことを「教師おこし」と呼び、
大切にしている。
(1)教師おこしに込めてきたもの
本校の研究に脈々と流れているもの。それは「子どもを理解しようとする姿勢」である。私たちは、
子どもは自らの内に成長しようとする力をもっていると信じ、子どもの表れを懐深く受け止め、どこ までも子どもを理解しようとしてきた。
人として今を精一杯生きる子どもは、自身の成長しようとする力を発揮する中で自分の見方や感じ 方、考え方を表出している。子どもは今を生きる者として、互いにそれぞれの見方や感じ方、考え方
を感じ合う中で自分自身を見っめ、意識している。他とのずれや共通点と向き合い自分の見方や感じ 方、考え方を見っめ直していく。自分はどうあるべきか判断することをくり返すことで、今までの自 分の見方や感じ方、考え方を強めたり広げたりして変容させる。このように、自分の見方や感じ方、
考え方を自ら変容させていくことが、より自分らしくなっていくことであり、成長することである。
そんな子どもをとらえ、子どもに願い関わるのは他ならぬ教師である。教師がとらえ、願い関わる 以上、子どもの表れには、教師自身の子どもに対する見方や感じ方、考え方が反映されている。だか らこそ私たちは、子どもの表れを鏡に日々の子どもとの生活の中の何気ないことにも立ち止まり、自 分自身を顧みてきた。私たち教師は自分自身を顧みることで、自分の見方や感じ方、考え方といった 価値観さえも問い直し、子どもに対する自分の見方や感じ方、考え方ゐ幅を広く厚くしようとしてき た。私たちは自己との対話をくり返し、教師として人として、自分の存在価値と可能性を模索してき たのだ。つまり、子どもを見っめることで「自分探し」を続けてきたのだ。
私たちはその中で子どもの魅力を再発見し、心震わせてきた。子どもの成長しようとする力はその 子の内にあり、子どもはそれを発揮しようとしていることを確信してきた。一方で、それまで意識し たことのないあらたな自分に出会い、驚きや歓びを感じてきた。時に自分の弱さや甘さに出会い、苦 悩を感じもした。
だが、子どもは今を精一杯生き、ひとところに留まってはいない。だからこそ教師も、今、目の前 の子どもをどこまでも理解しようと謙虚な気持ちで自分自身を見っめ、常に自己との対話をくり返し ていく。くり返すことで自分自身への気づきは深まるとともに、子どもの表れからその子らしさをと らえる目は研ぎ澄まされていく。子どもに対する教師の見方や感じ方、考え方の幅は広く厚くなって いき、そのとらえ、願い、関わりは、その教師個有の自分らしさを帯びた温かみのあるものとなる。
私たちにできることは、簡単に子どもを理解したっもりになるのではなく、常に自己との対話をく り返していくことである。くり返していくことで教師も、子どもと同じひとりの人として、学び手と して、自分らしくなっていける。何気なく見過ごしてきた日常に、その子どもの自分らしさ、その子 らしさを感じていくことしかない。これは、どこまでも子どもを理解しようとすること、つまり私た ちが「教師おこし」を貫こうとすることそのものだと言える。
教師おこしは、その教師に委ねられ、その教師の内面で日常的に行われる個性的で個人的な活動で ある。自分は子どもを理解しようとしているのかと、自分で自分に問いかけ続ける孤独で厳しく終わ りのないものだ。しかし終わりはなくても、私たちが子どもの表れを鏡に立ち止まり、顧みようとす ることが「教師おこし」をどこまでも貢こうとすることだと言える。私たちが子どもの表れを懐深く 受け止め、どこまでも子どもを理解しようとすることは、子どもに対するとらえ、願い、関わりをそ の教師個有の自分らしさを帯びた温かみのあるものにする。それは、その教師がかもし出す温かな空 気となって、その子らしさの発拝につながり、目の前の子どもの成長に必ずや還っていくのだ。
学校は、子どもひとりひとりの内にある成長しようとする力が、最大限に発揮される場でありたい。
私たちが、子どもを理解しようと「教師おこし」を貫いていくことは、子どもも教師も、自分らしく なっていくことに歓びを感じられる学校の姿を追い求める決意に他ならない。
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(2)本年度(15年度)の教師おこし委員会の取り組みの重点
昨年度は「自分らしさを探る」を重点とし、日々の実践、子どもの表れから感じたことをレポート に綴ること、思いを語り合うことの中で、子どもの表れを鏡に自分を見つめてきた。表れが表出した 時や思い起こしている今の自分の内面を見っめ直すことで、自己との対話を行ってきた。 私たちは
「自分らしさ」とは何だろうかと、日々の生活の中で時に立ち止まって考えることが「自分探し」に つながるのではないかと思えるようになった。その時々に感じられたことの積み重ねによって、自分 の見方や感じ方、考え方の幅に少し広がりや厚みが増してきたのではないかと思えるようにもなった。
一方で「教師おこし」は、自分で自分を問い続けていく孤独で厳しいことなのだということを、私 たちはあらためて受け止める必要があると感じた。確かに他の教師のレポートを読むことや語り合う
ことは、仲間の温かさを感じたり、子どもに対する自分のとらえを肯定できたりする瞬間ではある。
しかし、温かさやその子らしさではないかというものを感じてもなお、真筆に自分の内面と向き合い、
さらに自己との対話をくり返していただろうか。何よりも「子どもを理解しようとする姿勢」を大切 にしてきたこと、ひいては自分の存在価値や可能性を模索し、教師として、人として自分らしくなっ ていこうとしてきただろうか。どこか子どもを理解したと感じていた自分たちがいたはずだ。
私たちは、「教師おこし」をどこまでも貫いていくことを大切にし、仲間の存在に安住してしまう のではなく、ともに切磋琢磨していく確固たる個の集まりとしての教師集団「厳しくも温かい教師集 団」でありたい。そこで本委員会は、自分の存在価値や可能性を模索する契機となる場であることを 確認し、本年度もレポートを綴ることと思いを語り合う活動を継承する。活動を通して互いが立ち止 まれる契機を生み出し合う。子どもを信じ理解しようと、ひとりひとりが真筆に子どもの表れを鏡に
自分の内面と向き合い、自分の存在価値や可能性を模索し合う。そんな教師、教師集団でありたい。
私たちは、レポートを綴りながら自己との対話をすることで、子どもの魅力を再発見し、心震わさ れる。それまで感じられなかったあらたな自分に出会い歓び、驚く。時に自分の弱さや甘さや無力さ に出会い苦悩する。そして、私たちは個々の思いを胸に他の教師のレポートを読む。レポートを読み ながら、子どもに対する感激や自分自身の歓びや驚き、苦悩を重ねてしまう。重ねる中で「自分も同
じような経験があるな。私も同じように感じるな」「自分とは感じ方が遵うな。どうして私はそう感 じてしまうのだろう」などと、さらに自分を見っめていく。
レポートをもとに自分の思いを語り合う中で、感激や歓び、苦悩に対して共感され「他の教師も同 じように感じるのか」と温かさを感じる。逆にずれと向き合わされたり、感じたりすることで「自分 は違うのか」と厳しさを感じる。時には、自分がそれまで全く気づかなかった見方や感じ方、考え方 に出会い、「どうしてなのか」と立ち止まり、戸惑う。
語り合いが終わり、温かさや厳しさ、戸惑いを感じた私たち教師は、「本当にそうなのか」「自分は どうあるべきなのか」「一体なぜなのか」と今一度自己と対話していく。自分が語ったこと、感じた ことから自分の見方や感じ方、考え方を見っめ直す。そして、理解したっもりになって通り過ぎよう としていた中に、あらたな自分の見方や感じ方、考え方、それでも変わらない自分を見出し、歓びや 苦悩をさらに感じていく。日々の生活に戻った中で「自分探し」を続けていくのだ。
「教師おこし」は、その教師に価値観の同一化や変化を求めるものではない。異質であること、違う ことを恐れず、感じたことを飾らず、自分の言葉でレポートに綴ろう、仲間とともに語り合おうとす るからこそ、自分が立ち止まれ、私たちのその子らしさをとらえる目は研ぎ澄まされる。自らの感性 に教師集団の仲間ひとりひとりの見方や感じ方、考え方が響くことが立ち止まるきっかけとなり、自 己と対話していく契機となっていくのだ。
私たちが「厳しくも温かい教師集団」であろうとすることは、どこまでも「教師おこし」を貢こう と自己との対話をくり返し「自分探し」を続けていくことに他ならない。続けていくことが子どもに 対する見方や感じ方、考え方の幅に広がりや厚みをもたせ、とらえ、願い、関わりをその教師個有の 自分らしさを帯びた温かみのあるものにする。それは、その教師がかもし出す温かな空気となってそ の子らしさの発揮につながり、今を精一杯に生きようとしている目の前の子どもの成長に還るのだ。
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