(近世史料論
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)「金銭出入覚帳」の性格と内容( 二
)‑武州荏原郡奥沢相原家文書の事例1
目次
はじめに
厩家と原家文沓
奥沢村の歴史概観
四元文元年九月「万党昏帳」の検討(以上前号)
八 七 六 五
蘇
安
彦一八世紀末期の歴史的状況
安永元年以降の「万党帳」の記載農産物売却の動向
おわりに(以上本号・完)
五
l 八 世 紀 末 期 の 歴 史 的 状 況
小稿では、安永元年二七七二)「万覚帳」、天明六年二七八六)「万党帳」、文化三年二八
〇
六)「金銭出入党帳」の三冊を検討対象としたが'安永元年「万党帳」には、安永元年正月から天明五年二七八五)正月までの一四年間
が、天明六年「万覚帳」には、天明六年正月から寛政一一年二七九九)正月までの一四年間が、文化三年「金銭出
「金銭出入党帳」の性格と内容(二)(蘇)
史料館研究紀要第二九号(一九九八年)一九八
入党帳」は文化三年三月から天保一二年二八四一)正月までの三五年間の'それぞれの記事が包含されているので
ある。
前二者は「万党帳」としては、金銭出入のみならず、さまざまな記事が満載されているが'後者は、「金銭出入党
帳」として'金銭の出入が中心で'「万党帳」のような多岐にわたる記載はみられない点が特色である。
この三冊の中では'安永元年「万覚帳」が最も記事内容が豊富であり'小塙も主として'そこに焦点をあてて論述
してみたい。
内容の検討に先立ち、一八世紀末期の歴史的状況について簡単にふれておきたい。
安永元年「万党帳」と天明六年「万覚帳」に記載されている一八世紀末は、幕藩体制の変質期として捉えられ、諸
矛盾が噴出していた。特に天明の大飢屈による農村の真数と老中松平定信を主導とした寛政改革が実施された時期で
ある。
日本史全体の中での主要な事項を指摘してみると次のことがいえる。安永元年二七七二)二月には目黒行人坂火
事があり'一〇月には銭相場が下落し、水戸や仙台では鋳銭が中止された。同二年二七七三)九月には鋳銭吹高を
減じ'銭相場の引き上げを計っている.同三年(1七七四)1月には米価引き上げ政策、同九月銭相場引き上げ政策
がそれぞれとられた。安永六年二七七七)五月には百姓がみだりに奉公塚に出ることを禁ずる触書が出された。
天明二年二七八二)の春以降'諸国で洪水が発生し'各地で打ちこわしが始まる.同三年(1七八三)七月浅間山
大噴火で天明飢任の幕開けとなる。同四年(一七八四)多摩郡で穀屋の打ちこわしが行われ、諸国では大飢健となる。
同六年(一七八六)八月老中田沼意次らが失脚Lt松平定信の登場となる。この年も諸国大凶作'関東・陸奥大洪
水となる。同七年二七八七)六月には米買占め禁止令が出され、七月から寛政の改革が始まる。八月には、以後三
か年間の倹約令が出されるが'この年は諸国で大飢佳となる。
寛政元年二七八九)九月には棄指令が出され、諸大名に囲米を命じている。同二年二七九〇)二月には全国に諸
物価引下げを命じるが'九月には米価下落につき囲米を奨励した。同三年(1七九1)11月には畑方の減免願を禁
止する。一二月には七分積金による江戸町会所道営が始まる。この年には代官所に手付が設置される。同四年(一七
九二)三月には'近世初期以降の名門を誇る関東郡代伊奈息尊が改易される。同五年(一七九三)は'大豊作のため米
価が下落する。同六年(一七九四)一〇月には、今後一〇か年間の倹約を命ずる。同九年二七九七)九月には相対済
Lを命ずる。すなわち金銭訴訟は幕府では扱わないということである。同l二年(1八〇〇)11月には南鎌二米銀
の鋳造を再開した。㌧Jの二八年間は、飢鐘と倹約令を基調とする時代であったといえよう。
六安永元年以降の「万覚帳」の記載
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安永元年の記事ここでは'「万党帳」の記載の中から'興味ある事項を抜粋して紹介してみよう。
まず'安永元年万党帳からみることとしよう。(安永元年)安永元年二月には寺子屋に関する記事がみられる。それによると'「入学は辰二月初午よことあり'寺小屋の入学うまが'二月になって最初の午の日であることがある。この日はまた稲荷神社の祭りの日でもある.寺小屋師匠に村する
謝礼手当として次のような記事が続いている。
「金銭出入党帳」の性格と内容(二)(蘇)
史料館研究紀要第二九号(一九九八年)二〇〇
「本村師匠様節句代ノ覚」として「辰三月朔日'1百文」「五月朔日'一百文浄心殿」「五月四日、一白米弐升」「七月七日、一百文浄心様」「外こ真一ツ小麦粉」「一'三月重内一ツ、五月同断、九月同断、霜月蕎麦粉」。このよ
うに、寺子屋の師匠には三月五月七月一一月の節句に金子・白米・小麦粉・蕎麦粉等を提供していた。ここで浄心殿
とあるのは'奥沢本村の浄心坊をさしており'ここで寺子屋が経営されていたことが判明する。
三月八日には'所沢(現在埼玉県)の三八市で'‑の木百五百本を四百文で購入しt.市の景況を次のように記して
いる。(&)なか右ノ三八市こて月六度立申侯'くのきこならノ苗ハも、の花ひらく次分二昔'芋種ハ春中ノ土用次分行か書、若(過)田なし
宿 当 り
こ留時は米持参こ不及'市こ米沢山下直なり、但し諸事升物山計侯'尤芋ハ問屋AQ
持出ル芋宜敷侯'是亦雨天ノ時ハ市物不足二御座候'茶ノ種ハ秋と芋種次分二出侯、尤春ハもやし出候へハ夫ヲふるいノ羽ヲ置其
ノ廻りこふせる也t
とあ‑、「市二米沢山下直なり」とあるのが注目される。
二月二四日には'一八〇文で「しんかうき一札」すなわち「塵劫記」一冊を購入している。「塵劫記」は江戸時代
の数学書で、吉田光由著になるもので'寛永四年(一六二七)刊行'入門的・実用的な書で庶民に数学を普及する上
で大きな役割を果したものである。(八時)二月二九日には、「夜五ツニ罷出'朔日ノ晩方罷帰り侯、一馬喰町御屋敷、出火見廻二上り侯、自分・喜兵衛・長
右衛門」とある。これは'目黒行人坂火事で馬喰町の代官屋敷へ見舞に行った記事である。
この火事は安永元年(一七七二)二月二九日'目黒行人坂大円寺から出火、麻布・神田・下谷・浅草・千住に及び、
江戸市街の大半を焼き翌日鎮火.死者1万四七〇〇人、負傷者・行方不明者は合わせて7万人余。明暦の大火と並ぶ
江戸の大火である。
iI安永二年の記事
五月八日に'庶家では出火があったが、「少々故村役中相談こて訴なし」という次の記邸がある。牢後二時)巳ノ五月八日ノ星人ツ過出火いたし候処こ金谷畑ノ衆中村方大勢相集周や計こて踏けし、尤大火こ不成井外ノ家
居宅ハ不及申相助申侯、
これは、出火の臨場感がよく表現されている。
七月二八日には「我等居宅」として'「梁間三間、桁行七間」すなわち建坪二1坪を'我等と平右衛門・左五兵衛(軒)の三人で'「上目黒御鳥見様へ右三間一同こ願侯」とある。鳥兄は江戸幕府の職名で若年寄に屈し、将軍の狩猟地を
巡検し、鳥の所在を調査する職であるが、鷹揚管理の1現として'住居等の建築許可の権限をもっていた.ここでは'
安永二年七月に「万党帳」の執筆者であ‑'村年寄役新左衛門が'他の二人と1緒に同規模の雄坪二1坪の家の雄築
申請をしているのである。当時の農民の家としては'比較的大きなものであったといえよう.
八月十二日には「普請中雇人党」が列記されているが'その直前に次の記事がある。「始ノ
巳八月十1日AQ十月廿
1
日ノ終迄木挽ノ数四拾壱人相
増
詣撞(.;臥)手間弐両卜壱
貫弐八拾八文巳ノ八月六日ノ釣立JQ上や‑迄大工百人
「金抜出入党帳」の性格と内容(二)(衣)
史料館研究紀要第二九号(一九九八年)二o二
右ハ渡シ分」
とあり'木挽七三人半'大工一〇〇人という大規模なものである。
九月には、棟上の記良がみえ、「十1日棟上ノ祝義、米弐斗二壱貫文、木綿壱反英外肴酒」とある.家普請関係記
録としては貴重なものといえる。
肖衰永三年の記載
二月一一日には、酒一升を一〇〇文で購入し'「右は本村浄心棟へ市之介入学ノ印」として提供している記事があ
る。これも浄心坊の寺子屋への入学の時のことである。
二月一一日も初午に当るのではないだろうか。
70月三日には、「1弐拾七文本村名主殿隠居こ付跡役幸二郎家督之祝義代」とある。名主が隠居して'跡役と
して'幸二郎が家督を継いだことに対する祝義代として銭二七文を提出したことが判明する。
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脚安永五年の記載
安永五年(1七七六)の日光社参の記事が次のようにみられる。
申四月日光御社参二付深沢組千八百石余へ名主弐人'組合惣代下沼・深沢こて古河へ詰'名主壱人前五両'池尻
組・かすや組・深沢組こて′名主五人、供壱人三両
日光社参とは'江戸時代、将軍の日光東照宮への参詣をいう.徳川家康の命日にあたる四月一七日の祭礼にもうで
るo将軍の権力を誇示する目的もあったo初期には秀忠が四回、家光がl〇回、家綱が二回と頻繁に行われたが、そ
れ以降では、吉宗、家治'家慶だけである。日光道中を片道三泊四日の道中であったが、大勢の大名・旗本が供をす
る大規模な行列で、沿道の村々には過重な助郷が課されたOこの記事は、一〇代将軍徳川家治の日光社参のときのも
のであり'世田谷領村々の名主が供をつれて社参に参加していたことが判明する。その焚用として名主1人につき五
両'̲供1人につき三両を要したO
㈲安永八年の記載
安永八年(一七七九)四月一一日に浄其寺所持の年貢地林の内で首超死人が発見された記事が次のように記載され
ている。(午後八時)安永八刻四月十一日夜五ツ時前、当村浄其寺所持之御年貢地林之内首超死焼人有之'当村□人夜廻り二倍出見付
村役人へ為相知侯二付、早速御役所へ御訴中上御検使被下位御見分之上三日た,し札立可位旨被仰付'尤十三
日JQ十五日迄昼夜番人付置候、同十六日こ仕廻是又御役所へ御訴中上被仰付侯上、右之人用訳ケ金弐両御役人
様、田中左右馬様御さかな代弐朱御供(以下略)
この首縫死人の取り扱いの仕方が判明するとともに'その措置に要した焚用や昼夜の番人数が判明する。こうした
場合の費用負担の方法は先例を調べて実施した。そのことが次のように記載されている。
名主喜左衛門殿同十七日朝毎々ノ議定口取出し見侯処'明和八卯六月串□雑用之裁ハ三分一家並残三分二ノロ高
剖二相極候間此度ノ義も右之通ニロ割直し候、
右之雑用高三ツ剖1ツ分九箕九百文ほと家並割、此節村越石共家数百十四□壱軒前八十七文残二ツ分十九文人古文
三百九十弐石二割、石こ付五拾六文剖
「金銭出入党帳」の性格と内容(二)(蘇)二〇三