1 はじめに
本稿は、日本人大学生の宗教性と精神的健康の関連についての臨床心理学領域にお ける先行研究を概観するものである。その検討にあたって、臨床心理学の研究領域で 注目されている Positive 心理学と well-being に焦点をあてて論じる。 筆者がこの研究領域に問題意識を持つに至ったのは、立正佼成会学林が運営する大 学生学生寮の学生担当に従事した経験に因るところが大きい。その寮で生活していた 学生は、一般的な大学生と同じように学業や、友人関係、恋愛、就職活動、進路問題、 親や家族との 藤など、さまざまな問題を抱えていた。学生担当は問題を抱えた学生 の声に耳を傾け、仏教に基づいた心のありようを示し、学生から問われれば具体的な 行動の起こし方などを伝えてきた。このような面接場面や日常生活の関わりを通して、 不適応な状態に陥った学生が、日常で起こる出来事、気付き、体験、出会いを通して、 活力を取り戻していくプロセスに共通する特徴があるのではないかと感じていた。こ日本人大学生の宗教性と精神的健康、
心理的 well-being に関する先行研究の概観
中 村 和 徳
1 はじめに 2 現代日本の大学生が置かれている心理的、社会的背景 2 1 日本の大学生の心理的特徴と社会的背景 2 2 自尊感情の適応的側面と不適応的側面 3 心理的 well-being と Positive 心理学3 1 主観的幸福感(Subjective well-being)と心理的 well-being 3 2 心理的 well-being の構成概念 3 3 Positive心理学領域における心理的well-beingと宗教性に関する先行研究 4 宗教性に関する臨床心理学的知見 4 1 臨床心理学的知見からみた宗教性の検討 4 2 宗教性を測定しうる尺度の検討 5 おわりに
れらの人生の課題を乗り越えていく学生に共通する点は、それまで想定していた生き 方ではなく、新しい人生の意味や目的を獲得するに至る「気付き」の体験を得ている ことであった。「今、ここ」にいる自分と直面し、「自分が何を為すために生を受け、 今まで生きてきたのか」という、人生の真の目的に向き合うことで、新しい生き方を 獲得しているのではないかと、筆者は信仰的な文脈で学生の人生の転換点をとらえて いた。本稿では「大学生は人生における目的をどのような形で獲得しているか」とい う問題意識を出発点とし、「人生における目的」の獲得に、宗教性がどのように関連し ているか臨床心理学の観点からとらえ直すために必要とされる理論や知見を概観す る。
2 現代日本の大学生が置かれている心理的、社会的背景
現代日本の大学生時代は心理発達段階の青年期にあたる(Erikson,1959)。現代日 本の大学生はどのような心理的特徴をもち、どのような 藤や危機と遭遇するのだろ うか。また、その危機を克服する上で、助けとなる心理的資源とはどのようなもので あろうか。 2-1 日本の大学生の心理的特徴と社会的背景 本項では、日本の一般的な大学生の心理的特徴と社会的背景について臨床心理学的 観点から概観する。 日本の大学生は Erikson(1959)の心理発達段階モデルでは青年期にあたる。そし て、エリクソンは青年期の心理的危機を「自己同一性の拡散」の危機であると述べて いる。 特に現代日本の大学生は“いかに生きるか”、“自分とは何者なのか”という自分自 身への問いに加え、就職活動など他者からの評価によって自己の存在意義を問い続け るという心理的課題に直面している(鶴田,1994)。現代日本の大学生時代とは「自分 は如何に在るか」を模索し、一定の職を得て社会人として自立するまでの準備期間と もいえる。 さらに日本の場合、大学生にとっての学び舎である大学は、高等学校以前の教育制 度と比べると、環境面でもシステム面でも大きく異なっている。高等学校以前は決ま った時間に通学し、決まったクラスメイトと大半の時間を集団で過ごすなど、時間的 にも空間的にもはっきりとした枠組みがある。しかし、大学は自己裁量による単位履 修など個人ごとの時間管理などが可能となり、生活習慣や対人関係に大きな変化が生 じる。また、学業においては専門性の高い知識の吸収とその応用が要求される。この ように、より高度な社会性や自己裁量による責任が求められるようになるため、大学生は不安や 藤に直面する場面が多くなることが考えられる。 こうした状況下で自分らしさの確立や、自身の将来設計などといった発達課題に取 り組み、適応的な自己形成を行い、自己同一性を獲得し、心理発達段階的成長を遂げ るのが日本の大学生の心理的な特徴でもある(鶴田,1994)。 しかし、一方でこの難局を克服できず、自己同一性の拡散の危機に陥り、様々な不 適応状態を呈する学生も存在する。 このように、克服すべき多くの課題を抱える状況下で、大学生の適応的な自己形成 を促進させる要因とは何であろうか。 2-2 自尊感情の適応的側面と不適応的側面 大学生の自己形成を促進する要因のひとつに自尊感情がある。本項では自尊感情が 持つ適応的側面と不適応的側面について述べる。 大学生の適応的な自己形成を促進する要因には、さまざまな環境的な要因や、個人 の内的な要因が考えられる。その中でも心理学において重要視されてきた要因のひと つに自尊感情がある。自分に自信(自尊感情)を持つことによって、様々な決断が可 能となり、新しいことにも挑戦できるようになるという意味であり、自己形成の促進 しうる要因のひとつであると考えられる。 しかし、近年、高い自尊感情には適応的なものと不適応的なものがあることが報告 され、自尊感情の概念的な見直しが試みられている。例えば、Deci & Ryan(1995)は 「随伴性自尊感情」と「本当の自尊感情」の二つを明確に区別し、それぞれの特徴の違
いを報告している。
Deci & Ryan(1995)によれば、随伴的自尊感情とは、自己価値の感覚が外的な基準 に依存しているものである。ここで指摘されている外的な基準とは、例えば学校や組 織の中における他者からの評価や、相対的な経済力、学歴といったものを指す。 一方、本当の自尊感情とは、自己価値の感覚が社会的な成功や失敗に依存しておら ず、自分が自分自身でいられることから自然に得られるものであると述べている。例 えば、自分自身が真剣に情熱を注いで取り組んできたかけがえのない体験や、取り組 みの中で感じたやりがいから得られた自分自身に対する自信などがこれにあたる。 そして、Deci & Ryanは、随伴的自尊感情は不適応的自尊感情であり、本当の自尊感 情こそが適応的自尊感情であると論じている。 また、桜井(2000)によれば、このような自尊感情の概念的な見直しの要因の一つ として自尊感情尺度が作成される経緯に原因の一端があると指摘している。自尊感情 を測定する際に一般的に採用されている「自尊感情尺度」を作成したRosenberg(1965) は、自尊感情(self-esteem)を「ひとつの特殊な対象、すなわち自己(the self )に対す る肯定的または否定的な態度」と捉えていると考えていた。このような自尊感情には
二つの異なった側面がある。ひとつは、個人が自分は「とてもよい“very good”」と感 じる側面であり、もうひとつは、自分は「これでよい“good enough”」と感じる側面 である。それぞれがもつ意味は大きく異なることが考えられる。 Rosenberg(1965)は、自尊感情尺度を作成するにあたり、前者の他人に対する自信 や優越感を意味するような自尊感情「とてもよい“very good”」ではなく、後者の「自 己受容」を意味するような自尊感情「これでよい“good enough”」を対象として尺度 を構成したという(桜井,2000)。「これでよい」という概念は自己受容を支える概念 である一方で、「これ以上成長や努力を望まない」といった社会における適応を妨げる 因子を含むとされ、高い自尊感情の適応的側面と不適応的側面を弁別できずに測定し てしまう可能性があると指摘している。 つまり、大学生の適応的な自己形成を促進する要因として、従来重視されてきた自 尊感情のみに着目すると、上記のような問題から不適応的な側面を排除できない可能 性があることが考えられる。
3 心理的 well-being と Positive 心理学
本節は、心理学における主要なテーマのひとつとされ、人間が心理的に最良の状態 で機能していることを意味する well-being について検討する。 3-1 主観的幸福感と心理的 well-being 人間が心理的に最良の状態で機能していることを意味する well-being という概念が ある。well-beingとは、人間が心理的に「よく在る」状態を指し、「こころの健康」、「幸 福感」、「安寧」などの日本語が訳語として使用される(大石,2006:Koenig,2008/2009)。 大石(2006)は、この言葉の意味を日本人が理解するには、英語の Being Well の理解 から始めることが最適であると指摘し「何が理想の人間であるか」という哲学的問題 に遡る概念として捉えている。国内外の先行研究でwell-beingの文化差による検討、経 済的な背景による検討など様々な研究が積み重ねられてきた。 この概念が提唱されたアメリカでは、well-being を人生の満足度、肯定的感情の頻 度、または否定的感情の欠如で測定することが多い(大石,2006)。そして、well-being を促進させることは国家政策、教育、心理療法など広く人間生活にかかわる重要な問 題とされ、これまで膨大な数の研究が well-being を促進させる要因の解明に向けて行 われてきた。 近年の研究では人間が心理的に“よく在る(well-being)”という状態は、2つの観 点から論じられている(Keyes, C. & Shmotkin, D. & Ryff, C.D. ,2002)。そのひとつが 主観的 well-being(Subjective well-being)であり、自己の情動状態の快・不快についての主観的感覚を意味する。この well-being は心理的健康を示す指標として伝統的に取 り上げられてきたものであり、具体的には、抑うつ・不安のなさ・人生に満足してい ることが挙げられ、日本国内では“主観的幸福感”という訳語が一般的に使われてい る。 これに対して、Ryff(1989)は主観的幸福感が情動状態のみに注目する点で、人間 の well-being を包括的にはとらえきれていないと指摘し、心理的 well-being(Psycho-logical well-being)という概念を提唱した。これは「意味ある生活」と換言され自己の 生に対する有意味さの感覚を指しており、より包括的に人間の well-being をとらえる ことができる概念であるとしている(Ryff,1989)。 3-2 心理的 well-being の構成概念
心理的 well-being とはどのような概念なのだろうか。Ryff(1989)や Ryff & Keyes (1995)に基づいて、日本版の心理的well-being尺度を作成した西田(2000)によれば、
Ryff は従来の Erikson などの生涯発達理論や、Jung や Rogers などの臨床学的知見、 Allport などの成人の人格発達や自己成長に関連した先行理論について詳細に検討し、 それらの重複、収束した側面に着目して、心理的 well-being の統合的モデル構成を試 みたうえで、心理的 well-being の概念を抽出したという。 Ryff(1989)によると、心理的well-beingは6次元の下位概念で構成されている。そ れは、「人格的成長(Personal Growth):発達と可能性の連続上にいて、新しい経験に 向けて開かれている感覚」、「人生における目的(Purpose in Life):人生における目的 と方向性の感覚」、「自律性(Autonomy):自己決定し、独立、内的に行動を調整でき るという感覚」、「環境制御力(Environmental Mastery):複雑な周囲の環境を統制でき る有能さの感覚」、「自己受容(Self-Acceptance):自己に対する積極的な感覚」、「良好
な他者関係1(Positive Relationships with others):温かく、信頼できる他者関係を築い
ていけるという感覚」、以上の6次元である。そして、これら6次元の下位概念が人生 全般にわたるポジティブな心理的機能であるとしている。
また、これらの概念に基づいて慎重に尺度化を行い検討した結果(Ryff & Keys, 1995)、心理的well-beingのこれらの次元は、その危機への挑戦による成長、発達の心 理的様相を示すと述べている。
Ryff & Keys(1995)から、西田(2000)が作成した日本版心理的 well-being 尺度は 43項目で構成されており、【1:「全くあてはまらない」、2:「あてはまらない」、3: 「ややあてはまらない」、4:「ややあてはまる」、5:「あてはまる」、6:「非常にあて
1 西田(2000)では“Positive Relationships with others”を「積極的な他者関係」と翻訳しているが、 本稿では後述する質問項目の検討から「良好な他者関係」とした。
はまる」】の6件法で回答を求めるものである。Ryff & Keys(1995)と西田(2000)を 参考にして心理的 well-being の下位尺度ごとに分類した質問項目を表1に示す。 表1 心理的 well-being の下位尺度の特徴と質問項目(Ryff&Keys(1995)と西田(2000)を参考に作成) ①人格的成長:8項目 No.3 私には、もう新しい経験や知識は必要ないと思う* No.8 新しいことに挑戦して、新たな自分を発見するのは楽しい No.16 これ以上、自分自身を高めることはできないと思う* No.17 私の人生は、学んだり、変化したり、成長したりする連続した過程である No.23 これからも、私はいろいろな面で成長し続けたいと思う No.28 私の能力は、もう限界だと思う* No.33 自分らしさや個性を伸ばすために、新たなことに挑戦することは重要だと思う No.36 私は、新しい経験を積み重ねるのが、楽しみである ②人生における目的:8項目 No.4 自分がどういう人生を送りたいのか、はっきりしている No.7 私の人生には、ほとんど目的がなく、進むべき道を見出せない* No.24 私は現在、目的なしにさまよっているような気がする* No.27 本当に自分のやりたいことが何なのか、見出せない* No.30 私はいつも生きる目標を持ち続けている No.37 私は、自分の生きていることの意味を見出せない* No.42 私の人生は退屈で、興味がわかない* No.43 私は、自分の将来に夢を持っている ③自律性:8項目 No.2 私は、自分の行動は自分で決める No.10 重要なことを決めるとき、他の人の判断に頼る* No.12 何かを判断するとき、社会的な評価よりも自分の価値観を優先する No.18 私は何かを決めるとき世間からどうみられているのかとても気になる* No.19 自分の考え方はその時の状況や他の人の意見によって左右されがちである* No.22 自分の生き方を考えるとき、人の意見に左右されやすい* No.38 自分の行動を決定するとき社会的に認められるかどうかをまず考える* No.41 習慣にとらわれず、自分自身の考えに基づいて行動している ④良好な他者関係:6項目 No.6 他者との親密な関係を維持するのは、面倒くさいことだと思う* No.11 私は、あたたかく信頼できる友人関係を築いている No.15 私は他者に強く共感できる No.21 私はこれまでに、あまり信頼できる人間関係を築いてこなかった* No.29 自分の時間を他者と共有するのはうれしいことだと思う No.35 私は他者といると、愛情や親密さを感じる ⑤自己受容:7項目 No.9 私は、自分に対して肯定的である No.13 私は、今とは異なる自分になりたいとよく思う* No.25 良い面も悪い面も含め、自分自身のありのままの姿を受け入れることができる No.31 私は、自分自身が好きである No.34 私は、自分の性格についてよく悩むことがある* No.39 私は自分の生き方や性格をそのまま受け入れることができる No.40 私は、これまでの人生において成し遂げてきたことに、満足している
⑥環境制御力:6項目 No.1 私は、周囲の状況にうまく折り合いをつけながら、自分らしく生きていると思う No.5 私は、うまく周囲の環境に適応して、自分を生かすことができる No.14 状況をよりよくするために、周りに柔軟に対応することができる No.20 自分の身に降りかかってきた悪いことを、自分の力でうまく切り抜けることができる No.26 自分の周りで起こった問題に、柔軟に対応することができる No.32 私の今の立場は、様々な状況に折り合いをつけながら、自分で作り上げてきたものである 注)“*”は逆転項目 3-3 Positive 心理学領域における心理的 well-being と宗教性に関する先行研究 well-beingは適応的な自己形成に関与するとされ、国内外で多くの先行研究がなされ てきた。精神医学、Positive 心理学、幸福論、教育心理学等の領域の海外の先行研究 (例えば Seligman,2002;R.M. Laurencelle,2002)では、well-being の促進要因のひと つとして信仰や宗教性を挙げている。例えば、Positive心理学の先行研究ではヨーロッ パ圏の修道女の健康度に関する縦断研究などから、精神的健康と身体的健康と宗教性 には中程度の正の相関があると報告している(例えば、Seligman,2002)。また、Koe-nig(2008/2009)は、アメリカにおいて最大規模2で最も高く評価されている疫学研究
として、Strawbridgeら(1997)が発表したアラメダ研究(Alameda County Study)を例 示し、礼拝出席などの宗教への関与が、実際に心理的、社会的および健康行動の指標 を長い年月をかけて改善していることを指摘している。 このように、海外における well-being と宗教性に関する調査や研究は多数なされて いるが、国内の先行研究の中で、臨床心理学の枠組みから、信仰や宗教性との関連に ついて論じられている研究は非常に少ないのが現状である。 その少ない先行研究の中に、谷(2007)による宗教観と幸福観に関する研究がある。 谷(2007)は大学生が持つ宗教観が心理的 well-being の下位次元の「人格的成長」と 「人生における目的」に弱い正の相関があると報告している。しかし、谷(2007)の調 査対象者は、宗教や信仰に関心を持っている大学生の標本数が全体に比べて少なく、 信仰をもつ学生と、もたない学生の比較も標本数の偏りからなされていない。具体的 には、「宗教団体に所属し熱心に信仰している(1.6%)」「宗教団体に所属しているが、 あまり活動していない(4.4%)」を合わせた割合は6.0%であったと報告しており、こ の数値は、全国の大学生の宗教意識を調査した井上(2007)の報告にある、非宗教系 大学に通う大学生を対象にした「信仰をもっている者」の割合(5.3%:2001年度の指 標)に符合する。谷(2007)が指摘するように、信仰をもつ大学生を多く標本に取り 入れることができれば、宗教性と心理的 well-being の関係をより精緻に検討すること が可能であると考えられる。 2 調査対象者は7000人規模、28年間の追跡調査を行った。
4 宗教性に関する臨床心理学的知見
well-beingと宗教性に関する研究のみならず、日本国内においての臨床心理学的視点 から宗教性を研究したものは、青年期のカトリック信者の宗教への関わりやカトリッ ク聖職者の 藤を扱った 河(2004)や、宗教で悩む者への援助を扱った針生(2008) や黒田(2007)の事例研究などが散見されるだけであり実証的な研究は少ない。 杉山(2004)が指摘するように、日本においては宗教心理研究自体が乏しく、結果 的に、臨床心理学的視点からの実証的な研究も少なくなっていると考えられる。臨床 心理学的知見から宗教性を扱った研究が少ない要因の一つとして、前述の井上(2007) の報告の数値にも表れているように、現代日本においては、ある特定の宗教に明示的 に属する人が少ないことが考えられる。そのため、日本人は無宗教であるというのが 一般的な日本人の認識とされているとの指摘もある。しかし、年始の初詣、お盆供養、 墓参りなど生活に密着した宗教行事への参画の度合いや、日常生活に慣習として浸透 している生活様式を考えると、日本人が宗教とは無縁であるという認識は持ちにくい との指摘もある(阿満,1998)。 金児(1997)は、日本人は宗教組織や教義といった「見える宗教」には否定的では あるが、脈々と受け継がれる日本人固有の民族宗教性をもっていると指摘している。 つまり、特定の宗教団体に属し、積極的に信仰生活をおくることはしないが、宗教性 や信仰を否定しているわけでもないという多くの日本人に見られる姿勢に日本人の特 徴的な宗教性の様式があるという。金児はこの日本人に特徴的に見られる宗教に対す る態度を「消極的肯定的態度」と定義している。これらの知見から、日本人のもつ宗 教態度の複雑さの中に、潜在的な宗教性が存在していることが考えられる。 4-1 臨床心理学的知見からみた宗教性の検討 本項では臨床心理学的な枠組みから捉える宗教性について論じ、宗教性を取り巻く 用語として散見される、「スピリチュアリティ」との関係について検討する。 宗教、スピリチュアリティという用語を心理学、精神医学の観点からまとめたKoe-nig(2008/2009)によれば、宗教とスピリチュアリティは混同されて使用されており 明確な定義がなされてきていないと指摘している。さらに、スピリチュアリティとい う考えと言葉は本来、僧侶や禁欲主義者を含めた宗教信者たちの自己鍛錬的な信仰実 践に基づいており、その後歴史的な宗教的伝統の拠り所から離れて、現在では主観的 な自己実現の観点から再定義されているとしている(Smith&Denton,2005)。 Koeinig(2008/2009)は、これらの知見から宗教性にはいくつかの側面があるとして いる。本稿ではその中でも、人生における宗教の重要性あるいは中心性に関わる宗教 的側面としての“主観的宗教性”と、特定の宗教団体への所属を問わず、その人が内的に持っている宗教性である“内的宗教性”について検討する。 宗教性と精神的健康に関する質の高い研究においても、スピリチュアリティとして 測定している項目の内容を検討すると、この主観的宗教性と内的宗教性を、それぞれ 測定していると指摘している(Koeinig,2008/2009)。更にHufford(2005)の研究を引 用し、スピリチュアリティは「超越に対する個人的な関係」とし、宗教を「スピリチ ュアリティのコミュニティ、スピリチュアリティの組織的側面」という定義を支持し、 スピリチュアリティという用語は、歴史的には宗教や超自然的なものと関わっており、 宗教的な言語を必然的に含むので、「スピリチュアリティは宗教と何らかのかかわりが なければならない」(Koeinig,2008/2009,pp14)と指摘している。 そこで、本稿では「宗教性」という用語を、特定の宗教団体に所属し積極的、もし くは消極的に活動しているという主観的宗教性と、スピリチュアリティのような超越 に対する個人的な態度や、特定の宗教団体の所属の有無に関わらない内的宗教性の双 方を含んだ広い意味として定義し用いることとする。この定義により前項で述べた日 本人が潜在的にもつ「消極的肯定的態度」も含めた宗教性について論じることが出来 ると考えられる。 4-2 宗教性を測定しうる尺度の検討 それでは、主観的宗教性と内的宗教性をどのように測定するのだろうか。臨床心理 学研究において実証的研究を行なうための調査研究の手法として、信頼性の高い尺度 で構成した質問紙を用いることで得られる指標を分析する量的研究がある。これまで に検討した概念について量的な分析を行なう際に有効性が期待される尺度について検 討する。 まず、主観的宗教性を測定する尺度として金子(1997)が作成した宗教的態度の尺 度と、高木・吉田・森(1987)が作成した宗教態度項目について検討する。 宗教的態度の尺度(金児,1997)は25項目からなる尺度で、信仰を持つことでより 良い生活を得ようとする態度である「向宗教性」、氏神や先祖崇拝などに対する態度で ある「加護(報恩)観念」、死後の世界や輪廻転生などに対する態度「霊魂(応報)観 念」の3因子で構成されている。項目を検討すると日本独自の文化や伝統仏教や神道 の価値観が色濃く反映されている内容が含まれており、調査協力者が所属する宗教団 体によっては評定にばらつきがでることが考えらえる。一方、高木(1987)が構成し た宗教態度項目は宗教団体への所属と活動への寄与度を主観的に6段階に評定するも のであり、文化的な背景や所属する宗教教団が示す教義や価値観に左右されない内容 となっている。表2に宗教態度項目(高木ら,1987)の質問項目を示す。
表2 宗教態度項目(高木・吉田・森,1987)の質問項目 項 目 No.01 特定の宗教団体に所属し、熱心に信仰している No.02 宗教団体に所属しているが、あまり活動していない No.03 既成の宗教は信仰していないが、自分自身の信仰はきちんともっている No.04 宗教活動はしていないが、宗教・信仰に関心がある No.05 宗教団体には所属せず、宗教・信仰に関心もない No.06 宗教に反対である 次に内的宗教性を測定しうる尺度として価値志向性尺度(酒井・久野,1997)があ る。この尺度は、Spranger(1921/1961)が提唱した、人間が持つ6種の普遍的価値、 「理論」、「経済」、「美」、「社会」、「権力」、「宗教」を個人がどの程度志向し、体験して いるかを測定する日本版尺度として開発された。測定対象は大学生及び成人一般であ る。 酒井ら(1998)によれば、下位尺度である「宗教」の日本人の平均点は3.48(5点満 点、SD=.067)であると報告されている。この尺度を用いることで、特定の宗教団体 に所属しているか否かに関わらず、対象者がどの程度の内的宗教性を有しているかを 測定することができると期待できる。価値指向性尺度(酒井ら,1998)宗教項目は、 表3に示した全12項目で構成されており、【1:「あてはまらない」、2:「ややあては まらない」、3:「どちらともいえない」、4:「ややあてはまる」、5:「あてはまる」】 の5件法によって回答を求めるものである。 表3 価値志向性尺度(酒井ら,1998)宗教項目の質問項目 項 目 No.01 宗教や信仰の世界は自分とは無縁だと思う* No.02 自分の人生にいつかは終わりがくるということを意識しながら生きている No.03 自分が生まれる前も死んだ後も続いて行く、永遠の時の流れを感じることがある No.04 大きな運命の流れを感じることがある No.05 自然や宇宙の偉大さの前に謙虚な気持ちでありたいと思う No.06 生命の素晴らしさ、神秘性に畏敬の念を持っている No.07 一生の間にどの程度のことができるだろうかと、考えてみることがある No.08 この世界には人間の力をはるかに超えた大いなるものの力が働いていると思う No.09 “自分が何のために生きているか”などとは、考えたこともない* No.10 自分に与えられた生を、精一杯生きようと思う No.11 世界の無限の広がりの中では、自分はごく小さな存在だと思う No.12 死ぬ時に悔いが残らないような生き方をしたいと思っている 注)“*”は逆転項目
このように、日本人大学生の宗教性を測定しうる尺度として、宗教に対する主観的 な態度報告である「宗教態度項目(高木ら,1987)」と普遍的な宗教的価値を測定する 「価値志向性尺度宗教項目(酒井ら,1998)」を併せて使用することで、金子(1997) が指摘する、日本人が持つ宗教に対する消極的肯定的態度を包括した宗教性を測定す ることが可能になると期待できる。
5 おわりに
本稿は、日本人大学生の宗教性と精神的健康の関連について、well-beingの概念を中 心に先行研究を概観し知見の整理と課題抽出を行った。 1章・2章では、現代日本の大学生を取り巻く環境の変化や心理発達段階、そして 心理的危機を克服する際に必要とされる心理的資源について検討した。心理学領域の 研究で重要視されてきた自尊感情は、大学生が社会に適応する上で資源と成り得る適 応的な側面も多く含まれているが、一方で不適応な側面も含んでしまい弁別できない 可能性があることを示した。 そこで3章では well-being の概念について検討し、人間が自分らしく「良い状態に ある」ことが、心理的健康や身体的健康に寄与するという知見を示した。しかし、well-beingにも様々な側面があり、日本国内の先行研究で多く用いられている主観的幸福感 (subjective well-being)は、個人の主観的な快・不快などの情動を中心に扱ってはいる が、様々な環境に適応していく生きる力や、人生の意味や目的をもって有意義に生き ていくという人間の成長や生き甲斐に関する要素を取り入れていないという指摘か ら、心理的 well-being が提唱された経緯を紹介した。 続いて4章では海外の先行研究において well-being の有力な促進因子として考えら れている宗教性が、日本国内の先行研究ではほとんど扱われていない現状と、その理 由の一端を概観した。また、数少ない国内の先行研究を参考に、主観的宗教性と内的 宗教性を測定し得る既存の尺度について検討し、日本人の宗教に対する「消極的肯定 的態度」を測定しうる可能性を示した。 本稿における先行研究の概観は、この研究領域に存在するすべてを網羅的に行った とはいえず、今後更なる知見の整理が必要であろう。特に臨床心理学における知見の 整理を主たる目的としたので、宗教学や宗教心理学などの研究領域には概観の範囲が 及んでいない。今後、関連する近接研究領域の知見の整理と課題抽出が必要である。 また、今後の研究として、本稿で示した尺度を用いた調査と量的分析を行なうと共 に、日本人の宗教性を計測しうる新たな尺度の作成も期待される。更には、インタビ ュー調査などの質的調査と分析から得られる知見を加えることで、日本人大学生の宗 教性と well-being の関連について基礎データを収集・分析し知見を蓄積することが望まれる。 【付記】 本稿は大正大学大学院人間学研究科修士論文研究の一部に加筆・修正を行ったもの である。また、本論文の一部は、日本心理臨床学会第33回大会で発表された。論文作 成にあたりご指導を賜りました大正大学大学院人間学研究科日笠摩子教授に深く御礼 申し上げます。 【参考・引用文献】
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