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長 崎県 におけ る寺子屋等 の研 究
熊 谷 忠 泰
Studie Über TERAKOYA und dergleichen in der Präfektur Nagasaki
von
Tadahiro KUMAGAI
は じ め に
従 来,寺 子 屋 等 の研 究 は,特 殊 な地 方 史 的研 究 を 除 い て は,基 本 資 料 と して多 く文 部 省 編 『日本 教 育 史 資 料 』 が 使 用 され て きた 。 本 『資 料 』 書(以 下 単G̀『 資 料 』 とい う)は, 明治23年 当時 の文 部 省総 務 局 長 辻 新 次 の 「緒 言 」 に よれ ば,明 治16年 初 頭,文 部 省報 告 局 に本 邦 教 育 史編 纂 を命 じ,同 年2月 各 府 県 に資 料 提 供 方 を 「達 」 し,明 治17年 以 降22年 に か け て の各 府 県(諸 学 校,諸 官 衙 及 び 旧藩 主 等)か らの報 告 書200余 部 を 整 理 して 明 治23 年7月21日 に 初 版 刊 行(東 京,冨 山房)と な った もの で あ る1)。 国 の事 業 と して 全 国 的 規 模 で,し か も体 系 的 に行 っ た こ と,ま た 時期 的 に も未 だ維 新 早hで 資 料 蒐 集 も容 易 で あ った
こ と な ど,基 本 資 料 と して長 く これ 以 上 の もの を 見出 す こ とは で き なか っ た。
しか し,そ れ に も拘 わ らず,本 『資 料 』 書 に もそ れ な りの 問 題 点 が あ った 。 そ の第 一 は,報 告 洩 れ が あ る こ とで あ る 。 そ こに は,岩 手 県,茨 城 県,埼 玉 県,奈 良県,香 川 県, 愛 媛 県,沖 縄 県 の七 県 に つ い て 全 く記 載 が ない の で あ る。 第 二 は,報 告 さ れ た もの の うち で も,府 県 段 階 の調 査 そ の もの に遺 漏 が あ った の で は な い か と疑 わ れ る よ うな,余 りに も 少 な い数 字 しか 記 載 さ れ て い な い こ とで あ る。 例 え ば,寺 子 屋 の最 少 保 有 県 と数 を順 次 挙 げ る と,宮 崎 県9,富 山 県17,鹿 児 島県19,静 岡県25,佐 賀県27等 々で あ り,私 塾 で は, 函 館 県0,鹿 児 島 県1,和 歌 山 県3,鳥 取 県4,三 重 県4,静 岡 県4,富 山 県4等 々 とな
り,如 何 に教 育 が 普 及 して い なか った 時 代 とは い え,こ れ で は とて も納 得 で き る数 で は な い。 特 に 両 者 に つ い て 共 に少 な い富 山県,鹿 児 島県,静 岡県 で は 一 体 どの よ うな教 育 が 行 わ れ て い た の か と謁 ら ざ る を得 な い。 そ の 調査 洩 れ の 証 拠 と して は,そ の後 の調 査 で,例
>Z
.ば,未 報 告 の埼 玉 県 で は,寺 子屋 数828,師 匠 数1,120名 が 『埼 玉 県 教 育 史 』(昭 和43年版) に 挙 げ られ て お り,r資 料 』 書 で 寺 子 屋 数86,私 塾19,計105の 栃木 県 が,r栃 木 県 教 育 史 』(昭 和32年版)で は449に 増 加 して い る し,更 に寺 子 屋 数63,私 塾6,計69の 山形 県 が,『 山形 県 教 育 史 』(昭 和27年版)で は631と な っ て い る2)。 この事 は,長 崎 県 につ い て もい え る。 昭和 ユ7年初 版 の 『長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に は,『 資 料 』 書 刊 行 以後 の 調査 の 結 果 判 明 せ る もの,寺 子屋32,私 塾7が 追 記 され て い る の で あ る3)。 この よ うに,そ の 後 の調 査 結 果 を 全 国 的 に 調 べ て い く と,可 成 りの発 堀 数 を算 す る こ とが で き る ので は な いか と思
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号わ れ る。 第 三 の 問題 点 は,文 部 省 へ の府 県 当局 の 「…報 告」 は 明 治16年2月 以 降(記 録,口 碑 等 に よ る)と して も,各 府 県 に お け る個hの 寺 子屋 ・私 塾 等 の 「調 査 年 代 」 が ま ち ま ち
(天保期 あ り,安 政期 あ り,弘 化期 あ り,嘉 永,慶 応,明 治期 もあって)で,報 告 の 「原 資 料 」 が 必 ず し も一 定 せ ず,そ れ は,結 果 的 に 「学 科 」 「就学 児 数 」 「師 匠 又 は経 営 者 名 」 に 時 代 的 変 化 を 生 じ,こ う して 実 態 とは 多 少 の差 異 を生 じて くるで あ ろ うこ とが 予 想 され る。
仔 細 に検 討 す れ ば,確 か に以 上 の よ うな 問 題 点 を 持 つ もの で は あ るが,そ れ で も全 国 的 な 総..:u;・的 実 態 を把 握 す るた め に は,や は り 『資料 』 は 基 本 資 料 と して 必 要 に して 不 可 欠 な もの で あ る。 しか も,維 新 以 後110余 年 を 経 た 今 日で は,実 際 に 寺 子 屋 教 育 を経 験 した 故 老 は 殆 ど生 存 せ ず,他 に 隠 れ た 記 録,口 碑 が 発 見さ れ な い 限 り,往 時 の実 状 を窺 うこ とは で きな い 事 態 に お い て は 尚 更 の こ と で あ る。 今 日見 られ る長 崎 県 に お け る寺 子 屋 ・私塾 等 の 研 究 書 に は,r長 崎 県 教 育 史 ・上 』(長 崎県教育会編 昭和17年),『 長 崎 県 教 育 文 化 史 』 (内山克巳編,昭 和41年),r長 崎 県 史 ・近 代 編(政 治 ・教 育 。文 化 編)』(長 崎県 編,昭 和51 年),乙 竹 岩 造r日 本 庶 民 教 育 史』(下 巻,長 崎県の部,昭 和4年)等 が あ るが,何 れ もそ の 基 調 はr資 料 』 に よ って構 成 され,そ の うちr長 崎 県 教 育 文 化 史 』r長 崎 県 史 』 はr長 崎 県 教 育 史 』r日 本 庶民 教 育 史 』 を 重 ね て 参 考 文 献 と して用 い て い る。 こ う して,こ のr資 料 』 の もつ 価 値 は決 して 些 少 な もの で は な い の で あ る。
と ころ で,こ れ 程 の研 究 書 が あ るに も拘 わ らず,筆 者 が 敢 て 重 ね て この 主 題 を取 り上 げ た の は,従 来 の類 書 とは異 な り,こ のr資 料 』 の取 り扱 い に一 工 夫 加 え て み た い と思 った か らで あ る。 単 な る 平板 的 な紹 介 で な く,r資 料 』 を種 々の 角 度 か ら分 析 的 に処 理 し,長 崎 県 に お け る寺 子 屋 等 を立 体 的 に 明 らか に し よ う と試 み るた め の もの で あ る。
1長 崎 県 の 寺 子 屋 等 の 概観
(D設 立 総 数 江 戸 期 か ら明治 初 年 に か け て,西 肥 前 地 方,つ ま り長 崎 県 に は どれ 程 の寺 子 屋 ・私 塾 が 存 在 した の で あ ろ うか 。 こ こ で誤 解 を避 け るた め に 一 言 して お きた い事 は,周 知 の とお り,概 念 的 に既 に 内 包 の 定 着 して い る寺 子 屋 は別 と して,私 塾 に 関 して で あ る。 「塾 」 とは 本来,一 定 の学 問 ・武 道 ・技 芸 等 が 特 定 の 「家 」 に属 し,そ れ が 代 々
「家 伝 」 と して 伝 え られ る教 育 機 関 を総 称 した も の で あ る が,こ の場 合,そ れ は,一 般 的 に は或 る程 度 の基 礎 教 育 を終 え た 青 壮 年 層 に対 して 専 門 教 育 と して行 わ れ た 。 そ れ は,
「家 塾 」 とい うべ き もの で あ る。 「私 塾 」 とは,こ う した もの に対 して,江 戸 時 代 中期 以 降,厳 密 に い え ば 寺 子 屋 教 育 の股 賑 さに 並 行 して,相 似 的 に家 伝 の学 を 幼 少 年 に対 して初 等 教 育 的機 能 を もつ もの と して伝 授 した 教 育 機 関 に発 し,江 戸 時 代 後 期 に は,教 育 科 目 も 殆 ど寺 子 屋 に 類 す る ほ どに な った教 育 機 関 の総 称 で あ る。 そ れ を 「家 塾 」 と区 別 して特 に
「私 塾 」 とい う。 こ こで は後 者 に の み 触 れ て,前 者 は割 愛 した 。
さ て,長 崎 県 に お け る寺 子 屋 ・私 塾 の 存 在 に関 して,乙 竹 岩 造 氏 は 次 の よ うに述 べ て い る。 「この 県 下 で は寺 子 屋 は相 当 に 発 達 した よ うで あ る。 … … この 県 の 寺 子 屋 は 数 に於 て は九 州 七 県 中 熊 本,大 分 に次 ぎ,福 岡 と伯 仲 して第 三 位 を 占 め て い る。 」4)
しか し,こ の 評 価 は オ ーバ ーで あ る とい わ ざ る を得 な い。 後 段 の 文 章 表 現 は 事 実 で は あ るが,熊 本,大 分 とは桁 違 い の 開 きが あ る。 す なわ ち,熊 本910,大 分482に 対 して,長 崎 188,福 岡160で あ る。 そ れ に して も,こ れ に 次 く・佐 賀27,鹿 児 島19,宮 崎9は 余 りに も少 な い。 長 崎 県 を も含 め て,そ れ 以 下 の 諸 県 は 調 査 洩 れ が あ っ た と しか 考 え られ な い。 調 査
長 崎県 におけ る寺子屋等 の研究(熊 谷)
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洩 れ と い えば,長 崎県 の場 合,既 述 の よ うに,そ の 後32寺 子 屋 の存 在 が 明 らか に な っ て い る。 しか し,そ の場 合 もな お 不 可 解 なの は,そ れ が 「島原 領 」,つ ま り 「南 高 来 郡 」 のみ に 限 られ て い て,発 見範 囲 が 全 県 下 に及 ん で い な い とい う こ とで あ る。
醗 って 私塾 は ど うか 。 『資 料 』 書 に よれ ぽ,大 分92,長 崎51,福 岡50,熊 本45,佐 賀7, 宮 崎6,鹿 児 島1と な って い るが,長 崎 県 の場 合 は そ の後7i塾 が発 見 され て い る。
で は,こ れ を 全 国 的 視 野 の下 に 見れ ば ど うい う こ とに な る で あ ろ うか 。 寺 子 屋 を 第1表 に,私 塾 を 第2表 に 示 す こ とに し よ う。
長 崎 県 は,報 告 の あ った 全 国40府 県 の うち,寺 子 屋 数 で は188屋 の26位,私 塾 で は 相 対 的 に 稽 多 く51塾 の12位 で あ る。 両 者 合 わ せ て239の25位 で あ る。 先 に 乙 竹 岩 造 氏 の 「相 当 に 発 達 した よ うで あ る」 とい う評価 を過 剰 だ とい った理 由 が 了解 され るで あ ろ う。 正 確 に い え ぽ,そ れ は,全 国 的 に は低 位 置 に あ った といわ な け れ ぽ な らな い 。
とこ ろで,寺 子 屋 数 ・私 塾 数 の全 国 的比 較 に 関 して は,比 較 の 条 件 を 一 定 す るた め に, これ までr資 料 』 書 記 載 の数 そ の ま まで 処 理 して きた が,既 述 の よ うに,そ の後,寺 子 屋,私 塾 と も新 た な発 堀 が行 わ れ て い るの で,以 下 の 内 容分 析 上 の基 数 と して は,そ れ を 加 算 し,長 崎県 の場 合 寺 子屋 数220屋,私 塾 数58塾,合 計278と して 処 理 す る こ と とす る。
第1表 全 国 各府 県 寺 子 屋 数(15,575屋) 第2表 全 国 各府 県私 塾 数(1,506塾)
順 騰 名i寺子慰
4 ⊥ 9ρ 3 4 FO 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
野口山知本 長山岡愛熊 庫阪阜根城兵大岐島宮 都川京分森奈京神東大青 賀島取山島歌滋徳鳥和福
1,342 1,293 1,0aa 976 910 819 1ss 754 675 567 566 507 488
,・
45G 450 432 312 294 281
順1府 県名 睡 屋数
島梨田知川
広山秋高石
21 22 23 24 25
崎岡重葉木長福三千栃
26 27 28 29 30
形潟馬館井山新群函福
31 31 33 34 35
賀岡島山崎児佐静鹿富宮36 37 38 39 40
257 254 249 a17 190
・188 160
115 107 86 0 0 0 0 民り n ロ ー ρ 0 ρ 0 0 4 0 Q 7 ﹁ D Qゾ 7 Gゾ 9 白 9 ρ 悟 ⊥ 1 ⊥
順【府縣 陣 数
‑⊥ 9 臼 3 4 戸 0 6 7 0 0 0ゾ Q ソ
山野京口分 岡長東山大 根田島城庫島秋広宮兵 葉崎岡本知
千長福熊愛
9 12 13 !4 15
馬島都阜潟群徳京岐新
16 17 18 19 20
144 125 124 106 92
9 0 農) 門 0 9 ρ 9 白 7 ρ 0 6 F D ﹃0
52
・51 50 45 43
QV 7 4 8 7 0 0 3 0 0 り 4 2
Ji賄 県名陣 数
井梨川阪木
福山石大栃
21 22 22 24 25
島川知森賀奈福神高青滋門 D 7 0 0 ∩ コ 0ゾ リ々 99 9自 9 臼 9自
賀形崎取重佐山宮鳥三
31 32 32 34 34
岡山山島館歌児静富和鹿函34 34 38 39 40 ∩ 0 9 ρ 9 自 O G ゾ リ々 2 り 々 2 4 ← Qゾ ー 0 8 8 1 ← 可 ⊥ ‑ よ 7 ハ0 6 4 4 4 4 ∩ δ ﹁ ⊥ 0
『日本 教 育資 料 』 に よ り筆 者 作成 。 未 報 告県 一 岩 手,茨 城,埼 玉,奈 良,香 川,
愛 媛,沖 縄 。
『日本 教 育 史 料 』 に よ り,筆 者 作成 。 未 報 告 県 一 岩 手,茨 城,埼 玉,奈 良,香 川,
愛 媛,沖 縄 。
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号(2)規 模(寺 子 等 の 数)次 に,長 崎 県 に お け る 寺 子 屋 等 の 規 模,つ ま り,1屋 又 は 1塾 に お け る 寺 子 等 の 数 は ど の よ うで あ っ た の で あ ろ うか 。 そ れ を 示 し た の が 第3表 で あ る 。
寺 子 屋220屋 の うち,寺 子 数 不 明(r資 料 』書 に寺 子 数 記 載 な し)51屋 を 除 い た169屋 の う ち,最 も頻 度 の 高 い の は 寺 子 数10人 か ら19人 ま で の30屋 で,全 体 の17.75%を 占 め る 。 私 塾 で は,塾 児50人 か ら74人 ま で の17塾 で,全 体 の33.33%を 占 め る 。 両 者 合 わ せ る と50人 か ら74人 ま で の42屋 ・塾 で,全 体 の18.90%を 占 め る 。 そ こ で,両 者 合 わ せ て 就 学 児74人 以 下 を 見 る と,220の うち160を 占 め,そ の 割 合 は72.72%と な る 。 こ う し て,長 崎 県 に お け る 寺 子 屋 等 の 就 学 児 の 最 大 頻 度 は50人 前 後 で あ っ た と い う こ と が 判 明 す る 。
そ の 規 模 の 大 き さ に 関 して い う と,寺 子 屋 中 最 大 の も の は,島 原 村 の 高 田 宇 多 子 の 高 田 塾 で,文 政10年(1827)開 業,文 芸 ・裁 縫 を 教 え,男 ・女 生700人,明 治20年 廃 業 し た も の で あ る 。 次 で,島 原 村 の 士 族 西 村 増 衛 の,天 保5年(1834)開 業,授 業 科 目 は 不 詳 だ が
第3表 寺 子 等 の1屋 当 り 数
二廠 一 峯題 」 寺子副 私 劉 計
人 数 不 明 釧
51 7 ss
1,000人 以 上 900入 〜999人 800人 〜899人 700人 〜799人 600人 〜699人 500人 〜599人 400人 〜499人 300人 〜399人 250人 〜299人 200人 〜249人 150人 〜199人 125人 〜149人 100人 〜124人 75人 〜99人 50人 〜74人 40人 〜49人 30人 〜39人 20人 〜29人 10人 〜19人 5人 〜9人 4人 以 下
‑ ﹁ ⊥ 4 9臼 ‑
1
‑← 4 4 4 Qゾ 8 戸 0 2 Q︾ 9臼 7ー ( U じ 0 9臼 9 々 1 0 0 9 4
1
り 4 1 山
1⊥‑よ9倉 ‑ ⊥ 門 0 ハ0 7 1 り 0 り 0 [ 0 1 よ ー
1
9θ ‑ R) Qり ‑山 9自 只 ∪ ρ 0 0 4 1 4 り自 ‑よ 4 9 9 r D 99 ーム ρ 0 9臼 ﹁ ⊥ 9 臼 9 自 り D 9 々
計
Iss 511220
総 昌.員十
220 58 278
百 分 比
0
0.45
!・1 0.45
2.70 1.35 0.45
0.90 2.25 2.70 2.25 6.30
6.30
・!
5.40 11.25 ./
14.95 11.70
!'!
r日 本 教 育 史 資 料 』r長 崎県 教 育 史 ・上 』 に よ り筆 者 作 成 。
長崎県における寺子屋等の研究(熊 谷)
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男 生550人,女 生80人,明 治2年 廃 業 が あ り,更 に,長 崎 区 小 川 町 の平 民 笹 山 繁 の奇 石 軒,天 保8年(1837)開 業,習 字 ・素 読 を 教 え,男 生346人,女 生150人,明 治 初 年 廃 業 の もの が あ った 。 私i塾で 最 大 の も のは,南 高 来 郡 堂 崎 村 の儒 者 末 吉 捨 介 の 雲 陽塾 で,天 保 年 間(1830〜1843)開 業,漢 学 を教 え,塾 生 は 男 生1,000名,明 治2年 廃 業 の も の で あ り, 次 で,島 原 村 の士 族 白井 嘉 の松 月 窩 で,文 政11年(1828)開 業,漢 学 を 男塾 生713名 に 教 え,明 治5年 に 廃 業 した もの,更 に,島 原 村 の 士 族 渡 部 政 弼 の 松 風 塾 で,嘉 永5年
(1852)開 業,漢 学 を 男塾 生500名 に教 え,明 治8年 に廃 業 した も のが あ る。 但 し,こ の うち,堂 崎 村 の 雲 陽 塾 の塾 生 数 は,村 自体 の 規 模,原 資 料 の 「人 物 伝 」 な どを勘 案 す る と,一 時 に 教 え た 数 な のか,累 計 な のか につ いて 疑 念 を 捨 て きれ な い。
(3)開 業 時期 次 に,こ れ らの 開 業 時 期 は 何 時 頃 が 最 も多 か っ た で あ ろ うか。 第4表 を 参 照 され た い 。
開 業 年 不 明 の寺 子 屋41,私 塾27を 除 いた 残 りの寺 子 屋179,私 塾31,計210を 時 期 別 に分 析 す る と,天 保 期 が 両者 合 わ せ て57,全 体 の27.14%を 占め て 最 多 で あ り,開 業 傾 向 と し
第4表 寺 子 屋 等 の 開 業 の 時 期 年 代 陣 姻 寺子副 私 劉 合 計
開 業 時 期 不 明 数
41 27 68
) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) Q O O 3 7 9 3 7 3 9 3 7
1( る む)(つ りゐ ら ぼりに )8 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 6 2 9 1 4 8 0 4 8 4 0 1 4 5 3 7 8 0 0 1 3 4 4 5 6 6 6 6 7 7 7 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 1 1 1 ⊥ 1 1 1 1 ⊥ 1 ⊥ 1 1 1 一 1 1 ⊥ ‑ ⊥ ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (
文 永 政 和 化 政 保 化 永 政 延 久 治 応
元 安 寛 享 文 文 天 弘 嘉 安 万 文 元 慶
明 治
〃 〃 ク 〃 〃 〃
元 年(1868) 2年(1869)
3年(1870) 4年(1871) 5年(1872) 6年(1873) 10年(1877)
5 9 2 3 4 2 4 4 6 6 1 3 1 3 1 ⊥ 1 ⊥ 1⊥ ‑ ー ⊥ 1 ⊥ ‑ ⊥ 1 1 ⊥ ‑⊥ ‑
1 3 5 2 0 0 2 2 4 1 0 1 5 2 2 2 1 1 1 0 δ 9盈 り 0
1
1よー←
1
4 ﹃ 0 9臼 4 4 り 血 1 ⊥ ‑⊥ ‑よ て ⊥ り 自
1
1 1 1 1 3 9 7 2 4 6 2 4 3 1 1 5 2 2 2 1 1 1 4 3 4 ワ 臼
‑⊥1⊥十二.一μ
179 31 210
総 一嘗口 十
220 5S 278
百分比楠 勲
0 屋
0.47 0.47 0.47 0.47 1.42 9.04 27.14 10.47 11.42 12.38 0.95
...
s.1s 5.23 1.90 1.42 1.90 0.95
7 5 7 4 4 0 0
0.20 0.11 0.os O.33 0.21 1.5s 4.07 5.50
・11
4.33 2.00 4.GG 13.00 3.6G
4 3 4 2 ‑ よ ー
r日 本教 育 史 資 料 』 『長崎 県 教 育 史 。上 』 に よ り,筆 者 作成 。
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長崎大学教育学部教育科学研究報 告 第29号て は,天 保 期 を 中心 と した 文政,弘 化,嘉 永,安 政 期 が ピ ー クで あ り次 で,そ の余 波 と
して 文 久,元 治,慶 応 期 に 小 さな 山 が あ る。
こ の傾 向 は,長 崎 県 の寺 子 屋 等 の 開業 が,全 国 的 にみ て,ま さ に そ の 第3の 山,つ ま り
「農 山村 寺 子 屋 隆 盛 期 」 の類 型 に属 す る こ と を 物 語 る。
第5表 に示 す と お り,石 川 謙 氏 の 研 究 に よれ ば5),全 国 の 寺 子 屋 の普 及 発 達 は,庶 民 階 級 の勢 力 伸 張 と対 応 す る。 す な わ ち,そ の 開業 時期 に 関 して元 文 〜 安 永,天 明 〜 文 政, 天 保 〜 明 治 と い う3つ の 山 が あ る。 第1の 山 は,町 人 層 が 漸 く武 士 の財 政 を 現 実 に 支 配 す る と と も に,吉 宗 の寺 子屋 奨 励 策 が 結 実 し始 め た 時 期 で あ る。 第2の 山 の 天 明 以 後 期 は, 天 明 〜 享 和 に か け て は 定 信 の 奨 励 策 に 負 う と
ころ が 少 な くな く,特 に 化 政 期 は 町 入 層 の急 速 な 社 会 的 ・経 済 的 進 出 と江 戸 時 代 後 期 の文 化 的 瀾 塾 期 に 逢 会 した とい う事 情 に よ る もの で あ る。 第3の 山 で あ る天 保 以 後 期 は,幕 末 に お け る 思 想 的 ・政 治 的 並 び に経 済 的 危 機 に 直 面 した 幕 府 ・諸 藩 の 風 俗 善 導 策 と して の寺
第5表 全 国寺子屋開業時期 年 代 陣 業数楠 勲
文明 〜 天和 寛 永 〜 延宝 天和 〜 正徳
享 保
元文 〜 寛保 延享 〜 寛延
宝明安天寛享文文天 暦和永明政和化政保
弘化 〜 嘉永 安政 〜 慶応 明 治8年 迄
7 8 9 7 6 4 4 0 9 1 5 8 7 6 4 8 2 5 1 3 3 1 1 1 3 3 2 0 6 5 8 7 8 9 0 3 1 1 3 6 9 3 3 0
1 9 自 4 1
o.ol O.67 1.11 1' 2.00 2.00 2.63 3.75 3.22 12.63 13.75 19.33 27.43 56.33 141.71 239.80 307.21 129.38
十二=ロ
11・,34・1 石 川 謙 『日本 庶 民教 育 史』
昭4)
(万江 書 院,
子 屋 奨 励,及 び これ に 呼 応 した 庶 民 階 級 自 らの 向学 的 自覚 に よ る も の で あ る。 そ して,こ の期 の特 徴 は,前 二 者 が 主 と して大 都 市 か ら中 小 都 市 を 限 っ て展 開 して い た の に 対 し,急 速 に農 山漁 村 へ の 浸 透 を 見せ た こ とで あ る。 こ うして,寺 子 屋 は 全 国津 々浦 々に まで 普 及
して い った の で あ る。
長 崎 県 の寺 子 屋 等 の 開業 時期 は,ま さに この 第 三 期 に属 す る。 西 海 の 辺境 に 位 す る長 崎 県 の地 理 的 条 件 か らす れ ぽ,そ れ は至 極 当 然 の 事 で も あ った ろ う。 こ うした 時 期 的 観 点 か らみ れ ぽ,長 崎 県 の寺 子 屋 等 の普 及 は後 進 的 であ った といわ ざ る を得 な い 。 特 に1年 当 り 設 立 数 か らみ れ ば,隆 盛 時期 は も っ と遅 れ て文 久,元 治,慶 応 期 ま で下 る。 特 に元 治 期 の
1年 当 り13屋 ・塾 は 高 い 。
と ころ で,長 崎 県 に お け る寺 子 屋 と私 塾 の開 業 時 期 をみ る と,総 じて 私 塾 の 方 が 早 期 に 設 立 され て い る とい う面 白い 現 象 が 見られ る。 これ も寺 子 屋 の 後 進 性 に よる も の で あ ろ う
か 。従 って,設 立 時 期 の 古 い順 に 挙 げ る と,1,2位 は私 塾 で あ る。 最 古 の も の は元 文 年 間(1736〜1740)に 対 馬 ・厳 原 天 道 茂 町 に設 立 さ れ た士 族 大 浦 遠 の 塾 で,漢 学 ・詩 文 ・ 習 字 を 男 塾 生100入 に教 え て い るが,そ の最 盛 期 は 嘉 永 ・安 政 時(1848〜 ユ859)で あ り, 又 調 査 年 が 文 久3年(1863)で あ る とこ ろ か ら,『 資 料 』 書 に は 廃 業 時 期 は記 載 され て い な いが,130年 か らそ れ 以 上 は 存 続 した こ とが 予 想 され る。 次 で,安 政3年(1774)に 北 高 来 郡 下 本 明村(現 諌 早 市 内)に 設 置 さ れ た 士族 土 井 範 四 郎 の克 己i塾で,漢 学 ・算 術 ・筆 道 ・裁 縫 を 男 生70人,女 生50人 に 教 え,明 治6年 に 廃 業 した も の,更 に,享 和 元 年
長崎県における寺子屋等の研究(熊 谷)
7
(1801)に 対 馬 ・厳 原 田 渕 町 に 設 立 され た 士 族 永 瀬 甚 七 郎 の弘 文 堂 で,漢 学 ・筆 道 を 男 生 100人,女 生30人 に 教 え,明 治5年 に廃 業 した もの が あ る。 寺 子 屋 で 最 古 の もの は,寛 政 8年(1796)に 南 高 来 郡 土 黒村 に 設立 され た 山 伏 大 龍 寺 泰 乗 の烏 兎 山塾 で,読 書 ・習 字 を 男 生30人 に 教 え,嘉 永6年(1853)に 廃 業 した もの,次 は,文 化2年(1805)に 長 崎 区桜 町 に 開 業 した平 民 勝 木 禎 輔 の囎 濤 軒 で,読 書 ・習字 を 男 生180人 に 教 え,明 治4年 に廃 業 した もの,更 に,文 化9年(1812)に 南 高 来 郡 東 有 家 村 に 設 立 され た 医 師 磯 野 維 石 の寺 子 屋 で,習 字 を 男 生40人 に 教 え,明 治5年 に 廃 業 した も の な どで あ る。 以上 の私 塾 ・寺 子 屋 は,『 資 料 』 書 に数 え られ る両 者 の 総 計17,081の うちで も上 位1,000位 以 内 に 位 置 し,極 め て早 期 の もの とい え るで あ ろ う。
(4)廃 業 時 期 次 に,こ れ らの寺 子屋 等 は,何 時 頃 に 多 く廃 業 した のだ ろ うか 。 これ
第6表 寺 子 屋 等 の 廃 業 の 時 期 年 代 陣 釧 寺子副 私 劃 合 計
廃 業 時 期 不 明 数
49 33 82
) ) ) ) ) ) ) ) り Q 7 Q り G ゾ リ 0 7
〜 〜 〜 〜 〜( り ) 〜 0 4 8 4 0 1 4 5 3 4 4 5 6 6 6 6 8 8 8 8 8 8 8 8 1 1 1⊥ 可 ⊥ ‑ ← ‑ 可 ⊥ て ⊥ ( ( ( ( ( ( ( (
保 化 永 政 延 久 治 応
天 弘 嘉 安 万 文 元 慶
明 治 元 年(1868)
〃2年(1869)
"3年(1870)
〃4年(1871) ク5年(1872)
〃 〃 ク ク 〃 ク 〃 〃 〃 〃 ク
6年(1873) 7年(1874) 8年(1875) 9年(1876) 10年(1877) 11年(1878) 12年(1879) 13年(1870) 15年(1882) 19年(1886) 20年(1887)
4 4 6 6 1 3 1 3 1 1← 1 1 ⊥ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 4 1 7 1 3 0 4 8 1 4 Q ゾ 78 8 0 1 ← 農 U 9 臼 ρ 0 2 1 1 ⊥
1
1 ⊥ り 乙
1
1
1
3
1 0 乙 り 0 8
1
1
1←‑←‑←
1
4 1 7 2 3 1 4 1 1 よ ー ⊥ 4 0 ( コ ー← 8 1 ⊥ 9々 疏 ∪ り 0 ハ 0 0 0 1 1 ‑ ⊥ ■ ⊥ 1 ⊥ 9 4 り ρ 1 ⊥ ‑
十ニコロ
171 25 196
総 十
曇 ロ 220 58 278
百分比廃 難
0 屋
2.06 Q.51 3.GO 1.03 1.54 5.67 2.06 5.&7 2.06 5.15 4.63 10.82 35.05 G.70 8.24 1.54
0.51 0.51 0.51 1.03 1.03 0.51 0.51
1 0.25 1.16 0.33 3.00 3.66 4.00 3.66 4.
10.
9.
2T.
68.
13.
16.
3.
1 1⊥ ‑ ⊥ り 白 り 白 ‑ よ ー←
『日本 教 育 史料 』 『長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に よ り筆 者 作 成 。
8
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号は,寺 子 屋 か ら 小 学 校 へ の 移 行 を 考 え る場 合,参 考 とな る で あ ろ う。 第6表 が そ れ で あ る。
廃 業 時 期 不 明 の寺 子 屋49屋,私 塾33塾 を 除 いた 残 りの寺 子屋 ・私i塾の 計196の うち,天 保期 以 降 に廃 業 が 開 始 され るが,そ れ が一 段 と進 行 す る の は,明 治期 に 入 って か らで あ る 。 特 に 顕 著 な の は,明 治4年,5年 で あ り,後 者 は,「 学 制 」 頒 布 に よ る府 県 当 局 の寺 子 屋 ・私 塾 へ の新 学 制 に 適 合 す る切 り換 え勧 告 に よる もの で あ ろ う。
長 崎 県 で は,文 部 省 が 「小学 教 則 」 を定 め た翌 月,す な わ ち,明 治5年10月,こ れ に準 拠 して 「長 崎 県 小 学 教 則」 を 定 め,従 来 の私 塾 ・家 塾 はす べ て これ に 嬢 ら しめ るた め に 改 め て 「願 出 」 で しめ る こ と と し,実 質 上,寺 子 屋 ・私 塾 等 は,従 来 の ま まで は 認 め な い こ と と し,更 に 明 治8年 に は,「 中小 私 学 開 業規 則」 を 制 定 し,明 治9年 に は 又 「私 学 条 例 」 を 出 して 私 学 の統 制 を 図 ったF)。 明 治6年11月 に重 ね て 「小 学 教 則 準 壕 方 」 を 勧 告 し
た県 令 宮 川 房 之 の 「達」 を掲 げ て お く。
各 大 区 区 戸 長 宛 各 区家 塾 私 塾 或 ハ義 塾 等 之 類 昨 壬 申年 学 制 御 頒 布 之 前後 願 候 二付従 前 之 通 開 業 聞 屈 置 候 者 モ 有 之 候 虞 御 布 達 之 旨モ有 之 追 々教 則 一 定 致 候 二付 テ ハー 旦 取 消候 條 致 開 業 致 度 候 者 ハ 渾 テ小 学 教 則 二準檬 シ早 々可 願 出候 此 旨更 二相 達 候 事
明 治6年11月10日
長 崎 県 令 宮 川 房 之
こ うして,明 治6年 中 に許 可 され た家 塾 は,既 出 の笹 山 繁 塾(小 川 町,小 学 ・習 字 ・ 算 術 ・読 書,348人)外28塾(長 崎 区 内22塾,島 原 村 内6塾)が あ った7)。
(5)そ の 都 度 の 現 存 数 上 記 した 長 崎 県 にお け る寺 子 屋 等278と い う数 は,廃 業 に 関 わ りな く,兎 に角 開業 した寺 子 屋 等 のす べ て で あ る。 従 っ て,廃 業 とい う事 態 を 考 え る と,何 時 の 時 代 に も常 に一 定 して2i'Sとい う寺 子 屋 等 が 存 在 した とは 考 え られ な い 。 実 際 に は,278よ りず っ と少 な い数 で あ った で あ ろ う。 こ う して,そ の都 度 の 現 存 数 は,開 業 時 期 と廃 業 時 期 を 重 ね 合 わ せ る こ とに よ って 知 る事 が で き る。 それ は,長 崎 県 に 寺 子 屋 等 が 設 立 さ れ て,漸 次 明治 に近 接 して い く時代 を 追 っ て の寺 子 屋 等 の現 実 の 盛 衰 を 明瞭 に物 語 っ て くれ る。 しか し,実 際 に は,開 業 時期 不 明が 両 者 合 わ せ て68,廃 業 時期 不 明が 計82
もあ る とい うこ とは,統 計 処 理 上 不 正 確 を もた ら し残 念 で な らな い 。
長 崎 県 に寺 子 屋 等 が 初 め て設 立 され た元 文 期 以 降,寛 保,延 享,寛 延,宝 暦,明 和,安 永2年(第 二 の私塾が 出来たのが3年)ま で の33年 間 は,僅 か1私 塾 が 存 在 す る の み で あ った が,寛 政 以 後,文 政 期 ま で の40年 間 は,徐 々 に設 立 数 も増 え,そ の数26を 算 す る まで に な った 。 しか し,次 の 天 保 期 に は,設 立 数 も爆 発 的 に 増 えた が,同 時 に廃 業 とい う事 態 も起 こ っ て きた 。 こ う して,廃 業 を含 み な が ら も,寺 子 屋 等 の発 達 普 及 は着 実 に 進 行 し,元 治 か ら明治 元 年 まで の最 盛 時 を迎 え た。 長 崎 県 に お け る寺 子 屋 等 の最 大 現 在 数 は152と い う こ とに な る。 人 口の少 な い 時 代,こ の 数 は 決 して 僅 少 な もの とは い え な い 。 因 み に,県 統 計 に よ る と,明 治6年 末 長 崎県 下 小 学 校 数83校,明 治7年 末248校,明 治8年 末352校(す べ て分校 も含む)で あ り8),ま た 筆 者 の 計 算 に よる と9),昭 和55年 現 在,小 学 校365校,小 中 併 合校37校,分 校50校,計452校 で あ る。
と ころ が,現 在 数 は新 政 府 の基 礎 が 出 来 る 明治3年 以 降,急 速 に 減 少 す る。 そ の急 激 な 減 少 の年 は 明 治5年 で あ る。 と ころ で,一 言 断 っ て お き た い こ とは,表 中 に(〜)印 で示 し
長 崎 県 に お け る 寺 子 屋 等 の 研 究(熊 谷)r̀lL>, 岨
第7表 寺子屋等の現在数
潔 開業数 廃業数 現 在 数
不 明 釧68 82(‑14)
期期期期期期期期期期期期期期
文永政和化政保化永政延久治応
元安寛享文文天弘嘉安万文元慶
明治 元 年
〃2年
〃3年
〃4年
〃5年
〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 ク 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 6 7 8 9 10 11 12 13 15 19 20 1 1 1 1 3 9 7 2 4 6 2 4 3 1 1 5 2 2 2 1 1 1 4 り Q 4 9ρ
1
1
4 1 7 2 3 1 4 1 ー ム ー よ 4 0 9 1 占 O O ‑⊥ 9 9 ハ 0 0 0 ρ b Q U 1 1
‑∴■⊥■⊥9臼9自‑山ーム1 2 3 4 7 26 79 00 17 41 40 43 52 52 ¶⊥ ■⊥ {⊥ ー ム 可⊥ ‑ 占 ﹁⊥
152 145 140 121
53^‑39 4‑27
25^11 22〜8 22〜8 22〜8 21^‑7 20^‑6 18^‑4 16^‑2 15^‑1 14〜0
十二=ロ
210196
総 訓2781278
r日 本教 育 史 資 料 』 よ り筆 者作 成 。
『長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に
た 数 に つ い て で あ る 。 こ の 印 は,実 は そ れ
以上の撒 も翻 靹 醸 の騨 やが詩 期不明のためどこまで遡及するかか決審で
きないので,と り奴 朔 獅 絢 嘩 そ
れ を 示 した もの で あ って,こ れ は,実 は廃 業 時 期 不 明 の数 と開 業 時期(じじ)不明(の)の数 の 差3
82‑68=14に よ って生 じた もあ で あ る。(しコげL)つ ま り廃 業 時期 不 明 が 開 業 時 期 不 明 よ り14多
い とい うことは,搬 ば胡 治 鉾 あ轟 数53は 廃 業 時 期 不 明 の14を も含 ん で い る と い うこ とで あ るか ら,正 し くは53が ら14を 引 い た39ま で の 間 に そ の 実 数 が 含 まれ る と い う こ とで あ る。 但 し,そ れ が 幾 鱒 纏}
時 期 不 明 で あ る 以 上 決 定 で きな い と唾 うこ
とで あ る。 ,
);.{、ll(
6)師 匠 の 身 分 ・職 業 長 崎県 に お け る寺 子 屋 等 の師 匠 は,ど の よ うな 身 分,職 業 の 傾 向を 示 す もの で あ ろ うか。1⊥勘 と寺 子 屋 師 匠 の身 分 は,そ の発 生 期 の イ メ ー ジ か ら 「僧 侶 」 を予 想 す る も ので あ 尋ダ,コ痔 子 屋 発 達 第 三 期 に な る と,こ の事 実 は 完 全 に破 られ る。 そ れ は,長 崎 県 の場 合 も同様 で あ る。 た だ,長 崎 区が 天 領 で あ っ た こ(たレ)と と,県 内 に 城 下 町 が 多 か った事 が,ど の よ
うな傾 向 を示 す か に興 味 が もた れ た。 断 っ て お きた い こ とは,そ の 出 自は す べ て'『資 料 』 書記 載 の ま まに した の で,「 平 民ゴ と い う不 明確 な 身分 が登 場 して くるが,大 方,
「町 人」 く らい の 気 持 で 使 用 され た の では な い か と思 わ れ る。 表 は,地 方 的 特 徴 をみ る た め に,郡 別 に した 。 第8表 参 照 。
県 全 体 と して い え る こ とは,武 士 と平 民 が 伯 仲 して 頻 数 が 高 い とい うこ とで あ る。
しか し,実 際 に は や は り平 民 が よ り高 か っ た とみ るべ き で あ ろ う。 そ の 理 由 は,身 分 不 明数 が,平 民 の率 の高 い長 崎 に お い て21,当 時 現 在 の長 崎市 に含 まれ,長 崎 区 に 隣 接 し) てや は り平 民 の率 の高 い西 彼 杵 郡 に 身 分不 明 が33,計54も あ り,そ の 大 部 分 は 平 民 とみ る べ きで あ ろ うか らで あ る 。南 高 来 郡 の 不 明 数 は,必 ず しも平 民 ば か りとは い えず,武 士, 農 民 も可成 りい た もの と考 え な け れ ば な ら ない 。 しか し,地 区別 に み る と,平 民 は,長 崎,南 高,北 松 に 高 く,武 士 は,城 下 町 の存 在 した 東 彼(大 村藩),北 高(諫 早藩),南 高
ユ0
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号第8表 師 匠 の 身 分 ・ 職 業
事項
区郡別
長 崎
西 彼 杵
東 彼 杵
北 高 来
南 高 来
南 松 浦
北 松 浦
壱 岐
対 馬
区
分
寺 塾 寺 塾
寺塾
寺 塾 寺 塾 寺 塾 寺 塾
寺塾
寺 塾
師匠酸 数
職業身分 数明不
13 8 33
1
33 1 1
4
z
95
百 分 比
武
士
1
1
17
4 S 6 6
12
3
2 5
G5
五 ・八 八
平
民
9
4
2
si 5
8
1
so
医
イ 曽
呂 イ
師
1
1
6
2
1
11 1
5
1 2
9
神
官
1
4
1
6
農
業
24 3
27
工
匠
2
9"
地役人1
1
山
伏
陰陽師
1
1 1
1
○・五三
○・五三
○・五三
一 ・ 〇 五
四 ・八 七
三 ・ 二 八
四・九五
六・〇五 寺子屋計
10
5
1
81
6
20
9
2
134
私塾計
1
3
19
4
14
2
1
5 49
︑4十
ミ 肖
11
8
19
5
95
8
21
9
7
183
総
十
曇 灯
32
41
19
6
129
9
25
10
7
als
O区 分 欄 の 「寺 」 「塾 」 は,「 寺 子屋 」 「塾」 の図 分 。
『日本 教 育 史 資料 』 『長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に よ り筆 者 作 成 。
(島原藩),南 松(五 島藩),北 松(平 戸藩),対 馬(対 馬藩)に 高 くな って い る。 僧 侶 が,南 高 を除 い て他 は 大 変 低 い の は 意外 とい え ば 意 外 であ ろ う。
ユ83名の 師 匠 の 中 に,東 彼(大 村)の 加 藤 フ ジ,北 高(諫 早)の 木 下 テ イ,南 高(島 原) の 高 田宇 多 子,北 松(平 戸)の 神 村 タ ウ とい う4名 の 女 師 匠 が い た こ とは 異 色 で あ ろ う。
就 中,大 村 の加 藤 フ ジは,玖 島 郷 岩 船 に塾 を 開 き,藩 主 ・家 中 の 士 族 の 子 女 を も教 育 し,
長崎県における寺子屋等の研究(熊 谷)
11
10才 か ら14,5才 ま で の子 女40人 程 に 対 し,女 大 学 ・女 消 息 往 来 等 の もの を 自書 して配 布 し,読 解 ・手 習 を 指 導 し,更 に琴 ・三 味 線 ・絵 画等 を も余技 と して 教 えた とい う10)。 ま た,既 出 の 島 原 の 高 田宇 多 子 は,男 女 生700人 とい う長 崎 県 下 最 大 の寺 子 屋 を60年 近 く も 経 営 した 廉 で,明 治8年7月,長 崎 県 か ら 「…男 女 ヲ教 育 ス ル コ ト前 後50有9年,今 舷 二 齢8旬 二垂 ソ トスル ト難 尚 離 勉 従 事 候 段 奇 特 ノ儀 二付 褒 賞 下 賜 候 事 」 と表 彰 され て い る。
無 論,こ の表 彰 は,内 務 卿 大 久 保 利 通 の,長 崎県 の 「伺 」 に対 す る 「承 認 」 の下 に行 わ れ て い る の で あ る11)。
以 上 の師 匠 等 の 中 で も特 筆 す べ き者 は,天 保6年(!835)に 長 崎 区勝 山 町 に 開 業 し,男 生400人 に 数 学 の み を 教 え,明 治6年 に 廃 業 した 静 寿 軒 を或 る時 期 経 営 した 渡 辺 真(一 郎)で あ ろ う。 彼 は,天 保3年 に 西 川 清 長 の長 男 と して勝 山町 に生 まれ,6才 に して 叔 父 渡 辺 章 に養 わ れ,数 学 を 学 ぶ 。 長 じて静 寿 軒 を承 け,独 特 の長 算 盤 を 考 案 して 教 授 法 に 新 機 軸 を 出 し,慶 応 年 間(1865〜1867)に は済 美 館 で フル ベ ッキ に 洋 数 学 を 学 び,忽 ち上 達 して 師 を 驚 嘆 させ た 。 明治 元 年 長 崎広 運 館数 学 教 師 とな った が,翌2年 官 命(フ ル ベ ッ
キ既 に開 成 所 へ 転 じ,そ の仲 介)に よ って 大学 少 助 教 と して 大 学 南 校 で数 学 を担 当 した。
3年 中 助 教 とな った が,4年6月,不 幸 に して病 に 艶 れ たLG)。異 色 中 の最 た る もの とい う べ き で あ ろ う。
2区 郡 別 の 寺 子 屋 等 の 状 況
(1)区 郡 別 に み た 寺 子 屋 等 の 数 こ れ ま で 県 下 全 体 を 視 野 に 入 れ て そ の 種 々 相 を み て ぎ た が,以 下 は 区 郡 別 に そ の 特 色 を 述 べ る こ と に し た い 。 で は,区 郡 別 で は 寺 子 屋 等 の 分 布 は ど の よ う な 状 態 で あ っ た の で あ ろ うか 。 同 時 に 後 の 考 察 の た め に,そ れ ぞ れ の 開 業 時 期 も合 わ せ て 示 す こ と に した い 。 第9表 参 照 。
(2)長 崎 区 長 い 間 幕 府 の 直 轄 地 ・天 領 で あ っ た 長 崎 は,さ す が に 町 人 の 町 に ふ さ わ し く,寺 子 屋 等 の 経 営 者 は 殆 ど平 民 階 級 で あ っ た 。1人 の 例 外,士 族 山 本 清 太 郎 を 除 い て,寺 子 屋 ・私 塾 計32の うち,身 分 判 明 せ る も の10は す べ て 平 民 で あ る 。 そ し て,長 崎 の 寺 子 屋 等 は,寺 子 等 数 の 判 明 し て い る も の は 大 規 模 で あ っ た 。 既 に 述 べ た 笹 山 繁 の 奇 石 軒 は 男 女 計496人,故 老 伊 藤 光 子 に よ る と,そ の 最 盛 期 に は 男 生400人,女 生300人,計700 人 が 通 学 して い た と い う13)。 続 い て,渡 辺 一 郎 の 静 寿 軒 は 男 生400人,長 川 幹 蔵 の 長 川 塾 は 男 女215人 等 々,「 斯 うい う大 規 模 の 寺 子 屋 が 市 内 そ こ か し こ に 在 っ て,多 くは 二 階 建 で,… 長 崎 の 股 賑 な る 街 管 と,富 有 な る 市 民 生 活 と を 象 徴 す る も の で あ っ た 」14)。
長 崎 の 寺 子 屋23屋 の う ち,廃 業 時 期 判 明 せ る も の10屋,そ の う ち 明 治 元 年 営 業 中 の も の 8屋 の 就 学 児 合 計1,456人 は,当 時 の 長 崎 に と っ て 決 し て 少 な い 数 で は な い 。 『長 崎 市 制 65年 史 』 に よ る と,明 治4年 現 在,長 崎 市 戸 数8,016戸,人 口29,127人 で あ る15)。 そ こ で,
人 口 ÷ 戸 数=3人(1戸 当 り人 数)と 余 り5,079人 と な る 。1戸 当 り3人 の 内 訳 を,夫,婦, 祖 父 母 の う ち0.5人(祖 父母 の何 れ か が2戸 の うち1戸 に いた と仮 定)と す れ ぽ,こ の 残 りの0.5
人 分 の4,008人 と先 の 余 りの5,079人 の 合 計9,087人 が 幼 児,学 令 児(少 年),青 年 で あ る と
い う こ と に な る 。 大 ま か に 単 純 計 算 で3分 す る と,3,029入 が 就 学 適 令 者 数 と い う こ と に
な る 。 し て み る と,先 の1,456人 は,大 よ そ48%の 就 学 率 で あ る こ と に な る 。 し か し,実
際 に は,廃 業 時 期 不 明 の 寺 子 屋13屋 と私 塾9塾,計22が 計 算 外 と な っ て い る の で,就 学 率
は も っ と 高 か っ た で あ ろ う。
12
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号第9表 区郡別寺 子屋等数 とその開業時期
潔 区分
保有機劇 塞
果明劃 童
元 文
安
封 く
寛 政
享 和
文 化
文 政
天 保
弘 化
嘉 永
安
政 ︑
万 延
文 久
元 治
慶 応
明 治 元
〃 2
〃 3
ク 4
〃 5
〃 6
〃 10
十二=ロ
公 伽 致 備
o
計
百 分 比
長崎 西彼杵 東彼杵 北高来 南高来 南松浦 北松浦 壱岐 対馬 十二ニロ
23
gl383t、912111441572124、1012+220558
1 413119 7 211刊9 227 41
1
11 2
2 3 2
4
1
ユ a 6 2 1 3
1 3 1 3 1 4
1
2225 513 2338
9319
1
2
1 1 1
1
2 911
4 274
2 1a 15
2 13
1 1 9 9 1 2
1 3
1 1 3
2 工
1
3 1 6
2
1 1
1 Z
1
1
1 t 1
3
1
15 4 11'52
1
5 20
琴 20
4 22
4 2 14 11
2 10
1 3
1 Z
1 3
1 2
1
1iiiii1 2
41107151713、12317931 2
4}114151721241i1012220558
11.5114.7416.8312.1546.403.2318.9913.572.511
総計
278 68 1 1 1
1 ⁝3 一 19
57 22 Z 2&
2 14 13 11 4 3 4 2
1 1 210 278
・数 字 の位 置 一 左 上 側 は 寺 子屋,右 下 側 は 私 塾 。
『日本 教 育 史 資 料 』r長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に よ り筆 者 作 成 。
長 崎県における寺子屋等の研究(熊 谷)
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総 じて長 崎 の寺 子 屋 等 は,天 保 か ら安 政 にか け て設 立 され た もの が多 く,就 中,寺 子 屋 の約 半 数 が 天 保 期 に 設 立 され,長 崎 県 の寺 子 屋 等 の歴 史 の なか で は 中期 に属 す る とみ て よ い で あ ろ う。
(3)西 彼杵 郡 寺 子 屋38屋,私 塾3塾,計41と い うの は,現 在 の 「西 彼 」 の イ メー ジか らす れ ば,可 成 り発 達 して い た と いえ る。 しか し,仔 細 にみ る と,寺 子 屋 の うち13屋 は, 長 崎 付,西 浦 上 村,深 堀 村,茂 木 村,土 井 首 村,小 ケ倉 村 とい う長 崎 区周 辺 の隣 接地 域 で あ っ て,長 崎 の文 化 的 余 波 を 色濃 く映 して い た 地 域 に 存 在 して い た 。 これ らは現 在 す べ て 長 崎 市 内 で あ る。 私 塾 も また3塾 の うち2塾 は 矢 上 村 で あ った 。
開 業 時 期 に 関 して は,文 政2年(1819)に 最 初 の もの が 土 井 首 村 に設 立 され て以 来,慶 応 期 に至 る ま で各 時 期 に万 遍 な く分 布 し,そ の数 も大体 揃 って い て 特 徴 的 な もの はみ られ
な い。 師 匠 も,私 塾 に1人 の 武 士 の 例 外 を 除 い て,私 塾 に 僧 侶1人,神 官1人,他 は 平 民 であ ろ う(と い うの は,寺 子屋 中,33人 が 「身分 」 記載 な しで,現 在 も農 漁 業 地 帯 で あ る か らで あ る)。 乙 竹 岩 造 氏 は,式 見村 故 老 渡 辺 長 吉(師 匠の子)氏 を して 次 の よ うに 語 ら し め て い る。 「西 彼 杵 地 方 で は庄 屋 の経 営 した の が 多 い が,概 ね簡 易 型 に 属 し,全 く村 役 の 義 務 と して 童 蒙 を教 え た もの で,無 論,謝 儀 な ど も と らず,唯 父 母 が 時 々思 い 出 した よ う に 紙 に 銭 を 繋 ぎ合 わ せ て呈 す る こ とが あ り,畳 の破 れ た 時 に 父母 よ り請 うて 修 繕 を す る と い う位 の こ と で あ った 」16)。確 か に,r資 料 』 書 に よ って も,寺 子 数 最 大50人 が1屋,30 人 が4屋,20人 が1屋,15人 が5屋,10人 が1屋 と い う小 規 模 経 営 の 寺 子 屋 が 殆 どで あ
る。 明治期 ま で の継 続 数 は,記 載 不 備 の た め,2屋 のみ しか確 定 で きな か った 。 (4)東 彼 杵 郡 往 時 の東 彼 杵 郡 は,現 在 の大 村 市,佐 世 保 市 を含 ん だ 広 さを 持 ち,現 在 の 大 村 市,東 彼 杵 郡 は 大 村 領,佐 世 保 市 は平 戸 領 で あ っ て,佐 世 保 市 に は,平 戸 藩 の 出 番 所 が あ った 。従 って,こ の地 方 は,武 士 師 匠 が 圧 倒 的 に多 か っ た。 私塾19塾 の うち,17 塾 まで が 士族 で あ り,平 民 師 匠 は 僅 か に2塾 にす ぎ な い。
不 思 議 な こ とに,r資 料 』 書 に は この 地 方 の 寺 子 屋 に 関 す る記 載 が一 切 な い 。恐 ら く, 長 崎 県 報 告 の な か に,市 町 村 段 階 の報 告 に な か った た め 記 載 され な か っ た か らで あ ろ う。
しか し,「 学 科 」 欄 をみ る と,「 読 書,習 字 」 が最 多 で19t中12,「 読 書,習 字,算 術」
が4,「 読 書 」 の み が1,「 習 字 」 のみ が1で,内 容 的 に は寺 子 屋 と全 く変 ら ない 。 塾 特 有 の 学 科,「 漢 学,詩 文 」 は 僅 か1塾 で あ る。 そ こで,寺 子 屋 は平 民,武 士 は塾 とい う考
>x方が あ
った こ とか らそ うな った の か も しれ な い と想 像 され る。
また,こ の 郡 に関 して,開 業 ・廃 業 の時 期 の記 載 が な い の で,設 立 傾 向 を知 る こ と は で きな い が,「 調 査 年 代 」 を み る と,明 治 前 が4,明 治 期 が9,記 載 な しが6で あ るか ら, 確 実 に 明 治 初 年 に 通 学 して いた 児 童 数 は610人 で あ る こ とがわ か る。 規 模 は,全 般 的 にみ
て25人 〜80人 く らい で あ るが,千 棉 村 宿 郷 の士 族 川 原 元 治 の塾 は,最 盛 時400人 の 塾 生 を 擁 して い た こ とが 記 され て い るQ
な お,r資 料 』 書 に は 記 載 され て い な いが,『 長 崎 県 教 育 史 ・上 』 に は,「 宮 村 の 武 宮 エ ミは 同 村 城 間 郷 正 蓮 寺 内 に 寺 子 屋 を 開 き,修 身(女 五 常 訓,女 大 学),作 法(礼 式), 手 伝(い ろ は)等 を 指 導 し,明 治6年 頃 まで 継 続 した 」17)と書 かれ て い る。
(5)北 高 来 郡 現 在 の諌 早 市 を 除 け ば,本 郡 は,郡 と して 県 下 で も最 狭 の郡 で あ ろ う。 幕 藩 時 代 は,諌 早 藩 は佐 賀 領 で あ った 。 こ うした 地 理 的 ・歴 史 的 事 情 か ら,教 育 は あ ま り盛 で あ った と は思 え な い。 僅 か に寺 子屋 が2,そ れ も諌 早 村 に 限 られ,私 塾 が4,こ
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号れ も諌 早村2,及 び 現 在 は 諫 早 市 内 とな って い る下 本 明 村 に2だ け で あ る。 しか し,こ の うち5が 武 士 師 匠 で あ る こ とは城 下 町 のせ い で あ っ た だ ろ うし,そ の 設 立 が,長 崎 県 で は 第2位 の安 永3年(1774)を は じめ,す べ て が 安 政2年(1855)以 前 に 属 す る とい うの は,早 期 の部 類 に 入 るで あ ろ う。 しか し,明 治 ま で継 続 され た の は,僅 か に私 塾3で,在 学 児 数193名 で あ る。
(6)南 高 来 郡 明治16年 の文 部 省 へ の 報 告 後,長 崎 県 で発 堀 され た寺 子屋32,私 塾7 は,す べ て 本 郡 か らの み の もの で,こ れ で,本 郡 は,寺 子 屋114屋,私 塾15塾,計129の 多 数 を 算 す る に至 った。 この 数 か らす る と,本 郡 は 伝 統 的 に教 育 の盛 ん な地 方 で あ った とい
うこ とが で き よ う。
と こ ろ で,こ の 地 方 の 特 色,つ ま り島原 藩 の城 下 町 を もつ こ と,島 原 は 海 路 九 州 中枢 部 と直 結 して い た こ と,農 村 地 帯 で あ る こ とな どを 反 映 して,師 匠 身 分 分 布 に1つ の新 しい 傾 向 が み られ る。 大 まか に 分 類 す れ ば,最 多 の もの は 平 民 師 匠 で,寺 子 屋31人,私 塾5
人,計36人,次 で,農 民 師 匠,寺 子 屋24人,私 塾3人,計27人,そ して武 士 師 匠,寺 子 屋 8人,私 塾6人,計14人 の三 集 団 と な るが,他 に特 異 傾 向 と して,医 師6人,僧 侶5人, 神 官4人,工 匠2人 も他 郡 に は み られ な い 特 色 で あ る。 多 彩 とい う外 は な い 。
最 古 の もの は,既 出 の 鳥 兎 山塾 が 寛 政8年(1796)設 立 で あ る のを は じめ,以 後 明 治4 年 ま で各 時 期 に 設 立 を み て い る が,ピ ー クは や は り天 保 年 間 か ら安 政 年 間 に い た る約30年 間 で,県 内 で は 中期 に 属 す る。 これ らの郡 内 分 布 状 況 を み る と,寺 子 屋 は,加 津 佐 村28,島 原 村11,南 有 馬 村9,南 串 山 村6,西 有 家 村6,北 有 馬 村5,口 之 津 村5,山 田村5,北 串 山 村5,千 々石 村4,以 下3屋 が 布 津 村,堂 崎 村,土 黒 村,伊 福 村,2屋 が 中 木 場 村, 安 徳 村,東 有 家 村,小 浜 村,西 郷 村,多 比 良村,守 山村 とな り,私 塾 は,島 原 村9,北 有 馬 村3,1塾 が東 空 閑 村,三 会 村,堂 崎 村 とな っ て い る。 島 原村 以 南 が 多 い 。
これ らの うち,明 治 期 まで 継 続 した もの は 多 く,寺 子 屋114屋 の うち99屋,私 塾15塾 の うち13塾 で あ る。 そ れ ぞ れ の 当時 の通 学 児 童 数 は,寺 子 屋5,906入,私 塾3,064人,計 8,970人 で あ る。 教 育 機 関 と して 通 学 児 童 数 の多 か った も の は,既 出 の堂 崎 村 の 雲 陽 塾
(末 吉 捨 介)が 約1,000人,島 原 村 の松 月 窩(白 井 嘉)が713人,島 原 村 の 高 田塾(高 田 宇 多 子)が700人,島 原 村 の西 村 増 衛 塾 が630人,島 原 村 の松 風塾(渡 部 政 弼)が500人 な ど,大 規 模 の もの もあ った が,大 部 分(101屋)の も の は50人 以 下 の規 模 で あ った 。
(7)南 松 浦 郡 本 郡 は,五 島 列 島 の全 域 で,五 島藩 領 で あ った 。 こ こ に は,寺 子屋7 屋 と私 塾2塾 の,計9の 教 育 機 関 が あ った こ とに な って い る。 しか し,そ の所 在 地 を み る
と,す べ て 列 島 の最 南 部,福 江 島 だ け に 限 られ,北 部 四 島 に は1機 関 もな か った こ とに な って い る。 しか も,福 江 島 で も,城 下 町 の福 江 村 に寺 子 屋6屋,富 江 村 に 寺 子 屋1屋,私 塾2塾 と限 られ て い る。
師 匠 は,さ す が に 福 江 村 の寺 子 屋6屋 は す べ て 武 士 で,富 江 村 の私 塾2塾 は 医 師,寺 子 屋1屋 は不 明 で あ る。 全 般 的 に 小 規 模 経 営 で,最 大 の もの で も,福 江 村 の 白雲 堂(士 族 萩 原 久 馬)が 男女 各100人,計200人,同 じ く 福 江 村 の 観 行 堂(士 族 磯 野 作 右 衛=門)が 男女 123名,他 に 福 江 村 の頴 川 久兵 衛 塾 が 男120人 が あ る外 は,90人,85人,以 下50人 以下 で あ る。 開 業 時 期 は,天 保 期 に寺 子 屋4屋,他 は文 政,安 政 と とび 離 れ,時 期 と して は 中 期 に 属 す る。
明 治 まで 継 続 した もの,寺 子 屋3屋,私 塾1塾,就 学 児 数466人 で あ る。