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ユダヤ古代史 : シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史 』―抄訳(2)

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(1)

』―抄訳(2)

著者 山本 雅昭

雑誌名 言語文化

巻 14

号 1

ページ 109‑126

発行年 2011‑08‑25

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012490

(2)

ユダヤ古代史

シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳( 2 )

山 本 雅 昭

第三章 サマリア王国

(一)   ヘブライの伝統が生き延びたのは南の王国すなわちユダ王国にお いてであった。そのおかげでそれはわたしたちの時代にまで伝えられてきた のである。ヘブライ語聖書に北諸部族の詳しい歴史を組み入れたことによっ てこの事実はともすれば曖昧になりがちである。ことをはっきりさせるため に、まずはいわゆる『イスラエル王国』のあまり内容のない記録を終わりま で辿り、それから歴史の本流へ戻ってその堂々たる流れに沿って大河を降っ ていくのがいいだろう。

 ユダ王国ではダビデ王朝がすでに人心をしっかり掌握することに成功して いたため比較的静穏な国情であったのと対照的に、イスラエル王国はつねに 不安定な状態にあった。部族相互の果てしない嫉妬があった。一人成功した 将軍が出ればそれはすなわち王権を脅かす危険人物だった。王国が存続した 二世紀の間に十九人の君主が北の王国を支配している(南部王国の場合の一・

五倍)。多くはたった二年の統治期間であり、いくらかはせいぜい数ヶ月、

一人などは七日間しか玉座にいなかった。かれらのうちの少なくとも半数は 非業の死を遂げた。たいていは後を襲ったものの手にかかっている。後継者 が自身の息子であった例は少なく、二代以上続いた王朝は二つしかない。

 ヤロブアムは、過去二代にわたる治世の間にエルサレムが演じるように なった支配的な役割、首都としての名声が産んだ結果としてだけでなく国家 の神殿の所在地であるという事実の賜物でもあるその支配的な役割に、なに か感じるところがあったのかかねて注目していた。かれはことの本質がなか

『言語文化』14-1:109−126ページ 2011.

同志社大学言語文化学会 ©山本雅昭

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なかよく見えていたらしく、エルサレムが後者の理由から恣にしていた尊敬 を根元から掘り崩しにかかった。かつてエルサレムへとのぼって行った巡礼 者の足の向きを変えようと、そしてまたかつてユダヤの首都が一身に集めて いたあの民衆の忠誠心をいくらかなりともこちらに惹きつけようと、自分の 王国の両端ダンとベテルにエルサレムに対抗する至聖所を建設した。同時に この分離主義者の王は大衆の弱点に譲歩をした、あるいは譲歩を永続的なも のにした。これらの至聖所のなかに金メッキを施した牡牛の像を据えたのだ。

それはじっさいは偶像崇拝の再導入を目論んだものではなく、牡牛像はイス ラエルの神を具体的な形で表そうとするものだった――「見よ、イスラエル よ、これがあなたをエヂプトから救い出されたあなたの神である」と。しか しこのことが必然的に一神教の観念の厳格さを殺ぎ、民族の特殊性をなにほ どか変えることになったのである。結果はやがて数年のうちにあきらかにな る。

(二)   ヤロブアム(二十一年の治世ののち紀元前九一二年没す)のあと 傑出した統治者は一人か二人しか現れていない。オムリ(紀元前八八七年〜

八七六年)は、内乱のあと八八七年に玉座に上った王だが、精力的で先見の 明のある君主であることを身をもって示した。かれは首都を、多くの先王た ちにとって疫病神のごとく縁起の悪い地であった古都シケムから、北西に六 マイル離れた新天地、サマリアと呼ばれていた地に遷うつした。以来、王国全体 がしばしばこの名で知られている。自国の商業を発展させるために、加えて 台頭してきた強国ダマスコの王国から身を護るために、かれはフェニキア人 と同盟を結び、テュロス王の娘イゼベルと我が息子のアハブとの婚姻によっ てこれを強化した。

 オムリの政策が実を結んだのはアハブの治世(紀元前八七六年〜八五三年)

に入ってからのことである。王の外国との同盟がもたらした、しかし同盟本 来の目的とは無関係の影響の最たるものは、テュロスからバアル神(または メルカルト神)崇拝をその最も野蛮な形で、つまり人身御供という付随物と いっしょに輸入したことだった。女王イゼベルは伝統的なヘブライの君主制 観念とまったく相容れない絶対主義の思想を導入した。正義は地に堕ち、王

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の不運な隣人ナボトがその葡萄園と命とをいちどきに奪われた話は民衆の心 に拭いがたい印象を与えた。

 政治的軍事的観点から見るならアハブの統治は最後までおおむねうまく いった。アッシリアの勢力の伸張にもかかわらずダマスコの王国との諍いは 続いており、幸運は往ったり来たりであった。国境侵犯の絶えることがなく、

時にはシリア兵の一団が国の奥深くにまで侵入してくることもあった。つい に全面戦争が始まった。二度手ひどい敗北を喫したあと敵王ベン・ハダドは 和を請うてきた。しかし結局戦争行為は再開され、紀元前八五三年アハブの 方がラモト・ギレアド奪還戦のさなかに斃れる。かれの跡を順次二人の息子 アハズヤ(紀元前八五三年〜八五二年)とヨラム(紀元前八五二年〜八四三 年)が継いだ。しかしサマリアで全権力を掌握していたのは相変わらず皇太 后イゼベルであった。守旧派は異国風の横行と誰の眼にもあきらかな宮廷の 不正とにたえず新たな敵意を燃やし続けたが、ついにヨラムの将軍たちのな かでもっとも勇ましいイエフに眼をつけ、かれをそそのかして玉座を狙わせ た(紀元前八四三年)。それは宗教革命でありかつ政治革命だった。オムリ 王朝は完全に壊滅させられ、バアル信仰の信奉者たちは情け容赦なく皆殺し にされた。

(三)   イエフ王朝は父子が五代にわたって王位を継承し、きっちり百年

(紀元前八四三年〜七四四年)続いた。北王国史上空前の記録である。新王 家は強大化するアッシリアの勢力に対抗して結成していたシリア国境諸国連 合に留まる考えを捨て、大王と友好関係に入った。そのためそのころ同時に シリアで力を得てきていた新しい王朝の、もともと買わなくてもすんだ敵意 をことの成り行き上買うことになってしまった。アッシリアの注意が一瞬よ そに向けられたのに乗じてダマスコのハザエルが怒りの矛先を南の隣人に向 けてきた。敗北につぐ敗北だった。ついにイエフの息子ヨアハズの治世中(紀 元前八一六年〜八〇〇年)サマリアじたいが封鎖された。もっとも敵の野営 地内に突然起こったパニックによって辛うじて落城を免れはしたのだが。

 イエフの曾孫ヤロブアム二世(紀元前七八五年〜七四五年)のとき、短く はあったがかつての黄金の日々が戻ってきた。国内に抱えていた弱点がもと

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でアッシリアの前進がつかの間止まった。ダマスコはもはや容易ならぬ競争 相手ではない。イスラエルはシリア群小国家群中最強国になり、ダビデとソ ロモンの時代同様その威光は広くオロンテス河から紅海にいたるまでの隣接 諸地域に及んだ。再びヨルダン河の両岸を走る大隊商路がイスラエルの管理 下に置かれた。貿易と産業が復興する。厖大な富の流入が国を潤し、そして それに呼応するように奢侈の空気が瀰漫しだした。やがてこれが預言者アモ スとホセアに糾弾される道徳的宗教的な悪を生み出す。二人の預言者の活動 についてはのちの章に譲ろう。

 しかしイエフ王朝は始まりと同様終わりもまた流血だった。ヤロブアムの 息子ゼカルヤが紀元前七四四年暗殺者の手にかかって果てると、国は半無政 府状態に陥った。続く十年の間に五人の支配者が入れ替わり立ち代り玉座に 上ったが、そのうち自然死はただ一人である。南のエヂプトと北のアッシリ アはイスラエル国内にそれぞれ息のかかった連中を養い、廷臣たちの陰謀を しきりに煽っていた。ペカ・ベン・レマルヤはエヂプト派の画策した謀反の 結果として紀元前七三六年即位した王だが、かれの時代にダマスコとイスラ エル、それにペリシテ人とフェニキア人のいくつかの町も加わって対アッシ リア連合が結成された。連合は電光石火あっけなく蹴散らされた。イスラエ ルはギレアドと北部の諸州を奪われ、その地の住民はすべて強制移送された。

ペカ自身も反対派によって退位させられたうえ殺され(紀元前七三六年)、

かれを刺した暗殺者ホシェアが代わって王位に据えられた。ダマスコが二年 間にわたる包囲攻撃ののち落城して(紀元前七三二年)ここにようやく積年 の競争相手との確執に終止符が打たれたが、だからといってそれはなんの慰 めにもならなかった。なぜならイスラエルと北の超大国の怒りとの間を遮断 するものがいまやなに一つなくなってしまったからである。

(四)   支配者の交代とアッシリアの関心が一時的に北方に向けられたこ とだけでホシェアにとっては充分だった。この機にかれは、完全な独立を勝 ち取ることに望みをかけて、エヂプトの誘惑の前に思い切ってその提案に乗 ることを決意する。時のファラオとの間で話をつけたうえで、毎年アッシリ アに厳しく取り立てられてきた貢ぎ物の納付をやめた。まるで挑発行為だっ

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た。報復はすばやく、苛烈であった。シャルマナサル五世は軍隊を率いて凄 まじい勢いで南下してきた。例によって例のごとく、エヂプトが約束してい た援助は来なかった。ホシェアは捕らえられて牢につながれ、そして結局は おそらく処刑されたはずである。サマリアじたいも包囲された。ひと月また ひと月と町はどうにか持ちこたえていた。地の利の強みと要塞の堅固さの、

それは証しだったが、三年にわたる包囲攻撃ののちシャルマナサルの後継者 サルゴンの手で町は落ち、破壊しつくされた(紀元前七二一年)。アッシリ アの冷酷無情の、しかし一定不変の政策に従って、貴族階級と富裕な市民を 含むより利用価値の高い住民はすべて帝国内の遠境へ拉致された。先祖伝来 の嗣業の地との縁を断ち切られ他民族と混ぜ合わされて、かれらはここで帝 国への忠誠心をしっかりと植えつけられていくのである。

 数年後(七一五年)地方に起こったさらにもう一つの叛乱のために同様の 報復がたぶんもう少し大きな規模で繰り返された。サマリアはアッシリアの それぞれ総督が支配する属州の一つに再編成され、新たに置かれた駐留軍は 中央管区が送り込んだ外国人入植者たちによって強化された。かれらがパレ スティナで果たした役割は、そっくりそのままパレスティナ人国外追放者た ちがよその地で要求されたものでもあった。

 結局かれら新入植者たちは土地の原住民と雑婚し、一部その伝統を吸収も する。こうしてここにのちに首都サマリアの名に因んでサマリア人として知 られることになる新しい民族が誕生する。かれらはユダの隣人たちと血と文 化においては兄弟であったが政治的利害では絶縁されており、自分たちが奪 い取った土地の先の持ち主であるヘブライ人とは精神的にしろ肉体的にしろ どちらか一つによってでも完全に同族であると看做すことはできなかった。

遠隔の地に拉致された人々も、移住させられた土地の諸々の民族の間に溶け 込んでしまうか、あるいはそうでなければそこで出遭ったユダヤの親族と同 化していつしか自らの民族的個性を喪失していった。たしかに何世代にもわ たって多くの個人がその出自を昔のイスラエル諸部族のあれこれにまで遡っ て確かめることができたが、しかし北王国の政治的独立と精神的独自性はも はや過去のものだった。これ以後民族意識のなかで最も特徴的で最も生気に あふれたものはすべてユダ王国に集まることになる。

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第四章 ユダ王国

(一)   姉妹国ユダ王国に関する記録はイスラエルのそれとは大きく異な る。ユダはおおむね静穏でさしたる波乱もなく、全般的に少なくとも内紛に 掻き乱されるようなことはついになかった。ダビデ家はつねに偉大なる先祖 の世継ぎに事欠きはしなかったし、北王国であれほど日常茶飯のことであっ た王位継承争いもこちらでは王国最後の日まで一部の例外でしかなかった。

 そういうわけで王朝は、いつの世にも完全には根絶できない国民感情を しっかりと掌握し支配することができた。その一方で南王国の歴史は政治的 にはとくに取り立てて言うべきところのないものだった。ただしこの政治的 にはさっぱり見映えのしない舞台を十二分に補って余りあったのが、人類の 歴史上王国が演じた決定的に重要な役割である。パレスティナは全域でもお およそニューハンプシャーほどの広さしかなく、ユダの領土はせいぜいその うちの二、三州を併せた程度である。しかしそのちっぽけな版図こそはユダ ヤの民族とユダヤの宗教とを育んだ地なのであった。そしてそこから、アテ ネとローマの思想とともに人類の文明の形成に圧倒的な力を揮った諸々の観 念が生まれ出たのである。たとえこれらの観念を内に秘めた文学のいくらか がその出自をサマリア王国に尋ねることができるとしても、それらがやがて 人類の共同遺産となるべく保存し発展させたのはユダ王国であった。

 ユダのレハブアムの治世(紀元前九三三年〜九一七年)とそのすぐあとに 続く王たちの時代はおおむね分離派たちとの戦いに明け暮れた。武運の消長 しだいで征服戦争にもなれば独立戦争にもなるといった戦いだった。初めは じっさい北の謀反はすぐにも挫折するかに見えた。首都をヨルダン河の向こ う側へ遷うつすところまで追い込まれたヤロブアムはエヂプトに援けを懇請し た。エヂプトではかれは亡命時代そこに身を寄せていたことからよく知られ ていたのである。第二十二王朝の初代ファラオあるいはリビア王朝の創始者 シシャク(シェションク)がエルサレムの門の前に姿を現した。巨額の賄賂 で抱き込むしか手はなかった。

 レハブアムの後継者たちの時代も争いは続いた。父が築いた国の軍事的地 位を確保するために息子のアビヤム(紀元前九一七年〜九一五年)はダマス

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コの王国と同盟を結んだ。さしあたり策は成功した。そしてアビヤムの嗣子 アサの長い治世(紀元前九一五年〜八七五年)の間にようやくユダの独立は 確固たるものになったのである。

(二)   アサの息子ヨシャファトの時代(紀元前八七五年〜八五一年)に なって隣り合う両国の関係は、力では南が依然として北よりはっきりと劣っ てはいたものの、ずいぶんと好転した。次期王位後継者に決まっているヨラ ムがアハブとイゼベルの娘アタルヤと結婚した。そうした事情のもとではイ エフの指導する政治的宗教的革命にユダが捲き込まれたとしてもなんの不思 議もなかった。そのときはヨラムの子のアハズヤ(紀元前八四四年〜八四三 年)が全軍を率いてラモト・ギレアドまで追撃の手助けに出張った。かれは 命からがら逃走したが、途中叛乱軍の将に追いつかれ致命傷を負った。

 その知らせがエルサレムに届いたとき政権を握っていたのは皇太后アタル ヤだった。かのじょは精力的で、破廉恥で、国外にいる同族の利害しか頭に ない正真正銘イゼベルの娘だった。自分の地位を護るために王家の胤をこと ごとく葬り去り、自身の孫さえも殺した。権力を揮って六年、しかしついに 反動はきた。大祭司エホヤダは婚姻関係によって王室と結ばれていたが、か れが謀叛を企てたのだ。アタルヤは処刑されて、アハズヤの七歳の息子、幼 いヨアシュが玉座に据えられた。

 こうなると新しい王の長い治世(紀元前八三七年〜七九八年)がいずれそ の初期の段階で祭司勢力の勝利と伝統的な宗教価値の復活をその眼で確認す ることになるだろうことは初めから容易に知れたことだった。アタルヤが導 入したバアル神崇拝は禁じられ、神殿関連の建造物が公募寄付によって修復 された。外交問題では国は北王国の一時的な衰退のために苦しんだ。北に対 する従属関係がなお続いていたからだ。パレスティナの政界で圧倒的な力を 誇るようになっていたダマスコのハザエルが、あるときの遠征でガトの町を 落としさらにその足でエルサレムへ進軍の構えを見せた。結局かれに莫大な 賠償金を払うことでようやく軍を引くことに同意してもらった。この不幸が おそらくはその後まもなく起こったヨアシュ暗殺の引き金になったのであろ う。息子のアマツヤ(紀元前七九八年〜七八〇年)はより力強い政策を採ろ

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うと考えた。成功裡に終わったエドム遠征に勇を得たかれは思い切ってサマ リアに対する臣従の義務を破棄しようとしたのである。しかし結果はしたた かな敗北だった。首都は攻め落とされ蹂躙された。ユダのサマリアに対する 政治的従属は、これまでは憶測上の問題の域を出なかったが、これ以後疑う 余地のない事実になった。アマツヤの治世が側近によるクーデタで終焉を迎 え、またそれでかれが命を落としたことも少しも不思議ではない。

 アマツヤの後継者ウジヤすなわちアザルヤの治世(紀元前七八〇年〜

七四五年)はかなりの年月にわたってイスラエルのヤロブアム二世の治世(紀 元前七八五年〜七四五年)と重なる。かれの時代の終わり近く、祭司団との 間に烈しい争いが起こった。休むことを知らぬ改革への情熱からかれが祭司 の職権を奪おうとしたためである。この点を除けばウジヤの政策は精力的な 嗣子ヨタムによって忠実に引き継がれた。ヨタムは父の最後の数年間摂政と して政務を司つかさどっていた。

 紀元前七四五年ヤロブアムが死に翌年イエフ王朝が暴力に倒れると、どう やらユダはすぐさま隣国に対する臣従の義務を清算したらしい。ユダ国は、

サマリアとダマスコの間で結ばれついにあのような悲惨な結果に終わること になる反アッシリア連合に、与くみしなかった。新しい統治者アハズ(紀元前 七三五年〜七二〇年)に思い知らせるべく北の二つの王国はエルサレムに向 けて討伐隊を送ってきた。この地に自分たちの傀儡王を立てるつもりだった のだ。アハズは、補佐官のうち最も賢明なものらのなかには自信を持って泰 然自若としているものもいたにもかかわらず、すっかり怯えきってアッシリ アに援けを請うた。干渉に口実などほとんど必要なかった。侵略者たちは猛 攻を受けて北から蹴散らされた。ダマスコはすでに見たとおり城攻めをかけ られて結局攻め落とされ、サマリアは北方の諸地域を奪い取られた。ユダ自 身は、名目上の独立を維持している数少ない辺境国家の一つとして、これ以 後王国ながら朝貢国と看做されることになる。

(三)   アハズは十分長く生きてサマリアの崩壊(紀元前七二二年)をそ の眼で確かめたあと、二年後に死んだ。競争相手だった王国の没落なのだか らユダはふつうなら大いに歓喜したところだろうが、いまや自身がアッシリ

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アの力と真正面から向き合わねばならぬという現実に手放しに喜んでいるわ けにはいかなかった。ユダは今後アッシリアとエヂプトの間に立って両者を 分ける唯一の緩衝国になるのだ。アッシリアの眼が飢えた狼のようにエヂプ トをひたと見据えていたからである。両大国を結ぶ道路がパレスティナのな かを走っていたためこの地がこれから始まる戦争の戦場になった。毎年のよ うにアッシリア軍指揮官たちの率いる大軍団が国土を荒廃させた。戦いの主 要な呼び物が舞台に掛けられるのは、ユダの支配者ヒゼキヤのなにかと騒々 しくはあったが汚点らしき汚点のなかった治世(紀元前七二〇年〜六九二年)

に入ってからである。長い間かれは南の諸国がエヂプトの支援を受けてつ くっていた連合体に加わる誘惑にじっと耐えていた。だが紀元前七〇五年セ ンナケリブの即位と同時にバビロンからほとんどナイル河にいたるアッシリ ア帝国全土にわたって勃発した全面的な叛乱に背中を押された形で、ついに 思い切って政策変更に踏み切った。パレスティナの雑多な支配者たちからな る連合組織の主要な成員の一人になったのである。

 さっそく報復が始まった。これがアッシリア軍が『羊の群れに躍り込んだ 狼のように』暴れまわった世に名高い事件である。センナケリブは海岸沿い のフェニキア人都市を次々と攻略し、エルテケでエヂプト軍を打ち破り、弱 小君王のいく人かの帰順の申し出を許し、そしてユダに進入した。要塞が一 つまた一つと門を開いていった。支払い不可能な賠償金が要求され、王側近 の副官ラブ・シャケの率いる部隊が首都包囲のために送られてきた。エルサ レムはほとんどサマリアと同じ運命を辿るかに見えた。しかしなんらかの不 可解な理由から方針が変更された。エヂプトとの間に急遽講和が結ばれ、塹 壕を巡らせてエルサレムを包囲していた軍隊が引き上げたのだ。首都および 国は救われた。続く戦闘でセンナケリブは南部パレスティナを征服しヒゼキ ヤからも領土の一部を奪いさえするが、エルサレムは二度と再び脅かされる ことはなかった。のちの世の人々には、この救済は、かつてエヂプト捕囚か らイスラエル人の自由を護った超自然の手の介入に次ぐまさに再度の超自然 のなせる業に他ならぬとしか思えなかった。

 ヒゼキヤの息子マナセの長い治世(紀元前六九二年〜六三八年)の間じゅ うアッシリアの宗主権は続き、ついにはマナセが眼を瞑るまえにエサル・ハ

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ドンの指揮のもとアッシリア軍機関によってエヂプトが占領されるという事 態にまで立ちいたる。ユダの政治的従属は知的な領域にその影を落とした。

異国の社会的宗教的影響は国民の保守的な層には芯から不快なものであった ろうが、しだいにしっかりと爪を食い込ませていった。地方の旧い聖所が復 活し、人身供犠が実践され、当時流行っていた外国の祭式がエルサレムの神 殿じたいにまで導入されたのである。

 国内の党派間の軋轢と政策を巡る争いはいまやますます烈しくなった。マ ナセの跡を襲ったアモン(紀元前六三八年〜六三七年)はその治世の二年目 に自身の側近くに仕えていた召使の手にかかって死んだ。革命を企てたもの らは『土地の民』すなわち地主貴族階級によってまもなく鎮圧され、貴族た ちは亡き王のまだわずか八歳になったばかりの若い息子ヨシヤ(紀元前 六三七年〜六〇九年)を王位に即けた。摂政政治の間、現ステータス・クオ状維持の政策がと られた。ところがヨシヤが成年に達したとき愛国的な反動が起こった。神殿 が補修されるとともに過去何代もの王の治世の間ずっと祭儀を侵害し続けて きた異国風が神殿から一掃された。そして、補修工事の最中に『律法の書』

が発見された(一二六頁参照)。この出来事は、唯一合法的な聖所はエルサ レムにあるという考えを大いに鼓舞し、このことがあらためていま一度全国 民に告知された。王国のその他の地で「高台」に置かれていた地方の神殿が 廃止され、エヂプトからの解放を記念する過越しの祭がかつて例を見ないほ どの熱狂的な愛国心の盛り上がりをもって盛大に執り行なわれた。

 これに引き続いて国家の独立をここでもう一度宣言し直すという決然たる 試みがなされる。国家の独立は過去四代の治世の間にすっかり色褪せてし まっていたのだ。政治的情勢も味方した。すでにこのときアッシリア帝国は 北方からやってきたスキタイとキムメリオスの遊牧武装民の襲撃に致命的な 打撃を蒙っており、バビロニアの王子ナボポラッサルがメディアと手を結ん で叛旗を翻していた。かれらの前にアッシュールが紀元前六一四年に、そし てニネヴェじたいもヘブライの預言者たちの狂喜の嵐のなかで紀元前六一二 年に陥落した。勢力図の新たな書き換えにヨシヤは希望を託した。六〇九年 ネコ率いるエヂプト軍がアッシリアを援けて叛徒討伐に押し出してきたと き、かれら叛徒たちとユダとの間にすでにずっと以前から外交関係が開かれ

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ていたこともあってヨシヤはエヂプトの進軍を食い止めようとした。メギド の戦いでかれは一敗地にまみれ致命傷を負う。いまや暗雲いよいよ厚く空を 覆い始めた。

(四)   ヨシヤの家族は父の先を見通した上での、しかし不首尾に終わっ た政策に高い代償を払わされた。民衆の声がすでに第二子のヨアハズを王位 に即けていた(ヘブライ君主国の基本的に民主的な性格を語るにこの事実以 上の論評はない)。かれは父の路線を継承しようとしたが、数ヵ月後アッシ リア=エヂプト同盟によって王位を剥奪され、鎖に繋がれたままエヂプト送 りとなり、そこで死んだ。ヨアハズに代わって無節操な兄ヨヤキムが、その 同盟寄りの姿勢に十分な信頼が置けるとして王位に即けられた(紀元前 六〇八年〜五九八年)。再び反国民的政策がとられることになり、愛国心を 説いて国家の堕落を烈しく糾弾していた人々は身の危険にさらされた。しか しネコの援助には同盟国を救えるほどの力のないことがはっきりしていた。

エヂプト軍は結局ユーフラテス河を渡ろうとしてカルケミシュで撃滅される

(紀元前六〇五年)。二、三ヵ月のちにアッシリアは滅んだ。そして新バビロ ニア帝国の法定推定相続人であり遠からず王となるネブカドネツァルが、中 東を支配する軍事的巨魁として舞台の前面に姿を現わしてきた。

 外部事情からやむなくヨヤキムは強国の宗主権を認めた。そもそもそれに 対抗すべくかれは王位に即けられたはずだったのだが。三年後、しかしかれ は忠誠の義務を放擲した。まず寄せ集めの不正規軍外人部隊が、次にネブカ ドネツァル率いる正規軍が相次いでやってきた。騒乱のなかで王は斃れ、代 わって息子の十八歳の若者ヨヤキン(紀元前五九八年〜七年)が王に立てら れた。抵抗が無駄だと見てとったヨヤキンは寛大な処置を求めて自ら敵の軍 門に降ることにした。かれはただちに捕囚となって、何千人もの貴族や祭司 層、中流階級の民とともに、神殿と王宮両方の財宝ぐるみ、しかし意気揚々 とバビロンへ送られていった。

 バビロニアの支配者は処罰をほどほどのところに留めた。数年間かれはユ ダを属国ではあるが半独立の君主国として存続させようとできるだけのこと をし、ヨヤキンの後釜にはかれの叔父、ヨシヤのもう一人の息子ゼデキヤ(マ

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タンヤ)を据えた。だが意志薄弱のこのお人好しは裏切った。裏切りは完膚 なきまでに叩き潰される。バビロンへの忠誠を守り通すという正式の誓約に 縛られていたゼデキヤであったが、やがてエヂプト同盟ということをちらち らと考えるようになり、ついにバビロニアの支配に対抗すべく形成された成 立間もない南部連合に加担した。紀元前五八八年から七年へかけての冬、ネ ブカドネツァルがまたもやエルサレムの城壁の前に姿を現した。エヂプト軍 の進撃に町は当座救われた。包囲が一時中断され主戦派は大いに希望をふく らませたのである。しかしよく訓練されたバビロニアの軍隊は難なくエヂプ ト軍を撃破し、紀元前五八七年から六年にかけての冬、テベトの十日に封鎖 が再開された。六ヵ月後、タンムズの十七日(この日はこれ以後前述のテベ トの十日とともに国民的断食日となっている)、城壁に突破口が穿たれた。

ゼデキヤは抵抗ももはやこれまでと悟って逃亡を図ったがエリコで捕まっ た。目の前で家族と廷臣たち全員が虐殺され、そのうえでかれ自身も両眼を くり抜かれ鎖に繋がれてバビロンへ引っ立てられていった。翌月、バビロニ アの軍司令官ネブザルアダンがエルサレム破壊の仕事を仕上げるべく送られ てきた。都は略奪で荒れ果て、主だった建物には火がかけられ、砦は丸裸に された。民衆の大部分を新帝国は、自分たちの前任者ともいうべきアッシリ アの慎重な政策を継承して捕囚としてバビロニアに連れ去った。ただ田舎の 住民だけは、あるいはその一部だけはこの地に残ることを許した。ユダとそ の首都とを二度と再び謀叛の震源地にならぬよう徹底的に無力化するのがカ ルデア人の意図であったことはあきらかである。

 時ここにいたってもなおしかし国家は完全にその命脈を断たれたわけでは なかった。行政の座をエルサレムから数マイル離れたミツパに移し、ネブカ ドネツァルはゲダルヤなる人物に統治を委ねた。保守派のシャファン一門に 連なる貴族で、ヨシヤの大法官を務めていたものの孫にあたる男だった。短 い期間だったがかれはこの地を再び健全な国に戻そうと手を尽くし、戦火に よる荒廃の補修に力を振り絞った。だがここまできても昔の不満分子たちの 気持ちはおさまらなかった。さきの王家の一員だったイシュマエル・ベン・

ネタンヤという男がアンモン人の援けを得て総督を殺害し守備隊を皆殺しに した。代わりの政権を樹立する試みはまったくなされぬまま、生き残った指

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導者と貴族連中は新たなバビロニアの報復を怖れて同行を望むものら全員を 引き連れエヂプトへ逃げた。ユダの地は安定した政府のないままに、かつて その大地が育てたすべての子らに打ち捨てられたのである。残ったのは瓦礫 の山と化した町や山腹の洞穴に身を潜めるほんの一握りの避難民たちだけ だった。ユダヤ人の伝承が年に一度の断食を定めてこれを永遠に記憶に留め たのは故なきことではなかった。それはいまもなおゲダルヤの死を民族の一 大不幸として記念する行事なのである。

第五章 イスラエルの預言者たち

(一)   ヘブライ人の王国の物語は、ここまで述べ来たった限りにおいて、

近隣数か国のそれとさして大きな違いはない。そこには三千年の時空を隔て たいま研究に値するものなどなに一つなく、あるいはいくつかの大帝国がす でに忘却のかなたに消えて久しいいま民族の連続性を保証する縁よすがとてない。

もしあのはるか遠い昔のアジア世界に生まれては消えていった弱小国家群の なかで唯一ユダ、サマリアの王国のみが他と同じ運命を免れたとすれば、そ の理由はただ一つ、次の要因に求めるしかない。ヘブライ人預言者である。

 ナビー、すなわち民衆の道徳意識を代弁する者としての預言者は、すでに 早い時期に姿を現わす。モーセ自身がその原型と見なされた。性の別は問題 にはならず、士師(さばきつかさ)の時代には女預言者デボラが一番の国民 的英雄と認められていた。まぎれもない道徳力という徳によって、かれもし くはかのじょは一部地域で、あるいはまたサムエルの場合のように国民全体 に認知を得ることができた。君主制時代が始まったころから預言者の群れが 国民生活にたえず顔を出すお馴染みの存在となってくる。懸命に高名な指導 者に倣ならい、かれらと同じように一朝ことあるときには同胞たちの気持ちを奮 い立たせようと努めた若者たちである。危機に直面したときはいつも『預言 者』が現れ、自ら進み出て民衆の怯懦を叱責し、共通の敵に対して人心を鼓 舞し、王自身の悪行を厳しく咎め、あるいは身近に迫った危険を阻む方法を 助言したようである。もっとも誰もがみな必ずしも本物もしくは私心のない ものばかりだったわけではない。多くはあきらかに私利私欲に走る偽善者 だった。しかしまたその性格と誠実さに疑いをいれることのできないものも

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少なからずいた。預言者たちのなかには必ず、文字通りにか比喩的にかはと もかくバアル神の前に拝跪することを拒む外れ者的存在がいた。かれらは主しゅ の大義を説いて敵対する神に抗した。それはしかし同時にヘブライ人の大義 を擁護してその敵に抗うことであり、貧しきものの大義を守って圧制者を糾 弾することであった。かれらの機能はたしかに宗教的なものではあったが、

それは宗教が生活のすべてを包み込んでいて神学の問題にばかりかかずらう ものではないという意味においてのみそうだったのである。

 かれらは社会の最上流階級から最下層まであらゆる階層から出現したらし い。廷臣もいれば神官もいたし、羊飼いもいれば農夫もいた。アハブの治世、

サマリアで奢侈と堕落と偶像崇拝と悪徳とがその極に達したとき、ティシュ ベの人エリヤが抗議の精神の先頭に立った。身に毛皮をまとっただけのこの 粗野な田舎者は、いずこからともなく現われて君主あるいはその妻を厳しく 非難し、やがてまたいずこへともなく姿を消したという。その個性は人々の 想像力に消しがたい印象を刻みつけ、かれの成し遂げた仕事についていろい ろと摩訶不思議な話が語られた。こんにちにいたるまでヘブライ人は、エリ ヤが自らの命を捧げた民衆のなかに生きて活動していると空想を恣にしてい る。エリヤのあとを継いだのはエリシャといって、師より華々しい活躍をし た人物である。かれは田畑のことを知悉する人であったがそれと同じくらい 宮廷のことにも通じており、つねに上流階級の人々と誼よしみを結んでもいた。そ の影響力はサマリアではもちろんのことダマスコでもほとんど変わらぬほど 大きかった。どうやらかれはオムリ家からイエフ家へと王朝を代替わりさせ た革命の煽動者として当時事件の舞台裏で暗躍したらしいふしがある。

 これら傑物たちは二人とも書いたものを残していない。それがあればかれ らがなにを教えようとしたのかその精確な意図を後世の人々に想い起こさせ ることができたはずなのだが。預言者たちの託宣が書き物の形で残され始め るのはヤロブアム二世の治世からである。かれら〈神に酔った〉初期の改革 者たちの名前はきっとほとんどが消えてしまい、そして名前が記憶されてい る預言者たちの『預言』のうちいまに残存するのはたぶんほんのごく一部に 過ぎないだろう。しかしそれだけでも十分それは人類の生活に、とりわけヘ ブライ民族の生活に不断に影響を与え続けることができた。それらのわずか

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に残された預言は、あらゆる民族の、そしてあらゆる国の夢想家や改革者た ちがそれを範としてあの日からこんにちにいたるまで途切れることなく持ち 続けてきた正義という理想を、具体的な形で表現している。もしもその熱狂 的な叫びが聖書のなかのいくつものいわゆる『預言の書』に残されているこ れら一握りのヘブライ人著述家たちの影響がなかったなら、英国史や、とく にアメリカ史はずいぶんと違ったものになっていたであろう。かれらが吐く 言葉の大いなる効果は内に燃えさかる道徳的義憤からのみ生まれてくるばか りではなく、それを綴った無類の文体に起因してもいる――散文と韻文の間 を自由に行き交い、絵を見るように鮮やかな直喩に生命を吹き込まれ、時に わき道へそれて抒情詩や哀歌や風刺詩を組み込んでゆくといったその文体 に。しかもそれら抒情詩、哀歌、風刺詩はいまなお世界文学の傑作に数えら れているのである。

(二)   紀元前七六五年ころアモスという名の一介のユダヤ人羊飼いが、

当時権力の絶頂にあったサマリア王国の、ベテルの聖所で執り行なわれてい た祭礼に姿を現わした。祭礼の会衆を――かれらの強欲を、不誠実を、貧し きものからの搾取を――弾劾するかれの言葉は情け容赦のないものだった。

かれは耳を傾けているものらの自己満足を、かれらご自慢の〈神の選び〉は もっと大きな責任を義務づけているのであってそれを免除するものではない というこれまで聞いたことのない新しい説を説いて突き崩し、このようなう わべだけの信仰心ではいままさに近づきつつある裁きの日に救われることは ありえないと警告した。真の宗教の本質とは行ない清く生きることであり、

公正であり、正義であって、ただ機械的に形骸化した敬神の祭儀をしきたり 通りに執り行なうことではないのだ。この火を吐くような獅子吼のすべては、

その内容の幅の広さ、多様さ、表現の簡潔さ、理路整然とした論拠、雄弁さ、

言葉の力強さによって、つねに文学の驚異の一つとされてきた。

 アモスに少し遅れて登場するのがホセアである。先輩と同じくかれもまた 差し迫ったアッシリア軍の侵略が頭から離れなかった。日の出の勢いの北方 勢力が最後には勝利することはかれには不可避と思われた。かれは説いた、

かつて神はその民に心からの慈しみを注がれたが、民は神に対して、婚姻の

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誓いなど何処吹く風と増長した女のように不実をもって報いてきた。それだ からいずれあなたたちが没落するのはすでにいまから見えている当然の結果 なのだ。たとえあなたたちの神があなたたちのために特別の配慮をなさると しても、神はそれを度を越した依怙贔屓としてではなく、自ら下される罰の 苛烈さという形でお示しになるだろう、と。ほとんど同時代に、もともと下 層民の出であるミカは、そこに住まうものらのさまざまの罪過、とくに貧民 からの組織だった搾取という罪のためにユダもイスラエルも含めて全共同体 の上に大いなる災いが降りかかるだろうと予言した。この社会正義という基 本的な一点にヘブライの預言者はつねに立ち戻ってくることを忘れない。

 北の王国はよろめきながら破滅に向って歩み始めていた。ヘブライ人の生 活を支える回転軸は、その重要な中心点とともにすでにユダへ移っていた。

政治家であり貴族の出(伝承によれば王家の一員だったという)であったイ ザヤは、ヒゼキヤおよび直近の先王たち数人の宮廷で指導的な役割を演じた 人物だった。かれは比類なき雄弁の華麗な言葉を駆使して国じゅうに瀰漫す る奢侈と軽佻浮薄な風紀を弾劾し、その報いは必ずやすぐにもやってくるだ ろうと激しく難じた。アッシリアは民衆の悪行を一掃するための神の手なの だ、というのがかれの意見だった。

 しかしかれの預言には慰めの面もあった。外国権力の勝利によってすべて が終わるわけでもなければヘブライ国家が完全に破滅させられるわけでもな い。いま国は世俗への関心に我が手で我が身を汚しており、まさに譴責を受 けようとしている。しかしそれでも国民は、どこまでも父祖の宗教的理想を 捨てず、より純粋なより質素な生活態度に立ち戻り、外的勢力との同盟など に自ら手を染めない限り、自分たちの最終的な運命を楽観的に期待してよい、

というのである。イザヤは、道徳的欠陥の弾劾に鋭い政治的洞察とより明る い未来への確信とを結びつけることで、ヘブライの預言者の至高にして最大 の特質を象徴する存在となっているのだ。もしユダがいままさに頭上に吹き 荒れようとしている嵐をよく乗り切ることができたとすれば、それは大部分 かれの政治家としての助言のおかげであった。そして、いく度たびかの中断にも かかわらずあれ以来こんにちまでずっと人類の努力目標であり続けた〈黄金 時代〉は、かれが描いてみせた生き生きとした絵によって、よし現実のもの

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として命を吹き込まれることはなかったにしても、つねに鮮やかに彩られて はきたのである。

 このあといくらかスケールの小さい人物がけっこう多く舞台に登場してく る。紀元前六二六年ころ一国の存亡を左右するスキタイ人の侵略があった。

これが人心を奮い立たせるゼファニヤの名演説を生んだ。ゼファニヤもまた この残虐な侵略者たちに現行の秩序の甚だしき不公平を糾さんとして神が手 にされた懲罰の鞭を見たのである。ニネベの陥落、そしてアッシリア帝国の 崩壊はナホムの熱狂的な歓喜の詩に詠われた。ハバククは、神が偶像崇拝を するバビロニア帝国という鞭を近時ふたたび遣わされ、その帝国に近隣諸民 族に対する誰の眼にもあきらかな勝利をお与えになったということが提示し た倫理問題に取り組んだ。ほかにもまだ(たとえばヨシヤの治世の間にほん の一瞬ちらりとその姿を眼にすることができるだけの女預言者フルダのよう な)同じように洗練され同じように力のあった、しかしかれらの民への訓告 の記録はすべて失われてしまった多くの預言者がいたことは間違いない。

 最終的な大崩壊を迎えるまでの希望と絶望とが交互に訪れた時代、背景に 通奏低音のように流れ続けたのは、エルサレム近傍アナトト出身の祭司エレ ミヤの暗鬱な叫びであった。書き残したものがその人となりをよく表してい る。力に溢れた、恐れを知らぬ雄弁家。国家への忠誠心があれば己が良心を 無理やり封じ込めるのもやむを得ないという考えを認めず、大災厄を来るべ くして来るのだといって予言し、そして宮廷で沈黙の方が受け容れられやす いときに口を閉じることを拒んで絶えず迫害され続けた男。イザヤ同様かれ もまた対外政治では中立を主張した。エヂプトその他の外的権力と組んでの いかなる策謀にも反対だった。かれは圧倒的な力を誇るバビロニア人の勝利 が不可避であることを予告し、生前に自らの予告が現実のものになるのをそ の眼で確かめることができた。しかし敗北もしくは異郷への追放ですら民族 の存続に終止符を打ったり、あるいは民族固有の諸観念を抹殺できたりする わけがないと信じていた。かれの比類なく高い歴史的重要性はまさにこの点 にあったのである。

(三)   ヨシヤの治世十八年目(紀元前六二一年)に、預言者の言葉と密

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接な繋がりを持ったある一つの出来事が起こっている。神殿の修復作業の最 中に永らく忘れられていた『モーセの律法』の写本が見つかったのである。

現代の批判派の見方によれば、じっさい問題になったものは、こんにちわれ われが〈申命記〉と呼んでいるものにおおむね一致する古代の法規集の改訂 版であって、この〈申命記〉を祭司たちが編集したものがはるか遠い昔の古 文書の装いを施されてそのとき人々に提供されたのだという。他方伝承派は、

それは現在われわれが手にしている『モーセ五書』であり、もしそうなら当 時すでに過去幾世代にもわたって完全に忘れ去られてしまっていたものに違 いない、と見る。

 この写本の出版と普及は、その正体や出所や原著者がどうであれ、ヘブラ イ民族の精神史にきわめて重要な意味を持った。わたしたちはそのあとすぐ に始まった精神的再生運動の一部をすでに(一一八頁参照)見てきた。影響 はしかしそれだけに留まらなかった。これより『モーセの律法』はもはや口 伝を通じてのみ知られてきた半ば忘れられた法大全を意味するものではな く、字が読めるものなら誰でも手に取って内容をいちいち確認できる成文法 規集となったのである。それは、どれほどそれが創られた往時の精神を呼吸 していようと、この時点でのいかなるものをも圧倒的に凌駕する優れた法典 だった。二つの『モーセの律法』の相違点の方こそむしろその類似点より重 要な意味を持っているのではないか。多くの点においてモーセの法典は、こ の現代ですら実現し得ていない理想を明示している。それは、厳格な一神教 思想に加えて、初めから終りまで徹頭徹尾「正義」と、隣人に対する慈悲の 心と、貧しき者への公平という、預言者たちの教えの基礎にあったあの理想 の精神を呼吸しているのである。事件以後何年間か預言者が『モーセの律法』

の軽視に警告を発するとき(じっさいかれらは度々そうしていた)かれらの 念頭にあったのはこの法典だった。そして、国を追われたものらが、伝統的 な人生設計に組み込んでいた他のすべてが身の回りでがらがらと音を立てて 崩れてしまったとき、自分たちのひときわ個性的な意識と観念を護るために これだけはとバビロニアへ携えていった文学のその本体の核を成していたも のはこの法典だったのである。

参照

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