ユダヤ古代史 : シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史
』抄訳
著者 山本 雅昭
雑誌名 言語文化
巻 13
号 3
ページ 323‑359
発行年 2011‑01‑20
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012287
ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳
山 本 雅 昭
︹抄訳の試みにあたって︺
ここに訳出するのは、Cecil Roth: History of the Jews. Schocken Books, New York, 1970 の、ユダヤの古代史を扱った
部分、すなわち本編四三六頁のうち第一頁から第一三二頁までである。初版は一九六一年に、そして一九七〇年に改
訂版︵この抄訳が底本としているもの︶がそれぞれ出ている。改訂版は初版の最後に付した﹁あとがき﹂ともいうべ
き短い文章を省いてそのあとへ第三三章として﹁六日間戦争﹂と題する一章を付け加えただけのものである。原著の
内容全般についての解説はこの抄訳を終えたのちのこととして、ここでは初版と改訂版とは改訂版の第三三章以外
まったく同じであることのみ確認しておく。だからここに翻訳した部分の原文は、初版と改訂版において、もちろん
﹁言語文化﹂
13―3.
323―
359 ページ二〇一一年. .
同志社大学言語文化学会
©山本雅昭
一言半句違わない。 ところでじつは初版にはすでに邦訳がある。みすず書房から一九六六年に出た『ユダヤ人の歴史 シーセル・ロス』
である。この翻訳本に関して、ある投書を、ただしかなりの長文なので半分ばかり省略して、紹介したい。
・・・・︵略︶・・・・
さて急いで本題に入ります。
アブラハムが実在したとしても︵このことでさえ疑問にしている人も多い︶、彼は卓越した人物で、パレスティ
ナの聖所の多くは、彼にその伝承の基礎を負うている。︵一一頁下段︶
この日本語、どこかオカシくはありませんか。
このイスラエル人と一緒に、他の民族の混合した者、おもに、恐らくヒクソスその他の圧迫されていた者たち
が、逃げ出してきた。彼らは十二の家族を中心とした部族に吸収され、これがヤコブの十二人の息子の末裔と
してその当時に分かれるようになったのである。︵一〇頁上段~下段︶
一読して、この話ホントだろうかと思わせる叙述です。先に十二支族ができておりそれへ
一緒に逃げ出してきた連中が吸収されていったのではなかったか。 このように、初期のイスラエルの新しい思想は﹁一神教﹂の原則を示しており、それがユダヤの歴史の基礎と
なっている。然もそれは、ゆるやかに逐次発展してきたもので、突然出現したものではない。このようなこと
は、伝承の物語から個人的な興味や魅力の多くを奪い去ってしまうことがあるかもしれないが、その物語と同
じ程度に民族的特徴によると考える説である。︵一二頁下段︶
﹁このようなことは、・・・﹂以下の文章は日本語としてどう読めばいいのでしょうか。
読み出してすぐ出くわしたこうした日本語から、この本はちょっと気をつけて読まないとと思い、以後、変な文章や
言い回し、あるいは、どうも︵史実として︶間違いではないかと思われる箇所に︹?︺マークや︹X︺マークを付し
ていったところ、ほとんどどの頁にも少なくとも一つ、二つは付くといったことになってしまいました。 ・・・・
︵略︶・・・・ 二年ほど前、偶然外国の古書店で原書を手に入れました。以後、原書を横に置いてこの本︵翻訳本︶
を読み出したところ、予期したとおり、上記のマーク︹?、X︺を付した箇所のほとんどが誤訳︵むしろ、誤読とい
うべきもの︶と分かりました。一応、先に挙げた三つの文章の原文を引いておきます。
If Abraham existed ( and many would question even this ), it was simply as an outstanding personality, to whom
many of the shrines of Palestine traditionally owed their foundation; he was not ………
simplyという語を無視したためにオカシナ訳文ができたようです。
With the Israelites, there went out also a medley of other races, belonging mainly, in all probability, to the Hyksos and other depressed elements. The latter became absorbed in the twelve families or tribes, into which the descendents of Jacob’s twelve sons had by now become divided.
the twelve families or tribesの訳語はご愛嬌としても、into which ...以下はやっぱり誤読でしょう。by nowとあって過
去完了なのですから。
The new conception of early Israel thus presents the monotheistic principle, which has been the basis of Jewishhistory, as a slow and gradual evolution, rather than a sudden emergence. It is a theory which does credit to the na- tional genius no less than the traditional story, though it may rob the latter of much of its personal interest and charm.
アヤシゲな訳文のもとは、do credit toという慣用句が分からなかったことにあるようです。どこからあんな奇妙な訳 文をひねり出してくるのかじつに不思議です。ついでに言えば conceptionは﹁思想﹂ではないのでは? この文の前
約二頁にわたって、ヘブライ民族︵初期イスラエル︶の成り立ちについて従来の説に別の説を加えた新しい見方が書
かれています。だから文脈上﹁初期イスラエルに関する新しい観念︵見方、考え方︶﹂ではないでしょうか。
原語に引きずられて稚拙な、たどたどしい、あるいは多少ヘンテコな日本語表現になるというのは、文芸作品ではな
いのだから、まあ、大目に見るとしても、この本ほどに正確さに欠ける翻訳︵要するに、誤訳︶が許されていいとは
思いません。全部挙げると大変なので、典型的なのをいくつか目につくままに紹介︵?︶しましょう。
古代世界に与えた彼らの印象が、このようだったので、彼らは結局その地方の名前を付せられ、そのため今で
も、その地方はパレスティナ︵フィリスティナ︶として知られている。︵一六頁下段︶Such was the impression which they made upon the ancient world that ultimately their name was given to the wholeof the country, which is still known after them, as Palestine (Philistina).
高校生でも受験前の頃にはこんな読解の間違いはしないでしょう。それにしても、フィリスティア人の名からパレス
ティナという地名が起こったことも、訳者はご存知なかったのでしょうか。
・・・・︵略︶・・・・
だがダビデの樹立した王国は、その精神においては、今日なら立憲制ともいえるものであった。ヘブライ民族
にその起源を負っている、遊牧アラム族の民主主義的感覚は、まだ強く残っていた。︵二〇頁下段︶
Yet the monarchy established by David was, in spirit, what we would today call a constitutional one. The democraticfeeling of the nomadic Aramaean tribes to which the Hebrew race owed its origin was still strong.
the Hebrew raceはどこからどう見ても to which 以下の関係文において主語でしょう。情けなくてハナシにもなりませ
ん。
・・・・︵略︶・・・・
当時の顕著な国境の拡張は、一部中止されたが、しかし国の北部のユダヤ化が、徹底して成功していたので、
これを切り離すことには問題はなかった。︵六四頁上段︶
The remarkable recent expansion of the national boundaries was partially cancelled. However, the work ofJudaization in the north of the country had been so thorough and so successful that it was out of the question to sever it anew.
out of the questionですから﹁あらためてこれを切り離すことは考えられないこと︵不可能なこと︶だった﹂ではない
ですか。ここに限らず、総じて熟語や慣用句に非常に多くの間違いがあるのはどうしたことでしょう。辞書も満足に
引けていない、とまでは言いたくありませんが。
フィリッピでの勝利がマルクス・アントニウスをアジアの主権者とした時、ユダヤ人の代表者たちは、フィ
リッピの前で統治の苛酷さを訴えたが、ヘロデの甘言と気前の良い約束に圧倒された。その結果、さらに事態
は進んだ。︵六九頁上段︶
When the triumph of Philippi made Mark Anthony master of Asia, Herod’s honeyed words and lavish promises outweighed the impression caused by the Jewish deputations who appeared before the victor to complain at theharshness of the regime. The result was a further promotion.
地名と人名の区別がついていないのかしら、と不思議です。また promotionという語は、この引用文の前に、ヘロデ
がそれまでにガリラヤの知事に任命され政界で着実に力をつけてきていることが書かれてあり、その後引用文に書か
れてあるようなことがあって﹁その結果﹂さらにテトラルクの称号を手にする︵つまり、さらに出世する︶と後ろ︵引
用文のあと︶に続くのですから、﹁事態の進捗﹂などというトンチンカンな訳語はいけません。誤読もいいところです。
全体的に見て、この翻訳者はもしかすると原文の︵そして日本語の︶文脈というか文章の流れというようなことが分
からないのでは、と思いたくなります。少なくとも、あまりに無頓着過ぎることは確かです。
この命令の実行を委されたシリア総督は、賢明にも一時妥協したが、それを実行に移す前に皇帝は暗殺された。
こうしてアンティオコス・エピファネスに対して繰り返し起こされた全国的叛乱は、あたかも神の摂理であっ
たかのように、その力をそがれた。︵七四頁上段︶
The governor of Syria, who was entrusted with the execution of this mission, was wise enough to temporize and the
Emperor was assassinated before his resolution could be enforced. A repetition of a general revolt like that against
Antiochus Epiphanes was, almost providentially, averted.
﹁一時妥協した﹂のではなく、﹁しばし様子を窺っていた﹂のでしょう。﹁こうしてアンティオコス・・・﹂云々のと
ころは、この引用文の箇所はカリグラ帝の時代のユダヤの叛乱を述べているところで、訳文では、この叛乱はアンティ
オコス・エピファネスに対する叛乱としています。原文の方は、それの﹁repetition繰り返し、再現﹂となっています。
﹁かつてあったことの再現が防がれた﹂という意味なのです。いったい訳者は何を読んでいるのかと思わずにはいら
れません。だいいち、カリグラとエピファネスとでは、前者が紀元三〇~四〇年頃で後者が紀元前二世紀の人物です
から、時代が全然違うのです。
翌年早々に、叛乱を起こした地域のはずれにあるプトレマイオスに進軍した。そこで彼は自分の息子で、エジ
プトの軍団で教育を受けてきたティトゥスと合流した。
︵七七頁上段︶
Early in the following year, he advanced to Ptolemais, on the edge of the area that had revolted. Here he was joinedby his son Titus, who had brought up a legion from Egypt.
まず﹁プトレマイオス﹂ではなく、この地名は﹁プトレマイス﹂です。プトレマイオスなら原語の綴りが違います。﹁エ
ジプトの・・・﹂云々の訳文は、見るも無残といった感じです。いくら bring up に﹁育てる、養育する﹂といった意
味があるとしても、﹁エジプトの軍団で教育を受けてきた﹂はないでしょう。この関係文は誰がどう見ても能動文で
あり、a legion が had brought upの目的語であることは明々白々です。せめて﹁エジプトから一レギオン︵一軍団︶を
繰り出してきていた﹂くらいに訳すべきではありませんか。出来ない学生が辞書の訳語を適当に並べてなんとか日本
語の文章にしようとしているようで、ほとんど噴飯ものです。
少し後半の方︵翻訳書の二〇〇頁以下︶からも引いてみましょう。
ところが東ヨーロッパでは、タルムードの大学者たちが衰退していく一方、新しい種類のユダヤ教が現れた。
それは初めは、学問を必要としないほどのものであった。︵二二六頁上段︶
In Eastern Europe, on the other hand, while the giants of the Talmudic scholarship were dwindling, a new brand of Judaism was arising to which, for the first time, scholarship was unnecessary.
for the first time は易しい慣用句です。どうして﹁初めは﹂というような訳語が出てくるのでしょうか。﹁初めて学問
のいらない新しいユダヤ教が生れつつあった﹂ということではありませんか。
・・・・︵略︶・・・・
ずいぶんいろいろと引用しましたが、これらはほんのごく一部に過ぎません。何を大げさな!と思われるのでしたら、
どうかもう一度この翻訳書をご一読いただきたい。通読なさる必要はありません。半分、いや一〇〇頁でもいいでしょ
う。もちろん、原書とつき合わせなくても結構です。いや、そのほうがいいかも知れません。あくまでも日本語で書
かれた本として読んでみてください。誤訳とは別に、日本語だけでもヘンなところは十分たくさん見つかるはずです。
なにしろ、いかに翻訳といえども出来上がった本は日本語の本なので、多少ギクシャクした日本語でもあくまでも日
本語の本としてふつうに読めるものでなくてはハナシにならないのですから
・・・・︵略︶・・・・ 本だからいいようなものの︵というわけでもありませんが︶、これが車や電気製品なら間違
いなく﹁リコールもの﹂でしょう。それほどに悲惨な欠陥商品だと、私は思います。だからどうしろ、とは申しませ
ん。が、もしまだこの本が絶版・廃版にならずにその後も増刷され続け、今後も印刷が続けられる予定であるのなら、
どうかせめて改訂版を、部分的な改訳ではなく全面改訳版を早急にお出しいただきたい。 ・・・・︵略︶・・・・
みすず書房編集部 様
︵ 差出人住所︶
︵ 差出人署名︶ 何を隠そう、二〇一〇年三月初旬にわたしが﹁みすず﹂宛に出した投書である。およそひと月半後に﹁みすず書房
何某﹂氏の名で鄭重な返事があったが、これは私信なので紹介は控えたい。因みに、この翻訳本は廃版にも絶版に
もならず途中いくらか中断があったようだが一九九七年に復刻され、二〇〇九年度の東京ブックフェアには出品もさ
れ、二〇一〇年現在なお街の書店の棚に置かれている。この間、一字一句の改訳も行なわれていない。
要らぬことかも知れぬがさらに一つ言い添えようか。この翻訳本は、とくに初版が出た当時まだ類書も数少なかっ
たせいでもあろう、かなり幅広い需要があったという。もちろんその道の学者、研究者あるいは見習生にも大いに読
まれたようである。現在いわゆるユダヤ学者として活躍中の人たちはほとんどその著作に参考文献としてこれを挙げ
ている。ただし、原著ではなく翻訳本の方を、である。のみならず、あろうことかこの翻訳本から引用までしている
例も相当数ある。だからといって、学者としての怠慢だとか研究者としての誠実さの欠如、などと賢しらなことを言
うつもりはわたしには毛頭ない。
さてわたしの『抄訳』の試みである。これは右のような事情とはまったくとは言わないが、必ずしも関係するもの
ではなく、ただただわたしが投書のなかでも指摘したが原書のすばらしい文体と内容とに大いに心惹かれ、いま一度
これを自分の納得のいくように正確にかつ自分自身の言葉で読み直したく思ったところから始まっているので、わた
し自身のための仕事以外のなにものでもないことを断っておきたい。だから当然ながら解説的注釈はいっさい付して
いない。なお固有名詞の表記は地名人名を問わずいわゆる『新共同訳聖書』に依拠した。
『 ユダヤ古代史 』 第一巻 イスラエル︵およそ紀元前一六〇〇年から同五八六年まで︶
第一章 ヘブライ民族の誕生
︵一︶ 西暦紀元前十六世紀、現在わたしたちがパレスティナと呼んでいる土地、地中海とアラビア砂漠の間に総
べりのような形で横たわるこの地域は、雑多な人種が住みついてさながら人種の坩堝であった。太古の﹁新石器時代﹂
穴居人族の生き残りも依然としていくらかいた。その巨人のごとき背丈がのちの世に語り草にもなったあの原始人で
ある。かれらを追い出したのはアモリ人という名で知られるセム系民族で、アラビアの荒野から移り住んできてまだ
間がなかったが、すでに遊牧民の生活を捨てこの豊穣な土壌の上に腰を据えてしまっていた。北方の低地、とくにカ
ルメル山の向こう側の海岸沿いには、交易の民カナン人がいた。かれらは土地に自分たちの名を冠した︵カナンの地、
とそう一般に呼ばれていた︶。向かうところ敵なしのエヂプト帝国はときおり思い出したように勢力を北へ拡大する
試みを繰り返し、かなりの成功を収めていた。地域一帯いたるところに軍の砦や要塞で固めた駐屯地が置かれていた
のである。謎の民族ヒッタイトは征服者として姿を現しただけではなく植民者でもあった。アッシリアの支配者たち
はエヂプトに対する軍事行動で、あるいは地方の豪族どもの征圧のために、軍を率いてこの地を往き来していた。そ
して、かれらのあとに続いてやって来たのが、メソポタミアの人口稠密な平原からの大勢のアラム人移住者たちであ
る。かれらはこの豊かな土地に定住しようとやって来た。イブリム、あるいはヘブライ人とかれらは呼ばれた。かれ
らがエベルという人物の家系であるという言い伝えからか、あるいはまたかれらが﹁大河の彼方から﹂︵Eber
ha-Nahar︶すなわちユーフラテス河の向こうからやってきたという事実からであろうか。 これらアラム人移住者たちのなかに一人、他に抜きん出て際だつ男がいた。アブラムあるいはアブラハムといって、
カルデア人の町ウルの出であった。かれの故郷の町は、近年の発掘調査が明らかにしたところによれば、当時すでに
高度に洗練された古代文化の中心地だった。一方、宗教生活のほうは基本的に多神教の形をとっており、一大位階制
を形成する神官たちの手で粗野な祭式が執り行なわれている壮麗な神殿を中心に、営まれていた。アブラハムが故国
を捨てたのは、少なくともより高度な何ものかのおぼろげな予兆を感じ、魂のより完璧な成就を得たいという希望を
抱いてのことであったという。この意味においてかれがユダヤの民の始祖と見なされるのは正しい。ユダヤ教への改
宗者がこんにちでさえ﹁われらが父アブラハムの子ら﹂と呼ばれるのは意味のあることなのである。
妻妾たちを従え、一族のものらを引き連れ、家畜の群れを追いながら、天幕を携えてパレスティナの周辺を北から
南へと移動していくいかにも族長らしい威風堂々たる一人の男の姿をわたしたちはまざまざと思い浮かべることが
できる。一度は飢饉のためにエヂプトに難を逃れることを余儀なくされたが、﹁カナン人の地﹂にすでにしっかりと
つかまえられてしまっていたかれは、好機をとらえて早々ともどってきた。しかしかれは自分を土地の住民の誰より
も高い文明の人間と思っていた。息子のイサク︵章末の付記参照―著者︶に嫁をとるのに、かれは故里メソポタミア
の地にいる眷属の許へ人を遣ったのである。
このイサクが集団の二代目の指導者である。かれは威厳に満ちていたアブラハムよりあきらかに影が薄く、人間的
器量において劣った。一家が一つの部族になるのはようやく次の世代になってのことである。イサクの時代も終わり
に近づいたころ、子供たちエサウとヤコブとが烈しい内輪もめを起こした。ヤコブすなわちイスラエルには、十二人
の息子がいた。そして最晩年の時期を迎えるまでに子孫の数はおよそ七十人に達する。その生涯は危険に満ちた波乱
万丈のものだった。若い日、兄エサウの妬みを買って家を逐われたかれは、メソポタミアの母方の親族の許へ逃げ帰
る。その後何年もたってから、どんどん大きく膨れあがっていく自分の家族を引き連れて再びパレスティナへもどり、
父が、そして祖父がそうしたように、遊牧の民の族長としての人生を送った。再びの飢饉によって一族︵いずれイス
ラエル人として知られることになる︶はエヂプトへと降る。この地に、かつて家族の一員であったヨセフという男が
さきに来ていた。時はセム系の血をひく﹁ヒクソス﹂の王たちの時代だった。だからこそ、ヨセフは独力で宮廷にし
かるべき地位を得ることができたのであったろう。そうしたことからかれの父と兄弟たちは温かく迎えられ、ゴシェ
ン地方に住み着くことを許された。
ほどなくヒクソス王朝は倒れた︵紀元前一六〇〇年ころ︶。イスラエル人たちの境遇を一転不幸なものに突き落と
したにちがいない事件だった。支配者すなわちファラオがつぎつぎと替わるたびにかれらの立場はますます悪化し、
ついには完全な奴隷の身分にまで落とされた。その独自の個性がそれでも失われなかったのは、かれらがともに出自
を同じくしていたことによるばかりでなく、祖先の精神的理想がそんななかで生き延び得たということによるもので
もあった。かれらの信仰は支配者たちの異様な多神教と著しく異なっていた。イスラエル人たちの叛乱と解放とが、
政治的な、そして同時に宗教的な改革者でもあった一指導者の霊感によって惹き起こされたということはだいじなこ
となのである。
︵二︶ モーセという名の一人のイスラエル人が、かれは王の宮廷で育てられたのだが、自らの民族の再生と解放
のための運動の先頭に立った。多くの紆余曲折︵かれの子孫の長い歴史をもった口碑伝承にきわめて詳しく述べられ
ている︶ののちかれは、自分たちの父祖が住み着いていた地を目指して、同胞部族民を国外へ救出することに成功し
た。わたしたちは、追走するエヂプト軍を紅海で突然襲った天変地異の話をものの本で知っている。兵士たちが津波
のように押し寄せた潮の流れに呑みこまれたのだ。過越の祭りは、逃亡者たちが自らの解放を祝って始めたものだが、
子孫たちの手でいまにいたるまで執り行なわれている。イスラエル人とともにべつのさまざまな集団もいっしょに脱
走した。主としてヒクソスおよび他の被抑圧民に属する人々であったことはまず間違いない。かれらはヤコブの十二
人の息子の後裔たちがそれまでに分岐して形成していた十二の氏族ないしは部族に吸収されていった。
パレスティナへ足を踏み入れることは、エヂプトの権勢がその地で依然として幅を利かせていたためすぐには成し
遂げられ得なかった。長期間︵伝説は、四十年と言う︶イスラエル人たちは二つの地にはさまれたシナイの荒野に留
まった。厳しい試練の時代であった。モーセ、この驚嘆すべき人物は、たがいに気を許し合わない諸部族を融和させ
て一つの民につくり上げる。かれは一神教というより純粋な観念を教えこみ、一段高い道徳と倫理の体系の基本原理
を定め、また一連の法規定を公布した。この法規定がこんにちにいたるまでユダヤ人の慣行と法制度の、そして同時
にまた現代の人道主義的理想主義の大部分の基礎となってきたのである。モーセの史実性をあきらかにする一片の証
拠もない、とよく言われる。もしわたしたちが一民族全体の記憶より、あるいはまた太古の昔の記録文書より陶器の
かけらの方が重要で信頼に足るものであると考えるのであれば、それはそうかもしれない。しかし、偉大なる立法者
の姿がヘブライ人の心に与えた影響は、そもそもの最初期からその跡を辿ることができる。しかもその影響はきわめ
て強烈なものだった。だから、わたしたちは結局のところ当時の人々に拭いがたい印象を与えた一個の人格の存在を
想定せざるを得ないし、そうすることでしかほとんどその影響なるものも説明することはできないのである。もしわ
たしたちにモーセに関する記録がいっさいなかったなら、あの特異な文学と、特異な法と、特異な倫理と、そして特
異な宗教的規律を持ったヘブライ民族の実在を説明するために、モーセがそうであったと言われているのと同じよう
な一人の人間がいたことを仮定する必要があるだろう。
︵三︶ ヘブライ民族の物語は、ここまで話してきたかぎりでは大筋において伝承の記録に従っており、それはユ
ダヤの経典のなかの史書に具体的に活写されている。それはすでにユダヤ人の存在の基本的性格の一部になってし
まっている。これに、同じ出来事の、現代聖書批評の角度から見た輪郭図を付け加えねばなるまい。もっとも、伝承
の物語の真実性にほとんどどの細部においても疑いをさしはさむ過激派の角度からではなくて、少なくともそのアウ
トラインは受けいれようというより穏健な学派の角度から見たものを、であるが。
この穏健派によれば、いわゆる︿イスラエル人﹀たちはごく近い過去にいかなる共通の起源も持たなかったし、ま
たパレスティナ定住後の一時期にいたるまでいかなる共通の歴史をも持たなかったという。かれらは、ただ言葉と、
そしておそらくはアラム人種族の最後の末裔であることだけで結ばれた多くの雑多な異分子から成る集団だった。各
分子はそれぞれに自身の歴史と民間伝承を持っていた。いくらか時代が降ってようやく種々雑多な伝統が一つに溶け
合わされ、こんにちわたしたちが知るお馴染みの物語となったのである。
たとえアブラハムが実在の人物であったとしても︵そして多くの人がこのことにすら疑いをいれるだろうが︶、そ
れは単にかつて一個の傑出した個性が存在し、パレスティナの神殿の多くがその人物のなんらかの尽力のおかげで建
設されたという伝説が残った、ただそれだけの話にすぎない。かれはいかなる意味においてもヘブライ民族の始祖な
どではない。イサクとヤコブは半ば象徴的な人物と考えられている。もしかすると部族のモティーフを体現している
のかもしれない。じじつヤコブは︵かれは古代パレスティナのなんらかの神の名を留めている︶、それぞれの先祖に
因んでではなく大部分各部族のトーテムに因んで名づけられた十二部族に共通の祖先を与えるために人格化された
ものだ。これら十二部族のすべてがエヂプトにいたわけではない︵おそらくは﹁ヨセフ﹂支族とメナセとエフライム
だけだったろう︶。一方またヨセフ自身もかりに歴史上の人物であったとしても、たぶん部族の抜群にすぐれた一指
導者以上のなにものでもなかったにちがいない。
モーセその人はヘブライ人あるいはイスラエル人で、エヂプト人との間になにがしかの養子縁組の関係を持ってい
た。おそらくはレビよりむしろエフライムの部族の人であったようだ。もっとも伝承によればレビ族の人ということ
になっているが。亡命というか流れ旅というか、とにかく放浪の時代にかれは、かつてケニ人の間でしか知られてい
なかったヤハヴェ神に引き合わされることになり、そしてこの神を崇拝の対象として受け容れるよう個々のヘブライ
部族を説き伏せた。このときはじめてイスラエル人たちは︵あるいはその一部は︶共通の信仰という紐帯で一つに結
ばれたのである。しかしながらこの新たな異教は排他的で、多神教の放棄を当然のこととして要求するものであった
にもかかわらず、そしてまたモーセは異常なまでの厳格さと純粋さとを有する倫理規定を強要したにもかかわらず、
ヤハヴェは実際はその時どきで牡牛になったり、蛇に姿を変えたり、聖なる石で象徴されたりしてほかのどんな神と
もなんら変わるところのない神だった。この﹁唯一神崇拝﹂︵これがもっともよい呼称であろう︶が改革され純化さ
れより浄化されて、語の適切な意味において﹁一神教﹂へと育つのは、はるかのち、ようやくヘブライ君主国の時代
になってのことである。
パレスティナにはいくたびかそれぞれ別個の遊牧民の波が押し寄せ、その地に足を踏み入れていった。そのなかで
もっとも重要なのは南からやってきたいわゆる﹁ヨセフ﹂氏族の波である。諸部族の少なくともいくつかはしかしな
がらエヂプトでの奴隷の境遇を知らなかったし、エクソダスを経験してもいなかった。これはとくにユダの部族の場
合がそうだった。かれらは遊牧アラム人というよりむしろ移住させられたカナン人の末裔であったように思われる。
ユダ部族はずっとのちの時代にその国家観を取り入れてイスラエルの政治体制の一員になったのだ。ヘブライ人たち
のパレスティナ入りに続く戦争と艱難辛苦の長い期間中にやっと、起源を異にし伝統を異にするこれら雑多な集団は
統一体の基本的観念を学び、共通の信仰を身につけたのである。
初期イスラエルについての新しい考え方は、上述したように、一神教の原理を示している。この原理が、突発的な
発現というよりむしろ緩慢な漸進的展開としてのユダヤの歴史の基礎となっていた、というのである。この説は、伝
承の物語からそれが持つ私的な関心や魅力の大部分を奪うかもしれないが、伝説的物語に対するのとまったく同じく
らいに民族の天賦の才にも名誉を与える説である。それは、大地殻変動にも似た神の人間への啓示的顕現を説明する
ものではなくて、人類による時間をかけた神の発見の記録なのである。
︵四︶ モーセの死以前にも、かれが率いた諸部族はすでにヨルダン河東岸の、河と荒野とにはさまれた細長く狭
隘な沃地に定住し始めていた。偉大な指導者、この﹁神と互いに顔見知りであった﹂男は、自分の直接的な指図のも
とでもっと多くのことがなされ得る前にこの世を去った。パレスティナ侵入が始まったのは、ヨシュアという名の強
力なエフライム族出身の人物︵モーセと違って、本質的に精神的な力というより軍事的指揮官であった︶の統率下に
おいてだった。ヨルダン河の渡渉は、ヤボク河の河口付近、死海の北およそ二十五マイルの一地点で行なわれた。エ
リコ、どうやらエヂプトの宗主権にずっと忠実であり続けていたらしいこの堅固な町が、急襲された。地方の弱小君
主たちの連合軍が歴史に名高いベト・ホロンの峠で撃破される。イスラエル人はいまやすでにパレスティナ中央部の
丘陵地帯を掌握していた。これ以後かれらは少しずつゆっくりと北へ向って版図を拡大させていったが、やがてその
前進はイズレエル︵エスドラエロン︶の平原を守備する横に長く延びた強力な陣地の鎖に阻まれる。このようにして
イスラエル人たちの、その後の歴史全般において関連の強さに程度の差はあれつねに二つ並べて語られることになる
土地への定住が、始まったのである。
征服は手間ひまのかかる苦しい仕事だった。侵略者たちは以後何世代にもわたって容易に海岸線に到達することが
できなかった。主要な都市のいくつかは依然としてファラオに対し臣従の義務を感じ続けるか、あるいはエヂプトの
駐屯軍に占拠され続けていた。もとからいた原住民は周辺の田園地域が落とされたあとも永らくいくつもの山岳要塞
を守っていた。しばしば侵略者の方が、立場が入れ替わって自身の生存を脅かされるほどに烈しく追い詰められるこ
ともあった。個々の部族地域は、間を走る細長い敵領地に割かれてそれぞれに孤立していた。南端に位置するユダ、
シメオン、ルベン。ベト・シェアンからメギドへと延びる要塞の帯で中央から切り離された北のナフタリとゼブルン。
中央丘陵地帯に腰をすえた全権を掌握するマナセとエフライム、しかもこの二つはヨルダン河の対岸に分派支族を有
していた。烈しい地方の嫉妬心があからさまに顔に出る。かくして外敵の襲撃が容易になり、ときには襲撃を招き入
れることさえあった。古代の記録文書は、ヨシュアの死の直後から数世代にわたってヘブライ民族の全体あるいは一
部を苦しめた外敵の国名を、少なくとも六つは書き残している。ヘブライ人たちが内輪同士の妬み合いを抑え一致協
力して敵に当たることができたのは、たとえばハツォルのカナン人の王が原因で北部の小属国が対外敵連合をつくっ
たときのように、ごくわずかな場合に限られた。それでも、こうしたあらゆる障碍を乗り越えて征服の仕事はゆっく
りと続けられたのである。
紀元前十二世紀までにはすでにパレスティナの住民は、歴史的な境界線の内側ではかなり均質なものになってい
た。多くの異教信仰の名残りがあり、ときにはそれよりもっと嘆かわしくさえある道徳的堕落もあったが、イスラエ
ルの古き一神教の理想は依然として大衆の心をしっかりと捉えていた。かつての放浪の羊飼いたちはノマドとしての
遊牧生活を捨て、農場経営者として、また小作農民として大地に根を張って土地を耕す民となっていた。地方には肥
沃な丘の頂に冠のようにのっかった小さな町や村があちこちに点在していた。政治体制はまだまだ未熟なものだっ
た。共同の宗教的祭儀の形で表された、そしてそれによって強化されたある種の漠とした国民感情のようなものは
あった。部族は一朝ことあれば互いに助けに出ていったであろう。ヨルダン河の向こう側にいる分派部族ですら、そ
の孤立した位置と特殊な利害にもかかわらず同じ統治体の一員と見なされていたのである。
部族の組織それ自体は非常に脆弱であった。各町村はじっさいはそれぞれに独立した単位であって、長老たちに
よって支配統治されていた。ときどきは誰か傑出した人物が、たいていは国家の敵に対する軍事的功績を理由にして
であったが、もっと広範な大衆の承認を得ることもあったかもしれない。そうなればかれはこの先しばらくの間自分
の支持者たちを、あるいはその一部を﹁裁く﹂地位に就くことになっただろう。わたしたちはヨシュアの死後に続く
模糊とした時代に現れた多くのこれら士師︵さばきつかさ︶たちの物語を知っている。女性デボラ、彼女はハツォル
の王とかれの強力な将軍︵あるいは同盟者︶シセラの支配下にあった北方のカナンの脅威に対抗して、ほとんど全部
族を結集しての一時的な部族連合を組織した。エフド、かれはモアブの略奪王を暗殺していっときの平和を守った。
ギデオンは、えり抜きの精鋭部隊を率いてミディアン人の侵略者を策略をもって壊滅させた。ギレアドの名うての無
頼漢エフタ、かれの助けでアンモン人を押しつぶすことができた。ほかにもまだもっと謎めいた人物がたくさんいる。
最初に挙げたデボラが士師だったときの場合を除いては敵がカナン人であることはめったになかった。たいていは
かつてイスラエルがやったことを再現しようとヨルダン河の向こうからやってくる侵略者たちであった。そしてかれ
らとの戦いが全住民を結合して一つの統一体にまとめる助けとなった。エヂプトは舞台の背景に薄ぼんやりとした姿
を見せながら、あいかわらず全土に対して名目上の宗主権を保持し続けていた。その間まれに宗主国が自らの威光を
強く主張できるほどに、また騒乱を鎮圧できるほどに強力であるときもあったが、そのときだけこの地域は﹁一休み﹂
︵聖書の言葉だが︶したのである。
たまに部族同士が殺し合うような戦争をすることもあった。たとえば、あるときベニヤミンの部族が、自分たちの
領土内で起こった無法な偶発事件のためにほとんど皆殺しの憂き目に遭ったことなど、それである。かつて少なくと
も一度は、シケムに首都を置いて君主国を建設する試み︵前述のギデオンの、その息子アビメレクによる︶があった。
しかし国の感情的中心はシロだった。そこに国民のパラディオン、﹁神の箱﹂︵伝承によれば、荒野を流浪した四十年
の間に造られたという︶が安置されていたからである。そこに全国民の宗教的な崇敬の念が集中していたからである。
こうして、こんにちのわたしたちにとっては大部分が曖昧さのヴェールに包まれてよくわからない状況の下で、ヘブ
ライ民族は、生存が脅かされた最も危機的ないくつかの世紀のうちの三世紀を過ごしたのだった。
付記
聖書時代を扱うさいに筆者は、現今では新機軸と見なされるにちがいない手法をとった。伝承をでき得る限り筋の通ったかた
ちで述べ、奇蹟のような要素は無視し、そして誰もが他のいかなる民族を扱う場合にも用いるだろう用語を使いながら、しかも大
筋において伝承の報告するところに従うという行き方である。これは著者において体質的な反啓蒙主義のなせる業でもなければ、
また︿高等批評﹀の成果についての無知からそうなったのでもない。︿高等批評﹀ついては筆者は精いっぱい詳しく調べてみたのだ
が、その批評的姿勢はしかし︵一般の人が信じているのとは反対に︶けっして隅から隅まで一点の非の打ち所もないというような
ものではない。さらにその成果なるものも、たえず、一世代ごとに、ほとんど年々歳々、変わっている。そのため、破壊的な力を
秘めたその批評は鋭くはあったが、伝承とはまたべつの、万人に受け容れることを要求できる説明を提供することにはすっかり失
敗してしまった。歴史学の大半は、だから、事実上資料に関するじつに無味乾燥な議論に転じることになる。逆に前世紀の急進的
な学派に対してあきらかな反発が始まった。
いくらか皮肉な見方をするなら、例によってこうした考え方の普及がなかなか進まないために、なにかというとすぐ仮説を立
てたがる﹁市井の好事家﹂が、情報通では一歩先を行く学界でしばらく前にお払い箱にされた新説をいまやっとどうにかこうにか
呑みこみはじめた、というところだろうか。
といったようなわけで、第一に今日の︿高等批評家﹀たちの間にすら全体的な同意を要求するだろうような、そして第二に十
年二十年経っても相変わらず有効でありそうな、そんなユダヤ民族の起源に関する叙述を明確な言葉ですることはできないのであ
る。一方、伝承の物語の方はつねに現在と同じ有効性を多少なりとも保持し続けそうだ。
さらにもう一つの見方がある。こちらの方がたぶんもっと根本的なものだ。客観的な史実性と同時に主観的な史実性というも
のがある。一民族が二千年もの長きにわたって心中ひそかに慈しんできた人物は、かれが実在の人物であろうとそうでなかろうと、
感情という現実において独自の重要な意味を獲得する。伝説上かれの名前と切り離して語ることのできないいくつもの出来事が、
ある程度国民的な行動観念を形づくる。そうした出来事が過去にあったと信じられていたというただそれだけの事実が、それじた
い事件の成り行きに深い影響を与える。族長たちの生涯とその後のエピソードは、それが単なるお話であろうと史実であろうとこ
うしてユダヤ民族の背景の本質的な部分を構成しているのである。それらを無視することはできない。
第二章 君主制の確立
︵一︶ 士師の時代として知られている時期が終わるころのパレスティナのヘブライ人の状態は、多くの点で二千
年後のイギリスにおけるアングロ―サクソン人のそれに酷似している。どちらの場合も国土には幾世代か前の侵略者
の後裔たちが住み着いていた。かれらはすでに土地に根を下ろしてしまっていた。もとからいた原住民と異人種間結
婚で姻戚関係を結び、かれらを同化し、その過程で持ち前の好戦的な本性をいくらか失くしていったのだ。そしてい
まかれらは無数の独立集団に分かれていた。いずれの場合にも共通の血と共通の信仰によって培われた未熟ではある
が連帯感はあった。ばらばらに散らばった諸部族を完全に結合して一つの民族にまとめ上げるには、部族すべてに関
わる危機という刺激と痛苦とが必要だった。イギリスの場合その刺激を与えたのはデーン人の侵入である。ヘブライ
人の場合は、多くの点でデーン人に似た海洋民族ペリシテ人であった。
紀元前十二世紀の初頭、なんらかの地方の大動乱のせいかさもなくば戦利品という磁石に引きつけられてか、クレ
タ島および小アジア沿岸地帯から南へ向って人口の大移動があったらしい。よそ者たちは一一九四年エヂプトを撃退
され、北の豊かな沿岸平野地帯へ退いてそこに拠点を定めた。ここにはほとんど難なく定住できた。かれらがつくっ
た、それぞれに独自のセレンすなわち僭主の支配する五つの都市国家から成る連合体が、アジアとアフリカを繋ぐ幹
線道路を押さえた。古代世界に与えていたこうした印象から結局その地全域がかれらの名前で呼ばれるようになっ
た。そこはいまなおかれらに因んでパレスティナ︵フィリスティナ︶という名で知られている。
ひと度海岸沿いの平地に地歩を確保するや、休むことを知らぬ侵略者たちは内陸に向って押し出してきた。低地地
方のイスラエル人にとっては、かれらの襲撃に二六時中怯えていなければならない生活が始まった。まっ先に攻撃の
矢面に立たされたのは、隣接するダン族である。独り者のサムソンという男、その後永らく数々のヘブライ英雄伝に
名を留めることになるこの鬼をもひしぐ腕力と素早い機転を持ち合わせた勇士の働きで、攻撃はしばし阻まれた。最
後はかれも捕虜となり眼をえぐられるのだが、伝説の物語はかれが命あるときより死に際しての方がより強大な力を
発揮したと伝えている。ペリシテ人の攻撃がいちだんと烈しくなった。ついに、いまや戦士わずか六百名足らずにま
で力を削がれたダン族は自分たちの領地を捨て、北の果てに新たな安住の地を求めることを余儀なくされる。北端の
地に、かれらはそれまでいた住民を追い出して住み着いた。爾来、﹁ダンからベエル・シェバまで﹂が、イスラエル
人の全領土を含む領域と見なされるようになった。
ペリシテ人の襲撃はすでにこのころまでには計画的な征服戦争の様相を帯びていた。共通の危機に直面して諸部族
はしかたなく相互間の内訌を一時棚上げにし、統一戦線を組まざるを得なくなった。それでもかれらはアフェク付近
での二度の会戦に壊滅的な打撃を受け、おまけにシロの聖所に設置されて久しい移動神殿まで失う。神殿を合戦の場
へ運び込んできていたのである。その後多年にわたってイスラエルはペリシテ人の足下に屈した。
︵二︶ アフェクにおける大災厄から民族の内政に関わる問題に一つの重大な変化が生れた。戦場に持ち出された
神殿に付き添ってきていた二人の祭司がともに斃れ、父親のエリもその知らせを聞くや死んだ。このことが、それま
でかれらの司っていた仕事の中心にあった物が敵に奪われるという事態とも相俟って、堕落腐敗したとはいえ過去数
世代のあいだ民族体を維持するもっとも重要な紐帯であった祭司階級
―
言い伝えによれば、モーセの兄アロンの家系という
―
の権力に終止符を打ったのである。サムエルという人物、シロの聖所で育てられたが祭司の一門に連なるものではなかったこの男が、その威厳ある人格のゆえにこれ以後かつて祭司たちに払われていた尊敬の念の大部分
を受けることになる。そしてエフライムの丘陵地帯のラマにあったかれの家はある意味で民族の中心となった。
新しい指導者は、国が自分たちの独立を脅かし続ける敵に立ち向かおうとするのなら強力な統一政体が必要である
ことを悟った。王こそが全民族に服従を号令し、そうしてはじめてペリシテ人の危険を食い止めることができるのだ、
と。
ちょうどこのころ、アンモン人が、これまでも断続的に行なっていたヨルダンの河向こうにいる部族への攻撃をま
たぞろしかけてきた。攻撃された部族は同族に助けを求めた。同族たちはみな意気阻喪して出動の呼びかけに耳を貸
すものは誰一人いない。ところがここにサウルと呼ばれる一人の勇敢なベニヤミン族の農夫が指揮官の任を引き受け
ようと進み出た。ヨルダン河の向こうへの不意の反撃。敵は撃退された。その効果はヘブライ人の心を強く惹きつけ
た。サウルが民族の指導者になるべく運命づけられているように見えたのである。かくてサムエルの承認を得てかれ
は民衆によって王を宣せられた。
やがてほどなくして︿解放戦争﹀が始まった。それはゲリラ戦だった。サウルと部下たちは国土の隅から隅までを
くまなく熟知していたので敵の分隊にいく度も電撃的な奇襲をかけることができた。戦さの帰趨が激しく揺れた。と
きには愛国軍は数百人そこそこにまで減少させられることもあった。しかしミクマスでのめざましい勝利の結果、国
の中央地域およびユダとベニヤミンの領土を含む南部の一部分から敵を駆逐することに成功する。懲らしめの意味
の、あるいは報復としての反撃が、隣接するいくつかの部族に向って繰り返された。東部と南東に位置していたモア
ブ人、アンモン人、アラム人、そしていくらかより大規模の攻撃を受けた南のアマレク人たちに、である。これらの
戦さの一連の勝利に鼓舞され、共通の迫害にたえず苦しめられながら、イスラエル人は少しずつ団結という観念を学
んでいった。最後には国土からペリシテ軍はほとんど完全に一掃された。だがその危険は次のまる一世代の間ずっと
内政に関わるもっとも重要な問題の一つであり続けたのである。
時がたつにつれてしだいに民族の選択が賢明でなかったことがあきらかになってきた。サウルは才能に恵まれた勇
猛果敢な軍事指導者ではあったが、それ以上のなにものでもなかった。かれの宮廷はいつも野営地にあった。かれに
は突然時所をかまわず残虐性を爆発させる癖があり、しかもそれは国家的利益をもってしても情状酌量とはいかぬほ
どに生半可なものではなかったのである。そのうえさらに、中央と北の部族は、たぶん権威の中心地からの距離のせ
いでもあろう、かれの統治を支持もしくは少なくとも許容する傾向にあったが、力のあるユダ族はベニヤミン族に
よって日陰に追いやられることに耐えられなかった。
ユダ族の農夫エッサイの息子のダビデは、サウルの粗野な兵士たちのなかで一目置かれた存在だった。かれは少年
のころすでに頭角を現していた。大男のペリシテ人戦士を一騎打ちで打ち倒したのである。以来ずっと民衆の寵児
だった。かれは王の娘と結婚していたし、また王の息子のヨナタンとは刎頚の仲だった。敵に対するその大胆不敵な
襲撃は民衆のバラッドに繰り返し謳われた。ついにサウルの嫉妬心に火がついた。身の危険を察知したダビデは生れ
故郷のユダの丘陵地へ逃げる。続く数年をかれは一団の忠実な部下を引き連れ無頼の徒として生きた。サウルはとき
どき気まぐれのように追跡を試み、ダビデに同情を寄せるものには誰であろうとまったく情け容赦がなかった。そう
してとうとう反逆者の頭目はしかたなくペリシテ人たちのなかに逃げ場を求めざるを得なくなった。かつてかれらと
の戦闘で名をあげた当の相手陣営のなかに、である。かれがツィクラグでガトの王に保護されて暮らしているころ、
サウルは、ヨナタンとさらにべつの二人の息子たちとともにギルボア山の山腹での戦いに斃れた。国の心臓部深くに
まで侵入せんとするペリシテ軍を阻止しようと無駄な努力のさなかだった。
︵三︶ 亡き王の跡を継いだ︵親族アブネルの献身的な働きによって︶のは、生き残った息子の一人エシュバアル
だった。先ごろの大災厄の結果として国の大部分はまたもペリシテ人の支配に屈するところとなった。そのため王宮
は行政の座とともにヨルダン河の向こうマハナイムに移された。そこでは何年も前のサウルの勇敢な偉業の記憶がい
まなお人々の脳裏に強く刻まれていたのである。他方ダビデは、サウルの死をあらゆる文学作品のなかでもっとも感
動的な哀歌の一つにおいて謳い嘆き悲しみながらも、ぐずぐずしてその死が与えてくれた好機を逃がすようなことは
なかった。かれはただちに老練な古参兵たちを引き連れて再び故国に入り、ヘブロンを奪還した。そこにペリシテ人
の援助があったことはまず間違いない。自分たちの敵が内部分裂によって弱体化するのを見るのは歓迎するところ
だったからだ。ユダヤ部族民たちはダビデを新たな指導者と崇めた。かれらにダビデを王と認めるよう説得する必要
はほとんどなかった︵紀元前一〇一三年︶。
ダビデの野心は、かれの権力を承認した南端の狭隘な地域だけで満足させられるには大き過ぎた。かれはエシュバ
アルの無力な支配のもとで人心の落ち着かない北方の地に熱い視線を送った。両者の間に当然のことながら衝突が起
き、それはエシュバアル暗殺で終止符を打った。ゆっくりと、そしていくらか不承不承ながらも、北の諸部族はいま
や忠誠心をダビデの方へ移していった。こうしてかれは全イスラエルに君臨する支配者と認められたのである︵紀元
前一〇〇六年︶。
その治世の大きな成果といえば、政治面ではペリシテの力の粉砕であった。すでに再度の侵入に全土が巻き込まれ
そうな危機にさらされ、ダビデも首都を追い払われていた。しかしサウルと違ってかれは武力というものに、あるい
は股肱の臣下に全面的に頼るということをしなかった。攻撃に対してかれは他国との同盟で応え、さらに、よく訓練
されたペリシテ軍と戦わせるべく傭兵を軍籍に加える。︿レファイムの谷﹀での二度の勝利のあと、国は侵略者から
解放され、戦場は敵方領土内へと押し返された。過去百年にわたってイスラエルを威嚇し続けた五つの都市からなる
都市連合の一員ガトの町の奪取で、戦闘は終わった。これ以後ペリシテの脅威は過去の物語となった。
この勝利のあとすかさずいくつもの国外遠征が相次いで行なわれる。ダビデは南のエヂプトおよび北のアッシリア
の一時的な国力衰退につけこんで強力な一大辺境王国を築き上げた。かれの部下、歴戦の古強者たちは破竹の勢いで
進撃した。ダビデは戦いに次ぐ戦いによって隣接諸国家からみずからの国境を確保していった。アンモン人のもとへ
遣わした使節団が侮辱的な待遇を受けたことを口実に、報復の遠征を行なって決定的な勝利をかちとる。包囲してい
るアンモン人の首都ラバに増援部隊を送るなか、北へ向ってユーフラテス河まで数珠のように繋がった多くの弱小属
国からなるアラム人連合を打ち滅ぼす。ヘブライ兵の駐屯地がダマスコに置かれる。モアブとアマレクを︵後者につ
いては、いまようやく︶征服し、エドムの地を併合した。非イスラエル系入植者の一つないし二つの飛び領地、以前
からずっと国民の一体感を阻害し続けてきたこの飛び領地を武力で奪い取り、こうしてユダを北方諸部族から切り離
していた細長いエブス人の土地の最後の一片も呑みこむ。ハマトやティルスのような強力な隣人と同盟を結ぶ。ダビ
デの権力は、南はエヂプトの国境地帯およびアカバ湾から北はユーフラテス河両岸にいたるまで、すべての人々の認
めるところとなった。 歴史上国境とされる地域の内側で、行政の大改革が行なわれた。サウルにとってはまさに政府の所在地そのもので
あった軍隊の野営地は、その欠点も利点もともども取り込んだまま法廷と化した。国家公務員の長々しい名簿を見れ
ば、新しい体制の、必ずしも機能の効率ではないにしろ、構築の苦心のほどはあきらかである。兵役制度は外国人傭
兵隊の常備軍を核とする形に改められ、文官勤務の方も改編されて細部にいたるまで入念に組み上げられた。祭司職
すらその改組に大鉈が振るわれた。支族のゆるやかな連合体であったものが強力に中央集権化された王国に改造され
ていったのである。
しかしながらダビデの樹立した君主制は、その精神において、こんにちのわたしたちなら立憲君主制と呼ぶであろ
うものであった。ヘブライ民族はそもそもの出自を遊牧の民アラム人に負っていたが、その遊牧民アラム諸部族の民
主的な感覚が依然として強く残っていたのである。君主の権利は世論によって制限され、世論は何の心配もなく声に
出して言うことができた。王と臣民の間に、圧制を憎み不正を容赦しない神の援けを得て履行される﹁契約﹂という
基本観念があった。そこには伝統的にオリエントの支配者を連想させるあの放逸なる絶対主義のかけらも見出せな
い。王が臣下の誰かあるものの妻女に烈しい恋慕の情を抱いたことがあったらしい。だがかれはあえて彼女を夫から
強奪しようとはせず、口実を設けて夫をひそかに始末させた。この事実そのものが、王みずから自分の権利に課され
た制限を認めていることをあきらかにしている。民衆の代表者がかれの行為を烈しく糾弾したとき、かれは返答に窮
しながらも憤りの色を表に出しはしなかった。このエピソードやこれに類する他の逸話から、かれが王の特権といえ
ども厳しく制限されているのだと認めていたことは明白である。後継者たちの時代になってもわたしたちはこの状況
に変わりのないことを知るだろう。 最終的には支配者と臣下との間に結ばれた協定に基礎を置きしかも支配者の権利が世論と倫理的制約に制限され
た君主制、というこの考え方は、人間の思想の歴史上きわめて重要な意味を持っている。なぜなら、それは十七、八
世紀にあらためて研究され、遠い過去から蘇えらされ、模倣されて、近代ヨーロッパとアメリカにおいて立憲制とい
う観念が成熟するのを援け、そのことによって人類の運命の方向付けに測り知れないほどの重要な役割を演じたから
である。
新生国家にはまだ中心が欠けていた。ダビデによって攻略された町のなかに、自然がつくる国境線の内側にあって
目的に理想的と思われる町が一つあった。エルサレムである。町は国の中央に位置していた。かつてどの単一部族に
も所属したことのない町だった。三方を断崖絶壁で囲まれているという地理的条件のためほとんど難攻不落の地勢で
ある。通信と交易の重要な幹線道路がすぐ傍を走っていた。なにより、その町はダビデ一族の征服したもの、ほとん
ど創造したものであった。かれは自分の新しい首都に全精力を惜しみなく注ぎ込んだ。要塞を拡張してシオンの丘を
内に取り込み、こうして防壁の内側に囲い込んだ部分を﹁ダビデの町﹂と呼んだ。かれはまた贅の限りをつくした王
宮を建造し、そこへ、古くから引き継がれてきたあの︿イスラエルの神﹀を納めた社 やしろを遷した。さらに、その社 やしろを安
置すべく壮麗な神殿の建築準備にかかった。ダビデの治世からこんにちにいたるまでエルサレムとシオンの山は、ヘ
ブライ民族の中枢部にいる人々にとってつねに、必ずしも政治的な忠誠の中心ではないにしろ心情的なそれではあり
続けたのである。
治世の終盤は波乱に満ちた騒々しい日々だった。王室はオリエントの伝統と王の極度に繊細な性格の両方に従って
いたために、たえず残虐行為と嫉妬と血族内の不和を生む温床となった。ダビデ自身も絶え間なく続く苦闘と苦難の
生活に心身をすり減らし、歳若くしてすっかり老けこんでしまった。それぞれに母親の異なる息子たちはすさまじい
内部抗争を繰り返し、そのため王家自体が血の海に染まった。ついに王自身の息子アブサロムが突然叛旗を翻すにい
たる。近年の改革が人口の大部分にとってあまりに急激に過ぎたのである。全国民が、だからアブサロムの旗の下に
どっと集まった。新首都が占拠される。ダビデもみずからヨルダン河の彼方に難を逃れざるを得なくなり、護衛の忠
節によってやっとのことで完全な破滅から救われた。その後の戦闘でアブサロムは斃れ、それによって勝利の栄光は
露と消えた。
その後ほどなくしてダビデは死んだ。亡命生活からもどってユダの王になってから四十年が、そしてかれの絶対的
権力がイスラエルの他の諸部族によって承認されてから三十年が経っていた。古代史上わたしたちがかれ以上に親し
く知っている人物はほとんどいないのではあるまいか。わたしたちには一人の勇猛果敢な若者が雄雄しく情熱的な壮
年に成長し、非情で打算的な老齢へと変貌してゆくさまが見える。わたしたちには﹁イスラエルの甘き歌声﹂と謳わ
れた天分豊かな抒情詩人がときに堕落のどん底にまで落ちてゆく姿が見える。しかしそこに同時に見えるものは、人
を惹きつけて止まない率直さであり、おのれの罪過を潔く認める能力であり、事の最後には倫理規範に身を委ねよう
とする誠実さである。それらがかれのもっとも破廉恥な不行跡にすらなにかしら情状酌量の余地を与えたのである。
さらに言えば、ダビデの才能は類まれなものだった。かれの民が特別の愛着をもってかれを自分たちの胸の奥深くに
永遠に銘記しようと心に決めたとき、それは単に王家の血筋の始祖としてのかれでもなければ、また多くの抒情詩の
書き手とされているかれでもなかった。もしもかれの時代以前のヘブライ人の歴史が八幡の藪知らずのような迷路で
あり、しかしかれとともに筋道を見出し繋がりを持ち始めたとするなら、その理由はなによりもかれの行動力と天賦
の才にあった。かれはイスラエルを互いに相戦う諸部族を寄せ集めた集団と見た。かれはその集団を強力な、そして
差し当たり連合体の観を呈した民族集団に仕立て上げたのである。
︵四︶ 死の床でダビデは、まだやっと幼少期を抜け出したかどうかという末子のソロモンに油を注いでかれを後
継者とするよう命じた。新しい支配者は、その治世の幕が上がった瞬間どっと押し寄せてきた不平不満の波に直面す
るが、厳しい手段でこれを押さえ込んだ。それ以後はかれの支配はおおむね穏やかであった。伝説はこんにちまでソ
ロモンを人間の叡智の典型として記憶してきた。これはたぶん王国の利益の追求に父王が武力を用いたのに対して、
かれは主として政治的手腕に拠ったという事実を高く評価するところからきているのだろう。それは深い平和の時代
だった。アフリカとアジアを、そして最終的にはヨーロッパをも結ぶ幹線道路としてのパレスティナの地位が、こう
してこれまでよりいっそうくっきりとした輪郭をもってあきらかになってきた。ダビデはいくたびかの軍事行動でア
カバ湾北端のエツヨン・ゲベルの占領に成功していた。ソロモンはこの占有地の価値を十分に心得ていた。当時地中
海とインド洋を結ぶスエズ運河はなかった。しかしエツヨン・ゲベル、あるいは隣接するエイラトはインドおよび極
東へ向う船荷の集積地点だった。この地とパレスティナとを同時に所有するかれは、三つの大陸を繋ぐ橋を制してい
たわけである。
イスラエルの君主は南におけるみずからの地位をエヂプトとの同盟によって強化し、エヂプトの援けを借りて、い
まだに残っていたカナン人最後の要塞都市でありかつ近東の大商業都市の一つであったゲゼルを領土に加えた。かく