日 本 悌 敬 凪 平 協 同 年 報 ハ 第 十 年 ﹀ 二 七 回 1
悌数々理史上に於げる諸法有論の地位
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印度悌教々理史上、思想展開の中心をなすものは‘阿昆達磨の諸法分別と八不空観と唯識無境とであろう。 阿見建磨は悌陀の封機随縁の詑法中から.第一義的たものとして四諦・十二縁起・二十二根・五組・十二慮・ 十八界・三十七道品を取り上げて、初めて純粋た僻教自身の立場から、俳数々理を組織したもので、全怖敬々理 護展の基礎をたし、俳教皐組織の根本費糧を設定せるものである。 阿見建磨の諸法分別は.存在2
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︶を有話・苦たるものとする前提の下に、存在をその成立の各種僚件に、 論理的な分析を試み、その依件の中.人聞が修道に依って左右し得るものを見出し、以って存在の不成立役導く 可能性を確立ぜんとするものである。従って彼等には存在の無き欺態が‘求めらるべき目的として定められて居 る。
龍樹の八不の立場は、苦なる存在は、質ι
は存在そのものでゑく、人間の分別概念上のものに外ならぬとと佐 明にせんととを努め、分別概念の相の宰性︵b
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︶を主張するものである。彼は、人聞に苦左分別せらる L 共 の同じ存在が、聖智の立場から異って見らる L と と を 一 不 し 、 こ の 立 場 に 見 ら る L ものとそ存在の賓相吃得たるものとする。八不昼を主張の表面に、存在の賓相を内面の理由・とするもので.従って阿見建蹴閣の﹁存在から無存在 へ﹂の悌教をして、﹁安から貰相へ﹂と特換したものである。 唯識無境の設は.龍樹の宰視に依って導かれたもので.人間的立場の分別的存在を唯識表象とし、その存夜の 異質に印ぜざるを無境なる一言葉で示したものである。然し‘此の設は人間心の相績・唯識表象の成立を阿見建蹴閣 の諸法分別の仕方に依って論及し、阿見建耐聞が無存在とするものを‘人間心の員智への締換とたし、此の虞智へ の時換に依って八不宰の内面の理由とたった存在の異質相を満足せんとしたものである。 か L る阿見建’膳・八不空・唯識無境三者の護展に於いて、百接に第三者の相封的誘護者となり.第三者の理論 構成の直接資糧者となったものは、阿見達磨の立場にあって諸法有論を唱導した説一切有部宗である。 今問題として取上げるは、此の詮一切有部の皐誌であるが、完成せる有部の島一訟は、既に論者 y る迄もたく古今 の拳人に依って開明し輩されて居る筈である。此鹿にいさ L か試みんとするのは‘阿昆達磨の諸法分別の意義と 有部の諸法に封する性相の建立の相異とその相異の原因.更に叉たその相異から来る理論上の困難を見たいと思 ふのである。有部自身が理論上に行詰り、叉は無理を犯すととは.やがて新しき思想の誘設とたるものであり、 且つ叉有部がかくたさねばならね所に阿昆建磨的立場の騨換の必然性があるからで、特に此の鼎に関心を持ちた
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J阿昆達磨の諸法分別
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︶ 阿 昆 建 磨 の 存 在 傍数々理巾見上に於ける諸法有論の地位 一 一 七 五日 本 併 殺 準 協 舎 年 報 ︵ 第 十 年 υ 二 七 六 3 悌教に於ける存在ハ
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﹀の三有で あって‘三様の生活扶態のととである。有は人聞の住む世界のととであるが‘その設か L る事情からは人間の生 活関係の総睦であり、人間心が金生活関係の上に統一者として縁起構成せしめられ℃居る有様を言ふのである。 故に‘存在は自己に封立する客観||心と区別された心の封象l
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たるものでなく.心的たるものとその封象と なるものが結合してモの統一態として人間心が成立せる欣態である。 ~ 言 十 葉 こ で 縁 有 起 り の方 有
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とされ、成立の要因が誤りであるが故に成立せるものも非員賓有︵号v
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﹀怠るもの、設り作ら れたものとされる。 十二縁起の有は‘、心的たものとその封象とたれるものハ識・名色・六鹿・鯛・受﹀がその結合の要因︵無明・ 行︶に依って統一されたものが生活を促すもの︵愛取︶に依って生活しつ L ある現扶︵3
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匂 三 笹 山 口 る で 、 業 有 ︵ −c
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ゲ ︸ 岡 山 4 mむ と 昔 一 口 一 は る L も の で あ る 。 ① 悌陀は‘十二縁起の識・名・色の三者相互関係を三慮の一束に比せられたが、此れは心的危了別の働きと了別 に役立つ概念と了別さる L ものとが、現欣以前の欣態︵無明・行︶に傾向づけられて結合して、現にある生前態 が興へられて居るとと.印ち生有ハロ H V H H M H 2 g E 4与を一不すもので、此の現にある生活態を傾向づける無明と行が 三虚の結ばれ方と結縛縄をたして居るととを言ひ現はされたものである。従つ℃生有は現在の生活態のあり方 ︵ ヴ ︼5
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富山吉有分︶叉は存在性を示すもので‘此の存在性を興へられた流れは、考へるとと感やるとと︵六底・燭・受︶を受けた時に車たる存在性たる吠態を動指︵
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るせしめられその欣態をば嬰じて︵げES
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有分断︶生活行動ある扶態となる。此れが業有で、乙の生活行動を傾向づけ.思業思己業と言はる L 生活行動あ る現朕そあらし偽るものが愛・取の煩慣と言はる L ものである o 存在とはとの業有の現朕Q
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官 m乙である。 ・ 弐 に 四 諦 で . 五 取 組 と 言 は る L は 色 ︵ 円S
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︶ ・ 交 守 口 仏 国 巳 ﹀ ・ 想 ︵m
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︶ の 五 組 ︵ 宮E p
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︶が取官官告−ロろに棋はれたるものとされる。五離は有漏無漏に過やるもの、取は漏であ る。従って五離は生有に相官すべきものであり.それだけでの相続する存在性は有分の献態である。取は十二縁 起の愛・取の二支のととで、生有が業有たる矯に働くものである。故に五取離は十二縁起の有であるとすぺきで ある。十二縁起と四諦とを敬理の基本とする阿昆達磨の存在は此の十二紘起の有‘四諦の五取組たる業有であり・ それは人間の主観客観の一切が包合さる L 全 生 活 態 で あ る 。 此の様た存在を本観化して、その構成に預るものを法として分析開明せんとするのが阿昆達磨の諸法分別であ る。従って取扱はれる存在とは.能取と言はる L 主観性のものも.所取と一言はれる客観性のものも、すべてが不 可分たる一つのものとして客観的に扱はれて居る。叉諸法分別は考へるもの、考へらる L もの‘考へを傾向中け るもの.共れ等を結合するもの等に僚件的に分別して法を求めるのであるが‘然も事賓としての存在は、か L る 僚件によって知らる L もの.か L る僚件を含むもので‘保件への諸法分別は如何にし℃も存在の分割とはたり得 たいものである。故に法の分別は存在の分割ではなく、論理的に知らんが潟の、論理的保件を求める乙とに外た らない。故に阿昆達磨の諸法分別とは、存在の論理的考察のととに外たら紅い。 4 傍数々理史上に於ける諸法有論の地位 二 七 七日 本 併 殺 準 協 件 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ 二 七 入 5 ︵ U H ︶ 有 ~ 法 存在するものを知るのは.そのもの L 姿相 Q P ] 剛 容 宮 ︶ と 運 動 ・ 働 き を 示 す 行 相 ︵ P ] 円 相 品 ﹀ と か ら で あ る 。 然 し .
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斯くして知られた存在の存在性を更に明にせんとするならば、か a h る姿相・行相を成り立たせる所のものを求め その成立関係へ考を及ぼさねばならない。 も の L 成立関係を考へる一つの方法は、か L る姿相と行相を論理的に分別し.か h A る相の成立すべき幾つかの 傑件に分って見ることである。か L る方法が阿昆建麿の諸法分別の仕方である。 阿見達磨の諸法分別は存在をば.その姿相・行相の僚件的た特相について.︹一︶存在の姿相行相を成立する素 材的保件と、︵二︶此等の素材的保件を闘係づける傑件と、︵三︶更に関係つけられたものをか L る姿相行相にあら しめる傑件.及びその他の像件との各種保件に分けるととで、此れ等保件の闘係に於いて存在を論ぜんとするも のである。斯様にして求められた各穐保件が阿見法磨分別された話法2
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自制︶である。此の様た仕方は.時 間冒と宰同に於いて存在するものを、論理的な法の閥係に移して考へることである。 阿見達磨分別された諸法の巾で最も一般的たものは有部の五位七十五法であるが、共の中の有録法︵S
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V 田 H B P︶とせらる L 七十二法が上越の法に属する。 七 十 二 有 矯 法 中 、 色 法 へ 同 国 市 白 色w R
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︶ ・ 心 法 ︵ 岳 民 吉 舎 自 BP ︶ ・ 心 所 法 ︵ 出 倍 以 色 広 告 ﹄5
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の三位五十八法は第 一種保件に相官し.不相臨行法中の得非得QZ
切戸・名門占岱︶等は第二種保件に相官し‘衆同分・生・住・異・減 ︵2
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−︶等は第三種保件に相官する。叉た星組の分類に於いても.色・受・想・識四 組は大慢に第一種保件に、行親は第二種と、第一ニ種との保件に古る。行砲が五組の一、としての行相と.五組金時に封する行相とを有するとせらる L は‘第二種の保件と第三揮の傑件とを含むものなるが得であらう。 有部大昆婆沙論は谷副に﹁噌上議論道に依り‘諸法を分別し‘諸法の白相・共相を建立する︵取意︶﹂と述べる。 ﹁白相・共相を建立する﹂とは・諸法の自性・行相を建立するとと左意味す凶。 諸法は上越の如く存在の姿相・行相から分別されたものであるが、北パの諸法各々の自性宏司与 F P 4 向 。 ・ 行 相 ︵ 島 町 阿 世 ︶ は 分 別 の 際 に 建 立 さ れ た も の で あ 一 る 。 例 へ ば 存 在 の 生 減 ず る 事 費 か ら 、 ﹁ 生 中 る こ と ﹂ . ﹁ 滅 す る と と ﹂ と 生ぜしめ、減せしめる﹁はだらき﹂左右﹁自性﹂と﹁行相﹂として建立したものである。此れは存在乞論理的に 分別した際に建立したもので、阿見建層的仕方に於いては宜時的た立味は是れに付加されたいものである。生法 は﹁生やるとと﹂を自性としベ生ぜしめる﹂を行相とする法で‘それだけとして考ふべきものである。何となれ ば賞在するは存在だけで.その存在を知る需に、存在の相を構成するものとして考へられ‘存在の特相とさる L ものを取って、かくせしめる法として施設建立されたものなる故である。色法の如き素材的なものと見らる L 法 にしてもベ堅掠慨動﹂を﹁性﹂とし﹁顕色・形色あらしむ﹂を﹁はたらき﹂とする法で、此の法に依ってあり、 此の法んの示す性相に依って知らるものが賓在する色である。故に法は、共の求め建立された意闘に従ふ限り論理 的訟法ぜ・賓憧的なもの、或びは存在を分割した一部分等と考ふべきではない。 ︵
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︶ 無 1.$ 法 有話法は上速の如く存在について分別建立されたものであるが、無策法とは如何たるものであらうか。 存在一般は,有翁法から成り‘特に生・住・異・減の四法に像件づけられて.所謂有箆法の有待相を一不すもの である。此の有矯相たきものが無矯の献態であり、是れに至らしめるものが無翁法︵E
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︶ で あ る 。 6 傍 叫 棋 々 理 由 民 上 に 於 け る 諸 法 有 論 の 地 位 二 七 九日 本 傍 敬 血 中 協 舎 年 報 ハ 第 十 年 υ ニ 入
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7 存在一般が有詩相を伴ふ中にあって、然らざるものとは存在の異ったものでたくてはなら泣い。 然るに我々の存在界には、存在のみがあって.とれと異ったものとは.存在の失はる L ととか、存在を妨げた いととかの外にはたい。かくて求めて存在を失ふ揮減無矯︵官注目 EE 召r
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昆 円 。 白 H H ろと自然に存在が存在牲を失ふ 縁依不生の非捧減無震官官a u m
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昆 宮 島 V P ︶と、存在の存在することを妨げないととの虚空無得S
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︶ と の三者が無鴛法とさる L の で あ る 。 特に捧誠無潟法は求めて存在の傑件在失はせるととであるが、賓は阿昆建磨の諸法分別は‘求めて失ひ得る存 在の僚件を発見する質践的意固を持つものである。故に此の無得法は他の二法とは殊なり‘失ひ得る保件を求め て.此れを不生起たらしむる法で.此の法の働く封法は心的保件︵悪煩悩法︶である。 我々は.か L る無矯法の求め方から.阿昆達磨の立場を規定し得る。郎ち ︵一︶思考の出稜及び封象は存在で.彼れ等は存在を法の関係に於いて見るを縁起蹴とする。従って存在と存在 以上のものとの閥係に於いて縁起観をたすものとは異る。 ︵二︶彼等は存在は有潟・苦であるとし.背の減は存在の械に外たらぬととを主張する。此の立場は斗存在の無 常を常とする故に背が生やる﹂とするもの、及び﹁人間的存在は誤り見られた分別概念公ゲ V E P H V 門 丘 町 包 匂 と で 、 聖智の立場から質相が見られる﹂とするもの ξ は 異 る 。 ︵一ニ︶彼等の悌教は存在に劃する意味又は立場を左右せんとするものでたく.存在そのものを左布ぜんとするも の で あ る 。 斯様た立場を持ってたさる L 阿昆達磨の諸法分別は、存在についてたされ、存在のなき献態を設定して、存在と非存在の法を立てたものであるととが知られる。大昆婆沙論が﹁若し‘有待たくば亦た無銭も無からん。有録 法を槻じて無得法を立つるが故に。若し有矯・無詩無くば躍に一切法無かるべし。若し.一切法なくば‘躍に解 脆・出離・浬捷はなかるべし。是の如くなれば大邪見を成やるものたり。﹂と言って居るのは将しくこのこと友明 にするものと言へる。従って、彼等の思考的立場は純粋な存在論ではなく・宗教としての目的の慌に寅践論の立 場からなされて居るととも知られる。 f「
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阿見達磨の諸法とは.存在を論理的に分別して特られたもので、従って共れは存在の論理的認識をなす詩の法 で あ る 。 凡そ﹁有り﹂には貫際的た﹁有り﹂と、観念的又は論理的な﹁有り﹂の雨様の﹁有り﹂がある筈で、存在の﹁有 り﹂は前者、法の﹁有り﹂は後者である。世親は倶合論二十巻で此の乙とを指摘して、 ﹁有の聾は通巴て有と無との法を額はすが故たり。世間に、燈の先きに無きとと有り‘燈の後に無きとと有り と説くが如く、叉‘燈の己に一蹴するとと有り。我れが今︵燈を﹀誠ぜしに非らやと品目とと有るが如し。︵過︶去 ⑤ ︵ 未 ︶ 来 有 り と 設 く と と も . 其 の 義 爾 る ベ し ﹂ と言って居る。此れは.有論を主張する有部が一向に﹁有り﹂をば賓館的有と主張するに劃して、世親の所謂 ① ﹁嘗有の有﹂.﹁曾有の有﹂.﹁如有の有﹂と言ふ論理的概念的た﹁有り﹂と‘具樫的賓睦的有なる﹁現有の有﹂と を区別する言葉である。世親が斯様た言葉で論難を向けるととから知らる L 如く‘有部では此の二種の有は全く 8 悌数々理史上に於ける諸法有論の地位 二 入日 本 偽 数 穆 協 ゐ 胃 年 報 ハ 第 十 年 ︶ ニ 入 二 9 区別され歩、如何たる立場から思考されたとしても、﹁有り﹂の言葉に移された時には、それが如何なる意味で言 はれたとしても‘貫瞳的た﹁有り﹂として反省され吟味さる L の で あ る 。 斯様な思考の立場からして.阿昆撞磨に於いて論理的な法として分別建立されたものも.有部に取っ℃吟味さ る L 時には、﹁有り﹂宇田町︶の言葉に基づいて賓躍的た﹁有り方﹂と怒って来日。。是のととは、存在を知る矯めに 求められた法を.再び存在化するとと L たり‘存在と法が区別されなくたる。故に有部では諸法は時に諸存在で あり.叉た存在は時には法と解せらる L と と L なり雨者の匝別が甚だ稀薄不分明たものとたって居る。 存在から諸法が介則された時には‘論理的な立場に必要な法の自性と行相とが建立せられ.それだけであった が‘此れを賓館的に見るとと L なり存在化するとすれは.白鰭あるものが自己の自性と行相を保持して.論理的 の不費性に支持せられて不捷に存在すること k たる。所謂﹁任持自性の法﹂とは、同一立場で論理的考察のなさ れて居る聞はベ生中るとと﹂は﹁生やるこんことし℃論理的に不費者たる乙と示すものであるべきであるが、是 れが存在化さる L とすれば﹁生守るとと﹂左白性として生ぜしめる働きを持って居る不嬰た存在者とならねばな ら泣い。此れが有部自身としては法時恒有論とたり.又、龍樹が八不の初頭で自性的存在︵
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︶の許すぺ からざるとと、か L る存在は縁組の理に反するととを論ぜしめる直接原因となったものである。 法を存在化する時は.不艶の存在者を許すととにたるが.かくするならば.即ち阿昆建麿的立場を守らんが矯 には存在化された法の法が必要となる。例へば生法は存在生起の法であるが.此れが存在化さる L とせば更に生 法の生起の法が必要とたる。有部はついに生法に叉た生々法を立て L 居るが.是のととが、世親からは、かくて ⑦ は法の法を際限たく立つるとと k たると言ふ無窮の難を問はれ.龍樹中論三相品の設けらる L 封象とたるものであ る 。 Fヘ
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有部.詳しくは説一切有部宗︵m p
吋 司 駒 田 町 ﹄ 志 向 山 口 ︶ は ﹁ 一 切 有 ﹂ ヘ 国 首S
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︶と主張する皐慌である。﹁一切有﹂ の ﹁ 有 り ﹂ 官 注 目 ︶ は 三 人 稿 単 故 現 在 に 於 い て 使 用 さ れ て 居 る 動 詞 で あ る 。 ﹁ 有 り ﹂ ハ ペ 釦 ︶ の 意 味 は ご 吉 ヴ タ ロ 4 9 2 向 性 − で あ る 。 一 切 底 ︵ 由 号 4P 可 P︶ 、 一 切 時 ︵E
同 4P 旨、すべて︵問日25
︶ に が 、 け る 一 切 ︵E
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は 過 去 末 来 現 在 の 、 五組等の法で‘究活円の註にはご切の身公自,円 H d p ︶ 、 ③ に於ける一切法である﹂とする。 一切の時.あらゆる行相︵豊富﹀、あらゆる事物色E
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現在動詞で過去・未来をも含む一切について﹁有り﹂と言ふのは‘此等を現在思考上にありとして、此等三世 一切の存在を成立する法を立て L 論団的に思考をたさんとするものな、原則として阿毘建暦の正統的立場に擦ら んとするととを示すものである。 一 般 に 一 二 世 賢 有 と は 此 の ﹁ 三 世 一 切 の 存 在 の 法 有 り ﹂ 、 と す る も の L と と 色 あ る 。 有部は﹁一切有り︶の論設の岱めに‘二つの経設と二つの理詮乞提示して居るが.全面的た理論的根擦とた。 ① て居るのは﹁識有境故﹂の理詮である。 ﹁ 識 有 境 故 ﹂ 、 a p e − ︶ は 、 意 識 事 買 は 必 4 7 ﹁識るもの﹂たる能縁の識と斗識らる L もの﹂怒る所縁の境から成立すると 言ふ阿昆達磨共許の定義を大前提として、﹁現在意識を成立せしめて居る識るものは現にある﹂、故に﹁識らる L も のは、過去のものでも、現在のものでも.未来のものでも、識るものが現にあるが如くに、現にある﹂と主張す るものである。此の様た立論は‘現在の意識事賓の成立守る朕態をば存在とし、その存在の構成者を論理的に分 JO 悌紋々理史上に於ける諸法有論の地位 ニ 入 三日 本 側 数 撃 協 島 百 年 報 ハ 第 十 年 υ
一 一
λ 四 11 別し.以って﹁識るもの﹂と﹁識らる L もの﹂の二者を得るもので、此の際の﹁有り﹂は論理的た有りでなく℃ はならない。論理的た有りであってとそ、現在意識の封象たる﹁過去のもの﹂や﹁未来のもの﹂が現在勤詞で﹁有 り﹂と詮表され得らる L の で あ る 。 然し有部は斯様な﹁有り﹂を﹁有り﹂の言葉について、賓程的な﹁有り﹂となしたととは既に遮・へた如︿であ る。故に存在を方法としては論理的に諸法に分別するが、分別された法は賓躍的に有りとするもので、成立した 立場は﹁質瞳的た法の論理的た取扱びをする皐波﹂である。 ⑬ 然し三世賞有の三世の考へ方について、大見婆沙論は、﹁行は世の義﹂と一言び、叉古来教接的に﹁依法而立世無 別盟﹂と一言ふ。此れは時間を立場として存在の過現未を見るのでたく、存在の麓化相について三世を匝別すると とで、時間の中を存在が推移すると見る立場を否定するものである。然も有部は法を質睦的存在のものとする所 から‘法瞳が作用を現起するととについてこれを現在とし、その前後を未来・過去とする。従って一般には存在 の咋日が過去であり、明日が未来であるが、有部では法の作用の現起般態が現在で未作用たりし現在以前が未来 位、以後が作用巴誠の過去位とたるとと L なる。此の様た三世を立て L ﹁三世の法賓有たり﹂とすれば.三世の 法とは一法の三世相であるととも込たる。有部は此のととの反詮として法瞳恒有論をたすのであるが||むしろ法 時恒有が有部の全面的主張である||然し此れは﹁識有境故﹂の理誰から来る三世賓有論とは異る。理詮は現在 意識上の過去法・現在法・未来法で論理的現在有のもので‘その矯めに現在動詞の有りが使用されて居るのでる ⑬ 部波の間にあって、時間を設定して.時間的に存在が推移すると見たものは安建祇︵K
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ろであって、彼等 一 法 の 三 世 相 で は た い 。 りは過現未三時の直別の詮表の根操︵宮
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ろを設定し.過去のものは過去のものとして.あった乙と L と し て.未来のものは未来のものとして.あるべしとして示さねば伝らねとして﹁三世は成熟たり﹂との時間先決定 論をたず。大昆婆沙論の妙一音も不相雁行法中に時間を示す世法を設定して時間を論守るとせらる L が、見婆沙論 に 示 さ る L 限りに於いては有部の立場を出やるものではたい様である。 然し有部の出護貼たる﹁識有境故﹂の理詮に依る限り・か L る立場を取るものではなく、彼等の言ふ過去法は 舎有法でなく、未来法は嘗有法でなく、いづれも現有の法である。︵ 四
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三世貫有と法腫恒有
︵A
︶ 法瞳恒有と三世賓有 有部の皐試を有名な大見婆沙論の同大論師の設に基づいて、一二世賓有法特恒有論と名づける。三世賓有は明ら かに、﹁識有境故﹂の理詮に基づくもので、﹁現在に有る過去法・未来法・現在法﹂であって一法の三世相でもたく 時間的推移欣態でもたい。然るに、法樫恒有とは﹁法が恒に存績して有る﹂ととで斗恒に﹂とは時間的詮表で. 法が賓瞳を時間的に績けて行くととで、三世賓有とは異った立場のものである。か L る異った立場のものが同一 立場の一つの命題として結びつきベ三世賓有の故に法瞳恒有である﹂とか﹁法瞳恒有の故に三世賓有である﹂と かと詮表されて居る。然も此の際に、三世質有とせらる L 意識事賓を構成する現有の過去法・未来法・現在法の 各々が法瞳恒有と言はる L のではない。現有の三世法が各々法賠恒有とせらる L たらぽ、彼等は訟を法樫あるも のと見るのであるから‘此の諸法の相績的見方とも解し得るが、回大論師の設は一法の躍に異りゑく相摘するを 12 併数々瑳史上に於ける諸法有論の地位 ニ 入 五日 本 悌 動 棋 風 宇 協 合 年 報 ハ 第 十 年 u 一 一 入 六 13 認め、その一法の相績中に示す相の費化航態について三世を区別して三世質有と一言はんとするもので‘出護賠た る﹁識有境故﹂とは異るもの L 如 く で あ る 。 @ 婆沙回大論師の設は法救の類不同設・妙晋の相不同詑・世友の位不同設・畳天の待不開設である。法救の類不 同設とは﹁諸法の世に行やる時.類に異りあり.瞳に異りあるには非や‘金器を破して飴のものとたす時に、形 に異りあるも躍に異りたきが如く﹂で、妙一音の相不同設は﹁過去は正しく過去相と合す、而も名づけて現未の相 を離るとはなさや﹂であり、畳天の待不同設は﹁諸法の世に行やる時、前後相待して名を立つるに異りあり. 女人を母と名づけ女と名 e つくるが如し﹂であり・世友の位不同設は﹁作用に約して位に異り有りと立つ‘彼れ謂 く.諸法の作用の未だ有らざるを名づけて未来とし、作用のある時を名づけて現在とし‘作用の滅するを名づけ て過去とたす。躍に殊りあるにはあらや﹂とするものである。 此の中世友の設のみが有部の正義とさる L ものであるが.我々の注目すべきは四設共に‘﹁三世賓有﹂とは一法 の三世に亘ってあるとと L 解し、現在思考の上に論理的に抗世されて﹁現に有る﹂とせらる L 過去法左現在法と 未来法との三法として居らたいととである。﹁慨に殊りたくして、過去・未来・現在に瓦って存する法﹂であると との論詮とたって居る。 此の様た考へ方は、明に法が共れ自身時間的に推移して居り、その有り方の蟹化の上に三世の区別をつけて、 ﹁三世の法有り﹂とするものとせねばならぬ。故に三世の法有りは﹁一法有り三世相を示す﹂ ζ とに外ならぬこ と L たる。斯様た法に封する考へ方の立場を来したる理由の一つは法を賓陣佑し斗法の自性は・目髄たり﹂とした ととにある。訟は阿昆建磨的には.存在を論目的に知る儒めの論時的な法であった。例へば生法の自性たる﹁生
ヤるとと﹂は同一論理の立場ではいつまでも﹁生やるとと﹂で.論理の聞に於いて﹁生やるとと t 一 が ﹁ 滅 す る と L e ︶﹂等に同盟化しては論班は成立したいもの台、郎ち論理的不費性を持つものである。今か L る 法 の 一 白 牲 を 自 陣 と して賓館化するとすれば.論理的不挺性は質問の不弾性となり、質附閥的た法が料提るととなく恒に存するとと L た る
。
然も訟は存在を分別して求めたものであり‘存在を成立するものとして建立されたものであるが、存在そのも のは無常であり.因総に食って存在するが因縁なくば存在しないものである o 叉諸法が建立されたるもので.存 在たき時は法は法たるに止まる。然るに法が質惜硯さる L 、とすれば存在たき時は法躍のみの朕態で存在せねばな ら 4 7 ・因総に依って諸法結合した時が存在構成の作用をなす時となる。世友の位不同設の現在位とは、法が存在 構 成 のM
1
2
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る時の朕態のととで、その前後を未来・過去とし・過未の献態は法憾のみで作用のなき欣態と せ ら れ る 。 か様た一法の三世相に依る三世宜有の理論は、法の自性の論理的不援牲を質腔の不費恒存性とたし.存在の無 常・間断性から法の行相、印ち作用の間断性そ立てヘ憾の恒常性と作用の間断牲を賓時的な一法上に見る慌に 生じたものであり‘その結果世友の所謂﹁作用に依って三世の別を立つ﹂.﹁障に殊りあるにあらや﹂となったも のと考へられる。故に有部の三世は法の欣態の匝別であり、且つ叉た.世友の正義たる位不同設も‘不正義とせ らる費天の待不同設と異りはたい様である。費天の待不同設は法の前後相待して三世を立つるもの故に.過去に @ 於いても三世は成立するもので、世雑乱の過失を招くとさる L が、有部寸も法の作用そ現在として前後を過・未 二世となすものであり、然も法臨は恒有であるから作用あるとと一度には限らない筈である。従って一?の法に 14 傍数々理史上に於ける諸法有論の地位 二入七日本悌教接協合年報︵第十年﹀ 一 一 入 入 15 ついて幾度ぴもの三世が成立すること L な る か ら で あ る 。 以上の如く自性を白煙たりとした理論から必然に法韓恒有とたり・此の立場で三世貫有歌論ゃるのが﹁法問恒 有の故に三世の法は有る﹂であるが.此れは結局ご法が三世に亙って有る﹂に外たらない。 ︵
B
﹀ 三世賓有と法瞳恒有 有部は法を貫瞳佑し、空間的に見るとしても、元来は時間的に見ないととを主張するもので、此れが﹁識有境 故﹂に基く三世賓有論であった。 時間的に、時間の中を存在が推移すると見る立場を有部から見れば、﹁果の此の器を出て L 伎の器に入るが如く・ ⑬ 人の此の舎を出で L 棋の合に入るが如き﹂ものと論難すべきもので、時聞を立てるととは換って時間の時間性を 失ふとと L たると言ふ。此れは時間と言ふものも.法として立てらるれば、有部では賓館存在となり、空間的に しか批判出来たい乙とを示すものである。然し有部が﹁行は世の義﹂と言ぴ法の三世に亘る恒有を言ふととは‘ 存在叉は法の有り方について時間的た存績を考へて居るものである。 形式的に時聞を否定して、質際に時間を認めて居るととはやがて有部の設をして混雑なる理論たらしめるもの であるが、か L るととに立至った一つの理由は三世の意味が立言の立場に従って幾様にも分けられねばならぬと とを忘却せるととにある。三世と言ふ言葉佐立℃るに︵一︶郎ち三世賞有の場合の如く法の扶態を示すもの.邸ち 法の名稿と怒って居る場合l
l
此の場合は﹁過去﹂とあっても過去存在か過去法であるl
! と 、 ヘ ニ ︶ 時 間 的 一 一 一 世 とである。時間的三世は明日が未来、昨日が過去であるが.法の名稿たる時には三種の三世の取り方がある o 郎 ち ︿A
︶現在意識に封象とたって居る意識上の三世法で‘此れはすべて現在者である。ハB
︶法鞄恒有の法の場合は⑮ 作用ある時が現在、共れ以前が未来、それ以後が過去法や﹂ある。︵
C
︶時間的現在と合致する見方では曾有法が過 去.曽有法が未来‘現有法が現在である。 有部は、理詮に基づいて一二世質有を論説する時は、︵ A ﹀の意味の三世法を論やるものなるべき色あるが、賓際 に は 三 世 を ︵C
︶の三世法とし、寅有の現在勤詞を時間的現在として論諮ぜんとする。然も時問視念ω
反 省 的 珂 九 州 は ︵B
︶の意味たりとする。此の相異った立場の意味を文字の概念形式の同一性から‘同一意味たる如く扱ふ所に 種々な理論的混凱を引き起して居る。 今卓也、供会酬の経部と有部との三雲氏有論争を見る附 経部ll
我等も亦た去・来の世の有るととを説く。謂く、過去世の八甘固有を有と名づく、未来は常有たり。果と 因あるが故たり o 是の如き義に依りて去来有りと説くも.去来に現在の如く質有たりと謂ふにはあらや。 有部!l
誰か言ふ。﹁彼の有は現在の如くなり﹂と。 経部1
1
現 世 の 如 く に 非 中 ん ば 彼 の 有 は 一 五 何 。 有部! l t彼れは去来二世の自性を有す。 経部ll
此れ復た臆に詰るペし。若し倶に日正れ有ならば、如何にして此れを去・来と言そへきや。一五一耳 とたって居る。此の論争で、有部は現在の存在と等しく去来法も現在時に質有とする立場から、去来二世の一法 は現在法の如く存在を構成して居るのでなく‘去来二世の自性を有してll
自性とは有部では白樫であるl
i
印 ち曾有法は過去として、営有法は未来としての法憾として現在するし L a一 日 ふ の で あ る 。 16 斯くすると、論述の基礎は経部の提言した時間的た現在時で、此の時に、現在法は作用を現し存在を構成して 傍数々理史上に於ける諸法有論の地位 ご入九日本悌獄事協舎年報ハ第十年 υ 二 九
O
17 現にある存在として存在し、此れと相並んで過去時に存在を構成した過去法と未来時に存在を構成すべき未来法 が作用なき法鵠として現存するとと L た る 。 此れは時間的現在時に三世法の買有するを示さんとして居るもので﹁有る﹂の現在勤詞たるととを重硯ずるも のであるが、然しとの際三世の意味が持。各種に匝別すべき立場の混凱を来して居る。三世賓有と立言さる L は 共の理詮たる﹁識有境故﹂の範固に於いてピなくてはならたい。此の理詮の一不す所は現在の意識事質を構成せる 献態が金存在で、三世法とは此の存在を構成するAの意味の一不す論理的現在の諸法である。未来法も過去法も識 らる封象として現在に存在構成の役割をたして居る法で、その意味で過去・未来たる自性を有し、現に存在構成 に参ずる、作用ある現在位の法となって居るものである。此の現在の存在以外に現在時には何物も存したいので 此の外に法瞳のみある存在をl
l
法陪恒有を認める震に11
ゆるすととは﹁識有境故﹂の以外のものを論詮なく 付加して居るととにたる。此のととからも、一二世質有と法問恒有は別物であるべきととが知られる。若し叉た. 法躍のみ有るとさる L 過去・未来法とは、現在意識構成の法とされて居る過去・未来法の構成の法伝りとして、 此れを理詮以内のものとするならば.此れは現在意識構成の﹁法﹂とされたものを﹁存在﹂と特化して.その存 在を成立せしめた、叉は成立せしめる﹁法﹂とするととである。此れは﹁法﹂として論理を立てその同一論理中 に此れを﹁存在﹂と飛躍せしめる誤りがある。 此の様紅設はご切有り﹂︵由良S
B
g
t
︶の﹁有り﹂の現在勤詞たる意義の波却し得ざるととを認めながら、法 問恒有論の示す﹁法の賓閥的有﹂を同時に理論内答に入れんとする結果から来たものである。従って此れを成立 した理論として許すならば.現在に質有とせられるものについて‘罪、った三世脱が幾重にも成立する。︵一︶現在の存在については現在の以前が過去以後が未楽であるが、会一﹀現在の存在を成立して居る法践は.作用ある現在 が等しく現在位であるが.世友の正義に基づけば‘法の未作品肌たる現夜以前が未来位、作用巴減位たる現在以後 が過去位なある。︵一二︶現在に法贈のみある過去法・未来法は現有の過去位の法・未来位の法で、前者は現在時以 前に現在位・未来位を持ち、後者は現心化時以後に現在位・過去位を持つし︵問︶法問恒有とげははる L と す る れ ば . 現有の法はすべて現在時以後にも作用をなすことある故に‘未来枕にあるとせねばたらない。か L る と み ︶ は 印 ち 本来異った立場で言はれ、異った意味をもつものを言葉の形式の同一からも内容概念乞も同一となし取扱ふ儒に 生やるのである。
︵ 五
︶
有部自身の立場
有部は﹁識有境故﹂を以つ℃理詮としっと二世、貰有を表面の主張とする。その仕方は全く阿昆達磨的である。 阿昆建磨は古代特有な素朴さから、論迎的立場は明確さを昧いては居るが、存在を構成するものを分別して五離 に分け.その一々について過去・未来・現在・遠近・粗細に分別建立する仕方を取ったのである。有部は此の仕 方をそのま L に受けて.分別された諸法を賓有として、その根擦として理詮を経誼に却して取り上げたのである。 然し諸法有りの﹁有り﹂が彼等の概念としては﹁賓有﹂にしか解ぜられや、又他方存在の無我椴法たるを賓読す る矯めには‘諸法が平に理論的な、認識の法であっては.換って存在の貰在性を見出レその貧相質在佐許すとと L なる矯めに、諸法に質有性を認め存在に椴法性を興へたのである。此れは阿昆建蹴聞の立場から有目的々に論理 18 を有てんとすればかくならざるを得たいのである。 傍数々理史上に於ける諸法有論の地位 ニ 九日本悌放感協合年報︵第ヤ年 υ 二 九 19 諸法有りが賓館的有りとされたととから‘曾有法・官有法の有りが、法睦恒有論に依ら凪ばならなくなり、此 虚に阿昆建麿的な論理的有の三世貫有とを合一せしむる錆めの、種々の論理の否曲・飛躍が必要に迫られてたさ れ た も の で あ る 。 斯くして成立せる有部の三世賓有は‘現在意識の封象は現に賓在すべきでるり、従って封象とたる合同有存在も 営有存在も有るとするものである。然し過去はあったととで未来はあるととで現在の存在でたいから、現在意識 成立の法としてのみあるなし.是れに法憾の恒常性を結合せしめても過去法・未来法は過去・未来には存在であ るから、過去・未来に存在たる作用あり現在には法として訟憾のみ有ると言はんとするもので
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る o 此 市 胞 に 論 理 的立場の愛更はあるが法の宜有観から来る法時恒有を許す鵠めにかくなすのである。 法臨恒有は阿昆建磨的法の論理的不嬰性から来たものであり、法の作用をなし形成する存衣の無常性から作用 の無常間断性が考へられ、作用の有無に依って三世が論ぜらる L と と L なったのである。法の分別建立は存在に ついてなされたものであり.存在は現在有臨過未知悼たるものである故に、法が存在をなす作用位が現在となる は蛍然で、存在についても、法についても.存在ある現在時が現在である。然し存在については現在以前が過去 であり以后が未来であるが、有部の王義、世友の位不同設に依れば法は現在以前未作用位が未来位、現在以後作 用己減位が過去位である。此れは法躍は恒有で.法躍は興へられたもので生起の原因が認められないととを示す ものである。か L る法についての三世の取り方を正義とされ、一二世寅有の三世とさる L のであるが、此れは存在 について諸法分別する立場から、法を基として存在を取扱ふ立場へ移ったととを示すものである。 大見婆沙論は﹁若し法にして是れ方虚の性なれば絞れは定んで長れ色の性たり。ある法にして、是れ色の性な⑮ るも方庭の牲にあらざれば謂く過去・未来の色と及び現在の極微と無表色なり﹂とする。此蕗で方庭の性とは頴 色形色ある壁壊質碍ずる物的な共閥的存在の一ととで.色の性とは色法のことである。印ち過去と未来の色とは色 法として法憾のみの朕態で、作用なく存在を形成して居らないものである口此れは法を基として訟の恒有牲を立 て L 存在の無常性を論ぜんとするものである。 存在から諸法を分別建立した阿昆達磨元来合意味からは有部に依って訟の胞と用とされる自性と行相は一法の 資格として施設建立されたもので元来は二つのものとして諭せらるべきではない。例へば色法は竪・漁・焼・動を 白性とし.頴色・形色あらしむるを行相として建立されて居るのは、此の色法に依って色が色たる震で、亦た我 々が此れを以って色を色と知るのである。か L る色法が建立されたのは、色とさる L 物質存在が堅梯 M m 動・顕色 形色の性相ある箆で.而も此れは物的存在の特相色、此れある矯めに精紳的なるのと簡別さる L ものである。此 の性相を色法となし‘此の法に依って有り.知らる L を色となすのである。故に此の性と相を位と用として.﹁一 方ある時に他方無きととがある﹂とせらる L 様なものではない。存在なき時にある法とは、存在ある時に法分別 する訪に、用意されてある概念である。 然し乍ら‘有部の立場は﹁存在があってそれについて諸法分別する﹂のではなく、﹁法臨恒有なる法があってそ れに依って存在 V −見る﹂ものでるる。故に法が恒有であり存在が無常椴法である包めには法に存在生起の作用あ る時と無い時がなくてはたらなくなるのである。供合論刊﹂は、存在を重蹴しそれについて過未無関論を唱へる経 部から、﹁何の磁力に依りてか此の法睦より起る所の作用をして時にあり時に無からしめんや‘若し衆紘和合せざ ればなりとす口はば此の救は理にあらや︵汝の立場は因紘も︶常有なりと限すが故に﹂と論難されるが.有部は﹁作 20 係数々理史上に於ける諸法有論の地位 二九三
日 本 偽 叙 鳳 平 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ ニ 九 四 21 ⑬ 用と悼と異りと吾一日はピ此の失あるべし、然も異ならざるが故に﹂と救鰐して居る。此れは法健が作用を現はす意 味から睦用不具とするものであり.諸法の外に因縁法の質有を許すのではなく.諸法が因縁であるとするもので あ る 。 例へば、有部の存在とは赤色光と青色光との二者が交錯して紫色が生やる場合.紫色が存在で青色光・赤色光 が法であり、青色光に取って赤色光が‘青色光に取って赤色光が共に存在生起の作用の生中る国総であり.紫色 存在に取っては青色光・赤色光が成立の因縁法である。而も紫色は因縁所生の法で偲法無我で雨色の交錯が解け れば無となるもの、叉車内色・赤色は紫色をなすと否とにか L はらや青色光・赤色光としての自性を失はざる任持 自性法瞳恒有のものとさる L のである。故に青色光は赤色光に命日するととに依って白樫青色たるととが紫色を呈 する働きとなるので、作用と悼とは異るものではない。紫色ある時を中心、.とすれば作用ある時で然らざる時が作 用友き鰭のみの時と言ひ得るのであらう。大見婆沙が﹁作用と障とは一なりとせんか、異なりとせんか。答ふ。 定んで一なりとし‘異たりとなすべからや‘諸法の性相の義の然るが故に﹂とするは蓋し、此の意であらう。 若し有部自身の立場を斯の如きものとすれば‘此の接波は存在の無貰臨・無我・因縁性・無常性たることの確 立の矯めに法の賞特・貫有・恒有性を設定せるものである。此れは阿見建麿の立場が目的としたもので、阿昆建 層的法を持換した有部に依って此のととが成立するととは、阿見建胞の立場がその目的の鵠には不徹底な所のあ っ た と と を 一 不 す も で あ る 。 阿見建聴の諸法分別は‘存在を正確に知らんが矯めには正しさを持つが‘京純た質有・賓無の考への下に作在 の無我・無賓館を導︿ととは出来ない。現にある存在を、有無の考への下に無とするには、有の考へをいづれか
に蹄せしめねば成立しない。阿見建磨的に‘存在の性相から.
E
確なものとして求められた諸法に依って、 の存在を論及するのでは、存在の認識論と友り・存在の質相を肯定する結果となる。 切 上来見た様に阿見建腔的にあるべき法と、有部の法とには、合一・せしめられない諸賠があるが.か﹄る貼が生 やるとととそ.買は阿昆達磨悌数が大乗悌敬に特換せねばたらぬ理由を一示すものではなからうか。 有部は斯様にして.阿昆遠隔回の立場から‘存在より無存在への理論を完成せしめたと同時に、その矯めには多 くの快陥、論理の縛換を必要とするととを示した。此の快陥、論理の矛盾の明瞭さが阿昆建磨の立場を縛換すベ きことの正しさを示すもので.大乗理論の成立の最大誘因に外ならない。 ハ ム ハ ︶龍樹の立場と法有論
阿見建麿悌教の意固したととは、 ︵ 一 一 ︶ 存在を.その成立像件の関係へ分別して法として.法の結合関係に於いて存在を見る。 ︵ 一 一 ︶ 存在はすべて有矯・苦・非員賞・無我・仮法t
.無存在の欣態が無得・寂静、異質で求むべき欣態であ る と す る 。 ︵ 一 二 ︶ 悌教は存在の意味を左右するのでなく・存在を左右するものである。 とたすことであった。然し︵二︶が異質になさる L 矯めには︵一︶の立場は有部の法特恒有論の如きものとならねば 友ら夕、有部の法韓恒有論が持つ多くの理論的矛盾をば認め、矛盾ある論とし℃その立場を棄つればハ二︶の立場 は改賛されねばならや.従って︵三︶の立場も逆にせねばゑらない。 22 併数々理史上に於ける諸法有論の地位 ニ 九 五日 本 併 殺 風 下 協 晶 百 年 報 ︵ 第 十 年 u 三 九 六 23 有部の立論・説明を直接に誤りとした龍樹は阿昆建磨の︵二﹀の立場と︵三︶の立場を拾て‘ 思考の仕方が訂正せられた。龍樹の思想全鰹の立場を明示するものは所謂八不備で﹁不生亦不誠、不常亦不断、 不 一 ・ 亦 不 呉 、 不 十 米 亦 不 去 一 五 一 五 ﹂ と さ る L もの、焚文の玉川法から見れば、此れは悌陀の立場で、此れに依って龍樹 一の立場に於いては が自らの立場を築くものとされて居る。 ﹁存在は苦である﹂と俳陀に依って一誌かれ、苦誠の道が存在の減を目指して修せねばならぬとするのが.四諦を 悌敬 L し す る 阿 見 達 磨 の 目 的 で あ る 。 然 し 人 間 的 立 場 に は 存 在 は 背 と 一 一 日 は る L としても.其の同じ存在が霊智の立 場のものにも同様に苦であると、一一はへない筈である。現に生ける悌陀は人聞と同ヒ場所に同じ生活しつ L 自ら民 賓・無苦を悟れる備であったからである。阿昆建磨的には存在は一向に苦のものであるが、龍樹は聖智の立場で は存在は苦ではなく・宜相・異質が見られるとする。印ち前者は存在そのものが苦とされ、苦は宜在化されて居 るが、龍樹は此れを存在についての人間的意味と見て居るのである o 従って‘彼れには苦なる存在とは、存在の賓相ではなく・人間概念の上に現はれた存在の分別相に外ならぬこ とであり、克質して言へば人聞の分別概念に外友らやとすべきである o 彼れの八不とは、此の立場に立って‘人 聞の訣れる分別概念をば、存在の質相を得て居るものと誤認する立場に向けられたもので、分別概念の否定の詞 で あ る 。 故 に 龍 樹 が 八 不 と 一 言 び 、 空 と 言 ふ は 人 聞 の 存 在 に 封 す る 分 別 相 に 封 し て 一 一 一 口 は る L もので‘凡聖を通ビて 見らる存拘そのものに封ずるものではない。 龍樹が立論の直接封者は有部の法有諭である。有部の法は既に見た棋に、存在化されたものであるから‘龍樹 は有部の法も存花も等しく存在♀
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︶ なりとして論をなして居る。八不の論設に自性あお存在のゆるすべからぎを論ゃるのは‘有部の法位恒有の法であり、三世に通じであるとさる L 質有のものである。自性あるもの
l
ー有部では自性は自械であるi
!とはそのものとしての存在性と澗立性井一貫健牲を.自己で保持するもので、他 に図待して存在性を保つものではない。龍樹によれば如何なるものも.有るとせらる L はすべて他に因待し、相 依縁起のものたるべきで、悌陀の縁起的見方はか L る自性的存在を許さピるものであるととを豆細に克って論及 す る の が 八 不 の 主 た る 品 川 誰 の 貫 際 で あ る 。 此由加で注目すべきととは、龍樹も阿見詰慨も有部も存在の縁起性たるを共許とするととであり、いづれも縁起を ﹁此有故彼有﹂の相依性となすことである。 阿見建麿は存在を説法に分別して.諸法の縁起合成に於いて存在ありと見るが、存在成立の依件たる諸法中の 心的なるもの‘例へば大煩悩地法・小煩悩地法・大不善地法等、叉存在結成保件たる無明行等が存在構成の重要 なものであ一り、存在を傾向づけるものである矯めに、存在は悪・苦ゑるものとなるのであり、叉た此れ等の僚件 は修道に依って減し得るものとする。かくして、諸法の相依縁起の存在は、その一角が、即ち構成の保件の一う が無くなるととにより金樫の崩壊があり存在欣態が無に関するとするものでるる。 有部は阿昆建磨の立場を守るものであるが、現に寅在ずる存在が諸法合成の仮法たるには.唯一間法に貰在性を認 めねばなら示、諸法に質在性を興へるととに依って、現にある存在の仮法たるととが確賓にせられ無我無貰髄性 たること、縁起性及るととが明瞭にさる L と す る 。 此の阿昆達磨・有部の立場は﹁存在から無存在へ﹂を意味し、縁起は存在たるものll
それは苦・非員賓たるも ので、無常のものl
ー に 適 用 さ る L ととを示す。然し龍樹の立場は存在の無賓時性仮法性を認めないもの、無常・ 24 傍数々理由民上に於ける諸法有論の地位 二九七日本傍敏感協舎年報ハ第十年︶ 二 九 入 25 縁起性の存在は其の宜相は、凡夫人の見方とは異るが‘質在するものであるとする。存在の無常性を苦と見るの は存在の無常性乞自認しないもの L 感ヤることでるるとする。縁起の理は一切に過中るもの即ち存在にも.存在 を考へる概念の成立にも趨用さる L ので、存在を苦とするのは概念の成立が鵠りに始まって相依縁起して居るか らである。阿昆達磨・有部は此の存在に封ずる誤りの概念成立を存在の成立とした所に誤りがあったのである。 龍樹は八不を初めとして‘人聞の存在に封する概念の矛盾の暴露をこと与するは此の矯めである。龍樹の空は従 って存在の室でなく、有所得分別に向けられたもの、虚妄分別なげ百件目・官民間回目宣言︶を空中るものとなるのであ る。龍樹が有部の法の性相分別について絡始論ゃるのは.有部が存在に封する虚妄分別の成立を.存在そのもの L 成立として取扱って居るととを撃破して居るので.此れを以って‘龍樹の空を存在の空としてはならないもの で あ る 。 有部の立場を輔換することは、阿見建麿の立場を持換するととを意味する。かくして龍樹の立場は共の如きも の と な る 。 存在は縁起無自性なるもの、空性︵
b f
q m
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︶に於いて存在するものである。阿昆建磨が無常苦としての 存在の縁起を論じたのは、人聞の存在に封する訣れる概念の縁起することを論じたこと L せねばなら μ ℃ 彼 れ ︵ 一 ︶ 等が無存在寂静と考へた扶態は.買は虚妄分別の昼怠る欣態でなくてはならない。 ︵一一﹀ 存在は分別さるれと否とにか L はらやして.それ自身の如性︵宮p
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︶に於いて存在するもので.所謂. ﹁ 平 等 ﹂ ・ ﹁ 無 分 別 ﹂ ・ ﹁ 無 所 得 ﹂ 等 の 類 誌 を 以 っ て 呼 ば る k ものである。此れを見出すことが存布の賞相を得る ととで.その筋めには.虚妄分別を空ぜねばならない。阿昆建磨の﹁有侍より無話﹂は.﹁分別より無分別へ﹂と せ ね ば な ら な い 。 ハ 一 二 ︶ 従って怖教は存在の誠・破壊を考へるものでなく・存在に封する意味の取り方を改めるものとならねば な ら な い 。
︵ 七 ︶
一
性
設
と
法
有
論
龍樹に依つてなされた思想的な展開は‘存在は人聞の立場から背と見られるが、その同じ存在は聖智の立場か らは斯く見られ 4 y ・然も後者が存在の貫相・如性を見るとするととである。 かくて存在を見るについて、相び反する人聞の立場と聖智の立場を宜践的に閥連せしめんが詩には‘︵一︶人間 の立場と.︵二︶人聞の立場を聖智の立場に移す矯めの反省の立場と合一﹀聖智の立場との三つがるる。 ︵一︶第一に人間の立場は理性・珂論なき立場である o 感やるま L に、知らさる L ま L に 、 か L る相があるとし 側々の経験をそのま L 個々の賓在とする。とれは個々の相をばら/、ーに見て、その各々に猫立的た存在性を興へ て居るもので‘何位一寸そとに綜合的な見方.個々を綜合してその聞に理論的な連闘を考へて居たい立場である。人 聞の空とされねばならない分別とはか L る も の で あ る 。 ︵二﹀第二の立場は、個々を綜合的に、理論的に見んとするもので、縁起なる言葉は此の立場に於いて見出され 用ひらる L ものである。生と老と死の三相の関係づけから存在の無常性が、縁起性が見聞される如きである。存 在とせらる L 人聞の金生活態は個々の綜合に外たらぬが、此れを見るに阿昆達磨は.個々の経験的な性相を法と し、法の綜合縁起とし℃存在を見んとした所にその本来の意義があった。然し、人間個々の経験相をそのま L に 26 傍数々理史上に於ける諸法有論の地位 一 一 九 九日 本 例 数 民 午 協 合 年 報 ハ 第 十 年 u
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27 同定してその綜合を見るととは、人聞の存在に封ずる綜合概念の縁起性を明にするととに外たらたいととを.龍 樹に依って示されたのである。然し、此の龍樹の意義の下に阿見建磨の見方を採用するととに依って、我々の現 賓の存在観i
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人間的立場では存在そのものを員賞とする故に存在世界11
の成立が明になる。轍伽汲唯識視が 有部の法の自性に相営するものを存在展開の種子手出国むとし、存在の統一態たる人間心に揖在せしめ、その人間 心の縁起性を確誰しつ L それから人間的存在が展開するとしたのは、全く、龍樹的意味から阿見達磨・有部の理 論を取り上げて居るものである o 此れは、阿昆撞磨・龍樹・唯識沃共に存在の縁起性を共許とし、理論的見方は 縁起的見方なりとする詩である。 会一︶第三に.理論に依り縁起性として一切を見るととは阿昆達磨に於いては第一の立場を.個々経験相に法と しての立場を興へるものであったが、龍樹の止揚左受けた唯識祇では、第一の立場の非民貫性を明にするものと なり・第二の立場は第一の立場を拾て L 第三の立場に至るぺき施設手段たること L たる。龍樹の﹁因縁所生法我 設即是昼亦是蝦名﹂と言ふ時の仮名たるものである。仮名の故に、第二の立場に至るものは、それを超へて存在 の賓相に接する。即ち珂論性は.直感知百の立場を持ち来すのである。 此等の三つの立場に於いて見らる L 存在を次いでの如く、遍計所執相QB
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一︶の立場の温計は虚妄な異質 在を離れた存在2
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︶とは、人間の立場の温計所執相は.人間が人間の考へ︵乱宮古 P ︶で了別して‘か h A み相をありと表象する︵
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常 P 吋 叫 乙 で あ っ て、民賓と倶怒る︵ P 江 戸 ︼ B P ︶ 員 貫 在 か ら ︵ Pユ
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w P 3 の も の で は な い と す る と と で あ る 。 一 立 は ピ 人 間 心 ︵ 己 p u d t 古 川V E
︶ が遍計所執し表象する概念を持って居τ
、それに依って表象するので、その概念たるものが阿見詰麿の法であり 人間心の内容たるものも人間的世界去象の積子9
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ろである。存在とは.か L る人間心が金生活を統括揖有す るものとして縁起して居る駅態である。此の存在削ち人間心の紘組性を明にするのが依他起相の見方で、それは. 週計所執相の費生と、虚安性たるととを如’買に知るとと L なり、温計所執相を表製する概念種子の赴正放棄を促 すこと L なる。所謂龍樹の定の質際に行はる L 乙とであり、か L る概念の放棄が、識るものが捉はれの概念を拾 てた扶態、卸ち無分別智の欣態である。その朕態は捉はれざる見る働きが見らる L もののそのま L の員如相 Q P寸v
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︶を見るとと L されるのである。 詰 ① 雑 阿 含 十 一 一 一 ・9
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・ ①有分又は有分心に依る心相績の将相は南方阿昆蓬踏の 1 9 へで、後期に至って確立した思想である K F V 皆吉田虫干 三 笹 川 p m m p H H m p F P ハ同日・口戸伊︶及び阿註・英諜等に依って知られるもの、此れについては山崎良順氏のピタカハ昭和十一 年五・六月務︶に詳細にされてあろ o 今は阿毘蓬腔一般の一一一回ふ夜在もかくあるべきものとして‘又たその言葉を用ひ ることが叙述の明瞭さに役立ワと考へて此れを用ひたのであ一る。 ①白相共相は必しも自性行相ではないが・白相は法白聴の相であり、共相は法が存在の成立に参加して居る時の存在 共議の相であるが‘法が存在に参加してか︿あらしめるもの L しせば法の行湘としてもよいと考へられる。 ①阿見達磨とは大砲に於いて毘崩伽論ハ J 1 3 v p b m p ︶及集異門論の如き法分別の立場を一歳然的に一言ふのであるが、思想 の素朴さから必ずしも、分別された法は論理的になワて目的らないが.その立場仕方態度を厳格に洗へばかくならねば ならぬと思ふのである。 28 例数々理史上に於ける諸法有論の地位 吉 一O
一日 本 悌 甜 抗 感 協 合 年 報 ハ 第 十 年 V ヨ 一