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台湾から見たチベットとモンゴルを通した「中華民国」に関する研究 -1980年以降の蒙蔵委員会による教育に対する役割の変容に着目して- [ PDF

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1.章構成 序章 1.研究問題 2.研究対象と目的 3.先行研究 4.研究方法 5.本研究の構成 第一章 蒙蔵委員会について 1.蒙蔵委員会の設立 2.蒙蔵委員会の組織 3.蒙蔵委員会の政策 3.1 蒙蔵委員会が設立された初期の政策 3.2 抗日戦争時期における蒙蔵政策 3.3 抗日戦争が勝利した時期の政策 3.4 中華民国政府が台湾に移った後の政策 第二章 80 年代以前蒙蔵に対する教育内容 1.80 年代以前蒙蔵に対する教育政策 2.80 年代以前蒙蔵に対する教育活動 3.80 年代以前蒙蔵委員会の教育的な役割 第三章 80 年代以降蒙蔵に対する教育内容 1.80 年代以降蒙蔵に対する教育政策 2.80 年代以降蒙蔵に対する教育活動 3.80 年代以降蒙蔵委員会の教育的な役割 第四章 台湾政府のアイデンティティーの変容 1.蒙蔵委員会による教育に対する役割の変容 2.台湾政府のアイデンティティーの変容 終章 1.研究成果 2. 今後の課題 2.研究目的 本論の目的は、80 年代以降の蒙蔵(モンゴル・チベッ ト)委員会の教育宣伝と外交活動を考察し、それを通じ て中華民国政府のアイデンティティーの変容を明らかに することである。本研究の成果が、中華人民共和国と台 湾の関係の相互理解の促進に寄与することを期待する。 3.概要 <序章> 1987 年、蒋経国は 38 年間にわたって台湾に執行され 続けた戒厳令を解除した。その後、1996 年に、台湾は第 一回の民主的な中華民国総統選挙を行ない、その結果と して李登輝が総統に当選した。台湾政治の民主化ととも に、台湾のアイデンティティーをめぐる政治が国内外に おいて見られるようになったことは、常に知られている。 そこでは、台湾の国際的地位の位置付けが台湾の内外で 争われるのみならず、これにかかわる大国間の緊張を惹 起し、さらに下降しては、台湾の民族政策の変化をも促 してきた。 国際情勢から見ると、1971 年 10 月 25 日の第 26 回国 際聯合総会において、国連における中華人民共和国の合 法権利が承認された。これにより、中華民国は国連の常 任理事国の座を失った。そして、中国は「1つの中国」 をスローガンとして掲げ、諸外国に中華民国との国交断 絶を迫った。その後、1972 年 2 月 21 日に、アメリカの 大統領であったニクソンは中国を訪問し、米中関係のそ れまでの対立状態から和解状態へと転換させた。これら のことは、当時の蒋介石を代表とする中華民国政府に刺 激を与えた。そのような状態のなか、中華民国政府は正 統な中国政府のスローガンも現実ではないことになった。 中華民国政府は外交的な厳しい状況を意識し、正統な中 国政府の主張する政治的な目的を達成するため、蒙蔵委 員会による蒙蔵に対する教育活動と外交活動を一つの手 段として扱ってきた。 一方、台湾内の情勢も変化しつつあった。80 年代以降、 台湾の民主化が始まり、言論が自由になった。そのなか で最も顕著的な現象としては、台湾の独立を主張する民 進党の出現であった。2000 年の中華民国総統選挙で民進 党を代表する陳水扁が当選し、台湾の総統となった。民 進党の執政に伴い、台湾原住民に対する政策は変り、蒙 蔵に対する教育政策も変わってきた。その後、2008 年に 馬英九を代表とする国民党が選挙に勝ち取った。このよ うに、台湾内の政治情勢の変化に伴い、蒙蔵委員会の教 育的な役割と蒙蔵の教育政策も変化しつつあった。そし て、その変化を通じて台湾政府のアイデンティティーの 変容を明らかにすることができる。

台湾から見たチベットとモンゴルを通した「中華民国」に関する研究

-1980 年以降の蒙蔵委員会による教育に対する役割の変容に着目して-

キーワード:蒙蔵委員会、モンゴル、チベット、台湾政府、アイデンティティー 教育システム専攻 孫 悦

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<第一章> 中国の秦朝時代(紀元前 221 年〜紀元前 207 年)から、 辺境の民族を管理する官人「典客」がすでに存在してい た。漢朝時代(紀元前 206 年〜220 年)に、「都護」「属 国」などと名付けられた官人は、辺境を管理する役割を 担っていた。また、その後各時代にも辺境の民族を管理 する官人が設けられていた。そして清朝時代(1616 年〜 1912 年)には、モンゴル、チベットと新疆などの辺境地 域を管理するために「理藩院」という組織が設けられた。 その後の 1912 年、南京で国民政府が成立した際に「理藩 院」による蒙蔵政策を踏襲し、チベットとモンゴルを管 理する組織として、「蒙蔵委員会」が設置された。蒙蔵 委員会が設立されて以降、蒙蔵政策の制定と執行、蒙蔵 と中央政府との関係の調整および辺境の建設を強化する などの側面において大きな役割があった。 1929 年 2 月 17 日、南京国民政府が「蒙蔵委員会の組 織法」を発布した。組織法には、蒙蔵委員会の施政範囲 と具体的な内容が規定されており、チベットとモンゴル の行政を管理するなどの内容については 28 条が定めら れている。1929 年 3 月に、蒙蔵委員会がその職務の詳細 を公布し、その後に改訂され、主に蒙蔵委員会の機構と 職能が詳細に規定されたのである。この蒙蔵委員会組織 法によると、委員長を 1 人、副委員長を 2 人、委員 27 人から 35 人までとすることが規定されている。そして、 蒙蔵委員会の下には総務処、蒙事処、蔵事処の三つの部 門がある。総務処は書類の管理と一般業務を行う。蒙事 処と蔵事処は、それぞれモンゴル業務とチベット業務を 行うこととなっている。また、これらの部門の他に、蒙 蔵委員会組織法第 19 条第 2 項の具体的な状況に基づき、 適当な地方で事務所を設立する必要があると規定した。 例えば、駐チベット、駐北平事務所、蒙蔵委員会専門委 員事務所などを設立することなどがある。これらの組織 も蒙蔵と中央政府関係の調整と辺境の建設を強化するな どの側面において大きな役割があった。 蒙蔵委員会が設立されて以降、蒙蔵に対する多くの政 策を出された。筆者は4つの時期において蒙蔵委員会に よる蒙蔵に対する経済政策と外交政策をまとめて分析を 行った。それぞれの時期は、蒙蔵委員会が設立された初 期、抗日戦争の時期、抗日戦争が勝利した時期と中華民 国政府が台湾に移った後の時期である。その結果による と、80 年代以前、蒙蔵委員会は蒙蔵に対して多くの政策 を出している。そして、世界の蒙蔵人に連絡し、共産党 に反対する活動を行った。それを通じて、中華民国政府 は失地を回復する意欲が強まったことを明らかにした。 <第二章> 1949 年に中華民国が台湾に撤退したことによって,台 湾海峡を挟んで,中国大陸を支配する中華人民共和国と 台湾地区を支配する中華民国が対峙する関係が形成され た。この敵対関係の根本は,中国国民党と中国共産党に よる中国内部の支配権をめぐる争いであり,これについ ては,中国共産党が内戦に勝利し領土と人口の大半を支 配したことにより形勢が中国共産党に傾いていた。そし て、70 年代に国際情勢は大きく変わった。特に,1979 年に,それまで台湾の政治経済体制を支えてきたアメリ カが中華人民共和国の承認に踏み切ったことは,台湾に 大きな衝撃を与えた。以上のように、中華民国政府は看 厳しい国際情勢のなかで、教育は政治を促す重要な手段 であることを意識した。そして、蒙蔵は中国周辺の重要 な地位においているため、蒙蔵を重視した多くの教育政 策を出すことは中華民国政府にとって有利なことである。 その本格的な目的は蒙蔵の教育を通じて、蒙蔵人が中華 民国政府を支持させるようになる。 辺境で働く政治的な蒙蔵人材を育成するために、蒙蔵 委員会は各種政治的な塾を創立した。そのなかで 1933 年に創立された蒙蔵政治塾が代表的な塾として存在した。 蒙蔵政治塾は主に高校を卒業した生徒を募集し、彼らに 蒙蔵の言語、文学と政治的な知識を教えた。蒙蔵政治塾 は多くの優秀な人材育成を行なうという教育的に大きな 役割があった。この政治塾はその名の通り、政治的な色 彩は強かった。中華民国政府の目的は蒙蔵人を教育させ てから政府のために働かせるという意図が明確である。 その後、抗日戦争が勝利し、ソ連の支持の下で共産党の 勢力が全国的に及んだ。この複雑な状況のなか、多くの モンゴル人とモンゴル人学生が離散した。1947 年 12 月 14 日、「蒙蔵委員会が離散したモンゴル人の就職と就学 を指導する組織条例」が発布された。その他、国民政府 が台湾内部の蒙蔵人の教育にも力を注いだ。国民政府が 台湾に移るとともに、台湾の人口が急速に増えた。しか し、当時台湾の中学校、高等学校および大学が少なかっ たため、進学の競争が非常に激しかった。このような状 況は、蒙蔵の若者に対して不利な状況であった。そして、 1955 年 5 月 30 日、「蒙蔵学生が台湾に進学する一時的 な方法」が公布された。その後、すでに進学した蒙蔵学 生の勉強を促すためにも政策を出した。例えば、1973 年 2 月 24 日に「蒙蔵委員会が蒙蔵学生に対する奨励の法律」 を公布した。以上述べたとおり、蒙蔵委員会は政府の代 表として教育に関する政策を多く出していたのである。 中華民国政府は、蒙蔵を重視して多くの政策を公布し

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ただけではなく、蒙蔵教育に対しても多くの活動を行っ た。多くの事業の中で、代表的なものは国立ラサ小学校 の設立であった。国立ラサ小学校は。チベット教育史上 初の現代的な小学校であり、チベットにとって意義が大 きかった。学校を設立する前は、中華民国政府とチベッ ト側の目的が異なっていたため、意見は一致しなかった。 その要因は、中華民国政府はただ小学校の設立を通じ、 チベットの主権を強調することにあった。この小学校は ただの象徴として存在であった。しかし、チベット側に とって、この小学校はチベット人教育に必要であるため、 本格的に設立しなければならない。そして、様々な工夫 がなされ、三年後の 1937 年の夏に、蒙蔵委員会駐蔵事務 所のなかに小規模の学校が設立された。ラサ小学校は設 立されて以降急速に発展した。しかし、1949 年、中華民 国政府の台湾移行と伴い、ラサ小学校廃校となった。そ の他、もう一つの教育活動としては、台湾における蒙蔵 に関する著作を出版することである。しかし、それらの 著作に関しては、ただ蒙蔵委員会の内部職員と台湾で蒙 蔵について研究する学者しか知らなかった。ほとんどの 台湾人はそれらの著作の存在すらも知らなかった。その ため、蒙蔵に関する著作を出版する本格的な目的は、蒙 蔵文化を重視することではなく、漢民族のアイデンティ ティーとして正統的な中国政府を主張することであった のである。 <第三章> 1980 年代以降の国際情勢からみると、冷戦が終わり、 世界各国の関係が緩和された。そして、冷戦が終結後、 中国が市場原理を導入し、経済が発展してきた。一方、 台湾内の情勢も変化しつつあった。1987 年蒋経国は、38 年間にわたって台湾に執行され続けた戒厳令を解除した。 その後、1996 年に、台湾は第一回の民主的な中華民国総 統選挙を行ない、その結果として李登輝が当選した。そ して、90 年代後に台湾の独立を主張する民進党が出現し、 また 2000 年に民進党が当選した。そして、2008 年に国 民党が与党になり、今日まで続いてきた。以上のように 国際情勢と台湾内の情勢が変わりつつあったが、それに 伴って蒙蔵の教育政策と教育活動にも変化があった。 1959 年、チベットで共産党を反対する運動が起きてか ら、数万人のチベット人がインドやネパールに逃れた。 その後の十年間に、その人数が 10 万人以上にのぼった。 流亡したチベット人の生活は苦しく、教育も大きな問題 になった。中華民国政府はチベット主権を宣揚するため に、10 万人以上の流亡したチベット人を対象として親善 政策を出すことの重要性を気づいた。そのため、蒙蔵委 員会は政府の代表として流亡したチベット人に「援助」 業務を展開する。1983 年 1 月 29 日に、「インドとネパ ールに住むチベット人が台湾に戻って技能訓練を受ける 指導要項」を公布した。その本格的な目的は、流亡した チベット人を中華民国政府に支持させる目的である。し かし、当時流亡したチベット人の数が多すぎたため、こ の政策を通じてすべてのチベット人を援助することは現 実的ではなかった。また、中華民国政府は蒙蔵委員会を 通じて蒙蔵の文化を宣揚するためにも政策を出した。 1984 年 6 月 16 日の蒙蔵委員会第 273 回委員会議に、「蒙 蔵に関するテーマを研究するグループの実施要項」が通 過された。蒙蔵を研究する学者を集めて研究委員に任命 し、蒙蔵学術と蒙蔵事件をテーマに毎月一回の会議を行 い、その後会議で論議した内容をまとめて本の形で出版 する。しかし、1993 年 6 月に予算が制限されて以降、毎 月本を出版することが実施しにくくなり、2 ヶ月毎に本 を出すこととなった。このことから、中華民国政府は本 格的に蒙蔵文化の宣揚を支持していないことが明らかに なった。 そして、中華民国政府が蒙蔵を重視した多くの政策を 公布しただけではなく、蒙蔵教育に対しても多くの活動 を行った。蒙蔵委員会は、蒙蔵の文化を宣揚するスロー ガンがあったため、その面にも力を入れていた。事業の 中で、代表的なものは蒙蔵文化センターの設立すること である。蒙蔵委員会は、蒙蔵に関する著作と論文をまと めるために、展覧会を作り、展示をしたかったが、台湾 の土地資源は貴重であり、当時の蒙蔵委員会の少ない予 算ではなかなか実現しにくかった。しかし、国民政府が 台湾に移った際に、嘉呼圖克圖(仏教のなかで地位が高 い人)が政府から招待され、また政府から現在の台北市 青田街八巷三号の部屋を家として送られた。1957 年 3 月 嘉呼圖克圖が辞世し、その場所は納骨堂として保留され た。しかし、部屋が古かったため、毎年修繕しなければ ならなかった。しかし、それは費用が多くかかった。行 政院が論議した後、嘉呼圖克圖を記念する納入堂を再建 する必要があり、また蒙蔵の書類をまとめる蒙蔵文化セ ンターを設立する必要があった。蒙蔵文化センターが 1993 年 1 月に正式的に設立された。しかし、蒙蔵文化セ ンターの設立は、政府からそれほど支持されていなかっ た。それは資金の少ない点からも明確である。 <第四章> 80 年代以前、蒙蔵委員会による蒙蔵に対する教育政策 が多かった。しかし、その本当の目的は、蒙蔵の教育を 支持するわけではなく、ただ中華民国の代表として蒙蔵

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に対する教育活動を通じて「正統的な中国政府」の宣揚 であった。そのため、それらの教育政策の多くの実施性 はあまり高くなかった。また、蒙蔵委員会も中華民国政 府の代表として蒙蔵に対する多くの教育活動を行った。 80 年代以降、蒙蔵委員会による蒙蔵に対する教育政策は 少なくなってきた。また、蒙蔵に対する教育活動も少な くなった。そして、台湾の民主化が実現されて以降、台 湾本土の言語と文化を重視するようになった。また、民 族的な面では、台湾の原住民を重視するようになった。 そして、民進党が政権に就いた後、台湾内で台湾の独立 を支持するグループが出てきた。彼らは民族的に台湾内 の原住民を重視する一方、モンゴルとチベットは重視し なかった。 1949 年、国民党と共産党の争いで敗戦した中華民国政 府は台湾に移った。しかし、いつか中国の領土を回復す ることを当時は諦めなかった。そして、台湾で軍隊を訓 練し、戦争のための準備をしていた。一方、孫文の三民 主義の主張に基づき、民族的な面から正統的な政府を主 張していた。特に、当時重要な地域にいたモンゴルとチ ベットの教育を通じ、中国政府の正統性を主張した。そ れにより、80 年代以前、台湾政府の漢民族のアイデンテ ィティーを明らかにしている。1980 年代以降、国際情勢 と台湾内の情勢は変化しつつあってきた。それに伴い、 蒙蔵委員会による蒙蔵に対する教育政策と教育活動も変 わりつつあった。その一番の多い変化は、教育政策と教 育活動が、80 年代以前と比べて少なくなってきた。また、 蒙蔵委員会の予算は近年少なくなり、それは中華民国政 府が蒙蔵業務に対する重視が少なくなることを示してい る。特に、民進党が政権を就いていた 8 年間に蒙蔵委員 会の業務はあまりなかった。その一方、台湾の本土化が 盛んになり、台湾政府は台湾本土の文化と言語を重視す るようになった。民族的な面では、台湾の原住民族を重 視するようになった。以上述べたとおり、80 年代の中華 民国政府が漢民族のアイデンティティーとして正統的な 中国政府を強調したのに比べ、80 年代以降そのアイデン ティティーは少なくなり、その変わりに台湾政府のアイ デンティティーが強くなったのである。 <終章> 本論では 80 年代以降の蒙蔵委員会による教育に対す る役割の変容を通じ、台湾政府のアイデンティティーの 変容を考察した。その結果としては、二つのことが明ら かになった。一つ目は、80 年代以降、蒙蔵委員会による 教育に対する役割は、80 年代以前と比べてそこまで重要 ではなかった。それに影響する一番大きな要因は、台湾 の民主化である。二つ目は、中華民国政府、即ち、台湾 政府の漢民族のアイデンティティーは少なくなり、その 変わりに台湾の民族としてのアイデンティティーは強く なってきた。 本論では 80 年代以降、蒙蔵委員会による教育に対す る役割の変容を明らかにした。そして、それを通じて台 湾政府のアイデンティティーの変容を明らかにした。し かし、本研究を通じて、また新たな問題点も出てきた。 例えば、モンゴル族のなかに、カルマクモンゴル族とブ リヤートモンゴル族の支系があることである。この二つ の支系は、モンゴル族のなかで重要な地位にある。その 歴史と発展の状況を究明する必要がある。また、本研究 を通じて、筆者は蒙蔵委員会で働く職員とすでに定年し た職員にインタビューを行なった。しかし、インタビュ ーした人数は 4 人だけであり、人数としてそこまで多く なかった。そのため、より多くの職員にインタビューを 行なうことで、今後の研究により妥当性をあげることが できると考える。そのため、以上の二つの点について今 後の研究課題であると考える。 4.主要引用文献・資料 李厚高主編 刘学铫著(1996)《蒙藏专题研究业书之七十 二 蒙藏委员会简史续编-附历任委员长简历》 蒙藏 委员会印行 马大正(2009) 《民国边政史料汇编》第十六册 国家图 书馆出版社 马丹丹(2010) 《蒙藏委员会与蒙藏事务研究》 河北师 范大学 5.主要参考文献・資料 若林正丈(2008) 「台湾ナショナリズムの現在」 若 林正丈編『台湾総合研究Ⅱ— 民主化後の政治— 』調査 研究報告書 アジア経済研究所 若林正丈(1999)『台湾— 分裂国家と民主化』 東京大 学出版会 松本はる香(2001)「台湾の民主化過程における『一つ 中国』の変容」 東亜 No.408 p63 刘学铫(2013)《从历史看清西藏问题-揭开达赖喇嘛真 面貌》 致知学术出版社 徐光正主編(2001) 《民国以来蒙藏重要政策彙编 蒙藏 专题研究业书之一一二》 祝启源 喜饶尼玛(1991) 《中华民国时期中央政府与西 藏地方的关系》 中国藏学出版社 喜饶尼玛(2006) 《蒙藏委员会档案中的西藏事务》 中 央民族大学出版社 pp44-45

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